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「アワ・レディ・ピース」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第40回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 10月の声を聞くと一気に秋が深まり既に冬の予兆を感じます。先日、朝起きたら気温は1℃。日課のウォーキングに出かけた訳ですが、近所の公園に通じる遊歩道では前日の雨で出来た水たまりに薄っすら氷が張っていました。紅葉が進み、落ち葉も目立って来ました。空気が澄んで、遠くの景色も輪郭がはっきりと見えます。

 こんな初冬の季節には、自分を元気付けるために、芯の強いロック・ミュージックを聴きたくなります。商業化されたロックではなく、ウッドストックの頃の熱量と創造性を放射するような21世紀のロックです。

 そこで、今月の「音楽の楽園」はアワ・レディ・ピース(Our Lady Peace)です。敬愛を持ってOLPと呼ばれています。1992年にトロントで結成。以来、ヴォーカル兼ギター兼ソングライターのレイン・メイダを核として30年を超えて今も現役です。カナダのオルタナ/グランジ系ロックの象徴的な存在です。現在、「OLP30」と銘打ったコンサート・ツアーを敢行中で、12月にはトロントやバンクーバーでその勇姿が観れます。

名は体を表す

 ロック史を紐解くと、幾つかの偉大なバンドはアルファベット3文字の略称を持っています。ファンにとっては、その3文字が楽団の音楽性を表すだけでなく、歴史をも語りかけるのです。例えば、ELP(Emerson, Lake & Palmer)、ELO(Electric Light Orchestra)、BST(Blood, Sweat & Tears)、BBA(Beck Bogert & Appice)等々です。そんな、ロック烈伝にOLPも列せられています。

 そこで、まず疑問が沸くのはOLPという名前の由来です。Our Lady Peace、訳しようによっては「平和の聖母」です。決してロック・バンドっぽくはありません。しかし、ビートルズもローリング・ストーンズも楽団名には強烈なメッセージが含まれています。「平和の聖母」にもバンドの思いが込められているのです。

 時は、1991年。トロント大学で犯罪学を専攻していたレイン・メイダは、英国出身のギタリストのマイク・ターナーと出会い新しいバンドを結成。「As If」と名乗り、トロント近郊のオシャワを拠点に活動を開始します。やがて、音楽プロデューサーのアーノルド・ラニと出会い、オリジナル曲を軸に活動を本格化させ、音盤制作も視野に入れていきます。必然的に、バンド名をもっと印象深く主張の明確なものに変更しようとなるのです。

 そこで、メンバー間で相談している中で、行き着いたのが詩人・作家マーク・ヴァネ・ドレンの1924年の詩集「Spring Thunder」に収録された詩『Our Lady Peace』です。ドレンは、米国イリノイ州出身で長くコロンビア大学で教鞭を取り1940年にピューリッツァー賞を受賞。アレン・ギンズバーグやジャック・ケルアックらビート世代に影響を与えています。この詩は、人間社会の混乱や戦争、暴力の中に精神的な救済を求める内容で、Our Ladyは聖母マリアの慈愛を暗示し、Peaceは魂の安寧を志向しています。

 文学的かつ哲学的で精神的な内容である上に、その響きの美しさに惹かれて、バンド名に採用したと云います。メイダ自身も「宗教的な意味はなく、混沌とした中にある平和の感覚を表したかった」と語っています。OLPは30年以上に及ぶ活動の中で進化していますが、人間の孤独、精神的苦悩、社会への問いかけが音楽の根底にあり、このバンド名は正に「名は体を表す」を地で行っている訳です。

OLP始動

 音楽に限らず、文学でも映画、絵画、ファッション等の芸術では、時として、デビュー作品に作家の核心が表れるものです。OLPも例外ではありません。

 デビュー盤「ナヴィード(Naveed)」は、ヴォーカル、ギター、ベース、ドラムというロック・バンドの黄金律が生むシンプルにしてパワフルな直裁な音楽です。1994年3月にリリースされましたが、今聴いても荒削りな中に虚飾を排した原初的ロック・ミュージックの輝きが眩しいです。音盤の表題ナヴィードとはペルシャ語で「良い知らせ」或いは「福音」を意味し、メイダが書いた歌詞には形而上学的な要素が潜み、救済と破滅の間の緊張感、希望と現実の間に引き裂かれる孤独のような二律背反がテーマになっています。哲学的な主題が荒々しいロックのリズムに乗って歌われ、聴く者の胸にダイレクトに迫ります。特に、メイダの声は、一度聴くと耳に残ります。村上龍の最高傑作「コインロッカー・ベイビーズ」の主人公ハシを彷彿させる屹立した声と言うべきでしょうか。U2のボノに近い声質です。

 「ナヴィード」には全11曲が収録されています。これらの楽曲は、1992年にOLPが結成された直後から書き溜め、デモ・テープを作って、独立系のレコード・レーベルに売り込みをかけていたものです。1993年4月に最大手ソニー・ミュージックのカナダ会社と契約。以後、デビュー盤の本格的制作に入ります。リハーサル・スタジオを借り切り、演奏力を鍛えると同時に、楽曲の完成度を高めます。この段階で加入したドラム奏者ジェレミー・タガートは100人を超えるオーディション参加者の中から選ばれた弱冠17歳の神童です。

 デビュー盤の11曲に響く全ての音はOLPの4人のものです(但し、7曲目『Denied』のリードギターだけ例外的に。後にボンジョビのギタリストに就任するフィルXがゲストで弾いた)。バンド・メンバーだけで全て録音するというのは、巨大な産業と化し専門の職業的スタジオ・ミュージシャンが録音するのが普通の音楽業界では稀有なことです。バンドの息づかいや皮膚感覚が1ミリも違うことなく伝えられるのです。

 地元トロント周辺の好事家には知られていても一般には全く無名の新人バンドOLPでしたが、デビュー盤「ナヴィード」はカナダの若者の心を掴みました。グランジ系のロックが商業的な成功に繋がる例は多くないのですが、この音盤からは5曲がシングル・カットされ、1994年に10万枚以上が売れました。カナダのグラミー賞とも言うべきジュノー賞のデザイン部門も受賞しました。この音盤のちょっと変なジャケットが評価されたのです。

 そして、OLPはロック・レジェンドの心も掴むのです。あのレッド・ツェッペリンのロバート・プラントとジミー・ペイジが結成した「ペイジ&プラント」のコンサート・ツアーに同行してオープニング・アクトを務めることになったのです。これは凄いことです。実力が認められたということです。前座と書くと軽く見られがちですが、超大物を目当てに来た聴衆を前に演奏出来るのですから、新人バンドにとっては絶好の機会です。時には、主役を食うほどの盛り上がりを見せたと云います。更に、ヴァン・ヘイレンのツアーにも同行することになりました。英米の最高峰バンドのツアーへの同行は、評判を呼び、「ナヴィード」は米国でも英国でもリリースされることになりました。

 2021年11月の段階で「ナヴィード」はカナダだけで40万枚を売り上げたと公式に確認されています。

次作への挑戦

 OLPは、1992年の結成から2年後にデビュー盤をリリースし、英米の伝説的トップ・バンドのツアーに同行。1995年には、当時人気絶頂のアラニス・モリセットのツアーにも参加しています。瞬く間にカナダ有数のバンドへと成長した訳です。

 そうなると、当然ながら次回作への期待が否が応でも盛り上がります。しかし、事はそう簡単ではありません。人によっては、その期待をプレッシャーと感じることもあるでしょう。演奏ツアーを続けながら、バンドとしての統一感を維持した上で前作を超える質を達成し、時代を先取るのは、言うは易く行うは難しです。でも、OLPは“一発屋”で終わらず、“ちゃんとアルバムを作るバンド”であることを証明したいのです。

 まず、バンドの要ベースがダンカン・クーツに交代します。そして、1996年1月、新アルバム制作の準備のために、オンタリオ州マスコーカにあるクーツの山荘に楽器と録音機材を持ち込んで約1か月間籠ります。全くのトリビアですが、マスコーカは2010年のG8サミットが開催された場所で、私も代表団の一員で参加しましたが、周りに何も無い、大自然の懐に抱かれた地でした。要するに、OLPの4人のメンバーとプロデューサーのラニーは、家族・友人・レコード会社関係者・メディアから完全に隔離された環境に身を置き合宿した訳です。しかも1月の厳冬期です。曲づくりに集中するしかありません。休憩にアイスホッケーで気分転換したそうですが。結果、20曲の新曲が出来上がりました。ほぼ毎日、新曲が出来上がった訳です。

そして、最高傑作

 1996年2月、OLPはトロントのスタジオに参集。マスコーカで出来たばかりの新曲20曲をブラッシュアップして録音します。その中からベスト・テイク11曲が厳選されます。

 そうして第2弾音盤「クラムシー」が1997年1月にリリースされました。カナダのアルバム・チャートでは初登場1位を獲得。米国でもリリースされ、ビルボード誌アルバム・チャートにも入りました。「クラムシー」はカナダと米国でもそれぞれ100万枚ずつ売り上げています。音盤の質を売上枚数で示すのは商業主義的過ぎるかもしれませんが、マスコーカの音楽三昧の合宿生活で生み出された曲は、前作「ナヴィード」を超える佳曲揃いです。今回も完全にメンバー4人のみの録音でしたが、メイダはピアノ・キーボードも弾いて、バンド・サウンドに厚みを加えています。高速のドライブ感もあればスローなバラード調もあります。メイダの声も七変化。曲想の幅が大きく1枚の音盤の中に極上のロック宇宙が拡がっています。OLPの最高傑作にして、北米におけるグランジ系ロックの最良の1枚と言えると思います。

 そんな名盤の生まれた瞬間をメイダが次のように語っています。

 「その時までの曲は全部置いていって、まったくゼロから始めたんだ。MTVもMuchMusicも、メディアもマネージャーもいない。ただ音楽を演奏して、作曲しただけだった・・・朝起きた誰かがアコースティック・ギターを手に取って、自然に曲が生まれていく。また、“音楽を楽しむ”という感覚を取り戻せたんだ・・・何かを楽しみ始めると、もう他人がそれを好きかどうかなんてどうでもよくなる。そうやってプレッシャーが完全に消えたんだ。(エドモントン・ジャーナル紙)」

継続はチカラ

 OLPは、その後もコンスタントに音盤を発表しています。

 2000年の「スピリチュアル・マシーンズ」は、未来学者レイ・カーツワイルの著書に触発された音盤です。近未来にAIが人間の知能を超える特異点が来る可能性を念頭に、改めて人間とは何かを問う傑作。バンドの生音と電子音が共存するサウンドも象徴的です。

 2002年には、創設メンバーのマイク・ターナーが抜けて、バークレー音楽院出身の米国人ギタリストのスティーブ・マズールが加入。OLPは、新たな高みを目指します。グランジ系の荒々しいサウンドからストリングスも大胆に取り入れてより洗練されたサウンドへと進化して行きます。メイダの声もかつての高音域から中音域を主体に深みのある歌唱法へと変化していきます。音盤「グラビティ」には、結成から10年を迎えたOLPの新しい面が見えています。

 2003年には「Live」をリリース。結成以来の幾多の演奏ツアーで鍛えられたライブでの実力を余すことなく見せつけます。全く私事ですが、ノイズ・キャンセリング・ヘッドホンで大音量でこのライブを聴きながらウォーキングをすると自然とチカラが沸いて来ます。ちょっと面倒くさく錯綜する難問も、きっと何とかなるとポジティブに捉えられるのが不思議です。

結語

 最新作は2025年7月に発表された「Whatever(Redux)」です。ここには、結成から33年を経ても、OLPの核にある社会の現実に関する透徹した認識と人間への温かい眼差しがあります。

 この曲は、カナダ出身でWWE所属のプロレス世界ヘビー級王者クリス・ベノワの応援歌として2002年に誕生。ベノワ入場のテーマ曲でした。「Live」にも収録されたヘヴィー・ロックの佳曲です。が、クリス・ベノワは長年のトレーニングと試合で慢性外傷性脳症を患い、2007年に悲劇的最後を迎えました。衝撃的事件でした。

 初出から23年を経て、OLPは、改めて自殺予防とメンタルヘルスへの意識を広げるために、斬新なアレンジで再録音したのです。この曲のストリーミング収益は全て北米各地の自殺防止活動に寄付すると云います。

 私達は、地球温暖化と厳しい地政学と人工知能の時代に生きています。過酷な現実の中、絶望と諦観、救済と希望を示すOLPの音楽が必要だと実感します。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「バーバラ・ペントランド」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第39回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 9月の声を聞くと、オタワでは秋の気配が日に日に濃くなっていきます。温暖化の時代故に正午前後には30℃に迫る日もありますが、朝は深呼吸すると冷んやりとした空気が肺を満たし、身が引き締まります。そして、秋と言えば、“芸術の秋”であり“スポーツの秋”です。

 さて、スポーツと芸術は一見全く別のものと思われがちですが、歴史を紐解くと非常に興味深いものがあります。古代ギリシャの誉れオリンピアの祭典では、スポーツの躍動美が彫刻や音楽で表現され、スポーツと芸術が一体となって発展していました。近代オリンピックを提唱したクーベルタン男爵は、古代オリンピアの祭典に習い、スポーツと音楽は一体として考えるべきと確信。その理念に従って、1912年のストックホルム大会からは、文学・絵画・建築・彫刻・音楽の5部門で“芸術競技”が行われ、金銀銅のメダルも授与されるようになりました。しかし、作品の輸送や客観的審査の難しさから、1948年のロンドン大会が最後の“芸術競技”となったのです。

 そして、このロンドン五輪の音楽部門には、カナダの音楽家等も参加しました。その中心メンバーの1人が女流作曲家の嚆矢にして、現代音楽の巨匠バーバラ・ペントランドで、声楽曲「Cities」を出品しました。

University of British Columbia Archives, [UBC 5.1/2414]
University of British Columbia Archives, [UBC 5.1/2414]

 そこで今回の「音楽の楽園」は、バーバラ・ペントランドです。但し、率直に言えば、日常生活の中、彼女の名前や彼女の音楽を聞くことは殆どありません。カナダ人が誰でも知っているヒット曲とかがある訳ではありません。それでも、音楽の楽園たるカナダにおける音楽の発展に注目し、その来し方を振り返れば、バーバラ・ペントランドの音楽的冒険の軌跡は鮮やかです。

ウィニペグ〜旅路の始まり

 バーバラは、1912年1月にマニトバ州ウィニペグの英国系実業家の裕福な家庭に生まれます。父親はスコットランドにルーツを持つペントランド家の出身。母親は、イングランド系のスミス家の出です。両親ともに19世紀に平原州に移民して来たアングロサクソン系で、カナダ社会のエリートです。当時のカナダはと言えば、1867年に大英帝国の植民地から自治領へと昇格しドミニオン・オブ・カナダとなり、近代国家建設が進んでいました。20世紀になると、ウィニペグは、北米全体に拡がる鉄道網の要衝にして穀物取引の中心地として発展していきます。

 バーバラが生まれた頃のウィニペグは「カナダのシカゴ」と称される程に繁栄していました。恵まれた家庭環境でしたが、バーバラは心臓疾患を抱えていて外出のままならぬ状況で幼少期を過ごします。両親とも教育熱心で、家庭内では教養が尊ばれ、クラシック音楽とシェークスピア等の英文学に溢れていました。

 静養生活が続き、運動は出来ず、基本的に室内で過ごす中、3歳にして読み書きが出来るほど才能に恵まれていました。特に、音楽への関心は強かったといいます。家庭教師から教養科目に加えピアノも習うと瞬く間に上達します。運動が出来ない分、才能が音楽に集中したのかもしれません。しかも、誰に教わる訳でもなく作曲を始めます。バーバラの創造中枢は幼くして活性化し音楽は生きる喜びの源泉となるのでした。

禁じられた遊び

 9歳になる頃には、心臓疾患の症状は徐々に軽減していき、バーバラは地元ウィニペグのルパートランド女学院に通い始めます。成績優秀にして、ピアノも作曲も面白くて仕方なかったのです。しかし、実は、ここから彼女の自由への闘争は始まったのです。

 バーバラが自作曲を音楽教師に聴かせると、音楽教師は作曲は男性のする事で女子はしてはいけないと指導するのです。教育を重んじピアノも積極的に勧めた母も、こと作曲となると厳しく禁止したといいます。母が信奉していた当時の上流階級の価値観では作曲は奇人変人の悪趣味と捉えられていたと云います。母にしてみれば、上流階級の良き妻となるためにはピアノが弾けることは良き事だが、作曲はその妨げとなると固く信じていたのです。1920年のカナダ社会の一つの断面だったのでしょう。

 作曲は、バーバラにとっては「禁じられた遊び」でした。12歳の頃、ベートーヴェンのピアノ・ソナタに出会い圧倒され、自分で曲を作る行為に没頭します。ピアノを弾けば、自然に自分の曲が湧いて来るのです。どんなに厳しく禁じられても、頭に浮かぶ自分の音楽を留めることなど出来ません。普通にみられる10代の反抗期とは全く別次元の抵抗だったに違いありません。好きな音楽を極めるためには、母の呪縛と徹底的に対峙しなければならなかったのですから。そんなウィニペグ時代は、15歳の時に終止符が打たれます。

自由への助走〜モントリオール・パリ・ウィニペグ

 学業優秀でもあったバーバラは、1927年から2年間、モントリオールの寄宿舎付女学校(Miss Edgar’s and Miss Cramp’s School)に進学します。母に内緒で作曲は続けつつ、ピアニスト・オルガニスト・指揮者・作曲家のフレデリック・ブレアに師事し、ピアノと楽理を本格的に学びます。師ブレアは、バーバラの潜在的な才能を高く評価します。

 そして、1929年、バーバラは17歳にしてフランス留学の機会を掴みます。その頃には、頑迷に反対していた母もバーバラの作曲への情熱が本物だと認めざるを得なくなったようです。或いは、反対するよりも応援して最先端のパリで思う存分勉強させれば、自分の才能の限界に気付いて諦め、良家に嫁に行くだろうという深謀遠慮だったかもしれません。

 いずれにしても、バーバラはパリのスコラ・カントルム音楽院で1年間、音楽を本格的に学びます。ここはパリ音楽院と並ぶ高等音楽教育機関です。パリ音楽院がオペラとヴィルトゥオーゾ養成を重視したのに対し、スコラ・カントルムでは古楽・宗教音楽・対位法を重視し、エリック・サティやダリウス・ミヨー等の20世紀の作曲家を排出しています。

