「ダニエル・ラノア〜鬼才プロデューサーの軌跡」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第19回

はじめに

 明けましておめでとうございます。

 同時に、能登半島地震の被災者・犠牲者の方々に心よりお見舞いを申し上げます。

 2024年は辰年です。昇龍の如く、全てがエネルギーに満ち、苦難を乗り越え、災いを転じて福と成すように、素晴らしい年となるように祈念します。

 さて、今回は、カナダが生んだ稀代の音楽プロデューサー、ダニエル・ラノアです。おそらく、この連載で取り上げた中で、一般的な知名度は最も低いかもしれません。が、1980年代以降のロック・ポップの展開を見れば、ダニエル・ラノアは、間違いなく、最も影響力のある音楽家の1人です。彼がプロデュースした作品群は、ボブ・ディラン、U2、ピーター・ガブリエル等ロックの現代史の重要な章に刻まれています。但し、ラノアの名前が前面に出ることは稀だったのです。

 そこで、読者の方には、音楽プロデューサーって一体何者?という素朴な疑問が湧き上がると思います。有名なのは、ビートルズを世に出したサー・ジョージ・マーチン。5人目のビートルとまで言われました。全く無名のボブ・ディランを発見したのは、伝説のプロデューサー、ジョン・ハモンド。若き日にベニー・グッドマン、ビリー・ホリデーらを発掘し、今日のジャズの隆盛の基礎をつくった人物です。「ウィ・アー・ザ・ワールド」は、クインシー・ジョーンズにして初めて実現した企画。尾崎豊を発見し育てたのが須藤晃でした。

 そこで、プロデューサーの仕事です。例えば、歌手、作詞家・作曲家・アレンジャー、演奏家は、彼らが参加し創造した音楽の中に具体的な音が刻まれています。役割が明確で、聴くことが出来ます。しかし、プロデューサーは、音楽制作そのものを総括していても、具体的な痕跡は見え難いかもしれません。録音スタジオの選定、参加ミュージシャンの選別、音盤のコンセプト、サウンドの色彩感、収録曲の決定等々に直接関わります。プロデューサーの役割は決定的です。

 敢えて言えば、音楽プロデューサーは、スポーツの監督に似ているかもしれません。野球でもアメリカン・フットボールでも駅伝でも、試合そのものは選手によって競われます。が、全体の戦略、個別の戦術、練習方法、選手の選択や起用のタイミング等は、監督が差配しています。そこに監督の力量が顕れます。

 そこで、ダニエル・ラノアに戻ります。カナダならではの響きを体現したラノアは、カナダ発世界行きの軌跡を鮮やかに描きます。

1951年、ケベック州ガティノー

 ダニエル・ラノアは、1951年9月、ケベック州ガティノー市ハル地区のフランス系カナダ人の家庭に生を受けました。ハル地区は、オタワ川を挟んで、首都オタワの対岸です。カナダ最大の博物館である「歴史博物館」の所在地ですが、一面ではギャンブルと酒場の街という顔も持ち合わせています。ラノア家は、決して裕福ではありませんでした。高級レストランの豪華な食事とは無縁だったけれど、祖父も父もヴァイオリンを弾き、母は歌がうまく、祝い事があれば、親戚が集まって皆で音楽を奏でていたといいます。

 そういう家庭環境で育ったダニエル少年は、自然に音楽の素養を身につけます。10歳の時に、スティール・ギターを習い始め、やがて、他の様々な楽器、さらに音楽理論も学び、吸収します。

 両親が離婚し、母親に引き取られますが完全に放任状態でした。ラノアは、後年、この頃を振り返り「自分がしたい事をする最高の養育環境であった」と述べています。時代は、疾風怒濤の1960年代です。ビートルズらが牽引しロック・ミュージックが単なる娯楽から前衛芸術へと進化します。ティーン・エイジャーになったダニエル少年も、大きな影響を受け、音楽の道へと歩み始めます。3つ年長の兄ボブの影響もあったようですが、その他の道は目に入らなかったと云います。高校在学中から、プロの演奏家として様々なバンドで伴奏をし、時には、誰も行きたがらないオンタリオ州の最北部にも出張しました。

 楽才に溢れるダニエル・ラノアです。様々な角度から、音楽にアプローチする訳です。興味深いのは、演奏だけではなく、録音スタジオに大きな関心を持ったことです。「サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」や「ペット・サウンド」等60年代の偉大な音盤は、スタジオでの実験と冒険の賜物。スタジオが楽器なのです。

