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山野内勘二

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「ブライアン・アダムス」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第16回

 10月も下旬に差し掛かり、オタワは晩秋です。紅葉もピークを過ぎ、葉が落ちて来ました。夏の間は、市街地の至る所に見かけた自転車愛好家も随分と減りました。いよいよ冬が近づいて来ました。という訳で、今月はホットな気分になるべく、今もバリバリ現役のブライアン・アダムスです。

はじめに

 ブライアン・アダムスは、1959年生まれで、今年64歳。ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」には、リンゴ・スターが歌った「When I’m Sixty-Four」という隠れた名曲があります。そこでは、64歳は、髪も薄くなり、草むしりをし、孫と戯れる老人を象徴する年齢として描かれています。実際、世の中には、そんな方々は大勢いらっしゃると思います。が、ブライアン・アダムスは、そんなイメージを微塵も感じさせません。若々しく、エネルギーに満ちています。

 最新盤「ソー・ハッピー・イット・ハーツ」は、新型コロナの真っ最中に制作を始められました。感染爆発の難しい環境下でしたが、しっかり完成させ、22年3月に発表されました。全12曲、39分のロック&ポップは、親しみやすく、ポジティブな極上の時間です。何とも言っても、ブライアンの声が健在なのが嬉しいです。少々ザラついたハスキーさは、低音から高音域まで芯が強く、正確な音程です。ブライアン・アダムスを聴くと、感動の正体とは、旋律、歌詞、アレンジ、歌唱力、そして声の5つが完璧に溶け合って最大化された音楽の力なのだと気付きます。決して、奇を衒った事はしてません。シンプルです。かつて、アインシュタインが「真理は単純にして美しい」と言ったことを思い出す程です。

外交官の息子

 ブライアン・アダムスは、成功したアーティストの例に漏れず、活動の拠点は米国ですが、カナダで生まれ育ち、カナダで芽が出て、カナダで研磨されたアーティストです。そして、移民国家カナダならではの家庭環境が彼を生み出しました。

 まず、ブライアンの両親は、1950年代に英国プリマスからカナダに移住しました。父コナルド・J・アダムスは、英陸軍士官学校出身の将校で、カナダ移住後にまずカナダ陸軍に入り、国連PKO監視員を務めた後に、カナダ外務省に移り、外交官として活躍した人物です。そんな両親の下、ブライアンは、1969年11月5日にオンタリオ州キングストンで生まれます。

 そして、外交官の息子ブライアンは、幼少期にはリスボン、ウィーン、テルアヴィヴ、ロンドンで暮らします。各地のインターナショナル・スクールで多感な時期を過ごします。知らず知らずのうちに、誰もが違う面を持ち、多様な価値がある事を受け入れるようになっていたことでしょう。中学生になる頃にオタワに戻ります。その頃までには、ブライアン少年は完全に音楽の虜となっています。ディープ・パープル、CCR、レッド・ツェッペリン、Tレックス、エルトン・ジョン、そしてハンブル・パイといった1970年代初頭のロックの王道を聴き倒します。

 初めてエレキ・ギターを買ったのは、ロンドン近郊のレディングで1970年の事です。フェンダー・ストラトキャスターのコピー・モデルでイタリア製だったといいます。本物のストラトは11歳の少年にとっては高嶺の花ですが、ディープ・パープルの核リッチー・ブラックモアの大ファンとしては、アームを使ったトレモロ奏法に憧れたのだと思います。そして、2台目のエレキ・ギターは、12歳の時に、オタワの廉価ショップで購入したレスポールのイミテーション・モデルです。或るインタヴューで「その頃、ハンブル・パイの『ロッキン・ザ・フィルモア』にのめり込んでいた。このバンドの2人のギタリスト、スティーブ・マリオットとピーター・フランプトンは両者ともギブソン製レスポールを弾いていたので、レス・ポール・モデルが欲しくてたまらなかった」と述べています。 1971年当時のオタワは、カナダ建国100年を超えて、首都機能を充実させていました。各国大使館があり、国際色豊かではあっても、ロック少年にとっては退屈な街だったでしょう。それでも、ブライアン少年は中学生にしてロック・ミュージックへの情熱が半端なく燃え盛る訳です。

プロへの目覚め〜バンクーバー時代

 転機は、1974年にやって来ます。父がオタワの外務省から在外勤務へ転勤することになります。世界中の外交官は、本省と在外公館とを往復する生活を送っている訳ですが、家族には家族の様々な事情もあります。この時のアダムス家は、父親が単身赴任して、母とブライアン少年そして弟ブルースの3人はノース・バンクーバーへ引っ越します。ブライアン少年は、芸術系も充実しているアーガイル高校へ入学します。ここまでは、何処にでもある話です。

 翌年1975年、ブライアン少年は高校を中退します。音楽活動に専念する訳です。「ショック」という名のバンドを結成。両親が将来の大学進学に備えて蓄えていた教育資金を切り崩し、グランド・ピアノを購入します。投資と言えば投資ではあります。但し、将来に対する何の保証も無い訳です。ブライアン少年には、どんな未来の自分の姿が見えていたのでしょうか?軍人から外交官に転じた父は、息子の青春をどんな思いで見ていたのでしょうか?とても興味深いところです。ロック・ミュージックへの熱い思いのみで高校中退してからビルボード誌チャート上位に喰い込む1983年1月に至るまでの7年余は、1人の音楽少年が世界に羽ばたくまでの青春の物語です。地図のない旅路と言えるでしょう。

 さて、音楽の道を歩み始めたブライアン少年ですが、極めて限られた収入しか無い訳です。生活費を賄うために、ペット・フード販売等々のアルバイトに精を出さざるを得ない時期もあったといいます。それも16歳の少年にとっては楽しき日常生活の冒険だったのかもしれません。その頃、地元バンクーバーのプロ・バンド「スゥイニー・トッド」のリード・ヴォーカルに迎えられます。そして、「ロキシー・ローラー」というシングル盤をリリース。1976年9月18日付ビルボード誌トップ100チャートの99位にランクインします。快挙です。普段は、バンクーバーの下町のパブ等で演奏しているローカル・バンドです。この曲の成功で、ブライアンを擁するスゥイニー・トッドは、カナダ版グラミーとも言うべきジュノー賞の最優秀新人バンド賞に輝きます。17歳の誕生日を前に、輝かしい未来の一端が垣間見えたに違いありません。

 そして、1978年1月、バンクーバーでの運命的な出会いが起こります。18歳のブライアンは、ダウンタウンの「ロング&マッケード楽器店」で、たまたま遭遇した友人からジム・ヴァランスという人物を紹介されます。ジムは、当時25歳。作曲家にして「プリズム」というカナダ全土で人気のあったバンドのドラム奏者でした。別のバンドに属していましたが、2人は意気投合します。ジムこそ、ブライアン・アダムスの眠れる才能を開花させるのです。

 初めて、ジムの自宅スタジオを訪れたブライアンは、2人でジャム・セッションをした際の、ジムの力量に舌を巻きます。ドラムを録音し、その上にベースを重ねるだけで、音楽の骨格が浮かび上がるのです。一方、ジムは、ブライアンの歌と曲づくりのセンスに脱帽します。2人は、作詞作曲のチームを結成します。ジョン・レノンとポール・マッカートニーの出会いを彷彿させます。数学では1+1=2ですが、音楽は1+1>2になり得ます。時には、10にも100にもなります。ブライアンとジムには無尽蔵の曲想が湧きます。ジムの人脈で、レコード会社とソング・ライティングの契約を結びます。頂上への第1歩です。キッス、ティナ・ターナー、ジョー・コッカー、カーリー・サイモン、ニール・ヤング、ボブ・ウェルチ等々への楽曲を提供です。これが起点となって、遂に、A&Mレコードとアーティスト契約を結びます。A&Mと言えば、カーペンターズやジョージ・ベンソン等を擁するメジャーの一角です。但し、契約額は1ドルでしたが。それでも、無名の19歳の視野に未来が入って来た瞬間です。

離陸と雌伏

 1979年11月、ブライアンとジムは、バンクーバーとトロントのスタジオでブライアンのデビュー・アルバムの録音に取り組みます。ジムは、ドラム、ベース、キーボード、ギターを弾き、プロデュースも担当。八面六臂でブライアンを支えます。ゲスト・ギタリストにドゥービー・ブラザーズで名を馳せたジェフ・バクスターも名を連ねます。僅か1か月足らずで全9曲、収録時間31分11秒の音盤を完成させます。遂に、1980年2月「ブライアン・アダムス」がリリースされました。ジャケットも熱いです。シングル・カットされた「愛の隠れ家」はビルボード誌チャートで43位まで上がります。が、セールスも批評も芳しくありませんでした。

 この時、ブライアンは弱冠20歳。ともかくメジャーのA&Mからデビューです。ビルボード誌にもチャート・イン。デビュー盤を引っ提げてカナダ各地で公演して回ります。勿論、まだまだ知名度は低く、スタジアムではなく繁華街のクラブ等のドサ回りです。それでも、このカナダ国内ツアーがブライアンを鍛え抜きます。

 翌81年7月、第2弾音盤「ユー・ワント・イット、ユー・ガット・イット」を発表します。デビュー盤が多重録音に頼り過ぎた点を反省して、ケベック州モリン・ハイツのスタジオ・ライブの形式で録音されました。ブライアン・アダムスの特徴である臨場感たっぷりの音楽に仕上がります。が、またしてもセールス面では惨敗です。

 メジャー・デビューを飾ったものの、21歳のブライアン、そしてチーム・メイトのジムは、確実にロックとポップの核心に迫っているものの、未だ世界の聴衆を掴み切れていません。世界中の才能が覇権を目指し集う北米マーケットの競争は苛烈を極めます。ブライアン、雌伏の時代です。そんなブライアンを励まし育んだのはカナダの大地と其処に住む人々です。

成功

 1982年8月、ブライアンは、彼の音楽的原点であるバンクーバーで新作に取り組みます。エアロスミスやボン・ジョヴィ、AC/DCらも録音した西海岸最高峰のリトル・マウンテン・サウンド・スタジオで3か月間に渡り、録音。10月には、ニューヨークのパワー・ステーション・スタジオにて最終的なミックス・ダウンが行われました。ジャケット・デザインもちょっとアイドル然とした戦略的ポップ路線です。そして、83年1月、第3弾音盤「カッツ・ライク・ナイフ」がリリースされます。ビルボード誌アルバム・チャート8位、カナダのRMP誌アルバム・チャート8位と大成功です。そして、翌84年「レックレス」は、米・加・NZのチャート首位、全世界で1200万枚を売り上げます。シングル・カットされた6曲が全てビルボード誌チャートの15位以内に入ったのは、マイケル・ジャクソン「スリラー」、ブルース・スプリングスティーン「ボーン・イン・ザ・USA」に匹敵します。

 この後は、現代ロック・ポップの歴史です。

結語

 ロックの世界で走り続けるのは、飛び抜けた才能、強固な意志、健康の3拍子が揃った上で、聴衆の支持が不可欠です。ブライアン・アダムスにはそれらが揃っています。ブロードウェイ・ミュージカル「プリティ・ウーマン」も制作。創造力は留まるところを知りません。これまでの大ヒット曲を改めて録音した「クラシック」とその第2弾「クラシック・パート2」も発表しました。ロック・フレイバー溢れるジャケット写真は、ブライアン自身の撮影です。改めて、40年に及び発表して来た楽曲の素晴らしさを実感します。

 カナダの生んだ生けるレジェンドです。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「パーシー・フェイス」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第15回

はじめに

 音楽ファンの皆様、カナダ好きの皆様、こんにちは。

 9月も下旬になると、ここオタワでは街中でも紅葉が始まり、随分と秋めいて来ました。一方、山火事は今もって収まっておらず、地球温暖化と大自然の猛威を実感します。安全確保の観点から避難された方々もいらっしゃると思います。お見舞い申し上げます。

 さて、今月はイージー・リスニングの王者、パーシー・フェイスです。1908年4月、トロントのユダヤ系家庭に8人兄弟姉妹の長男として生まれたカナダ人です。米国を拠点に大成功。日本でも人気を博し、1966年以降、自らのオーケストラを率いて来日すること5回。最晩年の1975年の来日コンサートも大盛況でした。

 パーシー・フェイスと言えば、「夏の日の恋」にトドメを刺します。1960年2月22日から9週間連続でビルボード誌ホット100首位に君臨。年間チャートでも首位です。歌のないイージー・リスニングのレコードがこれだけ大ヒットするのは異例のことで、翌61年にはグラミー賞ソング・オブ・ザ・イヤーを獲得しました。これも空前絶後です。元々は59年に公開されたデルマー・デイヴィス監督・製作・脚本の映画「避暑地の出来事」のために映画音楽の巨匠マックス・スタイナーが書いた曲です。要するにパーシー・フェイスは、この映画音楽をカヴァーしたのです。が、楽曲の真髄を浮かび上がらせるフェイスの編曲の賜物で、オリジナルを遥かに超え人々に愛されています。控えめながらキレのあるリズム、ストリングスの主旋律とハーモニーに副旋律の絶妙のバランス、管楽器の効果的な導入。音楽を知り尽くした采配です。既に60年以上前の曲ですが、全く古さを感じさせません。ティム・バートン監督の「バットマン」でもジャック・ニコルソン扮するジョーカーとキム・ベイジンガー扮する写真家ヴィッキー・ベールが美術館で会う場面で、モーツァルト、プリンスの曲の後で非常に効果的に流れていました。

 そんなパーシー・フェイスには、非常に示唆に富む人生の岐路がありました。

神童?

