「ヤン・リシエツキ」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第23回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 オタワの5月は、街中にチューリップが咲き誇り、春爛漫です。そして、街には音楽が溢れています。鼻歌を口づさむ大使館職員も公邸スタッフも少なくありません。

 そこで、今回の「音楽の楽園」は、とてもカナダ的な天才ピアニストです。ヤン・リシエツキです。何故、カナダ的と記したかと言えば、全く私事で恐縮なのですが、5年ほど前のことで、私がニューヨークで勤務していた頃の記憶があるのです。

カナダ的な、あまりにカナダ的な

 非常に親しくしていた音楽好きのアメリカ人の友人が、「音楽ファンならば、絶対にこの若い “ポーランド人ピアニスト” に注目しておくべきですよ。発音しにくいと思うけど『リシエスキー』と読みます」といって、2018年にオルフェウス・オーケストラと共演したリシエツキの新作「メンデルスゾーン/ピアノ協奏曲第1番、第2番」をプレゼントしてくれたことがありました。それまで、リシエツキの事は全く知りませんでした。初めて聴いた時から、そのCDは、愛聴盤の仲間入りをしました。そして、私はつい最近まで、リシエツキはポーランド人だと思っていました。最初に友人が「ポーランド人」と紹介してくれたことが大きかったのですが、ショパンを生んだポーランドの血が、リシエツキにも流れているのだと思って彼のCDを聴いていたのです。

 しかし、或る時、リシエツキは、ポーランド移民の両親のもとに、アルバータ州カルガリーで生まれたカナダ人だと知りました。カナダ生まれのカナダ国籍。でも、リシエツキは、両親の故国の歴史・文化・生活・個性を自然に受け継いでいます。音楽好きの私の友人が躊躇うことなく「ポーランド人」と言う程にです。それは、ある意味、間違っていないかもしれません。

 それこそ、カナダの多文化主義です。ポーランドであれ日本であれケニアであれ、自らの家族が受け継いで来た一切合切をありのままに維持し、誇りを持ってカナダ人としてカナダで生きる。北米大陸の北部は、何千年もの間、先住民の楽園でありました。1497年のジョン・カボットのニューファンドランド来訪から現代のカナダに直結する歴史が始まりますが、その過程で育まれてきたカナダの「お国柄」です。様々な葛藤の末にピエール・トルドー首相が提唱した、カナダのアイデンティティーの核心と言えるでしょう。

カルガリーの神童

 ヤン・リシエツキは、1995年3月にカルガリーで誕生。5歳から、カルガリーにある伝統校マウント・ロイヤル大学に付属する音楽院でピアノを学び始めます。

 2004年、9歳にして、カルガリー・シビック・シンフォニーと共演します。演目は、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番ニ短調K466でした。ベートーヴェンが大変に好きだった曲としても知られています。モーツァルト28歳の傑作で、現存する27曲のピアノ協奏曲のうち2曲しかない短調の最初の作品です。因みに、もう一つは24番です。技巧的にも勿論大変ですが、あのデモーニッシュな感覚の表現には、技巧を超えた音楽性が必要です。それを9歳の小童が演奏したのです。恐るべし。但し、これはほんの小手調べでした。

 翌2005年、10歳の時には、カルガリー・フィルハーモニー管弦楽団とメンデルスゾーンのピアノ協奏曲第1番ト短調作品25を共演しました。その夜、カルガリーのジャック・シンガー・コンサート・ホールで、第2楽章アンダンテの哀愁の旋律を奏でる神童を聴いた聴衆は、ピアノの女神の降臨を体験したに違いありません。

 2006年、11歳で、首都オタワの国立芸術センター(NAC)にデビューしました。ピンカス・ズッカーマン指揮のNAC管弦楽団の胸を借りて、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番変ロ長調作品を弾き切りました。演奏終了後の楽屋での模様をリシエツキは良く憶えていているそうです。ズッカーマンも楽団員も誰一人として、リシエツキの年齢を問題にせず、一人前の音楽家として扱ってくれて、対等な立場で、音楽のことや演奏のことについて話したというのです。これが縁となり、リシエツキはNACが若手音楽家のために主催するサマー・ミュージック・インスティテュートにも参加。ピアノ独奏、室内楽、協奏曲について実践的に学びました。

世界へ

 2008年、13歳となったリシエツキ少年の飛翔は加速度が増し、カナダの国境を超えます。ニューヨークのカーネギーホール、パリのサル・コルトー、ドイツ、日本、それから両親の故国ポーランドへと舞台は世界へと広がっていきます。

 デビューCDは、2010年にポーランド国立ショパン協会からリリースした、ショパンのピアノ協奏曲第1番と第2番です。録音は、前年と前々年の「ショパンと彼のヨーロッパ」音楽祭の時に行われました。ショパンがこの2曲のピアノ協奏曲を書いたのは、1830年。ワルシャワ音楽院の学生時代です。初恋の相手コンスタンチア・グワトフスカへの思い、パリへの憧れ、ロシアに蹂躙される故国への思い。それらに引き裂かれる心象風景を音楽で描いています。戦争と革命の時代にあって、言葉に置き換えられない心の動きと情念が溢れています。20歳のショパンが持てる全ての楽想と技量を導入して書いたピアノ協奏曲の最高峰を弾く中学生のリシエツキが鮮やかに刻まれています。

