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Across the Pacific〜日本とカナダの新しき交流 第3回「東洋英和」

はじめに

 日加トゥデイの読者の皆様、日本とカナダの友好親善協力関係を応援頂いている皆様、こんにちは。

 今月は、東洋英和女学院が紡いで来た日本とカナダの友情についてです。

 全くもって私事で恐縮ですが、オタワから帰国して、これまでお世話になった方々にご挨拶に伺っております。その一環で、東洋英和女学院の高橋貞次郎院長に先日お目にかかりました。東洋英和女学院は、日本とカナダの友好親善を体現する象徴的な学校ですから、高橋院長には様々な形で大変に御尽力頂いたのです。その御礼を述べたくてお時間を頂戴しましたが、予定の時間を大幅に超過してしまいました。と云うのも、日加関係が深化する中、人物・文化・学術交流の役割の大切さで見解が一致し、話が大いに盛り上がったからです。

 そこで、是非とも「アクロス・ザ・パシフィック」で取り上げたいと考えた次第です。まずは東洋英和とカナダの縁について述べたいと思います。今から153年前に遡ります(このコラムは「新しき交流」と題しているのに、明治時代から始めること、ご容赦願います)。

1873年〜コクランとマクドナルド

 英領北アメリカが大英帝国の自治領「ドミニオン・オブ・カナダ」として建国されたのが明治維新の前年1867年7月のことでした。新しい息吹に満ちた自治領カナダには、南の隣国アメリカや欧州の情勢はもとより、アジアを含む世界情勢が伝わります。

 オンタリオ州からすれば、西に広がる北米大陸の向こうの太平洋の対岸は遥か彼方に日本は位置します。ですが、日本は太平洋を隔てた隣国です。明治の日本の最新情報ももたらされます。その中には、明治政府が「キリシタン禁制の高札」を撤去したという情報も含まれていたのです。鎖国を解き、西洋に門戸を開いたばかりの日本は、新たな海外宣教の最前線でした。自治領カナダとなって日も浅いカナダのメソジスト教会にとっては、自らの最初の本格的な海外宣教地となりました。

 そして、2人の宣教師が日本に派遣されることとなります。ジョージ・コクラン牧師とデビッドソン・マクドナルド医学博士です。実は、この二人は日本で暮らす初めてのカナダ人とされています。1873年7月、コクランとマクドナルドは横浜に降り立ちました。

 彼らは、精力的に伝導を始めます。しかし、コクラン牧師とマクドナルド博士は日本で伝道を行う中で、女性に直接働きかけられないもどかしさを感じていました。当時の日本の社会では男女が一緒に集会に出る習慣はありませんでした。そこで、2人は、日本での5年に及ぶ伝道活動の経験を踏まえ、本国へ「婦人宣教師派遣」を要請します。1878年の事です。これを契機に、カナダ本国で、日本への布教について本格的に議論が始まります。

1882年〜カートメル登場

 1881年11月、オンタリオ州ハミルトンで、「カナダ婦人ミッション」が結成されました。翌82年9月の第1回総会で、日本へ派遣する婦人宣教師に38歳のミス・マーサ・カートメル(1845〜1945)が選ばれました。オンタリオ州生まれで、トロント女子師範学校を卒業し、ハミルトンの公立女学校の教師・校長を務めていました。

 1882年12月27日、ミス・カートメルは、カナダ・メソジスト教会が日本に派遣した最初の女性宣教師として来日。東京・築地の外国人居留地のカナダ・ミッション宣教師館に居を定め、文明開花の時代の東京で伝道活動を始めます。活動を本格化させてミス・カートメルが痛感したことは、女性が十分な教育を受ける機会が極めて限られていることでした。そして、キリスト教精神に基づく女子教育を自らの使命と考えるようになります。1884年、麻布鳥居坂、現在の六本木に東洋英和女学校を創立しました。開校時の生徒はわずか2人でした。

 興味深いのは、「東洋英和」の「英和」です。単なる英語学校という意味ではなく、創立期から西洋の知識・文化と日本を結びつける教育機関として発展しました。現在まで続く学院の「敬神奉仕(Reverence and Service)」という精神も、カートメルら初期のカナダ人女性宣教師たちの思想を源流としています。

 東洋英和女学院は、カナダ人はじめ英語を母国語とする教師による英語教育と欧米の新しい文化・学問が学べる場として評価を高め、今日に至っています。

 多士済々の卒業生を世に出している中で、特筆すべきは、「赤毛のアン」の翻訳者、村岡花子です。「赤毛のアン」は、L.M.モンゴメリが1908年に発表した小説です。日本では、終戦後の1952年に村岡花子訳で出版されました。原作の抒情的な情景、ユーモラスな表現が見事に和訳され、長く読み継がれています。

ハミルトン〜桜祭り式典

 時は流れ、2014年。東洋英和女学院は、この年に、創立130年を迎えました。記念事業として、卒業生や学院関係者の募金によって、学院創設者のミス・カートメルの出身地ハミルトン市に、感謝の意を込めて桜を寄贈する「桜プロジェクト」が実現しました。

 プロジェクトの実現のために、遡ること2011年から準備が始められていたそうです。北国カナダのオンタリオ州ハミルトンの気候風土に適合する桜の品種の特定、そのための詳しい土壌調査、維持管理の仕組みについて検討が進みました。学院関係者、ハミルトン市役所、ミス・カートメルが属していたセンテナリ教会、カナダ合同教会牧師の有賀誠一博士らの調整・尽力が身を結びます。

 2014年6月、37本の桜が、ハミルトン市センティニアル公園に植樹されました。オンタリオの厳しい冬を乗り越えて、翌15年には桜が咲きました。以来、年を追うごとに見事な桜を咲かせ、ハミルトンの名所となり、市民の憩いの場となりました。

 そして、2024年。桜が寄贈されて10周年の記念に、5月の日曜日に「桜祭り式典」が開催されました。東洋英和からは高橋副学院長(現学院長)はじめ英和関係者が多数参加されたのに加え、ハミルトン市長、ハミルトン選出のオンタリオ州議会議員、市議会議員、さらにロバート・オリファント外務政務官も参加しています。勿論、ハミルトン市民も、テントの中で肩を寄せ合って、この式典に参加されていました。

 この日は、生憎の雨模様で、桜は既に葉桜になっていました。しかし、雨の中、緑が鮮やかでした。副委員長自らギター伴奏され、東洋英和の校歌も披露されました。

 式典の後に、懇談の機会がありました。この式典の立役者である有賀博士とオリファント政務官は、40年前に、バンクーバー神学校で同級生だったというのです。桜の取り持つ縁、日本とカナダの友情が胸に沁みた1日となりました。

NHKスペシャルとハミルトン校長

 2026年8月15日は終戦記念の日です。NHKは「少女たちの戦争 時を超える学級日誌」と題した特集番組を放送しました。東洋英和女学院に残る戦時中の「学級日誌」を手がかりに、戦争が少女たちの日常をどう変えていったかを描いたドキュメンタリーです。約100年続く学級日誌には、当初、勉強や友人、学校行事など、今と変わらない少女たちの日常が記されていました。しかし戦争が激しくなるにつれ、空襲警報、防空壕への避難、勤労動員が入り込み、1945年には生徒たちが召集令状を書く作業まで担わされた事実が淡々と語られました。

 そんな中、カナダ人宣教師で校長を務めたフランシス・G・ハミルトンは、日加関係が悪化する中でも生徒たちの教育に尽力した姿が印象的でした。1941年12月8日、太平洋戦争が始まると、カナダは敵国になり、ハミルトン校長は帰国を余儀なくされました。生徒たちとの別れに際しては「必ず戻ってくる」と約束しました。戦後、ハミルトンはその言葉通り日本に戻り、東洋英和の復興に力を尽くしました。

 因みに、ハミルトン校長はカナダに戻ると、日本人・日系人が「敵性外国人」とみなされ、強制移住させられている戦争の現実を目の当たりにします。そこで、ハミルトンはブリティッシュ・コロンビア州レモン・クリークの収容所に赴き、教育の機会を奪われた日系カナダ人の若者のために高校を創設し、校長として教えました。教え子には、マギル大学医学部教授になったヘンリー柴田もいます。戦争が日本とカナダを敵国同士にしても、彼女は日本との関係を大切にし、それを実践したのです。

2028年の日加外交関係樹立100周年へ

 さて、2028年は、日加間に公式な外交関係が樹立された1928年から100周年の節目です。勿論、それ以前にも大英帝国の自治領カナダは存在し日本とも密接な関係がありました。が、外交関係樹立の意義は極めて大きいのです。少々歴史を振り返ります。

 自治領カナダ(Dominion of Canada)は1867年7月1日に誕生します。自治領である故、憲法に該当するのは「英領北アメリカ法」という法律であり、その改正は英国議会の議決と英国王の勅許が不可欠でした。外交権はオタワではなく、ロンドンにあったのです。

 一方、明治時代を通じて、日本と自治領カナダの関係は深まっていきます。最初の日本人移民、長崎県出身の永野万蔵がバンクーバーにやって来たのは1877年とされています。日本はカナダの主力輸出品である木材や海産物の主要な輸出先でした。1886年には、バンクーバーに領事館も設置され、多数の日本人がカナダへと移住して来ました。

 更に、日英同盟が結ばれるとカナダ自治領との関係は、同盟国であるイギリスの一部として一層発展します。第一次世界大戦では、日本海軍とカナダ・ロイヤル・ネイビーは太平洋において共同で対ドイツ海戦を戦いました。

 カナダが正式に主権国家となり外交権を持つのは、1931年12月のウエストミンスター憲章によってです。が、1926年に英国議会に提出された前首相バルフォア卿(注)による「バルフォア報告書」である程度の外交権が認められることになります。減衰する国力を冷徹に認識し、自治領として保持するより主権国家として独立させると同時に、英連邦の主要メンバーとして繋ぎ止める政策へと舵を切った訳です。(注:中東問題を巡る英国の3枚舌外交の一つ「バルフォア宣言」で有名な人物)

 1928年とは、上述のようにカナダが自治領から主権国家へと覚醒していく重要な時期でした。この時期、カナダが外交関係を樹立したのは、フランス、米国そして日本のみだったのです。一方、この頃の日本は、普通選挙法が可決する一方で、治安維持法が成立。5.15事件が勃発し、大正デモクラシーで進展した民主主義的な社会が強権的なレジームへと変化し、徐々に軍国主義的な社会に移行する時期でした。

結語

 1928年からの98年間は、太平洋戦争を挟み、日加関係が劇的に進展した時代です。東洋英和女学院は、それぞれの時代を象徴する学校と言えると思います。最近の具体例をいくつかあげます。

  • 「カナダ研修」
    中学3年~高校2年の30人が参加。ニューブランズウィック州のマウント・アリソン大学で、東洋英和生向けのESL授業を受け、大学生サポーターと交流しました。同大学は、戦前の東洋英和で長く校長を務めたミス・ハミルトンの母校でもあります。その後、現地の高齢者施設を訪問して住民と交流し、さらにプリンス・エドワード島でホームステイし、「赤毛のアン」の舞台を巡る特別ツアーに参加。
  • マウント・アリソン大学との連携強化
    2026年度から同大学への指定校推薦が始まったそうです。従来の「3週間程度の研修先」から、卒業後の進学先へと関係が発展。
  • オンタリオ州の高校との交流
    同じ2026年夏、東洋英和側がオンタリオ州の協定校Great Lakes Christian High Schoolを訪問。同校は東洋英和生の短期留学先になっています。
  • オタワ大学との双方向交流
    2025年11月に東洋英和女学院大学側がUniversity of OttawaのOfficial Languages and Bilingualism Institute(OLBI)を訪問。これを受け、2026年3月にはOLBIの担当者が東洋英和を訪れ、過去にオタワ大学へ留学した学生と、これから留学する学生との交流会を行っています。
  • ヴィクトリア大学への学生派遣
    2026年8月には東洋英和女学院大学の学生がUniversity of Victoria ELCで短期研修。英語授業に加え、文化交流、州議事堂、Royal BC Museumなどを訪問しました。

 日加外交関係樹立100周年を迎える2028年は、日加間の新たな交流が始まる絶好の機会です。東洋英和女学院をはじめカナダとの関わりのある個人、学校、組織などで自由に知恵を出し合って、一層の交流強化に取り組んで参りましょう。

(了)

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月から2026年7月まで第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

Across the Pacific〜日本とカナダの新しき交流 第2回「スポーツ交流JET」

はじめに

 日加トゥデイの読者の皆様、日本とカナダの友好親善協力関係を応援頂いている皆様、こんにちは。

 今月は、カナダと日本の間のスポーツ交流についてです。よろしくお付き合いお願いします。と申し上げた上で、その前に少々前置きを。

 長く職業外交官をしておりましたので、主権国家の間には実に様々な事が起こることを目の当たりにしてきました。心温まる友好親善や人間性溢れる美談もあります。一方、時には、と言うよりも頻繁にと言った方がより現実的ですが、対立や紛争が起こります。行き着く先が武力行使の応酬という事態にも直面します。と同時に、国内においても、激しい権力闘争があります。これは、民主的であるか否かを問いません。愛する者のために身を投げ出すのも人間なら、極悪非道、鬼になるのも人間です。

 かつて、ニューヨークタイムズ紙の敏腕政治記者として知られたヘドリック・スミスは、「The Power Game」という書籍を著しました。タイトルのとおり、ワシントンDCにおける激烈な権力闘争の実態に迫ったものです。ピューリッツァー賞も獲得した傑作です。アメリカ留学中の政治学の授業の参考図書として読みました。今でも鮮明に覚えているのは、アメリカン・フットボールが権力政治を理解する上での比喩として実に効果的に描かれていた点です。歴史を遡れば、古代オリンピックこそ、戦争を休止し、人間の闘争本能をスポーツという形に昇華したものでした。レスリング、拳闘、槍投げなど戦士社会との顕著な連続性があります。アメリカン・フットボールに限らず、スポーツには、競技そのものを超えて人間の社会や国際関係の本質を宿している面があると思います。

 前置きが長くなりました。

最近の日加関係

 そこで、現在の日加関係です。現下の国際情勢を見れば、ウクライナ、中東等は予断を許しません。エネルギー安全保障は日常生活をも直撃しています。それに加え、加米関係も新たな「貿易戦争」として世界の耳目を集めています。

 21世紀の過酷な現実に直面する中で、日本とカナダは、基本的な価値観を共有するG7で、TPPメンバーとしても協働しています。日加両国は、政治安全保障から経済ビジネス、そして文化・人物交流に至るまで深化しています。

 特に、本年3月のカーニー首相訪日は大きな節目でした。その際に、高市総理との間で、内容豊かな共同声明に署名した上で包括的戦略ロードマップに合意しました。6本柱から成るこのロードマップは、現在、着実に実践されています。

 このように、進展著しい日加関係ではありますが、率直に言って、政治系メディアで軽視されがちなのがスポーツ交流です。実は、スポーツは日加間の友好親善の重要な土台となっています。同時に、今後の一層の発展を牽引する重要なファクターです。次に、いくつかの例をあげましょう。

日加スポーツ交流略史

・柔道:第2次世界大戦中の日系カナダ人に対する言語道断の非人道的な取り扱いは、カナダ現代史の闇です。戦後、日系カナダ人が誇りを取り戻し、カナダ社会の日本文化への敬意を獲得する上で、柔道の果たした役割は計り知れません。ピエール・トルドーが現職の首相のころ、タカハシ道場で稽古に励み柔の精神を学んだことは、日加関係増進に大きく貢献しました。

・野球:昨年のMLBワールド・シリーズでのトロント・ブルージェイズ対ロサンジェルス・ドジャーズの死闘は、日加米の3カ国のスポーツファンを熱狂させました。今も語り草で、記憶に新しいです。日本ではジェイズ・ファンが急増しました。今シーズンは、日本で最も人気の高い読売ジャイアンツのスラッガー岡本和真がジェイズに移籍し、連日大きく報道されています。

 この関連で、バンクーバー朝日について。映画にもなっていますから、ここでは簡単に。20世紀初頭、自治領カナダのバンクーバーで野球熱が高まります。その頃、人種差別に負けず、「日本人の誇りを白人に見せつけたい」という思いから、1914年、日系移民最強のチームをつくるべく“バンクーバー朝日”が誕生します。体格とパワーでは白人チームに劣っていましたが、“スモール・ベースボール”と揶揄されながらも技術と頭脳を駆使し、攻撃ではバント・盗塁・ヒットエンドランの機動力で得点。堅実な守備と連携プレーで失点を防ぎました。また、自らはラフプレーを禁じ、白人チームがラフプレーを仕掛けても抗議せず、フェアプレーに徹したと云います。やがて、日系人の観客だけでなく、白人からも応援される存在になったものの、戦争によって“バンクーバー朝日”は解散。しかし、野球を通じて人種の壁を越えようとした彼らの精神は、戦後の日系コミュニティーの評価とともに復活しました。野球殿堂入りも果たし、日加関係の歴史的な象徴です。

・ラグビー:実は、日加スポーツ交流において、ラグビーも非常に印象的です。何故なら、日本代表の歴史は、1930年のカナダ遠征に始まるからです。初めての海外遠征でバンクーバーに来た日本ラグビーは、未だ発展途上でした。英国の伝統の強いカナダですから、日本代表の相手は、カナダ代表ではなくBC州代表だった訳です。それでも、7戦して6勝1分けで「ジャパン」の存在を示したそうです。

 この時期の日本はと言えば、1928年のいわゆる満州某重大事件以降、柳条湖事件から満州事変が没発し、1933年の国際連盟脱退に至る状況です。実は、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックを擁するNYヤンキースの日本訪問が1934年です。それに先立つ日加ラグビー交流は、国際社会で孤立しつつあった日本におけるスポーツ交流の意義を今日に伝えています。

・フィギュアスケート:今年のミラノ・コルティナ五輪フィギュアスケート・ペアで、史上稀にみる大逆転で金メダルを獲得した“りくりゅう”ペア。最近、婚約も発表し、日本で絶大な人気です。彼らの拠点はトロントでした。金メダルは、2019年夏のペア結成以来、一貫してトロント郊外のオークヴィルでカナダ人コーチの指導の下で技量を磨いた賜物です。先のカーニー首相訪日の際には、“りくりゅう”ペアからの歓迎メッセージが大きな話題になりました。一般の日本人のカナダへの関心の拡大に一役をかったと思います。