 成功した音楽家であれば誰でも、神童で圧倒的な才能を示す逸話が残っています。フェイスの場合は、7歳でヴァイオリンを習い始めます。音楽とは無縁の家柄でしたが、母親ミニーの強い勧めだったと言います。実は、瞬く間に上達した訳ではありません。ヴァイオリンにはフレットが無いので、左手の指で押さえる場所が1mm違うだけで音程がずれてしまいます。フェイスは左手の運指が不得手でした。ヴァイオリン弾きにとっては致命傷です。しかも肩と首で楽器を支えるのも苦手、その上、弓に塗る松脂の匂いが大嫌いだったそうです。それで、ヴァイオリンは3年足らずで辞めて、ピアノを始めます。ヴァイオリンの運指は不得手でも、ピアノの鍵盤は正確に押さえることが出来てメキメキ上達します。12歳になるとトロントの映画館でピアノ伴奏の仕事を始めたと云います。

 若干の補足をすれば、1920年当時の映画は無声映画。映像だけで、音はありません。故に、映像に合わせて弁士がストーリーを語り、伴奏者が音楽を奏でていた訳です。映画音楽のスコアを読み込んで即座に弾く必要があるので、読譜力は勿論、弁士の語るリズムに合わせる即興力も求められます。何よりも観客を前に弾く訳ですから良き音楽武者修行でもありました。

 そして、14歳でトロント音楽院(現在のRoyal Conservatory of Music)に入学。グレン・グールドの先輩に当たります。フェイス少年の楽才は一気に開花します。1923年、15歳にして、トロント最高の劇場、客席数3,500のマッセイ・ホールにデビューします。敢えて言えば、ニューヨークのカーネギー・ホールのトロント版でしょうか。演目はフランツ・リスト作曲のピアノと管弦楽のための「ハンガリー幻想曲」です。オーケストラとの共演、しかも超絶技巧による派手なパッセージが随所に登場する難曲です。フェイス少年には、コンサート・ピアニストとしての輝かしい未来が待っていました。

塞翁が馬

 ところが、好事魔多し。事故が起きます。

 1926年4月7日のフェイス18歳の誕生日を過ぎた或る日、両親と他の兄弟姉妹は外出していて、フェイスは3歳の妹ガートルードと二人で自宅にいました。ガートルードは何にでも興味を示す年頃、手当たり次第に物をいじり、マッチに手を出し遊んでいました。と、マッチの火が彼女の服に引火して瞬く間に燃え上がりました。恐れ慄き悲鳴をあげるガートルード。フェイスは、愛妹に駆け寄り、とにかく火を消し止めます。素手のまま服の炎と闘ったのです。幸い、ガートルードは火傷しましたが、無事でした。フェイスはと言えば、両手に大火傷を負い、9ヵ月間に渡り両手に包帯が巻かれ続けました。この間、ピアノを弾くことは出来ません。母親とピアノ教師は、神童フェイスのピアニストとしての輝かしい未来に危険信号が灯ったと大変に懸念しました。

 この時期のフェイス自身の心象風景は、想像するしかありません。ピアニストにとって最重要な左右10本の指に大火傷を負い、9ヵ月余に渡りピアノを弾けない状況が続いた事は18歳のフェイスにとって人生最大の関門だったでしょう。ピアノの神童だったが故に、ピアニストとしての道を断念せざるを得ない事実を誰よりも知悉していたに違いありません。落胆しなかった訳がありません。ですが、この時期、フェイスには違う未来が見え始めたのです。ピアノを弾けないので、頭の中で、音楽を鳴らして作編曲をする。自分が構想した音楽が実際にオーケストラの演奏で確認する事の喜びに目覚めるのです。トロント音楽院では、和声学、作曲法の講義を受け、より広い視野で音楽に向き合い、ピアノを超えて、新しい響きを探究する事にのめり込むフェイスです。火傷によって、新しい道が開けたのです。正に「人間、塞翁が馬」です。

編曲家・指揮者への道

 トロント音楽院で、編曲家そして作曲家としてのフェイスの眠っていた才能が一気に開花します。19歳にして、ファイスは地元ラジオ局の音楽番組「シンプソンズ・オペラ・ハウス」の編曲家兼指揮者に抜擢されます。そして、1933年、24歳の時に、CBC(日本のNHKに相当するカナダ放送協会)が放送する音楽番組で編曲と指揮を担当します。

 この時代、ラジオは世の中の最先端メディアです。フランクリン・ルーズベルト大統領が炉辺談話で国民に語りかけていたのも想起されます。そんなラジオ放送で、音楽番組はエンタテインメントの花形です。が、未だ、録音技術も発展途上ですから全て生放送。正確な時間管理と高水準の演奏が求められます。同時に、聴取者の好みをきちんと把握する事が不可欠です。フェイスは、この点においても優れていました。12歳の頃から、劇場でサイレント映画の伴奏をやっていたので、人々が音楽に求める核を察知する本能が進化したに違いありません。フェイスが編曲・指揮する番組は大変好評を博します。

 1938年には番組名に彼自身の名前を冠した「ミュージック・バイ・フェイス」が始まります。この番組は、米国でも放送され、パーシー・フェイスの名前は米国の音楽ファンの間にも浸透して行きます。そして、1940年、32歳となったフェイスは生まれ育ち音楽活動の拠点として来たトロントを旅立って、シカゴに移住。3大ネットワークの一角NBCラジオの看板音楽番組「カーネーション・コンテンティッド・アワー」の音楽監督となります。瞬く間にフェイス流の編曲は米国の聴衆をも魅了し、3大ネットワークの最右翼CBSの番組からも音楽監督として招かれます。

 そして1950年、CBS系のコロンビア・レコードの専属編曲家・指揮者に就任します。音楽を聴く手段として、公演を除けば、ラジオが圧倒的な地位を占めていた時代が終わり、レコード市場が拡大し、個人個人が好みに合わせてレコードを購入する時代が始まる頃です。パーシー・フェイス・オーケストラを編成し、多くのヒット曲をカヴァーしてイージー・リスニングの名盤を生みます。と同時に、トニー・ベネットやドリス・デイらの楽曲の編曲を担当し、自ら伴奏のオーケストラを指揮。また、音楽プロデューサーとしても八面六臂の大活躍をします。

カナダへの回帰と遺産

 フェイスの音楽家としての成功は圧倒的です。ビルボード誌ホット200チャートに21枚ものアルバムを送り込み、グラミー賞も「夏の日の恋」と「ロミオとジュリエット〜愛のテーマ」で2度受賞しています。世界のエンタテインメント産業の中心地ロサンゼルス・ハリウッドが拠点ですし、国籍も米国籍を取得しています。

 しかし、パーシー・フェイスはカナダ出身者としての極めて強固なアイデンティティを持ち続けた“カナダ人”でした。幼少期からの記憶、サイレント映画伴奏、神童、大火傷、そして編曲家・指揮者へと人生の旅路の骨格は全てトロントで出来上がった訳です。米国での成功の後もフェイスは頻繁にカナダを訪れています。

 晩年には、トロント大学音楽学部に寄付をして、優位な人材を発見し、鍛錬し、機会を与えるべくパーシー・フェイス音楽賞を設立。故国カナダへの恩返しでしょうか。

 1976年2月、癌を患い67歳で逝きました。終の住処はロサンゼルス、エンシノでした。60年代以降の音楽の進化は凄まじく、フェイスが試みたかった事、やり残した事はいっぱいあったかもしれません。それでも、12歳でサイレント映画のピアノ伴奏を始めて以来半世紀を超える音楽人生は素晴らしいの一言です。「グレーテスト・ヒット」のジャケット・デザインの好好爺とした笑顔が音楽に満ちた充実した人生の旅路を物語っています。

 パーシー・フェイス、カナダが生んだ世界に誇る音楽家です。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「ダイアナ・クラール」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第14回

 音楽ファンの皆様、カナダ・ファンの皆様、こんにちは。

 8月も後半に入って来て空を見上げれば、入道雲のみならず鱗雲も目に入って来ます。朝夕には微妙に涼し過ぎる日もあります。夏の向こう側に秋が迫ってる感じもします。

 そんな8月の夕暮れ時に聴くのは、元気いっぱいのロック・ミュージックよりもしっとりとした味わいのジャズでしょう。で、カナダとジャズと言えば、何と言っても、オスカー・ピーターソンです。が、今回は、ピーターソンの孫弟子とも言えるダイアナ・クラールです。

カナダの歌姫

 ダイアナ・クラールは、カナダが生んだ最高峰の歌姫にしてピアニストです。が、ダイアナの凄さは、世界のジャズの歴史の中でも際立っています。例えば、ビルボード誌ジャズ・チャート初登場1位を獲得したアルバムの最多記録保持者です。その数、8枚。「ホエン・アイ・ルック・イン・ユア・アイズ」を筆頭に5度のグラミー受賞。圧倒的です。こんなジャズ・アーティストは、他にはいません。話題性や販売戦略を超えた実力の成せる業です。勿論、音楽性や芸術的価値とヒット・チャートに現れる商業的成功は同じではありません。が、数字は嘘をつきません。

 かつて、エイブラハム・リンカーン大統領は「全ての人を一時的に騙すことは出来る。一部の人を永遠に騙すことも出来る。しかし、全ての人を永遠に騙すことは出来ない」と述べて、国民の良識に対する絶対的な信頼を明らかにしました。流石リンカーン、現在、民主主義社会が直面する偽情報の問題に対して示唆に富む指摘です。

 話をダイアナに戻すと、8枚もの音盤を初登場1位にする音楽家は、単に時流に乗ったとか、運が良かったという次元ではなく「本物」だという事です。

 ダイアナの来歴もまた「本物」に相応しい物語に満ちています。

十歳で神童、十五歳で才人

 ダイアナは、1964年11月、ブリティッシュ・コロンビア州ナナイモに誕生します。父ジェームスは会計士でピアノを弾き、母アデラは小学校教諭で地元の合唱団メンバーという音楽一家でした。そんな家庭環境でしたから、4歳でピアノを弾き始めます。家のラジオで、ナット・キング・コール、ビル・エヴァンス、フランク・シナトラを聴いて育ちます。地元の高校に入ると学生ジャズ楽団のピアニストとして活躍。やがて、ナナイモのレストランでピアノを弾いてギャラを得るようになります。15歳にして、立派なプロのラウンジ・ピアニストです。

 17歳の時、バンクーバー・ジャズ・フェスティバルに出演。関係者は、ダイアナのピアノに非凡な才を直感します。カナダ社会の素晴らしい点は、音楽であれスポーツであれ学術であれ、才能の原石には機会が与えられて然るべきという理念が実践されている事です。ダイアナは、ジャズ・ピアノを本格的に学ぶための奨学金を得て、1981年、ボストンの名門バークリー音楽院に入学します。同級生には、小曽根真がいました。

 そして、1983年、バークリーを卒業します。ここまでは、一見順風満帆です。が、真の才能が開花するためには試練の時が必要です。

二十歳を過ぎれば只の人?

 ダイアナは、卒業するとナナイモに戻ります。この時、19歳。地元で地道に音楽活動を続けます。必ずしも、スポット・ライトの当たる場所ではありません。人口約10万人の地方都市のジャズ・ピアニストです。

 一方、同級生の小曽根は、首席で卒業。翌年には、大手ソニー・レコードからデビュー盤をリリース。同時に、巨匠ゲイリー・バートンの楽団のピアニストとして世の注目を浴びていきます。

 当時のダイアナの心中を知る由もありません。が、BC州の天才少女といえども、世界中から「我こそは」という猛者の卵達が集まるバークリーでは、直ぐにメジャー・デビューという訳には行かなかった訳です。世の天才・鬼才等を目の当たりにしたダイアナ。19歳で卒業ですから「飛び級」と言えます。それでも、大きな野心は挫かれたのかもしれません。

 考えてみれば、ダイアナにとって、バークリーの日々は、井の中の蛙が大海を知る千歳一隅の機会になったに違いありません。或るインタビューで、「マコト(小曽根真)のピアノを聴いた瞬間に、彼には叶わないと思った」と語っていました。

 卒業に際して、苦い思いもあったのかもしれませんが、バークリーは彼女の序章を彩ったのだと思います。そして、ここからダイアナ・クラールの本当の物語が始まります。

オスカー・ピーターソンの孫弟子へ

 芸術の世界でもスポーツの世界でも、飛び抜けた才能の原石は、如何に優れていても、眼力のある師に発見され磨かれるまでは、石でしかありません。BC州ナナイモに戻った若きダイアナも、原石のままでした。

 やがて、運命の出会いが訪れます。その前に、若干の注釈です。

 このコラムの冒頭で、カナダとジャズと云えばオスカー・ピーターソンだと書きましたが、更に続ければ、オスカー・ピーターソンの真骨頂はピアノ・トリオです。ピアノ+ドラム+ベースが生むメロディーとリズムとハーモニーが世界を魅了した訳です。鍵盤の帝王オスカー・ピーターソンの面目躍如ですが、極論すれば、最大の功績は実はベース奏者、レイ・ブラウンにあります。ブラウンのベースが和音とハーモニーの土台を的確に支えることで、オスカー・ピーターソンの左手がより自由に活躍出来るようになり、右手がますます流麗になり大きな成功をつかんだ訳です。ピアノ・トリオの名盤中の名盤「プリーズ・リクエスト」がレイ・ブラウンの勇姿を伝えています。ピーターソンの同志であり、数多くのジャズ・ベーシストが目標とするジャズ史に残る名手です。

 話をダイアナに戻します。1986年の事です。レイ・ブラウンがナナイモのとあるクラブでダイアナ・クラールの演奏を目にします。ジャズ史に刻まれる名手が、どんな経緯で片田舎ナナイモでダイアナを聴くことになったかは分からないのですが、おそらく、素晴らしいピアニストがいるとの噂がブラウンの耳に入ったのだと推察します。

 レイ・ブラウンは、ダイアナの演奏を聴くと非凡な才を見抜きます。あのオスカー・ピーターソンとほぼ半世紀にわたりトリオを組み、それ以外にもデューク・エリントン、ディジー・ガレスピー、ミルト・ジャクソン等々ジャズの巨人達と共演して来たレイ・ブラウンです。厳しい審美眼と耳を持っている訳ですから、他の人には見えないし聴こえないサムシングが分かったのでしょう。ナナイモを出てロサンゼルスに来て、更に研鑽を積むようにダイアナに勧めます。

 これを受け、ダイアナは思い悩み逡巡したようです。が、最後はジャズの巨人の強力な説得により、ロサンゼルス行きを決意します。この時も、カナダ芸術財団から奨学金を得ています。ここにもカナダの懐の深さが見えます。

 ロサンゼルスでの研鑽は3年に及びます。ダイアナは、ここで多くの貴重なエッセンスを学びます。まず、ジャズ・ピアノの奥義です。単なるテクニックではありません。それなら、若くして獲得していたのですから。ブルース・フィーリングの奥に在る本質。無限にある音の組み合わせから、これだという響きを瞬時に探り出す直感です。次に、歌です。ロサンゼルスで、ダイアナはピアニストから、ピアニスト兼シンガーへと脱皮します。実は、師レイ・ブラウンは、史上最高のジャズ・シンガー、エラ・フィッツジェラルドの夫でもありました。歌についてのAからZまで知悉しています。そのブラウンが、ダイアナの声の力を解き放ったのです。そして、ロサンゼルスは、世界のエンタテインメント産業の中心ハリウッドを擁しています。ここで、酢いも甘いも学ぶのです。

 そして、1990年、ダイアナは満を持してニューヨークに進出します。と言え、世界中から才能が集まり覇を競う街です。競争は苛烈を極めます。運と実力だけがモノを言います。ニューヨークを拠点に、ボストンやトロントでも演奏し歌も本格的に歌い始めます。

デビュー・アルバム

 昔、旺文社の大学受験ラジオ講座というのがありました。数学Iを担当されてたのが、東北大学助教授の勝浦捨蔵先生で、講義の前に必ず「継続は力なり」と仰ってました。正に、ダイアナの場合も、継続は力になります。バークリー卒業から9年を経た1992年10月18日と19日、自らの音盤録音の機会を得ます。ダイアナの28歳の誕生日の4週間前です。ハリウッドの録音スタジオに参集したのは、レイ・ブラウン門下の優れ者、ジョン・クレイトン(ベース)とジェフ・ハミルトン(ドラム)ら。ダイアナのピアノと歌を完璧にサポートします。2日間で12曲を仕上げます。

