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山野内勘二

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カナダのジャズ事始め 音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第28回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 感謝祭も過ぎて、10月も中旬になると晩秋です。オタワに長く住んでいる人々からは「地球温暖化で近年は、昔のように寒くはないよ」という声も聞きますが、紅葉は深まり、落葉が風に舞い、朝夕は氷点下に迫る日もあります。オタワの街もゆるりと冬支度を始めています。

 そして、街には様々な音楽が溢れています。都会の要素と自然が溶け合うオタワは、実はジャズが似合う街です。

 歴史を紐解けば、ジャズ黎明期で未だジャズという言葉が定着する以前から、オタワ出身のブラウン・ブラザーズはボードヴィル・バンドで人気を博しました。ボートヴィルはコメディー・寸劇とダンスと音楽が合体した娯楽でした。その音楽はジャズ的な要素を持ったものでした。ボードヴィルとジャズには切っても切れない絆があると言えます。ブラウン・ブラザーズは、オタワではかつてダウンタウンに在ったベネット劇場を拠点に活動しつつ、カナダ各地で公演し、米国に進出しています。

 考えてみれば、カナダは鍵盤の帝王の異名を持つオスカー・ピーターソンを生み出しました。「クールの誕生」や「スケッチ・オブ・スペイン」等ジャズの歴史に刻まれるマイルス・デイビスの代表作を編曲し実質的に共同制作したギル・エバンスもカナダ出身です。実は、デューク・エリントン楽団は、200回を超えるカナダ公演を行っていました。エリントン御大は、カナダにおけるジャズは、米国の亜流ではなく、確固としたオリジナリティーを持って発展している旨述べています。

 という訳で、今回の「音楽の楽園」は、カナダにおける「ジャズ事始め」です。

ジャズの誕生

 ジャズという音楽の原型は、19世紀末、米国ルイジアナ州ニューオリンズにて生まれたというのが定説です。西アフリカの大地の音楽、欧州の教会音楽、奴隷の労働歌、黒人霊歌、ブルースが混じり合って徐々に出来上がったのです。ジャズの誕生には、特にクリオールと称される白人と黒人の混血の人々が大きな役割を果たしました。若干の解説をすれば、ニューオリンズは当時の米国で最もヨーロッパ的な街で、綿花の積み出し港として栄えていました。ヨーロッパ系白人男性が多く居住し、地元の黒人女性との間で生まれた混血児クリオールの中には高等教育を受ける者もいました。中には、正規の音楽教育を受け、ピアノや管楽器を見事に弾ける者もいました。彼らは、黒人的なリズムや旋律を取り入れて独自の音楽を発展させて行きます。因みに、1894年のルイジアナ州法でクリオールも黒人に分類されたことも、ジャズの発展にインパクトをもったと言われています。

 そんなジャズ創世記の1914年、ニューオリンズでザ・オリジナル・クリオール・オーケストラ(以下、クリオール・バンド)という6人編成の楽団が誕生します。全員が黒人のミュージシャンです。リーダーは、最年長42歳のベース奏者ビル・ジョンソンです。彼こそ、コントラバスを弓ではなく指で弾くピチカート奏法で弾いたパイオニアです。リズムと和音の結節点としてのベースの最重要の役割は彼に由来するのです。クリオール・バンドのフロント陣は、25歳のコルネット奏者、フレディ・ケッパード。当時のニューオリンズで、コルネットの王者の1人と目されていました。かのルイ・アームストロングは13歳で少年院から出所したばかりで、ようやくコルネットを正式に習い始めたばかりで未だ全くの無名の頃です。名うてのミュージシャンが集うこの楽団は地元で評判となり、やがて、エンタテインメントの都ロサンゼルスへ出ます。そこで、アレクサンダー・パンテージスという興行主と出会い、クリオール・バンドは、歌手、ダンサー、コメディアンを加えて、鉄道に乗り北米大陸各地を巡業することになります。そして、故郷ニューオリンズから3,300キロも離れた大平原を訪れるのです。

カナダ史上初のジャズ・コンサート

 ビル・ジョンソン率いるクリオール・バンドは、1914年9月21日の月曜日、午後2時半過ぎ、マニトバ州の州都ウィニペグのダウンタウン、マーケット・ストリートとメイン・ストリートの角にあるパンテージス劇場の舞台に立ちます。これこそ、記録に残るカナダ史上初のジャズ・コンサートです。

 何故、ウィニペグだったのでしょうか?それは、地理的な要衝の地で、北米の鉄道網における米国中西部とカナダの平原州の結節点だったからです。人、モノ、カネ、そして情報が集まる街です。自ずと、エンタテインメントも発展します。因みに、この伝統は今にも繋がります。ゲス・フーやニール・ヤングはこの街から巣立ったのですから。

 翌9月22日付のウィニペグ・トリビューン紙は、このコンサートについて「奇妙な楽器を素晴らしい方法で演奏した」と報じています。何が奇妙な楽器だったのかは判然としませんが、クリオール・バンドは、米国南部のプランテーションで働く黒人の作業服姿で演奏しました。ボードヴィル・スタイルの公演でした。今とは違って、当時はSNSはおろかテレビもラジオも未だありません。漸く、エジソンの蓄音機が普及し始めた頃です。それまでには存在していなかった全く新しい音楽であるジャズの響きを初めて生で聴いたカナダの聴衆の反応はどんなものだったのでしょうか?

 クリオール・バンドの巡業は、ウィニペグで5回の公演をした後は、エドモントン、カルガリーと続きます。当時のカナダにとって最大の関心は第1次世界大戦です。未だ大英帝国の自治領でしたから、英国の参戦で自動的に参戦となりました。ドイツ軍の状況、フランス戦線、先陣を切るカナダ兵の英国での訓練などが詳しく報道されます。そんな中、新しく珍妙な音楽についての賛否論評も垣間見ることができます。

 1914年9月29日のエドモントン・ブレテン紙は「この日最大のヒットはクリオール・バンドだ。トロンボーン、コルネット、クラリネット、ヴァイオリン、マンドリン、そしてベースを演奏。“ケンタッキーの我が家”などの美しい旋律は見事だった。観客の心からの拍手がいつまでも続いた」と報じています。一方、同日のエドモントン・ジャーナル紙は酷く批判的で、「クリオール・バンドは、大きな喝采を浴びたが、要するに、雑音を奏でただけだった」と記しています。両紙の記事から、エドモントンの聴衆がクリオール・バンドの演奏を大いに喜んだことは間違いないようです。その斬新な音楽を如何に評するかは、ある意味、極めて主観的なものかもしれません。ですが、いつの世も頭の硬い保守派にとっては新しい音楽は雑音に聴こえるようです。映画「アマデウス」のモーツァルトと皇帝のやり取りを持ち出すまでもなく、時代の先を行く優れた音楽はいずれは広く受け入れられます。

 このオリジナル・クリオール・バンドは、その後も巡業を続けます。シアトルに引き続き、BC州バンクーバーとヴィクトリアでも公演し、更にサンフランシスコやロサンゼルスを巡り、ソルトレイク・シティーで千秋楽を迎えたのは1915年1月だったといいます。

カナダで録音された最初のジャズ・レコード

 20世紀初頭、モントリオールにはカナダの文化の真髄がありました。と言うのも、ケベック州の中心にして、フランス系住民が多数を占めているもののイギリス系住民も少なくなく、文化的にはフランスとイギリスの影響が融合し、独自の個性を発揮していました。また、経済・金融の中心であり、早くから製造業も発展していました。このような背景で、勃興間もないレコード制作産業の拠点となりました。

 国際的には、米国のコロンビア社やブランズウイック社、フランスのパテ社がレコード市場を席巻していました。しかし、カナダ人エミーユ・ベルリナーが興したベルリナー・グラモフォン社とその長男ハーバートが起業したコンポ社は、モントリオールで、地元の音楽家を起用してレコード制作を行っていました。1910年頃、カナダ初のレコーディング・スタジオがピール・ストリートに建設されました。

 ここに、ニューヨークの興行主ハリー・ヤークスという男が登場します。1920年、彼は、ブルーバード・オーケストラというジャズ楽団をモントリオールで編成します。ニューヨークから連れて来た音楽家も地元で雇った演奏家もいたようです。人気を博し、同年5月、べリュリー通りにブルーバード・カフェという店までオープンします。耳新しい音楽がモントリオールっ子を魅了したのです。

 そして、ブルーバード・オーケストラは、「Dance-O-Mania」という曲をベルリナー・グラモフォン社のスタジオで録音し、SP盤をリリースします。いわゆるディキシー・ランド風の明るいジャズです。コルネットやサックスに加え、バンジョーやヴァイオリンや鉄琴も入ってリズムと旋律とハーモニーが弾けます。YouTubeでも聴けます。これこそ、カナダで録音された初のジャズ・レコードです。

 モントリオールは、ジャズ創世記の熱量を今に伝えます。モントリオール・ジャズ祭は、世界最大のジャズ・フェスです(本コラム第12回参照)。

職業的ジャズ・ミュージシャンとなった最初のカナダ人

 時に、天は二物を与えることがあります。溢れる才能は、多彩に輝くのです。カナダ人初の職業ジャズ音楽家となったジョージ・パリスもそんな魅力的な人物です。

ジョージ・パリス
ジョージ・パリス

 不明な部分も少なくないのですが、ジョージは、自治領カナダ誕生の翌年である1868年、ノバスコシア州の田舎町トルーローに黒人の両親の下に生まれます。一家はその後はモントリオールに出て、そこで育ちます。ジョージは14歳で両親の下を去り、サーカス団に入り、北米各地を巡業して周ったといいます。

 ジョージ・パリスは、素晴らしい運動神経の持ち主で、スポーツ万能でした。100メートル走10秒25のパシフィック・ノースウエスト地区記録を持つ陸上選手にして、ラクロスでも活躍、ヘビー級のボクサーでもありました。その関係で、パリスは、サンフランシスコでは、1878年生まれのジャック・ジョンソンという若い選手のトレーナーを務めました。後に1908年、カナダ人の世界王者トミー・バーンズを破り、史上初の黒人の世界ヘビー級チャンピオンとなり、1915年まで防衛した伝説のボクシング選手です。

 トリビアですが、このジャック・ジョンソンは、人種差別に屈することなく己の才能を開花させた黒人の偉大な先達です。かのマイルス・デイビスは、彼の生涯を描いたドキュメンタリー映画のための音楽をつくり、彼に敬意を寄せて「A Tribute to Jack Johnson(邦題:ジャック・ジョンソン)」という音盤を1970年に録音しています。伝統的なジャズを電化し、ロックの要素を大胆に導入した名盤です。

 そんなジョージ・パリスは、バンクーバーに落ち着きます。RCMPの体育教官の職を得ています。が、サーカス出身で、芸能にも関心があるのです。1909年、世界王者となったジャック・ジョンソンが試合でバンクーバーにやって来ました。二人の再会です。そして、二人はボクシング試合と芸能を組み合わせた興行を各地で行います。ちょうどジャズ音楽が人々を惹きつけ始めた頃でした。ジョージは、人々がこの新しい音楽に熱狂する様を見ます。そこで、パリスは、若い頃サーカス団で伝授されたドラムの腕を改めて磨き直し、ドラム奏者となります。ボクシングで両手両脚を自在に駆使する運動能力が複数の太鼓やシンバル等を制御するドラムに共通したとの説もあります。

パトリシア・ホテル
パトリシア・ホテル

 そして、1917年10月、バンクーバーに、パトリシア・ホテルが開業します。そこには、キャバレーが設けられ、街の芸能の拠点になりましたが、そのインハウス楽団を率いたのが齢49歳のジョージ・パリスだったのです。パトリシア・ホテルは、勃興期のジャズの中心だったといいます。記録によれば、パリスは、アメリカ音楽家協会の第145支部に1919年から32年まで13 年間にわたってライセンス登録をしていました。一方、バンクーバー市年鑑には、パリスが職業を音楽家としていたのは1920年から22年までです。音楽以外のマルチな活動もしていた訳です。

 それでも、ジョージ・パリスは、カナダにおいて、ジャズで生計を立てた職業的音楽家の先駆けです。記録の残っているカナダで最初のプロのジャズ・ミュージシャンです。

結語

 何事にも始まりがあります。天地創造の物語には、古の出来事を想像する喜びに満ちています。若い国カナダで新しい音楽ジャズが根付いていく様子は、非常に興味深いものがあります。今般、執筆に当たっては、Mark Miller著「Such Melodious Racket」を参考にしました。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

ヤニック・ネゼ=セガン 音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第27回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 9月の声を聞くと同時に、オタワに秋がやって来ました。街には緑が溢れているものの、既に紅葉が始まっています。世界中を沸かせたパリのオリンピック、そしてその後のパラリンピックも閉幕しました。いよいよ、芸術の秋の到来を実感します。

 そこで、今回は、カナダが誇る指揮者ヤニック・ゼネ=セガンについて綴ってみたいと思います。

 ヤニックは、世界の楽壇にあって、現在、最高峰の指揮者と言っていいと思います。カリスマ指揮者と崇められたゲルギエフが、ロシアのウクライナ侵略以降もプーチン大統領との親密な関係を保っていたことから、世界の楽壇から事実上追放されたこともあり、今やヤニックは世界中で引っ張りだこです。1975年3月生まれでモントリオール出身の49歳で、既に、膨大な録音を残しています。例えば、ベートーヴェン、ブラームス、メンデルスゾーン、シューマンの交響曲全集、或いはモーツァルトの主要オペラを筆頭に実に多彩なディスコグラフィーを誇っています。

 しかも、ヤニックは、現在、フィラデルフィア管弦楽団とメトロポリタン歌劇場という世界最高峰の二つの楽団の芸術監督を同時に務めています。実は、同時に最高峰の二つの楽団の音楽監督を務めることは稀有なことです。全盛期のカラヤンがベルリン・フィルとウィーン国立歌劇場の芸術監督を務めた例があるぐらいです。

 それでは、ヤニック・ネゼ=セガンの素晴らしき世界に参りましょう。

初めてのヤニック@カーネギーホール

 私が初めてヤニックを生で観たのは、前職でニューヨークで勤務していた頃です。2019年10月15日のカーネギーホールで、フィラデルフィア管弦楽団を率いての公演でした。同月末からの日本ツアーを控えてのニューヨーク公演ということで、オーケストラ側から招待頂いたものでした。既に5年も前のことですが、ステージ正面のボックス席で、カーネギーホール館長のクライブ・ギリンソン夫妻らと一緒に鑑賞したことを昨日のように思い出します。と言いますのも、鮮やかな色彩感覚のフィラデルフィア・サウンドの美音の洪水を満喫したからです。

 公演は、まず、米国の若手作曲家ニコ・ミューリーがフィラデルフィア管弦楽団のために書いた現代音楽「Liar」の世界初演で幕を開けました。続いて、エルガーの「チェロ協奏曲」でした。このジャンルの最高傑作の一つ。チェロという楽器にして初めて可能な慈愛に満ちた音色で奏でられるメランコリックの旋律が胸に迫るのですが、チェロを懐深く優しく包み込むオーケストラがこの協奏曲の骨格を見事に支えていました。

 そして、休憩の後のメイン・ディッシュは、ベートーヴェンの交響曲第6番へ長調・作品68「田園」でした。聴力を喪失しつつある中、ベートーヴェン38歳の才能が爆発している作品です。御承知のとおり、本格的な表題音楽を交響曲というフォーマットで実現した歴史を画す傑作です。ヤニックは、フィラデルフィア管を見事に差配し、マンハッタンのど真ん中に1808年ウィーン近郊の田園風景を音で再現したのです。怒涛の拍手が湧き上がりました。

 伝統のオーケストラの持つ力を全開させる純白のシャツの若き指揮者。身体からエネルギーが迸り、その熱量がオケに憑依しているようでした。圧倒的な印象でした。

 実はこの段階で、私はヤニックについて何も知りませんでした。それでも、素晴らしい演奏にただただ圧倒されていました。公演終了後、楽屋を訪れる機会に恵まれ、ヤニックに紹介され、若干の会話をしました。私は、エルガーのチェロ協奏曲も「田園」も大好きでよくCDを聴いているけれど、今夜は、貴方の凄い指揮でこれらの名曲の真髄に触れることが出来て、本当に感動した旨を述べました。ヤニックは、日本公演を本当に楽しみにしていると笑顔で話してくれました。そして、驚いたことが一つあります。ステージ上では大きく見えたヤニックは、実際は小柄な人だったのです。音楽愛とエネルギーが横溢してゾーンに入っている時とオフの時の違いが、巨大な才能を浮き彫りにしていると感じたことを憶えています。

モントリオールの神童〜ジュリーニとの出会い

 ヤニックは、教育学の大学教授と大学講師の両親の下に生まれ、恵まれた環境で育ちます。5歳でピアノを本格的に習い始め、瞬く間に上達。10歳の時には、指揮者になると決意したと、各種インタビューで語っています。興味深いのは、何故、指揮者になりたいと思うに至ったかはよく憶えていないようです。両親が愛聴していたモーツァルトの交響曲第40番に合わせて指揮者の真似をするのが好きだったとも言っています。音楽大好き少年の無垢な思いだったのかもしれません。モントリオール音楽院で学ぶ傍ら、14歳で、モントリオール・ポリフォニー合唱団のリハーサル指揮者を務めます。思いを着々と実現していく訳です。

 何事によらず、勉強はすればするほど、学びたい事や教えを乞いたい師が増えていくものです。ヤニックの学びもそうで、モントリオールを超え、米国ニュージャージー州プリンストンのウェストミンスター・クワイヤー・カレッジでも合唱の指揮を勉強しています。

 運命的な転機は、モントリオール音楽院を卒業した1997年、ヤニックが22歳の時に訪れます。巨匠カルロ・マリア・ジュリーニに1年間にわたって師事する機会を得たのです。

 ジュリーニは、かつて39歳の若さでミラノ・スカラ座の音楽監督に就任し、世界のオーケストラを総なめにしたイタリアの名指揮者です。虚飾を排した歌心溢れる音つくりで、20世紀の指揮者列伝に名が刻まれています。ヤニックが師事した時は、既にジュリーニは83歳。フリーの指揮者として、特定の組織に属せず、世界の一流オーケストラに客演する日々でした。側近として、ジュリーニが如何に準備し、リハーサルに臨み、楽団員を掌握し、自らの音楽を奏でるかを間の当たりにしたことは、何物にも変え難い貴重な経験だったに違いありません。楽曲に対する深い理解と洞察に基づく、他の誰かの真似ではない自分だけの音楽的解釈で、オーケストラを率いる。ジュリーニの下で学んだ事は、指揮者の頂点を目指す若きセガンの原点であり、血となり肉となったのです。各種インタビューでは、最も影響を受けた指揮者としてジュリーニの名を常にあげています。

