はじめに
音楽ファンの皆さま、日加関係を応援頂いている皆さま、こんにちは。
オタワでは短い春が大いに盛り上がっています。世界最大級のチューリップ・フェスティバルが10日間にわたって開催されていて、オタワっ子の目を楽しませてくれました。
ちょうどヴィクトリア・デイの長い週末が過ぎたばかりです。元来は、大英帝国の繁栄を築いたビクトリア女王の誕生日(1819年5月24日)を記念して制定されました。期日は、5月25日より前で最も近い月曜日です。毎年日付が変わりますが、今年は5月18日でした。
既に5月も半ばを過ぎ、日によっては、最高気温が30℃に迫る日もあります。地球温暖化でしょうか。いずれにしても、ヴィクトリア・デイは初夏の到来を告げています。
そこで、音楽です。音楽体験は、極めて個人的な営為ですし主観的なものです。正に聴き方も十人十色。ですから個人的な事で本当に恐縮ですが、初夏の頃に良く聴く音盤がありますので、今回はこの話からさせて頂きます。
私にとって、初夏の音盤と言えば、ケニー・ウィーラーの『ヌー・ハイ』です。隠れた名盤です。
この音盤を初めて聴いたのが、私が佐世保の高校生の頃です。もう50年も前のことです。季節は初夏、或る土曜日の夕刻でした。翌日の全国模試を受けるため、M君と一緒に佐世保から博多に向かう在来線の中でした。M君は筋金入りのジャズ好きでしたが、大きな理由は、彼の3つ年上の兄の存在です。兄は既に東京の大学生で、古典から最新のものまでジャズを浴びていたのです。兄は弟にジャズ魂を授けていました。同級生で本気でジャズを聴いていたのはM君ぐらいでした。非常に大人びた雰囲気を持っていました。で、M君がその最新盤をカセットテープにダビングして私に聴かせてくれた訳です。ウォークマン登場前の時代す。それなりに大きいラジカセで聴いたのです。周りの客の迷惑にならぬよう、イヤホンで聴きました。勿論、ノイズ・キャンセリングなどなく、音質は悪かったです。
今でも、この音盤を聴くと、車窓から見える佐世保から佐賀を経て博多に至る西九州の風景や匂い、M君と語り合った事が昨日のように思い出されます。
前置きが長くなりました。今回は、この初夏の音盤の主、ケニー・ウィーラーです。カナダが誇るトランペット奏者にして作曲家です。
『ケニー・ウィーラー/ヌー・ハイ』とは

