「ポール・ブレイ」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第17回

 11月に入り、気温もぐっと下がって来ました。オタワでは氷点下に入り、体感温度は摂氏マイナス10度以下です。先日、1週間ほど、東京・大阪に出張しましたが、11月でも日中25℃を超える「夏日」で汗ばむ程でした。トロント経由でオタワ空港に降り立った時に大きな気候の差を実感しました。いよいよ、北の大地の本領が発揮される季節がやって来ました。

 今月は、ジャズ愛好家の知る人ぞ知るポール・ブレイです。モントリオール出身で、現代ジャズに大きな足跡を残し、2016年1月に83歳で他界しています。いわゆる大ヒット作がある訳ではありません。が、ポール・ブレイがいなかったら、ジャズ界の模様は随分と違ったものになっていたに違いありません。

はじめに

 ポール・ブレイの名が地元モントリオールの音楽愛好家に知られるようになった直接のきっかけは、1949年夏のことです。若干の背景を説明します。

 1949年、米国からJATP(Jazz At The Philharmonic)という一大ジャズ興行団がモントリオールを訪れます。ヴァーヴ・レコード総帥ノーマン・グランツがエラ・フィッツジェラルドやチャーリー・パーカーら錚々たるジャズ・ミュージシャンを率いての公演は、大盛況のうちに終わりました。翌日、ノーマン・グランツは、仕事に満足し、タクシーで空港に向かいます。すると、車中のカー・ラジオからはジャズ・ピアノが流れていました。グランツの耳がその素晴らしい音楽をキャッチします。思わず、「これは誰だ?」と尋ねます。たまたまこの運転手がジャズ好きでした。運転手が答えます。「オスカー・ピーターソンでさ、旦那。モントリオール最高のピアニスト、いや、カナダのナンバー1ピアノ弾きだと、おいらは思ってる」と。

「ほう。これは、レコードかい?」
「いや、実況生中継ですよ。旦那」
「何処で、やってるんだい?」
「ダウンタウンの『アルバータ・ラウンジ』というジャズ・クラブでさ」
「じゃあ、今から其処へ行ってくれ」
「旦那、空港に行くんじゃないですかい?」
「構わん。空港は忘れろ。とにかく、『アルバータ・ラウンジ』とやらへ急いでくれ」
「ヘイ」

 という経緯で、グランツは、モントリオール市街デ・ラ・ガウシェティエル通とピール通の角に所在していたジャズ・クラブ『アルバータ・ラウンジ』へ行きます。その段階では全く無名のオスカー・ピーターソンでしたが、グランツはピーターソンの演奏を目の前で聴き完全に魅了されます。演奏が終わると、グランツはピーターソンに語りかけます。「君は本当に素晴らしい。僕と契約して、ニューヨークで開催するコンサートに出演しないか?」

 そして、ピーターソンはニューヨークへ行き、1949年9月18日、カーネギー・ホールで鮮烈なデビューを飾ります。ジャズ史の最重要章の一つ、オスカー・ピーターソン創世記です。

 ここで、ポール・ブレイに戻ります。上述のとおり、オスカー・ピーターソンはラジオ番組の舞台でもある『アルバータ・ラウンジ』の主役だった訳ですが、ニューヨークに行く事になり、誰がピーターソンの抜けた穴を埋め得るのかが問題となる訳です。後に「鍵盤の帝王」の異名を授けられるピーターソンです。上記タクシー運転手のコメントにある通り無名時代から凄かった訳です。その後釜ですから、相当の達人でないと務まりません。其処で、ニューヨークに出発する24歳ピーターソンが直々に指名したのがポール・ブレイなのです。この時、ブレイは弱冠16歳。地元の名門マギル大学附属音楽院に通う俊英で、自らコンボを組んで演奏活動を行っていました。その巨大な才能がピーターソンには見えていたのでしょう。因みに、「音楽の楽園」第2回で紹介した通り、日本が誇る秋吉敏子を見出したのもピーターソンです。

神童

 ポール・ブレイは、1932年11月10日モントリオールに誕生します。出世時の名前は、ハイマン・ブレイでした。両親ともルーマニアからカナダに移民したユダヤ人。「屋根の上のヴァイオリン弾き」を彷彿させますが、5歳でヴァイオリンを習い始めたと云います。7歳の時に、両親が離婚。その頃、ポール自身の意思で、ヴァイオリンからピアノに転向し、本格的にレッスンを受け始めます。ピアノが生涯の楽器となった訳です。楽才は明らかで、11歳にして、マギル大学附属音楽院に入ります。13歳にして、ケベック州の避暑地サンタガテ・デ・モンで楽団を率いて演奏し、収入を得る程の早熟でした。この頃、ファースト・ネームをハイマンからポールに改名します。理由は、女子にモテそうだから、と云われています。が、自分自身のアイデンティティーへの屈折した思いもあったのかもしれません。

 そして、オスカー・ピーターソンに認められて、彼の後任として『アルバータ・ラウンジ』での活動が始まります。

ニューヨーク

 1950年夏、ポール・ブレイはニューヨークへ旅立ちます。ジュリアード音楽院への進学です。この時、17歳です。

 1950年代のニューヨークは、正に自由で多様な新しい音楽として加速度的に飛躍する時期です。ポール・ブレイは、この街のエネルギーと刺激を自らの音楽へと昇華していきます。21歳になって3週間後の1953年11月30日(月)、デビュー盤「イントロデューシング・ポール・ブレイ」を録音。ベースにチャールス・ミンガス、ドラムはアート・ブレイキーという巨人を従えて、1日で6曲を仕上げています。今、聴けば、革命的とまでは感じませんが、確かな技術に基づき、美しく冷涼なタッチで、若々しく、溌剌とした演奏が印象的です。自作曲が2曲で、作曲家としてのセンスも光ります。商業的には駄目でしたが、世界中から猛者の集まるジャズの都で、カナダ出身の若きピアニストの潜在力を見せつけました。

