はじめに
音楽ファンの皆さま、日加関係を応援頂いている皆さま、こんにちは。
オタワでは短い春が終わり、盛夏に向けて街が活気づいています。6月に入り、日の出の時刻が早くなっています。調べたら、午前5時過ぎです。朝寝坊の私が目を覚ます頃には、太陽は高く登っています。日没は午後9頃にまで遅くなっています。白夜と言えば言い過ぎですが、陽光に祝福される日々は素晴らしいです。オタワっ子も観光客も、街ゆく人々の笑顔が印象的です。新緑の間を流れるリドー運河には、カヤックやSUPを楽しむ人の姿があります。平和そのものです。
一方、世界を見渡せば、地上の別の場所では、戦争が続き、錯綜した紛争が続き、敵意・憎悪・怨念・怨嗟が渦巻き、貧困に喘いでいる地もあります。人間の世は、不完全で、矛盾に満ち、不公平ですが、オタワの美しい初夏にいることの幸運に感謝の気持ちでいっぱいです。
さて、そこで本題の音楽です。今月は、カナダが生んだ超絶技巧のピアニストにして作曲家のマルク=アンドレ・アムランです。ニューヨーク・タイムズ紙の伝説的音楽批評家ハロルド・ショーンバーグが「現代屈指の“スーパー・ヴィルトゥオーゾ”」と評しています。21世紀のホロビッツ、或いは、ミスタッチの少なさから、ホロビッツを超えているとも言われている最高峰ピアニストです。
アムランは、1961年9月にモントリオールに誕生。父親は、薬剤師にしてアマチュアのピアニストで、幼少期からアムランを鍛えます。『巨人の星』の星一徹を彷彿とさせます。その成果は直ぐに現れるのですが、アムランの音楽の旅路は非常にカナダ的でもあります。25歳にして、驚異的なデビュー盤を録音。何度も訪日している訪日家でもあります。
それでは、マルク=アンドレ・アムランの世界へようこそ。
デビュー盤の衝撃
音楽に限らず、芸術全般に言われていることですが、デビュー作品には、そのアーティストの核心が現れるものです。
例えば、ヘミングウェイの処女作『われらの時代(In Our Time)』には、彼の特徴的スタイルである簡潔な文体が確立しています。また、真の勇気とは何か、世界は不条理なのか、と問いかける視座も明らかです。
写真家・森山大道も粒子の粗さ、都市の混沌という彼の世界観が最初の写真集『Japan: A Photo Theater』で完成しています。
同様に、アムランのデビュー盤『Leopold Godowsky: Original Works and Transcription』には、忘れられた超絶技巧作品の芸術的価値を再発見する、というアムランがこれから歩む音楽的冒険の道筋が明快に示されています。
デビュー作品とは、その芸術家が生涯を通じて何処を見つめ、何を世の中に伝えたいのかを最も純粋な形で示す自己紹介とも言えるでしょう。
アムランの場合、このデビュー盤の後で録音されている膨大な作品群がそれを証明しています。が、レコード・デビューに至る過程で、特筆すべき四つの事柄に言及したいと思います。
《父親は偉大なり》
第一に、冒頭にちょっと触れた薬剤師にしてアマチュア・ピアニストで熱心な音楽愛好家の父の影響です。
アムランは5歳からピアノを習い始めます。瞬く間に上達する訳ですが、父親はまだ幼いアムランにバイエル・ブルグミュラー・チェルニーといった標準的なピアノ教則ではなく、ルドルフ・ガンツ(1877〜1972、スイス出身のピアニスト・指揮者・作曲家)が編み出した『対称的練習法』という特殊なピアノ練習法で幼いアムランの技量を鍛えあげたそうです。“大リーグ養成ギブス”のようなものです。後年、アムランは「脳と指が直結する練習だった」と述懐しています。
また、父は、多数のレコードと楽譜を収集していました。バッハ、ヘンデル、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン等々の有名な作曲家は勿論ですが、中には、レオポルド・ゴドウスキー、シャルル=ヴァランタン・アルカンやニコラ・メロネル、カイホスルー・シャプフジ・ソラブジなど、一般にはほとんど知られていない作曲家について、希少な録音と楽譜を持っていて、幼きアムランに楽譜を見せながら聞かせたといいます。
そんな環境で育ったアムランにとっては、ゴドウスキー、アルカン、メロネル、ソラジブ等はごく自然に聴き馴染んだ作曲家たちでした。実は、これらの知る人ぞ知る作曲家に共通するのは、ピアノの超・超絶技巧を必要とする楽曲を残したという点です。「三つ子の魂百まで」と言いますが、幼きアムランにとっては普通にいつも聴いていた曲でした。正に、この幼少期の音楽体験がアムランの道を拓くのです。
《カーネギーホール国際アメリカ音楽コンクール》
5歳でピアノを始めたアムランは、9歳でカナダ音楽コンクールの10歳以下部門で第一位を獲得します。その頃には、ゴドウスキー編曲版を勉強していたといいます。長じて、モントリオールのヴァンサン・ダンディ音楽院で学び、その後、フィラデルフィアのテンプル大学にて研鑽を積み、1985年に修士号を取得します。

