ジャズが紡ぐ日本とカナダの友情〜秋吉敏子の場合

 先日、カナダ産業省のサイモン・ケネディ次官と意見交換をしました。緊迫するウクライナ情勢の下でハイテク産業協力、エネルギー安全保障、更にはクリティカル・ミネラル(希少鉱物)安全保障等についての日加間の緊密な協力の重要性で完全に一致しました。とても実り多い会談でした。

 実は、本題に入る前にお互いの趣味である音楽、特にジャズについて話したんです。その際にマイルス・デイビスやジョン・コルトレーン等ジャズの歴史を切り拓いた巨人達について話しが弾んだんです。ケネディ次官は日本のジャズ音楽家にも詳しく、特にトシコ・アキヨシが大好きだと言いました。トシコ・アキヨシとは秋吉敏子さんです(以下敬称略)。日本を代表するジャズ・ピアニストにして作曲家・編曲家、バンド・リーダーです。若くして米国に移り、ニューヨークを拠点に活躍。グラミー賞ノミネーション14回、米国のジャズ・ジャーナリズムの最高峰ダウンビート誌で女性初の作曲賞と編曲賞を受賞、「ジャズの殿堂」入りも果たしています。紫綬褒章、旭日小綬章も授けられジャズ史に残る音楽家です。カナダ政府高官とのジャズ談義・秋吉敏子談義のおかげでその直後の本題が実にスムーズに運びました。ジャズが日加間の友好親善の一層の発展に貢献するのだと改めて実感しました。

 しかし、今回の連載で皆様にお伝えしたいのは、秋吉敏子という巨大な才能が如何にして発見されたかという事なのです。それこそ、1人のカナダ人と1人の日本人の真の友情の物語です。少々長くなるかもしれませんが、お付き合い下さいませ。

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 秋吉敏子は、1929年12月12日に満州で生まれ、小学1年生の時モーツアルトの「トルコ行進曲」を聴いて天啓を受けてピアノを習い始め瞬く間に上達します。が、45年8月15日の終戦で両親の故郷大分に引き揚げます。終戦直後の厳しい窮乏生活でしたが、秋吉敏子は米軍キャンプで米兵相手のジャズ楽団でピアノを弾き始めます。クラシックで鍛えた基礎と抜群の音楽センスで頭角を顕すと大分から福岡、そして東京へと進出します。日本人のジャズ音楽家、ジャズ愛好家の間では一目置かれる存在でしたが、レコードを出している訳はありません。はっきり言って一般的には無名の若く貧しいジャズ・ピアニストでした。但し、御本人の心象風景は日々ジャズの奥義に迫る充実した日々であったと著書「ジャズと生きる」(岩波新書)で述べています。

 1953年11月、そんな秋吉敏子に運命の出会いが訪れます。

 米国から名うてのジャズ音楽家集団JATPが初めての日本公演ツアーで来日中でした。JATPとはJazz  At  The  Philharmonicの頭文字で、ヴァーヴ・レコードの創始者にしてジャズ興行師のノーマン・グランツが率いる面々です。オスカー・ピーターソン、エラ・フィッツジェラルド等々のコンサートは大変な話題になりました。特に、「鍵盤の帝王」の異名を持つ天才オスカー・ピーターソン率いる彼のトリオは大人気です。実は、オスカー・ピーターソンはカナダを代表する音楽家です。首都オタワの中心に位置するナショナル・アート・センター前の銅像が象徴的です。英領ジャマイカ出身の鉄道員を父としてモントリオールに生を受けました。

オンタリオ州オタワにあるオスカー・ピーターソンの銅像。Photo from website of Culture, history and sport of Canada
オンタリオ州オタワにあるオスカー・ピーターソンの銅像。Photo from website of Culture, history and sport of Canada

  来日中のオスカー・ピーターソンは、東京に優れたピアニストがいるとの話しを聞きます。と、いうのも、1953年11月と言えば、マッカーサー元帥率いるGHQの占領が終わって1年半後ですから東京には駐留米軍関係者が多数いて、彼らの間でトシコ・アキヨシは凄いとの評判が立っていたのです。そういう経緯で、秋吉敏子が昼に出ている「テネシー・コーヒー・ショップ」にオスカー・ピーターソンが来店します。天才は天才を知る、と言います。有名か無名かは全く無関係で、国籍も年齢も性別も関係ありません。オスカー・ピーターソンは、一曲聴いただけで、秋吉敏子の素晴らしい潜在力を見抜きます。その日の夜は「クラブ・ニュー銀座」に再び秋吉敏子を聴きに来たのです。

 そして、オスカー・ピーターソンは、JATP総帥にしてプロデューサーであるノーマン・グランツに、秋吉敏子を録音するように言うのです。ノーマン・グランツにしてみれば、演奏を聴いた事のない無名の日本人の女性のピアニストです。が、「オスカー・ピーターソンが保証するのだから自分は聴く必要はない」と言って即断即決。契約と録音が決まりました。秋吉敏子の運命の扉が開いた瞬間です。

  一週間の準備期間の後、11月13日深夜から、有楽町駅近くのラジオ東京(現TBS)スタジオでノーマン・グランツ立会いの下、14日早朝までレコーディングは続きます。オスカー・ピーターソン・トリオからベースのレイ・ブラウン、ギターのハーブ・エリス、そしてエラ・フィッツジェラルドの伴奏陣からドラムのJ.C.ハードです。天下のJATPの世界最高峰の演奏家を率いて、ほとんどリハーサルも無く本番に臨みます。この時のセッションで、秋吉敏子のオリジナル『トシコズ・ブルース』を含め8曲がOKテイクとなります。これこそ秋吉敏子のデビュー盤「トシコズ・ピアノ」です。23歳の彼女の溢れる才能全開です。この音盤は、日本発売に先立ち、米国で1954年初頭にリリースされジャズ誌「ダウンビート」で3星を獲得。ジャズ関係者に注目され、3年後には日本人初のバークレー音楽院進学、ニューヨークを拠点としての八面六臂の活躍が始まります。

 1953年11月のカナダ人オスカー・ピーターソンによる秋吉敏子の発見がジャズ史に新しいページを開いたのです。日加関係の幅広さと奥深さを示す素晴らしいエピソードだと思います。

(了)

山野内勘二
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身