・カーリング等は、日本でも人気沸騰中です。ウインター・スポーツが盛んなカナダですから、日本チームの強化合宿等、選手・コーチの交流が深まっています。

・更に、最近では、カナダでも大相撲への関心が高まっています。今年はアルバータ州で小規模ながら巡業が実現しました。ケベック州やオンタリオ州も関心を表明しています。

JETプログラムとスポーツ交流

 スポーツ交流は、日加関係を映す鏡のようです。上述のとおり、1867年のドミニオン・オブ・カナダ成立以降、二国間関係の進展と歩調を合わせ、暗い時代も克服し、大きく発展して来ました。今日までの進展には心を打つものがあります。

 そして明日からのスポーツ交流を考える時、大きな可能性と潜在力を秘めているのがJETプログラムです。JETと言えば、世界最大級の交流プログラムで、生きた英語教育に大きな比重があり、カナダは米英に次ぐ大きな存在です。従来は、英語教師或いは国際交流調整が主たる任務でした。が、今後はスポーツ交流も重視されると云います。2025年にハリファックスでカナダJET総会が開催され、東京からは政府関係者が来訪。カナダ側のJET参加者やアラムナイ組織リーダー達との間で活発な意見交換が行われました。その際、スポーツ交流についても熱心に議論されたそうです。

 JETには、スポーツ国際交流員(SEA)という仕組みがあるのです。1994年から導入されました。特定競技の専門家として地方公共団体に配属され、学校の生徒や地域の優秀な選手に対するスポーツ指導の補助、スポーツ事業の企画・立案支援、国際交流活動に従事します。

 実は、これまでのSEAの累計参加者数は240名です。JET全体のこれまでの参加者は8万名を超えます。その中で、SEAは僅か240名に留まっているのです。そこには、それ相応の理由と現実があります。

 最大の要因は、“言葉の壁”です。SEAの核心は、全国津々浦々の中高生に外国人の専門家からスポーツを直接教わることにあります。その体験と感動と葛藤は、個々の生徒の将来にとって大きな糧となるに違いありません。同時に、日本と派遣国との間のスポーツと友情の架け橋になることも期待されます。

 しかし、SEAの指導が身を結ぶためには、生徒、日本人教師との間で実質的なコミュニケーションが取られなければなりません。“言葉の壁”があると効果半減です。とは言え、外国語のできる人材確保は言うは易しく行うは難しです。JETを所掌する文部科学省・総務省・外務省、受け入れ側の自治体・教育委員会・学校、そして派遣国との間で、緊密な連携が不可欠です。課題が判明しているのですから、解決策は早晩見つかると期待したいです。

カナダからのSEA

 かつては、カナダからJETのSEAが北海道や長野に派遣され、カーリング指導した例もありました。しかし、近年は残念ながら、カナダからは途絶えていました。

 しかし、2026年、7名のSEAが来訪しました。カナダ、タンザニア、ベルギーの3か国からの参加です。このうち、カナダからは4名が来訪することになりました。日加関係応援団としては、今年のSEAの半数以上がカナダから派遣されるというのは嬉しい限りです。派遣先は、北海道名寄市に、カーリング・バスケットボール・バレーボールそれぞれ各1名の計3名。そして、北海道東川町にバレーボール1名の計4名です。

 例えば、北海道名寄市のカーリングSEAは、ジュニア・ユース選手の指導だけではなく、日本人コーチと年間・中長期の育成計画を作ったり、市民向けの講習を行ったりします。カーリングは、カナダを象徴するスポーツの一つです。それをカナダ人SEAが北海道の若者から一般の愛好家に教える。“言葉の壁”はあります。言語では完全に通じ合えなくても、氷上で一緒にストーンを投げ、「Good shot!」と声を掛け合うのです。そこに生まれる感動は生涯続くことでしょう。

 なお、JETとは別のスキームですが、スポーツ交流の文脈では、岡山県赤磐市が東京オリパラ2020のホストタウンに認定されたことを機に、カナダ・フィールドホッケー連盟との関係を築いています。赤岩市は、その後も「オリンピックレガシー交流」として、カナダからフィールドホッケー選手を受け入れ、地元の子どもたちとの交流を続けています。

 スポーツという共通言語による国際交流は、日本とカナダの草の根レベルでの関係を着実に強化しています。

結語〜日加外交関係樹立100周年

 2028年は、日加外交関係樹立100周年の節目の年です。次の百年に向けての日加関係の進展を思う時、スポーツ交流のインパクトは絶大です。何故なら、スポーツは政治的な忖度や損得勘定を超え得るからです。純粋にスポーツを楽しみフェアプレーの精神で切磋琢磨し、将来にわたる友情を育むのです。

 現在、私たちは困難な時代を生きています。予想だにしなかった事が起こり、ニュースとなって世界を巡っています。それでも、スポーツは我々が希求する平和への道程を照らす希望の灯りだと思います。

(了)

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月から2026年7月まで第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

Across the Pacific〜日本とカナダの新しき交流 第1回「折り紙・切り紙」

はじめに

 日加トゥデイの読者の皆様、日本とカナダの友好親善協力関係を応援頂いている皆様、こんにちは。山野内勘二と申します。

 実は、私は先月末まで、駐カナダ日本国特命全権大使を務めておりました。2022年3月に発令を受け、4年3ヶ月にわたりオタワに在勤しておりました。その間、この日加トゥデイには、毎月「音楽の楽園〜もう一つのカナダ」と題する音楽コラムを連載させて頂いておりました。そして、駐カナダ大使としての任務を終了し、オタワを離任したことをもって、「音楽の楽園」は49回目のコラムを最終回として終了させて頂きました。

 しかしながら、全く私事ではありますが、長年カナダに勤務している間に、実に様々な分野の方々にお目にかかった訳です。日本とカナダの関係が進化・強化・深化していく様子を目の当たりにして来ました。すると、大使という立場ではなく、全くの私人ではありますが、自分が見聞きした日本とカナダの新しい交流を是非とも皆様に知ってもらいたいという思いが沸々と湧いて来たのです。

 そこで、日加トゥデイに新しい連載『Across the Pacific〜日本とカナダの新しき交流』を始めさせて頂くことになったのです。表題のAcross the Pacificは、ビートルズの「アクロス・ザ・ユニバース」から拝借しました。ジョン・レノンの人類愛は、宇宙を超える大きさでしたが、日本とカナダの地理を考えれば、太平洋を超える交流ですので、アクロス・ザ・ユニバースならぬアクロス・ザ・パシフィックとしました。

 そこで、「アクロス・ザ・パシフィック」の第1回です。今回は、日本の伝統が世界の最先端と結びついている大変に興味深い事例です。

 日本人なら誰もが子供の頃から遊び楽しみ馴染んで来た、折り紙と切り紙です。実は、折り紙は最新宇宙航空工学を含めた最先端のエンジニアリングに応用されています。切り紙は、パラシュートやエアロブレーキの設計に応用されているのです。

折り紙・切り紙と最先端工学〜キリガミ・パラシュート

 折り紙・切り紙は、もはや、子供達のお遊びや伝統文化ではありません。日本独自の伝統文化である、折り紙・切り紙が最先端工学へと発展しています。

 その第一人者と目されている若き研究者が、モントリオール工科大学・機械工学科のフレデリック・P・ゴスラン教授です。ゴスラン教授の本来の専門は、流体構造連成と薄膜・細長構造物力学、生物模倣工学と云われる領域だそうです。具体的には、樹木が風でしなる仕組み、蜘蛛の糸、細胞膜、航空機構造などの「流体と柔軟な構造物の相互作用」を研究されて来ました。

 そして、2025年。ゴスラン教授は、世界最高峰の科学雑誌『ネイチャー』に、「キリガミ・パラシュート」という論文を発表。世界的な注目を浴びています。この論文は、同じモントリオール工科大学・機械工学科のダヴィッド・メランソン准教授との共同研究です。

 この論文の革新性は、1枚のプラスチックシートに、ゴスラン教授らの設計による「切り紙パターン」の切れ目をレーザーで入れるだけで、落下時に重力の作用で自然に3次元のパラシュート形状へと展開することを示したことにあります。

 従来のパラシュートは、数十枚の生地、数百メートルの糸、多数の縫製工程、数十から、時には数百個の部品を複雑に縫い上げて、製作していました。用途に合わせて設計し、生地を裁断し、キャノピーを縫製し、サスペンションラインを取り付け、ハーネス・ライザーを組み立て、それを専門の手順で何百回も収納バッグへ格納します。最後に綿密な品質検査を経て出荷されます。

 「キリガミ・パラシュート」論文は、「縫って形を作る」のではなく「切って形を生み出す」という設計思想の大胆な転換を示したのです。実際、キリガミ・パラシュートは、部品の数や製造工程を大幅に削減できる可能性を証明しました。将来的には、大量生産や低コスト化、更には宇宙機やドローン用の超軽量減速装置への応用が期待されていると云います。

 更に、パラシュートの落下地点の精度についても興味深い研究があります。従来型のパラシュートは、大きく広がって内部に空気を抱え込むことで得られる抵抗力で落下速度を低下させる仕組みです。従って、風や気流の影響を受けやすく、落下地点にばらつきが生じます。しかし、キリガミ・パラシュートの場合は、それぞれの切り込みの抵抗が集積して、自ら姿勢を修正し垂直に落下するため、落下地点を高い精度で把握できる利点があります。

 切り紙が幾何学に基づく最先端エンジニアリングへと発展している鮮やかな実例です。

 このように世界から注目されている、ゴスラン教授とメランソン准教授ですが、実は、先月、オタワの日本大使館にいらっしゃったのです。

Origami and Kirigami: from Art to Engineering

  7月11日(土)、モントリオール工科大学・機械工学科のゴスラン教授とメランソン准教授は、日本大使館の招待を受けて、日本大使館・講堂でのファミリー・フレンドリー・イベント「折り紙・切り紙ワークショップ」に参加して下さいました。

 まず、ワークショップの冒頭で、ゴスラン教授とメランソン准教授は、折り紙・切り紙の歴史から始めて、これらの伝統文化が現代の最先端科学にどのように応用されているかを子供達にも分かりやすく説明してくれたそうです。但し、科学ですから、言葉による説明だけでは足りません。百聞は一見に如かず、です。

 説明の後のワークショップは、参加者(大人42人、子供18人)が実際に、折り紙と切り紙を応用した2つのサンプルで伝統から派生した最先端技術を体感しました。

《キリガミ・パラシュート》

次の手順で製作し実験しました。

  • 1枚のプラスチックシートに、切り紙のように多数の切り込みを入れる。
  • そのシートの中央に重りを吊るす。これでキリガミ・パラシュートは完成。そして、
  • キリガミ・パラシュートを落下させる。
  • それぞれの切り込みが開いて、シート全体が逆さの鐘のような形状となる。
  • どのような角度で投下されても、それぞれの切り込みの開閉・伸縮で空気抵抗が生み出され、落下軌道が垂直に安定する。

《オリガミ・シェルター》

 プラスチックシートに折り紙のような折り目のパターンを施した構造で、空気を送り込むことで、平板な状態から立体的な空間へと展開します。

 通常のシェルターは、骨組みが必要です。或いは、空気を送り込み続ける必要があります。要するに、骨組み、又は空気圧という外部からの力によって支えられる構造です。これに対し、オリガミ・シェルターは、素材そのものの折り目によって、畳んだ状態であれ、展開した状態であれ、自立して安定を保つ構造です。

 従って、骨組みや付属部品を必要とせず、畳むと平らな状態になるため、収納や運搬が容易です。紛争や自然災害が発生した際の緊急避難用の仮設シェルターとしての活用が期待されています。

 大人も子供も、キリガミ・パラシュート作りに興奮したそうです。また、実際のオリガミ・シェルターに用いられる構造のサンプル作りにも皆が熱中していたと聞きました。ワークショップでは、終始、質問も途切れることなく、非常に良い雰囲気だったそうです。日本の伝統文化が世界最先端のエンジニアリングへと進化している実態について、最前線にいる2人の若きカナダ人研究者から直接説明を聞き、手ほどきを受けることは実に貴重な機会です。科学の楽しさや素晴らしさを証明するファミリー・イベントでした。

 そこで、一つ素朴な疑問が湧きます。折り紙・切り紙は、日本独自の伝統文化だといいますが、どのように発展して来たのでしょうか? 

折り紙・切り紙の発展〜原点から現代まで

 歴史を紐解けば、紀元前2世紀の前漢の時代に紙の断片は見つかっています。但し、品質は悪く文字を書くのには適さず、包装資材に使われていました。後漢の宦官、蔡倫が「書写材料」としての紙の製法を確立しました。

 その後、紙の製法は日本へ伝わりました。紙そのものは中国による発明ですが、折り紙は日本で独自に発展を遂げます。その背景には、日本では、丈夫で薄い和紙が作られ始めたことがあります。

 その上で、和紙は、神道の祭礼、仏教儀礼、贈答文化、包装文化と結びついて発展しました。和紙を使った折型(おりがた)、熨斗(のし)、紙垂(しで)、水引などは何百年も前から存在していたそうです。江戸時代になると、鶴・兜・船・奴さんなどを折る、折り紙が子供の遊びとして広がります。

 「遊び」と「礼法」が結びついたことで、日本独自の、一枚の紙を切らずに折る芸術として折り紙が体系化されて来たそうです。従って、今や折り紙・切り紙は、日本語がそのまま英語化されて、origami、kirigamiと呼ばれています。

 さて、このような歴史と伝統を持つ折り紙・切り紙ですが、今や折り紙は、「平面を三次元構造へと転換する設計理論」と認識されています。

 更に、切り紙は、「切れ目を入れることで、材料に新たな機能を与える技術」として、近年、折り紙以上に自由度の高い構造設計として注目されています。

 折り紙・切り紙はともに最先端の分野で応用されています。特に、宇宙、医療、ロボティクス、建築、材料科学が注目されています。

《宇宙》

 一言で云えば、「折り畳んで運び、宇宙で広げる」という発想です。人工衛星の太陽光パネル・大型アンテナ・宇宙望遠鏡の遮光膜などで実用化されています。実際、東京科学大学が開発し、JAXAの実証プログラムで打ち上げられた折り畳み式小型衛星(Origami Sat-2)は、折り紙由来の技術が活用されたものです。

 この分野では、日本の航空宇宙学者・折り紙研究者、三浦公亮博士が考案した“ミウラ折り”が有名です。

《医療》

 折り紙・切り紙は、低侵襲医療とも相性が良い技術と言われています。カテーテルで細く挿入して患部で自動展開するという構造が可能となるそうです。例えば、心臓ステント、人工弁、血管内デバイスなどに応用されています。

《ロボティクス》

 折り紙を活用することで、軽量・柔軟・安価で大量生産が可能となると見られています。例えば、災害救助ロボット、探査ロボット、ドローン、ソフトロボット、水中ロボットに応用できるそうです。折り紙構造は「硬さ」と「柔らかさ」を両立できるため生物に近い動きを再現できる点が注目されています。

《メタマテリアル》

 近年、最も注目されている分野です。メタマテリアルとは、材料そのものではなく、その微細な構造によって新たな性質を生み出す人工材料です。折り方や切れ目の配置を変えるだけで、物質の強度・剛性・弾性・柔軟性・衝撃吸収・振動制御・吸収エネルギー・熱伝導・音響特性などを自在に変えることが可能です。つまり、「“素材”ではなく、“形状”あるいは“幾何学”が性能を決める」という新しい材料設計思想で、折り紙・切り紙は、メタマテリアルを実現する有力な設計手法となっています。

 例えば、超高解像度顕微鏡、宇宙船の温度制御、超薄型防音壁、5G・6G通信など、多岐にわたる分野で実用化が進んでいます。

 この分野で注目されているカナダの研究者としては、名門マギル大学のダミアーノ・パシーニ博士です。同大学のメタマテリアル構築グループを率いて、折り紙・切り紙の構造を応用し、再構成可能構造や逆設計を研究。本年、剛性を再プログラムできる折り紙シェル構造を発表しています。

結語

 最先端の科学技術は、秒進分歩とも言うべき、驚異的なスピードで進歩しています。そして、様々な分野や領域が融合し影響し合い、全く新しい発想と技術で世の中を革新しています。そんな中で、折り紙・切り紙という日本の伝統文化が最先端エンジニアリングを導いているのです。しかも、この分野の第一人者がカナダの若き研究者であるというのは、実に誇らしく興味深いものがあります。

 連載『アクロス・ザ・パシフィック』の第1回に相応しい新しき日加交流だと思います。

 それでは、皆様、また来月。

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月から2026年7月まで第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「ニール・ヤング」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第49回(最終回)

はじめに

 音楽ファンの皆さま、日加関係を応援頂いている皆さま、こんにちは。

 私事で恐縮ですが、早いもので、私がオタワに着任し、この連載を始めさせて頂いてから4年が経ちました。あっという間の4年でした。正に、光陰矢の如し、と言うとおりです。今、正に、4年余のオタワ在勤を終えて帰国する、エアカナダ第1便のトロント発羽田行きの機内でこれを書いています。カナダで過ごした日々での公私にわたる様々な事が去来しますが、今回が「音楽の楽園〜もう一つのカナダ」の最終回となります。まずは、この間、私の拙文を読んで頂いた皆様に心からの感謝を申し述べます。実は、この連載を始めた当初から、最終回に書く題材は決めていました。ニール・ヤングです。カナダが生んだ最大のロック・スターにしてシンガー・ソングライターです。

 今から振り返れば、これまでの私の音楽体験の中で、ニール・ヤングは常に特別な場所を占めています。

「孤独の旅路」〜ニール・ヤングとの出会い

 深夜放送「オールナイト・ニッポン」から流れてくる生ギターとハーモニカの物憂げなイントロに胸が鷲掴みにされた瞬間を今でも鮮明に憶えています。中学2年の夏休み前だったと思います。イントロに続いて、裏声のような女声のようなか細い声で歌が始まります。英語の歌詞は全く分かりませんでした。その時のDJが誰だったかはよく憶えていませんが、糸居五郎だったような気もします。その曲はニール・ヤングの「孤独の旅路」だと紹介しました。田舎の少年にとって、「孤独の旅路」というタイトルは、何かしら大人の入り口に立ったような、妙な刺激があり、色々と連想しました。音楽を通じた擬似文学的体験だったのかもしれません。実際にレコードを買って知ったのですが、この曲の原題は「Heart of Gold」です。それを「孤独の旅路」と意訳した日本のレコード会社のディレクターは凄いと思いました。