そして、同年9月、カーネギーホール国際アメリカ音楽コンクールに出場、優勝します。24歳の誕生日(9月5日)から3週間後のことです。アムランのコンサート・ピアニスト、レコーディング・アーティストとしての輝かしい道がここから始まります。優勝の副賞として、ロックフェラー財団の助成金で設立された「ニューワールド・レコード」へ録音する権利を得ます。但し、一つだけ条件があって、録音できるのはアメリカ人作曲家の作品に限るというのです。そこで、アムランは、ウィリアム・ボルコム(1938〜)の『新しい練習曲』を選択し、1987年1月に録音します。これがアムランの初録音です。選曲は限定されていた訳ですが。リリースは、翌1988年7月になりました。
カーネギーホール国際アメリカ音楽コンクールでの優勝は、カナダ出身の無名の若者に大きな機会を提供します。アムランの評判が北米の音楽関係者の間では広がっていきます。フィラデルフィア、それからニューヨークでの活躍は才能豊かなカナダ人の典型的なパターンとも言えます。そして当然のごとく、カナダの音楽関係者の視点からは、若きカナダ人ピアニストをサポートしたいとの声もかかるのです。CBC(カナダ放送協会)傘下の新しいレコード・レーベル「Musica Viva」に録音する機会を得るのです。1987年のことです。
《誰も弾けないゴドウスキーを弾く》
そこで、アムランは何を録音するか考えます。「ニューワールド・レコード」への録音は記念すべきレコーディング・デビューではありました。ですが、自ら選択したプログラムではありませんでした。そこで、本当に録音したい音楽を自ら選択するなら、幼い頃から慣れ親しんだゴドウスキーにしたいと申し出ます。
「Musica Viva」で制作を担当したのは、CBCのフランス語放送局でクラシック音楽を長く担当し、新人の発掘に定評のあるミシェル・パトリでした。アムランの申し出に対し、パトリは躊躇したに違いありません。何故ならば、当時、ゴドウスキー、アルカン、メロネル、ソラジブ等の超・超絶技巧のピアノ曲は、それを弾きこなし録音するピアニストがほとんどいなかったからです。実際、アムラン以前は、ゴドウスキー自身に見出されたデヴィッド・サパートン(1889〜1970)というピアニストが1952年にモノラル録音した『ゴドウスキー編曲版ショパン練習曲集』がほぼ唯一のまとまったレコードでした。無名の新人ピアニストに出来るのか?
しかし、リハーサルを聴いて納得しました。いや、納得しただけではなく、ピアノ録音史において新しい歴史が始まるかもしれないと興奮したに違いありません。
何故なら、『ゴドウスキー版ショパン練習曲』は、人類史上最も難しいピアノ曲の一つだからです。ショパンの練習曲自体が大変に難易度の高いものですが、ゴドウスキー編曲版は、二つの練習曲を同時進行させたり、原曲に多彩な音を加えて、ピアニズムの極地をいく美しさです。まるで、二人がかりで4本の手で弾いてるようです。しかも、テクニックのためのテクニックではなく、より美しく豊かな音楽のために、限界ギリギリを攻めたテクニックです。そこには、ピアノの詩人ショパンが夢想した音楽美がなければなりません。が、言うは易く行うは難し。出来ていれば、多くの録音が残されていたはずです。録音がないという事実は、弾けるピアニストがいなかった。或いは、超絶技巧を美しい音楽に昇華できるピアニストがいなかったということです。だから、アムランがこれを世に問うことには、歴史的価値があると、パトリは確信したのです。
大資本のCBCでカナダ政府のバックアップがあり、カナダ人、特にケベコワ・ピアニストを支援する意義は十分あるとは言え、レコード会社の経営という観点からは、売らなければなりません。そこは、熟練プロデューサーの直感と若きピアニストの情熱の勝利でした。加えて、ネームヴァリューや人気曲で商業的な成功を狙ったり、既成の価値基準の範囲で方針を決めるのではなく、音楽性重視で未完の新しい才能を発掘することに価値を見い出す姿勢は、とてもカナダ的だと思います。
《歴史の始まり》
1987年8月、録音に臨みました。地元モントリオールの「シャペル・デュ・ポン・パストゥール(良き牧人礼拝堂)」のコンサートホールで行われました。自然な音響が格別です。
ゴドウスキーの諸作品は人類史上最も難しい曲の一つではあるものの、アムランにとっては、幼き頃から父親の手解き親しんできた音楽です。楽譜も読み込んでいます。
結果、ゴドウスキーのオリジナル作品と編曲したもの織り交ぜて、極上のピアノと作編曲の妙を味わえる均整の取れた音盤に仕上がりました。

