「ザ・トラジカリー・ヒップ」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第22回

はじめに

 私事ですが、オタワに着任して、早いもので、1年11ヶ月が過ぎました。この連載も22回目です。カナダは非常に若い国ですが、タイトルの通り、数多くの秀逸な音楽家を生んでいます。圧倒的な才能に溢れる天才・鬼才・異才が目白押しです。中学生で洋楽を聴き始めて以降、自然にカナダ出身のアーティストも聴いて来ていたの、大概の有名アーティストは知っているつもりでした。しかし、それは正に「井の中の蛙大海を知らず」でした。

 オタワに着任して、徐々に同僚・知人・友人が増え、音楽談義に花を咲かせていました。2022年の夏です。

カナダ人A氏「そんなにロックが好きなんだから『ザ・ヒップ』は知ってるでしょ。カナダの誇りだよ」
私「えっ。知らない。誰?」
A「トラジカリー・ヒップのことですよ。」
私「いや。初めて聞く名前だよ。でも、印象に残る名前だね。」
A「バンド名が示唆するように、オルタナ系のサウンドだよ。トルドー首相も大好きだと公言してる。」
私「へー。」

 という訳で、私は、トラジカリー・ヒップをオタワに来て初めて知った次第です。ほぼ予備知識無しに、聴き始めました。聴けば聴くほど、ザ・ヒップのサウンドに魅せられました。ロックの原点みたいなサウンドです。米国のREMに似てるとも感じましたが、同時に、とてもカナダ的なバンドだと思いました。コアなファンのみならず、多くのカナダ人がトラジカリー・ヒップのことを親愛の情を込めて、「ザ・ヒップ」と呼んでいます。私が聴き始めた時は、既に活動を停止して6年が経っていました。劇的な最後の瞬間も後になって知りました。それでも、心からの敬意を込めてザ・ヒップと呼ばせてもらいます。

 という次第で、今回は、ザ・ヒップについてです。

オルタナティブ〜ロックの原点回帰

 ザ・ヒップを聴き、彼らのライブ映像を観ていると、音楽の原風景を感じます。同時に、音楽が辿って来た長い歴史を垣間見る思いがします。

 と言うのは、音楽は、太古の昔からとても自由なもので、皆が声をあげ、石や骨や木を叩き、喜怒哀楽を表し、時に、祈り、祝福し、悼んで来たからです。ザ・ヒップのコンサートがそれに重なるのです。

 そして、時代が進むにつれ、音楽は洗練され、やがて、偉大な先人達が音楽の奥義を様々に探究し、美しく響く法則を発見し、伝承されます。教会は音楽を利用し、一層の発展を遂げます。和声論が確立し、偉大な作曲家群が西洋古典音楽を究極の芸術表現へと昇華させ、世界を席巻します。

 20世紀になると、そんな古典音楽とアフリカのリズムが融合して、ジャズが生まれ、やがてロックンロールが誕生します。ロックンロールは、若者が必然的に抱く理由なき抵抗感と不満と葛藤を完璧に吸収し、一気に現代の音楽の主流になります。近代科学技術と市場経済がロックンロールに推進力を与え、強大な産業へと変貌します。結果、音楽は、芸術性と商業主義の境界線で彷徨始めます。「売るために妥協し、その結果売れた」のと「心の底から表現したいものを表現した結果、売れた」の差は大きいのです。真実は、アーティストの心の中にしかないかもしれません。しかし、長い目で見れば、聴衆にも分かるのです。