 「孤独の旅路」のサウンドは、生ギター、ベース、ドラムを基調とするフォーク・ロックで、特徴的なのは、ハーモニカとスティール・ギター、それに乗ったニール・ヤングの声の圧倒的な存在感です。その頃、ボブ・ディランも聴き始めていましたが、私的にはディランに比べると、ヤングの方が聴きやすく幾分ポップな感じがしていました。長髪もカッコ良く、剣道部だった私は丸刈りでしたから、いつか自分もあんな風に髪を伸ばしたいと夢想していました。憧れの対象でした。

 以後、ニール・ヤングはコンスタントに音盤を発表していきます。田舎の中学・高校生にとっては、当時1枚2,000円ほどしたLP盤は高価な買い物で、月に1枚買うのが精一杯でした。聴きたい音盤は沢山ありましたからニール・ヤングばかり買うわけにもいきませんでしたが、「孤独の旅路」を収録した『ハーヴェスト』は文字通りボロボロになるほど聴き倒しました。

 今では、デビュー盤から最新作まで全部入手して、折に触れて聴いています。その意味では、いつも、ニール・ヤングは側にいるのですが、初めて聴いた「孤独の旅路」と同じくらいインパクトを感じたのが音盤『コロラド』です。

新型コロナ感染爆発の最中に聴いたニール・ヤング

 2020年3月当時、私はニューヨークに在勤していました。正に、新型コロナの感染爆発が一気に拡散。マンハッタンを襲い、セントラル・パークにテントの野戦病院が設営され、ハドソン川には米海軍の病院船「マーシー」が派遣されました。当時は、アッパーイーストの公邸から一歩も外に出ませんでした。感染しないことが最重要で、仕事はオンラインでした。巷に溢れる様々な情報を整理して、毎日、総領事館ニュースレターを発出していました。そんな息詰まる、先も読めず、見通せない中で、頻繁に聴いていた音盤の一つがニール・ヤングの最新盤でした。

 新型コロナ直前の2019年10月にリリースされた『コロラド』です。モノクロの先住民っぽいアルバム・ジャケットから流れてくるのは、何処を切り取っても、ニール・ヤングらしいロックとブルースとフォークとカントリーが絶妙に溶け合ったサウンドです。2019年4月16日〜25日、コロラド州南西部のテルランド近郊のサンファン山脈の標高2,800mに設けられたStudio in the Cloudにて録音されました。高地ですから酸素が薄く、メンバーは酸素ボンベを使う場面もあったといいます。この高度では、歩くだけでも息が切れることもあるでしょう。ならば、何故そんな場所で録音したのでしょうか?

 ニール・ヤングは、元来、少々不便で危うい状況の方が音楽が生き生きするとの考えを持っています。狙いが的中して、『コロラド』には非常に生々しいサウンドが溢れています。若い頃から環境保護を重視してきたニール・ヤングにとっては、歌のテーマに最適の録音場所でもあります。

 更に、驚くべき事は、録音当時のニール・ヤングの年齢です。73歳です。過酷な環境での歌声は若い頃の声とほとんど変わりません。ちょっと鼻にかかった半分裏声のようでいて非常に強靭な声です。「声は人なり」です。

 この音盤が録音されている時に、新型コロナの事など誰も知る由もなかった訳です。が、新型コロナ感染爆発という特異な状況で聴いた時、私はニール・ヤングの音楽から力を頂戴しました。彼のエネルギーの放射量は凄いと思いました。その頃から既に6年余が経ちましたが、その時の感覚はつい昨日のように憶えています。

 それでは、次に、カナダ人ニール・ヤングが如何にして、世界のニール・ヤングになったのか、その来歴を概観しましょう。

トロント・ウィニペグ・トロント・ロサンゼルス

 ニール・ヤングは、1945年11月、トロントに生まれます。父親は、スポーツ記者として有名なスコット・ヤング。幼少期は病弱で、6歳の頃に小児麻痺にも罹ったといいます。

 13歳の時に両親が離婚して、ヤングは母親と一緒にウィニペグに移ります。その頃から、エルビス・プレスリーを筆頭に、チャック・ベリー、リトル・リチャード、ファッツ・ドミノらのロックンロールに熱中します。そして、ヤングの音楽的冒険が始まります。

 1961年、初めてバンドに参加します。62年には、スクワイヤーズを結成。地元では人気を博し、65年まで続いたそうです。ヤングは、地元のケルビン高校に通っていましたが、音楽で身を立てると決意して中退し、音楽活動を本格化させます。この時期に、将来の盟友となるスティーブン・スティルスと出会います。スティルスは別のバンドを率いていたので、一緒に活動するには至りません。ですが、ヤングはスティルスの楽才に惚れ込みます。

 ヤングは、ニューヨークに出て上手くいかず、トロントに戻る、雌伏の日々が続きました。そんな中、マイナー・バードというバンドに参加し、かの有名なモータウン・レコードと契約しデビュー盤も録音します。しかし、金銭トラブルやバンド・リーダーの逮捕でバンドは消滅します。

 ここからがロック版の塞翁が馬です。消沈したヤングは、マイナー・バードの機材を質入れして1953年型ポンティアックの霊柩車を手に入れます。この霊柩車に楽器等を積み込み、ベース奏者のブルース・パーマーと共に、一路ロサンゼルスに向かいます。スティルスを探してのLA行きでしたが、スマホも何もない1966年の春のことです。1週間程探しても見つからず、諦めてサンフランシスコに向かいます。と、渋滞中のサンセット・ブルバードの反対車線を走っていたのがスティルスだったのです。オンタリオ州ナンバーの霊柩車をLAで運転するような奴はヤングに違いないとして、Uターンして追いかけ、二人は再会するのです。

バッファロー・スプリングフィールドからCSN&Yへ

 「霊柩車の運転席から窓を見ると、そこにいたのはスティルスだった。僕らはサンセット・ブルバードの真ん中で抱き合った。クラクションが鳴り響いていた。」とヤングは自叙伝で回想しています。

 そして、ヤングとスティルスが軸となって、伝説的バンド「バッファロー・スプリングフィールド」が誕生します。早くも66年12月には、バンド名を冠したデビュー・アルバムをリリース。この時、ニール・ヤングは弱冠21歳です。作曲・演奏・歌と大活躍する早熟でした。しかし、このバンドは、3枚の音盤を残し、解散します。このバンドの核心は、ヤングとスティルスの協働とライバル関係でした。同い年の二人は互いに認め合った上で、刺激し合い、負けたくないとの強烈な意識を持っていたと言われています。ヤングとスティルスの関係は、協働→衝突→和解→協働→衝突→和解を生涯にわたり繰り返していると描写される程です。

 バッファロー・スプリングフィールド解散後の1968年12月、ヤングは23歳でソロ・デビュー音盤をリリースします。収録した10曲中9曲がヤングの作詞作曲です。アルバム・ジャケットはカラフルな印象的イラストですが、カントリー色が強く、内省的で地味な作品です。一方、既にあの声はここに確立しています。弦楽四重奏曲まで含める大きな構えの曲想の萌芽がここにあります。とは言え、セールス的には惨敗でした。

 そんな時に、スティルスからの誘いで、CSNに参加します。再びヤングとスティルスは一緒になり、スーパーバンドCSN&Y(クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング)が誕生しました。曲づくり、ギター演奏で抜きん出た才能を持つ二人を擁するバンドは、ロック史に燦然と輝いています。

 特筆すべきは、1969年8月の愛と平和の音楽の祭典「ウッドストック」への出演です。3日間にわたる屋外ロック・フェスで空前の40万人の観客がニューヨーク州北部の農村に詰めかけたのです。そのハイライトの一つがCSN&Yです。アコースティック・セットとエレクトリック・セットで圧倒的なハーモニーを披露しました。バンド演奏では、特にヤングのEギターは聴衆を金縛りにしました。時代を象徴するバンドとなったのでした。

 ヤングは、CSN&Yとソロ活動を同時並行的に行いますが、結局、CSN&Yはスタジオ盤『ディジャヴ』とライブ盤『フォー・ウェイ・ストリート』を残し解散します。

ソロ・キャリア〜大輪の開花

 CSN&Yの成功で、ニール・ヤングも注目され始めます。1970年8月に発表されたソロ第3作『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』はビルボード誌アルバム・チャート8位と大ヒット。カナダRMPチャートでも5位です。特に、米国南部の保守性という名の人種差別を糾弾した「サザン・マン」は圧巻です。不正義を糾弾するヤングの震える声、ヤングとスティルスのEギターの掛け合いは、情熱が迸り、聴く者の胸を掻きむしります。ここには、エンタテインメントを超えて、時代をも動かす音楽の力が宿っています。

 そして、1972年2月に、全米1位の「孤独の旅路」を収録した『ハーヴェスト』を発表します。この後は、ロック現代史そのものです。

 現在まで半世紀を超えて、49枚のスタジオ録音アルバムを発表しています。どの音盤にも物語があり、個性があります。

 また、多数のライブ盤も発表されています。現在もアーカイブ化され未発表音源がリリースされています。2枚だけ厳選します。まず、2019年7月に慣行された欧州ツアーを収めた『ノイズ・アンド・フラワーズ』です。ヤング73歳にして完全に現役です。Eギターを弾き倒し、バッファロー・スプリングフィールド時代の曲から最新曲まで歌っています。声も健在です。ストイックに体調を管理し声を磨き続けているに違いありません。

 そして、『ライブ・アット・マッセイ・ホール1971』です。この連載の第18回(2023年12月21日)でも紹介していますが、故郷に錦を飾った若きヤングの勇姿が眩しいです。生ギターとピアノの弾き語りが虚飾を剥いだ音楽の骨格をリアルに伝えます。出来立ての「孤独の旅路」のピアノ・ヴァージョンが聴きものです。ヤングの原点を今に伝えています。

結語〜ニール・ヤングにおけるカナダ性

 ヤングは、トロント生まれ、ウィニペグ育ちですが、音楽活動の拠点は米国です。大成功を収め、傘寿を超えて今も現役です。最新作の録音を終え近日中にリリースされるとも伝えられています。アメリカ市民権も取得しています。それでも、ヤングは一貫して「自分はカナダ人だ」との強烈な意識を持っていると言われています。

 その上で、音楽に滲む四つのカナダ的な要素が思い浮かびます。

①広大な自然への敬意。随所にオンタリオ州、マニトバ州が歌われています。後期の傑作『プレスリー・ウインド』に顕著です。

②飾らない誠実さ。ラフで、ドレス・ダウンした服装です。正装した姿は見たことがありません。スタイルと言えば、それまでですが。

③社会への責任感。環境や先住民を主題にした歌や、障害者支援等の活動に熱心です。

④米国への愛着と距離感。一方で、米国発ロックンロールを愛し、米国の大自然を愛し、米国に居住しています。他方、ベトナム戦争、ニクソン、ブッシュ、トランプら歴代大統領を容赦なく批判しています。

 権威に迎合せず、自由な精神を持ち、自分に正直に生き、それを音楽に昇華し続けて来たニール・ヤング。カナダを体現する最高のロックンローラーです。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より2026年7月まで第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「マルク=アンドレ・アムラン」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第48回

はじめに

 音楽ファンの皆さま、日加関係を応援頂いている皆さま、こんにちは。

 オタワでは短い春が終わり、盛夏に向けて街が活気づいています。6月に入り、日の出の時刻が早くなっています。調べたら、午前5時過ぎです。朝寝坊の私が目を覚ます頃には、太陽は高く登っています。日没は午後9頃にまで遅くなっています。白夜と言えば言い過ぎですが、陽光に祝福される日々は素晴らしいです。オタワっ子も観光客も、街ゆく人々の笑顔が印象的です。新緑の間を流れるリドー運河には、カヤックやSUPを楽しむ人の姿があります。平和そのものです。

 一方、世界を見渡せば、地上の別の場所では、戦争が続き、錯綜した紛争が続き、敵意・憎悪・怨念・怨嗟が渦巻き、貧困に喘いでいる地もあります。人間の世は、不完全で、矛盾に満ち、不公平ですが、オタワの美しい初夏にいることの幸運に感謝の気持ちでいっぱいです。

 さて、そこで本題の音楽です。今月は、カナダが生んだ超絶技巧のピアニストにして作曲家のマルク=アンドレ・アムランです。ニューヨーク・タイムズ紙の伝説的音楽批評家ハロルド・ショーンバーグが「現代屈指の“スーパー・ヴィルトゥオーゾ”」と評しています。21世紀のホロビッツ、或いは、ミスタッチの少なさから、ホロビッツを超えているとも言われている最高峰ピアニストです。

 アムランは、1961年9月にモントリオールに誕生。父親は、薬剤師にしてアマチュアのピアニストで、幼少期からアムランを鍛えます。『巨人の星』の星一徹を彷彿とさせます。その成果は直ぐに現れるのですが、アムランの音楽の旅路は非常にカナダ的でもあります。25歳にして、驚異的なデビュー盤を録音。何度も訪日している訪日家でもあります。

 それでは、マルク=アンドレ・アムランの世界へようこそ。

デビュー盤の衝撃

 音楽に限らず、芸術全般に言われていることですが、デビュー作品には、そのアーティストの核心が現れるものです。

 例えば、ヘミングウェイの処女作『われらの時代(In Our Time)』には、彼の特徴的スタイルである簡潔な文体が確立しています。また、真の勇気とは何か、世界は不条理なのか、と問いかける視座も明らかです。

 写真家・森山大道も粒子の粗さ、都市の混沌という彼の世界観が最初の写真集『Japan: A Photo Theater』で完成しています。

 同様に、アムランのデビュー盤『Leopold Godowsky: Original Works and Transcription』には、忘れられた超絶技巧作品の芸術的価値を再発見する、というアムランがこれから歩む音楽的冒険の道筋が明快に示されています。

 デビュー作品とは、その芸術家が生涯を通じて何処を見つめ、何を世の中に伝えたいのかを最も純粋な形で示す自己紹介とも言えるでしょう。

 アムランの場合、このデビュー盤の後で録音されている膨大な作品群がそれを証明しています。が、レコード・デビューに至る過程で、特筆すべき四つの事柄に言及したいと思います。

《父親は偉大なり》

 第一に、冒頭にちょっと触れた薬剤師にしてアマチュア・ピアニストで熱心な音楽愛好家の父の影響です。

 アムランは5歳からピアノを習い始めます。瞬く間に上達する訳ですが、父親はまだ幼いアムランにバイエル・ブルグミュラー・チェルニーといった標準的なピアノ教則ではなく、ルドルフ・ガンツ(1877〜1972、スイス出身のピアニスト・指揮者・作曲家)が編み出した『対称的練習法』という特殊なピアノ練習法で幼いアムランの技量を鍛えあげたそうです。“大リーグ養成ギブス”のようなものです。後年、アムランは「脳と指が直結する練習だった」と述懐しています。

 また、父は、多数のレコードと楽譜を収集していました。バッハ、ヘンデル、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン等々の有名な作曲家は勿論ですが、中には、レオポルド・ゴドウスキー、シャルル=ヴァランタン・アルカンやニコラ・メロネル、カイホスルー・シャプフジ・ソラブジなど、一般にはほとんど知られていない作曲家について、希少な録音と楽譜を持っていて、幼きアムランに楽譜を見せながら聞かせたといいます。

 そんな環境で育ったアムランにとっては、ゴドウスキー、アルカン、メロネル、ソラジブ等はごく自然に聴き馴染んだ作曲家たちでした。実は、これらの知る人ぞ知る作曲家に共通するのは、ピアノの超・超絶技巧を必要とする楽曲を残したという点です。「三つ子の魂百まで」と言いますが、幼きアムランにとっては普通にいつも聴いていた曲でした。正に、この幼少期の音楽体験がアムランの道を拓くのです。

《カーネギーホール国際アメリカ音楽コンクール》

 5歳でピアノを始めたアムランは、9歳でカナダ音楽コンクールの10歳以下部門で第一位を獲得します。その頃には、ゴドウスキー編曲版を勉強していたといいます。長じて、モントリオールのヴァンサン・ダンディ音楽院で学び、その後、フィラデルフィアのテンプル大学にて研鑽を積み、1985年に修士号を取得します。

 そして、同年9月、カーネギーホール国際アメリカ音楽コンクールに出場、優勝します。24歳の誕生日(9月5日)から3週間後のことです。アムランのコンサート・ピアニスト、レコーディング・アーティストとしての輝かしい道がここから始まります。優勝の副賞として、ロックフェラー財団の助成金で設立された「ニューワールド・レコード」へ録音する権利を得ます。但し、一つだけ条件があって、録音できるのはアメリカ人作曲家の作品に限るというのです。そこで、アムランは、ウィリアム・ボルコム(1938〜)の『新しい練習曲』を選択し、1987年1月に録音します。これがアムランの初録音です。選曲は限定されていた訳ですが。リリースは、翌1988年7月になりました。

 カーネギーホール国際アメリカ音楽コンクールでの優勝は、カナダ出身の無名の若者に大きな機会を提供します。アムランの評判が北米の音楽関係者の間では広がっていきます。フィラデルフィア、それからニューヨークでの活躍は才能豊かなカナダ人の典型的なパターンとも言えます。そして当然のごとく、カナダの音楽関係者の視点からは、若きカナダ人ピアニストをサポートしたいとの声もかかるのです。CBC(カナダ放送協会)傘下の新しいレコード・レーベル「Musica Viva」に録音する機会を得るのです。1987年のことです。

《誰も弾けないゴドウスキーを弾く》

 そこで、アムランは何を録音するか考えます。「ニューワールド・レコード」への録音は記念すべきレコーディング・デビューではありました。ですが、自ら選択したプログラムではありませんでした。そこで、本当に録音したい音楽を自ら選択するなら、幼い頃から慣れ親しんだゴドウスキーにしたいと申し出ます。

 「Musica Viva」で制作を担当したのは、CBCのフランス語放送局でクラシック音楽を長く担当し、新人の発掘に定評のあるミシェル・パトリでした。アムランの申し出に対し、パトリは躊躇したに違いありません。何故ならば、当時、ゴドウスキー、アルカン、メロネル、ソラジブ等の超・超絶技巧のピアノ曲は、それを弾きこなし録音するピアニストがほとんどいなかったからです。実際、アムラン以前は、ゴドウスキー自身に見出されたデヴィッド・サパートン(1889〜1970)というピアニストが1952年にモノラル録音した『ゴドウスキー編曲版ショパン練習曲集』がほぼ唯一のまとまったレコードでした。無名の新人ピアニストに出来るのか?

