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山野内勘二

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「レナード・コーエン」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第4回

   皆様、こんにちは。

 10月も中旬にオタワでは晩秋の気配が濃厚です。長崎で育った僕にとっては、ほとんど冬ですが、燃えるような紅葉を見ていると、やはり秋なのだと納得します。読書の秋、食欲の秋、馬肥ゆる秋、で「芸術の秋」という言葉に思いが至ります。芸術と言うとちょっとペダンチックに響きますが、要するに、人間には己を表現したいという本能があるんだと思います。崇高で美しいものから邪悪で醜いものまで矛盾を内包する人間が、自らを虚心坦懐に眺めて、内側から溢れてくる思いが文学や絵画や音楽といった形になっているのだと感じます。

 そこで、今月は、カナダが生んだ真の芸術家ということで、レナード・コーエンを取り上げたいと思います。溢れる才能で文学と音楽の境界線を歩んだ偉人です。

1.きっかけはロバータ・フラック

 まず個人的なきっかけですが、僕が最初にレナード・コーエンを知ったのは、ロバータ・フラックの大ヒット『やさしく歌って』のLPを聴いた時です。田舎の高校生1年生でした。A面1曲目がお目当ての『やさしく歌って』です。ロバータの素晴らしい歌唱力に酔いしれアルバムを聴き進めてB面の最後に来た時、言葉でうまく言い表せない感動というか衝撃を受けたのを憶えています。

 それは『スザンヌ』という曲で9分45秒の長尺で、歌詞はよく理解できませんでしたが、ロバータの素晴らしい声で語るように歌われるシンプルな旋律に心が震えました。B面の最後だけ何度も繰り返して聴きました。こんな素晴らしい歌をいったい誰がつくったのだろうと思い、チェックしたらレナード・コーエンが書いた曲でした。そして、レナード自身の歌を聴いた時の印象は、ボブ・ディランみたいだな、というものでした。派手さはなく地味なんだけれど歌詞と旋律が一体となって迫るのです。

2.レナード・コーエンとは何者だ?

 その後、今に至るまで、折に触れレナード・コーエンを聴いて来ました。そして、敢えて一言で描写すれば、レナード・コーエンは己の表現を求めて82歳で逝くまで走り続けた生涯現役の本物の表現者であった、と思います。

 文学では小説「ビューティフル・ルーザーズ」が一押しです。今でも入手可能なカナダ現代文学の傑作の一つとされています。1966年に出版された時、辛口論評のボストン・グローブ紙が“ジェームス・ジョイスは未だ死せず。モントリオールにおいてレナード・コーエンという名で生きているのだ”と論評しています。

 音楽面では、英国の月刊音楽誌Qが選ぶ「歴史上最も偉大な100人のシンガー」で54位にランクされています。米国の「ロックンロールの殿堂」にも列せられています。代表曲の一つがコーエン50歳の時に発表した「哀しみのダンス」収録の『ハレルヤ』です。オタワに着任して5ヶ月が経ちますが『ハレルヤ』を知らないカナダ人に会ったことがありません。僕がこの曲を下手なりに口ずさむと誰もが喜びの表情を見せます。カナダの誇りなんだと思います。先般のエリザベス女王崩御に際してオタワで営まれた葬儀の式典でも歌われていました。

 全くのトリビアですが、中島みゆきの名曲「ヘッドライト・テールライト」のサビの部分にはこの曲のエッセンスが静かに継承されているように感じます。

3.芸術家の目覚め

 そんなレナード・コーエンの人生は、それ自体が神話のような凄い物語に満ちています。

 1934年9月21日、ケベック州モントリオール郊外のウエスト・マウントの正統派ユダヤの紳士服専門店の家に生まれます。

 まず、コーエンは詩人として世に出ます。モントリオールの名門マギル大学に在学中、22歳で詩集「神話を生きる」を出版。米国の国民的詩人ウォルト・ホイットマンや前衛作家ヘンリー・ミラーの影響から、卒業後はニューヨークに出てコロンビア大学院に入ります。が、得るものは無いとして退学します。かつて、マイルス・デイビスがジュリアード音楽院に入ったものの学ぶものは無いとしてドロップアウトした故事を彷彿させます。

