はじめに
日加トゥデイの読者の皆様、日本とカナダの友好親善協力関係を応援頂いている皆様、こんにちは。
今月は、東洋英和女学院が紡いで来た日本とカナダの友情についてです。
全くもって私事で恐縮ですが、オタワから帰国して、これまでお世話になった方々にご挨拶に伺っております。その一環で、東洋英和女学院の高橋貞次郎院長に先日お目にかかりました。東洋英和女学院は、日本とカナダの友好親善を体現する象徴的な学校ですから、高橋院長には様々な形で大変に御尽力頂いたのです。その御礼を述べたくてお時間を頂戴しましたが、予定の時間を大幅に超過してしまいました。と云うのも、日加関係が深化する中、人物・文化・学術交流の役割の大切さで見解が一致し、話が大いに盛り上がったからです。
そこで、是非とも「アクロス・ザ・パシフィック」で取り上げたいと考えた次第です。まずは東洋英和とカナダの縁について述べたいと思います。今から153年前に遡ります(このコラムは「新しき交流」と題しているのに、明治時代から始めること、ご容赦願います)。
1873年〜コクランとマクドナルド
英領北アメリカが大英帝国の自治領「ドミニオン・オブ・カナダ」として建国されたのが明治維新の前年1867年7月のことでした。新しい息吹に満ちた自治領カナダには、南の隣国アメリカや欧州の情勢はもとより、アジアを含む世界情勢が伝わります。
オンタリオ州からすれば、西に広がる北米大陸の向こうの太平洋の対岸は遥か彼方に日本は位置します。ですが、日本は太平洋を隔てた隣国です。明治の日本の最新情報ももたらされます。その中には、明治政府が「キリシタン禁制の高札」を撤去したという情報も含まれていたのです。鎖国を解き、西洋に門戸を開いたばかりの日本は、新たな海外宣教の最前線でした。自治領カナダとなって日も浅いカナダのメソジスト教会にとっては、自らの最初の本格的な海外宣教地となりました。
そして、2人の宣教師が日本に派遣されることとなります。ジョージ・コクラン牧師とデビッドソン・マクドナルド医学博士です。実は、この二人は日本で暮らす初めてのカナダ人とされています。1873年7月、コクランとマクドナルドは横浜に降り立ちました。
彼らは、精力的に伝導を始めます。しかし、コクラン牧師とマクドナルド博士は日本で伝道を行う中で、女性に直接働きかけられないもどかしさを感じていました。当時の日本の社会では男女が一緒に集会に出る習慣はありませんでした。そこで、2人は、日本での5年に及ぶ伝道活動の経験を踏まえ、本国へ「婦人宣教師派遣」を要請します。1878年の事です。これを契機に、カナダ本国で、日本への布教について本格的に議論が始まります。
1882年〜カートメル登場
1881年11月、オンタリオ州ハミルトンで、「カナダ婦人ミッション」が結成されました。翌82年9月の第1回総会で、日本へ派遣する婦人宣教師に38歳のミス・マーサ・カートメル(1845〜1945)が選ばれました。オンタリオ州生まれで、トロント女子師範学校を卒業し、ハミルトンの公立女学校の教師・校長を務めていました。
1882年12月27日、ミス・カートメルは、カナダ・メソジスト教会が日本に派遣した最初の女性宣教師として来日。東京・築地の外国人居留地のカナダ・ミッション宣教師館に居を定め、文明開花の時代の東京で伝道活動を始めます。活動を本格化させてミス・カートメルが痛感したことは、女性が十分な教育を受ける機会が極めて限られていることでした。そして、キリスト教精神に基づく女子教育を自らの使命と考えるようになります。1884年、麻布鳥居坂、現在の六本木に東洋英和女学校を創立しました。開校時の生徒はわずか2人でした。
興味深いのは、「東洋英和」の「英和」です。単なる英語学校という意味ではなく、創立期から西洋の知識・文化と日本を結びつける教育機関として発展しました。現在まで続く学院の「敬神奉仕(Reverence and Service)」という精神も、カートメルら初期のカナダ人女性宣教師たちの思想を源流としています。
東洋英和女学院は、カナダ人はじめ英語を母国語とする教師による英語教育と欧米の新しい文化・学問が学べる場として評価を高め、今日に至っています。