 が、問題は、この録音をどこのレコード会社からリリースするかです。エンタテインメント産業は、言わば究極の水商売です。慈善事業ではないので、売れる見込みがなければ、お蔵入りするだけです。残念ながら、大手のレコード会社は関心を示しませんでした。厳しい現実です。が、ここで、もう一つの幸運な出会いがあります。

 1983年、カナダはケベック州モントリオールでジャズとブルースに特化した新興独立レーベルが設立されたのです。「ジャスティン・タイム・レコード」で、カナダ人アーティストを世に出す事に注力します。ダイアナ・クラールのデビュー盤「ステッピング・アウト」は、遂にこの新興レーベルからリリースされます。大きな一歩です。ジャケット・デザインは初々しいダイアナの写真です。一方、デザインに色気が無いというか素人とくさいというか低予算という印象で、ほぼ自費出版のような感じです。はっきり言って、売れそうな予感はありません。が、ライナー・ノートは御大レイ・ブラウン自身が執筆。実際に聴けば、肝心の音は、高純度・高品質です。究極のピアノ弾き語り。ダイアナの歌は黒いです。芯が強く張りのある声です。話すように歌います。歌の根幹は、低音から高音域まで、正確な音程。でも、語尾は戦略的にズラして、聴く者の胸を掻きむしります。まるで黒人歌手が歌ってるようです。歌の後には、極上のピアノ・ソロが続きます。歌とピアノが完全に一体となって、ジャズの王道を行きます。

 セールス面では、この段階では、埋もれました。が、師ブラウンの推しもあって、ロサンゼルスの業界関係者がこの音盤を耳にします。

運命の扉〜トミー・リピューマ

 音楽制作の現場の主役は勿論、歌手であり演奏家ですし、作詞・作曲・編曲が作品の質を決めます。が、アーティストやアルバムの成功の鍵を握るのは、プロデューサーです。ビートルズを育てたのがサー・ジョージ・マーチンであり、ホイットニー・ヒューストンを育てたのがクライブ・デイビスという立志伝中のプロデューサーである事は、良く知られています。

 そこでダイアナの場合です。売れる予感のなかった新興独立レーベルからリリースしたデビュー盤をジャズ・フュージョンの大物プロデューサー、トミー・リピューマが聴いたことで、事態が急展開します。リピューマは、マイルス・デイヴィス、ジョージ・ベンソン、ポール・マッカートニーらの音盤を制作して来た人物です。YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)を世界に紹介した事でも知られています。そのリピューマがダイアナに未来の大器を見出します。と、1994年9月13〜16日の4日間、ニューヨークの超名門スタジオ「パワーステーション」で2枚目のアルバム「オンリー・トラスト・ユア・ハート」を録音。プロデューサーはかのトミー・リピューマで、メジャーのGRPレーベルからリリースです。残念ながら、この音盤はチャート入りはしませんでした。が、リピューマの確信は揺らぎません。

 翌95年10月、3枚目「オール・フォー・ユー〜ナット・キング・コール・トリオに捧ぐ」を録音。結構、地味なアルバムですが、ジャケットを見れば明らかなとおり、メジャー・レーベルの香りがしますし、聴いてみたくなります。96年3月にリリースされると、70週間もの間、チャートに留まり、グラミー賞候補になります。

 この後は、現代ジャズ・シンガーの歴史そのものです。最新作「ドリーム・オブ・ユー」は、成熟したピアノとボーカルで、リスナーを極上の時間に誘います。

カナダの誇り

 BC州ナナイモの天才少女を鍛えたのは、ボストンのバークリー音楽院であり、ロサンゼルスはハリウッドであり、ジャズの都ニューヨークです。彼女の才能を見出したレイ・ブラウンもトミー・リピューマも米国人です。が、カナダは2つの奨学金でダイアナに勇躍外へ出て行く機会を与えました。もしも、この奨学金が無かったとしたら、彼女の人生は相当異なったものになっていた可能性は否定できません。

 カナダ発の素晴らしい技術や発明やアーティストが、米国で大輪の花を開かせる事は少なくありません。市場規模でカナダの10倍、世界最大のマーケットですから、自然な帰結とも言えます。いずれにせよ、現代ジャズの歴史に大きな足跡を刻むダイアナ・クラールは、カナダの誇りです。同時に、大きな成功は簡単にはやって来ませんが、継続が力であり、素晴らしい人々の出会いこそが鍵だと、ダイアナの音盤が語りかけて来るようです。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「ザ・バンド」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第13回

 音楽ファン、カナダ・ファンの皆様、こんにちは。

 7月も下旬、オタワの盛夏です。暑過ぎず、湿度もほどほどで快適な夏です。空は何処までも青く、白い雲も芸術作品のようです。こんな夏なら永遠に続いて欲しいと思います。今、この瞬間は、全く秋の気配はありませんが、オタワの夏は短いのが現実です。

 さて、今月は「ザ・バンド」です。昨年7月から「音楽の楽園〜もう一つのカナダ」の連載を始めさせて頂きましたが、この機会を待っていました。と言うのも、ザ・バンドは単にカナダの出身という事だけではなく、是非とも語りたい事が多いのです。そもそも、5人の不動のメンバーのうち、事実上のリーダー、ロビー・ロバートソンを含め4人はカナダ人ですが、要のドラム兼ボーカル、リヴォン・ヘルムは米国はアーカンソー州出身です。ザ・バンドは、その優れた演奏能力でボブ・ディランのバックアップ・バンドとして、ロック史の重要局面の渦中にいました。独立してからは、米国を拠点に活動します。それでも、いや、それだからこそ、カナダ人としてのアイデンティティを強く意識していたようです。カナダの歴史を正面から捉えて直裁に歌っている歌があるのです。

 ザ・バンド最後期の『Northern Light – Southern Cross(南十字星)』というアルバムの4曲目「Acadian Driftwood(アカディアの流木)」という曲です。ほとんどのロック・バンド、いや全てのポピュラー・ミュージックはラブ・ソングに尽きると云っても過言ではない中、ザ・バンドは歴史に題材を求めていて異彩を放っています。初めて聴いたのは、この音盤がリリースされて2年後で、僕は大学1年生でした。生ギターの美しいイントロが印象に残る佳曲で直ぐ好きになりました。実は、日本盤よりも安い輸入盤を買って聴いていたので、歌詞カードは無く、何を歌っているのか分かってませんでした。Acadian driftwood and gypsy tailwind というフレーズとメロディーから、夢敗れた男が故郷を思う歌だと思い込んでいました。そして、40年余を経て、カナダに住み、1754年のフレンチ・インディアン戦争、アブラハム平原の戦いやアカディア人追放、1763年のパリ条約等々カナダの歴史を知った上でこの曲を聴くと、全く別次元の感動と感慨があります。ジャン・クレティエン元首相を公邸の夕食会にお招きし、政治や外交、更には歴史の話題で大いに盛り上がった際に、この曲をかけました。元首相は目を閉じて真剣に聴いておられた姿を印象深く憶えています。

 それでは、ザ・バンドの世界に参りましょう。

トロントの神童

 どんな物語にも始まりがあります。ザ・バンドは5人編成ですから、結成以前に其々のメンバーの人生がある訳です。5人とも優れた音楽家ですが、まず、ギタリストにして作詞作曲、プロデューサー、事実上のリーダーであるロビー・ロバートソンから。1943年7月生まれで、トロント出身です。父はユダヤ人でプロのギャンブラー。母はモホーク族インディアンです。ロバートソンが幼かった頃、父は交通事故(轢き逃げ)で他界。貧しい家庭環境で育ったと云います。が、母の実家のあるトロント郊外のシックス・ネーションズ保護区を頻繁に訪れていて、そこで7歳の頃、年長の従兄弟からギターの手解きを受けます。と、瞬く間に上達。13歳にして、プロとして活動し始めます。14歳で「ロビー&リズム・コーズ」という自らのバンドを結成します。その後、離合集散を経て「ザ・スエーズ」に発展し、活動を本格化させます。神童の面目躍如です。

運命の扉

 1959年10月5日、運命の邂逅が扉を開きます。経緯はこうです。

 この日、ロバートソン率いるザ・スエーズはCHUMという地元ラジオ局が運営するクラブに出演します。と、そこで彼らの演奏を観ていたのがロカビリー歌手ロニー・ホーキンスだったのです。ホーキンスは、米国南部アーカーソン州を拠点に活動し、全米ポップ・チャート26位のヒット曲もある実力者です。トリビアですが、ホーキンスは、マイケル・ジャクソンの“ムーンウォーク”の30年以上前に、“キャメル・ウォーク”と当時呼ばれたマイケルの元になったステージ・パフォーマンスを行っています。そんなホーキンスですが、米国でのロカビリー人気が下火になったため、バックバンド「ホークス」を引き連れ、1959年春に拠点をトロントに移します。

 ホーキンスの狙いどおり、カナダでは大人気を博しますが、米国南部から来たメンバー達は、なかなかトロントの生活に馴染めず、ドラムのリヴォン・ヘルムを除いて帰郷してしまいます。困ったホーキンスは、新たに「ホークス」の面子のリクルートに乗り出します。そこで、白羽の矢が当たったのが弱冠16歳のロビー・ロバートソンでした。最初の一音を聴いて「天才だ!」と分ったと云います。

 この後、別々の地元バンドで活動していたベースのリック・ダンコ、ピアノのリチャード・マニエル、そしてオルガン及びサキソフォン担当のガース・ハドソンが順次「ホークス」に参加して来ます。ホーキンスには若き才能を見抜く眼力があった訳です。ここで、ハドソンについて一言。ザ・バンド5人は全員が様々な楽器をこなす楽才溢れる優れた演奏家ですが、正規の音楽教育を受けている唯一のメンバーがハドソンです。ウエスタン・オンタリオ大・音楽学部でバッハの教会音楽と平均律を専攻。但し、クラッシック音楽を窮屈に感じ、ドロップアウトしています。土臭いブルースに洗練さを与え、シンセサイザーも弾き熟す熟練のミュージシャンです。ここに、ザ・バンド不動の5人が揃います。

祭の準備

 ロビー・ロバートソン、リヴォン・ヘルム、リック・ダンコ、リチャード・マニエル、そしてガース・ハドソンの5人は、ロニー・ホーキンス&ホークスとしてトロントを拠点に活動を続けます。筋金入りのパフォーマー、ホーキンスのバックで演奏することで、プロの演奏家として徹底的に鍛えあげられます。そして、実力をつけたホークスの5人は、永遠にバックバンドの地位に甘んじる気は無く、いつかは陽の当たる場所に出るという野望を持っていました。青は藍より出て藍より青し、です。1963年末をもって、ホークスは独立します。

 1964年、最年長にして歌も歌えるドラマーに敬意を表し、バンド名は「リヴォン&ザ・ホークス」として活動を開始します。準大手アトランティック・レコード傘下のATCOレーベルと契約し、シングル盤をリリースし、カナダと米国をツアーします。但し、ヒットとは無縁。演奏家として高水準ではあるものの、地道に活動する日々が続きます。が、何事においても継続は力です。倦むこと無く音楽をし続ける中で次に繋がる出会いがあります。ブルース歌手兼ハーモニカ奏者ソニー・ボーイ・ウィリアムソンとの共演は、真のブルースへの覚醒でした。そして、1965年、遂にボブ・ディランと出会います。

邂逅〜飛躍

 1965年は、ロック・ミュージックが単なる娯楽の音楽から前衛芸術の域に達する重要な年です。この年、ビートルズは傑作「イエスタデイ」を含む音盤『ヘルプ』、そしてサイケデリック・サウンドの嚆矢となる『ラバーソウル』をリリースします。ボブ・ディランは、生ギターの弾き語りで反戦歌を唄うフォーク・シンガーから脱皮し、エレキ・ギター、オルガン、ベース、ドラムスを導入。65年8月、代表曲「ライク・ア・ローリング・ストーン」を収録した『追憶のハイウェイ61』を発表します。反戦フォークの雄がロックンローラーに豹変したと大きな話題になります。

 そして、ディランは1965年秋から66年にかけて全米ツアーそして全英ツアーを企画します。そこで、バックバンドが必要になる訳ですが、ディランの友人らがトロントに素晴らしいバンドがいる旨助言します。そこで、実際にディランはリヴォン&ザ・ホークスを聴きに来ます。そこで、ギタリストのロバートソンを雇おうとします。が、ロバートソンは、自分を雇うならば、ダンコ、マニエル、ハドソンを含めたリヴォン&ザ・ホークスの5人全員を雇うよう要求します。全く無名のロバートソン22歳とスーパースター・ディランの折衝です。ディランは、ロバートソンのギターに惚れ込んでいましたし、信頼出来る人物だと得心しました。此処には、若き音楽家の友情と音楽的同志の矜持が滲んでいます。ディランは、5人全員をバックバンドに採用。「ボブ・ディラン&ザ・バンド」名義で、1965年9月から66年5月にかけてコンサート・ツアーに出ます。

 いく先々で、ディランは毀誉褒貶に晒されます。特に、伝統的フォーク・ファンや音楽評論家は、ディランは魂を売ったと酷評します。1966年5月17日、英国はマンチェスターでの公演では、聴衆から「お前はユダ(裏切り者)だと」とのヤジが起こり、場内が騒然とする中、ディランは「君こそ嘘つきだ」と言い返し、バンドメンバーに「Play it fucking loud (とびっきりの大音量で行こう)」と声をかけて「ライク・ア・ローリング・ストーン」を演奏します。この場面は、巨匠マーチン・スコセッジ監督のドキュメンタリー映画「ノー・ディレクション・ホーム」に克明に記録されています。いずれにしても、斬新な事を始めれば、批判はつきものです。が、聴衆は電化したディランを愛し、評価します。結果、『追憶のハイウェイ61』は全米アルバムチャート3位、全英4位と大成功します。ディランを支えたザ・バンドについても音楽関係者の評価は大いに高まります。

 しかし、好事魔多し、です。

ザ・ビッグ・ピンクと地下室

 1966年7月29日、全英ツアーを成功裡に終えて帰国した直後です。ディランはオートバイ事故で九死に一生の大怪我を負います。予定されていたコンサート・ツアーは全てキャンセル。ニューヨーク州北部のウッドストックの山奥で静養する隠遁生活に入ります。一方、ザ・バンドはと云えば、正にロック・ミュージックの一大変革期の最前線を体験し、いよいよ羽ばたく矢先でしたが、仕事が無くなりました。