旅立ち

 2000年、25歳の若さでヤニックは、地元のグラン・モントリオール・メトロポリタン管弦楽団の首席指揮者兼芸術監督に就任します。快進撃の始まりです。

 2003年には、ヤニック色に染め上げたグラン・モントリ・メット管を率いてCDデビューします。演目が、ちょっと意表を突いてます。ニーノ・ロータです。名匠フェデリコ・フェリーニ監督とのコンビで数々の名画・名曲を生んだ現代イタリアが誇る作曲家です。選んだのが「組曲『道』」とハープ及びトロンボーンの2つの協奏です。歌の国、イタリアの面目躍如の旋律に溢れています。師ジュリーニの影響を感じさせます。

 実は、同年、ヤニックはピアニストとしてもCDデビューしているのです。「カンバセーション」と題するCDは、トロンボーンとの二重奏という個性的なフォーマット。冒頭に収録されたガブリエル・フォーレ作曲の「シチリアンヌ」が、チェロやフルートとは違った趣きで胸に迫ります。2つのデビュー盤は、クラシックの世界では、直球ど真ん中の勝負というよりは、変化球で腕試しという感じです。厳しい競争のクラシック市場に、知名度の低い青年が切り込むための、戦略的な動きにも見えます。が、功なり名を遂げた今から振り返れば、ヤニックが固定観念に囚われず優れた音楽を世に問う新しい発想の持ち主である証左とも言えるでしょう。

飛翔

 「指揮は人なり」です。舞台で唯一人観客に背を向け、百人に及ぶ楽団員に対峙して己の音楽をつくるのです。そこには、指揮者の全人格や個性が滲みます。エネルギー溢れる指揮ぶりは、ヤニックの音楽性と生産性を如実に物語っているのです。

 上述のとおり、2003年、28歳で発表した2枚のデビューCD以降、今日に至るまで毎年、複数枚のCDをリリースし続けています。膨大な量です。指揮者とピアニストの二刀流です。そのプログラムは非常に幅広い音楽的地平を網羅しています。マーラーやブルックナーらの交響曲を指揮する一方で、「モーツァルト歌曲集」では18世紀後半のフィルテピアノを演奏するのです。マギル大学で教鞭も取るカナダの代表的ソプラノ、シュジー・ルブランと吹き込んだ隠れた名盤です。天衣無縫のアマデウスが紡いだ珠玉の旋律が古式ゆかしくも全く黴臭くなく、生き生きと今に蘇ります。ヤニックの奔放で明朗なピアノフォルテは、きっとモーツァルトはこんな風に弾いたんだろうなと感じさせます。

 デビュー当初は、活動の舞台もカナダが中心でした。CDもカナダのクラシック音楽専門レーベルATMAからのリリースでした。が、徐々に欧州での公演も増えていきます。

 2005年には、今も音楽関係者の間で語り草になっている、ヤニックの恐るべき実力を示すステージがありました。シドニーのオペラ・ハウスでの公演です。当代の第一人者ロリン・マーゼルが病に伏せってしまい、急遽、その代役として、ヤニックに白羽の矢が立ったのです。演目はブルックナーの交響曲第8番です。その夜、ヤニックは、スコアを見ることなく全て暗譜して指揮したそうです。天才的な記憶力を見せつけました。そう言えば、トスカニーニも急遽代役で指揮。しかも暗譜していました。運命の扉はどこで開くか分からないのですね。

 2006年以降は、サン=サーンス、ドビュッシー、ラベル、ベルリオーズなどフランスの作曲家も積極的に取りあげていきます。2008年からは、ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の首席客演指揮者を務めています。

 録音についても、ドイツ・グラムフォン・レーベルと長期契約を締結。多彩な取り組みで、ヤニックの音楽的冒険が進行中です。幾多の名指揮者が残しているベートーヴェンやブラームスの交響曲全集ですが、ヤニック盤の切れの良いリズムと鮮やかな色彩感は特筆に値します。また、ショパン・コンクール優勝のチョ・ソンジンのデビュー盤「モーツァルトピアノ協奏曲第20番ニ短調」では、チョのデリケートなピアニズムに、寄り添いつつ鼓舞し刺激し、哀愁のメロディーの向こうに希望の光を灯すようです。新人を抱擁する貫禄を感じさせます。

巨匠への道と新しき音楽的冒険

 ヤニックは、2012年、シャルル・デュトワの後任として、フィラデルフィア管弦楽団の第8代音楽監督に就任します。1900年に創設された名門で、ストコフスキー、オーマンディ、ムーティ、エッシェンバッハといった錚々たる先人に肩を並べています。

 2018年からは、謂く付きで退任したジェームス・リヴァインの後を継いで、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の第3代音楽監督も務めています。6年契約を更新して、2030年までメットの顔となる訳です。

 今年49歳のヤニックは、クラシック楽壇ではまだまだ若い世代ですし、未だ巨匠というイメージではないかもしれません。しかし、これまでの実績と実力は、紛れもなく巨匠です。

 しかも、ヤニックは、新しき音楽冒険にも積極的です。その好例がフローレンス・プライス作品の録音です。プライスは、1887年アーカンソー州生まれで米国初の黒人女性作曲家と言われています。黒人霊歌を西洋の古典音楽に融合した交響曲は、20世紀の米国独自の音楽的進化を示しています。しかし、ヤニック以前には、非常に限られた音源しかありませんでした。2021年にヤニックが指揮してフィラデルフィア管が録音し、その進化を世界に示したのです。23年には、プライスの「交響曲4番」加えてウィリアム・リーヴァイ・ドーソン作曲の「ニグロ・シンフォニー」を問うています。忘れられていた優れた音楽に光を当てる。現代の音楽界を牽引しているのです。

カナダとヤニック

 才能が横溢し成功したカナダの音楽家には、世界の舞台が待っています。特に、米国で活躍します。ヤニックも例外ではありません。世界最高峰のフィラデルフィアとニューヨークを往復する日々です。しかし、ヤニックは母国カナダの聴衆にもちゃんと世界最高峰の音楽を届けています。ヤニックは、現在も故郷モントリオールのグラン・モントリオール・メトロポリタン管弦楽団の音楽監督も務めているのですから。

 24年夏には、モントリオールのマウント・ロイヤルの麓で、グラン・モントリ・メット管を率いての無料コンサートを行っています。ビゼー「アルルの女」に加えカナダ人作曲家クロード・シャンパーニュの作品も取り上げました。音楽家に出来る最大の地元コミュニティーへの貢献あるいは恩返しこそ、最高の音楽を届けるフリー・コンサートです。また、2024年4月には、フィラデルフィア管弦楽団のカナダ・ツアーを敢行しています。

 カナダが生んだ、現代の若き巨匠ヤニックが今後のどんな活躍を見せてくれるのか期待が高まります。実は、カナダは若い国ですが、優れた作曲家を輩出しています。しかし、残念ながら、世の中には余り知られていません。今後、ヤニックがカナダ人作曲家の真価を世界に問うて欲しいと思います。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

セリーヌ・ディオン 音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第26回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 4年ごとに訪れる閏年にあって世界が注目するものは何でしょう?そうです。一つが米国の大統領選挙。もう一つが夏季オリンピックです。今年の開催地は、クーベルタン男爵の故国フランスは、花の都パリでした。日本人選手の活躍に歓喜と悔し涙が交差し、胸が熱くなった2週間があっと言う間に過ぎました。

 実は、100年前の1924年もパリ五輪でした。映画「炎のランナー」の原典です。ユダヤ人ハロルド・エイブラハムスとスコットランド人牧師エリック・リデルが「走る」ことは「生きる」ことだと身をもって示したのです。

 そして、2024パリ五輪。開会式を締め括るセリーヌ・ディオンの渾身の歌唱が、「歌う」ことは「生きる」ことだと強烈に印象づけました。

 と言う訳で、今回は、カナダが生んだ世界の歌姫、セリーヌ・ディオンです。

2024年7月26日午後11時

 パリ五輪の開会式は、極めてフランス的な趣向を凝らしたものでした。史上初めて、競技場の外で行われた開会式です。選手団はセーヌ川を船で入場しました。韓国を北朝鮮と間違えたり、国旗を上下逆さまに掲げたり笑えないハプニングもありました。それでも、パリの中心地を東から西に6kmにわたりパレードが進み、様々なパフォーマンスが行われ、毀誉褒貶はありつつも、今のフランスを世界に印象づける式典でした。その極め付けがセリーヌ・ディオンでした。

 エッフェル塔に設けられた特設ステージに登場したセリーヌは純白のドレスを纏っていました。ディオールのマリア・グラツィア・キウリが特別にデザインしたオートクチュールで、スパンコールが刺繍され、背中やスカートに施されたフリンジは計500メートルに及んだそうです。衣装も凄かったですが、とにかく歌が圧巻です。

 “あなたが望めば、世界の果てまで行ってもいいわ。
 髪をきるのも、家を捨てるのも、友達さえも、祖国をも裏切るわ。
 怖いものは何もない。あなたさえいれば”

 フランスを代表する歌姫エディット・ピアフ自身が作詞した『愛の讃歌(Hymne à l’amour)』です。元来は、妻子ある恋人プロ・ボクサー、マルセル・セダンとの恋を終わらせるために書いたと言われています。背徳的な匂いも漂います。が、マルグリット・モノーが紡いだ明朗な旋律が、毒をも制する崇高な愛の核心を突きます。今や、シャンソンの名曲中の名曲で、フランスを代表する曲です。パリ五輪開会式に相応しい曲と言えます。

 セリーヌは、低音域で囁くように歌い始めます。大人の女性を感じさせます。曲の展開とともに、正確な音程とアーティキュレーションで、歌が始動します。絹のような滑らかな表面と鋼鉄のような強固な芯を持つセリーヌの声の本領発揮です。高音域になると、あの華奢な身体のどこから出て来るのか、豊かな声量で魅了します。3分30秒の音楽の王国でした。

何故、セリーヌ・ディオンだったのか?

 オリンピックは、好むと好まざるにかかわらず、主催国の威信と誇りがかかります。特に、開会式においては、主催国の文化・歴史・伝統が色濃く反映します。パリ五輪の開会式を締め括る曲が「愛の讃歌」だったのも頷けます。しかし、その「愛の賛歌」を歌ったのがカナダ人セリーヌ・ディオンだったのが非常に興味深いです。

From left to right: Daphn Brki, Thomas Jolly, Tony Estanguet. ©Paris2024
From left to right: Daphn Brki, Thomas Jolly, Tony Estanguet. ©Paris2024

 一般に、フランス人は自国の歴史・文化への誇りとこだわりが強いイメージがあるのに、最大の見せ場がフランス人歌手でなかったのは何故なのでしょうか。鍵は、開会式の芸術監督を務めた42歳の気鋭の俳優・演出家トマ・ジョリにあります。22歳で演出家デビューし、シェークスピアの「ヘンリー6世」を大胆に解釈・翻訳し、18時間連続上演させ、仏演劇界で最高の権威あるモリエール賞も受賞しています。ジョリは、過去の因習やジェンダーなど固定観念に囚われず、移民・環境・格差などの社会問題も直裁に取り入れた作品を発表しています。自身、ゲイであることも公表しています。芸術の国フランスですから、パリ五輪の開会・閉会式の芸術監督候補は数十人いたそうですが、最終的にジョリが選ばれました。フランスの懐の深さを感じさせます。

 「シャンソンの名曲『愛の賛歌』の歌い手に、ラブソングの名手であることを理由に世界的歌手のセリーヌ・ディオンを選んだ」とは、ジョリ監督の弁です。開明的な芸術監督が一切の忖度抜きで、国籍にこだわらず、非常にシンプルな理由で歌手としての実力でセリーヌ・ディオンを選んだ訳です。フランスを象徴する歌を、世界最高の歌手に歌ってもらうことこそが、フランスの文化・芸術を世界に示すことだというジョリ監督の確信でしょう。

 そして、もう一つ。セリーヌ・ディオンを起用する理由があったのです。

スティッフパーソン症候群

 パリ五輪開会式でのセリーヌ・ディオンのパフォーマンスは、当日のその瞬間まで、極秘裏にかつ慎重に準備が進められて来ました。

 何故ならば、セリーヌは、2020年3月の米ニュージャージー州での公演以降は、スティッフパーソン症候群(SPS)という難病のため、歌手活動を停止していたからです。この難病は、不随意の痙攣や筋肉の硬直を引き起こす神経性疾患で、音や接触などの体感によって症状が誘発、悪化するものです。100万人に1人という極めて稀な疾患です。

 セリーヌはこの疾患が原因で「以前のように歌えなくなった」と吐露しています。実は、数年前から、徐々にその兆候があって、公演を短く切り上げたりしていました。2022年12月には、歌手活動を休止し治療に専念すると発表しました。2024年6月に公開されたドキュメンタリー映画「アイ・アム・セリーヌ・ディオン〜病との闘いの中で〜」が、困難な生活を赤裸々に描いています。スーパースターの光と影を包み隠さず映すこのドキュメンタリーも、苛烈な競争に晒されるショービジネス故のしたたかなプロモーション戦略の一環です。それでも、SPS療法のため1日に80〜90ミリグラムのジアゼバムを飲まなければならないと苦痛に涙しながら語る様子や、リハビリの途中で倒れる様子は、セリーヌが病と闘っている現実を突きつけます。

 そんな過酷な疾患を克服して歌うセリーヌの様子は、観る者の胸に迫ります。SPSを患いながらの圧巻のパフォーマンスは、意思があれば、困難は乗り越えられるのだと、勇気を与えます。世の中、綺麗事ですまない、そんなに甘くない、というシニカルな諦観に鉄槌を下します。ジョリ芸術監督がセリーヌを起用した理由の一つでしょう。話題にならない訳がありません。感動しない訳がありません。

 次に、そんなセリーヌ・ディオンの旅路を振り返りましょう。勿論、生まれた時からスターになるべく生まれた訳ではありません。ですが、運命の出会いがありました。

ケベック州モントリオール郊外シャルマーニュ

 セリーヌ・ディオンは1968年3月、ケベック州モントリオール郊外のシャルマーニュの屠殺業を営むフランス系の14人兄弟姉妹の末っ子として生まれました。両親とも音楽愛好家で、家計は楽ではありませんでしたが、家庭には音楽が溢れていました。そして、セリーヌは幼少期から類稀な才能を示していました。とにかく驚異的に歌が上手だったのです。5歳で、兄マイケルの結婚式の大勢の来客を前に歌って、皆を驚かせたといいます。以来、ピアノ・バーなど地元で歌っていました。とは言え、この類の神童神話は、決して珍しくありません。此処そこに、歌の上手い女子はいるのですから。

 転機は、セリーヌ12歳の時に訪れます。セリーヌは、母と兄マイケルと一緒に、“Ce n’était qu’un rêve”というオリジナル曲を自主録音したのです。家族の力です。そして、兄は、その音源を、たまたま或るレコードの裏表紙に記載されていた音楽マネージャー、ルネ・アンジェリルに送ったのです。ルネの事務所には、その種の音楽テームは頻繁に送られて来ていましたが、胸に迫る音楽は滅多にありません。しかし、ディオン・ファミリーの音楽を聴いた瞬間、ルネは、セリーヌの歌に魂を奪われ涙したと言います。この時、ルネ39歳。ケベック州の音楽業界でキャリアを重ねて来た男は、12歳のセリーヌに宿る尋常ならざる才能を確信。マネージメント契約を結びます。今日のセリーヌ・ディオンの原点です。

 因みに、英国の地方都市リバプールのビートルズが世界のビートルズになったのは、敏腕マネージャー、ブライアン・エプスタインの功績大です。ホイットニー・ヒューストンは、クライブ・デイヴィスなかりせば、世に出ていなかったでしょう。偉大な才能の原石は、発見され研磨されなければ、原石のままです。原石は、目利きでなければ、普通の石にしか見えません。ルネとの出会いが運命の扉を開いたのです。

 1981年、ルネは、自宅を抵当に入れて借金をして、セリーヌのデビュー盤“La voix du bon Dieu”をリリースします。この音盤は、ケベック州チャート首位に立ちます。そこで、セリーヌには、多数の公演ツアーの誘いがありましたが、ルネは「この才能を潰すわけにはいかない」として、全ての誘いを断りました。

 ここを起点に、現代のエンタテインメントのシンデレラ・ストーリーが始まるのです。但し、一朝一夕にスターダムに上り詰めた訳ではありません。必要十分な時間をかけて熟成していきます。“Easy come, easy go” は避けるのです。これもルネの戦略です。

世界へ

 1982年、セリーヌは、初来日します。「第13回ヤマハ世界歌謡音楽祭」に参加するためです。他のツアーは拒否したルネが、この音楽祭にはゴー・サインを出した訳です。極めて、戦略的です。ルネの狙いは的中します。カナダから参加したフランス語しか話せない無名14歳は、予選を勝ち抜き、「ママに捧げる詩」で最優秀歌唱者と金賞を受賞したのです。国際的に通用する歌唱力を証明しました。

 1984年には、初めてパリで公演します。オランピア劇場に出演者の最年少記録を打ち立てます。

 1988年には、ユーロビジョン・ソング・コンテストに参加。スイス代表としてフランス語の曲「私をおいて旅立たないで」を歌い、グランプリを獲得しました。フランス語圏以外にセリーヌ・ディオンの名前が知られるきっかけとなりました。

 但し、この段階では、未だフランス語のみを話し、フランス語の歌しか歌っていません。ケベック州で土台を固めて、まずカナダ全土、そして米国へと狙いを定めます。英語の猛勉強も始めます。

 1990年、ついに初の英語アルバム「ユニゾン」で米国に進出します。シングル・カットされた「哀しみのハート・ビート」がビルボード誌チャート5位のスマッシュ・ヒットとなります。今、聴いても、王道を行く良質のポップ・アルバムです。歌唱力は折り紙付きです。但し、セリーヌの唯一無二の個性は未だ発展途上との印象は否めませんが、ここから、セリーヌのサクセス・ストーリーは加速します。