 しかし、リハーサルを聴いて納得しました。いや、納得しただけではなく、ピアノ録音史において新しい歴史が始まるかもしれないと興奮したに違いありません。

 何故なら、『ゴドウスキー版ショパン練習曲』は、人類史上最も難しいピアノ曲の一つだからです。ショパンの練習曲自体が大変に難易度の高いものですが、ゴドウスキー編曲版は、二つの練習曲を同時進行させたり、原曲に多彩な音を加えて、ピアニズムの極地をいく美しさです。まるで、二人がかりで4本の手で弾いてるようです。しかも、テクニックのためのテクニックではなく、より美しく豊かな音楽のために、限界ギリギリを攻めたテクニックです。そこには、ピアノの詩人ショパンが夢想した音楽美がなければなりません。が、言うは易く行うは難し。出来ていれば、多くの録音が残されていたはずです。録音がないという事実は、弾けるピアニストがいなかった。或いは、超絶技巧を美しい音楽に昇華できるピアニストがいなかったということです。だから、アムランがこれを世に問うことには、歴史的価値があると、パトリは確信したのです。

 大資本のCBCでカナダ政府のバックアップがあり、カナダ人、特にケベコワ・ピアニストを支援する意義は十分あるとは言え、レコード会社の経営という観点からは、売らなければなりません。そこは、熟練プロデューサーの直感と若きピアニストの情熱の勝利でした。加えて、ネームヴァリューや人気曲で商業的な成功を狙ったり、既成の価値基準の範囲で方針を決めるのではなく、音楽性重視で未完の新しい才能を発掘することに価値を見い出す姿勢は、とてもカナダ的だと思います。

《歴史の始まり》

 1987年8月、録音に臨みました。地元モントリオールの「シャペル・デュ・ポン・パストゥール(良き牧人礼拝堂)」のコンサートホールで行われました。自然な音響が格別です。

 ゴドウスキーの諸作品は人類史上最も難しい曲の一つではあるものの、アムランにとっては、幼き頃から父親の手解き親しんできた音楽です。楽譜も読み込んでいます。

 結果、ゴドウスキーのオリジナル作品と編曲したもの織り交ぜて、極上のピアノと作編曲の妙を味わえる均整の取れた音盤に仕上がりました。

 そして、5ヶ月後の翌1988年1月にデビュー盤がリリースされました。世界が初めて耳にしたアムランであり、ゴドウスキーも再発見でした。レコード評は絶賛でした。ゴドウスキー作品は「生身の人間には演奏不可能」と言われていた訳ですが、「完璧なコントロールと打鍵のクリアさ」で弾きこなしました。技巧のひけらかしに終らず、作品が持つ叙情性や華麗な美しさ、ユーモアをしっかり引き出している、等々です。

 後は、歴史と言って良いでしょう。アムランは、ゴドウスキー、アルカンら忘れられていた作曲家たちの作品群を次々に発表していきます。自身で作曲した楽曲集も多数録音しています。更に、ハイドン、ベートーヴェン、リスト、シューマン、ブラームスらのクラシック音楽の王道も録音しています。

名盤の森

 1987年に初めてプロとして、録音を始めて、アムランがこれまで、発表した音盤は優に70枚を超えます。幅の広さと多作は天才の証しですね。

 厳選の5枚を紹介させて頂きます。

  • ゴドウスキー盤ショパン練習曲全集

 1990年、39歳にして、アムランはピアノ音楽史に残る偉業を達成します。ゴドウスキーが編曲したショパンの練習曲の全てを、2年がかりで英国のクラシック専門レーベル「ハイペリオン」に録音したのです。プロデューサーは、バレンボイム等も手掛けている大物アンドリュー・キーナーでした。

 ショパンは、有名な『革命』や『別れの曲』を含め、全部で27曲の練習曲を残しています。ゴドウスキーは、これらの練習曲をベースに左手だけのための編曲や二つの曲を同時に演奏する編曲をしました。合計53の編曲があります。

 アムランは、この53曲全てをCD2枚組で演奏時間2時間33分の大作を発表したのです。音楽愛好家にとって必聴盤だと思います。

  • ストラヴィンスキー『春の祭典』

 2018年リリース。20世紀を代表する色彩とリズムの管弦楽曲をピアノ連弾で鮮やかに再現したもので、レイフ・オヴェ・アンスネスとのデュオ盤。ピアノ表現の大いなる可能性を示しています。

  • アルベニス『“イベリア”と後期作品集』

 スペインの至宝アルベニスは、ギターと情熱とフラメンコの母国の音楽をピアノで再現しています。また、アルベニス自身が優れたピアニストでしたから、ピアノ1台でオーケストラのような響きを生み出します。そこに立ち上がる旋律が胸に沁みます。

  • ボルコム『コンプリート・ラグ』

 カーネギーホール国際アメリカ音楽コンクール優勝の副賞での初録音で取り上げた米国人作曲家がボルコムでした。ボルコムの音楽には米国のDNAの成せる業か、自然とジャズやラグタイムの響きが滲みます。本盤は、ラグタイム全集です。超絶技巧の持ち主が、思う存分にアメリカを表現する誠に楽しい音盤です。

  • アムラン『ニュー・ピアノ・ワークス』

 2024年リリースで、アムラン自身の作曲・編曲集。「パガニーニの主題による変奏曲」に始まり、自作の「ロム・アルメのトッカータ」で終わる全37曲。凄いテクニックで弾いているのに、そのように感じさせません。素晴らしいテクニックにはそれ自体に価値があるけれど、最終的には良い音楽のために必要不可欠な要素以上のものではないのだと、聴けば得心します。しかし、リスナーにそう思わせるためには、持って生まれた才能を磨きに磨いた膨大な鍛錬あってこそでしょう。1時間14分は、ピアノ好きにとっての桃源郷です。

結語

 アムランは、何度も訪日しています。東京には、世界に誇る卓越したコンサート会場が数多くありますし、耳の肥えた聴衆もいます。コンサート・プログラムは、デビュー盤以来の使命である、忘れられた作曲家の作品の紹介も常に行われています。そして、インタビューにも応じています。2018年のヤマハ(高橋はる香さん)とのインタビューでの非常に印象に残る発言で、今回の「音楽の楽園」を締めることにします。

〈Qあなたにとってピアノとは?〉

 「私の考えを伝達するものであり、メディアです。ピアノは完成された楽器です。いわば、辞書にのっているあらゆる形容詞を表現することができる楽器といえるでしょう。」

〈Qピアノを学ぶ(楽しむ)方へのメッセージ〉

 「自分に必要な時間を十分にとってください。決して慌ててはいけません。・・・・練習室の外でもっと時間を過ごし、人生をちゃんと生きてください。練習室の中で起きることしか見ていないのに、芸術的な成就が大きくなるはずがありません。・・・・ちゃんと人生を生きていない人が、演奏を通して一体何を伝えることができるのでしょう。・・」

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「ケニー・ウィーラー」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第47回

はじめに

 音楽ファンの皆さま、日加関係を応援頂いている皆さま、こんにちは。

 オタワでは短い春が大いに盛り上がっています。世界最大級のチューリップ・フェスティバルが10日間にわたって開催されていて、オタワっ子の目を楽しませてくれました。

 ちょうどヴィクトリア・デイの長い週末が過ぎたばかりです。元来は、大英帝国の繁栄を築いたビクトリア女王の誕生日(1819年5月24日)を記念して制定されました。期日は、5月25日より前で最も近い月曜日です。毎年日付が変わりますが、今年は5月18日でした。

 既に5月も半ばを過ぎ、日によっては、最高気温が30℃に迫る日もあります。地球温暖化でしょうか。いずれにしても、ヴィクトリア・デイは初夏の到来を告げています。

 そこで、音楽です。音楽体験は、極めて個人的な営為ですし主観的なものです。正に聴き方も十人十色。ですから個人的な事で本当に恐縮ですが、初夏の頃に良く聴く音盤がありますので、今回はこの話からさせて頂きます。

 私にとって、初夏の音盤と言えば、ケニー・ウィーラーの『ヌー・ハイ』です。隠れた名盤です。

 この音盤を初めて聴いたのが、私が佐世保の高校生の頃です。もう50年も前のことです。季節は初夏、或る土曜日の夕刻でした。翌日の全国模試を受けるため、M君と一緒に佐世保から博多に向かう在来線の中でした。M君は筋金入りのジャズ好きでしたが、大きな理由は、彼の3つ年上の兄の存在です。兄は既に東京の大学生で、古典から最新のものまでジャズを浴びていたのです。兄は弟にジャズ魂を授けていました。同級生で本気でジャズを聴いていたのはM君ぐらいでした。非常に大人びた雰囲気を持っていました。で、M君がその最新盤をカセットテープにダビングして私に聴かせてくれた訳です。ウォークマン登場前の時代す。それなりに大きいラジカセで聴いたのです。周りの客の迷惑にならぬよう、イヤホンで聴きました。勿論、ノイズ・キャンセリングなどなく、音質は悪かったです。

 今でも、この音盤を聴くと、車窓から見える佐世保から佐賀を経て博多に至る西九州の風景や匂い、M君と語り合った事が昨日のように思い出されます。

 前置きが長くなりました。今回は、この初夏の音盤の主、ケニー・ウィーラーです。カナダが誇るトランペット奏者にして作曲家です。

『ケニー・ウィーラー/ヌー・ハイ』とは

 『ヌー・ハイ』は、ケニー・ウィーラー名義です。しかし、最初は、この音盤の最大のポイントはキース・ジャレットのピアノだと紹介されました。ジャズ愛好家なら、キース・ジャレットを知らぬ人はいません(田舎の高校生でも知ってました)。20歳で、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズでプロ・デビューして以来、ジャズの最前線を疾走する現代ジャズのスーパースターです。語り始めると延々と続くので端折りますが、キース・ジャレットは、アート・ブレイキーの後、一世を風靡したチャールス・ロイド・グループを経て、マイルス・デイビス楽団に参加します。名伯楽でもあるマイルスの下で頭角を現し、独立。それ以来、キース・ジャレットは常に自分自身が主役です。他のミュージシャンをバックアップすることは殆どありません。そういう意味では、『ヌー・ハイ』は、非常に例外的なのです。が、考えてみれば、キース・ジャレットをその気にさせる程の実力を持った男がケニー・ウィーラーだということです。

 因みに、『ヌー・ハイ(Gnu High)』という奇妙なタイトルですが、ちょっとした背景があります。ヌー(gnu)は、アフリカのサバンナ地帯に生息する大型草食動物です。ヌーという発音がnew(新しい)に近いことから、ヌー・ハイ(new high)、つまり“新しい高み”という意味を込めたと解されています。この音盤は、ドイツ人マンフレッド・アイヒャーがプロデュースしECMレコードから発表されたのですが、静謐なアルバム・ジャケット写真といいヨーロッパ的な知的な諧謔が込められているようです。

初めて知ったジャズを聴く愉悦

 この音盤は、正直なところ、最初は、良く分からなかったのです。背伸びして聴きました。でも、何かしら、胸に感じるものがありました。何度も聴くうちに、本当に好きになりました。田舎の高校生の胸を鷲づかみにするサムシングがあったのだと思います。ただ、今に至るまで、そのサムシングの正体は分かりません。上手く言葉にも出来ません。敢えて、群盲象を撫でる的な描写ですが、胸に沁みるものを列挙すると、ウィーラーのトランペットの混じり気のない真っ正直な音色。ウィーラーが紡いでいく即興のフレーズ。身を捩りたくなるような刺激等々。ウィーラーのトランペットを支えるキース・ジャレット率いるリズム・セクションの凄さ。主役ウィーラーのバッキングから解き放たれて、ピアノ独奏に移行して、アドリブを展開する時の高揚感。デイブ・ホランドの切れ味鋭い重低音。ジャック・ディジョネットの非常にカラフルな律動。ジャズ入門者の素朴な耳は完全にノックアウトされました。

 『ヌー・ハイ』は、“世の中には、まだ君の知らない世界が大きく広がっている。音楽の密林の奥深く分け入っていけば、ジャズの楽園が君を待っている”と語りかけて来ました。もう半世紀前のことですが、鮮明に憶えています。

 以来、この音盤を聴くたびに耳に残る美し過ぎる音の断片達に圧倒されて来ました。が、正直に言うと、随分長い間、ケニー・ウィーラーがカナダ人とは知りませんでした。

ケニー・ウィーラーはカナダ人

 そこで、ウィーラーです。1930年1月、トロントに生を受けました。父親は、地元のバンドでトロンボーンを演奏するアマチュア・ミュージシャンでした。12歳で、トランペットを始めます。ジャズの洗練を受けるのに時間はかかりませんでした。メキメキと上達し、地元のダンス・バンドで吹き、頭角を顕します。

 後年、ウィーラーは、透明感のあるピュアな音色を高く評価されるのですが、管楽器奏者の音色は、努力とは別次元の生まれながらに備わったタッチ・個性があるようです。若きウィーラーは、その美音で道を切り拓きます。

 20歳でトロントの名門ロイヤル・コンセルヴァトワール(RCM:The Royal Conservatory of Music)で和声法を学びます。RCMは、1886年に創立され、1947年に国王ジョージ6世によりロイヤルの冠が付与されました。グレン・グールドやオスカー・ピーターソン、カナダの誇る錚々たる音楽家を輩出しています。

 ウィーラーはRCMで学んだ成果を武器に、1952年、まず、モントリオールに進出します。今でこそ、トロントはカナダ最大にして北米第3位の大都市ですが、この当時は、モントリオールがカナダ最大で文化・芸術の中心でした。とは言え、万事英国スタイルのトロントからフランス風のモントリオールは随分と勝手が違ったはずです。言語もほぼ全てがフランス語ですし。

 ウィーラーは、短期間のモントリオール滞在から、ロンドンへと大西洋を渡りました。ロンドンでも音楽の勉強を続け、対位法と作曲法をきちんと学びます。この音楽の基礎は、後年、ウィーラーがビッグバンドを率いて、自ら作曲した楽曲を演奏する上で、強力な基礎・土台を固めることに繋がります。

ロンドンにウィーラーあり

 ロンドンを拠点としたウィーラーは、ダンス・バンドに参加し音楽家としての道をしっかりと歩み始めます。

 ここで、カナダの若き俊英が何故、ロンドンなのかという疑問が沸くと思います。これには、時代背景があります。1950年代のカナダは、今のカナダとは全く違います。カナダ社会全般、特にトロントは、英連邦的な雰囲気が色濃く残っていました。その上、特にカナダ人音楽家、知識人、芸術家にとって、ロンドンは極めて重要な文化の中心地であり洗練された本場でした。腕を試すならロンドンだったのです。

 とは言うものの、ジャズに限れば、世界の中心は圧倒的に米国・ニューヨークでした。但し、ニューヨークは生馬の眼を抜く苛烈な競争の場でした。音楽性と同時に商業性がないと勝負すら出来ない厳しい街です。一方、ロンドンは、英国独自のジャズ市場が成長している過程で、優秀なミュージシャンにとっては参入しやすかったという事情がありました。また、イギリス人からすれば、カナダ人には親近感を持てたとも言えるでしょう。

 いずれにせよ、若きウィーラーは、ロンドンでジャズ音楽家の階段を登り始めます。そして、ロンドンに来て7年になる頃、大きなチャンスが到来します。ジョン・ダンクワース楽団への参加です。

 実は、ジョン・ダンクワース卿は、英国ジャズ界で初めて爵位を与えられた音楽家で、英国ジャズ創世記の偉人です。卿自身、クラリネット・サキソフォン奏者にして作編曲家、そしてバンド・リーダーです。30歳を前に、ウィーラーがダンクワース楽団メンバーになるということは、ジャズ業界にあって、実力が認められたということです。

 更に、1965年には、名門「ロニー・スコット・ジャズ・クラブ」のハウス・バンドに参加します。ウィーラーは、ビッグバンドの一員として安定的な収入は確保しできています。しかし、音楽的な冒険心が満たせているかと言えば、そうではありません。

 ロンドンは英国の首都で、バッキンガム宮殿もあり、東西冷戦の下で国際政治の核の一つです。本質的に保守的な街です。が、こと文化・芸術の面では、常に実験精神旺盛で前衛・アヴァンギャルドの街でもあります。そんな中、ウィーラーは、一切の制約を取り払ったフリー・ジャズの世界にも足を踏み入れます。

 1960年代は、ベトナム戦争、学生運動、前衛芸術が錯綜する疾風怒濤の時代です。ロンドンはビートルズ旋風の震源地である一方、前衛ジャズも盛んです。そんな状況で、ウィーラーにしてみれば、自身の作編曲で勝負したいという熱い思いが沸々湧いて来ます。とは言え、既に、40歳が目前です。遅れて来た鬼才にチャンスは来るのでしょうか?