 レナードの場合は、故郷モントリオールに戻る訳です。職を転々としつつ詩と小説を書き溜め27歳で2作目の詩集「スパイス・ブック・オブ・アース」を出版します。その後、カナダ文化協会賞の賞金を得ると、ギリシアはエーゲ海南東部に浮かぶ樹木も生えず自動車もない人口2千人程の小島ハイドラに数年間隠遁します。次々と詩集を発表。上述「ビューティフル・ルーザーズ」もこの頃の作品です。因みに、村上春樹「遠い太鼓」にギリシアの島での生活について書いている章があって、レナードの事をつい想像してしまいます。

4.音楽への道

 1966年、コーエンはハイドラ島からニューヨークに移住します。

 理由は、音楽です。

 文学では表現し切れない心の奥底の情念を表す手段としての音楽の力と可能性を直感したのでしょう。但し、レナードには、少年の頃、モントリオールの街角やカフェでカントリー・フォークを弾き語った程度の経験しかありません。それでも、音楽だとの天啓を感じたのはハイドラ島の隠遁生活の為せる業なのでしょう。或いは、真の芸術家の心の声だったのかもしれません。

 そして、隠遁から真逆の摩天楼では、アンディ・ウォーホール主催の会合に出没する中でヴェルヴェット・アンダーグラウンド(バナナのジャケットの音盤をご存知の方もいらっしゃるでしょう)のモデル兼歌手のニコとの知遇を得ます。目的を定めると、その実現のための最良の戦略と戦術を採用した感があります。ニコから歌について大きな示唆を得たといいます。それは、歌唱力の本質は、リズム感や音程の正確さというよりは、揺れる感情を自分に正直に伝える力量なのだ、という事です。聴けば、分かりますが、レナードは、歌もギターも決して上手い訳ではありません。ヘタウマです。味があり、個性的です。他の誰でもなくレナードだけに可能な方法です。それが聴く者の胸の奥の非常にデリケートな箇所で共鳴するのです。

 音楽の世界では無名のレナードの異能の才は、ニューヨーク移住から程なくして、伝説のプロデューサー、ジョン・ハモンドの知るところとなります。ベニー・グッドマン、ビリー・ホリデイ、ボブ・ディラン等々を世に出した男です。才能の原石に将来の輝きを見出したのです。

5.飛翔

 1967年12月、33歳にしてデビュー音盤「レナード・コーエンの唄」がリリースされます。ジョン・ハモンドの肝煎りです。1960年代後半は、ロック・ミュージックが凄い勢いで発展する時代です。ジミ・ヘンドリックスらのサイケデリック・サウンドが一世を風靡している状況で、生ギター主体の簡素なサウンドです。地味と言ったらこれ以上地味なサウンドはないかもしれません。が、此処には、時代の流行り廃れとは無縁の普遍性があります。語るように歌う『スザンヌ』には、詩人・歌手・作曲家・演奏家としてのコーエンの巨大な才能が集約しています。ロバータ・フラックは、この音盤に魅了された多くの人の一人という訳です。

 レナードの音楽的才能は更に開花していきます。1977年には、ビートルズやローリングストーンズも手掛けた音の魔術士フィル・スペクターのプロデュースで音盤「ある女たらしの死」を発表します。タイトルからして短編集を想起させます。音楽と文学が共存する稀有な42分34秒です。

 そして、レナード・コーエンの音楽の求心力を端的に示すのがR.E.M.ら18組が参加したカバー音盤「アイム・ユア・ファン」です。名曲は如何なるアレンジでも名曲である事を証明すると同時に、オリジナルの凄さを改めて感じさせます。音楽好きな方は是非、聴いてみて下さい。

   己の心の声に忠実に我が道を行ったレナード・コーエンは、カナダの誇りです。

(了)

山野内勘二
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「グレン・グールド」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第3回

 皆様、こんにちは。

 9月の声を聞いて秋の気配が漂って来ました。自然の恵みを実感する美しい季節です。そして、カナダについて改めて実感するのは、非常に若い国だということです。1867年が英連邦の自治権を持つドミニオンとしてカナダが発足するのが1867年7月1日、今年で建国から155年。正式に外交権を持つ主権国家となったウェストミンススター憲章は1931年です。兎に角、若いです。若さは必然的にエネルギーを放出します。大らかな熱量に満ちているカナダは音楽においても凄い天才を次々に世に送り出しています。