『ヌー・ハイ』は、ケニー・ウィーラー名義です。しかし、最初は、この音盤の最大のポイントはキース・ジャレットのピアノだと紹介されました。ジャズ愛好家なら、キース・ジャレットを知らぬ人はいません(田舎の高校生でも知ってました)。20歳で、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズでプロ・デビューして以来、ジャズの最前線を疾走する現代ジャズのスーパースターです。語り始めると延々と続くので端折りますが、キース・ジャレットは、アート・ブレイキーの後、一世を風靡したチャールス・ロイド・グループを経て、マイルス・デイビス楽団に参加します。名伯楽でもあるマイルスの下で頭角を現し、独立。それ以来、キース・ジャレットは常に自分自身が主役です。他のミュージシャンをバックアップすることは殆どありません。そういう意味では、『ヌー・ハイ』は、非常に例外的なのです。が、考えてみれば、キース・ジャレットをその気にさせる程の実力を持った男がケニー・ウィーラーだということです。
因みに、『ヌー・ハイ(Gnu High)』という奇妙なタイトルですが、ちょっとした背景があります。ヌー(gnu)は、アフリカのサバンナ地帯に生息する大型草食動物です。ヌーという発音がnew(新しい)に近いことから、ヌー・ハイ(new high)、つまり“新しい高み”という意味を込めたと解されています。この音盤は、ドイツ人マンフレッド・アイヒャーがプロデュースしECMレコードから発表されたのですが、静謐なアルバム・ジャケット写真といいヨーロッパ的な知的な諧謔が込められているようです。
初めて知ったジャズを聴く愉悦
この音盤は、正直なところ、最初は、良く分からなかったのです。背伸びして聴きました。でも、何かしら、胸に感じるものがありました。何度も聴くうちに、本当に好きになりました。田舎の高校生の胸を鷲づかみにするサムシングがあったのだと思います。ただ、今に至るまで、そのサムシングの正体は分かりません。上手く言葉にも出来ません。敢えて、群盲象を撫でる的な描写ですが、胸に沁みるものを列挙すると、ウィーラーのトランペットの混じり気のない真っ正直な音色。ウィーラーが紡いでいく即興のフレーズ。身を捩りたくなるような刺激等々。ウィーラーのトランペットを支えるキース・ジャレット率いるリズム・セクションの凄さ。主役ウィーラーのバッキングから解き放たれて、ピアノ独奏に移行して、アドリブを展開する時の高揚感。デイブ・ホランドの切れ味鋭い重低音。ジャック・ディジョネットの非常にカラフルな律動。ジャズ入門者の素朴な耳は完全にノックアウトされました。
『ヌー・ハイ』は、“世の中には、まだ君の知らない世界が大きく広がっている。音楽の密林の奥深く分け入っていけば、ジャズの楽園が君を待っている”と語りかけて来ました。もう半世紀前のことですが、鮮明に憶えています。
以来、この音盤を聴くたびに耳に残る美し過ぎる音の断片達に圧倒されて来ました。が、正直に言うと、随分長い間、ケニー・ウィーラーがカナダ人とは知りませんでした。
ケニー・ウィーラーはカナダ人
そこで、ウィーラーです。1930年1月、トロントに生を受けました。父親は、地元のバンドでトロンボーンを演奏するアマチュア・ミュージシャンでした。12歳で、トランペットを始めます。ジャズの洗練を受けるのに時間はかかりませんでした。メキメキと上達し、地元のダンス・バンドで吹き、頭角を顕します。
後年、ウィーラーは、透明感のあるピュアな音色を高く評価されるのですが、管楽器奏者の音色は、努力とは別次元の生まれながらに備わったタッチ・個性があるようです。若きウィーラーは、その美音で道を切り拓きます。
20歳でトロントの名門ロイヤル・コンセルヴァトワール(RCM:The Royal Conservatory of Music)で和声法を学びます。RCMは、1886年に創立され、1947年に国王ジョージ6世によりロイヤルの冠が付与されました。グレン・グールドやオスカー・ピーターソン、カナダの誇る錚々たる音楽家を輩出しています。
ウィーラーはRCMで学んだ成果を武器に、1952年、まず、モントリオールに進出します。今でこそ、トロントはカナダ最大にして北米第3位の大都市ですが、この当時は、モントリオールがカナダ最大で文化・芸術の中心でした。とは言え、万事英国スタイルのトロントからフランス風のモントリオールは随分と勝手が違ったはずです。言語もほぼ全てがフランス語ですし。
ウィーラーは、短期間のモントリオール滞在から、ロンドンへと大西洋を渡りました。ロンドンでも音楽の勉強を続け、対位法と作曲法をきちんと学びます。この音楽の基礎は、後年、ウィーラーがビッグバンドを率いて、自ら作曲した楽曲を演奏する上で、強力な基礎・土台を固めることに繋がります。
ロンドンにウィーラーあり
ロンドンを拠点としたウィーラーは、ダンス・バンドに参加し音楽家としての道をしっかりと歩み始めます。
ここで、カナダの若き俊英が何故、ロンドンなのかという疑問が沸くと思います。これには、時代背景があります。1950年代のカナダは、今のカナダとは全く違います。カナダ社会全般、特にトロントは、英連邦的な雰囲気が色濃く残っていました。その上、特にカナダ人音楽家、知識人、芸術家にとって、ロンドンは極めて重要な文化の中心地であり洗練された本場でした。腕を試すならロンドンだったのです。
とは言うものの、ジャズに限れば、世界の中心は圧倒的に米国・ニューヨークでした。但し、ニューヨークは生馬の眼を抜く苛烈な競争の場でした。音楽性と同時に商業性がないと勝負すら出来ない厳しい街です。一方、ロンドンは、英国独自のジャズ市場が成長している過程で、優秀なミュージシャンにとっては参入しやすかったという事情がありました。また、イギリス人からすれば、カナダ人には親近感を持てたとも言えるでしょう。
いずれにせよ、若きウィーラーは、ロンドンでジャズ音楽家の階段を登り始めます。そして、ロンドンに来て7年になる頃、大きなチャンスが到来します。ジョン・ダンクワース楽団への参加です。
実は、ジョン・ダンクワース卿は、英国ジャズ界で初めて爵位を与えられた音楽家で、英国ジャズ創世記の偉人です。卿自身、クラリネット・サキソフォン奏者にして作編曲家、そしてバンド・リーダーです。30歳を前に、ウィーラーがダンクワース楽団メンバーになるということは、ジャズ業界にあって、実力が認められたということです。
更に、1965年には、名門「ロニー・スコット・ジャズ・クラブ」のハウス・バンドに参加します。ウィーラーは、ビッグバンドの一員として安定的な収入は確保しできています。しかし、音楽的な冒険心が満たせているかと言えば、そうではありません。
ロンドンは英国の首都で、バッキンガム宮殿もあり、東西冷戦の下で国際政治の核の一つです。本質的に保守的な街です。が、こと文化・芸術の面では、常に実験精神旺盛で前衛・アヴァンギャルドの街でもあります。そんな中、ウィーラーは、一切の制約を取り払ったフリー・ジャズの世界にも足を踏み入れます。
1960年代は、ベトナム戦争、学生運動、前衛芸術が錯綜する疾風怒濤の時代です。ロンドンはビートルズ旋風の震源地である一方、前衛ジャズも盛んです。そんな状況で、ウィーラーにしてみれば、自身の作編曲で勝負したいという熱い思いが沸々湧いて来ます。とは言え、既に、40歳が目前です。遅れて来た鬼才にチャンスは来るのでしょうか?
ケニー・ウィーラーと『ドン・キホーテ』