1969年、オンタリオ州ハミルトン

 1969年、ラノアの母親は、ガティノーからオンタリオ州ハミルトン市アンカスター地区に転居し、家を新築します。そこで、ラノアは兄ボブと一緒に一計を案じます。この新居の地下室に防音を施し、小さな録音スタジオにしたのです。ラノア家には、旧式のオープン・リール・テープレコーダーがありました。当時は、未だ自分の声なり演奏を録音して、それを再生して聴くということは特別な体験でした。従って、現代の目から見れば、極めて素朴な資機材ですが、一般向けの録音スタジオが商売としても成り立ったのです。兄の影響があったにしても、高校在学中の17歳です。本能の赴くまま、目的のために、利用出来るものは全て利用したのでしょう。が、己の将来への明確なヴィジョンがあったのです。早熟と言えば、早熟。凄いことです。慧眼です。

 この「アンカスター・スタジオ」で、マイクの位置や音源との距離、多重録音の効果、エコーやイコライザー等の機材が如何に音楽の色彩感を決めるのか、音楽制作の核心を体得していきます。地元のローカル・バンド達との交流が深まり、プロデューサーとしての腕を上げ、音楽関係者の間で名を知られるようになります。

 1976年、25歳の時に、自宅地下室からステップ・アップします。ハミルトン市のダウンタウンにある20世紀初頭に建てられたビクトリア朝風の3階建家屋を兄と共同で購入し、大幅に改修。「グラント・アヴェニュー・スタジオ」をオープンするのです。この名称はここの住所、38 Grant Avenue, Hamilton, Ontario L8N 2X5 に由来します。兄弟は、Revox社製テープレコーダー等の本格的な機材・設備を導入し、地元のミュージシャンの音盤をプロデュースし始めます。後にメジャーになる地元のローカル・バンド「マーサ&マフィンズ」、更に「タイム・ツインズ」もラノアが手掛けたアーティストです。彼らを通じて、ラノアの評判が国境を越えます。

1979年、トロント〜ニューヨーク〜ハミルトン

 ニューヨークは世界の最先端を走る都です。世界中の猛者が集まり、時代を牽引します。そして、様々な出会いが起こります。

 トロント出身の「タイム・ツインズ」は、ラノアがプロデュースしたパンク・ロック調の「ユーリ・ソング」というデモ・テープを持ってニューヨークを訪れます。世に出る機会を探すプロモーションです。偶々このテープを聴いたのが、偶々ニューヨークを訪れていたブライアン・イーノです。ロンドンで異彩を放っていた鬼才です。若くして、シンセサイザー奏者としてロキシー・ミュージックに参加した後、ソロ・キャリアを展開しつつ、デビット・ボウイのベルリン三部作にも参加し、プロデューサーとしての活動を本格化させていました。

 そんなイーノの耳が「タイム・ツインズ」のテープに宿る新しい「音」を聴き取ります。彼が探し求めていた「音」があったのです。その段階で、ラノアは、カナダの無名の新米プロデューサーに過ぎません。が、イーノはラノアの巨大な才能の原石を察知したのです。

 ここからのイーノの動きは非常に素早いものがあります。ダニエル・ラノアに連絡を取ります。そして、あの「音」を生み出したハミルトンの「グラント・アヴェニュー・スタジオ」を訪れます。初対面にして、イーノは、音楽制作に関して通じ合う特別な紐帯があることを直感します。ラノアにとっては師との邂逅です。この出会いこそ、この後に続くイーノ/ラノア・チームの傑作群の始まりの始まりです。

 イーノは、早速、新しい音盤の録音を「グラント・アヴェニュー・スタジオ」で始めます。完成したのが「プラトウ・オブ・ミラー」です。ミニマルな環境音楽の代名詞“アンビエント・ミュージック”の傑作です。この音盤は、イーノ自身がプロデュースした作品です。小さな字ではありますが、ラノアへの特別な謝意がクレジットされています。初めて、メジャーな世界で認知されたのです。

 それまで世界的には無名のオンタリオ州ハミルトンの小さなスタジオが注目され始めました。

1981年、「グラント・アヴェニュー・スタジオ」

 イーノとの共同作業でダニエル・ラノアの才能は一気に開花します。カナダのローカルなマイナー・アーティストを世に出す仕事を続ける一方、スーパー・メジャーな音楽家の作品を手掛けるようになります。

 最初は、師であり同志であるブライアン・イーノとの共同名義の音盤「アポロ」の録音です。イーノは英国ロンドンを拠点にしていますが、この音盤は「グラント・アヴェニュー・スタジオ」で録音することに拘ります。1981年から翌年にかけ、イーノが何度も足を運び、完成に漕ぎつけます。元々は、アポロ計画に関するドキュメンタリー映画「フォー・オール・マンカインド」のためのサウンド・トラックとして企画されたものでしたが、映画の公開に先立ち、1983年7月に発表されました(映画の公開は89年)。ジャケットの月面写真が示すように、宇宙空間や月のイメージを音で紡いでいます。ここに響いている音楽は、もはやロックというよりは、ジャンルを超えた現代音楽です。幾つかの楽曲は、「28デイズ・レイター」など他の映画でも使用されています。