ケニー・ウィーラーと『ドン・キホーテ』

 1968年、ウィーラーは激しい歯痛でトランペットが数週間も吹けない状況で、焦っていました。その状況を見かねて、かつてのボス、ダンクワース卿が救いの手を差し伸べます。ウィーラーの楽才を認めていたボスは、トランペットが吹けないなら吹けないなりに、音楽を追求する方途はあるのだと道を示すのです。ウィーラーがそれまでに書き溜めていた楽曲を取りまとめて、アルバムを制作するのです。

 アイデアや良し、実現するのは簡単ではありません。世の中には構想倒れに終わった企画は星の数ほどあります。録音されたままでお蔵入りになったテープも山ほどあるのです。

 ウィーラーの場合、幸運だったのは、ダンクワース卿の力添えです。上述のとおり、ダンクワース卿は、英国ジャズ界のドンです。彼の楽団の猛者達が録音に加勢します。全曲、ウィーラーの作編曲。ジャズのメジャー・レーベル「フォンタナ」からリリースされました。コンセプトは、セルバンテスの傑作『ドン・キホーテ』の風車との対決を音楽で表現する、というものです。世界中で聖書の次に多くの人に読まれている物語を組曲にした、ジャズの到達点です。

 38歳にして、デビュー盤をリリースするというのは、率直に言って遅咲きです。しかし、素晴らしい音楽に早咲きも遅咲きもありません。今の耳で聴いても全く古臭くありません。

 辛口の批評家達も絶賛です。デューク・エリントン楽団やギル・エヴァンズ楽団の古典を引き合いに出して、ウィーラーの作編曲の斬新さと奥深さが認められたのです。

ウィーラーの名盤

 ケニー・ウィーラーは、率直に言えば、大衆に支持され大きな商業的成功を収めた訳ではありません。同僚の音楽家や批評家から高く評価されました。商売より冒険を好んだ、と言うか、己の心の赴くままに、音楽を奏でることが出来た実に幸福な音楽人生でした。

 膨大な録音を残しましたが、厳選の3枚です。

 まず、ビッグバンドから室内楽的な作品まで網羅した『Music for Large & Small Ensembles』(1990年)です。多くの批評家がウィーラーの最高傑作の一つにあげています。CD2枚組で、1時間40分に及ぶ奔放な音楽です。いつまでも聴いていたくなります。何故そう感じるのか、考えてみました。ここには、3次元的コントラストがあるのです。美しい旋律と構造を解体した即興、シンプルなハーモニーと複雑な和音、叙情性な静と攻撃的な動、聴く者の音楽的な好奇心を刺激し続けるのです。

 次に、五重奏の傑作、『Double Double, You』(1983年)です。各楽器のスーパースターを招集して繰り広げるウィーラー・ミュージックの頂点です。マイケル・ブレッカー(sax)、ジョン・テイラー(p)、デイブ・ホランド(b)、ジャック・ディジョネット(d)が、お互いを鼓舞し、共に絶頂を目指す、ジャズの王道です。

 最後に、カナダの歌姫ジョニ・ミッチェルの音盤『Travelogue』(2002年)への客演です。

結語〜カナダ的柔軟性と多様性

 ウィーラーの音楽キャリアの大部分は、英国を拠点としていました。主要な音盤は、ミュンヘン所在のECMレコードで録音しています。国籍がカナダという以外は、極めてヨーロピアンな音楽家に見えます。

 しかし、本人がどこまで意識していたかは知る由もありませんが、ウィーラーの音楽は、私にはカナダ的に聞こえます。まず、余白を大切にする空間的な広がりを感じさせる音づくりです。過度に自己主張しないプレイ。前衛のフリー・ジャズからクラシック音楽と見紛うばかりの洗練された和声まで、実に多様です。共演者に合わせて寄り添う利他的な姿勢。どれもとてもカナダ的です。

 ケニー・ウィーラーは、初夏だけでなく、四季を通して、いつ聴いても、美しいです。何度聴いても、何かしら発見があります。

 忙しい時にこそ、是非、彼の音楽に身を委ねては如何?

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「ジュノー賞」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第46回

はじめに

 音楽ファンの皆さま、日加関係を応援頂いている皆さま、こんにちは。

 既に4月も半ばを過ぎ、日に日に日が長くなって来ました。それでも、オタワっ子のウォーキング・ジョギング或いはサイクリングのコースとして絶大なる人気を誇るオタワ川沿いの小道は、北方に面しているので陽光の恵みが未だ不十分で凍った雪に覆われています。とは言え、ようやく春が来たと実感する今日この頃です。

 全く個人的な感想で恐縮ですけど、今回の冬は私にとって4度目でしたが、氷点下30℃の気温や積雪、或いは強烈な風を思い出すと、一番厳しい冬だったと感じました。4度目ですから、冬の楽しみ方もそれなりに知りましたし、慣れても来ました。それでも、流石オタワの冬、恐るべしでした。

 そんな中、冬の終わりと春の到来を告げる早春の風物詩がジュノー賞です。敢えて例えれば、米国のグラミー賞や日本のレコード大賞です。今年は、55回目という節目の年で、春分の日を過ぎた3月29日に開催され、CBCが実況中継で全国放送しました。

 という訳で、今回の「音楽の楽園」はジュノー賞についてです。

音楽エンターテインメント業界の実情

 ジュノー賞に触れる前に、昨今の業界事情について見てみましょう。現在、私達が生きている世界は、好むと好まざるにかかわらず、恐ろしいスピードでグローバル化が進行しています。国家安全保障に直結する最先端技術はデカップリングの対象となり、厳格に規制されています。一方、日常生活に関わる事柄は、ほとんど全て軽々と国境を超えています。グローバル化は市場経済化と同義です。自由な市場では需要と供給が出会い価格が決まり取引されます。そこでは、売れなければ意味がありません。売れるものが良いものです。だから、マーケティング戦略が結果を左右します。音楽エンターテインメント業界も例外ではありません。西のハリウッドと東のニューヨークが世界の音楽エンターテインメント業界に圧倒的な影響を及ぼしています。特に、8,000km余に及ぶ国境で接するカナダは、トランプ政権下で政治的には相当の緊張があるものの、音楽を含むエンターテインメント分野では、どっぷりとアメリカ文化圏にあるのが現実です。

 とは言え、カナダにはカナダの歴史と文化がありアイデンティティーがあります。音楽においてもそうです。ジュノー賞創設の動機が正にそうです。カナダ国内の音楽市場はアメリカン・ミュージックに圧倒される中、カナディアン・ミュージックを音楽性の面でも商売の面でも促進したいとの思いから誕生したのが、ジュノー賞でした。

 本年のジュノー賞が55回目の節目で、元来極めて友好的な米国との関係が軋む中、開催地がオンタリオ州ハミルトンだったことには、象徴的な意味があります。時代を遡ると、1776年に英領北アメリカの13州が大英帝国から独立を宣言し、革命戦争を経てアメリカ合衆国が誕生すると、米国内の王党派(ロイヤルリスト)が米国を捨て植民地カナダに移住して来ます。目的地は、五大湖の水運と内陸の開拓を結ぶ要衝の地ハミルトンでした。1812年戦争では米軍からカナダを守った黎明期の歴史を刻む歴史的な街です。

創世記

 ジュノー賞は1970年に第1回授賞式が行われました。が、その前身を辿ると、RPM賞が1964年に創設されています。実は、グラミー賞と日本レコード大賞は1959年の創設です。5年の差はあるものの、カナダの音楽業界の関係者が録音された音楽の持つ芸術性と産業としての可能性を十分に認識していた証左と言えます。

 RPM賞は、1964年に創刊されたRPM Weekly誌が創設した音楽賞です。PRMとはRevolutions Per Minute(毎分回転数)で、レコードの回転数を意味します。レコード音楽業界誌に相応しい名前と言えるでしょう。週刊RPM誌は、カナダ版のビルボード誌のような音楽専門誌で、カナダの音楽チャートを発表し、音楽業界の各種情報を提供すると同時に、カナディアン・ミュージックを育成することを使命としていました。

 週刊RPM誌は、読者にカテゴリー別にミュージシャンやレコード・レーベル等に関する郵便投票を呼びかけました。年間を通じて得られた読者投票に基づいて分野別にRPM賞として表彰を始めました。1964年12月に記念すべき第1回表彰が雑誌上で行われました。

 翌1965年からはカントリー・ミュージック部門も加わりました。年々、RPM賞は充実していきました。1969年まで、RPM賞は雑誌上で発表されるだけでした。

 1970年2月23日、RPM賞は拡充されて、第1回RPMゴールデン・リーフ賞としてトロントに関係者が参集して授賞式が敢行されました。

 その後、RPM誌は、その年のカナディアン・ミュージックの神髄を集めた音楽の殿堂とも言うべき名称を公募しました。結果、ジュノー(Juno)賞という名称となりました。

ジュノー賞の誕生

 今や、ジュノー賞授賞式は、CTVでカナダ全国に実況放送されています。全米向けにもMTV2で中継されるまでに成長しました。

 歴代のジュノー受賞者は、カナダで認知され、米国でブレークし、そして世界的なミュージシャンへと成長しています。例えば、ニール・ヤング、ジョニ・ミッチェル、アン・マレー、ブライアン・アダムス、セリーヌ・ディオン、アラニス・モリセット、更にドレークやウィークエンド等々です。ジュノー賞の知名度と権威は年々高まっています。

 そこで、RPMゴールデン・リーフ賞からジュノー賞へと昇華する頃のエピソードです。

 まず、ジュノー賞の名称です。

 応募された名称は、Juneauでした。これは、カナダの音楽産業を育てた大物ピエール・ジュノー氏に因んだものでした。彼はCRTC(Canadian Radio-television and Telecommunications Commission)の初代委員長を勤めた人物です。カナダ版NHKとも言うべきCBCの会長でもありました。カナダの音楽の発展を企図する音楽賞の名称としてジュノー氏に敬意を表したものでした。

 トリビアですが、ピエール・ジュノー氏は、1975年8月にピエール・トルドー政権の通信大臣に任命されました。この時、ジュノー氏は非議員でした。カナダ憲法の常道で閣僚は議員である必要があるため、彼は75年10月の補選に出馬するも落選。大臣を辞したという経歴もあります。

 後に、ジュノー賞のスペルはJuneauから簡略化されてJUNOとなりました。これは、ローマ神話の最高の女神ユノ(Juno)にも通じます。

 いずれにせよ、ジュノー賞は1971年から毎年開催されています。2020年の新型コロナ感染爆発の際はオンライン開催となりましたが、時代の変化を反映しつつ、それぞれの時代のカナダの音楽的パワーを放射して来ました。

JUNO2026

 そこで、今年のジュノー賞です。55回目の節目に相応しい充実した内容でした。授賞式=極上のライブ・パフォーマンスでカナダの文化的アイデンティティーを謳いあげました。世代を超え、ジャンルを超えたカナダ的な多様性を見せつけました。同時に、デジタル技術の発達に伴う音楽ビジネスの新たな可能性も示したと思います。

 印象に残ったのは3点です。

 まず、オープニング・パフォーマンスに、ラッシュが登場しました。全くのサプライズでした。場内は本コラム第10回でも取り上げたカナダが誇る伝説のバンドです。2015年の結成40年記念ライブ以来11年ぶりのパフォーマンスは、デビュー盤『RUSH』の冒頭に収められた「Finding My Way」。場内はいきなり興奮の坩堝と化しました。実は、不動のドラマー、ニール・パートが脳腫瘍で2020年に没したので、ラッシュの再結成はないだろうと諦めていました。それが、突然の再結成です。後任は、アニカ・ナイルズ女史で、パワフルかつ正確なビートでヘヴィメタ的側面のラッシュ・サウンドをしっかり支えていました。やはり女性ドラマーには華があります。再結成ツアーも予定されているとのこと、今後の展開が楽しみです。

 次に、ジョニ・ミッチェルです。「生涯功労賞」は当然過ぎるというか、わざわざ表彰する必要があるのかと思うほどです。しかし、考えてみれば、55回目の節目で、ジョニ・ミッチェルを表彰することは、カナダディアン・ミュージックの推進を旨とするジュノー賞にとっては大きな意義があります。本コラム第7回でも取り上げていますが、サスカチュアン州出身の唯一無二の個性が歩んだ音楽的冒険の旅路はシンガー・ソングライターの歴史そのものです。ジョニの活躍の場は米国であり世界です。それでも、彼女は自身の原点はカナダにあるのだと認識しているそうです。ジュノー賞「生涯功労賞」はカナダ人魂への御褒美でもあります。

 ラッシュもジョニ・ミッチェルも20世紀に根っ子のある音楽家です。21世紀の今を呼吸するミュージシャンはどうだったのでしょうか。今年の「顔」はテイト・マクレーにトドメを刺します。多数のカテゴリーを持つジュノー賞ですが、最も重要な賞が「アーティスト・オブ・ザ・イヤー」と「アルバム・オブ・ザ・イヤー」です。マクレーはこれらを含む主要4部門を受賞。今年の最多部門受賞者でもありますが、2003年7月生まれの22歳です。新世代のアーティストがカナダの音楽業界を牽引する姿を印象づけました。

 特に、『So Close to What』は、ダークでアンニュイな雰囲気の不思議なジャケット・デザインですが、超モダンであると同時にポップ・ミュージックの王道を行くサウンドです。元々はダンサーとしてエンターテインメント業界にデビューしたマクレーですが、音楽的才能を開花させました。愛くるしくも屹立した声はリスナーの耳に心地良いです。同時に確かな歌唱力が音楽に安定感を与えています。ビルボード誌トップ200チャートで初登場1位を達成したのは快挙です。ジュノー賞「アルバム・オブ・ザ・イヤー」も当然と言えば当然です。

結語

 日進月歩いや秒進分歩の変化が世界中の音楽業界を襲っています。今や、音楽は、それが素晴らしい音楽性を持つにしても、ビジネスとの戦略的連携がなければ、瞬く間に忘れられてしまいます。厳しい現実です。それでも、新しい才能は、如何に過酷な環境からでも生まれるものです。現在進行形のカナディアン・ミュージックを次のステージにステップアップさせるジュノー賞の今後に注目です。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「アナ・ソコロヴィッチ」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第45回

はじめに

 音楽ファンの皆さま、日加関係を応援頂いている皆さま、こんにちは。

 既に3月も半ばを過ぎ、そろそろ春分の日です。夜明けは早まり、日没の時間は遅くなって来ました。オタワの冬は決して油断できません。寒さが幾分緩んだかと思うと、厳寒の日がぶり返します。とは言え、オタワ版の三寒四温はあって、春も遠からじと感じる今日この頃です。

 一方、国際情勢はと言えば、ロシアのウクライナ侵略から4年が過ぎ、イスラエルと米国によるイラン武力攻撃で中東情勢は混迷の度を深めています。そんな中、カナダは独自のスタンスを取り、平和と繁栄を維持しようと努力しています。その様子を日々見ていると、カナダという国家の成り立ちや困難な現実に直面しつつも理想を懸命に掲げて発展して来た歴史が想起されます。そして、多文化主義や開放的かつ包摂的な社会は現在カナダのアイデンティティーなのだと納得します。

 そこで音楽です。“歌は世につれ”と言います。確かに、古来、洋の東西や時代を問わず、音楽は世の中の動向を反映して来ています。カナダの現代音楽には、カナダの社会の有り様が滲んでいるのです。

 と言う訳で、今回は、現代のカナダが誇る作曲家、アナ・ソコロヴィッチです。ポピュラー・ミュージックの作曲家ではありませんから、一般的な知名度は高くありません。が、極めてカナダ的な作曲家だと思います。

 それでは、アナの世界へようこそ。

ピアノのための2つの練習曲

 アナ・ソコロヴィッチの名前が音楽関係者の目を引いた最近の例は、昨年のエリザベート王妃国際音楽コンクールの時です。

 エリザベート王妃コンクールは、チャイコフスキー国際コンクール、ショパン・コンクールと並ぶ世界3大コンクールの一つですが、最も歴史が古いのです。ベルギー青年音楽院の創始者であるルネ・ニコリが提唱したのに対し、音楽に深い理解を持っていたベルギーの元王妃エリザベートの名を冠して1951年から始まりました。世界最高峰の登竜門の一つで、その優勝者や上位入賞者には、輝かしい未来の扉が開きます。ヴァイオリン、ピアノ、声楽、チェロの4部門がそれぞれ4年ごとに開催されています。

 2025年は、ピアノ部門でしたが、そのセミファイナルには12人が残りました。その際の課題曲は、各ピアニストの真の実力を知るために、バッハやモーツァルトやベートーヴェンといった既存の曲ではなく、真新しい曲が課題として与えられるのです。セミファイナルの課題曲に選ばれたのが、アナ・ソコロヴィッチの「ピアノのための2つの練習曲」でした。エリザベート王妃財団から委嘱され、アナが書き下ろしたものです。

 世の中には、クラシック音楽、ジャズ、ロック、ポップスまで、無数の楽曲が存在します。元来ピアノ独奏曲もあれば、ピアノ用に編曲された曲もあります。そんな中、アナは、謙虚に“練習曲”と名付けていますが、その実態は、超絶技巧を要する難曲です。弾く者にとっては、己の限界を思い知らされる程です。ですから、コンクールの課題曲の意味はそこにあります。しかし同時に、この“練習曲”は、聴く者には音楽を聴く醍醐味を与えてくれます。これまで味わったことも見たこともない、全く新しい音楽的な地平と風景を提供してくれるのです。しかも、その新しさは、美しい響きを秘めています。クラシック音楽の系譜にある現代音楽の世界で高い評価を得ています。

 コンクールの主要プログラムを収録した4枚組CDライブ録音で、日本人入賞者、桑原志織の素晴らしい演奏を聴いてみて下さい。

ユーゴスラビアの天才少女

 それでは、アナ・ソコロヴィッチの来歴を辿ってみましょう。とにかく極めてカナダ的です。

 1968年、東西冷戦下のユーゴスラビアの首都、ベオグラードに生まれます。そして、4歳からバレエを始めました。家にはピアノがなかったので、バレエの練習の合間にスタジオにあるピアノを見よう見まねで弾くようになったのが8歳の頃です。正式に習った訳ではないのですが、ピアノの鍵盤を押すと湧き上がる音色に魅了されたといいます。押す鍵盤の組み合わせを変えると異なる響きが生まれ、強弱をつけ、リズムに乗ると音楽が溢れる。魔法のような空間に、自らの未来を直感したに違いありません。ピアノに触れた瞬間から、天然の作曲家の資質が開花しはじめます。

 ここで、アナの音楽について一つの重要なポイントがあります。彼女はバレエの練習を通じて音楽に出会ったことに由来すると思うのですが、アナは音楽を舞踏と演劇と一体を成すものとして体感していたということです。正に、芸術を尊んだ古代ギリシアの市民が円形劇場で喜劇や悲劇に興じた時と同じです。そこでは、音楽・舞踏・演劇は三位一体だったのですから。

 長じて、ベオグラード芸術大学に進学し、本格的に音楽を学びます。私のリサーチ不足で、アナの学業というか音楽活動に関する詳細は分からないのですが、きっと思う存分に音楽の奥義を探求したに違いありません。教授陣からも、将来のユーゴスラビア現代音楽を担う人材として嘱望されていたに違いありません。しかし・・・・

激動の時代

 1989年11月9日の夜、ベルリンの壁が崩壊し、冷戦が終結します。今から振り返れば予兆はあったとは言えます。しかし、第2次世界大戦終結から40年余にわたり国際情勢の基本構造となっていた冷戦下の社会主義体制です。一般国民からすれば、それが瞬く間に不安定化し、崩れていくとは想像だにできなかったというのが実情でしょう。突然の壁の崩壊で、東欧諸国の政治情勢は一変します。

 特に、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、「7つの国境・6つ共和国・5つの民族・4つの言語・3つの宗教・2つの文字」と形容される多様性を内包した国家でした。傑出した政治指導者チトーにして冷戦構造という状況で連邦国家としての安定も何とか保たれていました。しかし、冷戦が終わりソ連の圧力から解放されると、折からの不況と相まってユーゴスラビアを構成する各共和国の分離独立要求が高まります。政治的緊張は武力衝突に至り、ユーゴスラビアは混乱します。

 ベオグラードの芸大生、アナにしてみれば、政治は主たる関心の外側にあったに違いありません。しかし、冷戦が終わり、民族主義が勃興し政治的に落ち着いて音楽を勉強する状況ではなかったのだと思います。まるで、ワルシャワ音楽院に学んでいたショパンのようですね。若き天才は、一方で音楽を極めたいという情熱があり、他方で故国ポーランドをロシアの横暴から守りたいという思いの間で葛藤しましたが、パリへ向かった訳です。1830年11月のことです。

 時は流れて、1992年です。24歳のアナもまた、音楽の旅路を続けるために故国を出る決断をします。ベオグラードを出て向かった先は、モントリオールでした。

新天地モントリオール

 それでは何故モントリオールだったのでしょうか?