 91年には、ディズニー映画「美女と野獣」の主題歌を、ピーボ・ブライソンとのデュエットでヒットさせ、アカデミー賞とグラミー賞を初めて受賞します。92年には、英語音盤第2弾「セリーヌ・ディオン」をリリース。全世界で500万枚のセールスを誇ります。96年には、アトランタ五輪の開会式で「パワー・オブ・ラブ」を熱唱。カナダ出身ですが、完全に世界を舞台に活躍するアーティストに成長します。そして、セリーヌの名を不動のものとしたのが映画「タイタニック」の主題歌「マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン」です。余りに美し過ぎる歌です。洋楽カラオケで挑戦すれば分かりますが、あの曲の美しさを引き出すには、特別な歌唱力が不可欠です。色々なカバーはありますが、セリーヌにしか歌えない、彼女のシグニチャー・ソングです。この後は、現代エンタテインメントの歴史です。

私生活

 セリーヌほどのスーパースターになれば、1日24時間、7日で1週間、1年365日を、アーティストと一個人との間で分割するのは極めて困難でしょう。音楽のことを考えない瞬間は無いかもしれません。声が楽器ですから、常に丁寧なケアが必要でしょう。アフリカの諺に、「速く行きたければ一人で行け。遠くへ行きたければ皆んなで行け」というのがあります。素晴らしいパフォーマンスは、固い絆で結ばれたバック・バンドとの不断の練習と入念なリハーサルの賜物です。

 そんな中、セリーヌは、彼女を見出したルネ・アンジェリルと結婚します。ルネの大戦略が奏功してスター街道爆進中の1994年12月のことです。この時、新婦セリーヌ26歳、新郎ルネは52歳です。実は、ルネにとってはこれが3度目の結婚でした。それはさて置き、この結婚は、セリーヌにとってもルネにとっても、ワーク・ライフ・バランスではなく、究極のワーク・ライフ・フュージョンと言えるでしょう。正に、歌うことが生きることです。

 2016年、喉頭癌を患い闘病中のルネでしたが、74歳の誕生日の2日前に、心臓麻痺で他界します。ケベック州葬が行われ、カナダ政府関連施設は半旗を掲げて、哀悼の意を示しました。

 ドキュメンタリー映画「アイ・アム・セリーヌ・ディオン」のサウンドトラック盤の内ジャケットは、自宅の居間で、薬を飲んでいるセリーヌを見守るルネの肖像写真です。セリーヌとルネの協働は次のステージに入ったように感じます。

未来へ

 数々の物語を生んだパリ五輪ですが、人々の記憶は徐々に薄れていくでしょう。エッフェル塔でセリーヌが歌った「愛の讃歌」もいずれ過去の出来事になっていきます。

 セリーヌ・ディオンの音楽的冒険は、今後も続くでしょう。それが、シャルマーニュの少女の頃からの歌手の本能だからです。難病と闘いながら、必ずや、素晴らしい歌を届けてくれることでしょう。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「きみこの真珠」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第25回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 早いもので、2022年7月に始めた「音楽の楽園」は2年を過ぎて、いよいよ3年目に突入します。実感するのは、カナダの奥深さです。それは、音楽だけに限りません。政治・経済・ビジネス・科学技術・芸術など、様々な分野でです。理想を掲げ、常識にとらわれず、斬新なものを生む、エネルギーと創造性に満ちていると思います。

「きみこの真珠」のパンフレット
「きみこの真珠」のパンフレット

 そこで、今回、皆さまに紹介したいのは、「きみこの真珠(Kimiko’s Pearl)」という新作バレエです。ここには、音楽、舞踏、舞台美術、現在、過去、歴史、政治、欺瞞、諦観、希望、赦し、勇気、家族、そして愛が凝縮しています。

「ブラボー・ナイアガラ」

 「きみこの真珠」は、オンタリオ州ナイアガラ・オン・ザ・レイク地区で優れた舞台芸術を地元コミュニティーに紹介している非営利団体「ブラボー・ナイアガラ(Bravo Niagara! Festival of the Arts)」により委嘱・制作された作品です。

 「ブラボー・ナイアガラ」は、トロント出身の日系カナダ人ピアニスト、クリスティン・モリさんと御令嬢のアレクシス・スピルデナーさんが10年前に立ち上げました。

Christine Mori(左)and Alexis Spieldenner:Co-Founders, Bravo Niagara Festival of the Arts, Co-Creators and Producers, Kimiko’s Pearl. Photo by Bo Huang
Christine Mori(左)and Alexis Spieldenner:Co-Founders, Bravo Niagara Festival of the Arts, Co-Creators and Producers, Kimiko’s Pearl. Photo by Bo Huang

 クリスティンは、アスペン音楽祭、タングルウッド音楽祭を経て、ジュリアード音楽院を卒業。米国で30年余にわたり、フロリダ管弦楽団所属のピアニストとして活動する傍ら、アイザック・スターンからボビー・マクファーレンまで多彩なアーティストと共演し、高い評価を得ます。現役を退いたクリスティンは、トロントの郊外ナイアガ地区に帰郷します。第2の人生を始めるに際し、自身の日系カナダ人としてのアイデンティティーと音楽家としての情熱が結びつきます。長年の夢を形にする時が来たのです。それは、地元ナイアガラ地区に世界水準の音楽家を呼び、地元コミュニティーに極上のパフォーマンスを届けるというものです。

 御令嬢のアレクシスは、ピアニストの母の下で音楽愛を吸収して成長し、デューク大学を優秀な成績で卒業。オンタリオ州のドーズウェル副総督から多様な文化振興に功績のあった若者を表彰する「リンカーン・アレキサンダー賞(注)」を授与されます。(注: リンカーン・アレキサンダーは、オンタリオ州初の黒人の副総督)

 「ブラボー・ナイアガラ」は、母の芸術的センスと娘のマネージメント能力が融合して、良い仕事に恵まれます。地元に密着する姿勢も好感されます。2014年の立ち上げ以降、「ブラボー・ナイアガラ」は、このコラムでも取り上げたジェームス・エーネス(第20回)、ヤン・リシエツキ(第23回)をはじめとするクラシック音楽やマンハッタン・トランスファーなどのジャズ、ポップのスター達を引っ張って来ます。地元コミュニティーにとっては、居ながらにして、世界最高峰の音楽に触れるまたとない機会です。地元コミュニティーに提供する音楽・舞台芸術は、年を追うごとに、充実していきます。

日系カナダ人アイデンティティー

 「ブラボー・ナイアガラ」が確固たる基盤を固めると、クリスティンとアレクシスの母娘は、長年温めて来たアイデアの実現に取りかかります。日系カナダ人が辿って来た旅路を舞台芸術作品に昇華させるのです。

 日系カナダ人の歴史を概略すれば、最初期の移民、差別的な扱い、刻苦勉励して得た安定したカナダでの生活、太平洋戦争の勃発と敵性外国人移民としての強制収容や財産没収、戦後は、戦時中の困難を克服しカナダ社会の中で尊敬される地位を築くに至る訳です。

 実は、このような日系カナダ人の歴史が反映された芸術作品は少ないのです。それは、日系カナダ人が辿った苦難と克服の経緯が現在のカナダ社会において十分に認知されていないのと同じです。クリスティンとアレクシスは、芸術を通して日系カナダ人の歴史と誇りを伝える意義の大きさを確信します。正に、日系カナダ人のアイデンティティーの核心でもあります。

 とは言え、歴史を芸術で描くということは「言うは易く行うは難し」です。そこで選択されたのがバレエです。人類がつくる究極の舞台芸術の一つです。音楽と舞踏と舞台美術がつくりあげる空間には、言葉を超えた人間の情念が現れます。極めて具体的な事象から喜怒哀楽の感情までも盛り込めるのです。

 但し、新作のバレエ作品を制作し実際に上演するためには、台本、音楽、振り付け、美術、ダンサー、演奏家、リハーサル、上演会場等々が必要で、そのためには莫大な経費を要します。現代の舞台芸術は、如何に経費を工面するかという現実的問題に直面します。あのカーネギー・ホールも一時は倒産・解体の危機に直面したほどです。

 しかし、クリスティンとアレクシスの構想力と緻密な戦略と情熱が道を拓きます。National Creation Fundからの支援が確保出来たのです。いよいよ、構想が作品へと結実します。

総合芸術バレエ〜7つのスペクトラム

 「きみこの真珠」は、次の7つのスペクトラムが交差し融合して初めて完成しました。

 第1に、物語です。これは、クリスティンとアレクシスの4世代にわたる家族の旅路です。実は、トロント生まれのアレクシスが4代目で、ミドルネームもキミコ。「きみこ」のモデルです。家族の物語は、きみこの視点で、曽祖父シズオ・アユカワの代から描かれています。アユカワ・ファミリーの実話に基づく物語が作品の核です。但し、物語だけではバレエになりません。物語の真髄をバレエによって最高に輝かせる台本が不可欠です。トニー賞受賞台本作家のハワード・ライヒが書き下しました。

 第2に、音楽です。現代カナダが誇る作曲家ケビン・ラオが、ライヒの台本に基づいて、全編を新たに作曲しました。バレエには台詞はありません。全ての感情や情景を音楽で描かねばなりません。ラオが紡ぐ旋律とハーモニーとリズムが、音楽でしか表現できない情感を舞台に生み出します。

 第3に、振り付けです。世界最高水準のウィニペグ・バレエ所属のヨースケ・ミノが担当しました。舞台の進行に合わせて、強制収容という非道な措置、絶望、諦観、希望、愛まで、舞踏で表現します。鍛え抜かれたダンサーの律動を引き出します。

 第4に、舞台美術です。ポップ・アートから日系カナダ人の歴史をモチーフにした作品まで実に多彩かつ上質な作品群で、カナダ勲章も受賞されているノーマン・タケウチ画伯らの作品です。シンプルな舞台に、アクセントをつけ、時代と場所を提示します。

在オタワ日系人画家ノーマン・タケウチ氏による絵画(舞台のバックグランドに使用)。Photo by Embassy of Japan in Canada
在オタワ日系人画家ノーマン・タケウチ氏による絵画(舞台のバックグランドに使用)。Photo by Embassy of Japan in Canada

 第5に、演奏家たちです。ケビン・ラオ作品の常連でもある国立芸術センター管弦楽団の首席チェリストのレイチェル・メンサー、メトロポリタン・オペラ管弦楽団のハープ奏者のマリコ・アンラクらが参加。極上の演奏が物語と舞踏を包み込みます。

 第6に、ダンサーたち。ウィニペグ、コースタル、ボストンのバレエ団から参加し、鍛え抜かれた肉体の強靭さと柔らかさと美しさで、起伏に富んだストーリーを表現します。

 そして、第7は、音響と照明です。バレエが上演される場を、観客席とは完全に異なる時空へと変貌させる要です。ケビン・ラオの音楽は、観客席を取り囲む360度の何処から聞こえてくるかは、バレエの進行に合わせて、緻密にデザインされているのです。

 これら7つのスペクトラムが重なり「きみこの真珠」全2幕が完成します。入念なリハーサルを経て、実際に聴衆の眼前でその真価を問う時が来ます。

世界初演〜オンタリオ州セント・キャサリン市、2024年6月22〜23日

パフォーマンス後の挨拶。Photo by Embassy of Japan in Canada
パフォーマンス後の挨拶。Photo by Embassy of Japan in Canada

 クリスティンとアレクシスが構想した4代にわたるアユカワ家の物語は、 National Creation Fund の支援を得て、「ブラボー・ナイアガラ」が委嘱・制作。新作バレエ作品「きみこの真珠」は、抜群の音響を誇る地元の劇場「ファースト・オンタリオ・パフォーミング・アーツ・センター」において、本年6月22日、午後7時から世界初演が行われました。

戦争博物館に寄贈された鮎川家のトランク(当日のみ会場にて展示)。Photo by Embassy of Japan in Canada
戦争博物館に寄贈された鮎川家のトランク(当日のみ会場にて展示)。Photo by Embassy of Japan in Canada

 特筆すべきは、会場ロビーに展示されていたアレクシスの曽祖父シズオ・アユカワが自ら手作りした木製トランクです。これは、戦時中の日系カナダ人収容の歴史を後世に語り継ぐべくアユカワ家からオタワの「国立戦争博物館」に寄贈されたものです。今般の世界初演のために、特別に展示されました。日系カナダ人が強制退去させられた時、携行出来たのは鞄一つだけだったという非人道的な措置を無言で訴えていました。舞台にも、家族4代にわたる出来事と思い出を次世代に繋ぐ重要なアイテムとして配置されています。この木製トランクに刻印された「13657」という数字が、非人間的措置の非道さを静かに告発しています。

 世界初演は、最初に関係者の挨拶で幕を開けました。「ブラボー・ナイアガラ」を代表して、アレクシスが、家族の思い、日系カナダ人の思い、新作オペラにかける思いを述べました。一つ一つの言葉に本当に重みを感じました。私も、今日の極めて良好な日加関係の土台に日系カナダ人の存在があり、苦難を乗り越えて来た旅路への信心なる敬意を表しました。
 その後、和太鼓グループによる勇壮なオープニング・アクトが祝福しました。

 バレエ「きみこの真珠」は、1941年12月7日の日本軍のパールハーバー攻撃で太平洋戦争が没発する場面から始まりました。物理的には同じ舞台ですが、美術と音楽と舞踏と照明の妙で、全く異なる時と場所となります。変幻自在です。設定は、ブリティッシュ・コロンビアからウィニペグ、そしてトロントへと移ります。敵性外国移民として断罪される場面も、過酷な中に勇気を持って対峙する場面もあります。きみこの祖父母が恋に落ちるラブストーリーは可憐です。言葉を用いない描写の中で、舞踏の芸術性に圧倒されます。

 音楽と舞踏と舞台美術が融合した素晴らしいパフォーマンスは、瞬く間に終わりました。鳴り止まぬスタンディング・オベーションが、聴取の感動を直裁に示していました。

その先へ

 「きみこの真珠」の世界初演は壮大なプロジェクトの始まりです。

 音楽に関して言えば、2025〜26のシーズンで、トロント交響楽団による「組曲『きみこの真珠』」の演奏が予定されています。これは、バレエ作品として作曲された楽曲をオーケストラ用作品として再構成するものです。「きみこの真珠」が新しいアヴェニューを歩み始めます。ストラビンスキーの「火の鳥」もバレエ音楽が管弦楽曲へと展開したものです。「組曲『きみこの真珠』」がケビン・ラオの最高傑作になると確信します。

 そして、日系カナダ人の歴史を描くバレエ「きみこの真珠」は、将来は首都オタワ、北米最大都市ニューヨーク、更には東京においても上演されるべき作品だと思います。来年は、大阪万博の年です。日本とカナダの間でも様々な文化交流が行われます。是非とも、その一角に「きみこの真珠」が含まれることを願ってやみません。

パフォーマンス前の歓談風景、左から2番目 Alexis Spieldenner、3番目 Christine Mori(後ろ姿)、大使、MCを努めた Mary Ito (CBC Radio)、ゲーリー川口JCCC元会長。Photo by Embassy of Japan in Canada
パフォーマンス前の歓談風景、左から2番目 Alexis Spieldenner、3番目 Christine Mori(後ろ姿)、大使、MCを努めた Mary Ito (CBC Radio)、ゲーリー川口JCCC元会長。Photo by Embassy of Japan in Canada

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「イアン・マクドゥーガル」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第24回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 6月のオタワは、1年で最高の時期です。暑過ぎず寒過ぎず、陽射しも優しい。初夏の陽光と新鮮な緑と多彩な草花で、街中がナチュラルな公園のようです。ベンチに座る人も、散歩する人も、ジョガー・ランナーも、自転車愛好家も、それぞれの時間を心ゆくまで楽しんでいるようです。こんな最高の季節ですから、心と身体はリラックスし、快適な音楽が欲しくなります。勿論、皆さまのお好みで聴けば良いのです。

 私事ですが、先日、友人を招いて夕食前の食前酒をテラスで楽しんでいた時に、最近の私のお気に入りの音楽を流しました。まだ陽は高く、そよ風が爽やかで、鳥の囀りが何とも言えず心地良い、そんな平和な牧歌的な時間に、ぴったりでした。正に、音楽の楽園が去来したようでした。

 そこで、今回の「音楽の楽園」は、そのお気に入りの音楽を皆さまと共有したいと思います。カナダ最高のトロンボーン奏者にして、作曲家、教育者のイアン・マクドゥーガルです。

イアン・マクドゥーガルって誰?

 率直に言えば、誰もが彼の名を知っている訳ではないでしょう。しかし、音楽ファン、特に管楽器が好きなカナダ人にとっては、ミスター・カナディアン・トロンボーンとも言うべき音楽家です。その確かな技量で、ジャズからクラシックまで縦横無尽に活躍。教鞭も取っています。1983年には、ジャズ・ビッグ・バンド部門でグラミー賞を受賞。ジュノー賞には何度もノミネートされ、4度の受賞歴を誇ります。サイドマン、共演を含めて膨大な録音を残しています。

 勿論、音楽は肩書きや能書や蘊蓄で聴くものではありません。真実は、その逆で、音楽が素晴らしいから、その音楽家に肩書きが付与され、蘊蓄が語られることになるのです。それにしても、音楽を言葉で表現するのは恐ろしく難しいです。が、心に染みる音楽というものは確かにあり、胸の奥の非常に敏感な襞を慰撫するのです。

 因みに、友人を招いた時に掛けたのは「The Very Thought of You―Trombone with String Orchestra」という2012年に制作された音盤です。イアン・マクドゥーガルの代表作の一つ。『君を想いて』や『スマイル』や『ムーン・リバー』等の1940〜50年代を彩る14曲の美しいバラードを収録しています。ここには、特別に革新的な試みがある訳ではありません。1950年代のジャズの一大変革期に、チャーリー・パーカーやクリフォード・ブラウンらが始めた、ジャズ四重奏団と弦楽団が織りなす「ウィズ・ストリング」の系譜です。無駄な音や無理な音は一切ありません。全てがあるべき所に収まっています。それが自然で心地良いのです。原曲の旋律の妙を100%引き出す熟練のアレンジが心地良いのです。そして、何と言っても、マクドゥーガルが奏でる歌心溢れる優しくふくよかなトロンボーンの音色が格別です。

 それでは、この境地に達するまでのマクドゥーガルの旅路を見てみましょう。

神童を生んだ、父の一言

 イアン・マクドゥーガル(Ian McDougall)は、1938年6月、アルバータ州カルガリーに誕生します。生後間も無く、ブリティッシュ・コロンビア州の州都ヴィクトリアに引っ越し、そこで幼少期を過ごします。

 11歳の時に、イアン少年は、地元の楽団「ヴィクトリア・ボーイズ・バンド」に参加します。当初は、バンドのリズムを支配するドラムが志望でした。一応は希望どおり、打楽器の担当になりました。が、バス・ドラム、フロア・ドラム、スネア、タム、ハイハット、トップ・シンバルといったフルセットのドラム奏者ではありませんでした。そこで、イアン少年は、バンドの花形であるトランペットへの配置換えを希望します。しかし、ここで、イアン少年の父親が生涯を決めることになる助言をします。

 「息子よ、よく聞きなさい。管楽器を吹くのなら、トロンボーンにしなさい。何故なら、“腕の立つトロンボーン奏者”は、生涯、職にあぶれることはないのだから。」

 イアン少年は、父の助言を聞き、トロンボーンを選択。そして、トロンボーンこそがイアン・マクドゥーガルの生涯の楽器となり、人生航路を決定づけることになります。

トロンボーンとは?