 そんなスコラ・カントルムでバーバラの指導に当たったのは、長く教鞭を取っていたセシル・ゴーティエ教授です。ゴーティエ教授自身が当時のパリでも珍しかった女性作曲家でした。バーバラは大いに刺激を得たに違いありません。後年のインタビューでは、ゴーティエ教授こそ「最初に本格的に作曲を指導してくれた師」として深い敬意を表しています。パリ留学を終えて故郷ウィニペグに戻ってからも、通信教育という形で師弟関係は続き、作曲の奥義を授かっていきます。古楽・宗教音楽の根本にある基本的骨格を徹底的に極めたのです。これこそ、その上で自由に和声・ハーモニーを展開する未来の可能性の土台です。正に温故知新です。

 1930年、バーバラは故郷ウィニペグに戻ります。が、母の目論見は見事に外れます。19歳のバーバラは、いよいよピアニスト・作曲家として本格的な活動を始めます。自身のピアノ三重奏団も結成します。とは言え、音楽で食っていける訳ではなく、生活は親の世話になるのです。そんな生活が6年続きます。

現代音楽への覚醒

 1936年、バーバラは24歳にしての奨学金を得て、ジュリアード音楽院の大学院コースに進みます。1936年当時のニューヨークは、大恐慌から7年を経て、不況の余韻はあるものの文化が爛熟しエネルギーに溢れていました。ジャズとブロードウェイ・ミュージカルが黄金時代を迎えていました。同時に、欧州ではナチが権勢を振るい、その迫害から逃れるべく、シェーンベルクやバルトークがニューヨークに移住して来ました。ウィニペグから来た無名の作曲家バーバラ・ペントランドの感性は全開で、新しい音楽を吸収するのです。

 ジュリアードの最初の2年間は、パリ時代の延長で古典派の音楽を学びます。しかし、バーバラ・ペントランドの創造中枢は、既に在る音楽の再現では全く満足出来ません。3年目に入ると、既存の音楽の重力圏の外を模索するのです。ストラヴィンスキーの音楽の更に先に目を向けます。これまで学んで来た古楽・宗教音楽・古典派の骨格を吸収した上で、リズムとハーモニーの新しい構造を目指すのです。

 3年間のニューヨーク留学の後、再びウィニペグに戻ります。地元で音楽活動を続けつつも勉強も怠りません。1941年と42年の夏には、マサチューセッツ州西部のバークシャー地方のタングルウッド音楽センターの講習会に参加。そこで、巨匠アーロン・コープランドに師事。古典音楽がヨーロッパで発展して来たからといって、アメリカ的な真に斬新な音楽を創ることを恐れてはいけないとの教えを胸に更に前進します。バーバラは30歳になりました。

音楽家として立つ〜トロント・バンクーバー

 バーバラは、1942年から49年までは、トロント音楽院で教鞭を取ります。第2次世界大戦の勃発で、多くの成人男性が前線に送られ、或いは後方支援に回されたことで、それまで男性に独占されていた仕事に女性が就ける機会が生まれたという面は否定できないでしょう。とは言え、ペントランドの音楽が評価され始めた証左と言えます。音楽教育者としても実績を積んだ訳です。一方、後年のインタビューで、「トロントこそカナダにおける音楽産業・エンタテインメント産業の拠点であったので移住した。当時の社会には厳然として女性差別があったので、作曲家として活動を始めた当初は、バーバラ・ペントランドではなく、女性であることが分からないように、ビオ・ペントランドという名前を利用していた」と述べています。冒頭に記した、ロンドン五輪への参加もトロント時代の業績の一つですが、世界的に見ても、女性作曲家は極僅かでした。

 そして、1949年からは、拠点をバンクーバーに移し、ブリティッシュ・コロンビア大学音楽学部の教授に就任。この時代に代表曲「10声部のための交響曲〜交響曲第3番」を発表します。表題のとおり、10人編成の室内楽オーケストラのための管弦楽曲。フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット、打楽器、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、チェロによって奏でられます。3楽章10分41秒は、カナダの現代音楽の到達点と言われています。音列とリズムを革新する「セリエル技法」を駆使しつつ、各楽器の最も美しい音色を提示。懐かしさすら感じさせます。

現代音楽の洗礼

 ここで、現代音楽について一言。バーバラ・ペントランドは、師アーロン・コープランドの「恐れることなかれ」という教えを胸に未知の領域へと足を踏み出し、カナダの現代音楽を切り拓きました。ルネッサンス期以降、ヴィヴァルディやバッハやヘンデルの天才等が発展させて来た音楽が20世紀に到達した究極の姿とも言えます。その核心には、音楽を自由に解き放ちたいという衝動があります。とは言え、初めて耳にすると、分かり難いというのが率直な感想でしょう。

 その関連で全く個人的な体験を共有したいと思います。中学生の頃の愛聴盤であったサイモン&ガーファンクルを親友の家に持って行き、彼の父親の書斎の高級ステレオで聴いた時の感動を今でも覚えています。私が持っていた小さなレコード・プレイヤーで聴くのと全く違う豊かな音でした。もっと違う音楽も聴いてみたいと思い、音楽好きだった彼の父親のレコード・コレクションから勝手に何枚か引っ張り出したのです。既にジャズと呼ばれる音楽がある事は知っていましたから、興味があったのです。ジョン・コルトレーンだったと思うのですが、その高級ステレオにレコードを置き針が落ちて音楽が始まるのを親友と2人で待った時のワクワク感は忘れ難いです。しかし、初めて聴くジャズは正直言うと苦行でした。雑音にしか感じず、5分も我慢出来なったのです。何処が良くて世の大人達はこんなモノを聴くのかと思いました。しかし、高校生になる頃には、背伸びして聴く苦行だったジャズの虜になりました。

 ロックとジャズの話で長くなりましたが、現代音楽にも似た面があると感じます。予備知識無しに初めてペントランドの「トッカータ」を聴いた時には、正直に言うと何も感じませんでした。2度目に聴いた時には、無機質な音だと思いました。3度目に聴いた時、何か胸に引っ掛かる感じはありました。但し、感動した訳というでもありませんでした。それでも、引っ掛かる感じの正体を知りたいと思ってもう一度聴きました。その時初めて、自由を希求する精神と真新しい響きを探し出した愉悦があるのだと感じました。ポップ・ミュージックのような綺麗なメロディーはここには有りません。しかし、「トッカータ」には音楽の美しき瞬間があります。

 簡単には気が付かないかもしれませんが、耳を澄まして心を無にすると聞こえて来ます。一度耳が慣れると、ペントランドの音楽には、それぞれの楽器が乱反射を繰り返しながらキラキラと煌めく音の断片が連なって行き、抒情と哀愁が現れて来るのがわかります。無機質と感じた響きは透明感の裏返しなのです。音楽を聴く醍醐味がここにあります。

結語

University of British Columbia Archives, [UBC 5.1/2415]
University of British Columbia Archives, [UBC 5.1/2415]

 バーバラ・ペントランドは、女性作曲家の道を開拓し、難解な音楽として敬遠されるアバンギャルドな現代音楽の地平を拡げました。女性作曲家と現代音楽という2つのマイノリティを主流に押し上げるための人生でした。1949年から教鞭を取り、彼女の音楽活動の拠点としていたブリティッシュ・コロンビア大学でも、音楽学部改革の最中に教育方針等で折り合いが付かず、1963年には辞職に追い込まれました。が、彼女は己の道を歩み続けます。1930年にパリから戻ってからの50年間で100曲を超える作品を世に問うています。

 時代がようやく追いつくのは1970年代になってからです。1976年には、故郷のマニトバ大学から名誉博士号を授与され、1987年には拠点であるバンクーバー市が彼女の誕生日である1月2日を「バーバラ・ペントランドの日」に指定しました。1989年にはカナダ人にとって最高の栄誉であるカナダ勲章を授与されました。

 バーバラ・ペントランドは、極短い結婚生活を除き、生涯独身を通しています。「私の作品は私の子供」と語っています。2000年2月に88歳で逝った彼女の作品群は20世紀のカナダ社会を映す鏡でもあります。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「アンドレ・ギャニオン」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第38回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 私事ですが、7月の末から8月初旬まで夏休みを頂き、東京に戻っておりました。東京は人が多く、賑やかで、整然として美しく、美味しい街ですが、とにかく暑かったです。高温多湿で、ほぼ熱帯でした。観測史上最高気温の更新が大きなニュースで、7月30日に兵庫県丹波市で41.2℃が観測され国内最高記録が更新されました。が、わずか1週間後の8月5日には群馬県伊勢崎市で41.6℃が観測され記録が更新され、更に同日中に41.8℃と最高気温記録が塗り替えられました。すると、それがまたニュースになる。兎に角、暑いの一言です。ニュースでは「危険な暑さ」と連呼しています。

 大阪EXPOへも行きましたが、そこもまた暑かった!それでも、各パビリオンの中は空調が効いていて快適でした。世界最大の木造建築物としてギネス世界記録に認定されている「大屋根リング」の下に入ると直射日光が避けられ、風通し良く気持ちの良い空間でした。が、EXPO会場を歩くと汗が噴き出て来ました。

 そんな東京・大阪から戻って来ると、オタワは、ほぼ天国です。温暖化の影響で最高気温が35℃という日もありましたが、緑と水に抱かれたこの新しき都は、やはり爽快です。早朝など、早くも秋の気配の予兆を微量に感じさせるような清涼感すらあるほどです。

 そこで、改めてあの暑い夏休みを思い出すと、頭の中に甦るのは、東京・大阪の危険な暑さ。それと、その暑さを癒すのにずっと聴いていたアンドレ・ギャニオンの音盤『インプレッションズ』です。

 という訳で、今回の「音楽の楽園」は、ケベックが生んだ作曲家・ピアニストで日本でも絶大な人気のあるアンドレ・ギャニオンです。

神童

 世に、「十で神童、十五で才子、二十過ぎれば只の人」と云います。芥川龍之介が1925年の著作「才一巧亦不二」の中でヴォルテールに関する逸話として紹介しています。

 その11年後の1936年8月、ケベック州サンパコムのカトリック教徒で日雇い労働を生業とするギャニオン家に、19人兄弟の末っ子として生まれたのがアンドレ・ギャニオンです。非常に質素な家庭環境で育ちます。ですが4歳の時、教会で聴いた音楽がアンドレ少年の心を捉えて離しません。見よう見まねで、幼き心を震わせた音楽をピアノで再現しようとします。瞬く間に上達し、6歳にして作曲を始めたと言います。世の中は第二次世界大戦の真っ最中ですが、幸にもカナダは戦場からは遠く離れています。金銭的には恵まれない家庭でしたが、音楽的才能には関係ありません。アンドレ少年は、神童ぶりを遺憾なく発揮します。

 そんなアンドレ少年は、第二次世界大戦終結の翌年、10歳にして地元でピアノ・リサイタルを開き、モーツァルトを演奏したそうです。16歳になると地元の音楽教師から音楽理論を学び始めます。そして、21歳で名門モントリオール音楽院に進学。ピアノと作曲について4年間本格的に勉強します。アンドレ青年の神童伝説は続きます。

 モントリオール音楽院を卒業するとケベック州政府の奨学金を得て、アンドレ青年は、1961年から62年までパリ音楽院に留学します。彼の地では、伝説的ミューズ、イヴォンヌ・ロリオ教授に師事します。ロリオ教授は、現代フランスの偉大なる作曲家オリヴィエ・メシアンのパートナーで、「トゥランガリラ交響曲」も初演しています。そんなロリオ教授から、ピアノの独奏と伴奏、作曲技法について直接指導を受けたのです。実り大きな留学でした。ピアノという楽器の特性は、1人だけで音楽を完全な形で演奏できる点にあり、左右10本の指は10人の個別の演奏家とも言い得ます。それぞれの指を駆使し、主旋律、対旋律、ハーモニー、重低音を奏でると同時に、多彩なリズムも提示出来る。要するに、無限の可能性を持つ楽器な訳です。それを極める上で、これ以上望み得ないような教授から学び、それが血と肉となっていくのです。

異能の才子

 1962年、アンドレ青年は大きな学びを得てパリからモントリオールに戻ります。だから前途は洋々だ、と行くほど世の中は甘くありません。いつの世も、音楽で食っていくのは大変なのです。あのモーツァルトも常に就業の機会とパトロンを探していたのですから。

 で、どうなったかと言うと、運こそ実力か、実力が運を引っ張ってくるのか、様々な見方があるのでしょうが、アンドレ青年は有名歌手の伴奏者という仕事を得たのです。ケベック州で絶大な人気を誇るシンガー・ソングライターにしてピアニストでもあるクロード・レヴェイエの伴奏者兼アレンジャーとなりました。評判が評判を呼び、レヴェイエに加えジャック・ブランシェ、レネ・クロード等々とも仕事をします。

 但し、アンドレ青年にしてみれば本音は、他人の伴奏ではなく、自分自身のピアノこそが主人公だとの自負はあったに違いありません。しかし、無名の新人ピアニストがいきなり頂点に立てる訳がないことも知っていたのでしょう。未来を夢想しながら音楽家としての道を歩み始めたのです。が、考えてみれば、歌伴は、観客を前に主役の歌手を引き立て脇に徹しながらも音楽全体を実地に学ぶ絶好の機会です。より良き音楽にするため何を足して何を引くのか、音楽の本質を体得する日々でした。

 そして、歌伴を続けながら、より美しい音楽をつくる術を吸収し実践する、アンドレ・ギャニオンは28歳にして才子であることを明快に証明します。1964年に自分自身のデビュー盤「ピアノとオーケストラ」を世界最大手のレコード会社コロンビアからリリースしたのです。全編、清新な叙情味に溢れています。明朗な中に時にメランコリックな旋律が胸を突きます。ピアノとオーケストラが融合し支え合い、交互に主旋律と伴奏を奏でる立体感は、クラシック音楽を彷彿させるイージーリスニングの王道です。

 翌65年には「レヴェイエ-ギャニオン」と題する共作音盤をリリース。ここに出現するのは主役(歌手)と脇役(伴奏者)という関係ではありません。2人の作曲家兼ピアニストの協力と協調です。ギャニオンとレヴェイエの個性が溶け合い、1+1が2を遥かに上回っている音楽です。ピアノ連弾があり、ジャズ的な要素も加わっています。前作に比べてより多彩で豊穣な音楽空間が築き上げられています。

飛躍

 アンドレ・ギャニオンは、その後も精力的に音盤を制作していきます。1968年にはアルバム「Notre Amour」をリリース。上質のポップ全10曲が聴く者を魅了します。その秘密は、ギャニオンが紡ぐ旋律です。突き詰めれば、旋律は1オクターブの中にある12個の音階の順列組み合わせです。勇気を与え、涙を誘い、希望を与え、怒りを伝播し、疲れを癒す。そんな旋律の妙を知るギャニオンの才は特筆に値します。

 1969年には、ヴィヴァルディを踏襲した音盤「Mes Quatre Saisons(四季)」を発表します。ヴィヴァルディの有名な「四季」はヴァイオリン協奏曲ですが、ギャニオンの「四季」はピアノ協奏曲です。春夏秋冬を紡ぐ美しき音色の連なりを聴けば、クラシックとポピュラーに境界など無いと実感します。洋の東西、音楽のジャンルを問わず、音楽愛好家から注目を集めた一聴の価値ある傑作です。この時、ギャニオンは33歳。作曲家・ピアニストとして才能が爆発しています。

 以後、ポピュラー音楽を軸にしながら、オペラ、バレエ音楽、TVや映画音楽も手掛けます。ピアニストとしても作曲家としても第一線で活躍し続けます。特筆したいのは、1983年には、シャルル・デュトワ指揮のモントリオール交響楽団と共演したモーツァルトのピアノ協奏曲第22番変ホ長調です。耳の超えたモントリオールっ子に実力を見せつけたそうです。正に、全天候型の音楽家。YouTubeには、肩よりも高い位置に両手を上げ打鍵する印象的な演奏スタイルを含めて実に多彩なパフォーマンスがアップされています。

ジャポン

 最後に、日本との関わりについて。アンドレ・ギャニオンは、1970年に大阪万博のカナダ館で国を代表して演奏するために来日します。これがその後に何度も訪日を重ねる最初のものでした。

 実は、万国博覧会は、カナダにとって国威発揚の意味もある非常に重要なイベントです。と言いますのも、カナダ建国100周年の1967年に、カナダ史上初の万国博覧会がモントリオールで開催されたからです。特に、ケベック州民にとっては、カナダの礎を築いたのはケベックだとの思いが強く、ケベックの愛国心が大いに盛り上がった訳です。この年、アンドレ・ギャニオンはフランス留学から帰って来て5年。モントリオール交響楽団との初共演を果たしたと言います。古典音楽を学び尽くした上でポピュラー・ミュージックの世界に身を置く、ギャニオンにとっては意義深いものだったでしょう。そんなモントリオール万博の興奮冷めやらぬ1970年の大阪万博に、モントリオールからやって来たのが波に乗る気鋭のギャニオンだったのです。

 そして、大阪万博の初来日以降、何度も来日するようになります。その理由は、ギャニオンが日本のオーディエンスを愛したからです。が、その大前提にあるのは、哀愁漂う美しい旋律と様々な新しいアイデアを提示するギャニオンの音楽を日本の聴衆がこよなく愛したということです。

 1990年代のトレンディー・ドラマではギャニオンの音楽が頻繁に使われていましたし、21世紀になっても、平原綾香らに楽曲を提供しています。上述の「impressions」は40年以上前にリリースされた音盤ですが、その冒頭に収録された『めぐり逢い』は、今も若いファンを獲得する旋律の力を見せつけています。

結語

 アンドレ・ギャニオンが2020年12月に逝って、5年にならんとしています。率直に言えば、徐々に忘却の彼方へと追いやられている感がなくもありません。考えてみると、人間には“忘れる”という素晴らしい能力が備わっています。人間の記憶容量が無限大でない以上、重要度に応じて古い情報を捨てることで、新しい情報を記憶している訳です。新しい才能が世界で芽生え日々紹介される中で、主としてケベック州・フランス語圏・カナダ・日本で愛されたギャニオンへの注目度が逓減していくのは、ある意味、しょうがない事かもしれません。