 カナダは多文化主義を標榜し多様性に溢れた国です。しかも、モントリオールは、これまで「音楽の楽園〜もう一つのカナダ」で紹介して来たとおり、音楽に溢れた街です。

 更に、歴史を紐解くと、20世紀初頭からユーゴスラビアからモントリオールへの移民が本格化します。モントリオールには、伝統的なフランス文化、カトリックの伝統、そして欧州的な都市の構造があり、大西洋の対岸という地理的近接性もあって、東欧からの移民にとっては適応しやすかったという面があります。また、冷戦が始まると、共産・社会主義に反発し政治的理由でモントリオールに来る知識人層や自由主義者も多かったといいます。そして、冷戦終結後の動乱の渦中、ユーゴスラビアから多数の移民が来た訳です。

 アナもそんなユーゴスラビアからの移民の一人でした。モントリオール大学・大学院に進学し勉強を続けます。ホセ・エヴァンゲリスタ教授に師事し修士課程で作曲を学びます。

飛翔

 音楽に溢れ多様で多彩な才能が競うモントリオールで、アナは瞬く間に頭角を顕します。ヨーロッパの古典的な音楽技法に加え、多民族国家ユーゴスラビアで培われたバルカン的なリズムとハーモニーは強い印象を与えたといいます。更に、アナにとっては、音楽は舞踏や演劇の不可分の一体であり続けています。そのアプローチは、舞台芸術としての広がりと可能性に満ちています。

 アナ・ソコロヴィッチの名を音楽界に知らしめた代表作、オペラ「結婚(Svadba)」には、彼女の音楽的エッセンスが凝縮しています。2011年、トロントで初演されました。完全アカペラによる歌劇です。オーケストラはおろか楽器は一切ありません。出演者は6人の女性歌手のみ。歌詞はセルビア語で、結婚式前夜の花嫁の儀式的な集まりを描いています。極めてシンプルな舞台設定で、全ては声と身体リズム(足踏み、手拍子、喘ぎ、擬音等)の人間が発する音で構成されています。声こそが最高の楽器であり、声の持つ無限の可能性を感じさせます。

 音楽は、変拍子を多用した独特なリズムや民族的な旋律でバルカン的な色彩に満ちた、結婚式前夜の女性だけの儀式を描いています。一方、主題は結婚です。人生の転機にあたり、友人との絆や結婚への一抹の不安といった普遍的かつ極めて人間的な要素を音楽で表現しています。

 更に、このオペラ「結婚(Svadba)」が高く評価されている理由がもう一つあります。それはリーズナブルな制作費です。例えば、ヴェルディ、ワーグナー、プッチーニ、モーツァルト等の本格的オペラの上演となると、膨大なコストがかかります。それらと比べれば、女性歌手6人のみのシンプルな舞台は、より幅広い聴衆に現代オペラの愉悦を提供できるのです。

 このオペラは、トロント初演の後、2015年1月にはフランスでリール上演。大きな反響を呼び、その後、欧州各地で上演されています。21世紀の室内オペラの最重要作品の一つと評価されています。

結語

 アナは、現在はモントリオール大学教授を勤めつつ、ケベック現代音楽協会の芸術監督でもあり、多彩な活動を続けています。オペラ、管弦楽、室内楽、更に器楽曲等の作品を発表しています。ユーゴスラビアからモントリオールに来て35年目です。偉大なるカナダの作曲家です。

 そして、アナ・ソコロヴィッチの音楽的冒険は未来に向かって進化しています。訪日もして欲しいですし、もっと録音もして欲しいところです。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「エド・ビッカート」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第44回

はじめに

 音楽ファンの皆さま、日加関係を応援頂いている皆さま、こんにちは。

 前回は、「新年明けましておめでとうございます」と御挨拶させて頂きました。が、瞬く間に時間が経ち、既に2月も後半です。私事で恐縮ですが、趣味のウォーキングを通じて、車窓からでは分からないオタワの街の四季折々の素晴らしさを実感しています。春は新緑、夏は青空、秋は紅葉。そして、冬は雪景色の純白が非常に印象的です。

 オタワの雪を毎日見ていますと、村上春樹の最新長編「街とその不確かな壁」を思い出しました。第2部では、主人公の「僕」は福島県の山間部にあるZ**町の図書館長になり、町のコーヒーショップを頻繁に訪れるのですが、そこでデイブ・ブルーベック四重奏団の演奏が流れている場面があります。そして、この四重奏団のサウンドの核心がポール・デズモンドのアルト・サキソフォンです。村上春樹は若い頃ジャズ喫茶を経営していたことがあり、巨大なジャズ愛を持っていて、デズモンドのアルトを穏やかで静かな空間を演出する上品なジャズとして描写しています。

 さて、前置きが長くなってしまいましたが、ここからが「音楽の楽園」です。何故、米国人ポール・デズモンドについて記したかと言えば、彼の代表作で自らの名を冠した1975年の名盤「ポール・デズモンド」はカナダの誇る燻銀ギタリスト、エド・ビッカート無しには成立し得なかったからです。実際に、デズモンドはライナーノートで「この音盤はエドのアルバムだと思っている。本当に」と述べています。知名度で言えば、オスカー・ピーターソンやダイアナ・クラールに遠く及ばないものの、エド・ビッカートは、カナダのジャズ史において特別な地位を占める音楽家です。

 という訳で、今回は、エド・ビッカートです。

カナダ的な極めてカナダ的な

 エド・ビッカートの来歴を辿ると、彼は、実にカナダ的な家族から登場して来たことが分かります。旧約聖書も預言者の来歴を詳細に描くことから始まっていますが、それに習い、ここでもエド・ビッカートの両親から始めたいと思います。少々細かい事を書きますが、どうぞお付き合い願います。

 まず、エドの父親、ハリー・ビッカートについてです。

 ハリーは、旧ソ連のウクライナ共和国モロスチナ・コロニー出身のメノナイトでした。メノナイトとはキリスト教再洗礼派(アナバプティスト)の一派で、16世紀の宗教改革期にドイツ・オランダで生まれ、非暴力にして質素な生活を旨とする信仰共同体です。17〜18世紀、多くのメノナイトがロシアに集団移住しました。更に、時代が下り、19世紀後半、ロシア在住のメノナイトは北米へ移住。20世紀に入り、特にロシア革命後は、カナダへの集団移住が増加します。

 と言うのも、1920年代のカナダは、未だ大英帝国の自治領でしたが、第一次世界大戦で多大な犠牲を払いつつも主権国家へと力強く歩み始めます。平原州マニトバは極寒の地でしたが、農業技術の飛躍的発展と鉄道網の整備で、発展著しい地でした。カナダ政府も国家建設の観点から積極的に移民を受け入れました。そして、メノナイトを含めウクライナから多くの移民が新天地マニトバにやって来たのです。特に、州都ウィニペグから南へ120km、米国ノースダコタ州との国境の街スタンリーには農業を中心としたメノナイトの自治地区が生まれていました。ハリー・ビッカートもそんなウクライナ系移民の一人でした。但し、一つだけ他のウクライナ移民と異なっていたのは、ハリーがヴァイオリンの名手だということでした。メノナイト共同体の中でヴァイオリン奏者として活躍したと云います。

 そんな中、ハリーは、スタンリーの隣街プラム・クーリー出身のヘレン・ディック嬢と出会います。彼女は、オランダ系のメノナイトで、ピアノの名手でした。二人は恋に落ち、結ばれますが、それは極めて自然な成り行きであったのでしょう。そして、1932年11月、父ハリーと母ヘレンの間に、エドが誕生します。

 子を授かったビッカート家は、程なくしてマニトバ州スタンリーからブリティッシュ・コロンビア(BC)州カナディアン・ロッキー山脈の奥深い街ヴァーノンへと転居します。その地で、ビッカート家は養鶏農場を営むことになるのです。同時に、ヴァイオリンの名手ハリーとピアノの名手ヘレンは、農場経営の傍ら、カントリー・ダンス・バンドを組み、地元で音楽活動を始めます。地元のエド少年は、音楽に溢れた家庭ですくすく育ちます。

ギターとの出会い

 1942年、エド少年10歳は生涯の楽器となるギターと出会います。兄が持っていたギターを手に取ったのが最初だったといいます。父はヴァイオリン、母ピアノなのに、何故、エド少年はギターだったのでしょうか?たまたま兄が持っていたという偶然だったかもしれませんが、その後のエド・ビッカートの成功を知っているので、どうしても運命の出会いと言い切ってしまいたくなります。そこで、ヴァイオリンとピアノとギターという3つの楽器について少々考えてみましょう。全くの私見ですが、ギターは、弦楽器としてのヴァイオリンの特性と和音楽器としてのピアノの特性を併せ持つ唯一の楽器なのです。その意味では、ヴァイオリン奏者の父とピアニストの母の息子がギターで道を拓いたのは必然とすら言えるように思います。

 ヴァイオリンの最大の特徴は、弦を押さえる指と弓を引く指の絶妙な操作と力加減で、ヴィブラートやポルタメント、フラジオレット等々それぞれの奏者に固有の多彩な音色や表情を生み出せることにあります。しかも何処へでも持ち運べます。但し、特殊奏法はありますが、ヴァイオリンは基本的に短音楽器で、それ自体ではハーモニーを奏でることには限界があります。

 一方、ピアノの最大の特徴は、多数の鍵盤を弾くことで、同時に主旋律も対旋律も、和音も重低音も奏でることが出来ますし、リズムを刻むことも可能です。1台のピアノで音楽を完結できるのです。但し、一つ一つの音色は決まっていて、極端な話、猫でも赤ちゃんでも音大生でも著名なピアニストでも、同じ鍵盤を押せば基本的に同じ音が出ます。勿論、楽曲を弾けば、運指の速度、強弱、微妙なタッチの差、更にペダルの使用で個性的にして豊穣な音楽が生まれる訳ですが。そして、ピアノの最大の弱点は、楽器として完璧であることの裏返しで、持ち運び出来ないことにあります。

 そこで、ギターですが、“小さなオーケストラ”と呼ばれるように、6本の弦を制御することで、ピアノのように同時に主旋律も対旋律も和音も重低音も弾けるのです。同時に、ヴァイオリンのように、弦を絶妙に制御することでヴィブラート等の豊かな表情や音色を生み出せます。コード・カッティングではリズム楽器と化します。しかも持ち運びが容易。強力な楽器です。

 エドは、音楽一家のDNAを伝承し、ギター少年になります。これは運命です。

ギター少年の誕生

 ギターを手に取ったエド少年は、瞬く間に上達したそうです。やがて、両親のカントリー・ダンス・バンドに参加するようになります。モーツァルトやベートーヴェンを筆頭に数多のヴァイオリン・ソナタが作られたことに端的に現れているとおり、ヴァイオリンとピアノは良き音楽をつくる上で2つの楽器のコンビネーションとして完璧です。が、そこにギターが加わる意味は何処にあるのでしょうか?リズムの強化です。一層力豊かな音楽を奏でることを可能とするのです。ダンス・バンドの任務は、客を踊らせることにあります。エドの参加は、ビッカート家のダンス・バンドを、踊るという観点でより魅力的な楽団へと押し上げました。

 同時に、エドは、ダンス・バンドを通じて生きた音楽を学びました。客を前に演奏することで、何が客を刺激するのか、頭よりも先に身体が踊り出したくなるような音楽の核を体得するのです。極論を言えば、太古の昔から音楽の核には舞踏がありました。バッハの傑作「フランス組曲」や「イギリス組曲」も基本はダンスのための音楽です。その系譜にあるのが、ブラームス、ガーシュイン、グレン・ミラー、ビートルズ、マイケル・ジャクソンらです。要するに、素晴らしい旋律、ワクワクするハーモニー、そして刺激的なリズムの融合が、客の胸を掻きむしり、踊り出したくなるのです。これこそ、ギター少年エドが両親のダンス・バンドで学んだことのエッセンスです。

 そして、ギター少年は、ジャズの洗練を受けます。20世紀に生まれた新しい音楽、ジャズの核心は自由です。制約はありません。エドは、ハーモニーの面で天性のセンスにますます磨きをかけます。同じ旋律でも、エドが伴奏すれば、魔法にかかったようにお洒落な響きに化けるのです。

 後年、インタヴューで「自分は、生まれながらのサイドマンだ」と語っていますが、その意味するところは、主旋律を際立たせる時に、エドのギターが最も輝くということです。その原点は、両親のダンス・バンドでギターを弾き始めた時にあるのです。

 長じて、18歳になると、地元ヴァーノンのラジオ局の音響技師として職を得ます。が、ギタリストとして、己の腕を試したいと思うのです。が、地元ヴァーノンは余りに小さな街でした。

 20歳になると、カナダの音楽業界の一大中心地トロントへと旅立つのです。自信と不安が交叉するエド青年の心境はどんなだったでしょう。

トロント〜挫折と鍛錬、そして秘宝へ

 世に“井の中の蛙”と言います。カナディアン・ロッキーの田舎ヴァーノンでは最高のギタリストだったエド。しかし、トロントに到着して程なくして、この街の音楽シーンには凄い才能の持ち主が数多いることを知るに至ります。自信喪失だったのかもしれません。自分は未だ準備ができていないと悟ります。2年余にわたり人前ではギターを弾かなかったと言われています。

 一方、大都市トロントで生きていくためには、仕事をしなければなりません。エドは、トロントのラジオ局でサウンド・エンジニアの職を得ます。但し、音楽の道を諦めた訳ではなかったのです。ラジオ局の技師として働く傍ら、仲間内のセッション等で、新しい技法を学び、腕を磨きます。いつの日か、ステージに登りスポットライトを浴びることを夢みていたのでしょう。

 そして、1955年、エドは、トロントの音楽シーンに鮮やかに登場します。サックス奏者ジミー・アマロの楽団のレギュラーとなります。音楽業界では、徐々にエドのギターに注目が集まり始めます。「俺様が、俺様こそが・・」と自己主張の強いジャズの世界にあって、生まれながらのサイドマンとして共演者の演奏を際立たせることに威力を発揮するエド。いよいよ、エド・ビッカートの時代の幕開けです。

 25歳の時、モリス・コフマン楽団のレギュラーに招かれます。コフマンは、カナダが生んだジャズの巨人で、サックス奏者・フルート奏者にして作曲家、バンド・リーダーです。エドが参加して録音した「スゥインギング・シェパード・ブルース」はビルボード誌チャート23位のスマッシュ・ヒットとなります。このヒットは、3つの意味で意義深いです。まず、カナダ発のヒットであること。そして、トップ40に歌のない演奏だけの曲がランクインするのは非常に珍しいのです。その後、ハービー・マンはじめ多くのアーティストにカバーされるようになる時代を画す名曲です。

 この後、エドは、スタジオ・ミュージシャンとして、数多くのアーティストの録音に招かれると同時に、ラジオやテレビの仕事も増えます。ディジー・ガレスピー、ベニー・カーター、バディー・テイト等々、ディスコグラフィーは大変に充実しています。多くのアーティストが、エドと一緒に録音するためにトロントに来るようになります。正に、トロントの秘宝になったのです。

結語

 冒頭に述べた、ポール・デズモンドの音盤へのゲスト参加は、エド・ビッカートのギターの素晴らしさを雄弁に語る演奏です。的確なリズム感、柔らかく美しい音色、旋律を生かす優れたハーモニー。ジャズ・ギターの最高峰と言って良いでしょう。勿論、エドの名前を冠した彼自身のリーダー作「エド・ビッカート」も隠れた名盤ではあります。しかし、率直に言えば、他のアーティストのリーダー作をサポートする時にこそ、エドの魅力が全開するように感じます。稀有な存在です。

 「三つ子の魂、百まで」とも言います。カナディアン・ロッキーの街ヴァーノンで地元のお客さんが踊るのを音楽でサポートした日々。両親のバンドでギターを弾き、客が上機嫌で踊る時に、感じたに違いない混じり気のない喜び。エド・ビッカートを聴くと、幾つになっても彼の奏でるギターにはそんな素朴な喜びが宿っていると感じます。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「ゴードン・ライトフット」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第43回