 そして、翌2011年には、クラシック音楽の最高峰ドイツ・グラムフォンと専属契約を結びます。この時、弱冠16歳です。グラムフォンからの第1弾は、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番と21番です。特に、20番は9歳の時に地元カルガリーで初めてオーケストラと共演した思い出の曲です。指揮は、ピアニストとしても高名なクリスチャン・ツァハリアス。この時、61歳です。孫を見守るような心境でしょうか。名門バイエルン放送交響楽団がしっかり支えます。

 また、2011年は、リシエツキにとってカナダを意識する年でもありました。地元カルガリーの高校を卒業して、高等教育に進む時のことです。特に、ドイツ・グラムフォンとの契約が発表されたことで、世界中の名だたる音楽院からフル・スカラーシップのオファーが来たそうです。が、彼が選択したのは、トロントの「グレン・グールド音楽院」でした。カナダを拠点にして、最高の教育と支援を受けられることが理由だったと語っています。公演旅行で多忙な日々で、個人教授と試験はキャンパスに赴き、それ以外の授業は通信教育だったといいます。その上で出来るだけ地元カルガリーで時を過ごしたいのです。

巨匠への道

 ヤン・リシエツキは、「コンクールに出る必要の無かったピアニスト」と言われています。確かに、コンクールの存在意義は、新しい才能の発掘にあります。9歳にしてオーケストラと共演して以来、次々と大きな機会を得て、その度に、期待を裏切らぬどころから、進化し続けるリシエツキ少年には、コンクールは不要だったのです。

 2011年は、16歳で高校を卒業しグレン・グールド音楽院に進学した年です。この年だけで、年間70回の公演を行なっています。既に、超売れっ子でした。

 2013年のボローニャ音楽祭では、18歳になったリシエツキは、急遽、マルタ・アルゲリッチの代役として登場し、巨匠クラウディオ・アバド指揮でベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を見事に演奏しました。あのアルゲリッチの代役です。リシエツキの評価が一気に高まった時です。年齢ではなく、演奏の内容で聴衆を魅了したのです。このエピソードは、かつてチェロ奏者だったトスカニーニが、急遽代役として指揮をして運命の扉が開いたのを思い出させます。真の実力が露わになる瞬間があるのですね。

 最近では、年間100回以上の公演を行なっています。世界中の名だたる指揮者、オーケストラと協奏曲を演り、ヨーヨー・マらとは室内楽を共演しています。レコーディングも積極的に行なっています。グラムフォンからは10枚リリースしています。既に、歴史に残る傑作を残しています。ベートーヴェンのピアノ協奏曲全5曲を、アカデミー室内管弦楽団との共演で、2018年12月2日から6日まで5日連続で、1日1曲、ベルリンのコンチェルトハウスでのライブ録音盤です。聴衆を前に、驚異の集中力で、陰影豊かで濃密にして美しき音楽の楽園を生み出しています。この時、リシエツキは、弱冠23歳です。この先、どこまでいってしまうのでしょうか?

再びカナダについて

 2011年10月にリシエツキは来日し、バッハ、ベートーヴェン、リスト、メンデルスゾーンを演奏しています。その時のインタビューがABCクラシック・ガイドに掲載されているのですが、非常に示唆に富んでいます。幾つか、引用させて頂きます。

 「カナダにはヨーロッパのような歴史はありません。本当の意味でのカナダ人というのは非常に少数で、ほとんど何処からか来たカナダ人ということになります。マルチ・カルチャーな国であり、誰も、あなたが何処から来たかという事など気にもしていないと言う感じが私は好きです。とても人々にあたたかい国でみんな優しいのです。」

 「人々は、ショパンを演奏するにあたって、ポーランド人であることで演奏に違いがあるか?という質問をします。そして、皆さんはYesという答えを期待していると思います。ですが、答えはYesでもあり、Noでもあります。ポーランド人であると言うことが全てではないのです・・・ポーランド人としての血が影響するとは信じていません。私はより良くポーランドの事を知ろうと思いますが、それは血によるものではありません。ショパンは大好きです。でもこれは、私がポーランドの血を引くからではなく、偉大な作曲家だからです。」

 「カナダ人は、カナダ人であることを意識するのを、ちょっと面白い方法でしているかもしれません。唯一皆んながカナダ人である事を誇るのは、7月1日のカナダ・デーです。それ以外の日は、自分たちは国旗を愛し、国を愛しつつも、大声で「俺たちはカナダ人だ、行け行けカナダ!」と叫ぶことはありません。そういう意味では、静かにカナダ人である事を楽しんでいると言えます。」

 16歳のカナダ人天才ピアニストの率直な気持ちが表れています。

結語

 リシエツキは、今年29歳です。物語は、始まったばかりです。それでも既に巨匠の仲間入りをし、公演に録音に超多忙な日々です。

 リシエツキを見て聴いていると、同じポーランドの生んだ巨匠アルトゥール・ルビンシュタインを思い出します。1982年に95歳で大往生した20世紀を代表するピアニストは、膨大な録音と幾多の名演と人間臭いエピソードを残しました。1894年に7歳でモーツァルトを弾きデビューし、最後の録音は1976年4月23日、89歳、ベートーヴェンのピアノソナタ「狩」でした。

 人生百年の21世紀、カナダが生んだ若き巨匠がどんな未来を描いていくのか楽しみです。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身