 しかし、イージーリスニングからクラシックの領域まで幅広く活躍したギャニオンの音楽には、次の世代に繋ぎたい確固たる音楽の核があります。それは何にも制約されない自由と言葉を超えた美しい旋律です。例えば、1997年リリースのライブ盤「Au Centre Molson」には音楽キャリアを総覧するギャニオンの音楽のエッセンスが詰まっています。

 カナダが生んだ稀代の音楽家、アンドレ・ギャニオンが将来に亘って新しいリスナーを獲得し続けることを願ってやみません。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「レ・カウボーイ・フランガン」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第37回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 ここオタワは今、最高の季節を迎えています。気温は高い時でも20℃台後半で30℃を超えることは稀。湿度も高くありませんから、木陰に入って風が吹くと心地良い程度に冷んやりします。ほぼ熱帯と化した高温多湿の東京から見れば大変に贅沢な気候です。

 その上、連邦議会はカーニー政権が目玉として掲げた所得減税、暫定予算、そして「一つのカナダ経済法案(One Canadian Economy Bill)」を成立させて休会に入っています。6月15日〜17日には、アルバータ州の世界的な避暑地カナナスキスでG7が成功裡に開催されました。

 よってもって、首都オタワは7月の声を聴くと、率直に言って、かなり休日モードに入りました。街には音楽が溢れています。ブルース・フェスティバルもジャズ・フェステイバルも大変な盛況でした。オタワの地理的特性は、オンタリオ州とケベック州の接点であること。それ故に、バイタウンと呼ばれた木材交易の小さな村が首都になった訳です。自由と多様性と包摂性こそカナダの個性でありアイデンティティー、オタワで広く聴かれている音楽にもそれらが滲んでいます。

 そこで、今月はレ・カウボーイ・フランガン(Les Cowboys Fringants)です。

 ケベコワが誇るロック・バンドです。伝統的なカントリー・ミュージックと現代的ロックが融合した音楽で、歌詞は全てフランス語。エッジの効いた諧謔と極私的な出来事から政治、歴史、環境問題にまで及ぶ多様なテーマを等身大に描きます。親しみやすいメロディーとナチュラルな編曲が聴く者を惹きつけて止みません。彼らはフランス語なので米国で殆ど聴かれていませんが、欧州を中心にフランス語圏では絶大な人気を誇っています。パリ公演では、ケベック訛りのフランス語の大合唱が会場を包み込むそうです。

初めてレ・カウボーイ・フランガンを聴いた日

 私事で恐縮ですが、実は、私はつい数週間前まで彼らの音楽を聴いたことがありませんでした。それは6月4日の事でした。ブロック・ケベコア党のルイ=フィリップ・ブランシェット党首を公邸にお招きし夕食を共にしました。党首はマルチな才人で、政治家になる前は音楽プロデューサーでしたし、宮本武蔵の「五輪書」のフランス語翻訳も読破した知的な文化人です。政治・外交は当然ですが、科学技術から文化に至る多様な話題で盛り上がりました。音楽の話題になった時に、党首が最も好きなバンドとして強力に薦めて下さったのがレ・カウボーイ・フランガンだったのです。

 その時に初めて聴いた曲は2004年の音盤『La Grand-Messe』に収録された「Les etoiles filantes」という曲でした。日頃ブリティッシュ・ロックやアメリカン・ロックを聴くことの多い私にとっては、アコーディオンの音色が印象的な洒落た響きが新鮮でした。リード・ヴォーカルのカール・トレンブレイの声と歌唱も耳に残るものでした。時に囁くように歌うので、フランス語の話せない私にも鍵になる言葉が胸に迫ります。芯の強い太くハスキーな声質は聴く者を惹きつける魅力があります。村上龍の最高傑作「コインロッカー・ベイビーズ」の主人公ハシの声はきっとこんなじゃないかと想像します。

 要するに、一曲でレ・カウボーイ・フランガンのファンの末席に並びました。すると、もっと他の音盤も聴きたくなりますし、バンドの歴史も知りたくなります。ビートルズもローリングストーンズもビーチボーイズもザ・バンドもそうですが、成功した如何なる楽団なら必ず素晴らしい物語に彩られています。ファンになったばかりの私ですが、全ての音盤を聴き倒し、アクセス出来るインタビューや記事を読み倒しました。そこには、大きな感動がありました。是非、このコラムを読んで頂いている皆さまと共有したいです。

内気な少年の邂逅

 レ・カウボーイ・フランガンは5人組ですが、バンドの要はボーカルのカール・トレンブレイとギターのジャン=フランソワ・ポゼの邂逅から全てが始まります。それは1994年9月、モントリオール郊外のアイス・ホッケーのジュニア・チーム「ジェッツ・ド・レペンティニー」のロッカー・ルームの事でした。カールとジャン=フランソワは他のプレイヤーと共にトレーニング・キャンプを終えて、正式にジェッツのB級メンバーに選抜されたのでした。

 トリビアですが、ジョンとポールがリバプールの聖ピーターズ教会の夏祭りで出会ってビートルズが始まり、ミック・ジャガーとキース・リチャーズがケント州ダートフォード駅で話してストーンズが始動したのに似ています。

 但し、ジェッツのチームメイトとなった2人が打ち解けて音楽の話しをするようになるには更に3ヶ月余が必要でした。俄かには信じられませんが、彼らのホームページによれば当時は2人とも内気だったそうです。

 そして、1995年1月、カールは、ジャン=フランソワが上手いギタリストだと聞いて、思いきって彼に話しを持ちかけます。自分はボーカルでバンドを組みたくて仲間を探しているんだけど一緒にやってみないか、と。実は、ジャン=フランソワは最初は乗り気ではなかったそうです。

 しかし、カールの熱意に押されてたジャン=フランソワは、翌2月のある夜、自宅の地下室にカールを招き、初めて一緒にジャム・セッションを行います。カールは、ジャン=フランソワのギターにサムシングを感じ、ジャン=フランソワはカールのボーカルに未来を感じました。その夜、2人は「Les routes du bonheur(幸福への道)」を作曲します。記念すべき最初のオリジナル曲です。バンド結成の瞬間です。2人は翌日も集まり次々と曲を仕上げていきます。夏までには、2人でつくった曲は20曲を超えたといいます。蜜の如く甘く同時に苦く辛い恋の痛みを描く碧い佳曲です。デビュー盤「12 Grandes Chansons」には、そんな創世記が刻まれています。

マリー=アニック・レピーヌ登場

 2人はオリジナル曲でレパートリーを固めると同時に、バンドのサウンドの充実が急務だと悟ります。つまり、新たなメンバーが必要なのです。そんな中、夏のアルバイトで、ジャン=フランソワは、正式にクラシック音楽を勉強しているヴァイオリン奏者マリー=アニック・レピーヌと出会います。そして、強力に勧誘します。カールとジャン=フランソワには無い豊かな音楽的センスはさぞ眩しかったに違いありません。しかし、プロのオーケストラ入団を目指す彼女はカントリー・ロックという音楽スタイルへの関心は乏しかったようです。だからと言って、2人はマリー=アニックを簡単には諦めきれません。そして、時には情熱が運命を呼び寄せます。

 1996年夏、地元レペンティニーの「ラ・リパイユ」というビアホールでソングライティング・コンテストが開催されました。カールとジャン=フランソワは腕試しに、上述の2人で作った最初の曲「幸福への道」と「Gaetane」という2曲のオリジナル作品を出品します。親しみ安い旋律とユーモラスな中に微量の毒のある歌詞に、カールの声が審査員を掴みます。予選を通過し、決勝トーナメントへと駒を進める2人です。観客を前にした2人の歌と演奏が場内を熱狂させます。その模様を見ていたマリー=アニックは、心の中で何かが弾けたのを感じたそうです。そこで、彼女は、準決勝のステージにサポート・メンバーとしてヴァイオリンを奏でます。ほぼ即興的に演奏したのですが、クラシックで鍛えたヴァイオリンの音色とフレーズは、カントリー調のシンプルな音楽に優雅さと豊かさを与えます。音楽的な厚みと深みが格段に増します。そして、3人は決勝へ進出。このコンテストで準優勝です。マリー=アニックの参加でレ・カウボーイ・フランガンの音楽的核が出来上がったのです。

レ・カウボーイ・フランガン始動

 楽才溢れるマリー=アニックは、ヴァイオリンのみならず、ピアノやアコーディオン等のキーボード群、マンドリンも弾けます。編曲もボーカル、コーラスも出来ます。非常に強力なメンバーの獲得でバンドに弾みがつきます。バンドとして完結するには、フロントの3人と気の合うリズム隊が不可欠です。ベースとドラムです。やがて、マリー=アニックの従兄弟ジェローム・デュプラがベーシストとして加入。ジェロームが友人のドラム奏者ドミニク・ルボーを引っ張って来ます。当時、ドミニクは他のバンドで活躍していたのですが、半ば強引に誘い込みます。ここに5人組のレ・カウボーイ・フランガンが始動します。1997年のことです。

 そして、この5人で早速、デビュー盤「12 Grandes Chansons」が制作されます。とは言っても、メジャーなレコード会社との契約もない、地元の作曲コンテストで準優勝となったアマチュア・バンドです。音質も優れない500本のカセットでした。今では、CD化され、ウェブでも聴けます。オリジナルのカセットはプレミアが付いて超高額で取引されています。

飛翔

 彼らの初期の傑作「break syndical」は2002年の作品。まず、批評家から好意的なコメントを得ます。そして、地元レベンティニーやモントリオール周辺で絶賛され、やがてケベック州を横断する聴衆から愛されます。ケベック州内を公演ツアーで回ると、音盤ジャケットのモチーフになっているグリーンのTシャツが会場を覆い尽くしたといいます。

 ライブでこそバンドは真の実力を蓄積していきます。ラジオ局も頻繁に彼らの曲をオンエア。彼らは、一躍ケベックを代表するバンドとなります。

 レ・カウボーイ・フランガンは超多作ではありません。じっくりと創り込んだ良質のスタジオ音盤と熱狂を伝えるライブ音盤をコンスタントに発表していきます。それらは、ケベックの現代音楽の歴史の重要な章です。

伝説〜カール最期の日々

 人間誰しも不死身ではありません。いつかは最期の日々がやって来ます。一方、医学の進化が人生百年を日常化しています。そんな中、バンドの創設者でフロントマン、カール・トレンブレイが前立腺がんに冒されます。2020年1月の事でした。が、この事実は秘匿されていました。がんと闘いながらもライブとスタジオを精力的に活動するカール。レ・カウボーイ・フランガンは、難しい局面の中で、2021年には、名作「Les Nuits de Repentigny」をリリースします。がんの事を一切知らないファンは、ただただ、極上の音楽を愉しむのです。エルビス・プレスリーを模したカールの写真に、彼の矜持が滲んでいます。

 2022年には、カールが化学療法を受けていることが公表されます。

 2023年9月、遂に、最後のライブが敢行されます。毎年ロデオ大会が開催されるケベック州サン=ティトに彼らのファンが結集しました。

 2ヶ月後、11月15日、カールが47歳の若さで他界。トルドー首相は「カールの声は、私たちの物語を語り、心を打つ力を持っていた」との談話を発しました。ケベック州政府は、州旗を半旗にし、追悼の意を表しました。また、カールとバンドの28年間に及ぶ活動を讃え、11月28日にケベック州の「国葬」が執り行われました。

結語

 レ・カウボーイ・フランガンは、ケベック州に加え、欧州のフランス語圏で絶大な人気を誇っています。最新盤は2024年4月に発表された「Pub Royal」です。ここには12曲収録されていますが、6曲はカール・トレンブレイの最後の録音です。正に“白鳥の歌”です。これは、全カナダのアルバム・チャートで初登場3位を記録します。ケベックを超えてカナダを象徴するバンドでもあることを示唆しています。

 また、カール・トレンブレイは、環境問題に強い関心を持っていて、ある時、「売った音盤の数だけ木を植えている」と語りました。彼らは、これまで130万枚を超える音盤を売り上げています。と言うことは、130万本を超える植樹をして来た訳です。

 レ・カウボーイ・フランガンの音楽は、樹木のように、聴く者の心に根を張り、世代を超えて聴き継がれていくのだと思います。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「NACO訪日」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第36回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 ここオタワでは、6月は最高の季節です。天気が良くて陽光の眩しい日には、空と雲と水と緑の四重奏が目も心も身体も癒やしてくれます。雨が降れば降ったで、雨上がりの爽快感は筆舌に尽くし難いほどです。

 一方、温暖化に起因する異常気象を背景に、山火事が頻繁している状況には心が痛みます。G7カナナスキス・サミットの主要議題の一つでもあります。大自然が相手ですから、思うに任せぬ容易ならざる課題ですが、叡智と決断で解決に道筋がつくことを期待しています。

National Arts Centreウェブサイトより。
National Arts Centreウェブサイトより。

 そこで、音楽です。季節や天気がどうであれ、音楽は日々様々な形で私たちに関わっています。日常生活の一部です。が、時には、そんな日常の中にも歴史的な出来事が起こります。例えば、先日の国立芸術センター管弦楽団(National Art Centre Orchestra:以下NACOと記述します)の韓国・日本ツアーです。韓国は史上初、日本へは40年振りの公演旅行でした。

 率直に言って、知名度という点ではNACOはまだまだです。特に、世界中の名だたるオーケストラの公演が連日目白押しの東京は、世界でも最も競争の厳しいクラシック音楽のマーケットと言っても過言ではありません。聴衆の耳も肥えていますし、情報の質と量も半端ありません。そんな中で、NACOは鮮烈な印象を残しました。「音楽の楽園」カナダの首都オタワが誇るオーケストラの面目躍如です。

 と云うことで、今回の本コラムでは、NACOの日本ツアーを取り上げます。

圧倒的な成功〜鍵は完璧な準備也

 一言で言えば、40年振りのNACO日本ツアーは大成功でした。

 NACO一行がオタワに帰還した直後に、NACOの総帥クリストファー・ディーコンCEOと話す機会があったのですが、普段は沈着冷静なクリストファーが、如何に素晴らしい公演ツアーであったかを興奮気味に話してくれました。東京はサントリーホール、津は三重県文化会館、大阪は大阪シンフォニーホールと大阪万博ではカナダ・パビリオン特設会場の計4公演です。それぞれに、思い出深いコンサートとなったそうです。とにかく、聴衆の反応に感銘を受けたと語ってくれました。

 コンサート意外で素晴らしかったこととして、日本で食べる和食が忘れ難いと声を大にしていました。高級懐石から、鉄板焼き、たこ焼きまで、本当に堪能した様子が伺えました。

 そこで、改めて今回のNACOの訪日公演ツアーを振り返ると、これは成功すべくして成功したとのだと思います。何故ならば、そこには足かけ3年に及ぶ入念な準備があったからです。私事ですが、2022年5月にオタワに着任し、暫くして、NACOのディーコンCEOやネルソン・マクドゥーガル渉外部長と親しくなり、会食やレセプション、公演の場でいつも音楽の話をするようになりました。

 2023年になると、日本大使館は2025年4月からの大阪・関西万博のプロモーションに力を入れ始めます。私の記憶によれば、同じ頃、ディーコンCEOやマクドゥーガル部長から万博の機会にNACO日本公演ツアーを企画したいとの構想を聞くようになりました。1985年以降途絶えた40年振りのNACO日本ツアーです。最初は願望というか野心的なアイデアという感じでした。徐々に、地に足のついた議論になっていきました。100人に及ぶ楽団員と関係者、大小様々な楽器群の運搬、移動・滞在費等々必要経費の問題。演奏会場、チケット・セールス、宣伝等々、処理しなければならない項目は多岐に渡りました。

 願望が企画になり計画へと進展すると、マクドゥーガル部長は、頻繁に日本を訪れ、日本側の関係団体・組織との折衝が始まりました。が、一筋縄では行きません。何事につけ人生のほぼ全てを言い当てているシェークスピアが喝破した通り、悪魔は細部に宿ります。一時期は、NACOの日本側エージェントが急遽変更するといった事態にも遭遇しました。しかし、大阪万博に合わせて訪日公演を行うとの強い決意で難局を乗り切っていくのです。

 マクドゥーガル部長は、きっと幾晩もの眠れぬ夜を過ごしたに違いありません。そして、日本のみならず、初めてとなる韓国ツアーも合わせて、見事なプログラムが出来ました。NACOの歴史にその足跡を刻んだと思います。

 そして、今回の韓日ツアーを応援すべく、親友のイム・ウンスン駐カナダ韓国大使とともに壮行会を兼ねた夕食会を共同開催しました。シェリー、川崎はじめ、日系と韓国系の楽団員のみならず、ディーコンCEOやマクドゥーガル部長はじめNACO経営陣も公邸にお招きしました。非常に愉快な夕べでした。同時に、皆が韓日ツアーの成功を確信したのです。

2025年6月3日のサントリーホール

© SUNTORY HALL
© SUNTORY HALL

 40年振りに日本の土を踏んだNACOは、まず、世界に冠たる音響の素晴らしさ誇るサントリーホールの舞台に立ちます。多様性を体現するカナダのオーケストラですから、楽団員も老若男女で多種多様。1985年の公演の際には生まれていない若いメンバーもいれば、40年前の古参メンバーもいます。彼らを牽引するのが音楽監督兼首席指揮者アレクサンダー・シェリーです。そして、コンサートマスターが川崎洋介です。

 今回の訪日にあたり、演目は慎重に選ばれました。NACOの力量が遺憾無く発揮される得意中の得意のレパートリーにして、日本の聴衆が大好きな楽曲です。しかも、日本との縁を実感させるものです。

〈ケイコ・ドゥヴォー〉

Photo credit: Caroline Desilets
Photo credit: Caroline Desilets

 まず、冒頭は、国立芸術劇場が委嘱した新曲です。モントリオール在住の日系カナダ人ケイコ・ドゥヴォー作曲の管弦楽曲「水中で聴く」です。水の流れを再現する打楽器群の音が弦楽器を誘導。聴く者は知らず知らずのうちに、水の中に溢れる音の時空に導かれます。随所に、東洋的な音色と響きを感じます。いわば、ドビュッシー的な印象派の21世紀ヴァージョン。現代カナダ音楽の真髄です。