 そこで、ザ・ヒップです。彼らのサウンドには、虚飾を排し、自分達にとって正直であろうとする強靭な意思がある、と感じます。耳障り良くするために、砂糖をコーティングしたり、人口着色料を使ったりすることを拒否しているのです。洗練され、進化し、贅肉が付いた商業化されたロックに背を向けた、原点回帰です。そこから、別の進化の道を歩み始めたのです。ザ・ヒップがオルタナティブ・ロックと称される所以です。一方、ザ・ヒップは、商業的に大成功しています。33年に及ぶ活動期間に、1枚のEP(デビュー盤)、13枚のスタジオ・アルバム、ライブ盤1枚、シングル盤50枚余をリリースし、9枚がカナダのアルバム・チャートの首位になっています。カナダで最も売れたバンドです。それでも、商業主義に堕すことなく、カナダという国の核心を衝いて来たのです。そんなザ・ヒップをカナダのオーディエンスは愛して止まなかったのだと思います。

キングストンの出合い

 ザ・ヒップは、キングストンで誕生しました。始まりは、1984年です。この時、ボーカルのゴード・ダウニーは20歳で、クィーンズ大学で人文学専攻でした。ゴードは、ドラムのジョヨニー・フェイと一緒に様々なプレイヤーと不定期に活動していました。そこで、地元の別のバンド「ザ・ロデンツ」の凄腕ギタリストのロブ・ベイカーとベース奏者ゴード・シンクレアがゴード・ダウニーとジョニーに合流します。ロブは、ゴード・ダウニーのカリスマ性のある強靭な歌声は『最強のフロントマン』になると直感したと言います。ここに4人組のパーマネントなバンドが成立。引き続きロデンツと名乗り、クィーンズ大学の学生街のバーで活動し始めます。

 1986年、この4人組ロデンツは、かなりイケたバンドではありましたが、1986年、ゴードは、幼なじみのギタリスト、ポール・ラングロアに声をかけます。サウンドに厚みが欲しかったのです。ポールは、当時、ファスト・レストラン・チェーンの「レッド・ロブスター」で働いていましたが、バンドに参加するために辞めました。ここで、ボーカル、ドラム、ベース、にギターx2の5人組が誕生します。そして、バンド名は、元モンキーズのマイク・メネエスが製作した短編コメディーの連作映画「エレファント・パーツ」の中の一つの短編のタイトルから拝借しました。敢えて和訳すれば、「悲劇的なまでに飛んでいる」でしょうか。ヒップは、ラブ&ピースのヒッピーに通じます。語感は、常識破りの飛んでる前衛的なイメージで、周りから見れば痛く可愛そうな程です。そんな名前を名乗ったところに、我が道を行く彼らの矜持があるように感じます。

 そして、トラジカリー・ヒップは、30年余にわたり、一切のメンバーチェンジ無しで、この5人は活動を共にします。

デビューEP「トラジカリー・ヒップ」

 5人は、まず、キングストン界隈のクラブから、徐々に活動の場をオンタリオ州全体に広げていきます。オンタリオ州は面積にして日本の2.8倍の広大な州です。南部の都市を中心に小さなクラブやバーで機会さえあれば、何処にでも出かけて演奏したといいます。

 1987年暮れには、7曲入りのデビューEP「トラジカリー・ヒップ」を地元独立系レーベルからキングストン近郊のみでリリースします。そして、1988年の春先に5週間かけて、カナダ全土でコンサート・ツアーと言うか、ドサ周りを敢行します。片田舎の小さな会場で、奇妙な名の無名の新人バンドを見た観客の反応は悪くなかったそうです。デビューEPは、徐々にカナダ全土でリリースされていきます。シングルカットされた「スモール・タウン・ブリングダウン」を筆頭に佳曲ぞろいです。今、聴いてもインパクトのある音盤で、ジャケット写真も、蒼い情熱が潜む唯ならぬ雰囲気です。ザ・ヒップの魅力がほぼ全開しています。しかし、FMラジオではある程度オンエアされたものの、当時は全く売れませんでした。