 さて、イアン少年の父が助言したトロンボーンですが、歴史を紐解くと、全ての金管楽器の祖先である新石器時代のメガフォン型ラッパにまで遡ります。歴史的に最も古いトランペットの原型は、3000年前のエジプト王朝時代の出土品にあった金属製の軍用ラッパだとされています。その後、ギリシア・ローマで直接的にトランペットの祖先と言える楽器が現れます。そして、北欧からは、カップ型のマウスピースと管がS字型に曲がったトロンボーンの先駆的な楽器も出土しています。やがて、これらのトランペット・トロンボーンの原型が発展し、管を適切にスライドさせることで異なった音階を表現出来る楽器として発展。

 そして、16世紀初頭、ドイツのハンス・ノルシェルが現在の形に完成させました。以来、500年余の間、基本構造は変わっていません。音域が成人男性の声域に近く、音程はスライドでスムーズに調整でき、美しいハーモニーを奏でることができます。それ故に「神の楽器」と呼ばれ、カソリック系の教会音楽に重用されていました。

 トロンボーンが初めて、交響曲に用いられたのは、ベートーヴェンの第5番「運命」の第4楽章です。アルト・テノール・バスの3台のトロンボーンが登場することで、色彩感と力強さが一気に増します。曲全体が「暗から明へ」と進行し、その絶頂を担う楽器です。ベートーヴェン以降、交響楽団の金管パートで重要な役割を担う楽器として発展して来ます。

 そして、20世紀になり、全く新しい音楽、ジャズが誕生すると、トロンボーンは、音楽にとって不可欠な3つの役割を担う楽器として重宝されます。即ち、①ハーモニーとバックグラウンド、②リズムとパーカッション的役割、そして③独奏楽器です。トロンボーンの音色と表現力は、温かく柔らかみのある音色から、極めて鋭角的な音色、時には感情を剥き出しにした咆哮まで、実に多彩です。

 イアン少年の父のことは余り知られていません。マクドゥーガルという姓からみて、スコットランド系の移民とは想像できます。音楽的な素養も、社会の現実も分かっていた知識人だったに違いありません。イアン少年のその後の人生が直裁に証明しています。

ヴィクトリア〜ロンドン

 イアン少年は、トロンボーンを手にすると瞬く間に上達。1950年には、未だ12歳で、AFM(American Federation of Musicians)ヴィクトリア地区のメンバーとなります。要するに音楽家組合に所属する正式な職業音楽家としてのライセンスを得たということです。史上最年少記録でした。

 この後、1950年代を通じて、学校に通いながら、プロとしてヴィクトリア周辺の楽団で演奏活動を続けます。評判が評判を呼び、引く手数多だったといいます。父の助言は的確だったのです。

 そして、1960年、英国の俊英、バンド・リーダー兼作曲家のジョン・ダークワース楽団に参加します。遂に、ヴィクトリアを出て世界を舞台にするのです。22歳のイアン青年は、ロンドンを拠点として、世界各地の公演旅行に重要メンバーとして同行します。ジョン・ダークワースは、ジャズ音楽家との交流のみならず、映画音楽も手がけ、後年ジミ・ヘンドリックスにも影響を与えるような視野の広い異能の音楽家でした。また、時には、テッド・ヒース楽団にも客演しました。2年間にわたる在籍で実に多くを学びます。

バンクーバー

 1962年、帰郷すると、イアン青年は、バンクーバーを拠点として、フリーランスで活動を開始。音楽の世界の最先端の街ロンドンで養った感性と音楽のヴィジョンとトロンボーンの腕が頼りです。一方でバンクーバー交響楽団のメンバーとしてクラシック音楽を演奏。また、CBCラジオやテレビでは、劇伴から各種ショーのための音楽など何でも演奏します。他方で、バンクーバーのジャズの拠点「ケイブ・サパー・クラブ(Cave Supper Club)」の楽団でも演奏。「ケイブ」には、米国から、エラ・フィッツジェラルド、トニー・ベネット、シュープリームス、ナット“キング”コールなどスーパースターが来訪。その伴奏を的確に務めました。トロンボーン奏者として油が乗って来ます。一時期は、米国の大御所ウディー・ハーマン楽団でも演奏しました。“腕の立つトロンボーン奏者”は多忙を極めます。が、それだけで満足できないイアン青年です。もっと音楽の奥義を知りたくなるのです。

 バンクーバーには、カナダ最高峰の総合大学、ブリティッシュ・コロンビア大学があります。イアン青年は、超多忙な中、時間を見つけては音楽学部の授業を取り、楽理、作曲、そしてジャズ音楽を専攻。28歳で学士を、32歳で修士の学位を得ます。自身の少年時代からの音楽三昧の経験、2年間のロンドン時代、そしてバンクーバーの充実した日々に学術的な基礎が加わった訳です。音楽家イアン・マクドゥーガルの実力が横溢。作曲活動も本格化させていきます。

 1970年には、フュージョン・バンド「パシフィック・サルト」を結成。時代の最先端を行くジャズとロックがクロスオーバーする高品質の音楽を世に問います。マイルス・デイヴィスらがニューヨーク発でジャズの革命的な響き世界に発信した直後です。バンクーバーの聴衆の耳にはやや新し過ぎたのかもしれません。が、イアンのトロンボーンとドン・クラークのトランペット、オリバー・ギャノンのギターが、ドラム・ベース・ピアノのリズム隊の上で見事に舞います。今、聴いても刺激的です。イアンは、1973年までリーダーを務めます。

トロント〜再びヴィクトリア

 1973年、35歳のイアン・マクドゥーガルは、カナダ最大の都市トロントに拠点を移します。カナダ最高のトロンボーン奏者として縦横無尽の大活躍です。スタジオ・ミュージシャンとして、数々の録音に参加。但し、マクドゥーガルの名前が前面に出る訳ではありません。ある意味、縁の下の力持ちです。が、上質の音楽を真に担っているのです。特に、16人編成のブラスバンド「ボス・ブラス」で大活躍します。公演旅行で世界中を回りました。バンド名の通り、リズムセクション以外は全て管楽器です。つまり、木管楽器サキソフォンはおらず、トロンボーンこそがトランペットと共にバンドの鍵になったのです。そんな多忙充実し興奮と資源に満ちた音楽漬けの日々が13年間続きます。

 そして、1986年、48歳のイアンは、再び故郷のヴィクトリアに戻ります。ブリティッシュ・コロンビア大学とヴィクトリア大学で、教鞭を取り、トロンボーン奏法とジャズ楽理を教えます。

 そして、生涯の楽器トロンボーンを携えてイアン翁の音楽愛、21世紀になっても深化し続けます。

 2005年には、全編デューク・エリントン作品の「イン・ア・センティメンタル・ムード」を発表。デュークの右腕ビリー・ストレイホーン作曲の『A列車で行こう』を含め、ジャズの古典を吹き切るイアンのトロンボーン。スローバラードからアップテンポまで鮮やかです。

 2007年には、収録した全9曲をオリジナ曲で固めた「ノー・パスポート・リクワイアード」を発表。マクドゥーガルの作曲家としての力量を余すことなく伝えています。

結語

 2008年4月10日。イアン翁に、カナダに対する顕著な業績をあげた個人にのみに与えられる栄誉である「カナダ勲章」が授与されました。70歳の誕生日の2ヵ月前のことです。12歳でプロとなって以来、半世紀を超える音楽家としての功績が認められたのです。

 “腕の立つトロンボーン奏者”の音楽の旅路は、次の世代の音楽家の素晴らしき道程です。

 先週6月14日に86歳になったばかりです。誕生日、おめでとう御座います。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「ヤン・リシエツキ」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第23回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 オタワの5月は、街中にチューリップが咲き誇り、春爛漫です。そして、街には音楽が溢れています。鼻歌を口づさむ大使館職員も公邸スタッフも少なくありません。

 そこで、今回の「音楽の楽園」は、とてもカナダ的な天才ピアニストです。ヤン・リシエツキです。何故、カナダ的と記したかと言えば、全く私事で恐縮なのですが、5年ほど前のことで、私がニューヨークで勤務していた頃の記憶があるのです。

カナダ的な、あまりにカナダ的な

 非常に親しくしていた音楽好きのアメリカ人の友人が、「音楽ファンならば、絶対にこの若い “ポーランド人ピアニスト” に注目しておくべきですよ。発音しにくいと思うけど『リシエスキー』と読みます」といって、2018年にオルフェウス・オーケストラと共演したリシエツキの新作「メンデルスゾーン/ピアノ協奏曲第1番、第2番」をプレゼントしてくれたことがありました。それまで、リシエツキの事は全く知りませんでした。初めて聴いた時から、そのCDは、愛聴盤の仲間入りをしました。そして、私はつい最近まで、リシエツキはポーランド人だと思っていました。最初に友人が「ポーランド人」と紹介してくれたことが大きかったのですが、ショパンを生んだポーランドの血が、リシエツキにも流れているのだと思って彼のCDを聴いていたのです。

 しかし、或る時、リシエツキは、ポーランド移民の両親のもとに、アルバータ州カルガリーで生まれたカナダ人だと知りました。カナダ生まれのカナダ国籍。でも、リシエツキは、両親の故国の歴史・文化・生活・個性を自然に受け継いでいます。音楽好きの私の友人が躊躇うことなく「ポーランド人」と言う程にです。それは、ある意味、間違っていないかもしれません。

 それこそ、カナダの多文化主義です。ポーランドであれ日本であれケニアであれ、自らの家族が受け継いで来た一切合切をありのままに維持し、誇りを持ってカナダ人としてカナダで生きる。北米大陸の北部は、何千年もの間、先住民の楽園でありました。1497年のジョン・カボットのニューファンドランド来訪から現代のカナダに直結する歴史が始まりますが、その過程で育まれてきたカナダの「お国柄」です。様々な葛藤の末にピエール・トルドー首相が提唱した、カナダのアイデンティティーの核心と言えるでしょう。

カルガリーの神童

 ヤン・リシエツキは、1995年3月にカルガリーで誕生。5歳から、カルガリーにある伝統校マウント・ロイヤル大学に付属する音楽院でピアノを学び始めます。

 2004年、9歳にして、カルガリー・シビック・シンフォニーと共演します。演目は、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番ニ短調K466でした。ベートーヴェンが大変に好きだった曲としても知られています。モーツァルト28歳の傑作で、現存する27曲のピアノ協奏曲のうち2曲しかない短調の最初の作品です。因みに、もう一つは24番です。技巧的にも勿論大変ですが、あのデモーニッシュな感覚の表現には、技巧を超えた音楽性が必要です。それを9歳の小童が演奏したのです。恐るべし。但し、これはほんの小手調べでした。

 翌2005年、10歳の時には、カルガリー・フィルハーモニー管弦楽団とメンデルスゾーンのピアノ協奏曲第1番ト短調作品25を共演しました。その夜、カルガリーのジャック・シンガー・コンサート・ホールで、第2楽章アンダンテの哀愁の旋律を奏でる神童を聴いた聴衆は、ピアノの女神の降臨を体験したに違いありません。

 2006年、11歳で、首都オタワの国立芸術センター(NAC)にデビューしました。ピンカス・ズッカーマン指揮のNAC管弦楽団の胸を借りて、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番変ロ長調作品を弾き切りました。演奏終了後の楽屋での模様をリシエツキは良く憶えていているそうです。ズッカーマンも楽団員も誰一人として、リシエツキの年齢を問題にせず、一人前の音楽家として扱ってくれて、対等な立場で、音楽のことや演奏のことについて話したというのです。これが縁となり、リシエツキはNACが若手音楽家のために主催するサマー・ミュージック・インスティテュートにも参加。ピアノ独奏、室内楽、協奏曲について実践的に学びました。

世界へ

 2008年、13歳となったリシエツキ少年の飛翔は加速度が増し、カナダの国境を超えます。ニューヨークのカーネギーホール、パリのサル・コルトー、ドイツ、日本、それから両親の故国ポーランドへと舞台は世界へと広がっていきます。

 デビューCDは、2010年にポーランド国立ショパン協会からリリースした、ショパンのピアノ協奏曲第1番と第2番です。録音は、前年と前々年の「ショパンと彼のヨーロッパ」音楽祭の時に行われました。ショパンがこの2曲のピアノ協奏曲を書いたのは、1830年。ワルシャワ音楽院の学生時代です。初恋の相手コンスタンチア・グワトフスカへの思い、パリへの憧れ、ロシアに蹂躙される故国への思い。それらに引き裂かれる心象風景を音楽で描いています。戦争と革命の時代にあって、言葉に置き換えられない心の動きと情念が溢れています。20歳のショパンが持てる全ての楽想と技量を導入して書いたピアノ協奏曲の最高峰を弾く中学生のリシエツキが鮮やかに刻まれています。

 そして、翌2011年には、クラシック音楽の最高峰ドイツ・グラムフォンと専属契約を結びます。この時、弱冠16歳です。グラムフォンからの第1弾は、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番と21番です。特に、20番は9歳の時に地元カルガリーで初めてオーケストラと共演した思い出の曲です。指揮は、ピアニストとしても高名なクリスチャン・ツァハリアス。この時、61歳です。孫を見守るような心境でしょうか。名門バイエルン放送交響楽団がしっかり支えます。

 また、2011年は、リシエツキにとってカナダを意識する年でもありました。地元カルガリーの高校を卒業して、高等教育に進む時のことです。特に、ドイツ・グラムフォンとの契約が発表されたことで、世界中の名だたる音楽院からフル・スカラーシップのオファーが来たそうです。が、彼が選択したのは、トロントの「グレン・グールド音楽院」でした。カナダを拠点にして、最高の教育と支援を受けられることが理由だったと語っています。公演旅行で多忙な日々で、個人教授と試験はキャンパスに赴き、それ以外の授業は通信教育だったといいます。その上で出来るだけ地元カルガリーで時を過ごしたいのです。

巨匠への道

 ヤン・リシエツキは、「コンクールに出る必要の無かったピアニスト」と言われています。確かに、コンクールの存在意義は、新しい才能の発掘にあります。9歳にしてオーケストラと共演して以来、次々と大きな機会を得て、その度に、期待を裏切らぬどころから、進化し続けるリシエツキ少年には、コンクールは不要だったのです。

 2011年は、16歳で高校を卒業しグレン・グールド音楽院に進学した年です。この年だけで、年間70回の公演を行なっています。既に、超売れっ子でした。

 2013年のボローニャ音楽祭では、18歳になったリシエツキは、急遽、マルタ・アルゲリッチの代役として登場し、巨匠クラウディオ・アバド指揮でベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を見事に演奏しました。あのアルゲリッチの代役です。リシエツキの評価が一気に高まった時です。年齢ではなく、演奏の内容で聴衆を魅了したのです。このエピソードは、かつてチェロ奏者だったトスカニーニが、急遽代役として指揮をして運命の扉が開いたのを思い出させます。真の実力が露わになる瞬間があるのですね。

 最近では、年間100回以上の公演を行なっています。世界中の名だたる指揮者、オーケストラと協奏曲を演り、ヨーヨー・マらとは室内楽を共演しています。レコーディングも積極的に行なっています。グラムフォンからは10枚リリースしています。既に、歴史に残る傑作を残しています。ベートーヴェンのピアノ協奏曲全5曲を、アカデミー室内管弦楽団との共演で、2018年12月2日から6日まで5日連続で、1日1曲、ベルリンのコンチェルトハウスでのライブ録音盤です。聴衆を前に、驚異の集中力で、陰影豊かで濃密にして美しき音楽の楽園を生み出しています。この時、リシエツキは、弱冠23歳です。この先、どこまでいってしまうのでしょうか?