 音盤「アポロ」は、商業的に大成功という訳ではありませんでしたが、音楽・映画関係者の間では高く評価されていました。ダニエル・ラノアのファンにとっては、最初のメジャー作品です。そして、2019年7月には、アポロ11号の月面着陸50周年のCD2枚組特別編集盤がリリースされました。世紀を超え、今も新鮮な音楽です。

1984年、アイルランド

 1984年イーノ/ラノア・チームは、U2新作アルバム「焔(Unforgettable Fire)」をプロデュースします。この背景が非常に興味深いです。

 U2は1983年発表の3枚目のアルバム「闘」で、母国アイルランドを超え、英国、米国、更にはグローバルに成功していました。直裁なパンク・ロック的アプローチで時代の空気を掴んで、若い世代から絶大な支持を得ていました。しかし、U2は更に前進するために、もっと深みのある音楽を志向します。1983年米国ツアーのシカゴ公演の際、U2メンバーがシカゴの平和博物館を訪れ、そこで観た、「忘れざる炎」と題された広島・長崎の被爆者達が描いた絵画展に感銘を受け、構想が固まります。

 そこで、U2はイーノにプロデュースを依頼します。が、イーノは乗り気ではありません。自身がロキシー・ミュージックでロックの最前線にいた訳ですが、既に音楽的関心は別の次元にあったからです。しかし、U2側は非常に熱心です。そこで、イーノは最も信頼する同志ラノアを引き連れてダブリンに赴きU2メンバーとの面談に臨みます。U2にしてみればイーノに依頼してるのであって、ラノアは眼中にありません。ラノアは、依然として知る人ぞ知る存在でした。協議の末、イーノ/ラノアの共同プロデュースで話がまとまります。

 実際の録音セッションは、84年5月から約1ヵ月間、アイルランド北東部のスレイン村の古城に楽器・録音機材を搬入し、U2メンバーと関係者一同が住み込みで行われました。時には、朝10時から深夜1時まで続きました。集中力と創造性の究極の融合です。

 「焔」は84年10月にリリース。各国チャートを席巻します。因みに、音盤ジャケットの写真が正にスレイン城です。名義上は、イーノ/ラノアの共同プロデュースですが、実際のレコーディングを仕切ったのはラノアでした。ラノアは、U2の音楽をパンク・ロックからアート・ロックへと大きく変貌させた最大の功労者です。

 そして、革新的プロデューサー、或いは、スタジオの魔術師としてのダニエル・ラノアの名前が一気に知られることになります。ここから後は、現代ロック・ポップの歴史そのものです。が、もう1枚だけ、紹介します。ラノア自身が数多あるプロデュース作品の中で最も印象深いと言っている音盤、ボブ・ディランの「オー・マーシー」です。

1989年、ニューオリンズ

 ラノアは、U2からの信頼と尊敬を得て、その後も、最高傑作「ヨシュア・トゥリー」を含めU2をプロデュースし続けます。その縁で、U2のリード・ヴォーカル、ボノがボブ・ディランにラノアを紹介します。1988年の初夏のことでした。

 この頃のディランは、と言えば、最新盤「ダウン・イン・ザ・グルーヴ」の評価が非常に低く、セールスも伸びてません。実はその前の作品「ノックト・アウト・ローデッド」も低迷してました。ディランは、既に、功成り名を遂げていた訳ですが、過去のスターに甘んじる気は全くありません。新しい歌が頭の中で次々に生まれているのですから。次の音盤で起死回生を狙います。そこで、ボノから紹介されたラノアを起用します。

 実際の録音は、1989年2月から4月にかけて、ニューオリンズの閑静な住宅街ソニアット通り1305番地の家屋に楽器・録音機材を持ち込んで行われました。録音は、夜間に限って行われました。それがディランのスタイルです。太陽が沈み、月光の中に浮かび上がる人間の本性と癒しを歌うのです。ラノアは「夜の音楽」を包み込む薄い靄がかかったサウンドをデザインします。それが、ディランの歌の力を呼び覚まし、聴く者の胸を突くのです。

 「オー・マーシー」は89年9月にリリース。批評家に絶賛され、セールスも好調。50歳を前に、ディラン完全復活を告げました。何事につけ辛口なディランですが、ラノアの的確な仕事ぶりに対し深い尊敬の念を示した、と伝えられています。

2024年、カナダ再び

 ダニエル・ラノアは、既に古希を超えています。生ける伝説です。一方、プロデューサー業だけでなく、ミュージシャンとしても現役バリバリです。2022年9月には最新盤「プレイヤー、ピアノ」をリリース。聴けば、誰の胸の奥にもある懐かしい風景を喚起します。虚飾を排した純朴にした美しい音楽。

 今年4月には、ニュー・ブランズウィック州モンクトンを皮切りに、ケベック州、スプリング・ツアーが行われます。

 カナダが誇る偉大なる音楽家の1人です。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身