 そこで、現代の音楽界に与えたインパクトの大きさで、1人のカナダ人音楽家を厳選すれば、グレン・グールドに尽きると思います。

 兎に角、膨大な録音を残しています。数年前にグールド全録音ボックスがリリースされましたが、生前彼が発表を認めたものだけでCD81枚組です。23歳でレコード・デビューして50歳で没するまでの27年間でこの分量です。平均すれば、毎年CD3枚分のレコードを27年間続けて発表した訳です。恐るべき生産性、と言うか創造力です。勿論、全てが傑作中の傑作と言えば、贔屓の引き倒しになってしまいます。が、駄作はありません。どの1枚をとっても素晴らしいストーリーに満ちています。正に、天才の証です。興味深いことに、その録音は満遍なく幅広いものではなく、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンに集中しています。ショパンはピアノ・ソナタ第3番だけです。

 そして特筆すべきは、グールドの演奏です。人類の歴史を画する偉大な作曲家が残した音楽について、思う存分に独自の解釈で演奏しています。その結果、グールドに先立つ数多の偉大なピアニストの演奏とは全く異次元の作品に仕上がっています。勿論、残された楽譜をグールドなりに「忠実に」弾いている訳ですが、テンポを極端に早くしたり遅くしたりと奔放に設定し、自由に装飾音を加え、リピート記号は時に無視します。完全に自分の音楽として演奏しています。或るインタビューで、グールドは「10代の頃は、作曲家になりたかった」と吐露しています。他人が作った音楽を再現する事には我慢出来ず、自分自身の音楽として作曲するが如く演奏していたのかもしれません。

 そんなグールドの作品群から1枚だけ選べば、バッハ「ゴルドベルク変奏曲」です。バッハを通してグールドのほぼ全てが凝縮しています。録音は1956年6月10日から16日、世界最大のレコード会社コロンビアが誇るニューヨーク30丁目スタジオで行われました。

 此処に至る過程を簡単に紹介します。グレン・グールドは、1932年9月25日、トロントに生まれます。両親とも音楽に造詣が深く、特に母親は、ノルウェーを代表する作曲家グリーグの親類でした。3歳の時から母にピアノを習い始めると瞬く間に上達します。神童神話には事欠きませんが、7歳でトロント王立音楽院(The Royal Conservatory)に合格します。1886年創立のカナダ最高峰で、ジョージ6世(エリザベス女王の父)が英連邦最高の音楽院の1つと称賛しています。1945年にはトロント交響楽団と共演して、コンサート・ピアニストとしてデビュー。史上最年少の13歳で卒業。まずカナダ国内での公演やラジオ出演の活動を本格化します。そして1955年1月22日、ニューヨーク公演を行います。演奏を聴いた伝説のプロデューサー、オッペンハイマーは圧倒され、翌日、終身独占契約を結びます。グールド22歳です。デビュー盤としてグールドが「ゴルドベルク変奏曲」を提案するとコロンビア側は反対します。当時、ピアノでこの曲を録音した例はほとんど無く、しかもバッハの中では人気のない地味な曲と見られていたからです。が、グールドは全く譲らず、コロンビア側が折れて録音、1956年1月に発表されます。

 グールドの「ゴルドベルク変奏曲」はルイ・アームストロングを抜いて新譜チャート首位を獲得する程、商業的にも大成功。のみならず、バッハの演奏に革命を起こしました。透明感のある音色で一音一音に命が宿り音楽の骨格が鮮明です。無駄な音は1つとして無く、バッハの美しき世界を描いています。同時にジャズのように躍動的です。実は、ジャズ界の巨匠キース・ジャレットもチェンバロでこの曲を録音していますが、グールドの方がより現代的です。古色蒼然とした練習曲のようなバッハ解釈を葬り去ったのです。今や「ゴルドベルク変奏曲」は最も人気のあるバッハ作品の1つです。