再びカナダについて

 2011年10月にリシエツキは来日し、バッハ、ベートーヴェン、リスト、メンデルスゾーンを演奏しています。その時のインタビューがABCクラシック・ガイドに掲載されているのですが、非常に示唆に富んでいます。幾つか、引用させて頂きます。

 「カナダにはヨーロッパのような歴史はありません。本当の意味でのカナダ人というのは非常に少数で、ほとんど何処からか来たカナダ人ということになります。マルチ・カルチャーな国であり、誰も、あなたが何処から来たかという事など気にもしていないと言う感じが私は好きです。とても人々にあたたかい国でみんな優しいのです。」

 「人々は、ショパンを演奏するにあたって、ポーランド人であることで演奏に違いがあるか?という質問をします。そして、皆さんはYesという答えを期待していると思います。ですが、答えはYesでもあり、Noでもあります。ポーランド人であると言うことが全てではないのです・・・ポーランド人としての血が影響するとは信じていません。私はより良くポーランドの事を知ろうと思いますが、それは血によるものではありません。ショパンは大好きです。でもこれは、私がポーランドの血を引くからではなく、偉大な作曲家だからです。」

 「カナダ人は、カナダ人であることを意識するのを、ちょっと面白い方法でしているかもしれません。唯一皆んながカナダ人である事を誇るのは、7月1日のカナダ・デーです。それ以外の日は、自分たちは国旗を愛し、国を愛しつつも、大声で「俺たちはカナダ人だ、行け行けカナダ!」と叫ぶことはありません。そういう意味では、静かにカナダ人である事を楽しんでいると言えます。」

 16歳のカナダ人天才ピアニストの率直な気持ちが表れています。

結語

 リシエツキは、今年29歳です。物語は、始まったばかりです。それでも既に巨匠の仲間入りをし、公演に録音に超多忙な日々です。

 リシエツキを見て聴いていると、同じポーランドの生んだ巨匠アルトゥール・ルビンシュタインを思い出します。1982年に95歳で大往生した20世紀を代表するピアニストは、膨大な録音と幾多の名演と人間臭いエピソードを残しました。1894年に7歳でモーツァルトを弾きデビューし、最後の録音は1976年4月23日、89歳、ベートーヴェンのピアノソナタ「狩」でした。

 人生百年の21世紀、カナダが生んだ若き巨匠がどんな未来を描いていくのか楽しみです。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「ザ・トラジカリー・ヒップ」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第22回

はじめに

 私事ですが、オタワに着任して、早いもので、1年11ヶ月が過ぎました。この連載も22回目です。カナダは非常に若い国ですが、タイトルの通り、数多くの秀逸な音楽家を生んでいます。圧倒的な才能に溢れる天才・鬼才・異才が目白押しです。中学生で洋楽を聴き始めて以降、自然にカナダ出身のアーティストも聴いて来ていたの、大概の有名アーティストは知っているつもりでした。しかし、それは正に「井の中の蛙大海を知らず」でした。

 オタワに着任して、徐々に同僚・知人・友人が増え、音楽談義に花を咲かせていました。2022年の夏です。

カナダ人A氏「そんなにロックが好きなんだから『ザ・ヒップ』は知ってるでしょ。カナダの誇りだよ」
私「えっ。知らない。誰?」
A「トラジカリー・ヒップのことですよ。」
私「いや。初めて聞く名前だよ。でも、印象に残る名前だね。」
A「バンド名が示唆するように、オルタナ系のサウンドだよ。トルドー首相も大好きだと公言してる。」
私「へー。」

 という訳で、私は、トラジカリー・ヒップをオタワに来て初めて知った次第です。ほぼ予備知識無しに、聴き始めました。聴けば聴くほど、ザ・ヒップのサウンドに魅せられました。ロックの原点みたいなサウンドです。米国のREMに似てるとも感じましたが、同時に、とてもカナダ的なバンドだと思いました。コアなファンのみならず、多くのカナダ人がトラジカリー・ヒップのことを親愛の情を込めて、「ザ・ヒップ」と呼んでいます。私が聴き始めた時は、既に活動を停止して6年が経っていました。劇的な最後の瞬間も後になって知りました。それでも、心からの敬意を込めてザ・ヒップと呼ばせてもらいます。

 という次第で、今回は、ザ・ヒップについてです。

オルタナティブ〜ロックの原点回帰

 ザ・ヒップを聴き、彼らのライブ映像を観ていると、音楽の原風景を感じます。同時に、音楽が辿って来た長い歴史を垣間見る思いがします。

 と言うのは、音楽は、太古の昔からとても自由なもので、皆が声をあげ、石や骨や木を叩き、喜怒哀楽を表し、時に、祈り、祝福し、悼んで来たからです。ザ・ヒップのコンサートがそれに重なるのです。

 そして、時代が進むにつれ、音楽は洗練され、やがて、偉大な先人達が音楽の奥義を様々に探究し、美しく響く法則を発見し、伝承されます。教会は音楽を利用し、一層の発展を遂げます。和声論が確立し、偉大な作曲家群が西洋古典音楽を究極の芸術表現へと昇華させ、世界を席巻します。

 20世紀になると、そんな古典音楽とアフリカのリズムが融合して、ジャズが生まれ、やがてロックンロールが誕生します。ロックンロールは、若者が必然的に抱く理由なき抵抗感と不満と葛藤を完璧に吸収し、一気に現代の音楽の主流になります。近代科学技術と市場経済がロックンロールに推進力を与え、強大な産業へと変貌します。結果、音楽は、芸術性と商業主義の境界線で彷徨始めます。「売るために妥協し、その結果売れた」のと「心の底から表現したいものを表現した結果、売れた」の差は大きいのです。真実は、アーティストの心の中にしかないかもしれません。しかし、長い目で見れば、聴衆にも分かるのです。

 そこで、ザ・ヒップです。彼らのサウンドには、虚飾を排し、自分達にとって正直であろうとする強靭な意思がある、と感じます。耳障り良くするために、砂糖をコーティングしたり、人口着色料を使ったりすることを拒否しているのです。洗練され、進化し、贅肉が付いた商業化されたロックに背を向けた、原点回帰です。そこから、別の進化の道を歩み始めたのです。ザ・ヒップがオルタナティブ・ロックと称される所以です。一方、ザ・ヒップは、商業的に大成功しています。33年に及ぶ活動期間に、1枚のEP(デビュー盤)、13枚のスタジオ・アルバム、ライブ盤1枚、シングル盤50枚余をリリースし、9枚がカナダのアルバム・チャートの首位になっています。カナダで最も売れたバンドです。それでも、商業主義に堕すことなく、カナダという国の核心を衝いて来たのです。そんなザ・ヒップをカナダのオーディエンスは愛して止まなかったのだと思います。

キングストンの出合い

 ザ・ヒップは、キングストンで誕生しました。始まりは、1984年です。この時、ボーカルのゴード・ダウニーは20歳で、クィーンズ大学で人文学専攻でした。ゴードは、ドラムのジョヨニー・フェイと一緒に様々なプレイヤーと不定期に活動していました。そこで、地元の別のバンド「ザ・ロデンツ」の凄腕ギタリストのロブ・ベイカーとベース奏者ゴード・シンクレアがゴード・ダウニーとジョニーに合流します。ロブは、ゴード・ダウニーのカリスマ性のある強靭な歌声は『最強のフロントマン』になると直感したと言います。ここに4人組のパーマネントなバンドが成立。引き続きロデンツと名乗り、クィーンズ大学の学生街のバーで活動し始めます。

 1986年、この4人組ロデンツは、かなりイケたバンドではありましたが、1986年、ゴードは、幼なじみのギタリスト、ポール・ラングロアに声をかけます。サウンドに厚みが欲しかったのです。ポールは、当時、ファスト・レストラン・チェーンの「レッド・ロブスター」で働いていましたが、バンドに参加するために辞めました。ここで、ボーカル、ドラム、ベース、にギターx2の5人組が誕生します。そして、バンド名は、元モンキーズのマイク・メネエスが製作した短編コメディーの連作映画「エレファント・パーツ」の中の一つの短編のタイトルから拝借しました。敢えて和訳すれば、「悲劇的なまでに飛んでいる」でしょうか。ヒップは、ラブ&ピースのヒッピーに通じます。語感は、常識破りの飛んでる前衛的なイメージで、周りから見れば痛く可愛そうな程です。そんな名前を名乗ったところに、我が道を行く彼らの矜持があるように感じます。

 そして、トラジカリー・ヒップは、30年余にわたり、一切のメンバーチェンジ無しで、この5人は活動を共にします。

デビューEP「トラジカリー・ヒップ」

 5人は、まず、キングストン界隈のクラブから、徐々に活動の場をオンタリオ州全体に広げていきます。オンタリオ州は面積にして日本の2.8倍の広大な州です。南部の都市を中心に小さなクラブやバーで機会さえあれば、何処にでも出かけて演奏したといいます。

 1987年暮れには、7曲入りのデビューEP「トラジカリー・ヒップ」を地元独立系レーベルからキングストン近郊のみでリリースします。そして、1988年の春先に5週間かけて、カナダ全土でコンサート・ツアーと言うか、ドサ周りを敢行します。片田舎の小さな会場で、奇妙な名の無名の新人バンドを見た観客の反応は悪くなかったそうです。デビューEPは、徐々にカナダ全土でリリースされていきます。シングルカットされた「スモール・タウン・ブリングダウン」を筆頭に佳曲ぞろいです。今、聴いてもインパクトのある音盤で、ジャケット写真も、蒼い情熱が潜む唯ならぬ雰囲気です。ザ・ヒップの魅力がほぼ全開しています。しかし、FMラジオではある程度オンエアされたものの、当時は全く売れませんでした。

 似たような経歴の新人バンドは星の数ほどあります。が、ザ・ヒップの運命の扉は、この後に開くのです。

ブルース・ディッキンソンの発見

 1988年11月の或る日の朝の事です。米大手のMCAレコードの新任副社長がマンハッタンの自宅で朝食を食べている時に、新人アーティストのオムニバス盤CDをBGMとして流していました。すると、或る曲が妙に耳に残ります。調べると、トラジカリー・ヒップの「スモール・タウン・ブリングダウン」でした。即座に連絡先を調べて、ザ・ヒップのマネージャーと連絡を取ります。兎に角、彼らのパフォーマンスを観たいのだと。直近の公演は、11月11日(金)にマッセイ・ホールでのトロント音楽賞への出演でした。因みに、この夜のチケットを見れば、ザ・ヒップの名も載っています。超多忙な日程をぬって、ディッキンソン副社長は、1泊2日の予定でトロントに飛びます。この夜、ザ・ヒップは2曲だけ演奏しています。ゴードが1曲目の歌い出しでマイクを落としてしまうハプニングがありました。メンバーは動揺し、演奏が破綻しかねない状況だったといいますが、カリスマ的なゴードの機転が効いて、難局を乗り切りました。

 翌12日(土)、ディッキンソン副社長は、ザ・ヒップとの契約も視野に入れて、ランチにザ・ヒップを招待します。実は、ランチの後は、ニューヨークに帰る予定でした。しかし、その日の夜、ザ・ヒップがトロントの名門クラブ「ホースシュー・タヴァン」に出演すると知ると、予定を変更し、ザ・ヒップのパフォーマンスを観に行きます。そこで、即座に、MCAレコードと長期契約を結びます。

MCA第1弾「アップ・トゥ・ヒア」〜第2弾「ロード・アップル」〜飛躍

 1989年春、ディッキンソン副社長の強い意向で、ザ・ヒップは、米国テネシー州ナッシュビルの超名門「アーデント・スタジオ」にて第2弾の録音に取りかかります。MCA社の意気込みも感じます。何故なら、アーデント・スタジオは、レッド・ツェッペリン、ボブ・ディラン、B.B.キング、ジェームス・テイラー、オールマン・ブラザース・バンド等々の錚々たるアーティストが録音した場所。経費も相当なものだからです。無名の新人バンドに眠る才能の原石に賭けたのです。ザ・ヒップも、ライブで演奏して観客の反応の良い曲を中心に各楽曲に磨きをかけます。1989年9月、結果が出ます。

 捨て曲なしの全11曲を収録した「アップ・トゥ・ヒア」は、音楽的にも商業的にも大成功です。最初の1年だけで10万枚を売り上げ、1989年のカナダ年間アルバム・チャート14位。90年1月にゴールド・ディスク、3月にはプラチナ・ディスク認定を受け、年間チャート5位です。ジュノー賞の最優秀新人賞も得ます。

 翌91年2月、第3弾「ロード・アップル」をリリースすると、4月には初めて、カナダのアルバム・チャートで首位に立ちます。この音盤は、あのダニエル・ラノアのスタジオで録音されました。ザ・ヒップの唯一無二のサウンドが完全に確立しました。2台のギターが絡み鋭角的なリズムを刻むバンド演奏に乗って、ゴードの声が彼自身が書く歌詞を力強く歌う時、人生の機微が胸に迫ります。

 ザ・ヒップは米国では大成功を収めることはありませんでした。極上のバンド・サウンドにゴードの強力な声と歌詞であるのにです。ある意味、それだからこそ、ザ・ヒップはカナダを拠点としカナダを歌い続けることが出来たのですし、ザ・ヒップの核心がカナダ人の胸に共鳴したのでしょう。

 いずれにせよ、ここから、カナダの国民的バンドの歴史が始まりました。

脳腫瘍

 光陰矢の如し。ザ・ヒップは、時代を駆け抜け、いつしか現代カナダのアイデンティティーの重要な一部をなすに至ります。決して多作ではありません。一つのアルバムを完成するのに2年余がかかります。振り返って聴けば、どのアルバムも時代を活写している部分と時代に関わらない普遍的な部分が混在していると感じさせます。そして、バンドの一体感が損なわれることはありませんでした。しかし、何事にも予期せぬ事態は生じます。天災は忘れた頃にやって来る、と言います。

 2015年12月、ゴードが末期の脳腫瘍と診断されるのです。

 ザ・ヒップは、この診断に先立ち既に新音盤の録音を完了しており、「ゴギー・スターダスト」として16年3月にリリース予定で、その旨公表されていました。このタイトルは、デビッド・ボウイの傑作「ジギー・スターダスト」に由来します。しかし、16年1月、ボウイが逝去します。更に、2月にはゴードが発作で倒れます。これを受けて、ザ・ヒップは、アルバム・タイトルもリリースの時期も、そしてバンドの今後のあり方についても真剣に検討します。

 2016年5月、ザ・ヒップは、ゴードが脳腫瘍と診断された事を公表します。合わせて、夏にカナダ全土で公演ツアーを行うと表明します。

 6月17日、ザ・ヒップの最後のアルバム「マン・マシーン・ポエム」がリリースされます。

2016年7月22日〜8月20日

 ザ・ヒップの最後のツアーは、1カ月で10都市を周る現代カナダ史の重要な1ページを刻みます。

7月22日、ヴィクトリア、@セイブ・オン・フーズ・メモリアル・センター
  24日、バンクーバー、@ロジャーズ・アリーナ
  28日、エドモントン、@リクサル・プレイス

8月1日、カルガリー、@スコシアバンク・サドルドーム
  5日、ウィニペグ、@MTSセンター
  8日、ロンドン、@バドワイザー・ガーデンズ
  10日、トロント、@エアカナダ・センター
  12日、同上
  16日、ハミルトン、@ファースト・オンタリオ・センター
  18日、オタワ、@カナディアン・タイヤ・センター
  20日、キングストン、@ロジャース・K-ロック・センター

 脳腫瘍で発作も起こしているゴードの体調に気遣いながら、ザ・ヒップは万全の準備でこのツアーに取り組みます。医療チームも同行です。

 30年余の集大成だから、セットリストが凄いのです。デビュー盤から最新盤までの中から90曲です。10都市11公演で、毎回、90曲の中から20曲程を選び、全く違うセットリストで演奏したのです。30年余の一貫した活動の賜物です。他の大物アーティストの場合は、セットリストを決めて基本的にはそれを繰り返す場合がほとんどです。臨時で雇ったミュージシャンがバックアップします。しかし、ザ・ヒップは全て5人だけです。一回の公演に投入するエネルギーが半端ありません。

 8月20日の千秋楽は、ザ・ヒップ創世記のキングストン。素晴らしい音楽的冒険の後の帰郷です。1曲目はサード・アルバム「フルリー・コンプリートリー」収録の『フィフティ・ミッション・キャップ』で始まりました。アンコールは3回。合計30曲を演奏し切りました。そして、ザ・ヒップの30年余の活動の最後となった曲は『アヘッド・バイ・ア・センチュリー』です。第5弾音盤「トラブル・アット・ザ・ヘンハウス」に収録。シングルカットされてカナダ・チャートで首位になった曲です。フォーク・ロックのナチュラルな色調の佳曲で、日本でも放映されたCBCのテレビ・ドラマ「赤毛のアン2」の主題歌でもありました。

 トルドー首相も会場に駆けつけ、メンバーを激励。CBCはテレビとラジオで全国に生放送し、ネットでも配信。1170万人が視聴したそうです。カナダ人の3人に1人が観た計算です。ザ・ヒップは完結しました。

結語

 ゴード・ダウニーは、闘病の末、2017年10月17日、他界。ザ・ヒップは物理的にも消滅します。他のメンバーは、それぞれの道を歩み始めました。

 しかし、ザ・ヒップの最後の日々は克明に記録されていました。そして、ドキュメンタリー映画「ロング・タイム・ランニング」が同年のトロント映画祭でプレミア上映されました。Amazon primeで視聴可能です。言葉を超えたカナダの音楽と青春と友情の物語です。

 ザ・トラジカリー・ヒップよ永遠なれ。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「エレノア・コリンズ」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第21回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 3月の声を聞き、夏時間が始まりました。春はすぐそこまで来ているという雰囲気があります。日照時間も日毎に伸びて来て、気分も明るくなります。ですが、オタワは、世界で最も寒い首都の一つ。まだまだ油断は出来ません。

 さて、今月は、エレノア・コリンズです。カナダの「ファースト・レディー・オブ・ジャズ」と称されている偉大な歌手です。北米で初めて、自らの名前を冠した全国放送のテレビ番組のホストを務めた黒人であり女性です。音楽を超えた社会的インパクトを与えた人物です。カナダ勲章を筆頭に多数の賞を受賞し、ブリティッシュ・コロンビア芸能の殿堂にも叙せられています。

 実は、今回はエレノアを書こうと前から決めていました。そして、実際にこの原稿を書き始めた直後に、バンクーバーから訃報が届きました。エレノア・コリンズが104歳で他界したというのです。家族の発表によれば、3月3日、ブリティッシュ・コロンビア州サリー市のサリー記念病院で安らかに逝ったそうです。グローブ&メイル、CBC等の主要メディアで大きく報道されました。

 2022年1月には、カナダ郵便公社が、エレノア・コリンズの業績を讃えて、記念切手を発行しました。その際に、5分32秒のビデオを制作していて、YouTubeで視聴出来ます。そこには、彼女の代表的なパフォーマンス、関係者のコメントとともに、インタヴューが収録されています。この時、102歳です。が、非常に若々しく、全身からポジティブなメッセージが発せられています。

 エレノア・コリンズの1世紀余の人生は、優れたジャズ歌手にして時代を切り拓いたテレビ・ショー・ホストという業績を超えて、カナダの歴史そのものを体現しているように思えます。

先駆者の娘

 エレノア・コリンズは、1919年11月、アルバータ州エドモントン郊外に誕生します。黒人の父とクレオール系先住民の母の間の3人姉妹の2番目です。ここで注目すべきは、両親が米国オクラホマ州からのホームステッド移民だったことです。

 米国のホームステッド法は、リンカーン大統領が1862年に署名した、自作農民育成を目的とした法律です。映画「シェーン」や「大草原の小さな家」が正に、ホームステッド法で自分の農場を持った家族の物語です。

 カナダの場合は、20世紀初頭、カナダ政府は人口を増やすための積極的な移民政策を展開します。カナダ版ホームステッド法とも言うべき土地所有法を制定し、アルバータ州については、1908年から14年にかけて、米国のテキサス州、オクラホマ州、ミズーリ州等の黒人入植者を募集します。一定の条件を満たせば、州内の未開拓地160エイカー(東京ドーム14個分)を米国からの黒人移民に対して無償で払い下げるのです。