 似たような経歴の新人バンドは星の数ほどあります。が、ザ・ヒップの運命の扉は、この後に開くのです。

ブルース・ディッキンソンの発見

 1988年11月の或る日の朝の事です。米大手のMCAレコードの新任副社長がマンハッタンの自宅で朝食を食べている時に、新人アーティストのオムニバス盤CDをBGMとして流していました。すると、或る曲が妙に耳に残ります。調べると、トラジカリー・ヒップの「スモール・タウン・ブリングダウン」でした。即座に連絡先を調べて、ザ・ヒップのマネージャーと連絡を取ります。兎に角、彼らのパフォーマンスを観たいのだと。直近の公演は、11月11日(金)にマッセイ・ホールでのトロント音楽賞への出演でした。因みに、この夜のチケットを見れば、ザ・ヒップの名も載っています。超多忙な日程をぬって、ディッキンソン副社長は、1泊2日の予定でトロントに飛びます。この夜、ザ・ヒップは2曲だけ演奏しています。ゴードが1曲目の歌い出しでマイクを落としてしまうハプニングがありました。メンバーは動揺し、演奏が破綻しかねない状況だったといいますが、カリスマ的なゴードの機転が効いて、難局を乗り切りました。

 翌12日(土)、ディッキンソン副社長は、ザ・ヒップとの契約も視野に入れて、ランチにザ・ヒップを招待します。実は、ランチの後は、ニューヨークに帰る予定でした。しかし、その日の夜、ザ・ヒップがトロントの名門クラブ「ホースシュー・タヴァン」に出演すると知ると、予定を変更し、ザ・ヒップのパフォーマンスを観に行きます。そこで、即座に、MCAレコードと長期契約を結びます。

MCA第1弾「アップ・トゥ・ヒア」〜第2弾「ロード・アップル」〜飛躍

 1989年春、ディッキンソン副社長の強い意向で、ザ・ヒップは、米国テネシー州ナッシュビルの超名門「アーデント・スタジオ」にて第2弾の録音に取りかかります。MCA社の意気込みも感じます。何故なら、アーデント・スタジオは、レッド・ツェッペリン、ボブ・ディラン、B.B.キング、ジェームス・テイラー、オールマン・ブラザース・バンド等々の錚々たるアーティストが録音した場所。経費も相当なものだからです。無名の新人バンドに眠る才能の原石に賭けたのです。ザ・ヒップも、ライブで演奏して観客の反応の良い曲を中心に各楽曲に磨きをかけます。1989年9月、結果が出ます。

 捨て曲なしの全11曲を収録した「アップ・トゥ・ヒア」は、音楽的にも商業的にも大成功です。最初の1年だけで10万枚を売り上げ、1989年のカナダ年間アルバム・チャート14位。90年1月にゴールド・ディスク、3月にはプラチナ・ディスク認定を受け、年間チャート5位です。ジュノー賞の最優秀新人賞も得ます。

 翌91年2月、第3弾「ロード・アップル」をリリースすると、4月には初めて、カナダのアルバム・チャートで首位に立ちます。この音盤は、あのダニエル・ラノアのスタジオで録音されました。ザ・ヒップの唯一無二のサウンドが完全に確立しました。2台のギターが絡み鋭角的なリズムを刻むバンド演奏に乗って、ゴードの声が彼自身が書く歌詞を力強く歌う時、人生の機微が胸に迫ります。

 ザ・ヒップは米国では大成功を収めることはありませんでした。極上のバンド・サウンドにゴードの強力な声と歌詞であるのにです。ある意味、それだからこそ、ザ・ヒップはカナダを拠点としカナダを歌い続けることが出来たのですし、ザ・ヒップの核心がカナダ人の胸に共鳴したのでしょう。

 いずれにせよ、ここから、カナダの国民的バンドの歴史が始まりました。

脳腫瘍

 光陰矢の如し。ザ・ヒップは、時代を駆け抜け、いつしか現代カナダのアイデンティティーの重要な一部をなすに至ります。決して多作ではありません。一つのアルバムを完成するのに2年余がかかります。振り返って聴けば、どのアルバムも時代を活写している部分と時代に関わらない普遍的な部分が混在していると感じさせます。そして、バンドの一体感が損なわれることはありませんでした。しかし、何事にも予期せぬ事態は生じます。天災は忘れた頃にやって来る、と言います。