多士済々の卒業生を世に出している中で、特筆すべきは、「赤毛のアン」の翻訳者、村岡花子です。「赤毛のアン」は、L.M.モンゴメリが1908年に発表した小説です。日本では、終戦後の1952年に村岡花子訳で出版されました。原作の抒情的な情景、ユーモラスな表現が見事に和訳され、長く読み継がれています。
ハミルトン〜桜祭り式典
時は流れ、2014年。東洋英和女学院は、この年に、創立130年を迎えました。記念事業として、卒業生や学院関係者の募金によって、学院創設者のミス・カートメルの出身地ハミルトン市に、感謝の意を込めて桜を寄贈する「桜プロジェクト」が実現しました。
プロジェクトの実現のために、遡ること2011年から準備が始められていたそうです。北国カナダのオンタリオ州ハミルトンの気候風土に適合する桜の品種の特定、そのための詳しい土壌調査、維持管理の仕組みについて検討が進みました。学院関係者、ハミルトン市役所、ミス・カートメルが属していたセンテナリ教会、カナダ合同教会牧師の有賀誠一博士らの調整・尽力が身を結びます。
2014年6月、37本の桜が、ハミルトン市センティニアル公園に植樹されました。オンタリオの厳しい冬を乗り越えて、翌15年には桜が咲きました。以来、年を追うごとに見事な桜を咲かせ、ハミルトンの名所となり、市民の憩いの場となりました。
そして、2024年。桜が寄贈されて10周年の記念に、5月の日曜日に「桜祭り式典」が開催されました。東洋英和からは高橋副学院長(現学院長)はじめ英和関係者が多数参加されたのに加え、ハミルトン市長、ハミルトン選出のオンタリオ州議会議員、市議会議員、さらにロバート・オリファント外務政務官も参加しています。勿論、ハミルトン市民も、テントの中で肩を寄せ合って、この式典に参加されていました。
この日は、生憎の雨模様で、桜は既に葉桜になっていました。しかし、雨の中、緑が鮮やかでした。副委員長自らギター伴奏され、東洋英和の校歌も披露されました。
式典の後に、懇談の機会がありました。この式典の立役者である有賀博士とオリファント政務官は、40年前に、バンクーバー神学校で同級生だったというのです。桜の取り持つ縁、日本とカナダの友情が胸に沁みた1日となりました。
NHKスペシャルとハミルトン校長
2026年8月15日は終戦記念の日です。NHKは「少女たちの戦争 時を超える学級日誌」と題した特集番組を放送しました。東洋英和女学院に残る戦時中の「学級日誌」を手がかりに、戦争が少女たちの日常をどう変えていったかを描いたドキュメンタリーです。約100年続く学級日誌には、当初、勉強や友人、学校行事など、今と変わらない少女たちの日常が記されていました。しかし戦争が激しくなるにつれ、空襲警報、防空壕への避難、勤労動員が入り込み、1945年には生徒たちが召集令状を書く作業まで担わされた事実が淡々と語られました。
そんな中、カナダ人宣教師で校長を務めたフランシス・G・ハミルトンは、日加関係が悪化する中でも生徒たちの教育に尽力した姿が印象的でした。1941年12月8日、太平洋戦争が始まると、カナダは敵国になり、ハミルトン校長は帰国を余儀なくされました。生徒たちとの別れに際しては「必ず戻ってくる」と約束しました。戦後、ハミルトンはその言葉通り日本に戻り、東洋英和の復興に力を尽くしました。
因みに、ハミルトン校長はカナダに戻ると、日本人・日系人が「敵性外国人」とみなされ、強制移住させられている戦争の現実を目の当たりにします。そこで、ハミルトンはブリティッシュ・コロンビア州レモン・クリークの収容所に赴き、教育の機会を奪われた日系カナダ人の若者のために高校を創設し、校長として教えました。教え子には、マギル大学医学部教授になったヘンリー柴田もいます。戦争が日本とカナダを敵国同士にしても、彼女は日本との関係を大切にし、それを実践したのです。
2028年の日加外交関係樹立100周年へ
さて、2028年は、日加間に公式な外交関係が樹立された1928年から100周年の節目です。勿論、それ以前にも大英帝国の自治領カナダは存在し日本とも密接な関係がありました。が、外交関係樹立の意義は極めて大きいのです。少々歴史を振り返ります。