 そして、1967年春、ディランの大怪我も癒えて来ます。ザ・バンドのメンバーにディランから声が掛かり、ウッドストックのディランの自宅に参集し、一緒に演奏するのです。正式なレコーディングでも公演でもありません。自分達で純粋に音を楽しむのです。何と優雅な。或いは、中学時代にバンドを結成し友人宅の居間でギターを弾いた時の歓喜というべきでしょうか。彼らは、弾き慣れたディランの曲だけでなく、古いブルースやザ・バンドのメンバーが書いた新曲等も試します。やがて、創作意欲に火がつきます。

 ザ・バンドのメンバーは、ディランの家から数キロ離れたソーガティー町に一軒家を借りて、そこから、ほぼ毎日ディランの家に通いました。その家の壁は桃色に塗られていて一際目立っていたので、彼らは“ビッグ・ピンク”と呼びます。そして、その地下室が手作りのスタジオへと変貌しました。

 ディランとザ・バンドの面々は、このビッグ・ピンクの地下室でセッションを繰り返します。リラックスした雰囲気で、気ままに演奏します。テープは回しっぱなしです。1967年6月から9月にかけて断続的に合計130曲以上が録音されます。創作のためのデモ録音で、音盤リリースを想定していた訳ではありません。が、コアなファンはその録音テープの存在を知るに至ります。交通事故後、公の場に全く姿を現さぬディランが最も信頼するザ・バンドと一緒に繰り広げる極私的な演奏です。その海賊盤が出回ります。それを聴いた音楽ファンは密度の濃い演奏に感銘を受けます。ディランは既にスーパースターでしたが、知名度の低いザ・バンドはここで評価を高めます。トリビアですが、この海賊盤は、1975年になって『Basement Tapes(地下室)』との標題で公式にリリースされます。更に、2014年には、全139曲収録のCD6枚組ボックス・セットが出ました。ディラン&ザ・バンドの輝きを真空パックする名盤です。で、話を戻します。

 翌1968年、ザ・バンドは遂にメジャー・デビューを果たします。『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』です。タイトル通り、あの地下室で生まれた音楽。ディランの全面的サポートで完成します。下手上手的ジャケット・デザインはディラン。映画「イージー・ライダー」の挿入歌として有名になりザ・バンドの代表曲の一つ「アイ・シャル・ビー・リリースト」はディランが作詞作曲しバンドに提供した曲です。この音盤は、ロック、ジャズ、ブルース、カントリー等々が溶け合った古くて新しい音楽です。サイケデリックに疲れた人々に素朴な音楽の美しさを示しました。ビートルズやエリック・クラプトンはじめ多くの同時代のミュージシャンに影響を与えたと言われています。ザ・バンドの栄光の日々が始まります。

完結〜ラスト・ワルツ

 1970年1月12日付タイム誌の表紙を飾ります。音楽を超えた社会的意義があった証です。米国を拠点に大成功します。上述のとおりカナダの原点とも言える出来事を「アカディアの流木」という一編の佳曲に綴っています。極論すれば、ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローの詩「エヴァンジェリン〜アカディアの恋物語」に匹敵する作品です。ザ・バンドは紛れもなくカナダのバンドです。

 ザ・バンドは1960〜70年代のロック・ミュージック黄金時代の最重要チャプターの一角を占めます。が、物語には終わりがあります。1976年11月25日(木)、ザ・バンドは『ザ・ラスト・ワルツ』と銘打った解散コンサートをサンフランシスコのウインターランド劇場で敢行します。此処には、ロニー・ホーキンス、ボブ・ディランを筆頭にザ・バンドが関わった多数のミュージシャンがゲスト参加。勿論、ジョニ・ミッチェル、ニール・ヤングらカナダ勢も駆けつけます。そして、マーチン・スコセッジ監督がこのコンサートを軸にザ・バンドの来歴を辿ったドキュメンタリー映画「ラスト・ワルツ」を制作。音楽ファン必見で、同名のサウンドトラック盤も必聴です。カナダが生んだ凄い連中です。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「モントリオール・ジャズ・フェス」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第12回

 音楽ファンの皆様、カナダ・ファンの皆様、こんにちは。

 6月も中旬になりますと、オタワは盛夏です。陽光に溢れた午後、青い空に直線にひかれた白い飛行機雲を見上げると、実に爽やかな気分になります。そして、夏の季節は、様々なフェスティバルが随所で開催されます。音楽イベントも盛り沢山です。

 そこで、今回は、モントリオール国際ジャズ・フェスティバルです。歴史と文化を誇るモントリオールの街の力量が全開し、北米のみならず世界から音楽愛好家が押し寄せています。今や、世界最大のジャズ・フェスとしてジャズ愛好家の垂涎の的です。

 まず、ここに至る経緯を簡単に見てみましょう。

ジャズ略史

 ジャズは、20世紀初頭にニューオリンズで生まれた新しい音楽です。そのエッセンスは、欧州の古典音楽や教会音楽、アフリカのリズム、黒人霊歌のブルースの絶妙な融合です。元来、亜熱帯の開放的な土地柄に自由な雰囲気が相まって、英国とフランス等ヨーロッパの伝統・文化、アフリカ由来の奴隷の歴史、アメリカの土着的要素が溶け合います。恐るべき吸収力で多様な要素を取り込み音楽的発展を遂げ、現代の音楽の主流となります。第2次世界大戦を経て、ジャズは世界中に拡がりました。今や、ジャズ的な要素の無い音楽を探すことは出来ない程です。

 夏ともなれば、世界中で、ジャズ・フェスが開催されていますが、その嚆矢はニューポート・ジャズ・フェスです。1954年以来、毎年7月東海岸ロードアイランド州の港街ニューポートで開催されている野外コンサート。「真夏の夜のジャズ」には1958年の公演が活写されています。ジャズは、音楽だけでなく、ファッションもライフスタイルとしても時代の最先端であることを証明しました。カナダが生んだトランペットの雄メイナード・ファーガソンも出演し傑作ライブ盤をリリースしています。

 ジャズの強力な波は欧州にも伝播します。ニューポートから13年後の1967年には、スイスのレマン湖畔の街モントルーでもジャズ・フェスが始まります。湖畔の古城のジャケットで有名なビル・エバンスのライブ盤が象徴的です。渡辺貞夫や村上ポンタら日本人の猛者も出演しています。モントルー自体はレマン湖の東端に位置する人口2万3千人の小さなリゾート・タウンですが、毎年7月にはジャズ・フェスを開催。今や、モントルーと言えば、ジャズ・フェスという程、定着し世界中から一流の演奏家が集い、観客も詰めかけます。

 そして、ジャズの波は遂にカナダにも押し寄せます。モントルーから13年後の1980年、遂に、モントリオールにてジャズ・フェスの誕生です。主催者は、実業家アラン・シマール。1950年モントリオール生まれで、音楽・映画・演劇のプロモーターとして頭角を顕わし始めた俊英30歳。大規模ジャズ・フェス実現のために協賛企業を募り、市当局と折衝して何とか実現に漕ぎ付けました。

創世記〜モントリオール・ジャズ・フェスティバル

 まずは、1980年5月10日の土曜日の夜です。「第1回モントリオール・ジャズ・フェスティバル」のプレ・イベントとして「Living Legend of the Blues」がモントリオール大学スポーツ・センターで開催されました。このセンターは、76年のモントリオール五輪のフェンシング会場にもなった由緒ある場所。ここに、B.B.キング、ジョン・リー・フッカー、マディ・ウォーターズといったブルースの生ける伝説が参集したのです。何故、ジャズ・フェスのプレ・イベントがブルースなのか?と疑問が湧くかもしれません。上述のとおり、ジャズは若い音楽で現在進行形で進化を遂げています。が、ジャズの核心にはブルースがあるのです。ハ長調で言えば、ドレミファソラシドの3番目と7番目の音を半音フラットさせる事で生まれる独特の感覚です。ジャズとブルースは同根です。主催者はその事を熟知していたのです。ジャズ・フェスの前哨戦としてこれに勝る企画は無かったでしょう。

 そして、本番の第1回モントリオール・ジャズ・フェスは、7月2日(水)午後8時から1967年のモントリオール万博の会場だったプレ・ドゥ・ナショナルでのレイ・チャールズ公演で幕を開けました。レイ・チャールズは「わが心のジョージア」や「アンチェイン・マイ・ハート」等のポピュラー音楽でのヒット曲を誇ります。が、同時に、盲目ながらピアノの名手でもあります。巨匠ミルト・ジャクソンとの共演盤「ソウル・ブラザーズ」はジャズ・ファン必聴です。歌って良しピアノも良し、ソウルもポップもジャズも良し。真のマルチ・タレントの巨人が最初のパフォーマーだった事は、モントリオール・ジャズ・フェスのその後の発展を予言するものでした。

 週末の日曜日(7月6日)は、チック・コリアとゲイリー・バートンの二重奏です。ピアノとヴィブラフォンが溶け合い完全に一体化する魔法の響き。現代ジャズの傑作「クリスタル・サイレンス」を生んだ2人の登場は、モントリオール・ジャズ・フェスが第1回にして時代の最先端を紹介する密度の濃い本物のジャズ・フェスだと証明しました。

 最終日7月10日(木)、地元モントリオール出身のピアニストにして作曲家ヴィック・ヴォーゲル率いるビッグ・バンドが、第1回フェスの締め括りとして登場しました。グローバルな知名度はさて置き、ジャズの祖国アメリカからの大物出演者に引けを取らぬ熱演はカナダの誇りです。ヴィックは、モントリオール・ジャズ・フェスの常連となって、ソロからビッグ・バンドまで多彩なフォーマットでほぼ毎年し出演することになります。

 9日間にわたる第1回モントリオール・ジャズ・フェスは大成功のうちに終わり、次回以降、大きく発展していきます。

成長と拡大

 世界を舞台に活躍するジャズ・ミュージシャンは、公演、新作の準備、レコーディング等々とても多忙に日々を過ごしています。即ち、ジャズ・フェス主催者側からすれば、どれだけ素晴らしいアーティストを呼べるかが、ジャズ・フェスの価値を決める訳です。モントリオール・ジャズ・フェスは、出演者の質と量が年々高まって行きます。マイルス・デイビス、ハービー・ハンコック、キース・ジャレット、アート・ブレイキー、パット・メセニー、ウェザー・リポート、アル・ディ・メオラはじめ、オスカー・ピーターソン、ギル・エバンズらカナダ勢も揃って、ジャズの百科全書とも云うべき錚々たる音楽家達です。カナダの歌姫にしてピアノの名手ダイアナ・クラールも常連です。アレサ・フランクリンやアントニオ・カルロス・ジョビンらも出演し、狭義のジャズに捉われない、カナダならではの包摂的なジャズ・フェスを実現しています。勿論、日本勢もです。秋吉敏子、渡辺貞夫、川崎燎、小曽根真、高瀬アキ、上原ひろみ、碓井雅史らが出演しています。

世界最大のジャズ・フェス

 そして、2004年、モントリオール国際ジャズ・フェスティバルは、ギネス公認の世界最大のジャズ・フェスとなりました。毎年、世界30ヵ国から合計3000人ものアーティストが参加します。モントリオール市内20箇所の会場で、大小合わせて650公演が行われます。そのうち450は屋外の特設ステージでの無料コンサートです。記者証を持つジャーナリスト約300人も来訪して取材。世界中に記事が配信されます。聴衆はのべ200万人を超えると見積もられています。

 毎年6月末から7月上旬の11日間、会場が集中するモントリオール市街の中心部は交通規制が行われ歩行者天国となります。ケベック州最大の観光資源にして、ジャズ・フェスを目当てに海外から15万人の観光客が来訪して7千万ドル以上の経済効果があると言われています。歴史の豊かなモントリオールの街の魅力とジャズの求心力の賜物です。

名盤・名演〜ライブ・イン・モントリオール

 既に43年の歴史を持つモントリオール・ジャズ・フェスで録音され世に出た音盤は沢山ありますが、4つの名盤・名演を紹介します。

 まず、帝王マイルス・デイビスです。1983年7月7日の公演の全貌が昨年リリースされたボックス盤「That’s What Happened 1982-1985」で初めて陽の目を見ました。完全に電化され、ファンクとロックが同居する最先端のジャズがここにあります。かつて、クール・ジャズを創始し、モード奏法をも生み出した鬼才は、幾度もその時代の主流スタイルを壊して前進し、次の時代の主流を創って来ました。リズムの洪水の中に未来のジャズが浮かび上がります。

 次に、2004年 7月10日のオスカー・ピーターソンの演奏は圧巻です。1925年12月生まれで、この時は78歳。実は1993年に脳梗塞で倒れピアノ演奏は絶望的と言われましたが、懸命のリハビリで復活を遂げたのでした。後遺症で左手はあまり使えませんが、流麗な右手が繰り出す歌心溢れるブルースは、高速フレーズからバラードまで、胸に沁みます。音楽の女神に愛されたジャズの偉人の勇姿は必見です。YouTubeでどうぞ。

 現代の巨匠パット・メセニーもモントリオール・フェスの常連。1989年は、7月4日にパット・メセニー・グループとして演奏し、その翌日5日は、ジャック・ディジョネット、チャーリー・ヘイデンとのトリオで出演。3人の濃密な演奏は、最高峰の演奏家の間でのみ成立する音楽的コミュニケーションの極致です。ジャズの本質が即興にある事を改めて実感させます。

 そして、上原ひろみ。中米コロンビアが生んだハープの鬼才エドマール・カスタネーダとの二重奏で出演した2017年6月30日の録音。明るく華やいだ色彩の音盤ジャケットが示唆するように、心優しく希望を喚起する響きが全編を覆います。たった2人の演奏と思いきや、活力溢れるリズムと多彩な音色の中に鮮やかなハーモニーと旋律が舞い、ビッグ・バンドに負けない豊かな響きを生み出しています。ジャズとも呼べますが、ひろみ流の現代音楽がここに展開しています。

結語

 今年のモントリオール・ジャズ・フェスは、6月29日(木)から 7月8日(日)までの11日間です。ダイアナ・クラール、ハービー・ハンコックの超有名アーティスト、更にはスナーキー・パピー、ゴーゴー・ペンギン、エズラ・コレクティブ等々の現代ジャズを切り拓いている若手バンドも来訪します。ジャズ色に染まるモントリオールは、音楽の楽園そのものですね。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「国立芸術センター管弦楽団」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第11回

 皆様こんにちは。5月の声を聞き、オタワに遅い春が来たと思ったら、あっという間に初夏に突入したような今日この頃です。チューリップ・フェスティバルも始まり、街中が鮮やかな色彩に溢れています。リドー運河沿いの散策に最高の季節です。自然の恩恵を受けた首都オタワの美しさを実感します。勿論、オタワには美しい自然以外にも素晴らしい点は多々あります。その一つがNational Art Centre Orchestra(国立芸術センター管弦楽団)です。地元では “NACO”として大変に親しまれていて、オタワの音楽生活をより豊かなものにしています。