はじめに

 音楽ファンの皆さま、日加関係を応援頂いている皆さま、遅ればせながら、新年明けましておめでとうございます。

 2026年がスタートして早くも3週間が経ちました。新年早々のトランプ政権のベネズエラへの軍事攻撃と大統領拘束は、世界に衝撃を与えました。一気にお屠蘇気分が醒めた人も多いと思います。我々は歴史の転換点に生きているのではないかと感じる今日この頃です。後世の歴史家が2026年1月をどのように位置付けるのか興味が尽きません。

 それはさて置き、日々の生活は続きます。陰に陽に国際情勢の影響を被りながらも、2026年が、読者の皆様にとって健やかな年となるように祈念しつつ、皆様の更なる御活躍と御健勝を願っております。

 新年のご挨拶はこれぐらいにして、音楽です。

 今月は、カナダの伝説的シンガー・ソングライター、ゴードン・ライトフットです。彼が2023年5月1日に逝去した際には、カナダ最大の新聞グローブ&メール紙が特集を組みました。ジャスティン・トルドー首相も公式コメントを発出しました。曰く「カナダの最も偉大なシンガー・ソングライターの一人で、その訃報を深い悲しみをもって受け止めている。彼の作品はカナダの精神を捉え、国の音楽的伝統を形成した。カナダの音楽的遺産として永遠に残るであろう。」

 正に、カナダの国民的な歌手が追悼される様子を目の当たりにしました。

最初の出会い

 私がゴードン・ライトフットという名前を知ったのは、長崎県の地方都市・佐世保の中学1年生の頃でした。当時は、多くの同級生と同様に「オールナイト・ニッポン」や「こんばんは、落合恵子です」等の深夜放送に完璧にハマってしまいました。午前1時から始まる「オールナイト・ニッポン」を聞くと、翌朝は、睡眠不足で大変でしたが、深夜放送で流れてくる洋楽(現在は死語ですね)に胸が震えました。そんな洋楽アーティストの一人がゴードン・ライトフットでした。

 彼の代表曲“心に秘めた想い(原題: If You Could Read My Mind)”は、田舎の中学生をノックアウトしました。SONY製のTHE11という当時最新の3バンド・ラジオで聴く異国の歌は今も胸の奥で鳴っています。実は、歌詞は全く分かりませんでした。仮に英語が出来ていたとしても、恋愛の機微や男女の想いのすれ違いのニュアンス等は全く理解できなかったに違いありません。ですが、アコースティック・ギターが奏でるアルペジオの響きと語りかけるような歌声、何よりも美しい旋律に魅了されたのを鮮明に憶えています。それにしても、英語の微妙なニュアンスを示す素敵な邦題ですね。最近は、原題を単にカタカナ表記するものばかり。当時の洋楽ディレクターは偉かったですね。

 と言うものの、中学生の頃は、ゴードン・ライトフットがカナダ人ということは全く知りませんでした。というか、洋楽のアーティストの国籍には、ビートルズとサイモン&ガーファンクルを除いて、無頓着な田舎の少年だったのです。

 そして、高校生になる頃には、私の関心はよりハードでプログレッシブなロックに移っていきました。ジャズも聴き始めました。フォーク・ミュージックを基調とするゴードン・ライトフットのようなシンガー・ソングライターの音楽からは離れて行きました。

ゴードン・ライトフット再発見

 齢を重ね、様々な音楽体験を経て、ゴードン・ライトフットを再発見したのは、私がオタワに着任してからです。正直に言えば、カナダは8000km余の国境で接する米国の圧倒的な影響下にあるに違いないと私は思い込んでいました。しかし、着任直後から、米国とは異なるカナダの文化やスタイルを実感するようになりました。そんな中で、改めてゴードン・ライトフットの音楽に触れた訳です。

 放蕩息子の帰還ではありませんが、刺激溢れる前衛の音楽を浴びた後で聴くゴードン・ライトフットのナチュラルな音楽は胸に沁みました。虚飾もギミックも無い素顔の歌。しなやかさと優しさの中に潜む力を感じさせます。カナダという国の個性が彼の歌に滲み出ているようです。

 その頃の最新音盤が「ソロ」でした。前作「ハーモニー」から16年ぶりの新譜で、20枚目のスタジオ録音盤。ちょうど新型コロナの感染爆発が拡まった2020年3月にリリースされました。81歳のゴードン・ライトフットが現在進行形で刻まれています。全10曲は全て自身の作詞作曲で、表題どおり生ギターだけの弾き語りです。シンプルこの上ありません。若い頃の声と比べれば、加齢によるスモーキーな濁りはありますが、明瞭なバリトンの美声は十分に維持されています。何よりも、ライトフット節と呼ぶべき、美しい旋律が健在です。最近の音楽業界では、リズムを強調したラップ・ミュージック全盛という感がありますが、ここには本物の歌が息づいています。

 しかし、誠に残念ながら、最新盤「ソロ」が遺作となってしまいました。

訃報と弔辞

 2023年5月1日、ゴードン・ライトフット逝去は、多くのファンに深い悲しみを与えました。自然死と発表されたので、彼の寿命だったのかもしれません。ですが、84歳にして現役で、コンサート・ツアーも予定されていました。天国に召されるには若過ぎました。

 そして、訃報に接して、多くの大物ミュージシャンが心のこもったメッセージを発出しました。ゴードン・ライトフットの音楽が如何に素晴らしく人々の胸に沁みていたのかを如実に伝えています。

「セルフポートレイト」ボブ・ディラン
「セルフポートレイト」ボブ・ディラン

 ボブ・ディランは「ライトフットの曲に嫌いな曲なんて思いつかないね。かれの曲を聴くたびに、永遠に続けばいいのにと思うような感じだ…ライトフットは長い間、俺にとって師匠(mentor)だった。たぶん今もそうだと思うよ」と自身のウェブサイトで表明しています。実際、他人の曲をカバーすることの殆どないディランですが、1970年の傑作「セルフポートレイト」には、ライトフットの曲“Early Morning Rain”を収録しています。

 ビリー・ジョエルは、自身のインスタグラムに“If You Could Read My Mind”をピアノで弾き語っている動画をあげ、追悼の意を示しています。古今東西の名曲は、如何なる編曲で奏でられても素晴らしいものです。ビリー・ジョエルのヴァージョンは、曲の骨格を見事に浮き彫りにし、美しさを際立たせています。ピアノの名手のジョエルならではです。フレッド・シュルアーズ著「イノセントマンーービリー・ジョエル100時間インタヴューズ」には、ゴードン・ライトフットの歌唱法から影響を受けたことが記されています。また、やんちゃな若き日のアシッド・トリップで、激しくラリった後で、ゴードン・ライトフットを聴いて心の安寧を取り戻した旨の記述もあります。かつてラジオ番組で、ライトフットに会いたいとも語っています。

 また、同郷のシンガー・ソングライター達も胸に残るコメントをしています。ニール・ヤングは「カナダは偉大な詩人を失った」と述べました。ジョニ・ミッチェルもライトフットを「ソングライターの中のソングライター」と評し、彼の曲の物語性と旋律美に敬意を表しました。ブライアン・アダムスは「私たち全員の道を切り拓いた」と強調しました。

 実は、ブライアン・アダムスのこのコメントは、シンガー・ソングライターの世代についての極めて的確な指摘です。と言うのも、ゴードン・ライトフットは、1960年代後半から顕著な活躍を示す一連のシンガー・ソングライター達よりも数年早く誕生し、いち早く音楽活動を開始し、道を切り拓いたパイオニアだからです。

音楽の旅路〜前哨戦

 ゴードン・ライトフットは、1938年11月、オンタリオ州南部のシムコー湖畔の街オリリアに誕生しました。ここは、4000年前から先住民のヒューロン族やイロコイ族が暮らしていました。いわば、カナダの心の故郷とも言うべき街です。両親はスコットランド移民の家系で、クリーニング店を経営していました。

 そして、母親ジェシーが未だ幼かったゴードン少年の素質を見抜いたといいます。地元の聖パウロ合同教会の聖歌隊に入ると、音楽監督を勤めていたレイ・ウィリアム師から音楽の基礎を教わります。当時を振り返って、ライトフットは、心の内に湧き上がる様々な感情を如何に歌に反映させるかについて実に多くの事を学んだ旨述べています。三つ子の魂百までということでしょうか。

 そして、ライトフットは聖歌隊で活躍します。地元のラジオ局の番組でオペラやオペレッタの楽曲を歌うようになります。12歳の頃のことです。変声期前のボーイソプラノでコンクールに出場し、見事に優勝しました。その副賞がトロントの音楽の殿堂マッセイ・ホール(連載第18回参照)でのコンサート出演でした。ライトフットは、その生涯でマッセイ・ホールで170回も公演していますが、これが初のマッセイ・ホール体験です。

 母親の眼力はさすがです。その後、ピアノ、ギター、ドラム等の楽器も独学でマスターしていきます。やがて、聖歌隊の世界だけでは満足できなくなります。19世紀の米国の作曲家、ステファン・フォスターの音楽に傾倒していきます。フォーク・ソングやカントリー・ミュージックを歌うようになります。高校生になる頃には、避暑地として有名なオンタリオ州ムスコカ(2010年のG8サミットも開催された街)でも観光客を前に様々な場で歌うようになります。

 高校を卒業すると、ライトフットはロサンゼルスのウエストレイク音楽院に進学します。ここでは、ジャズ、作曲、編曲を専攻しました。ライトフットの音楽の幅が一段と拡大します。そして、いよいよ、職業的音楽家への道が拓きます。

飛翔

 2年間のロサンゼルス留学を終えて、ライトフットはトロントに戻ります。1960年のことです。本当は音楽業界の中心ロサンゼルスで名乗りをあげたかったに違いありません。ある種、夢破れた傷心の帰郷だったのかもしれません。しかし、ライトフットは、苦さも甘さも学んだ上で、地元トロントで歌手として本格的な活動を開始します。最初はフォーク/カントリー系のコーラス・グループに参加して頭角を顕します。地元レーベルからシングル盤もリリースします。が、この段階ではトロント圏内の新人でした。

 転機は、1963年に訪れます。1年間にわたり、ロンドンに遠征し、BBCテレビのカントリー番組のホストを勤めます。その間、人気デュオ、イアン&シルビアに自作曲を提供しソングライターとしての評判を高めていきます。特に“Early Morning Rain”は、カナダ・チャートで首位になります。ピーター・ポール&マリーのヴァージョンも米国でスマッシュ・ヒットします。エルビス・プレスリーらへも楽曲提供していくことになります。知る人ぞ知るカナダの才能が開花していきます。但し、花開いたのは米国でした。ボブ・ディランの敏腕マネージャーとして知られたアルバート・グロスマンこそライトフットの巨大な才能の発見者でした。

 1966年1月、遂に記念すべきデビュー盤「ライトフット!」がリリースされます。実は、この音盤は1964年にニューヨークで録音されていたものの御蔵入り状態だったのです。が、グロスマンの働きで、ライトフットがニューポート・フォーク祭で演奏し、人気TV番組ジョニー・カーソン・ショーにも出演したことで、音盤リリースに至ったのです。御蔵入りしていたとは言え、その内容は今聴いても古臭くありません。収録された全14曲のうち11曲はライトフットの自作曲です。上述の“Early Morning Rain”も聴けます。

カナダの精神を刻む音楽

 1967年4月、第2弾「The Way I Feel」がリリースされました。特に、注目すべきは“Canadian Railroad Trilogy”です。この曲は、CBC(言わばカナダのNHK)から委嘱された特別な曲です。1967年はカナダ建国100周年の記念すべき年ということで、それに相応しい歴史を描写する希望と誇りに溢れる力強い曲が出来上がった訳です。6分22秒という長尺です。日本の27倍の広大な国土が東西は大西洋岸から太平洋岸に広がり、北は北極海に面する若い国家カナダの統合を象徴するのが鉄道のネットワークでした。1885年に大陸横断鉄道が完結しました。ライトフットは、そんなカナダ建国と鉄道の絆を歌い上げたのです。CBCが100周年に際して委嘱した音楽家がライトフットであったという事実は、ライトフットが真に国民的な歌手だということを端的に示しています。カナダの精神を刻む音楽です。必聴です。

結語

 ゴードン・ライトフットが没して既に3年近くが経過しました。世に『去る者日々に疎し』と言います。しかし、如何に歳月を経ても風化することのない本質というものがあります。カナダの心情と歴史を描き人々の心に深く沁みるライトフットの歌は永遠です。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「アンジェラ・ヒューイット」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第42回

はじめに

 音楽ファンの皆さま、日加関係を応援頂いている皆さま、こんにちは。

 12月と言えば「しわす」。師走です。万葉集の頃からある言葉です。語源には諸説ありますが、学術的には古語の「しはす」説が有力との見方があります。漢字で書くと「為果つ」。事を終えるという意味で、一年の事が果てる月という趣旨だそうです。但し、「としはつ=年果」或いは「せわし=忙」等もあります。一般的には、「師(先生)も走るほど忙しい」が広がっていますが、後付けの説のようです。

 いずれにしても、激動の1年を締め括る12月は大変に忙しいです。日本に限らずオタワでも眼の廻る忙しさです。クリスマス前に溜まった仕事を終わらせたいという思いは、大晦日までに決着させたいという覚悟と同じで、そのような発想は洋の東西を問わないようです。

 そこで音楽です。多忙な12月に聴きたい音楽と言えば、俗世の現実とは別の次元で、心を落ち着かせ、人生は素晴らしいと感じさせてくれる調べです。音楽は、極めて個人的・主観的なものですし、人の好みは分かれるものです。が、私はヨハン・セバスチャン・バッハを聴いています。そこには、虚飾を排した音の連なりが生む、言葉を超えた美しさがあります。BWV(バッハ作品目録)で整理されている楽曲1071曲は、深遠なる音楽の宇宙です。1オクターブの中にある12個の音の順列組合せが生む無限の可能性の扉を開いたのがバッハです。1685年3月31日に神聖ローマ帝国(現代のドイツ)アイゼナハに生まれ、1750年7月28日にライプツィヒに65歳で没し、生涯ドイツから出たことがなかった男です。その後クラシック音楽のみならず、20世紀以降のハード・ロックやプログレッソ・ロック、フォーク、更にはジャズにもバッハが響いています。

 さて、前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。現代を代表するバッハ弾きについてです。世界中の名だたるピアニストでバッハをレパートリーにしない演奏家はいません。しかし、アンジェラ・ヒューイットこそが現代最高のバッハ演奏家と言って過言ではないでしょう。ヒューイットは、1958年7月オタワ生まれ。オタワの、いやカナダの誇りです。

 ということで、今回の「音楽の楽園」は、アンジェラ・ヒューイットです。

美しい音

 「速く弾いたり大きな音を出せる人はたくさんいるけれど、美しい音を出せる人はそうそういません。」

 ヒューイットが『王子ホールマガジン』とのインタビューで語った一節です。耳と心で美しい音を感じ、和音を弾く時もそれぞれの音のバランスに細心の注意を払い、ひとつ一つの音に歌わせ、トーンの質を保つことがピアノ演奏の極意だと述べています。既に膨大な録音を残していますが、1986年にドイツ・グラモフォンからリリースした国際的デビュー音盤「J.S.Bach・Angela Hewitt」こそヒューイットの原点とも言える録音です。ここには、彼女が追求し続ける“美しい音”が溢れています。

神童、オタワに現る

 “美しい音”を奏でるアンジェラ・ヒューイットの来歴を辿ります。

 まず、父ゴッドフリー・ヒューイット。英国はヨークシャー出身の音楽家で、1930年、24歳の頃、カナダに移住にします。そして、オタワ中心部の連邦議会や最高裁判所の所在する一角にあるクライスト教会大聖堂の聖歌隊監督にしてオルガン奏者となります。50年間にわたりこの職にあったそうです。因みに、ここは未だオタワがバイタウンと呼ばれていた1832年に設立されたオタワで最古の由緒正しき教会です。

 母マーサは、1914年生まれのカナダ人でピアニスト兼ピアノ教師です。ゴッドフリーにオルガンを習っていたそうです。それが二人の出会いだったのでしょう。

 アンジェラ・ヒューイットは、この両親の下、1958年7月にオタワに誕生します。父52歳、母44歳の高齢出産でした。家庭内には常に音楽が流れていたそうです。2歳でおもちゃのピアノを買い与えられ、3歳になると本物のピアノで母からレッスンを受けるようになります。親に言われて嫌々練習するのでは全くなく、アンジェラの方から教えて欲しいとせがみ、毎日、ピアノに向かっていて、ピアノを弾いていない頃を憶えていない程だと云います。

 世に、“好きこそものの上手なれ”と云いますが、アンジェラは4歳にして初めて公開演奏を行います。

 この幼少期について、アンジェラは振り返ってコメントしています。「母は、私にとって最初の、そして最良の先生だった。厳しくも優しく、私に音楽の“神聖さ”を教えてくれた。」と述べています。

 そんな偉大な母ですが、アンジェラが6歳になる頃には、早くも母の重力圏を越え始めます。2週間に1度、オタワから電車とバスを乗り継ぎ5時間余をかけてトロント王立音楽院まで通い、本格的なレッスンを受けるようになります。更に、ヴァイオリンとリコーダーも学びます。音楽の奥義への探求の始まりです。

 9歳の時には、同音楽院で本格的なリサイタルを開くほどに超速の進化を遂げます。

 15歳でオタワ大学音楽学部に進学し、ジャン=ポール・セビル教授に師事。

 17歳になると、満を持して各国のピアノ・コンクールに出場するようになり、その名を北米、更に欧州へと知らしめていきます。

ショパン国際ピアノ・コンクール

 バッハ弾きとし名を成しているアンジェラですが、実は、古典派からロマン派の作品まで多彩なレパートリーを誇っています。そして、その実力は瞬く間に証明されていきます。

 コンクール出場を始めた1975年、17歳の時には、ニューヨーク州バッファローで開催されたショパン・ヤング・ピアニスト・コンクールとワシントンD.C.でのバッハ・コンクールで優勝。20歳の時、地元のCBCラジオ音楽コンクールのピアノ部門で優勝。21歳で、ロベール・カサドシュ国際ピアノ・コンクール(旧クリーブランド国際ピアノ・コンクール)で3位。

 22歳となった1980年は、まず、イタリアはミラノで開催されたディノ・チアーニ・ピアノ・コンクールで優勝します。そして、5年に1度のショパン・コンクールに出場しました。