 グールドを記憶に残る唯一無二のピアニストにしているもう一つの理由は、奇行とも言える様々なエピソードです。例えば、録音の際に鼻歌を歌いながら演奏しているので、耳をすまさなくても名曲の向こう側からやや調子外れの声が聴こえてくる。ピアノ演奏の時には父親手製の極端に低い椅子に座るので、鍵盤の前に顔がある。夏でも分厚いコートとマフラーを着ている。食事は多量のビタミン剤で済ませる等々です。天才ならではの微笑ましい個性とも言えます。

 もう一つだけ大切な事があります。グールドは、31歳で公演活動を辞め、スタジオでの録音に特化していきます。音楽芸術に対するグールドの思想が集約しています。観客を前にやり直しの出来ない状況でどこまで真実の演奏が可能かという命題に対し、スタジオで思う存分弾いて、最高の作品を創る事を選択したのです。この12年後、ビートルズも公演活動を辞めて、スタジオに篭り「サージャント・ペパーズ」や「アビーロード」といった名盤を生んでいくのと本質は同じです。

 最後に、文化勲章も受賞した音楽評価の泰斗、吉田秀和に「世界のピアニスト」(ちくま書房)という評論集があります。29人のピアニストを縦横無尽に論じている名著ですが、グールドが筆頭に配置され最大のページ数が費やされています。興味があれば、是非。

 改めて、カナダが生んだ20世紀最高峰のピアニスト、グレン・グールドに耳を傾けてみては如何ですか?

(了)

山野内勘二
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

ジャズが紡ぐ日本とカナダの友情〜秋吉敏子の場合

 先日、カナダ産業省のサイモン・ケネディ次官と意見交換をしました。緊迫するウクライナ情勢の下でハイテク産業協力、エネルギー安全保障、更にはクリティカル・ミネラル(希少鉱物)安全保障等についての日加間の緊密な協力の重要性で完全に一致しました。とても実り多い会談でした。

 実は、本題に入る前にお互いの趣味である音楽、特にジャズについて話したんです。その際にマイルス・デイビスやジョン・コルトレーン等ジャズの歴史を切り拓いた巨人達について話しが弾んだんです。ケネディ次官は日本のジャズ音楽家にも詳しく、特にトシコ・アキヨシが大好きだと言いました。トシコ・アキヨシとは秋吉敏子さんです(以下敬称略)。日本を代表するジャズ・ピアニストにして作曲家・編曲家、バンド・リーダーです。若くして米国に移り、ニューヨークを拠点に活躍。グラミー賞ノミネーション14回、米国のジャズ・ジャーナリズムの最高峰ダウンビート誌で女性初の作曲賞と編曲賞を受賞、「ジャズの殿堂」入りも果たしています。紫綬褒章、旭日小綬章も授けられジャズ史に残る音楽家です。カナダ政府高官とのジャズ談義・秋吉敏子談義のおかげでその直後の本題が実にスムーズに運びました。ジャズが日加間の友好親善の一層の発展に貢献するのだと改めて実感しました。

 しかし、今回の連載で皆様にお伝えしたいのは、秋吉敏子という巨大な才能が如何にして発見されたかという事なのです。それこそ、1人のカナダ人と1人の日本人の真の友情の物語です。少々長くなるかもしれませんが、お付き合い下さいませ。

***

 秋吉敏子は、1929年12月12日に満州で生まれ、小学1年生の時モーツアルトの「トルコ行進曲」を聴いて天啓を受けてピアノを習い始め瞬く間に上達します。が、45年8月15日の終戦で両親の故郷大分に引き揚げます。終戦直後の厳しい窮乏生活でしたが、秋吉敏子は米軍キャンプで米兵相手のジャズ楽団でピアノを弾き始めます。クラシックで鍛えた基礎と抜群の音楽センスで頭角を顕すと大分から福岡、そして東京へと進出します。日本人のジャズ音楽家、ジャズ愛好家の間では一目置かれる存在でしたが、レコードを出している訳はありません。はっきり言って一般的には無名の若く貧しいジャズ・ピアニストでした。但し、御本人の心象風景は日々ジャズの奥義に迫る充実した日々であったと著書「ジャズと生きる」(岩波新書)で述べています。