歴史

 NACオーケストラは、世界水準の管弦楽団ではありますが、必ずしも日本では知られていません。そこで、簡単に歴史を辿ってみたいと思います。

 まず、オタワです。カナダの首都ですが、カナダ最大の都市はトロント(今やニューヨーク、ロサンゼルスに次ぐ北米第3位の大都市)、バンクーバー、モントリオール、そしてカルガリーに次ぐカナダ第5位の都市で、人口は約百万人。

 カナダ自体が非常に若い国家で、未だ大英帝国の植民地時代にヴィクトリア女王がオタワを首都に選定したのが1857年の事です。当時は木材交易の中継地の小さな村でした。川を挟んだ対岸がケベックであること、米国との国境から十分に離れているという地の利から選ばれた訳です。1867年7月1日、大英帝国の自治領としてカナダが建国され、1931年のウエストミンスター憲章で名実ともに主権国家となり、以来、カナダの発展とともに首都オタワも発展します。が、オタワの本質は政治都市で、経済や文化の面での発達には時間を要しました。

 転機はカナダ建国百周年です。レスター・ピアソン首相が建国百周年の1967年に向けてオタワに国立芸術センターの設立を決定します。1964年の事です。敷地は首都オタワの中心部、議会近傍のコンフェデレーション広場のリドー運河沿い。設計は、モントリオールを拠点とする設計会社AFOPの創設メンバーの1人にしてマギル大学建築学科教授のフレッド・レスベンソルドです。彼は、ポーランド出身で32歳でカナダに移民。この人選も極めてカナダ的です。1964年に着工。残念ながら竣工は百周年に間に合わず、オープンは1969年6月2日となりました。が、待った甲斐はあったのです。センターは、舞台芸術のための大劇場、リハーサル・ホール、レセプション・ホール、ワークショップ用のスペース、ショップ、レストランを擁するガラス張りの極めて現代的な複合施設で、首都の名所となります。

 同時に、NACの目玉、レジデント・オーケストラとして国立芸術センター管弦楽団が設立されます。若い国の若い首都に若いオーケストラが誕生した訳です。初代音楽監督は、ケベック州セットフォード・マインズ出身のジャン=マリー・ボーデでした。かつてカナダ放送協会を率いたカナダが誇る音楽家です。

飛躍

 何処の国の何処の街でも、地元のオーケストラは地元の誇りです。NACOもそうです。地元のみならず連邦政府からもサポートを受けて実力をつけていきます。特に、1991年、古楽器による演奏で世界的に著名なトレヴァー・ピノックを迎え、「オタワのオーケストラ」から「カナダのオーケストラ」へと実力を伸ばします。

 次いで1999年、現代最高峰のヴァイオリン奏者兼指揮者のピンカス・ズッカーマンが音楽監督に就任します。16年間にわたりNACOを磨き抜き、レコーディングにも積極的に取り組み、世界的な楽団へと飛躍させます。

 そして2015年、ズッカーマンを引き継ぐ第7代音楽監督がアレクサンダー・シェリーです。1979年ロンドン生まれで両親ともピアニスト。王立音楽院でチェロと指揮を学んだ俊英で、36歳の若さでの就任です。非常にクリエイティブで、古典的名曲の演奏には安住しません。就任直後から4人のカナダ人女性の人生を音楽で描く「ライフ・リフレクテッド」プロジェクトを始動させます。現在のカナダを象徴、ノーベル文学賞受賞のアリス・マンロー、先住民ミクマク族の詩人リタ・ジョー、宇宙飛行士ロベルタ・ボンダー、ネット上の虐待で15歳で自殺したアマンダ・トッドです。4人の若手カナダ人作曲家がそれぞれの楽曲を提供。マルチ・メディアを駆使した演奏会は新しい時代の到来を実感させます。更に、2020年に発表した「クララ-ロベルト-ヨハネス: 音楽の憧憬」は、シューマンと妻クララ、そしてブラームスという3人の天才の音楽と人生をガブリエラ・モンテーロの即興で繋いで2枚組CDに凝縮した隠れた名盤です。ここにもシェリーの先進性が発揮されています。

感動

 そして、NACOは今年で設立54年。オタワ在住の私も機会を見つけて国立芸術センターに通っています。2023年の公演で感銘を受けた3つの公演について記します。

〈マーガレット・アトウッド作品の世界初演〉

 2月9日、国民的作家マーガレット・アトウッドの詩作に現代最高のオペラ作曲家ジェイク・へギー(Jake Heggie)が曲を提供した「バリトンと管弦楽のための『殺害された姉妹に捧ぐ歌』」(Songs for Murdered Sisters for baritone and orchestra)の世界初演が行われました。この作品は、NACオーケストラとヒューストン歌劇場が共同で委嘱したものです。

 『殺害された姉妹に捧ぐ歌』は、アトウッド女史が2020年に発表した詩作です。標題が如実に示すように、この作品は2015年に実際に起きたカナダ史上最悪と言われている家庭内暴力殺人事件を題材にしています。不条理としか言いようのない殺人に対する憤怒、残された家族への慰撫・慰安・救済はあるのか?答は何処かにあるのでしょうか。

 へギーが紡いだ旋律と管弦楽は、極悪非道の出来事に直面する人間の情念を音で描写しています。憤怒と復讐を超えた気高い人間性を感じさせる崇高な音楽です。

 アトウッド女史は、現在トロント在住で、83歳。遠方への旅行は控えているそうですが、この日は世界初演という事でオタワまで来訪。演奏後、舞台からご挨拶されたのが印象的でした。

 バリトンは、マギル大学で音楽修士業を納めたジョシュア・ホプキンス。2002年9月にはホセ・カレーラスからジュリアン・ゲイリー声楽コンクールの優勝を授与された逸材で、メトロポリタン歌劇場はじめ米国・カナダで活躍しています。実は、ジョシュアの姉が犠牲者の1人だったという経緯があります。アトウッド女史の磨き込まれた言葉を、深く芯の強い声で丹念に歌い込む姿が聴衆の胸を抉りました。言葉を超えた鎮魂が場を支配しました。

〈ベートーヴェン交響曲第5番「運命」〉

 4月23日は「運命」でした。これは、ドイツのフランク・シュタインマイヤー大統領のカナダ公式訪問の機会に、国立芸術センターで行われた特別公演でした。G7の同僚サビン・スパワッサー駐加ドイツ大使からの招待で、貴重な機会を頂戴しました。

 実は、NACOの面々は個別に様々な活動をしています。特に、音楽監督シェリーは、上述のとおりの八面六臂の活躍ぶりでロンドンのロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団を含むいくつもの楽団を指揮していて2年前からスケジュールが埋まっている状況です。よって、大統領のオタワ訪問の日程とNACオーケストラのスケジュールがマッチしたのは奇跡的でした。

 ベートーヴェンの母国ドイツの大統領を前にNACオーケストラは燃えました。ハ短調の冒頭のダ・ダ・ダ・ダーンから異様な緊張感が劇場を支配します。楽曲が展開していくにつれて、徐々に希望を感じさせる響きです。最終第4楽章は圧倒的な音圧。何人も運命に支配されるのではなく、自ら道を開くことが出来るのだ、と確信と自信に満ちた解放感で終結します。NACOの全員が一丸となり、個々の音が統合されて一つの明確な意思を持つ生き物のようでした。指揮者シェリーのしなやかな右腕の先のタクトは美しく弧を描き、楽団員を制御し鼓舞し挑発し、高みへと導きます。特筆したいのは、コンサート・マスター川崎洋介です。音楽の女神様が乗り移ったかのようで、指だけではなく身体全体で音楽表現します。楽曲が絶頂に達すると椅子から立ち上がって弾きます。そのエネルギーが楽団員全員に伝播するのです。本当に素晴らしい演奏でした。

 演奏直後に、NACオーケストラ専務理事のネルソン・マクドゥーガル氏が私に耳打ちしました。「超多忙な日程の合間をぬって何とか調整がついて実現した公演だった。実は、全くリハーサル無しで本番に臨んだんだよ。でも、最高の出来栄えだった。本当に誇りに思う」と。

〈ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」ピアノ辻井伸之〉

 そして、5月10日は、辻井伸之さんのオタワ初見参。NACオーケストラとの初共演でした。ラフマニノフ2番は、辻井さんの十八番です。クライバーン・ピアノコンクールで日本人初優勝を飾ったのが2009年6月ですが、その前年に佐渡豊指揮ベルリン・ドイツ交響楽団を率いて録音したのもラフマニノフ2番でした。

 実は、10日午前中のリハーサルに招いて頂きました。辻井さんはブルージーンズに格子柄のパーカーというカジュアルな姿で舞台に登場して、本番さながらに第1楽章から第3楽章まで通しで弾きます。フィッシャーの指揮棒がピアノとオーケストラを丁寧に紡ぎ音の一粒一粒が綺麗にそろいます。もしも音を見て音に触れることが出来たなら、真珠の如き深い色彩とビロードのような感触だろうと感じました。シェリー、辻井さん、NACオーケストラの相性が抜群なのです。とても初めての共演とは信じられませんでした。

 夕刻8時から本番でした。辻井さんの登場で会場は爆発的な拍手です。鍵盤を確認し、沈黙が会場を覆います。と、辻井さんがヘ短調の和音をピアニッシモで提示します。加速度を増してフォルテッシモに達したところで管弦楽が入って来ます。ラフマニノフ2番はピアノ独奏から始まるので、テンポを決めるのはピアニストです。そのテンポに管弦楽が完全にシンクロする時に劇的な効果が生まれます。辻井さんの左手とコントラバスとチェロが一体化するのです。CDではなく、目の前で聴いて空気の震えを感じて初めて分かる類の音楽的体験です。

 ラフマニノフ2番は、技術的にはピアノの超絶技巧が散りばめられた難曲中の難曲です。が、同時に美しいメロディの宝庫です。映画音楽として利用される程。ですから、技巧を見せびらかすのではなく、技巧は美しい音楽を構築するための手段です。但し、超絶技巧を完璧に奏でる実力がなければ話になりません。辻井さんとNACOは一心同体と化して儚くも美しく強靭な協奏曲を奏でました。

 第3楽章が終わった瞬間、会場は大きな感動と興奮に包まれ、拍手が鳴り止みません。辻井さんは、会場の熱狂に応えて、ショパン「革命」をアンコールしました。圧倒的な演奏でした。

未来

 2022〜23年のシーズンは5月で終了します。10月から始まる2023〜24年のシーズンへの期待が高まります。マクドゥーガル専務理事は、忙しく世界中を飛び回りNACOの海外ツアーを調整しています。カーネギーホール公演も決まっています。2025年大阪万博の機会の日本公演も視野に入っています。NACOの未来は明るく、更に飛躍し、世界一流のオーケストラと認識される日も遠くないと思います

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「ラッシュ〜ヘヴィメタとプログレの美しき融合」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第10回

 4月の声を聞き、春の到来を感じる日々です。今年の冬は暖冬で、オタワ名物のリドー運河の天然スケート・リンクがオープン出来ませんでした。それでも、兎に角私にとって初めてのカナダの冬を無事に過ごすことが出来ました。実は、3月下旬に数日間ですが要務帰国しました。東京は既に桜がほぼ満開でしたが、オタワに戻ると氷点下10℃近くまで冷え込む日もありました。やはりオタワは世界一寒い首都なのだと実感した次第です。

 さて、北の大地カナダの音楽ですが、8000キロに及ぶ陸上の国境で米国と接し、大西洋を挟んで英国と向き合う地理的な状況もあって、英米からの影響が非常に大きい訳です。しかもカナダで売れたアーティストの多くが米国を拠点に活躍する事も多いです。その意味で米加の音楽はほぼ一体化しているようにも見えます。が、カナダは、米国とは幾分異なりヨーロッパ的なニュアンスを持つ個性溢れる偉大なバンドを輩出し続ける音楽の楽園です。そして、カナダを拠点に、北米で活躍しているバンドも少なくありません。今月は、ラッシュを取り上げます。

ロックの歴史

 ラッシュの成り立ちをより良く知る上で、ロックの歴史を概観するのも意味があると思います。

 1956年、エルビス・プレスリーが彗星の如く登場します。エド・サリバン・ショーに出演し、その声と官能的な歌い方とロックンロールのビートで全米を虜にします。「ハートブレイク・ホテル」が全米1位を獲得した頃からロック・ミュージックは怒涛の勢いで発展します。英国では、エルビスの影響を受けたビートルズが誕生。ティーンエイジャーの圧倒的な支持を得て社会現象にまで発展します。しかも、単なるエンターテイメントの域を超えて、音楽的に怒涛の勢いで成長し、既存のポップ・ミュージックを革新しました。その影響は留まるところを知らず、ローリング・ストーンズ、ザ・フー、キンクス、クリーム、ディープ・パープル等々数多の偉大なバンドがロンドンから世界に多彩な音楽を発信します。

 1970年にビートルズは解散しますが、そこからロック・ミュージックは加速度的に進化します。最大の要因は、シンセサイザーやメロトロン等の最先端技術を導入したキーボード群の登場です。ジャズやクラシック音楽の素養のある鍵盤奏者が、それまでのエレキ・ギター中心のロック・バンドのあり方を大きく変えます。キング・クリムゾン、ピンク・フロイド、イエス、エマーソン・レイク&パーマ等のプログレッシブ・ロック系のバンドが台頭します。

進化の波がカナダを襲いラッシュが生まれた

 そんなロック・ミュージックの進化は、幾つもの波となって北の大地カナダにも繰り返し押し寄せます。そして、その影響を受けつつロックはカナダで独自の進化を遂げます。その好例がラッシュです。3人のメンバーはいずれ劣らぬ溢れる才能の持ち主。ゲディー・リーは歌、ベース、シンセサイザーを担当。アレックス・ライフソンはギターを筆頭に弦楽器。ニール・パートはリズムの鬼にして文学少年。北米におけるプログレッシブ・ロックの先駆者にして、ボストン、ミスター・ビッグ、ガンズ・アンド・ローゼズ等の米国のバンドにも影響を与えています。優れたアルバムを何枚も発表しています。2013年には「ロックの殿堂」入りしました。

 しかし、ロック史の論評や名盤特集で取り上げられる事は残念ながら少ないのです。シングル盤の大ヒット曲が少なく商業的に大成功とは言い難く、成功した同僚バンドとは異なりカナダを拠点とし続けた事も影響しているかもしれません。

 改めてラッシュを聴けば、時代の先を行く画期的バンドであったと再認識します。正当に評価される日が来ると確信しています。

「パーマネント・ウェイヴス」

 代表作は1980年発表の『パーマネント・ウェイヴス』です。4つの要素が絶妙の比率で溶け合っています。

 第1に、旋律と歌詞。音楽の核心です。ポップにして哀愁を感じさせ、時に刺激的なメロディーです。加えて、純文学からSFまで造詣の深い本の虫であるドラム奏者にして詩人のニールが書く深遠な歌詞が深みを与えます。言葉が旋律に乗り素晴らしい歌が生まれます。