 1910年、エレノアの両親は、この募集に応じ、米南部のオクラホマ州から厳しい気候のアルバータ州の未開地に入植したのです。正に、パイオニア精神です。米南部の黒人にとって、カナダは自由にして希望の地に見えたことでしょう。

 エレノアは、先駆者たる両親からパイオニア精神と音楽の才を受け継ぎ、彼女の人生を歩み始めます。

エドモントンの歌姫

 ちょうどエレノアの両親が移住して来た1910年、エドモントンには、米国からのホームステッド移民達によって、シロホ・バプテスト教会が設立されます。この教会こそ、エレノアが音楽的才能を開花させていく場所となります。

 エレノアは、天性の歌手でした。微妙な音程の差異や音色の陰影を聴き分ける優れた耳を持っていました。家族で歌い楽器を演奏する家庭環境で育ちます。幼少の頃より、シロホ教会で聖歌や讃美歌や国歌などを歌うのです。正確な音程と豊かな表情を持った歌唱は、教会に集う老若男女を魅了したことでしょう。

 1934年、エレノア15歳の時に、エドモントンで開催されたアマチュア・タレント・コンテストで優勝。それをきっかけに、地元ラジオ局CFRNと契約します。エレノアの舞台は、教会を超えて、拡がります。そして、エレノアの伴奏も、教会のオルガンから、プロのダンス・バンド等の楽団へとグレードアップ。プロの歌手としてのキャリアを歩み始めたのです。地元エドモントンで歌う日々がエレノアの歌を磨きます。

バンクーバー

Eleanor Collins singing with her band. Photo by Jack Lindsay. Courtesy of City of Vancouver Archives
Eleanor Collins singing with her band. Photo by Jack Lindsay. Courtesy of City of Vancouver Archives

 1939年、19歳になるエレノアは、満を侍して拠点をブリティッシュ・コロンビア(BC)州バンクーバーに移します。そして、「スゥイング・ロウ・カルテット」と名乗る4人組のゴスペル・コーラス・グループを結成します。このカルテットは、時を経ずして地元で評判となっていきます。1940年には、バンクーバーを中心に広くBC州南部を聴取エリアとするCBCラジオへ定期的に出演するようになります。CBCラジオとの関係がやがてエレノアの一層の飛躍をもたらします。

 さて、音楽活動が充実してきこの時期、エレノアにとって運命の出会いが到来します。エドモントンとは違って年間を通じて温暖なバンクーバーで、エレノアはアウトドアの活動を満喫していたといいます。特に、スタンレー公園のテニス・コートがお気に入りだったそうです。そこで、生涯を共にするリチャード・コリンズと出会うのです。出会って2年後の1942年に2人は結婚します。結婚によって、彼女の人生に芯が通ったのかもしれません。彼女の歌には一層磨きがかかります。

 1945年、25歳のエレノアは、ゴスペル・コーラス・グループから独立し、ソロとしてのキャリアを歩み始めます。バンクーバーを拠点に活躍するカナダ屈指のジャズ・バンド、レイ・ノリス五重奏団の専属歌手に迎え入れられます。そして、CBCラジオの新番組「セレナーデ・イン・リズム」に出演します。この番組は、海外に駐在するカナダ軍基地においても放送されました。レイ・ノリス楽団のスィング感溢れる演奏で際立つエレノアの歌はリスナーに愛され、この番組は数年続きました。

バーナビー〜子育ての日々

 やがて、エレノアとリチャードは、4人の子宝に恵まれます。音楽活動は極めて順調ではありましたが、エレノアは1948年から52年まで育休を取ります。女性の社会進出に関連し、出産・子育てと仕事を如何に両立するかは現代でも課題ですが、75年前、エレノアの選択は鮮やかです。

 コリンズ家は、バンクーバー郊外のバーナビーに新居を構えます。大都市の中心部から離れて落ち着いた環境で家族との時間を過ごします。一見、素敵なことに見えます。しかし、そこは、完全なる白人コミュニティーでした。1948年のカナダ・BC州は、現在のカナダ・BC州とは全く違います。日系カナダ人を、カナダ市民でありながらも、敵性外国人として財産を没収し強制キャンプに収容し、45年に戦争が終結しても49年4月までは日系カナダ人がBC州に帰還することを禁じていたのです。極めて、露骨な人種差別と偏見があったのです。

 白人街の唯一の黒人家族として、大変に苦労があったようです。が、ボランティア活動や地元の子供達に音楽を教える活動を通じて、コミュニティーから敬愛されるに至ります。多様性と包摂性を自らの手で勝ち取っていくエレノアです。そこには、未開地で人生をスタートさせた両親の強靭さが受け継がれています。現在のカナダのモットーである多様性と包摂性は、現状を打破するこのような先駆的人々の不断の努力の上に築かれているのだと得心します。

歴史をつくる

 子育てを一段落させたエレノアは、母としての慈しみと強さを内に秘め、歌に一段と深みを増して、徐々に音楽活動を再開させます。

 1952年には、バンクーバーを拠点とする非営利の音楽振興組織「シアター・アンダー・ザ・スターズ」がスタンレー公園内の野外劇場で夏の間に主催するミュージカル「フィニアンの虹」に出演します。聴衆の前で歌い演じ喝采を浴びる喜びとの再会です。勿論、家族との時間は何ものにも代え難いのでしょうが、音楽家魂に火が付いたようです。翌53年は、シェークスピアの原作を巨匠コール・ポーターがミュージカル化した傑作「キス・ミー・ケイト」に出演し、再びスタンレー公園の舞台に立つのです。

 ちょうどこの頃、時代がラジオからテレビへと進化します。1952年、カナダ最大の都市モントリオールと第2の大都市トロントで、一般家庭向けにテレビ放送が始まります。翌53年には、テレビの波はバンクーバーにも到達します。この全く新しいメディアは、エレノアに、更なる機会をもたらします。

 1954年、エレノアは、CBCバンクーバーTV制作のバラエティー番組「バンブーラ:西インディーの1日(Bamboula: A Day in the West Indies)」に出演します。これは、カナダ史上初の複数の人種のキャストが一緒に出演する番組でした。カナダの社会が人種差別と偏見を克服していく最前線にエレノアはいたのです。CBC幹部は、エレノアのパフォーマンスに感銘を受けます。舞台は、バンクーバーからカナダ全土へと拡大します。

 1955年6月19日の日曜日、エレノアが司会を自ら務め、歌い、ゲストをもてなす音楽番組「ザ・エレノア・ショー」の全国放送が始まりました。この番組は、北米史上初となる、黒人がホストを務めその名を冠した全国放送の番組となりました。女性、ジャズ歌手がホストを務める番組としても北米初です。この時、エレノアは35歳。YouTubeで、この時の模様を見ることが出来ます。白黒の画面で音質も良くはありません。それでも、慈愛に満ちて美しい表情と絹のような声と絶妙の歌唱は、彼女の実力と魅力を余すことなく伝えます。歴史をつくった瞬間です。

 因みに、類似の番組としては、米国NBCの「ナット・キング・コール・ショー」の方が有名です。が、こちらは、1956年11月5日が初回放送です。米国に先んじたカナダの矜持とも言えます。

結語

 エレノアは、その後もテレビ、ラジオ、公演と活躍します。米国への進出についてオファーが何度もあったそうですが、断り、カナダに留まりました。このコラムでも取り上げた才能溢れる多くのカナダ出身の音楽家は、米国へ拠点を移し、より大きな成功を得て、名を成しています。勿論、競争の苛烈な米国音楽業界での活動は綺麗事だけでないでしょうし、「夢破れて山河あり」の場合も多々あるでしょう。

 実は、現在、エレノアの音盤を入手するのは非常に難しいです。優れた楽才とパイオニアの精神を持ってはいましたが、誰かのカバーやスタンダード曲だけでなく、商業的に成功した彼女のヒット曲に恵まれなかったからでしょう。歴史にifを言っても詮無いことですが、仮に両親の祖国アメリカで勝負していたら・・と想像してしまいます。

 エレノア・コリンズ、104歳の大往生。

 カナダの誇りです。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「ジェームス・エーネス」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第20回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 私にとって2回目のオタワの冬も2月も半ばです。そろそろ終盤に近づきつつある中で、地球温暖化を実感する日々でもあります。リドー運河の天然スケート・リンクが昨年は史上初めてオープン出来なかった訳ですが、今年は、限定的とは言え、オープンしました。が、気温のマイルドな日が続き、氷の厚さが足りず、今は閉鎖されています。オタワの冬の風物詩が体感出来ないのは残念です。

 しかし、音楽に関しては、2024年のオタワは、素晴らしい幕開けを迎えました。国立芸術劇場の今年最初のコンサートが1月10日に開催されたのですが、素晴らしいプログラムでした。現在、世界最高峰のヴァイオリニストと目されているジェームス・エーネスが登場したのです。英デイリー・テレグラフ紙によれば「地球上に僅かに存在する完璧なヴァイオリニストの1人」という事になります。という訳で、今回は、カナダが誇るジェームス・エーネスです。

神童現る

 ジェームス・エーネスは、1976年1月27日、マニトバ州ブランドンに生まれます。父アランはトランペット奏者にして地元のブランドン大学音楽学部トランペット科教授、母バーバラはバレリーナという家系です。音楽に溢れる家庭環境で、3歳児のジェームス君は、何故かヴァイオリンに強烈な関心を示し、ヴァイオリンを両親にねだったと云います。芸術家のDNAの成せる業でしょうか。1979年のクリスマス、両親は4分の1のサイズのヴァイオリンをプレゼントとします。

 そして、ジェームス君が5歳になると父からヴァイオリンを正式に習い始めます。圧倒的な才能が顕になるのに時間は要りませんでした。地元の音楽イベントの常連になります。9歳になると、もう父が教えられる事は尽きました。

チャップリンとの出会い

 幸運なことに、父の職場ブランドン大学の同僚にカナダの至宝とも言われたヴァイオリニスト兼ヴァイオリン教師、フランシス・チャップリンがいました。ジェームス君はチャップリンに師事することになります。ここから華麗なるキャリアへの本格的助走が始まります。

 1986年、10歳にして、地元で本格的リサイタルを開きます。

 1987年、11歳の時に、若手演奏家の登竜門として1958年に始まったカナダで最も権威のある音楽コンクールであるThe Canadian Music Competitionの弦楽部門で優勝。

 1988年、12歳で、モントリオール交響楽団主催のコンテストで優勝。翌89年には、13歳にして、シャルル・デュトワ率いるモントリオール交響楽団と共演。これがオーケストラ・デビューでした。才能の原石は磨かれる運命にあります。いよいよカナダの重力圏を超えます。

 ジェームス少年は、チャップリンの強力な推薦もあって真に優れた若き演奏者だけに許される「メドウモント音楽院」に入ります。この音楽院は、イツァーク・パールマンを育てたことで知られるヴァイオリン教師ガラミアンが1944年ニューヨーク州北東部のウェストポートに開きました。夏期7週間だけの非常に密度の濃い弦楽器のためのプログラムです。広大なキャンパスには、食堂、ラウンジ、パフォーマンス・スペース、練習スタジオ、コンサート・ホール、更に、テニス、バスケ等のレクリエーション設備も完備。音楽漬けの7週間を過ごします。生徒は、1日5時間の個人練習に加え、スタジオでの授業、個人指導、更にゲスト講師として招かれた名だたる名演奏家による特別ワークショップがあります。ヨガも取り入れられています。週に3回は、教授、ゲスト講師、生徒が参加するコンサートが開催されます。将来のトップ・プロの養成機関です。ヨーヨー・マ、リン・ハレル、ピンカス・ズッカーマン、チョン・キョンファ等々現在も活躍する錚々たる演奏家を輩出しています。13歳のジェームス少年がその入り口に立った訳です。89年から92年まで、夏になるとメドウモントで学びました。

ジュリアード

 そして、1993年17歳になったジェームス青年は、ジュリアード音楽院に入学。いよいよ、世界の舞台の中心の近傍に来ました。ここで、ジェームス青年の未来を決定づける出来事があります。カナダ楽壇の重鎮ウォルター・ホーンバーガーとの出会いです。

 ホーンバーガーは、グレン・グールドを発掘しマネージャーも務めたことで知られるプロデューサー兼スカウトにして興行主。トロント交響楽団のマネージング・ディレクターを長年務め、その手腕でトロント響の地位を大きく向上させました。トロント大学にホーンバーガー講座を開設する等の後進の指導に熱心で、日本の民音が主催する東京国際指揮者コンクールの審査員も務めています。カナダ楽壇の発展に大きな足跡を残し、1987年、63歳に引退します。

 そのホーンバーガー御大が、1993年、69歳にして悠々自適の生活を切り上げて、17歳のジェームス青年のマネージャーに就任するのです。ここから、ヴァイオリニスト、ジェームス・エーネスの活動が本格化します。ジュリアードで学びつつ、ホーンバーガーの采配で、北米、欧州、そしてアジアの有名オーケストラとの共演を重ねて行きます。

 1995年、未だジュリアード在学中の19歳にして、テラーク・レコードと契約を結びます。デビュー盤は「ニコラ・パガニーニ、24のカプリース」です。超絶技巧を要求される難曲中の難曲。この選択に、エーネスの自信と野心が伺えます。眼光鋭いジャケット写真も印象的です。但し、この段階では、未だ一般的知名度は低く、関係者の間で、あのホーンバーガーがマネージャーを務める期待の大型新人という程度でした。元々、クラシック音楽のレコードCD市場は大きい訳ではなく、商業的には一敗地に塗れました。その後は、録音の機会は与えられませんでした。音楽業界の厳しい現実を垣間見た訳です。しかし、今や、このデビュー盤は相当な貴重品で、中古盤1枚500ドル超のプレミアが付いています。

世界の檜舞台へ

 エーネスは、ジュリアード在学中から、ホーンバーガーのバックアップで北米を中心に世界各国の名だたるオーケストラで客演を重ねていきます。学業との両立は決して容易ではなかったでしょうが、経験こそは何ものにも代え難い生きた教育でした。

 1997年、極めて優秀な成績で、ペータ・メニン賞を受けて、ジュリアードを卒業しました。いよいよ、生き馬の目を抜く厳しい競争と政治的駆け引きとも無縁ではいられない、世界のクラシック音楽業界へと参入するのです。

 順風満帆に見えるエーネスにとっても一つ悩みがあったと云います。それは、ヴァイオリニストにとっての生命線。己の技量をも左右する優れたヴァイオリンを如何に確保するかということです。演奏会であれ、レコーディングであれ、美しき音色は絶対条件です。最高峰は、17〜18世紀に製作されたストラディバリウスです。超一流の奏者は、有力な支援者・団体から貸与され、専属的に使用します。エーネスの場合は、カナダの芸術協会のサポートで、1717年製のウィンザー・ウェインスタイン・ストラディヴァリを使用することが出来るようになりました。

 ここからは、現代のクラシック音楽界の歴史そのものと言えるでしょう。「百年に一人のヴァルチオーゾ」と称されるジェームス・エーネスの誕生です。

 レコーディングに関しては、デビュー盤の不調で、4年間は新規録音はありませんでした。契約上の問題を整理する必要もあったのかもしれませんが、力を貯める良い機会にもなったに違いありません。2000年以降は、CBC、Analekta、Chandon等のレーベルから、精力的にCDを発表しています。年平均2枚余のペースです。如何なる分野の芸術でも、超多作は天才の証です。今や、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンからパガニーニ、ラヴェル、ドビュッシー、ストラヴィンスキー、バルトーク、更にはフィリップ・グラスまで、協奏曲、ソナタ、無伴奏ソナタ等々がヴァイオリンの主要レパートリーを網羅する膨大なディスコグラフィーを誇ります。

 最新盤は、2024年2月9日にリリースされたばかりの「我らの時代の真実(Truth in Our Time)」です。アレクサンダー・シェリー率いるカナダ国立芸術劇場管弦楽団との抜群の相性です。

音は人なり

 ヴァイオリンという楽器は、演奏者の人格識見が音に直裁に反映します。左手の指が押さえるポイントが0.5ミリ違えば音程がズレてしまいます。指の力加減がヴィヴラートの質を決めます。右手の弓を弾くスピードと圧力が音色を決めます。同じ楽器でも弾く人が違えば、全く異なる音が生まれます。ピアノならば、誰が鍵盤を押さえても同じ音程で基本的に同じ音が出ます。勿論、曲を奏でる場合は演奏者の違いが出ます。が、一つ一つの音は既に準備されています。ヴァイオリンは、一つ一つの音をつくるところから始まります。それ故に、ヴァイオリンの音にその人間のほぼ全てが滲むのです。

 もう随分前の事ですが、某テレビ局の有名アナウンサーと懇談の機会を得ました。その方はアナウンス室長を務められていて、後進の指導に当たっておられました。モットーは「声は人なり」。視聴者の方々にニュースを正確に客観的に届けるために、声を鍛え、発音を磨くのだと。謙虚に努力した声には誠意が宿り、視聴者の信頼を得るのだ、と力説されていたのを思い出します。一見華やかな世界の土台に地道な準備があると学びました。

 ヴァイオリンも本質は同じです。外からみれば、才能だ偉才だ天才だと言って片付けてしまいそうですが、そんな簡単な訳がありません。世界最高水準で演奏し続けるための鍛錬とコミットメントは人格そのもののです。故に、音は人なりです。心の乱れは音の乱れです。演奏と人格の境界線は、五木寛之の傑作「海を見ていたジョニー」にも通じる深淵なテーマです。

 2017年発表のCD2枚組「モーツァルト・ヴァイオリン協奏曲全集」を聴いた時の事です。エーネスのヴァイオリンが純朴で善意の塊のような音色だと感じました。モーツァルトの父レオポルドは成功したヴァイオリン教師でしたから、幼いモーツァルトは英才教育で徹底的にヴァイオリンを仕込まれました。モーツァルトにとってヴァイオリン協奏曲は、彼の人格の一部でもあります。その協奏曲を3歳児の頃からヴァイオリンを弾いて来たエーネスが奏でるのです。時代を超えた共感と絆があるに違いありません。小手先ではなく、エーネスの全人格が反映しているのです。