 1953年11月、そんな秋吉敏子に運命の出会いが訪れます。

 米国から名うてのジャズ音楽家集団JATPが初めての日本公演ツアーで来日中でした。JATPとはJazz  At  The  Philharmonicの頭文字で、ヴァーヴ・レコードの創始者にしてジャズ興行師のノーマン・グランツが率いる面々です。オスカー・ピーターソン、エラ・フィッツジェラルド等々のコンサートは大変な話題になりました。特に、「鍵盤の帝王」の異名を持つ天才オスカー・ピーターソン率いる彼のトリオは大人気です。実は、オスカー・ピーターソンはカナダを代表する音楽家です。首都オタワの中心に位置するナショナル・アート・センター前の銅像が象徴的です。英領ジャマイカ出身の鉄道員を父としてモントリオールに生を受けました。

オンタリオ州オタワにあるオスカー・ピーターソンの銅像。Photo from website of Culture, history and sport of Canada
オンタリオ州オタワにあるオスカー・ピーターソンの銅像。Photo from website of Culture, history and sport of Canada

  来日中のオスカー・ピーターソンは、東京に優れたピアニストがいるとの話しを聞きます。と、いうのも、1953年11月と言えば、マッカーサー元帥率いるGHQの占領が終わって1年半後ですから東京には駐留米軍関係者が多数いて、彼らの間でトシコ・アキヨシは凄いとの評判が立っていたのです。そういう経緯で、秋吉敏子が昼に出ている「テネシー・コーヒー・ショップ」にオスカー・ピーターソンが来店します。天才は天才を知る、と言います。有名か無名かは全く無関係で、国籍も年齢も性別も関係ありません。オスカー・ピーターソンは、一曲聴いただけで、秋吉敏子の素晴らしい潜在力を見抜きます。その日の夜は「クラブ・ニュー銀座」に再び秋吉敏子を聴きに来たのです。

 そして、オスカー・ピーターソンは、JATP総帥にしてプロデューサーであるノーマン・グランツに、秋吉敏子を録音するように言うのです。ノーマン・グランツにしてみれば、演奏を聴いた事のない無名の日本人の女性のピアニストです。が、「オスカー・ピーターソンが保証するのだから自分は聴く必要はない」と言って即断即決。契約と録音が決まりました。秋吉敏子の運命の扉が開いた瞬間です。

  一週間の準備期間の後、11月13日深夜から、有楽町駅近くのラジオ東京(現TBS)スタジオでノーマン・グランツ立会いの下、14日早朝までレコーディングは続きます。オスカー・ピーターソン・トリオからベースのレイ・ブラウン、ギターのハーブ・エリス、そしてエラ・フィッツジェラルドの伴奏陣からドラムのJ.C.ハードです。天下のJATPの世界最高峰の演奏家を率いて、ほとんどリハーサルも無く本番に臨みます。この時のセッションで、秋吉敏子のオリジナル『トシコズ・ブルース』を含め8曲がOKテイクとなります。これこそ秋吉敏子のデビュー盤「トシコズ・ピアノ」です。23歳の彼女の溢れる才能全開です。この音盤は、日本発売に先立ち、米国で1954年初頭にリリースされジャズ誌「ダウンビート」で3星を獲得。ジャズ関係者に注目され、3年後には日本人初のバークレー音楽院進学、ニューヨークを拠点としての八面六臂の活躍が始まります。

 1953年11月のカナダ人オスカー・ピーターソンによる秋吉敏子の発見がジャズ史に新しいページを開いたのです。日加関係の幅広さと奥深さを示す素晴らしいエピソードだと思います。

(了)