 第2に、ゲディー・リーのヴォーカル。透明感のある芯の強い声です。極めて正確な音程で、超高音域を軽々と歌い、“魔女”の如き声と評されることもあります。唯一無二です。敢えて例えるならば、ジョン・アンダーソン(イエス)とロバート・プラント(レッド・ツェッペリン)とアクセル・ローズ(ガンズ・アンド・ローゼズ)を足して3で割ったような特別な声です。

 第3に、引き締まったバンド・サウンド。ニールは躍動感溢れるリズムを刻みかつ多彩なパーカッション群で色彩感抜群です。ゲディーが弾くベース・リフが曲の骨格を構築。その上に、アレックスのエレキ・ギターが舞います。着実なコード・ワークから超高速フレーズを駆使したアドリブまで自由自在です。聴く者の胸を掻き毟り、何か素晴らしい事が始まる予感を与えます。

 そして、第4の要素がプログレッシブ・ロックの神髄シンセサイザーを活用したシンフォニックな音創りです。聴く者の脳を刺激します。クラッシック音楽として権威の塊のように扱われている音楽も、それが作曲された当時においては時代の最先端を行く音楽だったのだと感じます。

ラッシュ誕生秘話

 ラッシュの原型となるバンドの結成は1968年8月に遡ります。トロント近郊のウィローデール地区での出来事です。音楽的早熟の高校生アレックスは15歳にして、幼き頃からの友人と3人組のバンドを結成。練習を重ね、初公演に臨みます。場所は、トロント郊外ノース・ヨークの聖セオドール・カンタベリー英国教会の地下に設けられていた青少年センターです。実は、公演が決まった段階では、未だバンド名は有りませんでした。簡潔にして特徴的な名称が良いという事で、ラッシュ(Rush)と決めます。この初公演で、メンバーは25カナダ・ドルの報酬を得たと云います。

 その後、アレックスと2人の友人は練習に明け暮れ、ラッシュとしてライブ活動を続けますが、メンバー間の実力差が目立ち始めます。圧倒的なアレックスのギターに見合う優れたヴォーカルを探します。と、ベース奏者兼リード・ヴォーカルとして参加するのが同い年のゲディーです。この2人の出会いこそラッシュの核心です。知る人ぞ知る地元のバンドに成長します。が、高校生であるが故に様々な制約がありました。例えば、酒類を出す店舗等には出演出来ませんでした。が、1971年に飲酒年齢が18歳に引き下げられ、高校生とはいえメンバーが18歳になっていたラッシュはクラブ出演が可能になります。幅広い年齢層の客の前で演奏することでバンドの実力は飛躍的に上がります。しかも出演料を稼ぎながら。若くして、プロ意識に芽生えていく訳です。そして、大手マーキュリー・レコードと契約します。

 デビュー盤『ラッシュ』は1973年11月に録音、翌74年1月にリリースされます。全8曲は全てゲディーとアレックスの作品。この時、2人とも弱冠20歳。偉大なバンドのデビュー盤には、そのバンドの過去と未だ見ぬ将来の可能性が潜んでいます。ラッシュの場合もそうです。レッド・ツェッペリンの影響は顕著ではあるものの、鋭角的ギターと超高音ヴォーカルには甘過ぎないポップ感が溶け込んでいます。ラッシュの個性の萌芽です。恐るべきロック小僧がその全貌を見せ始める訳です。

 幸先良く、国境の直ぐ南の米国はオハイオ州のDJ達がデビュー盤収録の「ワーキング・マン」を好んでオンエアします。商業的成功に直結した訳ではありませんが、ラッシュの認知度が高まって行きます。次の音盤が期待されます。ラッシュの飛躍の鍵を握る新ドラマーとしてニール・パートが加入。1974年12月の事です。ここに鉄壁の3人組ラッシュが完成します。

危機の克服

 新生ラッシュは、75年2月『夜間飛行』を発表。怒涛の勢いで、75年7月には続く『鋼の抱擁』を録音し9月に即刻リリースします。ラッシュ流ヘヴィメタルをコアなファンは高く評価します。しかし、商業的には全く駄目。マーキュリー・レコードは契約打ち切りを決めます。音楽は芸術ですが、レコード会社は私企業です。利益が不可欠です。エンタメ業界の厳しい現実です。

 1976年2月、ラッシュは最後の録音に臨みます。この時、メンバーは弱冠22歳。怖いもの知らずの好奇心の塊です。一方、野心も巨大です。ここで3人は生き残りを賭けて従来の路線からの大胆な脱皮を図ります。ラッシュ・サウンドの核であるヘヴィメタルを維持しつつシンセサイザー等を大胆に導入して交響曲的な楽曲で勝負をかけます。それが「西暦2112」です。ここにヘヴィメタとプログレが融合したラッシュの個性が確立します。商業的にもカナダのチャートで5位、米国では61位と善戦。首は繋がりました。そして、上述の「パーマネント・ウェイヴス」が大成功する訳です。そして、名盤を生み続けます。

最終章

 何事にも終わりはあります。2012年6月、ラッシュ最後のスタジオ音盤「クロックワーク・エンジェルズ」がリリースされます。不動の3人組は既に59歳。とは言え、瑞々しいサウンドは、とても還暦直前の親父が奏でているとは思えません。ゲディーの声も健在です。商業主義に負けぬラッシュの核を刻んでいます。

 2015年は、新生ラッシュ誕生から40年の節目という事で「R40」と銘打ち3ヶ月余にわたる北米ツアーを敢行します。が、終了後、ニールは、自身の腱鞘炎が悪化し引退の意向を明らかにします。波乱万丈の半世紀に迫るラッシュの音楽的冒険は、スタジオ音盤19枚、ライブ音盤11枚を残し、このツアーを最終章として完結しました。名実ともに最後の音盤となる「R40 LIVE」はCD3枚組で全30曲、収録時間195分57秒。音質はさて置き、ラッシュの歴史と真髄が詰まった名盤です。

 ヘヴィメタとプログレを融合させロック・ミュージックの進化を体現したラッシュ。カナダの誇るロック史に刻まれるスーパー・バンドです。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「アンドレ・マシュー〜“カナダのモーツァルト”再発見」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第9回

 音楽ファンの皆様、カナダ好きの皆様、こんにちは。

 3月も中旬で、長い冬も最終段階です。長崎出身の私も何とか初めてのオタワの冬を無事に越しつつあります。一方、オタワ名物、リドー運河の世界一長い天然スケートリンクがオープンしませんでした。歴史上初めての事と伺いました。寒さが足りず運河の氷が十分に厚くならなかった訳です。正に地球温暖化を実感します。

 さて皆様、未だ、気候変動という概念もない頃の事ですが、“カナダのモーツァルト”と称された素晴らしい作曲家がいた事をご存知ですか? 

 アンドレ・マシュー(Andre Matheus)です。

神童

 アンドレ・マシューは、1929年2月18日、モントリオールの音楽教師の家に生まれました。両親とも音楽教師で、父ロドルフは作曲家、母ウィレミンはチェリストでした。しかし、両親ともに音楽の素晴らしさを知ると同時に、音楽家としての人生の過酷さを嫌というほど知っていました。それ故に、アンドレにはピアノを禁じていました。息子には社会的に認知され安定した人生を望んだのです。が、両親の音楽DNAを引き継いだアンドレは驚くべき早熟で、4歳の頃には作曲を始める程でした。その才能は、音楽が出来るというレベルを遥かに越えた天才でした。父ルドルフは覚悟決め方針を転換。モーツァルトに対し父レオポルドが全身全霊で英才教育を施したように、アンドレを鍛え磨きます。成果は直ぐに現れます。

 1935年3月25日、モントリオールのリッツ・カールトン・ホテルでリサイタルを開きます。アンドレの作品を父子がピアノ2台で連弾したのです。6歳でのデビューです。翌36年には、カナダ放送協会オーケストラと共演してアンドレ作曲の「ピアノと管弦楽のためのコンチェルティーノ」を初演します。この演奏が関係者の目と耳にとまり、ケベック州政府の奨学金を得てパリ留学が実現します。この時、アンドレは7歳になったばかりの少年です。両親と姉の家族4人での事実上のパリ移住です。

パリ

 マシュー少年は、パリに到着したその年の12月には、早速リサイタルを開きます。神童の域を越え、巨大な潜在力が明らかになります。が、まだ単純で音楽の真髄と奥義には至ってはいません。アンドレの本当の勉強が始まります。

 1930年代のパリは、世界の楽都です。ストラヴィンスキー、ラフマニノフ、プロコフィエフ、ラヴェルらが暮らす街です。アンドレ少年は、スポンジが水を吸うよう、少年の心と眼でパリの全てを吸収します。パリ音楽院のド・ラ・プレスレ教授に師事し和声と作曲を学びます。1939年、隣のドイツではヒットラーの不気味な足音が徐々に大きくなる中、音楽漬けの少年は10歳になります。3月26日、パリ8区ラ・ボエン通りの「サル・ガヴォー」でリサイタルを開きます。フランスのピアノ製作会社ガヴォーに因んだコンサート・ホールで、ラヴェル、ドビュッシー、ストラヴィンスキーらが室内楽曲を初演した由緒ある場所です。カナダはモントリオール出身の10歳のピアニスト作曲家が登場する訳です。もはや芸達者な少年の発表会ではありません。極めてシリアスなものです。ラフマニノフら音楽関係者も多数聴きに来ます。耳の肥えたパリの聴衆は容赦ない事でも知られています。

“カナダのモーツァルト”現る

 其処で、アンドレはピアノ協奏曲第1番等の自らの作品を弾きます。不安げな両親を尻目に自信に満ちた10歳のアンドレは神がかっていたと云います。会場は総立ち、圧倒的な賞賛を得ます。作家エミール・ヴュイエルモーズは「カナダのモーツァルト現る」と論じ、パリのメディアが大きく報じるのです。フランス各地への公演旅行も企画され、「カナダのモーツァルト来る」は格好の宣伝文句となり各地で大きな話題を集めます。

 そこで、アンドレ親子は3年振りにモントリオールに帰郷します。いわば凱旋帰国です。ところが・・。

 1939年9月1日、ヒットラーはポーランドを侵攻し、第2次世界大戦が勃発。欧州は戦場と化します。アンドレ親子はパリに戻る事を諦めます。カナダは英連邦の一員として直ちに連合国に加わり参戦しますが、戦場は大西洋の対岸。モントリオールは平和そのものでした。でも、パリとは比べようもありません。早熟の神童には刺激が足りなかったでしょう。ザルツブルグがモーツァルトにとって退屈な街だったように。

ニューヨーク

 アンドレ親子は、北米各地を公演旅行で訪れます。1940年2月3日にはニューヨークはカーネギー・ホールで公演。これを機に、アンドレ親子はニューヨークで暮らし始めます。ジュリアード音楽院やコロンビア大学で教鞭を取るモリス教授に師事し作曲を勉強。この頃、ニューヨーク・フィルハーモニック創設百周年を記念して作曲コンテストが行われます。因みに1842年創設でウィーン・フィルと同じ年です。11歳のアンドレが書き上げたばかりのピアノ協奏曲第2番を父ロドルフが勝手に応募します。そして、見事に一等賞に輝きます。カーネギー・ホールでも公演。実り多き日々です。一方、早熟の天才アンドレも今やティーンエイジャーです。強烈な自我が芽生え始めます。14歳のアンドレはピアノ協奏曲第3番を書きます。今では「ケベック協奏曲」と呼ばれ、美しい旋律と流麗なピアノを際立たせる管弦楽は聴けば聴くほど惹き込まれていきます。特に第2楽章アンダンテの微量の哀愁は異国にあったアンドレ青年の心象風景のようです。1943年、アンドレ親子は故郷モントリオールに帰ります。地元が生んだ天才の帰還です。公演は盛況です。が、満たされぬ思いも募ります。

再びパリ

 欧州全土を巻き込んだ第2次世界大戦も終結した翌46年、マシューは17歳の青年に成長。再びパリへ留学します。音楽面では、ピアノ協奏曲第4番ホ短調を完成させます。アンドレ・マシューの代表作です。第1楽章冒頭からデモーニッシュな響きが迫ります。人間の奥に潜む言葉にならない複雑な情念がピアノの超絶技巧に乗り移っています。一転、第2楽章の抒情的な面には心が洗われます。動と静、陰と陽が交錯する振幅の大きいダイナミックな音楽です。18歳にして、この力量。巨大な才能です。しかし、この2度目のパリ留学は、実生活ではホームシックに陥り孤独と酒の苛烈な日々でもありました。アルコール依存症に陥りこの後の人生の宿痾となってしまいます。

モントリオール

 1947年、アンドレは留学を切り上げモントリオールに戻ります。その時は全く別人のようだったと伝わっています。18歳にして疲労困憊し世捨て人の如き雰囲気だったと。既に、作曲家として傑作を残していたアンドレにとって、生きる意味を問い自分を探す旅路に疲れてしまったのかもしれません。1950年代になると、徐々に、活動の場が遠のきます。光が強ければ影も濃くなるもの。天才の人生は過酷です。才能の代償でしょうか?

 1968年6月2日、アンドレ・マシューは39歳3カ月余の生涯を閉じます。かつて“カナダのモーツァルト”と絶賛されたアンドレ・マシューです。76年のモントリオール・オリンピックの開会式ではマシューの曲が使用されました。が、徐々に忘れられていきます。

再発見

 が、21世紀に入り、アンドレ・マシューは再発見されます。カナダが誇るピアニスト、アラン・ルフェーブルがマシューの音楽を精力的に取りあげ、再びマシューの音楽と人生に光が当たり始めたのです。最大の理由は、時代を越えて輝くマシューの楽曲自体の素晴らしさです。が、ルフェーブルの公演活動やCDリリースがなければ、どうだったか・・。例えば、人類史に輝く傑作、バッハ「マタイ受難曲」も百余年の時を経て忘れられていました。メンデルスゾーンが再発見して現在に繋がっています。

 ルフェーブルはピアノ連弾曲からピアノ協奏曲まで次々にCDを発表。上述の「ピアノ協奏曲第4番」は半世紀余ほぼ演奏される事はありませんでした。ルフェーブルが2008年にCDリリースし世界に聴かせたのです。そして、2010年にはアンドレ・マシューの光と影を描く映画「L’enfant  Prodigy」が公開されますが、ルフェーブルはその実現にも極めて大きな役割を果たしています。音楽も担当しています。

 “カナダのモーツァルト”の音楽と人生を味わってみては如何ですか?