〈ラフマニノフ〉

 次がピアノ協奏曲の名曲中の名曲、ラフマニノフの2番です。実は、私は国立芸術劇場でこの曲のNACOの演奏を2度聴いています。

 1度目は、2023年5月の辻井伸行との共演です。リハーサルも観る機会に恵まれたのですが、普段着でリラックスした中で要所要所の詰めを確認する姿は極めて印象深かったです。そして、本番は圧巻でした。指揮者シェリー、コンサートマスター川崎、ソリスト辻井、そして全ての楽団員が心を一つにして築きあげた音楽の桃源郷でした。細部に渡り緻密に計算され制御されている管弦楽と、ソリストの胸に湧き上がる創造性が奔放に羽ばたくピアノが見事に共存し昇華していました。CDや配信サービスで聴く再現されたデータとは違う次元です。演奏者と同じ空間にいて、目の前で、指揮者・コンサートマスター・独奏者・楽団員の動きを見て、息づかいを感じ、全ての音を聴くのです。音楽の最高の愉悦を感じました。

 2度目のラフマニノフ2番は、正に今回のサントリーホール公演の独奏者であるオルガ・シェプスでした。女性的な繊細さと同時に鋭角的な超絶技巧を持つ奏者です。こちらも本当に素晴らしい演奏でした。指揮者シェリーは、それぞれの独奏者の個性を尊重し抱擁し、ピアノを支えつつ、刺激し、優しく挑発するのです。第3楽章が終了した瞬間、圧倒的な歓声に包まれました。

 シェリーとシェプスの共演が、時に厳しく辛口のサントリーホールの聴衆をも唸らせた様子が目に浮かびます。

〈ベートーベン〉

 メイン・ディッシュは、交響曲第5番「運命」です。こちらも、NACOの十八番です。こちらも国立芸術劇場で2度聴く機会がありました。

 特に、2023年4月の演奏は忘れ難いです。ドイツのフランク=ヴァルタール・シュタインマイヤー大統領のカナダ公式訪問の際のオタワでの日程でした。カナダ側の歓待に対するドイツ側の答礼行事という位置づけです。ドイツ大統領主催の国立芸術劇場での特別な演奏会は、シェリー指揮でNACOが演奏する「運命」だったのです。

 音楽ファンなら誰もが熟知している名曲中の名曲です。だから、この夜の演奏が異様な熱気を纏った演奏だったと分かります。シェリーのタクトが振り下ろされた瞬間、第1楽章冒頭のダダダ・ダーンが響きます。まるで、自ら意思を持つ生き物のように、音の塊が聴衆に襲います。と、劇場の空気は一変し、聴衆の目も耳も心も一気に引きつけました。シェリーは指揮台に楽譜を置かず、全ての楽器の全ての音を完璧に頭に入れて、渾身でオーケストラを牽引しました。コンサートマスター川崎も阿吽の呼吸でシェリーの意図を感じ楽団員を鼓舞しました。佳境に入ると椅子から立ち上がらんばかりに音楽に没入するのです。

 第4楽章が大団円を迎えると、筆舌に尽くし難い感動が胸に溢れて来ました。招待してくれたスパウサー駐カナダ独大使には、コンサート直後に、心からの謝意と祝意を述べました。彼女も本当に感動していて、本当に誇らしいと言っていたのを思い出します。

 実は、このコンサートには若干の後日談があります。数日後に、NACOのマクドゥーガル渉外部長と話す機会があったのですが、実際は薄氷を履む状況であったと言うのです。というのも、大統領の全体日程の調整が難航しこのプログラムが決まったのは直前で、NACO以外の仕事もあって超多忙なシェリーの日程を何とか調整できたものの、全体のリハーサルは出来ないまま、本番に臨んだのだと言うのです。正に、NACOの真の実力が証明されたとも言えます。

 そんなシェリー指揮NACOの第5番「運命」がサントリーホールに響いたのです。このコンサートに赴いた友人から、即座にメールが来ました。曰く、シェリーの「運命」に圧倒され、鳥肌が立った、と。

大阪・関西万博「Shining Hat(カナダ・パビリオン)」へ

 NACOは、サントリーホール公演を成功させ、西に向かいます。

 まず、6月5日は、津市の三重県文化会館です。サントリーホールと同じメニューで、聴衆を魅了しました。そして、翌日は大阪です。

National Arts Centreウェブサイトより。
National Arts Centreウェブサイトより。

 6月6日は今回の訪日のハイライト。大阪・関西万博カナダ・パビリオン特設会場でのコンサートです。日本とカナダとの友情を更に深める特別なプログラムが用意されました。題して、『オスカー・ピーターソンに捧げるコンサート(Oscar Peterson Tribute Concert)』です。世界中で、カナダに匹敵するレベルでオスカー・ピーターソンが敬愛されている国は日本だけです。この連載「音楽の楽園」第2回でも取りあげましたが、秋吉敏子を発見した名伯楽でもあります。在京カナダ大使館のオードトリウムは「オスカー・ピーターソン・ホール」と名づけられていて、日本人にとっては、その名前はジャズを超えてカナダを代表しているのです。

 特別プログラムは、オスカー・ピーターソンの音楽的遺産をクラシックとジャズを融合させると同時に、世代と国境を超える形に昇華したものです。音楽監督アレクサンダー・シェリーの面目躍如です。

 『夢の軌跡:カナダ組曲(Trail of Dreams: A Canadian Suite)』は、オスカー・ピーターソンの代表作でピアノ・トリオの傑作『カナダ組曲』を管弦楽団とジャズ・ピアノ・トリオとの共演用に編曲されたものです。モントリオールで生まれ育ち、幼少期からクラシック・ピアノを学んだオスカーにとっては、クラシックもジャズも共に美しく斬新で新しい音宇宙の構築を目指すという意味では本質的な違いはありませんでした。実際「カナダ組曲」は、ドビュッシーやラベルを加速し現代化した趣すらあります。

 更に、シェリーが用意したオスカーに捧げる極めつけが『自由への讃歌(Hymn to Freedom)』です。ピーターソンの代表曲であるばかりでなく、第2のカナダ国歌とも称されています。1962年発表の『ナイト・トレイン』という音盤に収録されています。オスカーの父親は、ドミニカからの移民で、鉄道員の職を得て刻苦勉励しオスカーを育て、息子がプロのピアニストを目指す時には深い愛と智慧を授けました。そんな父に捧げた音盤の核が『自由への讃歌』です。初めての人も、最初のワン・フレーズを聴くだけで、心の奥の柔らかい部分が慰撫されるように感じるはずです。そんな名曲中の名曲がオーケストラと児童合唱団によって再生されたのです。会場は、感動と興奮の坩堝と化したと伺いました。

結語

 オーケストラの実力は、本質的には知名度とは関係ありません。但し、実力が証明されれば評判が評判を呼び、いずれ有名になっていきます。NACOは、今回の訪日公演ツアーでその流れに乗ったと思います。今後の活躍に期待が一層高まります。

 シェリー、川崎、NACOは、韓国・日本ツアーから凱旋しましたが、その感慨に浸る間もなく、過密な日程が待っています。次は、国立芸術劇場にてストラヴィンスキー『春の祭典』の演奏会です。既に世界レベルのNACOが今回の韓日ツアーで一皮剥けた演奏をしてくれるのではないか。オタワ在住の音楽愛好家は待ちきれません。

 そして、溢れる情熱と大きな構想力でNACOをここまで引っ張って来た音楽監督アレクサンダー・シェリーは、今シーズンで11年に及ぶ契約を完了します。来年からは、米国カリフォルニア州オレンジ郡を拠点とするパシフィック交響楽団の音楽監督に就任します。パシフィック響は、1978年創設とNACOよりも約10年若い楽団ですが、ヨーヨー・マも参加したエリオット・ゴールデンサール作曲『水・火・紙:ベトナム・オラトリオ』の委嘱・初演で知られます。NACOとの11年で培った伝統と前衛、統率と自由の絶妙なバランスでもって、シェリーが牽引するクラシック音楽の新しい潮流から目が離せません。武運長久を祈ります。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「サム・ロバーツ・バンド」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第35回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 5月は緑の季節です。ここオタワでは、冬が終わり春が来ると加速度的に気温が上がります。早春は瞬く間に春爛漫になります。すると、時を置かずに初夏の雰囲気が街に満ちて来ます。天気の良い週末は、郊外の保養地域に自転車とランナーと散策する人々の幸福な笑顔が溢れています。素晴らしい季節です。

 そんな5月に聴くのに相応しいのは、旋律とハーモニーが自然なサウンドの中に息づくカナダらしい音楽です。敢えて言葉にすれば、フォークとロックとR&Bとが融合し、適度に尖ったリズムで、等身大の自分を飾らず描く歌詞なら、最高です。そこで、今月は、サム・ロバーツ・バンドを取り上げたいと思います。

 カナダのオルタナ系ロックの代表格です。日本を含むアジア・ツアーも行っています。率直に言うと日本では大成功という訳ではなかったようですが、カナダではジュノー賞の常連です。音楽性でも商業面でも極めて高い評価を得ています。

 私事ですが、私は毎朝ノイズキャンセリングのヘッドホンで音楽を聴きながらウォーキングを楽しんでいますが、最近の愛聴盤の一つが昨年リリースされた『ベン・ブランクの冒険』です。奇妙なジャケット・デザインなのですが、ちょっとハスキーな彼の声が切れのいいリズムとメロディーに乗って、多彩に響く最高のウォーキング・パートナーです。

 サム・ロバーツ・バンドは、名前が示すとおり、作詞作曲しリードボーカルを担当するサム・ロバーツ率いる彼のバンドです。実は、最近知ったことなのですが、サム・ロバーツは我が日本大使館の或る館員の親族なのです。ディズニーの人気者ミッキーマウスが、It’s a small world と歌っているとおり、この世界は、色んなところで知らず知らずに繋がっているものなのですね。

 それでは、早速、サム・ロバーツについてです。

モントリオールの二刀流

 サム・ロバーツは1974年10月2日ケベック州のモントリオール島のウェストマウント市で誕生しました。両親は、南アフリカからの移民です。何と、到着した3週間後に彼が生まれたのでした。当時、アパルトヘイトに嫌気がさして南アフリカを出国し、英国やスイスで勤務した後、母親は、身重の臨月で、大西洋を渡りカナダに入国したのでした。この状況からして、極めてカナダ的です。時は、ピエール・トルドー政権が推進する多文化主義の真っ最中です。モントリオール・ガゼット紙のインタビューに答えて、サムは「僕の最初の記憶は、ウェストマウントの古いパン屋“ポム・ベーカリー”の焼きたてのパンの香りです」と答えています。牧歌的な素敵な幼少期の思い出ですね。

 サムは、すくすく育ち、4歳でヴァイオリンを習い始めます。幼少期から楽才を示し音楽に情熱を注ぎます。この時のヴァイオリン教師セヴァディジアン氏とはその後も親交が続き、サムの娘もヴァイオリンを教わっているそうです。モントリオール流の地元コミュニティーの固い絆です。

 また、サムは11歳でギターを弾くようになります。ヴァイオリンで鍛えた指使いと音感は、ギターにも遺憾なく活かされ、瞬く間に上達します。13歳の時にエレキ・ギターと出会い、友人とバンドを組みます。一方、頭脳明晰で、モントリオールの名門ロヨラ高校に進学し、マギル大学で英文学を専攻します。因みに、このロヨラ高校・マギル大学のコースは、米国カーター政権の国家安全保障補佐官を務めたポーランド移民のブレジンスキー氏と同じです。かつて、日本のロック批評の草分け、渋谷陽一が「ロックは知性の革命だ」と喝破したのを思い出します。

 サム・ロバーツはモントリオールの音楽と学業の二刀流でした。サムは、高校生にして、“ウィリアム”と名乗るバンドを結成。マギルに通うかたわらバンド活動を続けていました。1996年には、地元の独立系レーベルから『ピラニア』と題するEP盤をリリースしました。1998年マギル大学を卒業すると、音楽に専心します。

ロサンゼルス〜苦い夢

 サムは、卒業を期に“ウィリアム”を“ノーススター”と改名します。そして、バンドメンバーと共に、モントリオールを出て世界のエンタメの中心地ロサンゼルスに拠点を移します。ロサンゼルスでは、バンド名を冠した『ノーススター』と題するEP盤を自主制作し、勝負をかけます。北国カナダのケベックから現れた新星には、自信もあれば野望もあったに違いありません。ダウンタウンのクラブ等での演奏活動も本格化させます。しかしながら、其処は、世界中から一騎当千の我こそは異才・鬼才・天才と信じるミュージシャンが集まり覇を競う街です。

 率直に言えば、ロサンゼルス滞在は苦いものに終わったようです。結局、翌1999年には、“ノーススター”は解散してしまいます。

 苦い夢に終わったロサンゼルス時代を振り返り敢えて総括すれば、理由は2つです。

 まず、サム・ロバーツ自身が未だ発展途上であったという点です。実は、このコラムを書くために、ノーススター時代の「Diagnosis:Evil」という曲を聴きました。イントロの刺激的なギター・カッティングとキャッチーな主旋律は可能性を感じさせますが、何処かで聞いたことのあるようなサウンドで彼の個性が際立つとまでは言えません。圧倒的な才能が開花するにはもう少し時間が必要だったのです。

 もう一つは、ロサンゼルスでは、音楽は芸術ではなくエンタメ産業です。売れる見込みがなければ、セカンド・チャンスはありません。将来性だけで生き残るのは容易ではない街です。厳しい現実です。サム・ロバーツが、才能の原石を磨く上で、ロサンゼルスは相性の良い街ではなかったということでしょう。

覚醒

 1999年、サム・ロバーツは、モントリオールに戻ります。凱旋ではありません。傷心の帰郷と言うべきでしょう。しかし、音楽に限らず誰の人生においても、試練は時として人間を鍛えます。“ウィリアム”から“ノーススター”とバンドを組んできた同志とも袂を分ち、一人の音楽家として改めて音楽に向き合います。

 サムは、自作曲12曲を自家録音します。実は、サムは、マルチ・インストロメンタリストで、ヴァイオリン、ギター、ベース、キーボード等を弾けるのです。その時のサム・ロバーツの現状を赤裸々に示す、『ブラザー・ダウン』と題するデモテープが出来上がりました。後にジュノー賞を受賞することになる名曲「ブラザー・ダウン」の最初期のヴァージョンを含んでいます。

 そして、このデモテープが運命の扉を開きます。

成功

 2001年、プロデューサー兼パーカッショニストのジョーダン・ザドロズニーが、このデモテープを評価し、全12曲の中から6曲を厳選して再録音することになります。ドラムはザドロズニーが叩きましたが、その他の楽器は全てサムが弾き、リードボーカルもハーモニーもサム自身の多重録音です。

 そして、この録音は、翌2002年7月にトロント拠点の独立系「メイプルミュージックレコード社」からEP盤『インヒューマン・コンディション』としてリリースされます。すると、リリースから9週間で、カナダのアルバム・チャート2位まで駆け上がります。デビュー・シングル「ブラザー・ダウン」は、カナダのオンエア・チャートで3位にインします。全く無名のシンガー・ソングライターの独立系の音盤が瞬く間にカナダ全国で大ヒットしたのです。快挙と言って良いでしょう。

 「ブラザー・ダウン」は、ファンキーなリズムに乗って、人生の選択や社会の不条理を歌っています。現代的なサウンドと親しみやすい旋律と極めて内省的な歌詞が絶妙にマッチ。最大の武器はサムの声です。聴く者の胸を突きます。

 すると、世界最大レコード会社「ユニバーサル」がサム・ロバーツとの契約をオファーするのです。既にカナダのアルバム・チャートを席巻している音盤『インヒューマン・コンディション』に収録されている6曲を録音し直すと共に、追加で8曲を録音します。勿論、全てサム・ロバーツの作詞作曲で、大半の楽器を彼が弾いています。

 2003年6月、メジャー・デビュー音盤として14曲収録のフル・アルバム『We Were Born in a Flame』がリリースされます。しかも、カナダに加え米国でもです。かつて、夢破れたロサンゼルスの日々は、成功に至る上で通るべくして通った道程であったのでしょう。

飛躍

 このメジャー・デビュー音盤は大成功を収めます。2004年4月4日にアルバータ州エドモントンで開催されたジュノー賞で、「アルバータ・オブ・ザ・イヤー」、「ロック・アルバム・オブ・ザ・イヤー」、「アーティスト・オブ・ザ・イヤー」を受賞します。

 正に2004年はサム・ロバーツにとって飛躍の年です。本コラム第22回で紹介した「トラジカリー・ヒップ」のカナダ全国ツアーに同行し、オープニング・アクトを務めました。このツアーには、苦楽を共にした“ノーススター”のバンドメンバーに再び声をかけて万全の体制で臨みました。この経験は、ライブバンドとしての力量に一層磨きをかけました。この後、サム・ロバーツは米国ツアーも敢行しています。

 翌2005年には、「LIVE8」に参加しています。若干の解説をします。遡れば、1985年にアフリカ難民救済を目的に行われた20世紀最大のチャリティーコンサートであった「LIVE AIDE」が行われことを音楽ファンなら憶えてらっしゃるでしょう。クィーンを題材にした映画「ボヘミアン・ラプソディー」のハイライトにもなったコンサートです。LIVE8は、このLIVE AIDE の20周年を期に、2005年7月のG8首脳会議に向けて、貧困に喘ぐアフリカ諸国への支援増大や債務救済を主張して行われたコンサートです。東京、ロンドン、フィラデルフィア等G8各国の主要都市で開催され、カナダでは7月2日(土)午後4時から日付が変わった3日(日)の早朝まで、トロント郊外のバリー公園特設ステージで行われました。サム・ロバーツはこの舞台に立ったのです。LIVE8トロントには、趣旨に賛同したニール・ヤング、セリーヌ・ディオン、ブライアン・アダムス、更にはディープ・パープル等々のスーパースターが参加。サムは、名実ともにスターの仲間入りを果たした訳です。

 その後は、コンスタントにアルバムを発表。カナダを代表するロック・アーティストとしての地歩を築いて行きます。2006年には第2弾『Chemical City』、2008年には第3弾『Love at the End of the World 』をリリースします。特に、第3弾音盤は、アルバム・チャート初登場で首位。ジュノー賞も獲得しています。

 2011年以降は、「サム・ロバーツ・バンド」名義で音盤を発表しています。バンドの核となるドラム、ベース、キーボードは“ノーススター”時代から不変です。引き締まったバンド・サウンドはメンバー間の絆の深さを感じさせます。