山野内勘二
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

音楽の楽園〜もう一つのカナダ

 バンクーバー新報の読者の皆さま、初めまして。山野内勘二と申します。

 今月から、毎月第3木曜日に、カナダと音楽の多彩な関係について極私的なエッセイを掲載させて頂きます。

 振り返ると、僕が中学生になった頃、深夜放送のラジオ番組から流れて来る欧米の音楽に完全に魅せられました。最初は、欧米のフォーク・ミュージック、やがてフォーク・ロックからハード・ロック、プログレッシブ・ロック、そしてジャズ、遂にはクラシックへと音楽の楽園にのめり込んでいきました。その過程で知るに至った事の一つは、世界的に活躍し日本人にもお馴染みのミュージシャンにカナダ出身者が意外というか非常に多い事です。と同時に、その事実が余り知られてもいません。実は、音楽に限らず、AIや量子コンピューター等のハイテクでもカナダは世界をリードしているのですが、知られてないです。きっと、カナダにはunderstatementの美学のような要因があるのかもしれません。前置きが長くなりましたが、そんなカナダの「音楽の楽園」という一面や日本との関わりを紹介していければと思っています。

 さて、7月1日はカナダの建国を祝すカナダ・デーだった訳ですが、この日、東京は青山のカナダ大使館が誇るオスカー・ピーターソン・ホールにおいて極めて意義深いイベントが行われました。カナダが誇るロック・バンドThe Guess Whoのリード・ギタリスト、ランディー・バックマンの愛機1957年製グレッチPX6120を巡る60年間の旅路を象徴するものです。日本とカナダの友情という意味でもカナディアン・ロックの歴史という文脈でも極めて意義深いイベントでした。

 60年前に遡ります。マニトバ州ウィニペグの19歳の無名の音楽青年ランディー・バックマンは、チャッド・アラン&リフレクションズという地元のバンドに参加します。その頃、バックマンは1957年製グレッチPX6120を購入します。清水の舞台から飛び降りる覚悟の超高価な買い物でした。将来への夢と音楽への愛の為せる業です。この田舎バンドは徐々に頭角を顕し、メンバー交代とバンド名変更を繰り返し、1969年にThe Guess Whoとなります。そして1970年1月、最高傑作の呼び声の高いアルバム「アメリカン・ウーマン」を発表します。同名のシングル盤は、カナダと米国でチャート首位に立ちます。一躍、世界のトップ・アーティストの一角に立ったのです。この間、バックマンはバンドの要として作曲、編曲、ギター、歌で大活躍。そして、常にこのグレッチで曲を創り演奏もしていて己の分身というか身体の一部だった訳です。

 ところが、1977年トロント公演の際に宿泊していたホテルで厳重に管理していた愛器グレッチが盗難に遭います。警察に被害届けを出すも絶望的。以来、バックマンは、このグレッチを探し続けて来ました。が、行くへは杳として知れませんでした。諦めきれぬバックマンも古希を遥かに過ぎました。

 が、遂に2020年の新型コロナ感染爆発の最中、あの1957年製グレッチPX6120が見つかったのです。奇跡です。バックマンの強い思い故でしょう。如何なる経緯で日本へ渡ったかは不明ですが、アーティスト兼作曲家のTakeshi氏が所有していることが判明しました。バックマンとTakeshiの間の折衝の末、45年の歳月を経て分身のギター・グレッチがランディー・バックマンの元に戻ることになりました。その返還式が今年のカナダ・デーにカナダ大使館のオスカー・ピーターソン・ホールで行われたのです。その夜のバックマンとTakeshiの共演はYouTubeで見られます。激動の国際情勢の下、勇気と希望を与える音楽と友情の素敵な逸話です。

 さて、「アメリカン・ウーマン」は1970年代を代表する名曲で、レニー・クラヴィッツはじめ多くのアーティストがカバーしています。カナダのバンドの曲がアメリカを歌うというのは、カナダと米国の密接な関係を示しているとも言えます。実は、アメリカのバンドがカナダを歌う例もあるのです。ちょうど7月は、“地上最大のアウトドア・ショー”と言われるスタンピードがアルバータ州カルガリーで開催される季節ですが、米国カリフォルニアを代表するThe Doobie Brothersに「スタンピード」という1975年発表のアルバムがあります。1975年名手ジェフ・“スカンク”・バクスターが参加して一層強力になったギター・ワーク満載。ギター小僧垂涎の音盤です。ジャケット写真が正にスタンピードそのもの。西部劇と大平原プレーリーのカナダを代弁しています。

 1970年代、ロックの黄金時代のカナダを味わってみては如何でしょうか?

(了)

山野内勘二
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

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