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「メイナード・ファーガソン〜トランペット王国の仙人」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第8回

 音楽ファンの皆様、カナダ・ファンの皆様、こんにちは。

 冬になって屋内で過ごす時間も長くなり、音楽鑑賞の時間も増えている事でしょう。そこで、ちょっと時代を振り返ってみます。科学技術が発展する中で音楽の聴き方も随分と変わって来ました。1877年にエジソンが蓄音機を発明し、レコード産業が勃興します。初期のレコードは、78回転のSP盤、12インチで収録時間は最大5分。音質も100HZ〜2kHZで高音域の伸びないものでした。ベートーヴェンの交響曲の一つの楽章を聴くのに数枚のSP盤が必要な時代でした。が、音質面ではHiFi技術で30HZ〜12kHZに向上し、収録時間も片面で20分へと飛躍的に拡大したLP盤が誕生します。1947年の事です。

1.ハリウッドの寵児

 ちょうどその頃、1人のカナダ人トランペット奏者が、モントリオールからハリウッドに進出します。メイナード・ファーガソンです。当時も今も、才能に恵まれ野心あるカナダ出身の音楽家の卵達の多くが米国を目指します。でも、成功の保証はありません。実際に成功するのはほんの一握りです。競争は厳しく、楽器の腕前だけでなく、己を信じる力と「運」が勝負の別れ目です。

 そんな中、20歳メイナード・ファーガソンは、己のトランペットだけを頼りにエンタテインメントの聖地ハリウッドに乗り込みます。様々な楽団に客演しつつ、1950年1月には、弱冠21歳で実験的に40人編成のビッグバンドを短期間ながら組織する等、野心的で音楽的アイデアに溢れていました。そして、全盛を誇ったスタン・ケントン楽団に入団。因みに、この楽団は、アート・ペッパーやスタン・ゲッツらを輩出した事でも知られています。

 1950年代前半は、SP盤からLP盤が主流へと変わる時代です。ジャズの世界も拡大します。映画音楽でもジャズ的要素が本格的に導入されていきます。その頃、メイナードは映画会社パラマウント所属のトランペッターとなり「十戒」はじめ40作品以上のサウンドトラック盤の録音に参加します。評判が評判を呼び、他の映画会社でも録音します。

 そして、1956年、28歳で自らの楽団を率います。ニューポート・ジャズ祭にも出演。「メッセージ・フロム・ニュー・ポート」はジャズ史に残る名盤です。ハリウッドを拠点に活躍するメイナード・ファーガソンには、様々なオファーが来ます。最高水準の演奏技術と旺盛な好奇心の故です。

 例えば、1957年には、ジャズの老舗バードランドのドリーム・バンドへ参加します。1959年には、レナード・バーンスタイン率いるニューヨーク・フィルハーモニック・オーケストラに客演。現代アメリカの作曲家ウィリアム・ルソーの交響曲第2番ハ長調「タイタン」のトランペット独奏を担当しました。メイナードは活躍の幅を広げ、音楽的にも充実していきます。

2.モントリオールの神童

 メイナード・ファーガソンは、1928年5月、ケベック州ヴェルダンに生まれます。音楽好きの両親の下、4歳の頃からピアノとヴァイオリンのレッスンを受け、圧倒的な楽才を示します。8歳の時、教会で聴いたコルネット(トランペットの兄弟)の音色に魅せられ、親にねだってトランペットを買ってもらいます。そして、瞬く間に上達。音楽の確固たる基礎と情熱の成せる業でしょう。生涯の楽器との出会いがメイナード少年の運命を開きます。13歳でCBC(カナダ放送協会)オーケストラと共演し独奏パートを演奏。神童現ると大きな話題になります。そして、奨学金を得て名門モントリオール高校(現在のマギル大学附属高校)に入学します。ところがメイナード少年は、1年で高校をドロップ・アウトします。音楽で生きていくと決意したのです。人間誰しも、自分は何をすべきか、如何に生きるかについて思い悩み、自分探しします。自分の道を見い出すのに時間がかかる人も少なくありません。が、メイナード・ファーガソンの場合、15歳で人生の決断をした訳です。

 学業から解き放たれ、思う存分に音楽に打ち込むメイナード少年は、地元モントリオールのダンス・バンドに雇われます。歓楽街に集う客を前に演奏する事で多くを学んだ事でしょう。客を乗せ、刺激し、アンニュイな気分にさせる技も。やがて、自らが実質的リーダーとして楽団を率い、名をあげていきます。1940年代のモントリオールは歴史と文化に彩られたカナダ最大の都市でしたから、米国からスタン・ケントンはじめ有名楽団が公演に来ます。メイナードの楽団は、よく彼らの前座を務めていました。メイナードの演奏は、ジャズの本場、米国から来た強者どもをも虜にし、米国へ来るように誘われる訳です。そして、20歳にしてメイナードはハリウッドに旅立ち成功の階段を駆け上がる訳です。

3.ニューヨークからインド〜波瀾の時代、そして再び米国へ

 ハリウッドを拠点にメイナードは、20代から30代前半まで鮮やかに疾走します。が、変化の著しいジャズを取り巻く金銭主義に嫌気がさします。少年時代から音楽の女神に愛され、順風満帆の道を歩んで来たメイナードに初めて「波瀾の時代」が訪れたのです。

 1963年11月、35歳のメイナードは、レコード会社やジャズ・クラブとの契約を終了させると、家族を伴いマンハッタンの150kmほど北のハドソン渓谷の街ミルブルックに移住します。そこでは、ハーバード大学で心理学の教鞭を取るティモシー・リリー教授らが行っていたLSD等のサイケデリック薬物を使った実験に参加します。3年余に及ぶミルブルック実験が終わると、メイナードはインドのマドラス郊外へ移住します。1967年の事です。サティヤ・サイ・ババに心酔し、宗教哲学者ジッドゥ・クリシュナムルティの教えに立脚した学校で音楽を教え、ブラス・バンドを指導します。そんなインド生活が2年程続きます。

 そして、1969年。サイケデリック薬物とインド的スピリチュアル生活の6年を経て、“不惑の歳”を迎えます。心機一転。世界の音楽の中心ロンドンに移住します。新たにバンドを組み、英国のテレビに出演する等、音楽活動を本格的に再開します。1971年には世界最大のコロムビア・レコードと契約。

 73年にはニューヨークに戻ります。75年には再びハリウッド近郊のオーハイに移住します。フュージョン界の大物ボブ・ジェームスらとロック色の濃いポップな音盤を制作。時代の息吹を感じます。映画「ロッキー」のテーマを収録した「コンキスタドール」等、矢継ぎ早にヒット音盤を発表します。唯一無二のメイナードのトランペットは雄弁です。日本でもテレビのクイズ番組等でメイナードの音楽が流れました。

結語

 20歳で故郷を出た後の拠点は米国でしたが、メイナードはカナダ人です。1976年のモントリオール・オリンピックの閉会式では、主催国を代表する音楽家として演奏しています。メイナード自身にとっても、カナダの人々にとっても誇らしい瞬間であったと思います。

 トランペットはジャズという音楽の歴史を体現する特別な楽器です。創世記のルイ・アームストロング、ビバップ革命のディジー・ガレスピー、帝王マイルス・デイヴィス、更にクリフォード・ブラウン、リー・モーガン、フレディー・ハバードと強者どもの名が連なります。そんなトランペッター列伝にメイナード・ファーガソンの名は鮮やかに刻まれています。2006年8月に78歳の生涯を閉じるまで現役。実は9月には日本公演が予定されていました。

 ジャズ史上最高のハイノート・ヒッターにして、正確な音程、艶があって豊かな音色、超高速フレーズという3拍子揃ったメイナード・ファーガソン。カナダが生んだ偉大なるトランペッターでした。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「ジョニ・ミッチェル/未来の古典」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第7回

謹賀新年

 令和五年の始まりです。皆様にとって素晴らしい1年に成りますよう祈念しております。

 今年も「音楽の楽園〜もう一つのカナダ」をよろしくお願いします。掲載の媒体が今月から「日加トゥデイ」に代わりますが、今まで同様、カナダが生んだ偉大なる音楽を紹介して参ります。引き続きの皆様に読んで頂ければ、望外の悦びであります。

 という訳で、今年最初の連載は、ジョニ・ミッチェルです。

COP15とジョニ・ミッチェル

 ジョニ・ミッチェルと言えば、映画「いちご白書」の主題歌となった「サークル・ゲーム」、「青春の光と影(Both Sides Now)」、「ウッド・ストック」等のヒット曲で知られるカナダが生んだシンガー・ソングライターの大御所です。しかも、最初期のフォーク的スタイルから音楽のウィングをロック、ジャズ・フュージョン、更にはクラシックへと大きく拡げ、独特の存在感を示しています。ファルセットを主体とする歌声は、永遠に若々しく、同時に年齢不詳でもあります。1943年11月7日生まれで今年は傘寿になります。そんなジョニ・ミッチェルが、2022年7月、ニューポート・フォーク祭にサプライズ出演しました。フル・セットでのライブは20年ぶりで、話題を集めました。

 2022年末にかけて、そして、彼女の名前が意外な形で最近のニュースで流れました。12月15日、モントリオールの国際会議場で開催された生物多様性条約第15回締約国会議、COP15でのことです。COP15ハイ・レベル・セグメント議長のスティーヴン・ギルボー加環境大臣の声明の冒頭です。

 「今から50年ほど前、カナダの優れたアーティスト、ジョニ・ミッチェルが『私たちは楽園を舗装して駐車場をつくった』と歌い、そこに環境保護のメッセージを託していた。私たちはジョニ・ミッチェルの音楽を聴き、一緒に歌ったものだ。しかし、私たちは彼女が込めたメッセージを本当に理解していたのだろうか。私たちは自然を支配するのではなく、自然と調和して生きていかなければならない。そのために残された時間はわずかだ。今こそ、行動を起こす時だ」

 ギルボー大臣と言えば、若い頃から環境保護活動に真剣に取り組み、時には過激な行動も躊躇しない人物として知られる存在でした。極めて重要な国際会議の鍵になる声明でジョニ・ミッチェルに言及し、国際世論に訴えている姿は、ギルボー大臣の面目躍如ですね。

 ここに言及されたジョニ・ミッチェルの歌は、1970年4月リリースの3枚目音盤「レディズ・オブ・キャニオン」収録の『ビッグ・イエロー・タクシー』です。ジョニ自身が刻む生ギターのコード・カッティングが生む躍動感溢れるリズムと彼女が多重録音したコーラスがサウンドの核になって、ジョニ節のメロディーに乗った歌詞は強靭です。ボブ・ディランから五輪真弓までカバーしたのも頷けます。この時26歳。ジャケット・デザインも自ら手掛ける画家でもあります。恋多く、知性に溢れた才媛の音楽的冒険が本格化してゆくのです。

 それにしても、ジョニ・ミッチェルの時代の先を読む眼力はさすがです。

サウンド・クリエイターの誕生

 ジョニ・ミッチェルの最初期の音楽スタイルは、生ギターの弾き語りでした。故に、彼女の音楽はフォーク或いはフォーク・ロックと分類されていました。が、1970年代になると音楽的変貌を遂げ、時代を率いるサウンド・クリエイターに急速に成長します。

 1970年8月、英国はワイト島で開催された野外フェスでの出来事です。60万人の聴衆が詰めかけた、英国版ウッド・ストックとも称されています。ジミ・ヘンドリックスの最後の公演としても有名ですが、マイルス・デイビス、ドアーズ、エマーソン・レイク&パーマーら最先端のアーティストが出演。シンセサイザーをはじめとする電気楽器もが前衛の響きを奏でたのです。そんな中で、ジョニ・ミッチェルは生ギター、生ピアノ、ダルシマの弾き語りです。彼女の自信と誇りの現れでもあり、異彩を放ちました。一方、聴衆はより刺激の強い音楽を求めます。一部の聴衆は、彼女の演奏中に激しくヤジり暴徒化ました。これに対し、「私に敬意を払え」と堂々と諭す26歳のジョニの姿が記録されています。

 翌1971年6月、ワイト島と同じフォーマットで、ジョニ1人だけで、生ギター、ピアノ、ダルシマの弾き語りで録音した音盤「ブルー」を発表します。彼女の最傑作の一つで商業的にも成功しました。1人の音楽家の表現の極地を極めたもので、シンプルは美しいを証明しています。が、ジョニの音楽的冒険は、ここから本格化し、彼女の歌を際立たせると同時に聴取をも刺激する最良の伴奏を探究します。

 そして、君主は豹変します。

 1972年、新作「バラに送る」は一転、ジャズ・フュージョンの奏者、更にはストリングスをも登用し、サウンドの幅を大きく拡げました。彼女の頭の中に流れるフォーク、カントリー、ブルース、ロックンロール、ジャズ、更にはクラシックが混然一体となった音楽が遂に表に出てきたのです。この音盤は、ジェームス・テイラーとの恋の終焉の時期にあたり、彼女の心模様が歌詞に滲んでいます。

 この音盤を境に、時代の最先端のサウンドを大胆に取り入れ、ジャズ・フュージョン系の若手を積極的登用し始めます。エレクトリック・ベースの革命児、ジャコ・パストリアス、現代ジャズの雄パット・メセニーやマイケル・ブレッカーを率いた実況録音盤「シャドウズ・アンド・ライト」は、時代の音を体現。ジョニの歌の本質は不変ですが、伴奏が変わる事で一層モダンに響きます。ジョニ・ミッチェルは新しい段階に到達し、ロックとジャズとクラシックが融合した前人未到の境地へと進んでいきます。

 2007年には、巨匠ハービー・ハンコックがジョニの音楽への敬意を込めカバー音盤「リバー」を発表。彼女の音楽の革新性と普遍性が改めて浮き上がります。

故郷はサスカチュアン

 ジョニ・ミッチェルは、1943年11月7日、アルバータ州フォートマクラウドに誕生します。父はノルウェー系移民の血筋。空軍中尉で、フォートマクラウド空軍基地で新人パイロットの指導にあたっていた軍人でした。第2次世界大戦終戦後に除隊し、サスカチュアン州で商売を始めます。メイドストーン等、州内を転々とし、ジョニが11歳の頃、州最大の都市サスカトゥーンに落ち着きます。そして、サウカトゥーンこそ、ジョニ・ミッチェルが音楽的冒険に踏み出した街です。

 11歳の頃のポリオ罹患で、左手・指に後遺症が残ったのです。音楽に目覚めギターを始めると、コードを押さえる左手・指に不自由があるが故に、独自のチューニングを編み出し、開放弦を多様する唯一無二の生ギター・サウンドを生み出します。『必要は成功の母』であり『塞翁が馬』、或いは『災い転じて福と成す』でしょうか。

 第2に、ジョニが音楽のほぼ全てを学んだと言う一枚の音盤とこの街で出会います。ランバート、ヘンドリックス&ロスの「The Hottest New Group in Jazz」です。この音盤を聴き倒して、歌唱法、ハーモニー、和声と旋律の関係、伴奏のあり方等々を会得したのです。自分にとっての音楽の原典だったと、ジョニ自身が語っています。

 第3に、ジョニが初めてプロとして演奏し報酬を得た街です。1962年10月31日、19歳の誕生日の1週間前、サスカトゥーンのクラブです。これをきっかけに、サスカチュアン州、更にはアルバータ州等の西部諸州の小さなナイト・クラブ、ライブ・ハウスで歌い、やがて東部トロント、そして米国はロサンゼルスへと進出していく原点です。