結語

 サム・ロバーツの音楽は、彼が若き日々に聴いたボブ・ディランやビートルズやローリングストーンズの影響を陰に陽に受けています。考えてみれば、彼らの影響を受けていないバンドは皆無でしょうけれど。時に、カナダのブルース・スプリングスティーンと言われることもあるようです。しかし、サム・ロバーツには、カナダ的な余りにカナダ的な要素が色濃く現れています。メジャー・デビュー盤収録の「カナディアン・ドリーム」など良い例ですが、多文化主義のカナダの理想と現実が滲んでいます。自然との共生や旅も主要なテーマですが、日本の27倍の国土故に生まれたサウンドと言えます。

 サム・ロバーツは、既に、デビューから20年余です。彼のキャリアを一望できるベスト盤『Frequencies』がリリースしたばかりです。今年は、50歳の知命の年です。コマーシャリズムに飲み込まれることなく、サムにしか辿れない音楽的冒険の旅路を行き、これからも極上の音盤を出してくれると期待しています。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「クロード・ヴィヴィエ」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第34回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 4月の声を聞くと春の訪れをイメージしますが、今年のオタワは違います。温暖化の時代とは思えず、4月になっても真冬に逆戻りする日もあります。さすが、世界で最も寒い首都の一つです。とは言え、街を覆っていた雪も徐々に溶け出し、樹木も目を凝らして見れば蕾が膨らみ始めています。厳しい冬の後の春は喜びもひとしおです。

 さて、今回の「音楽の楽園」は、カナダが生んだ現代音楽の鬼才クロード・ヴィヴィエです。移民立国のカナダを体現するモントリオール出身。出生の瞬間から旅路の終焉まで正に波瀾万丈そのもの。「事実は小説より奇なり」を体現したような人生を生きました。アンブローズ・ピアスの『悪魔の辞典』が芸術家について「法律を巧みにかいくぐる術に長けた者」と定義していたことを思い出します。

 クロード・ヴィヴィエは、弱冠34歳で夭折した天才。現代音楽の巨匠カールハインツ・シュトックハウゼンの下で学びましたが、師の作曲技法を消化・吸収し、誰にも似ていない唯一無二の個性を確率しました。日本にも短期間滞在し、東洋的な要素を絶妙に取り入れているのもヴィヴィエの真骨頂です。短期間に本格的な作品を40以上残しています。どれも時代の先を行く真の前衛。没後、急速に評価が高まりました。代表作は、「ソプラノと管弦楽のための《みなし児(Lonely Child)》」です。現代と伝統、東洋と西洋が交差する音楽の斬新な響きに満ちています。今なお、美しく刺激的です。

 それでは、クロード・ヴィヴィエの辿った音楽的冒険を追体験しましょう。

1948年4月14日〜モントリオール

 クロード・ヴィヴィエは、1948年4月14日、モントリオールに誕生したと記録されています。但し、両親については姓名・人種等一切不明です。と言うのも、誕生直後にカトリック教会が運営する孤児院に置き去りにされたからです。その段階では、名も無き赤ん坊でした。教会により、クロード・ロジェと名付けられ、孤児院で養育されます。そして、2歳半の時に、詳しい経緯は分かりませんが、モン・ロワイヤル公園の側のマイルエンド地区の労働者階級のヴィヴィエ家に養子として引き取ら、クロード・ヴィヴィエとなりました。

 すくすく成長すると期待されていたものの、言葉を話さなかったため特別養護施設への通院も一時は検討されたようですが、6歳になる頃、話し始め健常者だと判明し、養父母はほっとしました。ところが、それも束の間、クロードが8歳になる頃、同居していた養父母の伯父から性的虐待を受けていたことが発覚します。教会の懺悔で、クロードが告白したからです。しかし、養父母は、クロードが嘘をついていると激怒したと言われています。

 この一件以来、家族関係がギクシャクし始めたと云います。同時に、クロードの自我が芽生え、人格が形成されていくのです。

思春期

 1961年、13歳になったクロードは、1817年に創設された名門のカトリック寄宿神学校、マリスト・ブラザーズ校に入学します。ここは、基本的には聖職者養成機関で、質の高い教育で知られていました。クロードは全ての科目で非常に優秀な成績を残します。中でも特に文学と言語学そして歴史に強い関心を示します。アルチュール・ランボーの詩に感銘を受け、ラテン語やギリシャ語も勉強しました。また、ドイツ史に強く惹かれ、ドイツ語も堪能でした。この頃、クロードは友人に、自分の両親はドイツ或いは東欧出身のユダヤ系で音楽家だ、と話しています。如何なる根拠があったのか分かりませんが、後年ドイツへ留学していることを思うと、血脈の影響があることを感じさせます。

 また、マリスト・ブラザーズ校在学中に、クロードは自分が同性愛者であることに気付きます。1960年代のカナダでは、今と全く状況が異なっていて、同性愛はカナダ刑法に云う「重大な不品行為」として処罰の対象でしたし、社会的にも同性愛への偏見は根強かったのです(この状況が変わるのは、ピエール・トルドー首相の登場を待たねばなりません)。それでも、モントリオールは、カナダの中では突出して文化的に多様でゲイ・サブカルチャーが存在していたと言われています。秘密裏に運営されるゲイ・バーやサロンもあったそうです。とは言え、10代のクロードが性的指向を表現するのは極めて困難な社会状況だったのは間違いありません。そんな孤独や葛藤や渇望が音楽を求める本能と化学反応を起こしたのかもしれません。因みに、クロードは18歳の時に、自分が同性愛者であることを告白しています。

音楽への目覚め

 そこで、クロード・ヴィヴィエの音楽についてです。彼の音楽的原点は教会でした。養父母に連れられて参加した礼拝で聴いた聖歌隊の合唱は、声と歌への憧憬を深めます。パイプオルガンの荘厳な響きが幼きクロードの中枢に深く刻み込まれたのです。特に、クロード10歳の時、1958年12月24日のクリスマス・イブの深夜ミサで聴いた聖歌が決定的で、「その瞬間に何かが自分の中で開かれた」と後年語っています。

 上述のとおり、ヴィヴィエ家の家庭環境は決して望ましいものとは言い難かった訳ですが、クロードは音楽への強烈な関心と非凡な才を垣間見せます。養父母は、クロードのためにアップライト・ピアノを買い、時折ピアノ・レッスンにも通わせました。

 マリスト・ブラザーズ校は、カトリック教義を核にしていましたから、ミサ、晩課、グレゴリオ聖歌が日常的に演奏される環境でした。音楽は宗教的実践の不可分の一体だったのです。一方、教育カリキュラムとしての音楽教育は限られていました。そんな中、クロードは、ほぼ独学で音楽について学びます。特に、モーツァルト、チャイコフスキー、バルトーク、シェーンベルグの音楽に魅了されました。作曲も始め、仲間に聞かせていたと言います。また、地元のバレエ教室でピアノの伴奏をしたり、音楽を教えたりしました。また、パイプオルガンの音色に魅せられ、パイプオルガンが設置されている地元の教会を訪れては、ミサの伴奏をさせてもらうようになったといいます。

 マリスト・ブラザーズ校は聖職者養成学校だったにもかかわらず、クロードは音楽にのめり込みます。同時に、クロードの性的志向はカトリックの寄宿舎学校では全く容認されませんでした。結局、放校処分を受けました。クロードは、音楽への道を模索します。生活費を稼ぐために、地元のレストラン等でアルバイトをしたそうです。

モントリオール音楽院

 1967年秋、クロード・ヴィヴィエは、晴れて名門モントリオール音楽院に進学します。専攻は、ピアノと作曲です。作曲は、フランス現代音楽の巨匠オリビエ・メシアンの高弟ジャイルズ・トレンブレイ教授に師事します。トレンブレイ教授は、作曲には無限の可能性があり、特定の時代の技法ではなく全方位的に学ぶべきとの信念を持っていました。ヴィヴィエは、グレゴリア聖歌、バッハからアルバン・ベルグまで500年を優に超える時間軸で音楽の真髄に迫り学びます。ヴィヴィエは、授業の後も廊下でトレンブレイ教授を質問責めにしたとの逸話が残っています。ヴィヴィエの関心の核心は、旋律を如何に活かすかだったと言います。ハーモニーとリズムと音色を駆使し、誰も到達したことのない境地に音楽を導くのがヴィヴィエの野望だったのでしょう。

 この頃、ヴィヴィエが音楽を学んだのは音楽院の閉じた空間だけではありませんでした。自由な気風に溢れるモントリオールでは、世界最先端の音楽を紹介するコンサートも頻繁に開かれていました。そして、ヴィヴィエは生まれて初めてシュトックハウゼンの前衛音楽に触れ、衝撃を受けます。1968年のことでした。

 音楽院の内外から刺激が、ヴィヴィエの創造中枢の爆発への導火線を発火させます。ヴィヴィエの最初期の本格的な作品「ソプラノ、クラリネットと打楽器のための《オジカワ》」も発表されます。20歳の自画像と言ってよいでしょう。大いなる可能性を感じさせます。トレンブレイ教授は、ヴィヴィエの良き理解者でした。巨大な才能の原石の発見者にして親友となりました。教授の強力な推薦もあって、ヴィヴィエは、カナダ芸術評議会から奨学金を得ます。そして、欧州へと飛び立ったのです。この時、23歳です。

ヨーロッパにて

 1971年から73年まで3年間、クロード・ヴィヴィエはクラシック音楽の本場たる欧州に留学します。疾風怒濤の1960年代を経て、欧州は大きな変革の真っ只中にありました。グレゴリア聖歌、ジョスカン・デ=プレ、ヴィヴァルディ、バッハ、ヘンデル、モーツァルト等々、古典音楽を育んできた欧州は、今や全く新しい革命的な音楽の揺籃の地です。ヴィヴィエは、現代音楽を牽引する3人に師事します。

 まず、国立パリ高等音楽院で指揮者・作曲家のポール・メファノに師事します。特に、詩・言葉と音楽の深淵な繋がりを探求しました。次にユトレヒトにあるハーグ王立音楽院付属ソノロジー研究所でゴッドフリード・マイケル・コーニングに師事します。この研究所は、最先端の電子音楽を主導していました。最新技術と音楽の関わりを体得する絶好の場でした。

 最後に、ケルン音楽院です。ここでは、20歳のヴィヴィエに強烈な霊感を与えた稀代の作曲家シュトックハウゼンが教鞭を取っていたのです。彼にとっての欧州留学の核心です。希望に胸を膨らませるヴィヴィエでした。しかし、シュトックハウゼンは、課題に対しヴィヴィエが書いた楽曲を評価せず、弟子入りを断ったと言います。ショックを受けるヴィヴィエですが簡単には諦めません。最終的には、受け入れられ、1972年から2年間、ここで、シュトックハウゼンの音楽・美学・思想を徹底的に学んだといいます。作曲技法だけではなく、音楽に直結する時間と空間と音響の関係性、更には曲づくりの背景と骨格をつくる思想です。ヴィヴィエにとっては、誰の真似でもない自らの音楽世界を構築する上で極めて重要な土台となるのです。一方、シュトックハウゼン教授はと言えば、ヴィヴィエに関して好意的コメントすることはなく、評価は総じて高くはなかったそうです。師弟関係は、決して一筋縄ではいかないという事でしょうか。

モントリオールの新進気鋭

 1974年、3年間に及んだパリ、ユトレヒト、ケルンでの実り多き留学を終えて、ヴィヴィエはモントリオールに帰還します。作曲家としての内実は充実しましたが、一般には無名です。市内のアパートの賃料も安くはありません。地元の音楽学校で教師をして生活費を稼ぎながら、新進気鋭の作曲家としての道を歩み始めます。

 やがて、大きな転機が訪れます。CBCがヴィヴィエにカナダ国立青少年管弦楽団のための新曲の作曲を委嘱して来たのです。結果、生み出されたのが、代表作の一つ「シッダールタ」です。シッダールタは仏陀のことで、ヘルマン・ヘッセの小説『シッダールタ』にインスパイアされたものです。真理を探求し精神的覚醒に至る旅路を描いた物語に呼応するような楽曲です。ヴィヴィエ自身は「自分自身の声を見出そうとした時期」の作品だと述べています。シュトックハウゼンの重力圏から離れ、ヴィヴィエ流の音楽美学を確立する記念碑作品と評されています。実は、生前は演奏される機会はなく、没後9年を経た1992年にケント・ナガノがモントリオール交響楽団を指揮して初演しました。様々な打楽器を活用し変幻自在なリズムと多彩な音色が観客を魅了し、圧倒的な成功でした。

中東アジア紀行

 ヴィヴィエは、1976年から77年にかけて、エジプト、日本、イラン、タイ、シンガポール、バリを訪れています。欧州とは全く異なった文化的・歴史的な空間に身を置いたのです。それぞれの国で独自に発展して来た音楽について学び、吸収し、それをヴィヴィエ的な作曲語法の中に昇華させていきます。バリではガムラン音楽の影響を受けました。

 日本では、雅楽、仏教音楽、能、声明、歌舞伎等に触れています。間を大切にする独特のリズムの感覚や和楽器的な音色が代表作「ジパング」に滲んでいます。CDも出ていますし、YouTubeでも聴けます。現代音楽は苦手という方も、聴けば、東洋の響きの中に潜む音楽の驚きと喜びを感じられると思います。

パリ〜最終章

 1982年6月、クロード・ヴィヴィエは、パリに移住します。カナダ芸術評議会の奨学金を得て更なる音楽の高みを目指したのです。ヴィヴィエにしてみれば、現代音楽作曲家としてカナダで出来ることはやり尽くしたとの実感があったと言います。

 パリでは、基本的に創作活動に没頭していました。特に、チャイコフスキーの死を題材とした新作オペラに情熱を傾け、構想を練っていました。また、「魂の不滅を信じるか?」と題する新曲の作曲を始めていました。同時に、パリ高等音楽院関係者との交流もあり、正式な教授ではなかったものの、ケベックの音楽事情等についてアドホックに講義をしていたようです。

 一方、私生活は奔放で、頻繁にゲイ・バーを訪れていたことが知られています。夜な夜な行きずりの関係に溺れていたとも言われています。1983年1月には、そんな相手から暴行を受ける事件が起きます。友人たちは心配し、真剣に助言した訳ですが、ヴィヴィエの私生活は変わることはありませんでした。

 それでも、作曲家としては希望に満ちた将来が待っていたはずです。しかし、クロード・ヴィヴィエの生涯は、1983年3月7日、突然、終わります。パリの自宅アパートにて、その夜ベルビル地区のバーで出会った男娼に刺殺されたのです。嗚呼!

 葬儀は3月3日、パリのペール・ラシェーズ火葬場で行われました。そして、4月14日(ヴィヴィエの35回目の誕生日)、モントリオールの聖アルバート・ル=グラン教会において追悼式が行われています。

結語

 クロード・ヴィヴィエは、34年と11か月の人生航路をドラマチックに展開し生涯を終えました。彼の肉体が滅んで早くも42年が経ちます。一方、彼が残した音楽は時間の経過を経て輝きを増しています。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「アラニス・モリセット」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第33回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 3月になり、厳しかった冬の寒さも幾分緩み始めました。世界で最も寒い首都の一つオタワにも春の予感が漂う日もあります。但し、翌日には冬に逆戻ることもままあります。日本で言う三寒四温に似た感じでもあって、一歩一歩春が近いている実感のある今日この頃です。

 そこで今回は、カナダが誇る現代の自由奔放なシンガー・ソングライター、アラニス・モリセットです。全く個人的な事で恐縮ですが、かつて友人とバンドを組んでた際に、ゲストで招いた女性ボーカルが大のアラニス・モリセットのファンでした。歌い方もアラニスを真似ていました。それに、何かと言えば、アラニスが如何に素晴らしいアーティストかを語っていたのを思い出します。特に、『ジャグド・リトル・ピル』が女性の本音を大胆かつ率直に述べつつ、荒削りながら極上のロック・ミュージックに昇華させていると力説していました。

 アラニスは、同時期にブレイクした先輩シェリル・クロウをより先鋭化させ現代的にしてると感じました。聴き比べると、米国のシェリルの方が音楽的にはより保守的で、カナダのアラニスの方がより進歩的で冒険的です。コマーシャリズムの影響が隅々にまで及ぶ音楽業界にあって、アーティストの創造性を重んじる気風がカナダには根強いのかもしれませんね。

オタワっ子

 アラニス・モリセットは、1974年6月1日に、オタワ大学医学部付属リバーサイド病院で、教師を両親の下、二卵性双生児の妹として誕生しました。因みに、12分早く生まれた兄のウェイドも地元でヨガ教師をしつつ音楽活動しています(アラニスほど有名ではありませんが)。

 両親とも教師、父の家系は、フランス系とアイルランド系です。一方、母はユダヤ系のハンガリーからの移民です。家族が1956年のハンガリー動乱で反ソ連活動に関わり、祖国を追われて、カナダに移住したのです。但し、母は自分がユダヤ系である事を隠していたと云います。

 いずれにしても、アラニスの両親の来歴は、移民国家カナダを代弁するような、多様性を示しています。アラニスの血脈には、ヨーロッパ諸国の多彩な歴史と伝統と文化が流れている訳です。

 幼少期のアラニスについて、もう少し詳しく述べると、アラニスが3歳の時にモリセット家は西ドイツのラール/シュバヴァルツアヴァルトに引越します。両親が現地のカナダ空軍・陸軍基地に付属する学校の教師となったためです。そこで3年間過ごし、1980年にオタワに戻ります。

 翌1981年、アラニスは7歳になると、オタワ市カトリック教育委員会の小学校に入学します。同時期に、ピアノとバレエとジャズ・ダンスを習い始めます。11歳の頃には、人前で歌うようになります。12歳で、子供向けのテレビ番組「You Can Do That on Television」にも出演するようになります。更に、オタワ地区最大の高校グリーブ・コリジエイト・インスティテュート(Glebe Collegiate Institute) に進学します。この学校は、芸術・スポーツ分野で活躍する多くの卒業生を輩出しています。首都オタワは、決してエンタテインメントの中心ではないのですが、アラニスは芸能分野で才能を開花させていくのです。

始動

 上述のとおり、アラニスに非凡な才能が宿っていることは明らかでした。が、それがどれ程のものかは簡単に分かりません。彼女の巨大な才能は、徐々に全貌を顕わし始めます。

 1987年、アラニスは、自主制作シングル盤「Fate Stay with Me」を発表します。この音盤は、レコード会社やラジオ局が出資して設立した非営利団体、FACTOR(Foundation to Assist Canadian Talent on Record)の支援を受けて完成したものです。若干13歳です。地元、オタワのラジオ局ではヘビー・ローテーションで、知名度が上がります。