フリー・ジャズ創世記

 ポール・ブレイは、着実に力をつけ、米国ジャズ界での存在感を増していきます。1955年7月13日号のジャズ専門誌「ダウンビート」に掲載されている彼のインタビューは未来を予告しています。現代のジャズは、今、新たな革命の前夜である旨を述べています。その新たな革命とは後年「フリー・ジャズ」と呼ばれるジャズの潮流です。翌1956年には、ロサンゼルスへ拠点を移し、新しい五重奏団を立ち上げます。そのメンバーとは、サキソフォンにオーネット・コールマン、トランペットにドン・チェリー、ベースにチャーリー・ヘイデン、そしてドラムはビリー・ヒギンズです。ジャズ愛好家ならば、誰もが知るジャズ史に名を刻む錚々たる音楽家達です。オスカー・ピーターソンが若く無名のポール・ブレイに飛躍の機会を与えたように、ポール・ブレイは、1956年の段階で若く無名だが新しい音楽を築くのだという情熱に溢れる面々を見出した訳です。そして、1958年10月、ファビュラス・ポール・ブレイ・クインテット名義で「ライブ・アット・ヒルクレスト・クラブ1958」を実況録音。ライブ故に真の実力が露わです。圧倒的な熱量を今に伝えています。

疾風怒濤

 ポール・ブレイは、ジャズ界きっての鬼才として、縦横無尽に活躍します。1962〜63年、代表作「フットルース!」を録音します。ポール自身は決して政治的人間ではありませんでしたが、この音盤は、米国の繁栄と冷戦と公民権運動が彩る時代の雰囲気を反映しているように感じます。ピアノ・トリオの表現領域を大きく拡げた傑作で、大きな影響を残しました。キース・ジャレットは「何千回も聴いた」と語っています。チック・コリアが1971年に発表した音盤「A.R.C.」の原風景がここにあります。

 そして、1960年代は芸術も社会も疾風怒濤の時代です。新しく自由な音楽であるジャズも2つの面で大きく変貌を遂げます。一つは、既存の音楽的枠組みや和音の概念を超える「フリー・ジャズ」の勃興です。正に、ポール・ブレイが予告した通りです。しかも、彼が見出した、オーネット・コールマンやドン・チェリーが時代を牽引します。

 もう一つが、シンセサイザー等の電子楽器の登場です。ビートルズ、ピンク・フロイド、エマーソン・レイク&パーマーら英国ロック勢が実験的に導入します。一方、ポール・ブレイはジャズ界の先頭に立って、シンセサイザーを全面的に活用します。史上初めて、観客の前でシンセサイザーを演奏した音楽家こそポール・ブレイです。1971年発表の「ザ・ポール・ブレイ・シンセサイザー・ショー」は、過去と現在と未来が溶け込んだ傑作。ポール・ブレイの前衛であろうとする明快な意思が清々しく感じられます。

ジャコとパット

 最後に、触れたいのは、明白楽、未知の才能の発見者としてのポール・ブレイの功績です。それは、現代ジャズを築いた音楽家としてジャズ史に刻まれるエレキ・ベースの巨人ジャコ・パストリアスとギターの巨匠パット・メセニーに初めて録音の機会を与えたのがポール・ブレイだということです。

 時は1974年6月16日(日)、場所はニューヨークはマンハッタン区ソーホーのグリーン・ストリート29番地。ポール・ブレイが主催するIAI(Improvising Artists Inc.)レコードへの録音です。タイトルは「ジャコ」。ポール自身がプロデュースし、エレキ・ピアノでも参加しています。ポールの信頼厚いブルース・ディトマスがドラム。23歳のジャコと19歳のパットが初めてその巨大な才能を音盤に刻むのです。ジャコとパットを鼓舞し、挑発するポールのエレキ・ピアノは刺激的で若々しいです(実はこの時41歳)。全9曲、36分37秒に及ぶ高純度の即興演奏。現代ジャズの歴史的瞬間と言って良いでしょう。聴く度に新たな発見のある名盤です。が、実は、この音盤は当初全く商業ベースに乗らず、お蔵入りしていました。

 ところが、1976年になって、ジャコがスーパー・グループ、ウェザー・リポートに参加し、その革命的かつ驚異的なベースに世の注目が集まります。パットもゲイリー・バートン楽団に入ると同時にソロ・デビュー盤をリリースして新しきギター・ヒーローとして認知度が上がります。すると、この2人が全く無名だった頃、鬼才ポール・ブレイの四重奏団で録音していた事が関係者の間で話題となり、お蔵入りだった音盤「ジャコ」がリリースされます。虚飾を剥いだ、現代ジャズの真髄が真空パックされています。

結語

 ポールの活動の主たる場は常に米国でした。ですが、ニューヨークでジャズ・ミュージシャンとして独り立ちをしてからも、機会を見つけては、カナダに戻り、後進の指導に当たっていたと云います。1953年には、モントリオール・ジャズ・ワークショップの組織化に尽力しました。ビバップの創始者としてジャズ史に刻まれるアルト・サキソフォンの天才チャーリー・パーカーをモントリオールに招き、自らもピアノで参加しています。

 米国を拠点にジャズの歴史をつくったポール・ブレイ。自宅は、ニューヨーク、ロサンゼルスでした。83歳で他界したのもフロリダでした。が、彼はカナダ国籍を保持し続けていました。カナダが誇る音楽家です。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身