 米国、そして世界で大成功のジョニ・ミッチェル。

 彼女が何処の出身かは、特別に意識する必要もありません。が、ジョニ・ミッチェルには紛れもなくカナダ人としてのアイデンティティがあります。故郷はサスカトゥーンだと公言しています。1976年リリースの「逃避行」に収録された『シャロンへの歌』は、彼女の自伝的要素が滲んでいます。

 ジョニ・ミッチェルの進化し変貌し続けた音楽を聴き倒してみれば、彼女を育んだカナダが体感出来ると思います。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「モントリオール交響楽団」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第6回

 音楽ファンの皆様、カナダ・ファンの皆様、或いは、そのどちらでもない皆様、こんにちは。“歳月人を待たず”とは良く言ったもので、2022年も12月半ばです。あと2週間余で2023年です。

 この連載では、カナダが生んだ素晴らしい音楽家を紹介しております。天才の音楽と人生は、音楽を超えて人生の機微を語って余りあるものがありますから、紙面の許す限り色々と書いております。一方、音楽の要諦は、異なる音が最高の形で出会って生む美しき響きです。つまり、音楽においては、1+1=2とは限らず、場合によっては音楽家同士の大きな相乗効果で1+1が無限に大きくなる奇跡的な事もある訳です。

 その意味で、オーケストラこそ音楽に関するほぼ全てが詰まっている玉手箱と言ってもいいでしょう。自分が一番だと信じ切っている人が世界中から集う一流オーケストラは、百人余の演奏家を擁する動物園です。猛獣使いの指揮者とがっぷり四つに組み、素晴らしい音楽を生み出します。オーケストラは、多種多様な個性がぶつかる人間臭い最高の場にして、地元のエッセンスが溶込んだ、地元の誇りです。

 ということで、2022年最後の連載は、モントリオール交響楽団です。カナダが誇る、世界屈指の名門オーケストラです。

1.オーケストラの誕生

 現在のモントリオール交響楽団の母体となった「交響楽団(Les Concerts Symphoniques)」が設立されたのは1934年です。設立の中心は、指揮者・ピアニストにして作曲家のウィルフリード・ペルティエです。最初の芸術監督に就任し、手塩にかけてこの楽団を育てます。非常に興味深い音楽家で、いずれペルティエについても書いてみたいと思います。

 現在の名称になったのは1954年です。非常に若いオーケストラです。クラシック音楽は、ヨーロッパで発展して来て、古典派のバッハ・ヘンデル、更には、その源流になったルネッサンス期の音楽に遡れば、500年余の豊穣な歴史があります。例えば、モーツアルトが生まれたのは1756年ですから、国家としての米国やカナダよりも古い訳です。故に、世界の楽壇では伝統と格式に重きが置かれています。が、この新設の若き交響楽団は、イーゴリー・マルケビッチやズービン・メータといった巨匠を音楽監督に迎え、確実に地歩を得ていきます。

2.「フランスのオーケストラよりもフランス的なオーケストラ」

 1977年、シャルル・デュトワが音楽監督に就任します。これを期に、モントリオール交響楽団は評価を急速に高めて行きます。最大の要因は、デュトワの徹底的な指導です。意に沿わない楽団員には辞めてもらったそうです。結局、相当部分の楽団員を入れ替えて、楽団を鍛え、音色を磨きました。モントリオール交響楽団をデュトワ色に染め上げた訳です。ある意味、独裁者であり鬼です。

 因みに、デュトワは1936年スイスはローザンヌ出身。ジュネーブ音楽院等に学び、23歳で指揮者デビューを飾り、ウィーン国立歌劇場はじめ世界のオーケストラを指揮して来ました。また、恋多き男で4回結婚しています(ヘミングウェイと同数)。2度目の妻がマルタ・アルゲリッチです。そんな鬼才が指揮者として脂の乗った44歳でモントリオールにやって来た訳です。

 指揮者は直接楽器を演奏しません。各楽団員に言葉と身振り手振りで指示を出し、各楽器のテンポとタイミング、音色、強弱、ピッチ、ヴィヴラート等々のアーティキュレーションを制御します。オーケストラ全体の響きを聴ける唯一の存在が指揮者ですが、実際に楽器を奏でるのは各々の演奏者です。それぞれに美学があり自負があります。指揮者と楽団員の間には、1人vs百人の緊張と葛藤がありますが、それを乗り越える時に素晴らしい音楽が生まれるのです。

 デュトワは、1977年から2002年までの25年間、モントリオール交響楽団の音楽監督を務めました。この時代、モントリオール交響楽団は、「フランスのオーケストラよりもフランス的なオーケストラ」と評されるようになりました。考えてみれば、これは非常に逆説的です。ケベック州を含めカナダのアイデンティティについて「フランスでも英国でも米国でもないのがカナダだ」と冗談交じりに語られているのですから。スイス人指揮者が、設立から20余年の若きオーケストラを率いて、フランスよりフランス的な音楽をつくり上げる。正にカナダ的です。評判が高まれば、それだけ世界中からより優秀な演奏家が集まります。それを受け入れ支え続けるモントリオールの地元コミュニティーの抱擁力もカナダ的です。世界中の幾多の若いオーケストラに希望と勇気を与えています。決して容易ではないが、良き監督を得て地元が支えれば、世界で肩をならべられるのだ、と。

 レコード芸術誌が選定した「クラシック不滅の名盤1000」には、デュトワ指揮・モントリオール交響楽団の録音が多数取り上げられています。1枚厳選すれば、1987年10月に地元の聖ユスターシュ教会で録音された「デュトワ・フレンチ・コンサート」がお薦めです。サン=サーンス、シャブリエ、ビゼー、サティ等々7人のフランス人作曲家を見事に料理しています。

3.ベートーヴェン「ザ・ジェネラル(司令官)」世界初録音

 デュトワが確立したモントリオール交響楽団の名声は、ケント・ナガノによって更に高められます。ケント・ナガノは、1951年11月カリフォルニア出身の日系3世です。ハレ管弦楽団、リヨン国立オペラ、ベルリン・ドイツ交響楽団の首席指揮者を務めた後、2006年、55歳の時に、モントリオール交響楽団の音楽監督に就任します。早速、最初のシーズンとなる2007年に「ベートーヴェン〜フランス革命の理想」と題する2枚組CDをリリースします。

 此処には、この後15年に及ぶことになるナガノとモントリオール交響楽団の蜜月の最初の瞬間が真空パックされています。斬新なアイデアを実践する意思と能力と情熱を持つ指揮者を得た時には、音楽の女神が降臨してオーケストラが持てる力を100%いやそれ以上発揮させるのだと確信させる名録音です。そのハイライトは、世界初録音となった『ザ・ジェネラル(司令官)』です。

 この作品は、ナガノの発案・委嘱によって制作された管弦楽、ソプラノ独唱、男女混声合唱、男声ナレーションを配したベートーヴェンの音楽です。ベースは、ゲーテの悲劇「エグモント」を基にした劇音楽「エグモント」作品84です。16世紀、スペイン圧政下でオランダの独立を求めて戦ったエグモント伯が主人公で1810年5月に初演されました。この名曲を現代最高峰との評判の台本作家ポール・グリフィスが脚色し再構成し、設定を1993年のルワンダ内戦と国連平和維持活動に置き換えたものです。此処に、ベートーヴェンの他の作品も加えて全16曲に再編されたベートーヴェン・ワールドです。

4.その先へ

 ケント・ナガノは、2020年まで、15年に渡りモントリオール交響楽団の音楽監督を務めました。この間、ベートーヴェン交響曲全集を録音。ナガノ時代に楽団は「フランスもの」のみならず、クラシックの王道を極めた訳です。2021年、ナガノは名誉指揮者に就任。後任は、ベネズエラ出身のラファエル・パヤーレです。1980年2月生まれで、新世代の最有望株との評価があります。

 今後のモントリオール交響楽団からは目が離せません。

(了)

山野内勘二
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「ギル・エバンス」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第5回

 私事で恐縮ですが、オタワに着任して半年が経ちましたが、日々、カナダは若く新しい国だと実感します。開放性と多様性に満ちていると同時に奥深いところがあります。そして、凄い才能を生んでいる国です。例えば、ディープ・ラーニングによってAIを飛躍的に進化させたジェフ・ヒントンやヨシュア・ヴェンジオ。彼らは、未知の才能を開花させるカナダ独特の力量を世界に示しています。そこで、音楽の楽園、今月はギル・エバンスです。ジャズの世界で全く新しい響きを生んだ鬼才です。ギル自身のオーケストラでも凄い作品を残していますが、マイルス・デイビスと協働した「クールの誕生」や「スケッチ・オブ・スペイン」等は、ジャズに革命を起こしました。それに日本の音楽家とも競演しています。ギルは、高校も大学もカリフォルニアで、活躍の場はニューヨークでしたが、自分はカナダ人だと強く認識していました。正に、三つ子の魂百まで、ということでしょうか。

 「マイルス・デイビス自叙伝」には、1948年当時のギルとの関係について非常に興味深い描写があります。

・・あの頃のオレ(マイルス)は、ギル・エバンスのアパートにしょっちゅう行って、彼がする音楽の話しを聞いていた。オレ達は、初めから気が合った。彼の音楽的アイデアは、すぐにピンときたし、彼にしてもそうだった。オレ達の間では、人種の違いは問題じゃなかった。いつも音楽が全てだった。ギルは、オレが初めて知り合った、肌の色を気にしない白人だった。ギルがカナダ人だったせいもあるかもしれない。ギルは、他の奴には絶対にできない見方ができる・・

「マイルス・デイビス自叙伝」(マイルス・デイビス著、クインシー・トゥループ著、中山康樹訳、宝島社文庫。2000年)より抜粋

1.1912年5月13日、トロント

 この日、ギル・エバンスは、トロントで生まれました。

 母親はマーガレット・ジュリア・マッコナキーというスコットランド系アイルランド人です。彼女は英国で育ちましたが、19世紀末の時代、生活は苦しく、不遇のアイルランド人女性によくあった事ですが、大英帝国内を転々としたそうです。最初は、南アフリカ、オーストラリア、そしてカナダに流れて来ました。冒険心溢れる常識破りの非常に魅力的な女性だったと言います。色々な事情があったのだと思いますが、彼女は生涯で5回結婚しました。4度目で結婚したのがグリーン医師で、この結婚で生まれたのがギルです。よって、出世時の名前は、ギルモア・イアン・アーネスト・グリーンでした。が、グリーン医師は、ギル出生直前に彼が勤める病院が火事になり不慮の死を遂げました。そこで、マーガレットはジョン・A・エバンスというカナダ人坑夫と再婚します。以後、ギルモア少年はエバンス姓を名乗るようになります。

 エバンス家は、決して暮らし向きが楽ではなく、坑夫の仕事がある所に移り住んで行きます。オンタリオからサスカチュワン、そしてブリティッシュ・コロンビア。更に、米国に移住し、ワシントン、アイダホ、モンタナ、オレゴン、最終的にはカリフォルニアに落ち着きます。

 このような経緯なので、ギル・エバンスについての明確な記録は、カリフォルニアはバークレー高校時代以降です。高校1年では全教科で非常に優秀な生徒でした。が、親友の父親がジャズ愛好家だった事がギルの運命の扉を開けます。地下室にドラムとピアノ、当時大変貴重だったレコード・プレイヤーまで設置していました。ギルは、この親友の父からピアノを教わり、1927年にはデューク・エリントン公演にも連れていかれます。15歳で、ジャズに目覚めたギルは、学校の成績は下がりましたが、瞬く間に才能が開花し、音楽の道を歩き始めます。

2.1948年9月4日、ニューヨーク

 この日、劇場街のブロードウェー1580番地にあったクラブ「ロイヤル・ルースト」に、結成されたばかりのマイルス・デイビス九重奏団が出演します。当時人気絶頂のカウント・ベーシー楽団の前座でした。店の前に「マイルス・デイビス・ノネット:編曲ジェリー・マリガン、ギル・エバンス、ジョン・ルイス」と看板を出しました。22歳のマイルス・デイビスが33歳のギル・エバンスと意気投合し、従来のジャズ・オーケストラやビッグバンドとは一線を画した全く新しいハーモニーと音色を生み世に問うたのです。後に、クール・ジャズと呼ばれるようになる、緻密にして静謐、時に熱い音楽です。

 背景には、マンハッタンの西55丁目14番地のギルのアパートがありました。其処は、さながらエバンス音楽塾。チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー、ジェリー・マリガン、リー・コニッツ等々の最先端のアーティストが出入りするジャズの梁山泊でした。有名無名、人種、年齢も全く関係ありません。そして、ギルのアパートでの熱い議論が実践され、ジャズを変革して行くのです。

 この日の演奏を聴いた大手キャピタル・レコードのプロデューサー、ピート・ルゴロが翌1949年、スタジオで正式に録音します。但し、当時マイルスもギルも未だ知る人ぞ知る存在で、音楽も余りに先進的過ぎたせいか、実際にこの音楽が発売されたのは、マイルスとギルが有名になった後の1957年のことです。今では「クールの誕生:コンプリート盤」で最初期のライブ音源も合わせて聴けます。

3.1974年6月11日、ニューヨーク

 この日、ギル・エバンスは、自身のオーケストラを率いて、RCAスタジオに於いて、音盤「プレイズ・ミュージック・オブ・ジミ・ヘンドリックス」の録音に臨みます。収録曲は全てジミヘン作曲。ギルは、プロデュース、編曲と指揮、ピアノ、キーボードと八面六臂の大活躍です。既に還暦手前ながら若々しい事この上ありません。

 この音盤は、ギルの非常にオープン・マインドで音楽にも人にも接して偏見とは無縁な性格を物語っています。その包摂性は極めてカナダ的です。と、言うのも、この音盤が録音された1974年は、ジミヘンが27歳で夭折して未だ4年。ウッドストックの英雄でセンセーショナルに捉えられていましたが、ジミヘンの音楽の革新性については未だ正当に評価されていた訳ではありません。そんな時代に、ギルはジミヘンの音楽を真正面から捉えて、ロック的熱量を前衛ジャズ的語法に大胆に翻訳した音盤を創ったのです。ギルには時代の先が見えていたんですね。

 しかも、ギターは日本が生んだ伝説のギタリスト川崎燎27歳です。若きデビッド・サンボーンらジャズの聖地ニューヨークの猛者達に混じって、ブンブン弾き倒しています。今でも、ジャズの本場でアジア人が活躍するのは容易でありませんが、川崎燎の才能を発見し鍛え上げたギルの名伯楽ぶりは特筆に値します。

 ギル・エバンスは1988年3月、75歳で永眠します。カナダが生んだ極めてカナダ的な音楽家です。音盤に耳を傾けてみては如何ですか?

(了)

山野内勘二
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

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