 次のステップは、世界的レコード会社MCAのカナダ法人との間で契約です。レコード会社とアラニス本人、そしてアラニスの両親が署名しました。地元のちょっと出来る女子からプロフェッショナルへと移行するのです。

 1990年の9月から12月 にかけて、オタワ市内のディストーション・スタジオにて、デビュー・アルバムの録音が行われます。プロデューサーは、オタワ出身のレスリー・ハウです。収録された10曲は、全て、アラニスとハウの共作です。曲調は、マドンナやジャネット・ジャクソンに代表されるエレクトリック・ポップのダンス・ミュージックです。要するに、当時の流行りのサウンドで、未だアラニスの個性は確率している訳ではありません。しかし、この時、アラニスは若干16歳。フル・アルバムを自作曲で固めて、世界的レコード会社傘下でメジャー・デビューするのです。その事実だけでも見事とは言えるでしょう。

 1991年4月、音盤のタイトルをシンプルに自身の名前を冠し『アラニス』として、カナダ国内でリリースされました。この音盤からは「Too Hot」等の3曲が相次いでシングル・カットされて、カナダ国内でトップ10にチャート入りするスマッシュ・ヒットとなります。アルバム・チャートでもトップ30にランクインし、総計で10万枚のセールスを記録して、プラチナ・ディスクを獲得しています。商業的には成功です。

 この勢いをかって、翌1992年10月には、同じ路線のアルバム『ナウ・イズ・ザ・タイム』をカナダ国内でリリースします。「An Emotion Away」等の4曲がシングル・カットされ、5万枚を売り上げ、ゴールド・ディスクに認定されました。とは言え、苛烈な競争が日常のエンタテインメント業界では、二匹目のドジョウの如く流行のサウンドを続けては生き残れません。耳の肥えた批評家達もマドンナやポーラ・アブドゥルの亜流だと切って捨て始めました。MCAレコードとの契約も終了しました。

 この時、アラニス・モリセットは未だ18歳の高校生でした。ここからが真の音楽的冒険の始まりです。

脱皮

 1993年、アラニスはグリーブ・コリジエイト・インスティテュートを卒業します。この時まで、アラニスは、両親と共にオタワに住み高校に通いながら音楽活動をしていた訳です。決して音楽で勝負する上で最高の環境ではありません。それにも関わらず、2枚の音盤をリリースし、プラチナとゴールドを獲得したのは並大抵ではありません。彼女の潜在力を示しているとも言えますが、真の才能は未だ埋もれたままです。

 そこで、アラニスは、高校卒業を期に、トロントに拠点を移します。オンタリオ州の州都にして、カナダ最大の都市です(北米でも4番目)。政治、ビジネス、文化、学術の中心です。自由で多様で多彩。アラニスの音楽的冒険を進化させる絶好の街です。ここで、アラニスは、新たなレコード会社やプロデューサーと出会うのです。

 閑話休題ですが、音楽の世界は、何よりもアーティスト個人の才能が核心です。それがなければ何も始まりません。ですが、一人だけでは音楽は完結しません。アーティストの才能を最大限に発揮させるチームが不可欠です。敏腕プロデューサーのジョージ・マーチンがいなければビートルズはリバプールの田舎バンドで終わっていたでしょう。音楽学者ルードヴィッヒ・フォン・ケッヘルがいなければモーツァルト作品が後世に完全な形で伝わることはなかったでしょう。ハービー・ハンコックを採用しなかったなら、マイルス・デイビスの1960年代黄金のクインテットの新主流派ジャズは生まれていなかったでしょう。

邂逅

 トロントへ拠点を移したアラニスには、運命的な出会いが待っていました。ソング・ライター兼プロデューサー、グレン・バラッドとの邂逅です。バラッドは、非常に多くのアーティストを手掛けていますが、有名なところでは、リンゴ・スター、ヴァン・ヘイレン、アニー・レノックス、デイブ・マシュー・バンド等です。音楽出版社の紹介でアラニスと面談したバラッドは、僅か30分ほどの会話でアラニスの核心を察知。潜んでいる唯一無二の個性を見抜いたといいます。1994年のことです。この時、アラニスは19歳、バラッドは41歳。音楽的魂の触れ合いには年齢は関係ありませんが、後年バラッドは親子のような感じだったと述懐しています。

創造

 アラニスとバラッドは、早速、米カリフォルニア州はサン・フランド・ヴァレーにあるバラッドの自宅スタジオに入って、2人で曲作りとデモ・テープの録音を始めます。毎日、15時間ほど音楽漬けだったといいます。曲の骨格が出来ると、バラッドがドラム・マシーンでリズムをプログラムし、各種ギターとキーボードを多重録音して伴奏トラックを作ります。それを聞きながら、アラニスがハーモニカを吹き歌います。何度も試行錯誤を繰り返しながら曲を仕上げていきます。2人の作業は数ヶ月に及びました。

 年が明けて1995年、2人で作ったデモテープを土台に、実際のレコーディングがロサンゼルスのウエストレイク・スタジオで始まります。マイケル・ジャクソン『スリラー』等の名盤が生まれた場所です。

 ここで録音されたのがアラニス最大の成功作となる『ジャグド・リトル・ピル』です。1995年6月にマーヴェリック・レコードからリリースされました。因みに、このレコード会社は、ワーナーブラザーズ傘下のレーベルでマドンナが実質的に創設したものです。アーティスト側の創造性と商業主義の両立を目指す、史上初の女性アーティストによるレコード会社とも言われています。

訣別

 実は、マーヴェリック・レコードが『ジャグド・リトル・ピル』をリリースするに際して、一つ重大な条件が課されました。以前、MCAからリリースされた2枚の音盤を廃盤とするというものです。新生アラニス・モリセットとして世界デビューする観点から、マドンナの亜流ダンス・ポップ時代を封印し、軽薄な歌詞とエレクトリック・デジタルな機械サウンドとは完全に一線を画す戦略的な狙いだったとも言えます。

 確かに、『ジャグド・リトル・ピル』を聴いた耳で『アラニス』や『ナウ・イズ・ザ・タイム』を聴くと、本物と習作の差以上の大きな落差を感じるかもしれません。

 『ジャグド・リトル・ピル』は、女性の本音や怒りを直裁に訴える歌詞、感情を剥き出しにした歌唱、敢えて美声を拝した強靭な声、そしてグランジ系のリアルなバンド・サウンドが聴衆の胸を鷲掴みにします。特に、女性の共感を得て、“フェミニスト・アンセム”とも受け止められています。

記録

 『ジャグド・リトル・ピル』は、世界中で3,300万枚を超えるセールスを上げ、チャートを席巻。カナダ人アーティストとして初めてダブル・ダイヤモンド・ディスクを獲得しました。

 グラミー賞は、9部門にノミネートされ、最優秀アルバム賞、ベスト・ロック・アルバム賞、最優秀女性ボーカル賞等の5部門で実際に受賞しています。しかも、21歳でのグラミー賞受賞は、当時の最年少記録でした。この記録を塗り替えたのは、テイラー・スイフトです。

結語

 アラニス・モリセットと言えば、『ジャグド・リトル・ピル』ですが、2002年発表の『アンダー・ラグ・スゥエプト』も聴き応えのある名盤です。今、聴いても新鮮なサウンドです。唯一無二の声と歌唱がアラニスの書く歌詞と旋律を天高く飛翔させています。

 私生活では、2010年に、ヒップ・ホップ・アーティストのマリオ・“ソウルアイ”・トレッドウェイと結婚。3人の子供を出産しましたが、産後鬱に苦しんだことを公表しています。

 そんな私生活上の困難も吸収して、アラニスは、その後もコンスタントに音盤を発表しています。最新作は、2022年発表の『ザ・ストーム・ビフォー・ザ・カーム』です。瞑想のための音楽を志向しています。一人のアーティストが進化し変貌を遂げる様が音楽に投影しています。

 アラニスは未だ50歳。まだまだ現役で頑張ってもらいたいと思います。激動の時代、彼女自身がどんな変貌を遂げ、新しい音楽を提供してくれるのか楽しみです。遠からず、『ジャグド・リトル・ピル』を超えて、世にインパクトのある音盤を送り出してくれることを期待しています。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「ジャン=ミッシェル・ブレ」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第32回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 2月になり、冬が本格化しています。私にとっては3度目の冬ですが、初めて、世界で最も寒い首都の一つというオタワの本領が発揮されていると実感する日々です。寒い日は、氷点下20度を下回る日が続きます。青空で雲一つない晴天で、積もった雪が眩しく感じるような日が実は気温が低いのです。放射冷却現象です。どんよりと曇っている日は、厚い雲が地表面の熱を保存しているせいで、マイナス5度ほどにまで上昇します。

 そんな冬の日々、仕事がら様々な方々にお目にかかり、実に色々な事を学びます。先日は、公邸にカナダ国立美術館の関係者をお招きして夕食を共にしました。公邸の嶋シェフの絶品和食と日本酒で、お互いに打ち解けた雰囲気で、大いに盛り上がりました。話題はトランプ政権、カナダ内政、現代美術の将来、日系人アーティスト、NYのメトロポリタン美術館の歴史、更には2028年の日加外交関係樹立100周年に向けた国立美術館との協力にまで多岐に渡りました。

 私は、食卓でも常に音楽をかけています。BGMですから、音量は控えめです。ちょうど、マイルス・デイビスの「イン・ア・サイレント・ウェイ」を流している時でしたが、音楽話しが弾み、ジャン=フランソワ・ベリズリー館長が現代のカナダ音楽界で素晴らしいアーティストがいるとして、ピアニスト・作曲家のジャン=ミッシェル・ブレ(Jean=Michel Blais)を教えてくれました。実は、これまで、ブレの音楽を聴いたことはありませんでした。ベリズリー館長は、外交官の息子として世界各地で育ち、長じて名門コンコルディア大学で美術史・現代アートを専攻し、卒業後はサザビーズ、UNESCO等で活躍。48歳の若さで国立美術館の館長に就任した才人です。鋭い感性を備えたベルズリー館長の一押しです。アップル・ミュージックで探して、直ぐにかけました。それが、ブレの音楽との出会いです。

 前置きが長くなってしまいましたが、今月の「音楽の楽園」は、ジャン=ミッシェル・ブレです。

第一印象

 夕食会が終わりゲストの皆様が帰った後、書斎でブレを聴きました。「II」という2016年に発表されたデビュー盤です。胸にすーっと入って来ました。何の準備も要らない。ただ、耳を傾ければ、音楽が染み入って来る感じです。透明でシンプル。必要最小限の音で出来ていると感じました。同時に、ブレは、ピアノと一体化していると感じました。呼吸するように、話すように、微笑むようにピアノを弾いてるのだと。喜怒哀楽が指先からピアノの88個の鍵盤に伝わっているようです。エリック・サティやジョージ・ウィンストン、或いは久石譲を彷彿させます。

 また、ブレの音楽には押し付けがましさとか過度な自己主張が無いとも感じました。私の全く個人的な感覚ですが、傑作や名作と称される音楽の中には、聴くのに凄いエネルギーを要するものがあります。勿論、そこには、巨大な音楽的感動はあるのですが、余り元気のない時には聴く気がしません。ブレの音楽は、真逆です。聴く側に元気があろうがなかろうが、聴く者の心に寄り添うように音楽的な詩情を喚起します。私小説的な親密さを感じさせます。

 聴く者にとって、ブレの音楽は非常に自由です。聴く者の思いを開放する音楽です。例えば、デビュー盤収録の「Casa」という曲は、雪景色の中で聴くと、正に雪にピッタリと感じるのですが、仮に夏の夕暮れに聴けば、暑さの火照る都市の喧騒の中に現れる一瞬の静寂にも似合うように感じます。要するに変幻自在なのです。だから、ジャンルを特定することが出来ません。クラシックの要素もあれば、ジャズ的でもあります。映画音楽にもなるでしょう。目が冴えて眠れぬ夜に聴けば、あっという間に熟睡に誘います。

 そんなブレの来歴が非常に興味深いです。

神童の放浪

 ジャン=ミッシェル・ブレは、1984年4月にモントリオール郊外のニコレに誕生します。父は聖歌隊で歌っていましたし、母はオルガン奏者でもありました。音楽に溢れる家庭で、両親からの影響は陰に陽にあったことでしょう。

 9歳の頃から自宅のピアノで遊び始めたと云います。ジャン=ミッシェル少年にとっては、ピアノは学ぶものではなく、日々の生活の中の自分の分身のような存在になっていたことでしょう。家の中にあるビンやフライパンを叩いたドラムごっこも大好き。ラジオ・カナダで放送される「ワールド・ミュージック」を熱心に聴き、ケルト音楽や東欧の音楽に惹かれたといいます。11歳になる頃には、オリジナル曲を書き始めました。特段、誰かに師事したというのではなく、自然な成り行きだったそうです。

 そして、地元の音楽関係者の間で注目され、17歳にして、ケベック州トロリヴィエール音楽院に進学。本格的に、ピアノと作曲を学び始めました。しかし、ジャン=ミッシェルにとっては、音楽院での音楽の「勉強」は、余りにも制約が多く、喜びよりも苦痛を感じたといいます。何故ならば、自分が本当にやりたい事は、その瞬間のインスピレーションを切り取る即興や変奏、破天荒な音楽的冒険なのだと気がついたからです。周囲の関係者も、音楽院が提供する科目・授業は、彼が欲する音楽とはズレていると感じたそうです。要するに、音楽院には彼の居場所はなかったのです。そうと気が付くと、ジャン=ミッシェルは躊躇なく音楽院を去ります。

 ここからのジャン=ミッシェルの青春の旅路が非常に印象的です。青年は荒野をめざす的な自分探しですね。

 まず、中米のグアテマラに行きます。何故、グアテマラだったかは知る由もありません。が、彼の地の孤児院で4ヶ月に渡って働きます。その後は、ベルリンに行きました。そして、再び南米、アルゼンチンはブエノス・アイレスに渡ります。この間、「ピアノは全く弾かず、ピアノのことも忘れていました」と或るインタビューで述懐しています。

 文字通り、音楽から離れ、故郷から離れた日々が、己を鍛え、真の自分を見出すことに繋がります。

音楽との再会〜自己流スタイルの確立

 ジャン=ミッシェルは、1年余に亘る旅からモントリオールに帰還します。

 その時、家族・友人・知人に見せるような旅先で撮った写真がないことに愕然とします。音楽院での挫折から立ち直る傷心の旅路ですし、元来、カメラを持ち歩くタイプでもないのです。とはいえ、旅先で出会った人や風景や驚きや感動を伝える術が無いことに心が騒ついたことでしょう。そこで、ジャン=ミッシェルは、自分を見出すのです。自分には、写真はないが、音楽があると。ピアノが弾けるじゃないか、作曲できるじゃないか、と。己が経験したことや感じたことを、音楽を通じて表現出来ると。

 或る時、かつて即興的に作曲した曲のディテールを思い出せなかったことがあったといいます。それ以来、断片であれ何であれ、録音しておくようになります。高級な機材ではなく手頃に入手できるもので。自分の部屋の日常的な音も録音されます。それも音楽の一部だと感じるようになります。ここにジャン=ミッシェルの独自のスタイルが出来上がるのです。

 とは言え、この段階では、未だ音楽だけで生活を支えるには至っていません。放浪から帰還したジャン=ミッシェルは、コンコルディア大学で、一般教養を修めると同時に特別支援教育について学びます。そして、ケベック州の特別支援学級の教師となります。情熱をもって教師を勤めつつ、自己の音楽を追求する日々です。有り体に言えば、音楽を趣味とする教師です。趣味と言うには、ほぼプロですが。実は、世の中には、世に出る機会に巡り会わない玄人裸足の音楽家は少なからずいます。ジャン=ミッシェルも10年程そんな日々を過ごします。

Arts & Craftsとの出会い

 特別支援教師の傍ら、自己の音楽を追求していたジャン=ミッシェルは、やがて、完成した曲をBandcampというオンライン・プラットフォームに投稿し始めます。メジャーなレコード会社との契約のない音楽家にとっては、貴重な作品発表の場です。教師とセミプロ音楽家の日々を過ごすジャン=ミッシェルにとっては、教師と音楽を両立できて不満はなかったと言います。ですが、遂に、運命の扉が開きます。

 2015年、31歳になったジャン=ミッシェルは、モントリオール地元のArts & Crafts(A&C)というレコード会社に発見されたのです。キャメロン・リードというアーティストがBandcampで聴いたジャン=ミッシェルの曲に魅せられます。そこで、リードはA&Cの関係者に彼の音楽を紹介します。美しいというだけでは音盤になりません。レコード会社も民間企業ですから商売にならなければ意味はありません。この時、A&Cのプロデューサーはジャン=ミッシェルの音楽にサムシングを感じたといいます。無駄な装飾のない音楽の原風景でしょうか。A&Cは、ジャン=ミッシェルに連絡を取ります。最初のコンタクトに関し、ジャン=ミッシェルは、冗談だと思って、送られてきたEメールを削除しそうになったと語っています。最終的には、双方のコミュニケーションが取れて契約に至ります。条件は、教師を辞めて、音楽に専念することでした。生活が一変する訳ですから、逡巡もあったに違いありませんが、プロの音楽家としての道を歩み始めました。

 デビュー盤「II」は、ジャン=ミッシェルの自宅で録音されました。使用楽器は、自宅のアップライト・ピアノとキーボード。録音時の生活音もありのままに含まれています。耳をすませば、雨、子供たちの声も聞こえます。即興的に作られた8曲が収録されています。

 今や、音楽は、高度に産業化され、最新の設備で工業品のように生産され商品にされています。そんな中にあって、「II」は手作り感いっぱい。時代の流れから超然としていると言えば、褒め過ぎですね。でも、偽らざる等身大の音楽です。シンプルな音楽ですが、旋律が生きています。何度聴いても発見があり、新鮮です。