1968年、ウィーラーは激しい歯痛でトランペットが数週間も吹けない状況で、焦っていました。その状況を見かねて、かつてのボス、ダンクワース卿が救いの手を差し伸べます。ウィーラーの楽才を認めていたボスは、トランペットが吹けないなら吹けないなりに、音楽を追求する方途はあるのだと道を示すのです。ウィーラーがそれまでに書き溜めていた楽曲を取りまとめて、アルバムを制作するのです。
アイデアや良し、実現するのは簡単ではありません。世の中には構想倒れに終わった企画は星の数ほどあります。録音されたままでお蔵入りになったテープも山ほどあるのです。
ウィーラーの場合、幸運だったのは、ダンクワース卿の力添えです。上述のとおり、ダンクワース卿は、英国ジャズ界のドンです。彼の楽団の猛者達が録音に加勢します。全曲、ウィーラーの作編曲。ジャズのメジャー・レーベル「フォンタナ」からリリースされました。コンセプトは、セルバンテスの傑作『ドン・キホーテ』の風車との対決を音楽で表現する、というものです。世界中で聖書の次に多くの人に読まれている物語を組曲にした、ジャズの到達点です。
38歳にして、デビュー盤をリリースするというのは、率直に言って遅咲きです。しかし、素晴らしい音楽に早咲きも遅咲きもありません。今の耳で聴いても全く古臭くありません。
辛口の批評家達も絶賛です。デューク・エリントン楽団やギル・エヴァンズ楽団の古典を引き合いに出して、ウィーラーの作編曲の斬新さと奥深さが認められたのです。
ウィーラーの名盤
ケニー・ウィーラーは、率直に言えば、大衆に支持され大きな商業的成功を収めた訳ではありません。同僚の音楽家や批評家から高く評価されました。商売より冒険を好んだ、と言うか、己の心の赴くままに、音楽を奏でることが出来た実に幸福な音楽人生でした。
膨大な録音を残しましたが、厳選の3枚プラスです。

まず、ビッグバンドから室内楽的な作品まで網羅した『Music for Large & Small Ensembles』(1990年)です。多くの批評家がウィーラーの最高傑作の一つにあげています。CD2枚組で、1時間40分に及ぶ奔放な音楽です。いつまでも聴いていたくなります。何故そう感じるのか、考えてみました。ここには、3次元的コントラストがあるのです。美しい旋律と構造を解体した即興、シンプルなハーモニーと複雑な和音、叙情性な静と攻撃的な動、聴く者の音楽的な好奇心を刺激し続けるのです。

次に、五重奏の傑作、『Double Double, You』(1983年)です。各楽器のスーパースターを招集して繰り広げるウィーラー・ミュージックの頂点です。マイケル・ブレッカー(sax)、ジョン・テイラー(p)、デイブ・ホランド(b)、ジャック・ディジョネット(d)が、お互いを鼓舞し、共に絶頂を目指す、ジャズの王道です。

最後に、カナダの歌姫ジョニ・ミッチェルの音盤『Travelogue』(2002年)への客演です。
結語〜カナダ的柔軟性と多様性
ウィーラーの音楽キャリアの大部分は、英国を拠点としていました。主要な音盤は、ミュンヘン所在のECMレコードで録音しています。国籍がカナダという以外は、極めてヨーロピアンな音楽家に見えます。
しかし、本人がどこまで意識していたかは知る由もありませんが、ウィーラーの音楽は、私にはカナダ的に聞こえます。まず、余白を大切にする空間的な広がりを感じさせる音づくりです。過度に自己主張しないプレイ。前衛のフリー・ジャズからクラシック音楽と見紛うばかりの洗練された和声まで、実に多様です。共演者に合わせて寄り添う利他的な姿勢。どれもとてもカナダ的です。
ケニー・ウィーラーは、初夏だけでなく、四季を通して、いつ聴いても、美しいです。何度聴いても、何かしら発見があります。
忙しい時にこそ、是非、彼の音楽に身を委ねては如何?
(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。
山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身


