結語

 2024年1月の国立芸術劇場(National Art Centre)での公演プログラムは、エーネスとNAC管弦楽団による4曲のバッハのヴァイオリン協奏曲集です。エーネス自身が指揮して独奏する「イ短調」と「ト短調」。そして「2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調BWV1043」では、 ジュリアードの同級生であるNACのコンサートマスター川崎洋介と共演。更に、「3つのヴァイオリンのための協奏曲ニ長調BWV1064R」では、右の2人に川崎夫人でもあるジェシカ・リンバックが加わりました。音楽の本質は、音学ではなく、音を楽しむことにある、と心底得心させる素晴らしい演奏会でした。そして、この日の演奏は全て録音されていて、2024年9月にはCDリリースされる予定です。また一つ、名盤がエーネスのディスコグラフィーに加わる訳です。

 最後に全くの私事ですが、演奏会の後、幸運にも楽屋で御挨拶をさせて頂く機会を得ました。巨匠ぶったところは全くなく、お茶目で本当にフレンドリーな人柄に魅了されました。NHK交響楽団との共演が感慨深いとも語ってくれました。最後に「アリガトウ」と笑顔で言ってくれました。

 カナダが生んだ現代の巨匠ジェームス・エーネスは47歳になったばかりです。この先、どれだけの傑作を残すのか超楽しみです。既にクラシック音楽の名演奏家列伝に入っているエーネスが如何なる物語を加えるのでしょうか。時代に彼を聴ける喜びを噛み締めたいと思います。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「ダニエル・ラノア〜鬼才プロデューサーの軌跡」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第19回

はじめに

 明けましておめでとうございます。

 同時に、能登半島地震の被災者・犠牲者の方々に心よりお見舞いを申し上げます。

 2024年は辰年です。昇龍の如く、全てがエネルギーに満ち、苦難を乗り越え、災いを転じて福と成すように、素晴らしい年となるように祈念します。

 さて、今回は、カナダが生んだ稀代の音楽プロデューサー、ダニエル・ラノアです。おそらく、この連載で取り上げた中で、一般的な知名度は最も低いかもしれません。が、1980年代以降のロック・ポップの展開を見れば、ダニエル・ラノアは、間違いなく、最も影響力のある音楽家の1人です。彼がプロデュースした作品群は、ボブ・ディラン、U2、ピーター・ガブリエル等ロックの現代史の重要な章に刻まれています。但し、ラノアの名前が前面に出ることは稀だったのです。

 そこで、読者の方には、音楽プロデューサーって一体何者?という素朴な疑問が湧き上がると思います。有名なのは、ビートルズを世に出したサー・ジョージ・マーチン。5人目のビートルとまで言われました。全く無名のボブ・ディランを発見したのは、伝説のプロデューサー、ジョン・ハモンド。若き日にベニー・グッドマン、ビリー・ホリデーらを発掘し、今日のジャズの隆盛の基礎をつくった人物です。「ウィ・アー・ザ・ワールド」は、クインシー・ジョーンズにして初めて実現した企画。尾崎豊を発見し育てたのが須藤晃でした。

 そこで、プロデューサーの仕事です。例えば、歌手、作詞家・作曲家・アレンジャー、演奏家は、彼らが参加し創造した音楽の中に具体的な音が刻まれています。役割が明確で、聴くことが出来ます。しかし、プロデューサーは、音楽制作そのものを総括していても、具体的な痕跡は見え難いかもしれません。録音スタジオの選定、参加ミュージシャンの選別、音盤のコンセプト、サウンドの色彩感、収録曲の決定等々に直接関わります。プロデューサーの役割は決定的です。

 敢えて言えば、音楽プロデューサーは、スポーツの監督に似ているかもしれません。野球でもアメリカン・フットボールでも駅伝でも、試合そのものは選手によって競われます。が、全体の戦略、個別の戦術、練習方法、選手の選択や起用のタイミング等は、監督が差配しています。そこに監督の力量が顕れます。

 そこで、ダニエル・ラノアに戻ります。カナダならではの響きを体現したラノアは、カナダ発世界行きの軌跡を鮮やかに描きます。

1951年、ケベック州ガティノー

 ダニエル・ラノアは、1951年9月、ケベック州ガティノー市ハル地区のフランス系カナダ人の家庭に生を受けました。ハル地区は、オタワ川を挟んで、首都オタワの対岸です。カナダ最大の博物館である「歴史博物館」の所在地ですが、一面ではギャンブルと酒場の街という顔も持ち合わせています。ラノア家は、決して裕福ではありませんでした。高級レストランの豪華な食事とは無縁だったけれど、祖父も父もヴァイオリンを弾き、母は歌がうまく、祝い事があれば、親戚が集まって皆で音楽を奏でていたといいます。

 そういう家庭環境で育ったダニエル少年は、自然に音楽の素養を身につけます。10歳の時に、スティール・ギターを習い始め、やがて、他の様々な楽器、さらに音楽理論も学び、吸収します。

 両親が離婚し、母親に引き取られますが完全に放任状態でした。ラノアは、後年、この頃を振り返り「自分がしたい事をする最高の養育環境であった」と述べています。時代は、疾風怒濤の1960年代です。ビートルズらが牽引しロック・ミュージックが単なる娯楽から前衛芸術へと進化します。ティーン・エイジャーになったダニエル少年も、大きな影響を受け、音楽の道へと歩み始めます。3つ年長の兄ボブの影響もあったようですが、その他の道は目に入らなかったと云います。高校在学中から、プロの演奏家として様々なバンドで伴奏をし、時には、誰も行きたがらないオンタリオ州の最北部にも出張しました。

 楽才に溢れるダニエル・ラノアです。様々な角度から、音楽にアプローチする訳です。興味深いのは、演奏だけではなく、録音スタジオに大きな関心を持ったことです。「サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」や「ペット・サウンド」等60年代の偉大な音盤は、スタジオでの実験と冒険の賜物。スタジオが楽器なのです。

1969年、オンタリオ州ハミルトン

 1969年、ラノアの母親は、ガティノーからオンタリオ州ハミルトン市アンカスター地区に転居し、家を新築します。そこで、ラノアは兄ボブと一緒に一計を案じます。この新居の地下室に防音を施し、小さな録音スタジオにしたのです。ラノア家には、旧式のオープン・リール・テープレコーダーがありました。当時は、未だ自分の声なり演奏を録音して、それを再生して聴くということは特別な体験でした。従って、現代の目から見れば、極めて素朴な資機材ですが、一般向けの録音スタジオが商売としても成り立ったのです。兄の影響があったにしても、高校在学中の17歳です。本能の赴くまま、目的のために、利用出来るものは全て利用したのでしょう。が、己の将来への明確なヴィジョンがあったのです。早熟と言えば、早熟。凄いことです。慧眼です。

 この「アンカスター・スタジオ」で、マイクの位置や音源との距離、多重録音の効果、エコーやイコライザー等の機材が如何に音楽の色彩感を決めるのか、音楽制作の核心を体得していきます。地元のローカル・バンド達との交流が深まり、プロデューサーとしての腕を上げ、音楽関係者の間で名を知られるようになります。

 1976年、25歳の時に、自宅地下室からステップ・アップします。ハミルトン市のダウンタウンにある20世紀初頭に建てられたビクトリア朝風の3階建家屋を兄と共同で購入し、大幅に改修。「グラント・アヴェニュー・スタジオ」をオープンするのです。この名称はここの住所、38 Grant Avenue, Hamilton, Ontario L8N 2X5 に由来します。兄弟は、Revox社製テープレコーダー等の本格的な機材・設備を導入し、地元のミュージシャンの音盤をプロデュースし始めます。後にメジャーになる地元のローカル・バンド「マーサ&マフィンズ」、更に「タイム・ツインズ」もラノアが手掛けたアーティストです。彼らを通じて、ラノアの評判が国境を越えます。

1979年、トロント〜ニューヨーク〜ハミルトン

 ニューヨークは世界の最先端を走る都です。世界中の猛者が集まり、時代を牽引します。そして、様々な出会いが起こります。

 トロント出身の「タイム・ツインズ」は、ラノアがプロデュースしたパンク・ロック調の「ユーリ・ソング」というデモ・テープを持ってニューヨークを訪れます。世に出る機会を探すプロモーションです。偶々このテープを聴いたのが、偶々ニューヨークを訪れていたブライアン・イーノです。ロンドンで異彩を放っていた鬼才です。若くして、シンセサイザー奏者としてロキシー・ミュージックに参加した後、ソロ・キャリアを展開しつつ、デビット・ボウイのベルリン三部作にも参加し、プロデューサーとしての活動を本格化させていました。

 そんなイーノの耳が「タイム・ツインズ」のテープに宿る新しい「音」を聴き取ります。彼が探し求めていた「音」があったのです。その段階で、ラノアは、カナダの無名の新米プロデューサーに過ぎません。が、イーノはラノアの巨大な才能の原石を察知したのです。

 ここからのイーノの動きは非常に素早いものがあります。ダニエル・ラノアに連絡を取ります。そして、あの「音」を生み出したハミルトンの「グラント・アヴェニュー・スタジオ」を訪れます。初対面にして、イーノは、音楽制作に関して通じ合う特別な紐帯があることを直感します。ラノアにとっては師との邂逅です。この出会いこそ、この後に続くイーノ/ラノア・チームの傑作群の始まりの始まりです。

 イーノは、早速、新しい音盤の録音を「グラント・アヴェニュー・スタジオ」で始めます。完成したのが「プラトウ・オブ・ミラー」です。ミニマルな環境音楽の代名詞“アンビエント・ミュージック”の傑作です。この音盤は、イーノ自身がプロデュースした作品です。小さな字ではありますが、ラノアへの特別な謝意がクレジットされています。初めて、メジャーな世界で認知されたのです。

 それまで世界的には無名のオンタリオ州ハミルトンの小さなスタジオが注目され始めました。

1981年、「グラント・アヴェニュー・スタジオ」

 イーノとの共同作業でダニエル・ラノアの才能は一気に開花します。カナダのローカルなマイナー・アーティストを世に出す仕事を続ける一方、スーパー・メジャーな音楽家の作品を手掛けるようになります。

 最初は、師であり同志であるブライアン・イーノとの共同名義の音盤「アポロ」の録音です。イーノは英国ロンドンを拠点にしていますが、この音盤は「グラント・アヴェニュー・スタジオ」で録音することに拘ります。1981年から翌年にかけ、イーノが何度も足を運び、完成に漕ぎつけます。元々は、アポロ計画に関するドキュメンタリー映画「フォー・オール・マンカインド」のためのサウンド・トラックとして企画されたものでしたが、映画の公開に先立ち、1983年7月に発表されました(映画の公開は89年)。ジャケットの月面写真が示すように、宇宙空間や月のイメージを音で紡いでいます。ここに響いている音楽は、もはやロックというよりは、ジャンルを超えた現代音楽です。幾つかの楽曲は、「28デイズ・レイター」など他の映画でも使用されています。

 音盤「アポロ」は、商業的に大成功という訳ではありませんでしたが、音楽・映画関係者の間では高く評価されていました。ダニエル・ラノアのファンにとっては、最初のメジャー作品です。そして、2019年7月には、アポロ11号の月面着陸50周年のCD2枚組特別編集盤がリリースされました。世紀を超え、今も新鮮な音楽です。

1984年、アイルランド

 1984年イーノ/ラノア・チームは、U2新作アルバム「焔(Unforgettable Fire)」をプロデュースします。この背景が非常に興味深いです。

 U2は1983年発表の3枚目のアルバム「闘」で、母国アイルランドを超え、英国、米国、更にはグローバルに成功していました。直裁なパンク・ロック的アプローチで時代の空気を掴んで、若い世代から絶大な支持を得ていました。しかし、U2は更に前進するために、もっと深みのある音楽を志向します。1983年米国ツアーのシカゴ公演の際、U2メンバーがシカゴの平和博物館を訪れ、そこで観た、「忘れざる炎」と題された広島・長崎の被爆者達が描いた絵画展に感銘を受け、構想が固まります。

 そこで、U2はイーノにプロデュースを依頼します。が、イーノは乗り気ではありません。自身がロキシー・ミュージックでロックの最前線にいた訳ですが、既に音楽的関心は別の次元にあったからです。しかし、U2側は非常に熱心です。そこで、イーノは最も信頼する同志ラノアを引き連れてダブリンに赴きU2メンバーとの面談に臨みます。U2にしてみればイーノに依頼してるのであって、ラノアは眼中にありません。ラノアは、依然として知る人ぞ知る存在でした。協議の末、イーノ/ラノアの共同プロデュースで話がまとまります。

 実際の録音セッションは、84年5月から約1ヵ月間、アイルランド北東部のスレイン村の古城に楽器・録音機材を搬入し、U2メンバーと関係者一同が住み込みで行われました。時には、朝10時から深夜1時まで続きました。集中力と創造性の究極の融合です。

 「焔」は84年10月にリリース。各国チャートを席巻します。因みに、音盤ジャケットの写真が正にスレイン城です。名義上は、イーノ/ラノアの共同プロデュースですが、実際のレコーディングを仕切ったのはラノアでした。ラノアは、U2の音楽をパンク・ロックからアート・ロックへと大きく変貌させた最大の功労者です。

 そして、革新的プロデューサー、或いは、スタジオの魔術師としてのダニエル・ラノアの名前が一気に知られることになります。ここから後は、現代ロック・ポップの歴史そのものです。が、もう1枚だけ、紹介します。ラノア自身が数多あるプロデュース作品の中で最も印象深いと言っている音盤、ボブ・ディランの「オー・マーシー」です。

1989年、ニューオリンズ

 ラノアは、U2からの信頼と尊敬を得て、その後も、最高傑作「ヨシュア・トゥリー」を含めU2をプロデュースし続けます。その縁で、U2のリード・ヴォーカル、ボノがボブ・ディランにラノアを紹介します。1988年の初夏のことでした。

 この頃のディランは、と言えば、最新盤「ダウン・イン・ザ・グルーヴ」の評価が非常に低く、セールスも伸びてません。実はその前の作品「ノックト・アウト・ローデッド」も低迷してました。ディランは、既に、功成り名を遂げていた訳ですが、過去のスターに甘んじる気は全くありません。新しい歌が頭の中で次々に生まれているのですから。次の音盤で起死回生を狙います。そこで、ボノから紹介されたラノアを起用します。

 実際の録音は、1989年2月から4月にかけて、ニューオリンズの閑静な住宅街ソニアット通り1305番地の家屋に楽器・録音機材を持ち込んで行われました。録音は、夜間に限って行われました。それがディランのスタイルです。太陽が沈み、月光の中に浮かび上がる人間の本性と癒しを歌うのです。ラノアは「夜の音楽」を包み込む薄い靄がかかったサウンドをデザインします。それが、ディランの歌の力を呼び覚まし、聴く者の胸を突くのです。

 「オー・マーシー」は89年9月にリリース。批評家に絶賛され、セールスも好調。50歳を前に、ディラン完全復活を告げました。何事につけ辛口なディランですが、ラノアの的確な仕事ぶりに対し深い尊敬の念を示した、と伝えられています。

2024年、カナダ再び

 ダニエル・ラノアは、既に古希を超えています。生ける伝説です。一方、プロデューサー業だけでなく、ミュージシャンとしても現役バリバリです。2022年9月には最新盤「プレイヤー、ピアノ」をリリース。聴けば、誰の胸の奥にもある懐かしい風景を喚起します。虚飾を排した純朴にした美しい音楽。

 今年4月には、ニュー・ブランズウィック州モンクトンを皮切りに、ケベック州、スプリング・ツアーが行われます。

 カナダが誇る偉大なる音楽家の1人です。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「マッセイ・ホール〜音楽の生まれる場所」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第18回

はじめに

 光陰矢の如し、とは良く言ったもので、もう12月も下旬です。あと10日で大晦日です。年末年始の慌ただしい中、気持ちをリラックスさせるため、或いは、やりかけた仕事を完了させるべく気合いを入れるために、音楽を聴く方は多いです。出張で飛行機に乗るとイヤホンやヘッドホンを着用している非常に多くの人々を見かけます。

 今や、音楽は日常生活の不可欠の一部です。1日24時間、どこででも好きな時に、状況に応じ、好みに合わせ、世に存在する様々な音楽が聴けます。考えてみると、現代の科学技術の賜物です。言わば、iPhoneは現代のカーネギー・ホールです。源流を辿れば、音楽を屋外に持ち出したのはSONYのウォークマンでした。更に、音楽をテープやビニール盤に刻んで記録し再現出来る仕組みを作ったのは、発明王エジソンです。それ以前は、ストリーミングもCDもテレビもラジオもレコードも存在していません。音楽は、演奏される場所に行かなければ聴くことは出来なかったのです。

 そこで、今回の「音楽の楽園」は、カナダが誇る歴史的コンサート・ホール、トロントの「マッセイ・ホール」です。

極私的なマッセイ・ホールとの出会い

 佐世保から上京してからの学生時代の事です。“モラトリアム”とか“自分探し”とか言えば、聞こえは悪くありませんが、実際は、世の中の事を何も分からず、本当に何をしたいのかも見えず、霞を食うような日々でした。授業はサボリ、新宿のジャズ喫茶に入り浸ってました。特に、大好きだったのがDUGという店でした。ロール・キャベツで有名なレストラン「アカシア」が1階にある雑居ビルの狭い階段を上がった2階でした。中上建次の初期の傑作「灰色のコカ・コーラ」に登場します。DUGは、店内が薄暗く、おしゃべり厳禁、JBLの巨大スピーカーの腹に響く音響がリアルでした。コーヒー1杯で2時間、お代わりすれば3時間くらいは大丈夫でした。ジャズをひたすら聴き、時に情報誌「ぴあ」で名画座で上映中の映画をチェックしたり、ヘンリー・ミラーやジャック・ケルアックやジャン・ジュネらを読んでいました。正直に言えば、内容はほとんど憶えていません。が、そこで聴いたチャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーの即興が胸を掻きむしった感じは、今も鮮明に思い出します。その頃、よく聴いた音盤が「ジャズ・アット・マッセイ・ホール」です。実は、マッセイ・ホールがトロントに所在するという事や、この音盤に関する逸話はもっと後になって知るに至りましたが、これがマッセイ・ホールとの極私的な出会いでした。