 タイム誌「今年のベスト10アルバム」にも選択されました。そして、ジャン=ミッシェル・ブレは、素晴らしい楽曲を生み続け飛翔します。

カンヌ映画祭

 2019年には、ジャン=ミッシェルは、ケベック出身のグザヴィエ・ドランが監督・脚本・主演を務めた映画「マティアス&マキシム」の音楽を担当しました。ドラン監督は、幼少の頃から子役も務めたカナダ映画の申し子です。友情と恋愛の境界線と自己認識の揺らぎを繊細に描いた本作品は、映画の批評家筋から高い評価を得て、カンヌ映画祭においてプレミア上映されました。映画音楽はジャン=ミッシェルです。音楽が全面に出過ぎず、しかし、映画を観る者にそれぞれの場面の情感をリアルに伝えるのです。彼が映画のために提供した音楽は、目と耳の肥えたカンヌの批評家等を魅了しました。カンヌ映画祭のサウンドトラック部門を受賞したのです。

 この受賞に関し、ジャン=ミッシェルは「映画音楽作曲家として仕事が出来るなんて思ったことはありませんでした。まして、カンヌに来れるなんて」とSNSでコメントしています。謙虚な人柄の一端が現れていますね。

 その後も着実に名盤をリリースしていますが、もう1枚だけ。

aubades

 私が最も好きなアルバムが2022年に発表された「aubades」です。このタイトルは、直訳すれば「夜明けのセレナーデ」です。ここには、新しい始まりに歓喜し、未だ見ぬ出会いを応援するような響きがあります。闇に抱かれた夜が終わって、これから登る陽光への憧憬があります。

 ジャン=ミッシェルは、この音盤について「私は、ロックダウンの最中に自宅で一人、離婚の手続きをしていました・・・孤独に負けないよう、自分自身を癒すために書いたものなのです」と語っています。

 全11曲が収録されていますが、ピアノを軸にしつつも、弦楽器と管楽器が音楽の陰影を深く多彩に仕上げています。アップル・ミュージック版には本人が記した簡単な解説が付してあります。そこには、フィリップ・グラス、ドビュッシー、チリー・ゴンザレス、ヤニー、サティ、ショパンといった作曲家の名前も言及されています。創作の過程を垣間見る思いです。

結語

 ジャン=ミッシェル・ブレは、今年41歳。デビューから9年、いよいよ脂が乗って来たようです。1オクターブに存在する12の音の順列組合せが生む、音楽の無限の可能性を自然体で、さりげなく見せてくれます。頭脳ではなく心が感じる旋律の妙があります。

 最新盤は、3月発表予定の「désert」です。将来がいよいよ楽しみです。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「k.d.ラング」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第31回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、
 明けましておめでとうございます。
 本年も宜しくお願いします。

 厳しい国際情勢と激動のカナダ内政で幕を開けた2025年ですが、年末年始の休暇ではリラックスした時間を過ごすことが出来ました。そして、改めて実感したのは、カナダが生んだ音楽家の奥深さです。特に、休暇中の極私的ヘヴィーローテーション音盤の一つがk.d.ラングの「makeover」だったのですが、この音盤を聴くにつけ、頭と身体の双方に実に心地良く爽快な刺激を受けたのです。音盤ジャケットもデザインといい色合いといい最高です。

 仕事がら、私は日々カナダの各界の要人の方々とお目にかかる訳ですが、硬い話のみならず、時にはソフトな事柄も沢山話します。その際に、カナダを代表するアーティストは誰かという話題にもなりますが、多くの方がk.d.ラングだと指摘されます。その意味するところは、単に歌が上手いとか、ヒット曲が沢山あるという事を超えて、カナダという国家のあり様を体現しているという事だと思います。

 という訳で、今回の「音楽の楽園」は、k.d.ラングについてです。

ハレルヤ

 k.d.ラングには実に多彩な面があります。何処から始めればよいか悩むところですが、まずは「ハレルヤ」からにします。2004年発表の音盤「北緯49度の讃歌(Hymns of the 49th Parallel)」に収録されています。静謐な中にも雄弁に歌う、名唱です。

 カナダは国の成り立ちからして非常に多様性に富んだ国。それはカナダの生む音楽の多様性に直結しています。このコラムでも、ロック・ポップからジャズ、更にはクラシックまで毎月紹介して来ています。カナダ人が誇り愛する音楽に満ちています。が、敢えて、カナダを象徴する歌を選ぶとすれば、第2の国歌とも言われる「ハレルヤ」でしょう。本コラム第4回で取り上げたレナード・コーエンの作詞・作曲で1984年発表の音盤「哀しみのダンス」に収録された曲です。歌詞には旧約聖書からの逸話も言及され、完成に5年を要したと云われています。旋律は讃美歌のような崇高さと親しみやすさが同居しています。ボブ・ディランやマドンナはじめ300を超えるアーティストがカバーしています。その中でも、ラングが歌う「ハレルヤ」は、原作者のコーエンに勝るとも劣りません。

 ラングの「ハレルヤ」が数多あるカバーとは一線を画す特別な存在となったのは、2010年2月のバンクーバー冬季オリンピックの開会式での歌唱です。バンクーバー冬季五輪の開会式は、史上初の屋内開催。中心には先住民の誇りである氷製の巨大なトーテムが設置されました。ミカエル・ジャン総督が開会宣言を行いましたが、五輪史上初の黒人による宣言でした。要するに、カナダの歴史と文化と個性を前面に出した式典だった訳ですが、ラングの「ハレルヤ」は、音楽の面からカナダの誇りを示したものでした。多くのカナダ人にとって忘れられない瞬間だったと云います。

カントリー・ミュージックとの出会いと革新

 そんな国民的歌手k.d.ラングの生い立ちを簡単に記します。1961年11月、アルバータ州の州都エドモントンでドラッグストア経営者の父と教師だった母の下、4人兄弟の末っ子として誕生。7歳でピアノ、10歳でギターを始めました。12歳の時、父は出奔したそうです。人知れぬ苦労もあったようですが、アルバータ州のレッド・ディア大学に進学します。そして、運命の扉が開きます。

 ラングは、学業はさて置き、カントリー・ミュージックにのめり込みます。特に、米国現代カントリーの先駆者パッツィー・クラインのナッシュビル・サウンドに魅せられ、パッツィーのカバー・グループ「ザ・リクラインズ」を結成します。1983年、22歳の時には、シングル盤「フライデー・ダンス・プロムナード」でプロ・デビュー。エドモントンのクラブで演奏活動を本格化させます。

 84年には、アルバム「A Truly Western Experience」を発表。カントリーを基礎としつつより現代的な要素も盛り込んだ音盤は高い評価を得て、エドモントンのローカル・バンドから全国区へと成長します。批評家達は、従来のカントリーを革新するk.d.ラング&リクラインズの音楽を“カウボーイ・パンク”と呼びました。ラングの声と歌唱、更にバンド・サウンドは、時代と共鳴し始めます。

 85年には、ジュノー賞の最優秀新人女性ヴォーカリスト賞を受賞します。注目すべきは、k.d.ラングは最早カントリーというジャンルに限定されない歌手としての大いなる可能性が開花し始めるのです。

 トリビアですが、今をときめくテイラー・スウィフトもカントリー&ウエスタンの歌手としてデビューしますが、進化を遂げて、カントリーの重力圏を超えたポップ・ミュージックの境地に達しています。ラングは、スウィフトに先立つこと30年前に、カントリーを超える音楽的冒険の旅路を始めたのです。

音楽と文学の邂逅

 k.d.ラングの特徴の一つが、名前の表記です。誕生時の姓名は、Kathryn Dawn Langでした。が、デビューしてからは、一貫して、k.d. langと全て小文字で表記しています。法律的にも改名しています。そこには、ラングの拘りがあります。特に、米国の詩人e.e. cummingsから影響を受けたと云います。

 e.e. cummingsは、アバンギャルド志向で、既存の形式を破り、ユニークな構造や語順、スペースを使った自由詩スタイルを信条としました。人間の本質を深く掘り下げ、極めて内省的なトーンの表現が読む者の胸に迫ります。そんなカミングは、自身の名も型破りな表現を反映させて、e.e. cummingsと小文字のみで記していました。一説には、謙遜を意図したとも云われています。

 k.d.ラングは、虚飾を排した赤裸々な感情を形式的な制約を超えて自由に表現しようとしています。音楽と文学の違いはあるにせよ、真に自由な表現を希求しようとする衝動という意味では、k.d.ラングとe.e.カミングスの姿勢は重なります。音楽と文学の邂逅を小文字のみを使った名前の表記が象徴しています。

成功

 k.d.ラングは、カントリー・ミュージックを基盤とし、多彩な音楽的な要素を導入して独特なサウンドを築くとともに、前衛的な文学的要素も加味して、ラング流音楽を進化させます。その核心は、彼女の声と歌唱です。アルトの声域で芯太く情感が籠った歌が聴く者の心の奥に刺さります。

 エドモントンの地元シーンから始まった音楽キャリアは、カナダ全土、更にエンタメビジネスのメッカ米国へと広がります。

 1986年には、カントリー・ミュージックの本場テネシー州ナッシュビルに進出。恐るべき創造力と生産性を示します。翌87年には「エンジェル・ウィズ・ア・ラリアット」、88年には「シャドウランド」をたて続きに発表。そして、89年には、k.d.ラングのカントリー時代を締め括る「アブソルート・トーチ・アンド・トワング」を発表します。非常に高い評価を得て、グラミー賞の最優秀女性カントリー・ヴォーカル賞を受賞します。商業的にも、シングル・カットされた『愛いっぱいのフルムーン』がカナダのチャート1位を獲得し、米国でもヒットしました。

 1992年、前作から3年のインターバルを経て、k.d.ラングは「アンジャニュウ」を発表します。収録された10曲は全てラング自身の作品で、ソングライターとしての資質が全開します。サウンドは、カントリー的なフレイバーを微量に感じさせつつも現代的。いわゆるコンテンポラリー・ポップに仕上がっています。都会的な雰囲気の中に滲む田園的要素がお洒落。ラングの声は、最初のワン・フレーズから、ラングと分かる屹立した個性です。歌唱は、語るように歌います。言葉に吹き込まれた生命が舞うようです。商業的にも大成功し、母国カナダ以外でも、日米英独豪NZ等のアルバムチャートで好成績を残しました。そして、グラミー賞6部門にノミネートされ、見事に最優秀女性ポップ・ヴォーカル賞を受賞しました。

 その後も、ラングは栄光に包まれたキャリアを歩みます。歌手としては勿論、女優として映画にも出演します。007ジェームス・ボンド「トゥモロー・ネバー・ダイ」では、エンディング・テーマ「サレンダー」を歌いました。1996年には、35歳の若さで、「カナダ勲章」を受賞します。2006年の音盤「Reintarnation」ではエルビス・プレスリー追悼を前面に出します。2010年は、上述のとおり、バンクーバー・オリンピック開会式を彩りました。2013年には、「カナダ音楽の殿堂」に列せられました。2014年には、ブロードウェイへも出演します。彼女の活動は留まるところを知りません。

私生活と社会活動

 k.d.ラングは、1992年に、同性愛者であることをカミングアウトしました。伝統を重視し、保守的な面もあるカントリー・ミュージック界からの反発も覚悟したと云いますが、それは杞憂に終わりました。彼女の正直な姿勢は評価されました。時代の変化を牽引し体現したのです。HIV問題も献身的に支援。アニー・レノックスと共同で、チャリティー盤「Sing」を2007年12月1日の世界エイズデーに発表しました。

 また、彼女は、チベット仏教徒にして、菜食主義者でもあります。米国で設立された動物愛護団体PETA(People for the Ethical Treatment of Animals)の活動にも積極的に関わっています。彼女の地元アルバータ州では、畜産が州経済を支えている関係で軋轢も生じました。アルバータ州農業大臣が「州を挙げて応援してきたラングが動物愛護側についたことは、裏切られたような気分で極めて遺憾だ」と発言しました。とは言え、ラングの姿勢は一貫していますし、アルバータ州は畜産を重視し、アルバータ牛は今や強力な輸出品目でもあります。

 自由で多様性を旨とするカナダの現実の一旦がここにあります。同時に、個人としてのラングの社会的な影響力の大きさを示す逸話でもあります。

結語

 k.d.ラングの歩みを俯瞰すると、何通りにも自己を表現する術を持ち、それぞれに成果を残しています。一人の人間が為し得る可能性の振幅の大きさに驚嘆します。

 実は、彼女は2019年には、BBCのラジオ番組に出演し、ほぼ引退する意向を表明しました。還暦を前にした、一つの決断だったのでしょう。それでも、2021年には、既存の録音をリズム重視のクラブサウンドに大胆に編曲し直した「makeover」を発表。ラングの音楽が時代を超えて共鳴し得ることを証明しました。

 そして、2024年9月、k.d.ラングは力強くカムバックします。還暦を過ぎて、原点回帰するのです。32年ぶりに、あのリクラインズを再結成したのです。「カナダ・カントリー音楽の殿堂」入りを祝してのことです。YouTubeでその模様は観れますが、彼女自身も聴衆も本当に楽しんでいます。理屈も蘊蓄も超えた、音楽の楽しさに溢れています。

 2024年10月、彼女は新たに音楽出版社と出版契約を結びました。既存の作品のみならず、将来の作品も視野に入っているとのことです。

 k.d.ラング、成熟した国民的歌手の今後の更なる活躍が楽しみです。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「イェーデン・イジク=ドズルコ」 音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第30回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 12月に入り、オタワの冬が本格化してきました。雪が積もり見事な雪景色です。世界で最も寒い首都の1つであることを証明しているかのようです。地球温暖化の時代ですから、オタワの冬も数十年前と比べるとマイルドだと言われていますが、長崎出身の私にとって雪に囲まれた生活は憧れでもあり、圧巻です。

 実は、健康のために8月から毎朝ウォーキングをしており、雪の中でもスノーブーツを履いて毎朝5キロ程度歩いておりました。ところが先日フリージング・レインで道が完全に凍結し、スノーブーツにスティックで武装しておりましたが、不覚にも転倒し右上腕部を骨折してしまいました。

 従って、今回のコラムは音声入力と左手だけで書いております。右手が使えなくなり、日常生活のごく普通のことも難しくなってしまい、健康の大切さを実感しながら書いています。そして、難しい日常に、改めて、音楽のチカラを思い知りました。

 そこで、今回の音楽の楽園は、カナダが世界に誇る若手ピアニスト、イェーデン・イジク=ドズルコです。実際のところ、イェーデンは、未だ知名度と言う意味では高くありません。しかし、2024年の2つの国際的な音楽コンクールを制しました。5月のモントリオール国際コンクール、そして9月のリーズ国際ピアノコンクールです。将来が非常に楽しみなピアニストです。

2024年〜コンクール・キラーの面目躍如

 これまでの「音楽の楽園」で何人ものカナダ人音楽家を取り上げています。特に、ピアニストと言う意味では、クラシックのグレン・グールド、ジャズのオスカー・ピーターソンを筆頭にカナダは天才・鬼才・異才の宝庫です。第23回の本コラムでは新世代の若き巨匠ヤン・リシエツキを取り上げました。カルガリー出身のヤンは、若くして頭角を現し、「コンクールに出る必要のなかったピアニスト」と言われています。一方、今回取り上げるイェーデンは、その対極にあって、まさに「コンクール・キラー」のピアニストと呼ぶべきでしょう。

 イェーデンの名前を一気に高めた2024年の活躍ぶりを見てみましょう。

 第21回モントリオール国際コンクール・ピアノ部門は、5月5日〜16日、モントリオールで開催されました。イェーデンは、ファイナルでブラームスのピアノ協奏曲第2番を演奏し、優勝しました。実は、カナダで開催されるコンクールではあるものの、これまでカナダ人の優勝者はいませんでした。イェーデンこそカナダ人として初めての優勝でした。

Photo from Concours musical international de Montréal (CMIM) Facebook
Photo from Concours musical international de Montréal (CMIM) Facebook

 モントリオール国際コンクールは2002年に設立された比較的新しいコンクールですが、優勝賞金と副賞として与えられるリサイタル、さらには録音の機会等を換算すると優勝の総額は140,000加ドルです。また、イェーデンは、今回ベスト・カナダ人賞(5,000加ドル)、セミファイナルの段階でのベスト・ソナタ演奏賞(3,000加ドル)、カナダ人作曲家、新曲課題賞(2,500加ドル)も獲得しています。音楽が賞金で計れるわけではありませんが、モントリオール国際コンクールの賞金総額は、現在、数多ある国際コンクールの中でも最上位にあります。名門オーケストラとして知られるモントリオール交響楽団及びカナダ放送協会などが協賛しています。新しい国際コンクールとしての存在感を高めている所以でもあります。

 実は、イェーデンは、この段階でリーズ国際の第1ラウンド通過が確定していて、9月のリーズ国際ピアノコンクールの本戦への出場が決まっていました。クラシックのピアノコンクールは、陸上競技のマラソンと似た面があって、普通は大きな大会に連続して出場することはありません。何故ならば、一つのコンクールだけでも予選から決勝まで、長期間にわたって多数の課題曲について審査を受けなければなりません。強靭な精神力と集中力が求められます。世界最高峰の競争を制するためには、多数のレパートリーを仕上げ、コンディションを整えることが不可欠です。しかも、掛け持ちした片方で優勝したとして、もう一つで結果を出せなければ、評価やキャリアに悪影響を及ぼしかねません。ですから、モントリオールとリーズを掛け持ちするということは、イェーデンの自信の現れでもあります。自信の裏には、入念な準備があるということです。

 イェーデンは、モントリオールを制した後、英国は北イングランドの都市リーズへ赴きます。第21回リーズ国際ピアノコンクール本戦は、9月11日から第2ラウンドが始まりました。第2ラウンドを通過し、15日から17日までのセミファイナルに臨みます。そこを突破した5人のファイナリストが決勝に進みました。決勝は、9月20日(金)と21日(土)の2日間でした。イェーデンは、モントリオールのファイナルでも弾いたブラームスのピアノ協奏曲第2番で勝負。そして、優勝しました。モントリオールから連続で伝統のリーズでも優勝し、イェーデンの評価は一気に高まりました。

 リーズ国際ピアノコンクールは1961年の創設。63年からは3年ごとの開催です。5年に1度のショパンコンクールに匹敵するほどの権威のあるピアノコンクールと言って良いでしょう。毎回の出場者は極めて優秀にして厳しい競争です。著名なところでは、1969年はルプー、72年はペライアが優勝しています。75年は日本の誇る内田光子が2位、アンドラース・シフが3位と言う結果でした。リーズの優勝者の将来は極めて明るいのです。