 この年のショパン・コンクールは10回目となる節目で、センセーショナルな大会として長く語り継がれています。ベトナム人ピアニスト、ダン・タイ・ソンがアジア人で初めて優勝する一方、革新的な演奏で最有力候補と前評判の高かった天才ポゴレリチは最終選考に残らず落選。彼の革新性を高く評価していたアルゲリッチは、この結果に抗議し審査員を辞任する騒動となりました。最高レベルでの音楽評価の多様性と主観性を赤裸々に示しました。4位は該当者なしで、5位に日本の海老彰子が入賞しました。実は、アンジェラはこの大会で入賞した訳ではありません。しかし、ショパン特有のテンポ感を再現しつつ旋律を“美しい音”で歌わせたアンジェラは聴衆から圧倒的な喝采を浴び、名誉賞(Honorable Mention)が与えられました。

 いよいよ、世界へ羽ばたく準備が整って来た感がありますが、もう一つの極めて重要な節目がアンジェラを待っていました。

トロント国際バッハ・ピアノ・コンクール

 1985年、アンジェラ27歳の年です。各国のピアノ・コンクールに出場し始め10年が経っていました。

 この年は、バッハ生誕300年の記念すべき特別な年でした。そこで、カナダ・バッハ協会(Canadian Bach Society/ Société Bach du Canada)が企画・主催した特別なプロジェクトが「トロント国際バッハ・コンクール(Toronto International Bach Piano Competition)」でした。カナダ・バッハ協会の狙いは、バッハ作品に関する学術的な研究を深めると同時に演奏の質の向上にありました。技巧を競うというよりも、解釈の誠実さが重視されたコンクールでした。これは、とてもアンジェラ向きだったと言われています。

 アンジェラの演奏は、現代音楽の巨匠オリヴィエ・メシアンを筆頭とする審査員団から絶賛されました。特に次の3つの点です。①バッハの構造を知悉し、各声部が明確で、対位法が『見える』と評されました。②テンポも自然で、当時はバッハが舞曲として作曲していたことを改めて想起させたのです。③装飾音も極端に触れず節度をもって楽曲を彩りました。

 要するに、アンジェラは、過度に思いが込められたロマン主義的バッハでもなければ、乾いた学術的古楽主義的バッハでもない、独自のスタイルで演奏したのです。知る人ぞ知る存在だったアンジェラがバッハ弾きとしての特別な地位を得た瞬間です。この時から30年前の1955年に、カナダ人グレン・グールドが「ゴールドベルグ変奏曲」を引っ提げて彗星の如く登場したのを思い出させます。

 そして、コンクール優勝の副賞こそ、“美しい音”の原点でもある上述のドイツ・グラモフォンへの録音でした。1986年にリリースされたこの国際的デビュー盤には、審査員が絶賛したアンジェラの3つの資質が鮮やかに刻まれています。世界がアンジェラを聴き始めたのです。

バッハ全曲録音

 閑話休題ですが、エジソンが録音・再生装置を発明する以前は、音楽が奏でられている場に行かなければ音楽を聴くことはできませんでした。しかし、現在は、スマホ等で気軽に音楽を聴くことが出来ます。演奏する側も自主録音をSNSにアップして世に問うことが出来ます。便利な時代になりました。とは云え、ピアニストに限らず音楽家が世界水準の上質の音楽を奏でて、世界のリスナーに聴かせたいと本気で考えるならば、信頼のおけるレコード会社との契約が不可欠です。

 ここで重要なのは信頼です。では、信頼とは何でしょうか?音楽家が真に納得するクオリティーの録音を確保し、会社の持つ販売網を通じてリスナーに届けると同時に、会社として持続可能な利潤をあげ、音楽家にも充分な報酬を支払うということです。会社である以上、儲けなければなりません。しかし、音楽性を犠牲にして売れれば良いという訳ではありません。一方、音楽性にこだわり過ぎてもいけません。非常に微妙なバランスで成り立っているのです。

 で、アンジェラです。1994年、英国の独立系の雄、ハイぺリオン(Hyperion)社と専属契約を結びます。ハイぺリオン社は1980年創業の独立系で、その名はギリシア神話に登場する神々の1人ヒュペリーオーン(太陽神)に由来します。クラシック音楽専門で、大会社には決して出来ない企画に果敢に取り組んでいます。アンジェラとハイペリオンは、オルガン曲を除いて200曲を超えるバッハの鍵盤楽曲の全てを録音しました。快挙です。幼少期よりバッハには特別な愛着を感じて来たアンジェラにとっては最高の夢でしょう。そんな夢を抱くピアニストは数多いると思いますが、夢を実現するためには、途方もない探求と鍛錬が不可欠です。レコード会社からすれば、バッハ全曲録音を託すことの出来るピアニストはごく僅かです。ハイペリオンとアンジェラは相思相愛でした。1994年から2018年まで、24年間をかけて、オルガンを除く、バッハの鍵盤楽曲の全曲録音を行ったのです。ゴールドベルグ変奏曲、平均律クラヴィーア曲集、インベンションとパルティータ、フランス組曲、イギリス組曲、更には協奏曲集等です。

 同時並行的に、『バッハ・オッデセイ』と銘打った企画で、バッハの鍵盤楽曲の全曲演奏を各国のライブを積み重ねて達成しました。これは2016年の日本公演から始まったそうです。日本とカナダの素晴らしい文化交流の一つと言えるでしょう。

結語

 アンジェラ・ヒューイットは当代唯一の「バッハ弾き」としての名声を得て、演奏旅行で世界を飛び回っています。「バッハ弾き」と称されることは、大変な名誉なことだとアンジェラは言っています。バッハは音楽的素養と技術を極めて高いレベルで求められるし、それ以上の音楽は考えられないとも語っています。しかし、アンジェラのディスコグラフィーを見れば、決してバッハだけではありません。スカルラッティー、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン等々本当に多岐にわたります。最近は、ピアノ独奏に加え、オーケストラとの協奏曲や室内楽にも取り組んでいます。正に、天才は多彩にして多作を地で行っています。

 最後に、アンジェラは演奏家としてだけでなく湖畔の興行主としての活動も行っています。彼女はロンドンを拠点としていますが、2002年にイタリア中部のウンブリア州トラジメノ湖畔の町マジョーネに土地を購入しました。この町には15世紀に出来た由緒ある大聖堂と庭があります。その庭に一目惚れして、2005年から、毎夏にバッハを軸とした室内楽主体の音楽祭を開催しています。湖畔の静かな雰囲気がバッハの音楽に必要な集中力と呼吸と親密な雰囲気を与えてくれると云います。勿論、アンジェラも演奏しますが、主催者として音楽祭を盛り上げています。

 自由と多様性と包摂性がカナダの美徳です。オタワで生まれ育った神童が世界で大活躍しています。カナダ贔屓としては嬉しい限りです。上述のバッハ鍵盤全曲録音は、CD27枚組のボックス盤として遂に完成し、2026年1月にお目見えする予定です。待ち遠しいです。更に、その先にどんな音楽の桃源郷を見せてくれるのか、本当に楽しみです。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「オードリー・オチョア」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第41回

はじめに

 音楽ファンの皆さま、日加関係を応援頂いている皆さま、こんにちは。

 11月は、MLBワールド・シリーズ最終戦とともに始まりました。息を呑む白熱した試合は、日付を超えて、延長11回にまで縺れ込みました。私はと言えば、ブルージェイズの野球帽を被り、背番号27番ゲレーロJrの公式ジャージを着込んで、オタワ・ダウンタウンのスポーツバーの大画面を前に同僚達と精一杯応援しました。優勝にあとちょっとというところで、非常に残念ながら、ワールド・チャンピオンを逃しました。試合後に帰宅する際の体感温度は氷点下でした。

 そして、今(11月9日午後5時)、この原稿をオタワ空港で書き始めました。G7外相会合の開催されるナイアガラ・オン・ザ・レイク出張に向かう途上なのですが、今季初の積雪で、航空便が大幅に遅れています。その時間を活用している訳です。

 正に、冬到来です。日没時間も早く、夜がどんどん長くなっていきます。そんな冬の寒い夜には、トロンボーンが良いです。時に、過剰な程に熱量を発散するラテンのリズムに乗った温かい音色が気分を解してくれます。そこで、今回は、トロンボーン奏者にして作編曲家のオードリー・オチョアです。知名度は、率直に言って、未だ高くありません。しかし、彼女の音楽には、カナダならではの多様な要素が溶け込んでいます。是非、聴いて欲しいアーティストです。

オードリー・オチョアとは誰?

 フランシス・フォード・コッポラ監督の傑作「ゴッドファーザー」を持ち出すまでもなく、主人公をより良く理解するためには、その両親を知ることが極めて重要です。そこで、オードリーの父親、ロメオ・オチョアです。ロメオは、フィリピン人のトランペット奏者です。オチョア家は音楽一家でロメオは運と実力を試すべく、フィリピンを出てカナダはアルバータ州エドモントンに移住したのです。多文化主義の下、自由と開放性と多様性を重んじるカナダ社会の求心力と言えるでしょう。とは言うものの、移民であれ誰であれ、音楽で身を立てるのは容易ではありません。単純に演奏が上手いというだけで道が開けるほど甘い世界ではありませんから。ですが、ロメオは音楽で身を立てるに至るのです。地元の誇りエドモントン交響楽団、更に人気絶頂のトミー・バンクスの楽団でも演奏するようになります。このトミー・バンクスという音楽家はエドモントンを拠点に活用したピアニスト・作曲家にしてTV番組ホストでもありました。後年、上院議員にも任命される地元の名士でした。フィリピンからの移民一世ロメオは、正に運と実力を証明したのです。

 オードリーは、そんなロメオを父として、エドモントンに生を受けます。母親もアコーディオン奏者です。音楽溢れる家庭環境で育ちます。ですから、オードリーが幼少の頃からピアノを習い始めたのも自然な成り行きと言えるでしょう。

トロンボーンとの出会い

 ピアノを通じて音楽の基礎を身につけていったオードリーの運命の瞬間は、中学1年生の時に訪れました。それ以来、「トロンボーンから離れたことは一度たりともない」とエドモントン音楽評議会のインタビューに答えています。ヴァイオリン、チェロやフルート、サクソフォンではなく、トロンボーンが生涯の楽器となったのです。

 そこで、トロンボーンの歴史です。ルネッサンス期にトランペットに伸縮可能なスライドを装着した新しい楽器として登場。柔らかく荘厳な音色が特徴で、バロックを経て古典音楽の金管楽器群の一翼を担って来ました。ベートーヴェン「運命」でも活躍しています。そして、20世紀初頭に全く新しい音楽ジャズが誕生。日々進化を遂げていますが、20世紀前半は、率直に言えば、黒人が演奏する奇妙な音楽と一般には受け取られていました。そんな偏見を撃ち破ったジャズ音楽家がトロンボーン奏者にして作曲家・バンドリーダーのグレン・ミラーです。「ムーンライト・セレナーデ」や「イン・ザ・ムード」は、今や古典ですが、その核心は、美しく印象的な旋律を奏でるトロンボーンにあります。20世紀後半になると、トロンボーンはクラッシック、ジャズ、更にはロック、レゲエ等にも導入されるようになります。ビートルズも「Got To Get You Into My Life」や「All You Need Is Love」で効果的に使用しています。

 オードリーは、そんなトロンボーンに熱中します。「好きこそ、モノの上手なれ」と云うとおり、彼女は瞬く間に上達します。地元の名門アルバータ大学音楽学部に進学。18歳になると、アルバイトで演奏する機会も増え、結構なお小遣いを稼ぐようになります。ここで特筆すべきは、オードリーの旺盛な音楽的好奇心です。クラシックのみならず、ジャズ、ロック、更にはレゲエ、スカといった音楽をも演奏。そして、自ら作曲も手がけるようになります。当然ながら、職業音楽家への関心も湧いてきます。

 しかし、父ロメオは、愛娘が職業音楽家の道に進むことには消極的であったそうです。その道が険しいことを身を持って知っていたが故かもしれません。ですが、フィリピンからトランペットだけ抱いて未知の国へ移民し、実力と運で音楽の道を歩んだ父のDNAを持つオードリーです。自ら、職業音楽家への道を歩み始めます。父ロメオも応援します。

デビュー盤の衝撃

 2013年、オードリーはデビュー・アルバム「Trombone & Other Delights」を地元アルバータ州の独立系クロノグラフ・レコードから発表します。表題もジャケットも非常に軽妙で洒脱な装い。ですが、トロンボーンを通じてオードリーの持てる音楽のチカラを全て示そうとする彼女の覚悟を感じさせます。

 全8曲、45分に及ぶ音盤は、正に音楽の楽園です。ここには、ジャズをベースにしつつも、ロックやポップやラテンの深く豊かな芳香があります。全て、オードリーの作曲です。録音はエドモントンで、地元ミュージシャンの協力を得て完成させました。カナダの音楽業界をみれば、その中心はトロントです。カナダ最大にして北米3位の大都市で経済・学術・文化の活力に満ち多様性に溢れています。次いで、モントリオール、バンクーバーでしょう。エドモントンは地方都市に過ぎません。オードリーのこのデビュー盤は、言ってしまえば、音楽的辺境の地の無名の女性トロンボーン奏者のマイナーなレコード会社からリリースされた一枚に過ぎませんでした。しかし、音楽の本質は、何処で制作されたか、誰の作品かではなく、内容です。優れた音楽であるか否かに尽きます。そして、カナダの聴衆は、肩書や外見ではなく、音楽を愛でる耳を持っています。このデビュー盤は、カナダのジャズ・チャートの首位に立ちました。快挙です。

 ここで一つトリビアです。オードリーのこのデビュー盤は、その表題といいジャケットデザインといい、ハーブ・アルパートの「Whipped Cream & Other Delights」と瓜二つです。深夜放送オールナイト・ニッポンの主題歌「Bittersweet Samba」も収録したこの音盤は、1965年11月にはビルボード誌チャート首位となった名盤です。オードリーは、この音盤にインスピレーションを得て、その成功にあやかったのでしょう。是非、2枚のジャケットを見比べてみて下さいませ。

離陸

 デビュー盤の成功で、オードリーの一般的な知名度は、カナダ国内で上がります。と同時に、ミュージシャンの間での評判は急上昇です。晩年のマイルス・デイビスを支えた現代ジャズの巨匠であるマーカス・ミラーを筆頭に、テンプテーションズ、クリス・ポッター等と共演しています。職業音楽家として、作曲・編曲・録音、更には他のアーティストとの共演に忙殺される日々です。

 一方、上述のとおりアルバータ大学音楽学部で学ぶ中、オードリーは音楽教育の重要性を実感。同時に、人気商売である音楽家稼業とは別に生活の基盤を確保する大切さも痛感します。地に足のついた考え方は、父ロメオ譲りとも言えるでしょう。オードリーは、地元の小学校で音楽教師を勤めつつ、音楽活動を本格化させます。

 2017年には、第2弾アルバム「Afterthought」を発表。前作とは、全く赴きを異にするトリオ・アルバム。要するに、トロンボーンとベースと打楽器の3つだけです。ここで注目すべきは、ピアノとかギターという和音を奏でる楽器が無いということです。それ故に、より広い音楽的スペースが生まれ、トロンボーンが縦横無尽に走り舞うことが出来る訳です。ジャズの核心である即興演奏の実力が露わになります。非常に野心的な試みと言えるでしょう。この音盤を聴いて思い出したのがソニー・ロリンズ1957年の異色作「Way Out West」です。サキソフォン・ベース・ドラムの三重奏が生み出す独特の音空間には、歌心に満ちたロリンズ節が溢れています。

飛翔

 2020年、第3弾「Frankenhorn」が発表されました。表題とジャケットデザインが示すとおり、オードリー版のフランケンシュタインです。ヴィジュアル的にはちょっと気味悪いですが、異質な要素を繋ぎ合わせて新しい次元に踏み出そうという意気込みを感じます。

 聴けば、1枚の音盤の中に4つの異なる音楽が脈打っています。①ピアノ・ベース・ドラムという定番のリズム・セクションに乗って奏でるジャズ、②パーカッションを強調したラテン、③ピアノと弦楽器を背景にしたクラシック風、④ヒップホップ的なエレクトリカ・DJ、です。その上で、主役であるオードリーのトロンボーンが素晴らしい音色で歌っています。

 そして、2023年には最新盤「The Head of A Mouse」をリリース。まず、この表題に興味が湧きます。実は、父ロメオが娘オードリーに授けた格言で、フランスの諺「ライオンの尻尾になるより、ネズミの頭がまし」に由来するものです。中国の歴史書『史記』蘇秦伝にある「鶏口となるも牛後となるなかれ」と同趣旨です。強大な組織や集団の中で上の者に従って末端にいるよりも、たとえ小さな組織であってもそのトップになった方が良いとの考え方です。要するに、有名音楽家のバンド・メンバーになるよりも、自分自身でバンドを率いるべし、ということです。自分が心底演りたい音楽を心の赴くままに存分に演るということに尽きるのです。

 「The Head of A Mouse」は表題どおり、オードリーが持つ多様で多彩な音楽性が表れています。前作が更に拡張され、全13曲、1時間7分の大作です。ここには、トロンボーンによる現代ジャズの万華鏡の趣きがあります。

 全てオードリーの作編曲ですが、ちょうど新型コロナ感染爆発の時期に書き溜めたものです。各楽曲には、家族・喪失・絆といった思いが込められていると言われています。

結語

 オードリー・オチョアは、フィリピン系カナダ人でカナダの今を体現している音楽家だと思います。彼女は移民社会の成熟を想起させるからです。と言うのも、近年のカナダへの移民の出身国トップ3は、インド、フィリピン、中国(香港・台湾を含む)です。フィリピン系カナダ人の活躍は様々な分野に及んでいて、連邦下院議員も誕生しています。

 オードリーは、音楽家として一作毎に進化を遂げています。デビュー盤はハーブ・アルパート的なポップ感、第2作はソニー・ロリンズを彷彿させるビバップ感、第3作は多様性を示しました。そして「The Head of A Mouse」は、フィリピン系カナダ人音楽家として初めてジュノー賞候補となった作品です。

 オードリーの次なる音楽的冒険が何処に向かうのか興味が尽きません。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

「音楽の楽園~もう一つのカナダ」

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

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