マッセイ・ホールに終結したザ・クインテット

 この音盤は、70年も前に録音された古いものですが、ジャズ愛好家の必聴盤となっています。ジャズで使用される基本中の基本の5つの楽器の最高峰が5人集まっているからです。それだけでも超レアです。ドラム、マックス・ローチ。ベース、チャールス・ミンガス。ピアノ、バド・パウエル。トランペット、ディジー・ガレスピー。そして、アルト・サックス、チャーリー・パーカーです。ニューヨークを拠点にする5人の日程が合ったのが奇跡的でした。しかし、相当酷い依存症に陥っていたパーカーは自分の楽器すら忘れてくる始末です。何とか、主催者側が用意できたのが、プラスチック製の玩具のようなサックスでした。更に、この公演が行われたのが1953年5月15日の金曜日の夜。ちょうど同じ時間帯に世界ボクシング・ヘビー級王者ロッキー・マルシアノと前王者ジャシー・ジョー・ウォルコットとのタイトルマッチが米国で行われ、テレビ中継は驚異的な視聴率でした。従って、ジャズ史上に燦然と名を残す5人の揃い踏みでも、3千人収容出来るマッセイ・ホールに観客はわずかでした。当時の北米社会の中でのジャズの位置付けを反映しているとも言えます。主催者はまともにギャラが払えず、メンバーには小切手を渡しますが、結局、その小切手は現金化出来なかったそうです。

 しかしです。何重にも重なった不運な状況を吹き飛ばすほど、音楽は素晴らしいのです。マッセイ・ホールの名を今に留める名盤です。

故郷に錦を飾るニール・ヤング

 更に、何年も経って、久しぶりにマッセイ・ホールの名を見たのは、ニール・ヤングの「ライブ・アット・マッセイ・ホール1971」という音盤です。2007年3月のリリースですが、内容は、音盤タイトルにあるとおり1971年1月19日のマッセイ・ホールにおける単独公演の克明な記録です。レコード会社の販売戦略で、素晴らしい内容にも関わらず、長らくお蔵入りになっていたものが陽の目を見たのです。

 ニール・ヤングはトロントが生んだロックの英雄で、今も、現役で活躍しています。1966年以降、拠点は米国です。そのニール・ヤングがマッセイ・ホールに登場です。1971年1月と言えば、ヤングが参加するスーパー・グループ「クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング(CSN&Y)」の1970年9月発表の音盤「デジャ・ヴ」が全米・全加・全蘭アルバム・チャートで1位を獲得。正に絶頂期です。CSN&Yは、出身国で言えば、米国人、英国1人、そしてカナダ1人です。国籍はさて起き、それぞれ才能溢れる個性的なミュージシャンです。協働して素晴らしい音楽を生み出す歓喜も大きいでしょうが、嫉妬も葛藤も不可避です。そんな中、ニール・ヤングはグループから距離をおき、故郷に錦を飾るマッセイ・ホールでの単独公演です。

 自身で弾く生ギターとピアノのみを伴奏とする弾き語りで全18曲を歌います。この段階で発表されていたのは上記「デジャ・ヴ」収録の『ヘルプレス』等の8曲のみ。残りは全て未発表曲。故郷のファンの前で新曲を披露するのです。これは貴重です。この単独公演の13ヶ月後にリリースされる傑作「ハーヴェスト」に収録されることになる5つの曲の原型が聴けるのです。特に、後に全米1位になる『孤独の旅路』のピアノ弾き語りは必聴です。正に、マッセイ・ホールで、未来の名曲が現在進行形で鍛えられていた訳です。

 このライブ盤のもう一つの価値は、観客の反応をリアルに刻んでいる事です。歌詞の中に、“カナダ”とか “ノース・オンタリオ”とか出てくる箇所では、歓声があがります。曲の間で、観客に「カナダを出て5年になるけれど、戻って来れて嬉しい」と語りかける時には熱狂的な拍手が湧きます。また、アンコールを求める観客が足を踏み鳴らす音が迫力です。要するに、ニール・ヤングとカナダとの強い絆が克明に記録されています。

マッセイ・ホール略史

Hart Massey
Hart Massey

 今や、トロントは、ニューヨーク、ロサンゼルスに次ぐ北米3位の大都市です。そのトロントの象徴的な建物の一つがマッセイ・ホールです。その名は、カナダが誇る実業家ハート・マッセイに由来します。全カナダの60%のシェアを誇った農機具メーカー、マッセイ製作所の会長のトロント市民への贈り物とも言えます。鉄道王アンドリュー・カーネギーがカーネギー・ホールを完成したのが1891年ですが、その3年後の1894年に完成します。

 マッセイ製作所は、米国生まれの父ダニエル・マッセイがオンタリオ州ニュー・カッスルに創業した小さな会社でした。高校を卒業し、1851年にハートは父の会社に就職し、経営を学びます。1856年に父が他界すると、33歳のハートが会社を引き継ぎます。地元で会社の土台を固めます。

 1867年7月、大英帝国の自治領としてカナダが「建国」され、オンタリオ州は加速度的に発展します。1870年代になると、拡大著しいトロントにマッセイ製作所の拠点を移します。大きな決断でしたが、会社は順調に成長します。80年代に入ると、自社の農機具をアルゼンチン、オーストラリア、更には欧州各国へと輸出し始めます。

 そして、1884年、ハートは既に61歳で会社も順調です。引退の時と考え、商才溢れる息子のチャールズ36歳に会社を引き継ぐ準備を始めます。ところが、チャールズは腸チフスで急逝します。失意の中で、ハートはそれまで以上に経営に没頭し、同業のハリス社やパターソン・ウィンザー社等を吸収合併して、マッセイ製作所をカナダ最大の農機具メーカーに育てます。

 そして、功成り名を遂げたハート・マッセイは、息子チャールズが大変な音楽好きだったことから、チャールズ追悼の思いも込めて、コンサート・ホールの建設を決めます。コンセプトは、「宗教に関係なく、音楽を楽しみ、皆が集える場所とする」、それと、「入場料を低く設定し、コンサート・ホールを利潤追求の場としない」というものです。そして、コンサート・ホールの建物はネオ・クラシカルな意匠で、アルハンブラ宮殿がモデルとなっています。カナダが誇る建築家シドニー・バッジリーの代表作です。柿落としは、1894年6月14日、ヘンデルの「メサイヤ」でした。ハートは、マッセイ・ホール完成の1年8ヶ月後に他界。享年73歳でした。

21世紀、その先へ

 ハート・マッセイの思いが詰まったマッセイ・ホールは、素晴らしい音響と同時に、自由で多様性に満ち包摂的な街の個性と相まって、此処では、クラシックから、ジャズ、ロック、ブルース更には民族音楽に至るまで、実に多様で多彩なアーティストが公演を行っています。

 トロント・シンフォニー・オーケストラは、1906年の創設以来、1984年に新設のロイ・トンプソン・ホールに移るまで、ここマッセイ・ホールを拠点としていました。クラシック音楽では、ジョージ・ガーシュイン、マリア・カラス、グレン・グールド、ウラジミール・ホロヴィッツ、アルトゥーロ・トスカニーニ、ルチアーノ・パバロッティ等々。

 ロック・ポップならば、ボブ・ディラン、ビリー・ジョエル、ジャスティン・ビーバー、クリーム、ボブ・マーリー、ゴードン・ライトフット、ラッシュ等々。

 現在、マッセイ・ホールは、リノベーションの真っ最中です。ハートの思いは、世紀を跨ぎ、未来へと繋がっていきます。19世紀の最先端の建物が、その核を残しつつ、大胆に21世紀の最先端へと変貌を遂げつつあります。

 マッセイ・ホール、22世紀に残る古典の生まれる場所になるに違いありません。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「ポール・ブレイ」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第17回

 11月に入り、気温もぐっと下がって来ました。オタワでは氷点下に入り、体感温度は摂氏マイナス10度以下です。先日、1週間ほど、東京・大阪に出張しましたが、11月でも日中25℃を超える「夏日」で汗ばむ程でした。トロント経由でオタワ空港に降り立った時に大きな気候の差を実感しました。いよいよ、北の大地の本領が発揮される季節がやって来ました。

 今月は、ジャズ愛好家の知る人ぞ知るポール・ブレイです。モントリオール出身で、現代ジャズに大きな足跡を残し、2016年1月に83歳で他界しています。いわゆる大ヒット作がある訳ではありません。が、ポール・ブレイがいなかったら、ジャズ界の模様は随分と違ったものになっていたに違いありません。

はじめに

 ポール・ブレイの名が地元モントリオールの音楽愛好家に知られるようになった直接のきっかけは、1949年夏のことです。若干の背景を説明します。

 1949年、米国からJATP(Jazz At The Philharmonic)という一大ジャズ興行団がモントリオールを訪れます。ヴァーヴ・レコード総帥ノーマン・グランツがエラ・フィッツジェラルドやチャーリー・パーカーら錚々たるジャズ・ミュージシャンを率いての公演は、大盛況のうちに終わりました。翌日、ノーマン・グランツは、仕事に満足し、タクシーで空港に向かいます。すると、車中のカー・ラジオからはジャズ・ピアノが流れていました。グランツの耳がその素晴らしい音楽をキャッチします。思わず、「これは誰だ?」と尋ねます。たまたまこの運転手がジャズ好きでした。運転手が答えます。「オスカー・ピーターソンでさ、旦那。モントリオール最高のピアニスト、いや、カナダのナンバー1ピアノ弾きだと、おいらは思ってる」と。

「ほう。これは、レコードかい?」
「いや、実況生中継ですよ。旦那」
「何処で、やってるんだい?」
「ダウンタウンの『アルバータ・ラウンジ』というジャズ・クラブでさ」
「じゃあ、今から其処へ行ってくれ」
「旦那、空港に行くんじゃないですかい?」
「構わん。空港は忘れろ。とにかく、『アルバータ・ラウンジ』とやらへ急いでくれ」
「ヘイ」

 という経緯で、グランツは、モントリオール市街デ・ラ・ガウシェティエル通とピール通の角に所在していたジャズ・クラブ『アルバータ・ラウンジ』へ行きます。その段階では全く無名のオスカー・ピーターソンでしたが、グランツはピーターソンの演奏を目の前で聴き完全に魅了されます。演奏が終わると、グランツはピーターソンに語りかけます。「君は本当に素晴らしい。僕と契約して、ニューヨークで開催するコンサートに出演しないか?」

 そして、ピーターソンはニューヨークへ行き、1949年9月18日、カーネギー・ホールで鮮烈なデビューを飾ります。ジャズ史の最重要章の一つ、オスカー・ピーターソン創世記です。

 ここで、ポール・ブレイに戻ります。上述のとおり、オスカー・ピーターソンはラジオ番組の舞台でもある『アルバータ・ラウンジ』の主役だった訳ですが、ニューヨークに行く事になり、誰がピーターソンの抜けた穴を埋め得るのかが問題となる訳です。後に「鍵盤の帝王」の異名を授けられるピーターソンです。上記タクシー運転手のコメントにある通り無名時代から凄かった訳です。その後釜ですから、相当の達人でないと務まりません。其処で、ニューヨークに出発する24歳ピーターソンが直々に指名したのがポール・ブレイなのです。この時、ブレイは弱冠16歳。地元の名門マギル大学附属音楽院に通う俊英で、自らコンボを組んで演奏活動を行っていました。その巨大な才能がピーターソンには見えていたのでしょう。因みに、「音楽の楽園」第2回で紹介した通り、日本が誇る秋吉敏子を見出したのもピーターソンです。

神童

 ポール・ブレイは、1932年11月10日モントリオールに誕生します。出世時の名前は、ハイマン・ブレイでした。両親ともルーマニアからカナダに移民したユダヤ人。「屋根の上のヴァイオリン弾き」を彷彿させますが、5歳でヴァイオリンを習い始めたと云います。7歳の時に、両親が離婚。その頃、ポール自身の意思で、ヴァイオリンからピアノに転向し、本格的にレッスンを受け始めます。ピアノが生涯の楽器となった訳です。楽才は明らかで、11歳にして、マギル大学附属音楽院に入ります。13歳にして、ケベック州の避暑地サンタガテ・デ・モンで楽団を率いて演奏し、収入を得る程の早熟でした。この頃、ファースト・ネームをハイマンからポールに改名します。理由は、女子にモテそうだから、と云われています。が、自分自身のアイデンティティーへの屈折した思いもあったのかもしれません。

 そして、オスカー・ピーターソンに認められて、彼の後任として『アルバータ・ラウンジ』での活動が始まります。

ニューヨーク

 1950年夏、ポール・ブレイはニューヨークへ旅立ちます。ジュリアード音楽院への進学です。この時、17歳です。

 1950年代のニューヨークは、正に自由で多様な新しい音楽として加速度的に飛躍する時期です。ポール・ブレイは、この街のエネルギーと刺激を自らの音楽へと昇華していきます。21歳になって3週間後の1953年11月30日(月)、デビュー盤「イントロデューシング・ポール・ブレイ」を録音。ベースにチャールス・ミンガス、ドラムはアート・ブレイキーという巨人を従えて、1日で6曲を仕上げています。今、聴けば、革命的とまでは感じませんが、確かな技術に基づき、美しく冷涼なタッチで、若々しく、溌剌とした演奏が印象的です。自作曲が2曲で、作曲家としてのセンスも光ります。商業的には駄目でしたが、世界中から猛者の集まるジャズの都で、カナダ出身の若きピアニストの潜在力を見せつけました。

フリー・ジャズ創世記

 ポール・ブレイは、着実に力をつけ、米国ジャズ界での存在感を増していきます。1955年7月13日号のジャズ専門誌「ダウンビート」に掲載されている彼のインタビューは未来を予告しています。現代のジャズは、今、新たな革命の前夜である旨を述べています。その新たな革命とは後年「フリー・ジャズ」と呼ばれるジャズの潮流です。翌1956年には、ロサンゼルスへ拠点を移し、新しい五重奏団を立ち上げます。そのメンバーとは、サキソフォンにオーネット・コールマン、トランペットにドン・チェリー、ベースにチャーリー・ヘイデン、そしてドラムはビリー・ヒギンズです。ジャズ愛好家ならば、誰もが知るジャズ史に名を刻む錚々たる音楽家達です。オスカー・ピーターソンが若く無名のポール・ブレイに飛躍の機会を与えたように、ポール・ブレイは、1956年の段階で若く無名だが新しい音楽を築くのだという情熱に溢れる面々を見出した訳です。そして、1958年10月、ファビュラス・ポール・ブレイ・クインテット名義で「ライブ・アット・ヒルクレスト・クラブ1958」を実況録音。ライブ故に真の実力が露わです。圧倒的な熱量を今に伝えています。

疾風怒濤

 ポール・ブレイは、ジャズ界きっての鬼才として、縦横無尽に活躍します。1962〜63年、代表作「フットルース!」を録音します。ポール自身は決して政治的人間ではありませんでしたが、この音盤は、米国の繁栄と冷戦と公民権運動が彩る時代の雰囲気を反映しているように感じます。ピアノ・トリオの表現領域を大きく拡げた傑作で、大きな影響を残しました。キース・ジャレットは「何千回も聴いた」と語っています。チック・コリアが1971年に発表した音盤「A.R.C.」の原風景がここにあります。

 そして、1960年代は芸術も社会も疾風怒濤の時代です。新しく自由な音楽であるジャズも2つの面で大きく変貌を遂げます。一つは、既存の音楽的枠組みや和音の概念を超える「フリー・ジャズ」の勃興です。正に、ポール・ブレイが予告した通りです。しかも、彼が見出した、オーネット・コールマンやドン・チェリーが時代を牽引します。

 もう一つが、シンセサイザー等の電子楽器の登場です。ビートルズ、ピンク・フロイド、エマーソン・レイク&パーマーら英国ロック勢が実験的に導入します。一方、ポール・ブレイはジャズ界の先頭に立って、シンセサイザーを全面的に活用します。史上初めて、観客の前でシンセサイザーを演奏した音楽家こそポール・ブレイです。1971年発表の「ザ・ポール・ブレイ・シンセサイザー・ショー」は、過去と現在と未来が溶け込んだ傑作。ポール・ブレイの前衛であろうとする明快な意思が清々しく感じられます。

ジャコとパット

 最後に、触れたいのは、明白楽、未知の才能の発見者としてのポール・ブレイの功績です。それは、現代ジャズを築いた音楽家としてジャズ史に刻まれるエレキ・ベースの巨人ジャコ・パストリアスとギターの巨匠パット・メセニーに初めて録音の機会を与えたのがポール・ブレイだということです。

 時は1974年6月16日(日)、場所はニューヨークはマンハッタン区ソーホーのグリーン・ストリート29番地。ポール・ブレイが主催するIAI(Improvising Artists Inc.)レコードへの録音です。タイトルは「ジャコ」。ポール自身がプロデュースし、エレキ・ピアノでも参加しています。ポールの信頼厚いブルース・ディトマスがドラム。23歳のジャコと19歳のパットが初めてその巨大な才能を音盤に刻むのです。ジャコとパットを鼓舞し、挑発するポールのエレキ・ピアノは刺激的で若々しいです(実はこの時41歳)。全9曲、36分37秒に及ぶ高純度の即興演奏。現代ジャズの歴史的瞬間と言って良いでしょう。聴く度に新たな発見のある名盤です。が、実は、この音盤は当初全く商業ベースに乗らず、お蔵入りしていました。

 ところが、1976年になって、ジャコがスーパー・グループ、ウェザー・リポートに参加し、その革命的かつ驚異的なベースに世の注目が集まります。パットもゲイリー・バートン楽団に入ると同時にソロ・デビュー盤をリリースして新しきギター・ヒーローとして認知度が上がります。すると、この2人が全く無名だった頃、鬼才ポール・ブレイの四重奏団で録音していた事が関係者の間で話題となり、お蔵入りだった音盤「ジャコ」がリリースされます。虚飾を剥いだ、現代ジャズの真髄が真空パックされています。

結語

 ポールの活動の主たる場は常に米国でした。ですが、ニューヨークでジャズ・ミュージシャンとして独り立ちをしてからも、機会を見つけては、カナダに戻り、後進の指導に当たっていたと云います。1953年には、モントリオール・ジャズ・ワークショップの組織化に尽力しました。ビバップの創始者としてジャズ史に刻まれるアルト・サキソフォンの天才チャーリー・パーカーをモントリオールに招き、自らもピアノで参加しています。

 米国を拠点にジャズの歴史をつくったポール・ブレイ。自宅は、ニューヨーク、ロサンゼルスでした。83歳で他界したのもフロリダでした。が、彼はカナダ国籍を保持し続けていました。カナダが誇る音楽家です。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

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