サーモン・アームの神童

 イェーデン・イズク=ドズルコは、1999年にブリティッシュ・コロンビア州サーモン・アームに誕生しました。バンクーバーから北東にフレーザー渓谷を超えて約470km、オカナガン地域の入り口で森と湖に囲まれた人口約1万7000人の美しい街です。両親ともにピアノ弾きで、イェーデンが5歳の頃から父親が手解きします。13歳の頃には、BC州内の様々な音楽イベントに参加するようになります。たまたま少年イェーデンの演奏を聴いた聴衆は、彼の驚異的な技量に驚く訳です。そして、2014年、故郷サーモン・アームに近い地域の中核都市カムループスでの音楽コンクールに出場し、ピアノ部門で見事に優勝。カムループス交響楽団と共演して、15歳にしてオーケストラ・デビューを飾ります。人口2万人足らずの地方の神童が世に出る機会を得る上で、コンクールに勝つことは、将来に向けて極めて戦略的、かつ地に足の着いた現実的な手段です。逆に、コンクールの主催者からすれば、知られざる逸材の発掘こそが最重要な使命です。

 そして、イェーデン少年は、2017年、ニューヨークはジュリアード音楽院に進学。頭角を顕します。

コンクール・キラーの登場

 イェーデンの、ジュリアード入学後の主なコンクール記録だけ記します。

 知名度の高くない若手が国際的な活躍の場を求めて、己れの技量だけを頼りに果敢に挑戦する姿が目に浮かびます。

 2019年、ジュリアード・ジーナ・ベイチェイン・コンペティション優勝。
 2020年、ポーランドはワルシャワのコクラン国際ピアノコンクール優勝。

 2022年は次の3つのコンクールで優勝しています。
・スペインはカンタブリア州で開催されるサタンデール・パロマ・オシェア国際ピアノコンクール。
・スペインはバルセロナで開催される若手音楽家のためのマリア・カナルス・バルセロナ国際音楽家演奏コンクール。
・米国サウスカロライナ州ヒルトンヘッド島で開催されるヒルトンヘッド国際ピアノコンクール。

 これらの22年のコンクール3連勝は、イェーデンの覚悟と自信と野心、そして巨大な楽才を示して余りあります。凄いです。これが24年の快挙に繋がりますが、23年には初来日を果たしています。

2023年〜来日

 イェーデンは、2023年11月、横浜みなとみらいホールで開催された「第41回横浜市招待国際ピアノ演奏会」に出演しています。スクリャービンのピアノ・ソナタ第4番、ラヴェルの「鏡」、ショパン「スケルツォ」等のピアノ独奏曲を披露しました。

 そして、ピアノを学ぶ地元の小中学生との交流会にも参加しています。NHK横浜放送局がその模様を報じています(https://www.nhk.or.jp/shutoken/yokohama/article/016/98/)。この段階では、イェーデンはCDリリースも無くてほぼ無名です。将来の巨人の素顔が垣間見えて、大変に興味深いです。

 「ピアノは大好きだけど、コンクールの練習になると、あまり好きではなくなってしまいます。どうしたら好きになれますか?」という中学生ピアニストからのませた質問に対するイェーデンの次の回答が非常に誠実だと思います。

 「私も同じような経験があります。コンクールのことは忘れて、音楽そのものがどれだけ好きか、ということを考えるのが大事だと思います」

2024年11月20日〜オタワ国立芸術センター

 私は、イェーデンの公演を鑑賞する機会に恵まれました。

 実は、この時まで、イェーデン・イジク=ドズルコというピアニストの事は知りませんでした。Jaeden Izik-Dzurkoというパンフレットにある名前も何と発音するのか分かりませんでした。この夜の公演は、元々は、グラミー賞も受賞している米国人ヴァイオリン奏者ヒラリー・ハンがブラームスのヴァイオリン協奏曲を演奏する予定でした。

 ところが、1週間前になって怪我のために彼女は公演をキャンセルせざるを得なくなったのです。クラシック音楽と云えども、ショービジネスです。Show must go onです。この夜の公演の主催者である国立芸術センターは、急遽代役を探した訳です。著名なヒラリーに劣らぬ高水準の演奏家で、演目は変更したくありません。公演まで1週間、リハーサル、スケジュール調整は困難を極めたに違いありません。

 結果、イェーデンの公演が決まりました。演目は、ブラームスのピアニスト協奏曲第2番。元々の予定のブラームスのヴァイオリン協奏曲からの変更ですが、同じブラームスですし、彼にとっては、モントリオールとリーズを制した十八番です。しかも、彼にとって首都オタワ・デビューとなりました。

 この協奏曲は、第1楽章の冒頭、ホルンの導入でピアノが登場し、オーケストラと対話するドラマチックな展開です。ここから直ぐにイェーデンの強靭なピアノが楽曲を牽引します。圧倒的な求心力で、オーケストラ団員を率い、聴衆を魅了します。

 このピアノ協奏曲は、ブラームスが初めてイタリアを訪れた時の印象が音に刻まれています。構想から完成まで3年を要したブラームス48歳の成熟期の代表作です。交響曲のような4楽章の確固たる構成。自らピアノを弾いて初演した程の自信作だったのです。しかも、古今東西数多あるピアノ協奏曲の中でも最難曲・最高峰の曲です。急遽代役となった25歳の俊英にとって、この曲以上に己の実力を示す曲はありません。成熟したブラームスが紡いだピアノを正に勇躍羽ばたく若き才能が再生する。クラシック音楽の醍醐味です。

 第4楽章が大団円を迎えた瞬間の聴衆の興奮は凄まじかったです。スタンディング・オベーションで何度も呼び出されました。新星誕生の瞬間です。

 公演終了後、楽屋を訪ねる機会があり、短時間ですが言葉を交わしました。舞台上の冷利に引き締まった表情とは真逆の人懐っこい笑顔と大変に謙虚な姿勢が印象的な好青年でした。子供たちとの交流を含め日本公演が大変に良い経験になった旨を語ってくれました。最後に綺麗な日本語で、「ありがとうございました」と言ってくれました。

結語

 クラシック音楽を聴く時は、特にCD等の録音では、功成り名を遂げた巨匠を聴く機会が多いと思います。しかし、未来の巨匠の飛び立つ瞬間を味わえるのは貴重です。カナダはBC州の小さな街が生んだ俊英の将来が本当に楽しみです。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「アーケイド・ファイア」 音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第29回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 11月11日は、カナダの歴史にとって大変に重要な第一次世界大戦の終結に因んだ戦争追悼のリメンバランス・デーでした。この日を過ぎると、いよいよオタワの冬が始まります。例えば、今月分の本コラムが掲載された11月21日を見れば、日の出は午前7時10分、日の入りは午後4時27分。冬来りなば、春遠からじとは言いますが、暫くは、陽射しが恋しい日々です。そんな時は、元気の出る音楽を聴きたいものです。

ザ・サバーブ

 そこで、今月はアーケイド・ファイアです。全米・全英・全加のアルバム・チャート首位を獲得した「ザ・サバーブス」はグラミー年間最優秀アルバム賞も獲得したカナダが誇る現代のオルタナ・ロックの雄です。2014年のフジ・ロック・フェスティバルでは大トリを務めています。

 世に、音楽は世界の共通言語である、或いは、音楽に国境は無い、と云います。確かに、その通りだと思います。しかし、一方で、音楽は、その生まれた時代と場所の影響を色濃く受けます。先月のコラムで記したジャズは、正に、19世紀末のニューオリンズだからこそ生まれた音楽でした。その意味では、アーケイド・ファイアは、21世紀のモントリオールだからこそ生まれた楽団だと言えます。カナダの自由と多様性と包摂性の成せる業と言えるでしょう。

2000年、マギル大学にて〜ウィン・バトラー編

 全ての偉大なバンドには、運命的な出会いがあります。1957年7月6日、英国のリバプールの聖ピーター教会でジョンとポールが出会い、「クオリーメン」というスキッフル・バンドで一緒に演奏したのがビートルズに繋がります。1961年10月17日、英国ロンドン郊外のダートフォード駅で、マディイ・ウォーターズのLP盤を持って電車を待っていたミック・ジャガーにキース・リチャーズが話しかけたことからローリング・ストーンズが始まりました。

 アーケイド・ファイアの場合は、ウィン・バトラーがモントリオールのマギル大学でレジーヌ・シャサーニュと出会ったことが全ての起点となったのです。作詞・作曲・編曲、リードヴォーカルも担当するウィンとレジーヌこそが、バンドの核です。この二人の出会いに至る経緯は、非常にカナダ的だと思います。

 まず、ウィン・バトラーです。地理学者の父とジャズ音楽家の母との間に、1980年4月に米国はタホ湖の北に位置するカリフォルニア州トラッキーにアメリカ人として生まれました。両親の仕事の関係で、一時期は南米アルゼンチンのブエノスアイレスで、その後はテキサス州ウッドランズで育ちます。15歳で、米国大統領やノーベル賞学者を排出している名門寄宿制高校フィリップス・エクセター・アカデミーに入学しています。映画制作を夢見る少年ウィンは、その後、ニューヨーク州のサラ・ローレンス大学に進学しますが、1年で中退。2000年、20歳の時に、マギル大学進学のためモントリオールに移住します。モントリオールは、米国の51番目の州と揶揄されることも少なくないカナダにあって、革命前のフランスの伝統が息づく米国と明快な違いがある街です。

 20年以上も前の事で、実際に分からない事も多いのですが、ウィンは、学業もさることながら、バンドを結成し音楽活動に情熱を傾けて行きます。まず、ウィンは、モントリオールの名門コンコルディア大の学生ジョシュ・デューと組んで曲作りに熱中します。実は、ジョシュとウィンは、フィリップス・エクセターの同級生でした。高校時代はそこまで親しくなかったようですが、モントリオールで再会し、意気投合し、マギル大学キャンパスの練習スタジオに入って二人組で精力的に練習を始めたのです。但し、二人だけではサウンドにも限りがあります。ウィンとしては、メンバーを拡大したいと考えていました。

2001年〜レジーヌ・シャサーニュとの出会い

 レジーヌは、1976年8月、ケベック州モントリオールで、ハイチから移民した両親の下に生まれます。両親は、フランス系とアフリカ系の血を引くハイチ人ですが、フランシス・デュバリエル独裁政権時代に祖国を捨て、カナダの中でもフランスの伝統が強く残るケベック州に移住した訳です。レジーヌは、モントリオール近郊のサン・ランベールで育ちます。1998年にコミュニケーション論の学位を得てコンコルディア大学を卒業します。が、元来、多種多様な楽器も弾け歌えるレジーヌですから、音楽、特にジャズの和声学や声楽をきちんと勉強するためマギル大音楽学部に入ります。そして、レジーヌはマギル大のキャンパスの内外で様々な機会に演奏し歌っていました。

 2000年、或る美術展のオープニング・イベントで、レジーヌはジャズ楽団の一員として歌っていました。その場に観客として居合わせたウィンが初めてレジーヌという人物の存在知り、歌を聴いたのです。その瞬間、ウィンは自分のバンドに彼女を参加させたいと直感したといいます。但し、この直感が現実のものとなるには、もう一つの出会いがあるのです。

 翌2001年の初頭の或る日、ウィンとジョシュは、いつもの様に、マギル大近くのスタジオで練習していたそうです。すると、その同じスタジオの別の部屋で練習していたのがレジーヌでした。彼女は、ピアノ、アコーディオン、パーカッション等の多彩な楽器を弾くだけでなく、リードヴォーカルも出来ます。音楽的基礎もしっかりしていて、実際に活躍しているミュージシャンです。

 ウィンにしてみれば、あの美術展のオープニングで歌っていたレジーヌが同じ練習スタジオにいるというのは、只事ではありません。この段階で、ウィンは、全く無名です。書き溜めた曲はありましたが、まともな実績もない二人組です。それでも、ウィンは、レジーヌにバンドへの参加を要請し、レジーヌは承諾します。ここに、アーケイド・ファイアの骨格が出来上がるのです。

 創設メンバーのジョシュは、この出会いについて、「実際に自分たちの曲をレジーヌに聴かせた訳ではないのに、彼女がバンドに入ることになった。ウィンとレジーヌの間には運命的な啓示があったに違いない」と述懐しています。

2002年〜アーケイド・ファイア始動

 2001年、ウィンとレジーヌの協働作業が始まると、バンドに大きな求心力が生まれます。一方、離合集散はどんなロックバンドにも付きものですが、ウィンの高校の同級生で創設メンバーのジョシュは徐々に疎外感を感じ、結局バンドを去ります。ですが、ウィンとレジーヌの下には、マルチ・インストロメンタリストのリチャード・パリーのような名うてのミュージシャンが集まって来ます。バンドとしての一体感が生まれて行きます。

 因みに、アーケイド・ファイアというバンド名の由来が興味深いです。或るインタビューで、ウィンは、「アーケイドで火事が起こった」という話に触発されたと語っています。ここで云うアーケイドとは、ゲームセンターのことです。ゲーセンに集う若者の言葉にしきれないフラストレーションや希望や怒りが含意されているようです。

自費EP

 バンドの実力が備わって来た2002年夏には、ウィンとレジーヌ以下アーケイド・ファイアのメンバーがウィンの両親が住む米国メイン州に赴き、大自然の中で書き溜めた曲を録音します。そして、翌2003年6月には「アーケイド・ファイア」と題する7曲を収録したEP盤を自費でリリースします。今、聴いても、新鮮。虚飾は排したナチュラルなサウンドです。ウィンとレジーヌの声はそれぞれに個性的。各楽曲は全く異なる曲想ですが、耳にスーッと入って来るメロディーは魅力的です。

 アーケイド・ファイアの秘めた潜在力をチラ見せしているのがデビューEPです。自費リリースで、実際にプレスされた枚数は少しでしたが、オンライン配信もされました。聴力と眼力のある音楽関係者は、原石を見逃しませんでした。画一的なカテゴリーに収まらない彼らの音楽ですが、一般にオルタナ・ロックと呼ばれています。商業主義に毒された「売れてるグループ」にはない、荒削りでリアルな音楽の原風景が聴く者の胸を掻きむしります。

 因みに、2003年、ウィンとレジーヌは結婚。音楽の絆は二人を強く結びつけた訳です。

成功〜グラミー賞

フューネラル

 限定的な自費リリースで始動したアーケイド・ファイアですが、数社のインディ系レコード会社が契約を申し出ます。2004年には、マージ・レコードと契約し、満を侍してフル・アルバム第一弾「フューネラル」をリリースします。ビルボード誌アルバム・チャート・トップ200にランクインし、グラミー賞にもノミネートされます。寒い北国の街モントリオール発のアーケイド・ファイアは、瞬く間に北米でファンを獲得したのです。2005年2月には、世界中から一騎当千のバンドが覇を競うニューヨークに進出します。ウェブスター劇場での公演は、耳の肥えた聴衆に新鮮な驚きを与えます。極めて辛口の論評で知られるローリングストーン誌も絶賛します。

ネオン・バイブル

 その後は、現代ロックの歴史そのものと言っても過言ではありません。概略を記します。2005年8月には、サマーソニック・フェス出演のために初来日。11月には、モントリオール近郊ファルナンの教会を購入して、録音スタジオに改修します。そして、2006年は、ほぼ丸一年間かけて、この教会スタジオで新作アルバムの録音・制作に取り組みます。その成果は、2007年3月、第二弾アルバム「ネオン・バイブル」として世に問います。全米・全英チャートで初登場2位と大成功です。YouTubeで、ヨーロッパ・ツアーの際のパリ公演の全貌が観られますが、ウィンとレジーヌが率いる9人の実力派ミュージシャンがギター、ベース、キーボード、ヴァイオリン、マンドリン、アコーディオン、チューバ等々の多彩な楽器を持ち替える演奏は圧巻です。無駄の無いナチュラルなサウンドを堅持しながらも、時代の要素を巧みに取り入れています。「ネオン・バイブル」は、グラミー賞にもノミネートされました。競争の厳しい米国マーケットにおいて、実力バンドの一角を占めるまでに成長します。

 そして、2010年、上述の通り「ザ・サバーブス」でグラミー最優秀アルバムの栄冠を手にします。オルタナだポップだロックだ等というジャンルを越えて、彼らの音楽の力量が名実ともに認められたのです。

栄光、そしてスキャンダル

エヴリシング・ナウ

 考えてみれば、複雑化した現代の社会は、いつも激動の時代と言えます。世界には矛盾に満ち醜悪な面があります。それでも常にポジティブな面はあるのです。2017年「エヴリシング・ナウ」は、希望に満ちた素晴らしいサウンド。名盤です。「サインズ・オブ・ライフ」冒頭には、日本語のアナウンスが微かに聞こえます。

 2019年7月には、ウィンはカナダ市民権も得ました。

ウィ

 第6弾「ウィ」は、19年から構想し取り掛かっていましたが、大部分は新型コロナ感染爆発の真っ只中に録音された特異なアルバムです。米国テキサス州エルパソ郊外の荒野の一軒屋で外界との接触を絶って創られました。全曲、ウィンとレジーヌの共作です。『不安な時代』は正に時代の空気を代弁している曲です。当時を振り返り、ウィンは精神的に相当キツかったと語っています。それでも全体を通して聴けば、不安に押し潰されることなき前向きな確信を感じさせます。22年5月に発表されると加米英はじめ各国チャートで好成績を収めたのも納得できます。

 しかし、好事魔多し、と云います。「ウィ」が音楽的にも高い評価を得ていた22年8月、創始者にして実質的リーダーであるウィンによる過去の性加害を複数名の女性が告発しました。ウィンは、合意の上であった旨反論しています。が、バンドへのダメージは大きなものがあります。一部のラジオ局は、アーケイド・ファイアの楽曲の放送を一時的に停止しました。

結語

 自由と多様性に溢れるモントリオールで産声を上げたアーケイド・ファイアは、21世紀の始まりと軌を一にして歩んで来ました。時代の光と影を反映している現代ロックの物語です。商業主義とは一線を画した丁寧な音づくりは、胸の奥の柔らかい部位を時に優しく時に激しく慰撫します。

 上記のスキャンダルの結末は不明ですが、「ウィ」が彼らの最後の音盤との説もあります。ウィンもレジーヌも既に不惑の年齢を超えています。疾風怒濤の日々は否が応でも創造中枢を刺激します。過ちにはきちんとケジメを付け、誰も踏み入ったことのない領域に響くサウンドを生み出して欲しいと思います。カナダには、善悪の彼岸を超えて全てを受け入れる懐の深さがあるのですから。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

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