そして、5ヶ月後の翌1988年1月にデビュー盤がリリースされました。世界が初めて耳にしたアムランであり、ゴドウスキーも再発見でした。レコード評は絶賛でした。ゴドウスキー作品は「生身の人間には演奏不可能」と言われていた訳ですが、「完璧なコントロールと打鍵のクリアさ」で弾きこなしました。技巧のひけらかしに終らず、作品が持つ叙情性や華麗な美しさ、ユーモアをしっかり引き出している、等々です。
後は、歴史と言って良いでしょう。アムランは、ゴドウスキー、アルカンら忘れられていた作曲家たちの作品群を次々に発表していきます。自身で作曲した楽曲集も多数録音しています。更に、ハイドン、ベートーヴェン、リスト、シューマン、ブラームスらのクラシック音楽の王道も録音しています。
名盤の森
1987年に初めてプロとして、録音を始めて、アムランがこれまで、発表した音盤は優に70枚を超えます。幅の広さと多作は天才の証しですね。
厳選の5枚を紹介させて頂きます。
- ゴドウスキー盤ショパン練習曲全集

1990年、39歳にして、アムランはピアノ音楽史に残る偉業を達成します。ゴドウスキーが編曲したショパンの練習曲の全てを、2年がかりで英国のクラシック専門レーベル「ハイペリオン」に録音したのです。プロデューサーは、バレンボイム等も手掛けている大物アンドリュー・キーナーでした。
ショパンは、有名な『革命』や『別れの曲』を含め、全部で27曲の練習曲を残しています。ゴドウスキーは、これらの練習曲をベースに左手だけのための編曲や二つの曲を同時に演奏する編曲をしました。合計53の編曲があります。
アムランは、この53曲全てをCD2枚組で演奏時間2時間33分の大作を発表したのです。音楽愛好家にとって必聴盤だと思います。
- ストラヴィンスキー『春の祭典』
2018年リリース。20世紀を代表する色彩とリズムの管弦楽曲をピアノ連弾で鮮やかに再現したもので、レイフ・オヴェ・アンスネスとのデュオ盤。ピアノ表現の大いなる可能性を示しています。
- アルベニス『“イベリア”と後期作品集』
スペインの至宝アルベニスは、ギターと情熱とフラメンコの母国の音楽をピアノで再現しています。また、アルベニス自身が優れたピアニストでしたから、ピアノ1台でオーケストラのような響きを生み出します。そこに立ち上がる旋律が胸に沁みます。
- ボルコム『コンプリート・ラグ』

カーネギーホール国際アメリカ音楽コンクール優勝の副賞での初録音で取り上げた米国人作曲家がボルコムでした。ボルコムの音楽には米国のDNAの成せる業か、自然とジャズやラグタイムの響きが滲みます。本盤は、ラグタイム全集です。超絶技巧の持ち主が、思う存分にアメリカを表現する誠に楽しい音盤です。
- アムラン『ニュー・ピアノ・ワークス』

2024年リリースで、アムラン自身の作曲・編曲集。「パガニーニの主題による変奏曲」に始まり、自作の「ロム・アルメのトッカータ」で終わる全37曲。凄いテクニックで弾いているのに、そのように感じさせません。素晴らしいテクニックにはそれ自体に価値があるけれど、最終的には良い音楽のために必要不可欠な要素以上のものではないのだと、聴けば得心します。しかし、リスナーにそう思わせるためには、持って生まれた才能を磨きに磨いた膨大な鍛錬あってこそでしょう。1時間14分は、ピアノ好きにとっての桃源郷です。
結語
アムランは、何度も訪日しています。東京には、世界に誇る卓越したコンサート会場が数多くありますし、耳の肥えた聴衆もいます。コンサート・プログラムは、デビュー盤以来の使命である、忘れられた作曲家の作品の紹介も常に行われています。そして、インタビューにも応じています。2018年のヤマハ(高橋はる香さん)とのインタビューでの非常に印象に残る発言で、今回の「音楽の楽園」を締めることにします。
〈Qあなたにとってピアノとは?〉
「私の考えを伝達するものであり、メディアです。ピアノは完成された楽器です。いわば、辞書にのっているあらゆる形容詞を表現することができる楽器といえるでしょう。」
〈Qピアノを学ぶ(楽しむ)方へのメッセージ〉
「自分に必要な時間を十分にとってください。決して慌ててはいけません。・・・・練習室の外でもっと時間を過ごし、人生をちゃんと生きてください。練習室の中で起きることしか見ていないのに、芸術的な成就が大きくなるはずがありません。・・・・ちゃんと人生を生きていない人が、演奏を通して一体何を伝えることができるのでしょう。・・」
(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。
山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身






