自治領カナダ(Dominion of Canada)は1867年7月1日に誕生します。自治領である故、憲法に該当するのは「英領北アメリカ法」という法律であり、その改正は英国議会の議決と英国王の勅許が不可欠でした。外交権はオタワではなく、ロンドンにあったのです。
一方、明治時代を通じて、日本と自治領カナダの関係は深まっていきます。最初の日本人移民、長崎県出身の永野万蔵がバンクーバーにやって来たのは1877年とされています。日本はカナダの主力輸出品である木材や海産物の主要な輸出先でした。1886年には、バンクーバーに領事館も設置され、多数の日本人がカナダへと移住して来ました。
更に、日英同盟が結ばれるとカナダ自治領との関係は、同盟国であるイギリスの一部として一層発展します。第一次世界大戦では、日本海軍とカナダ・ロイヤル・ネイビーは太平洋において共同で対ドイツ海戦を戦いました。
カナダが正式に主権国家となり外交権を持つのは、1931年12月のウエストミンスター憲章によってです。が、1926年に英国議会に提出された前首相バルフォア卿(注)による「バルフォア報告書」である程度の外交権が認められることになります。減衰する国力を冷徹に認識し、自治領として保持するより主権国家として独立させると同時に、英連邦の主要メンバーとして繋ぎ止める政策へと舵を切った訳です。(注:中東問題を巡る英国の3枚舌外交の一つ「バルフォア宣言」で有名な人物)
1928年とは、上述のようにカナダが自治領から主権国家へと覚醒していく重要な時期でした。この時期、カナダが外交関係を樹立したのは、フランス、米国そして日本のみだったのです。一方、この頃の日本は、普通選挙法が可決する一方で、治安維持法が成立。5.15事件が勃発し、大正デモクラシーで進展した民主主義的な社会が強権的なレジームへと変化し、徐々に軍国主義的な社会に移行する時期でした。
結語
1928年からの98年間は、太平洋戦争を挟み、日加関係が劇的に進展した時代です。東洋英和女学院は、それぞれの時代を象徴する学校と言えると思います。最近の具体例をいくつかあげます。
- 「カナダ研修」
中学3年~高校2年の30人が参加。ニューブランズウィック州のマウント・アリソン大学で、東洋英和生向けのESL授業を受け、大学生サポーターと交流しました。同大学は、戦前の東洋英和で長く校長を務めたミス・ハミルトンの母校でもあります。その後、現地の高齢者施設を訪問して住民と交流し、さらにプリンス・エドワード島でホームステイし、「赤毛のアン」の舞台を巡る特別ツアーに参加。 - マウント・アリソン大学との連携強化
2026年度から同大学への指定校推薦が始まったそうです。従来の「3週間程度の研修先」から、卒業後の進学先へと関係が発展。 - オンタリオ州の高校との交流
同じ2026年夏、東洋英和側がオンタリオ州の協定校Great Lakes Christian High Schoolを訪問。同校は東洋英和生の短期留学先になっています。 - オタワ大学との双方向交流
2025年11月に東洋英和女学院大学側がUniversity of OttawaのOfficial Languages and Bilingualism Institute(OLBI)を訪問。これを受け、2026年3月にはOLBIの担当者が東洋英和を訪れ、過去にオタワ大学へ留学した学生と、これから留学する学生との交流会を行っています。 - ヴィクトリア大学への学生派遣
2026年8月には東洋英和女学院大学の学生がUniversity of Victoria ELCで短期研修。英語授業に加え、文化交流、州議事堂、Royal BC Museumなどを訪問しました。
日加外交関係樹立100周年を迎える2028年は、日加間の新たな交流が始まる絶好の機会です。東洋英和女学院をはじめカナダとの関わりのある個人、学校、組織などで自由に知恵を出し合って、一層の交流強化に取り組んで参りましょう。
(了)
山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月から2026年7月まで第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身






