 2015年12月、ゴードが末期の脳腫瘍と診断されるのです。

 ザ・ヒップは、この診断に先立ち既に新音盤の録音を完了しており、「ゴギー・スターダスト」として16年3月にリリース予定で、その旨公表されていました。このタイトルは、デビッド・ボウイの傑作「ジギー・スターダスト」に由来します。しかし、16年1月、ボウイが逝去します。更に、2月にはゴードが発作で倒れます。これを受けて、ザ・ヒップは、アルバム・タイトルもリリースの時期も、そしてバンドの今後のあり方についても真剣に検討します。

 2016年5月、ザ・ヒップは、ゴードが脳腫瘍と診断された事を公表します。合わせて、夏にカナダ全土で公演ツアーを行うと表明します。

 6月17日、ザ・ヒップの最後のアルバム「マン・マシーン・ポエム」がリリースされます。

2016年7月22日〜8月20日

 ザ・ヒップの最後のツアーは、1カ月で10都市を周る現代カナダ史の重要な1ページを刻みます。

7月22日、ヴィクトリア、@セイブ・オン・フーズ・メモリアル・センター
  24日、バンクーバー、@ロジャーズ・アリーナ
  28日、エドモントン、@リクサル・プレイス

8月1日、カルガリー、@スコシアバンク・サドルドーム
  5日、ウィニペグ、@MTSセンター
  8日、ロンドン、@バドワイザー・ガーデンズ
  10日、トロント、@エアカナダ・センター
  12日、同上
  16日、ハミルトン、@ファースト・オンタリオ・センター
  18日、オタワ、@カナディアン・タイヤ・センター
  20日、キングストン、@ロジャース・K-ロック・センター

 脳腫瘍で発作も起こしているゴードの体調に気遣いながら、ザ・ヒップは万全の準備でこのツアーに取り組みます。医療チームも同行です。

 30年余の集大成だから、セットリストが凄いのです。デビュー盤から最新盤までの中から90曲です。10都市11公演で、毎回、90曲の中から20曲程を選び、全く違うセットリストで演奏したのです。30年余の一貫した活動の賜物です。他の大物アーティストの場合は、セットリストを決めて基本的にはそれを繰り返す場合がほとんどです。臨時で雇ったミュージシャンがバックアップします。しかし、ザ・ヒップは全て5人だけです。一回の公演に投入するエネルギーが半端ありません。

 8月20日の千秋楽は、ザ・ヒップ創世記のキングストン。素晴らしい音楽的冒険の後の帰郷です。1曲目はサード・アルバム「フルリー・コンプリートリー」収録の『フィフティ・ミッション・キャップ』で始まりました。アンコールは3回。合計30曲を演奏し切りました。そして、ザ・ヒップの30年余の活動の最後となった曲は『アヘッド・バイ・ア・センチュリー』です。第5弾音盤「トラブル・アット・ザ・ヘンハウス」に収録。シングルカットされてカナダ・チャートで首位になった曲です。フォーク・ロックのナチュラルな色調の佳曲で、日本でも放映されたCBCのテレビ・ドラマ「赤毛のアン2」の主題歌でもありました。

 トルドー首相も会場に駆けつけ、メンバーを激励。CBCはテレビとラジオで全国に生放送し、ネットでも配信。1170万人が視聴したそうです。カナダ人の3人に1人が観た計算です。ザ・ヒップは完結しました。

結語

 ゴード・ダウニーは、闘病の末、2017年10月17日、他界。ザ・ヒップは物理的にも消滅します。他のメンバーは、それぞれの道を歩み始めました。

 しかし、ザ・ヒップの最後の日々は克明に記録されていました。そして、ドキュメンタリー映画「ロング・タイム・ランニング」が同年のトロント映画祭でプレミア上映されました。Amazon primeで視聴可能です。言葉を超えたカナダの音楽と青春と友情の物語です。

 ザ・トラジカリー・ヒップよ永遠なれ。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身