「メイナード・ファーガソン〜トランペット王国の仙人」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第8回

 音楽ファンの皆様、カナダ・ファンの皆様、こんにちは。

 冬になって屋内で過ごす時間も長くなり、音楽鑑賞の時間も増えている事でしょう。そこで、ちょっと時代を振り返ってみます。科学技術が発展する中で音楽の聴き方も随分と変わって来ました。1877年にエジソンが蓄音機を発明し、レコード産業が勃興します。初期のレコードは、78回転のSP盤、12インチで収録時間は最大5分。音質も100HZ〜2kHZで高音域の伸びないものでした。ベートーヴェンの交響曲の一つの楽章を聴くのに数枚のSP盤が必要な時代でした。が、音質面ではHiFi技術で30HZ〜12kHZに向上し、収録時間も片面で20分へと飛躍的に拡大したLP盤が誕生します。1947年の事です。

1.ハリウッドの寵児

 ちょうどその頃、1人のカナダ人トランペット奏者が、モントリオールからハリウッドに進出します。メイナード・ファーガソンです。当時も今も、才能に恵まれ野心あるカナダ出身の音楽家の卵達の多くが米国を目指します。でも、成功の保証はありません。実際に成功するのはほんの一握りです。競争は厳しく、楽器の腕前だけでなく、己を信じる力と「運」が勝負の別れ目です。

 そんな中、20歳メイナード・ファーガソンは、己のトランペットだけを頼りにエンタテインメントの聖地ハリウッドに乗り込みます。様々な楽団に客演しつつ、1950年1月には、弱冠21歳で実験的に40人編成のビッグバンドを短期間ながら組織する等、野心的で音楽的アイデアに溢れていました。そして、全盛を誇ったスタン・ケントン楽団に入団。因みに、この楽団は、アート・ペッパーやスタン・ゲッツらを輩出した事でも知られています。

 1950年代前半は、SP盤からLP盤が主流へと変わる時代です。ジャズの世界も拡大します。映画音楽でもジャズ的要素が本格的に導入されていきます。その頃、メイナードは映画会社パラマウント所属のトランペッターとなり「十戒」はじめ40作品以上のサウンドトラック盤の録音に参加します。評判が評判を呼び、他の映画会社でも録音します。

 そして、1956年、28歳で自らの楽団を率います。ニューポート・ジャズ祭にも出演。「メッセージ・フロム・ニュー・ポート」はジャズ史に残る名盤です。ハリウッドを拠点に活躍するメイナード・ファーガソンには、様々なオファーが来ます。最高水準の演奏技術と旺盛な好奇心の故です。

 例えば、1957年には、ジャズの老舗バードランドのドリーム・バンドへ参加します。1959年には、レナード・バーンスタイン率いるニューヨーク・フィルハーモニック・オーケストラに客演。現代アメリカの作曲家ウィリアム・ルソーの交響曲第2番ハ長調「タイタン」のトランペット独奏を担当しました。メイナードは活躍の幅を広げ、音楽的にも充実していきます。

2.モントリオールの神童

 メイナード・ファーガソンは、1928年5月、ケベック州ヴェルダンに生まれます。音楽好きの両親の下、4歳の頃からピアノとヴァイオリンのレッスンを受け、圧倒的な楽才を示します。8歳の時、教会で聴いたコルネット(トランペットの兄弟)の音色に魅せられ、親にねだってトランペットを買ってもらいます。そして、瞬く間に上達。音楽の確固たる基礎と情熱の成せる業でしょう。生涯の楽器との出会いがメイナード少年の運命を開きます。13歳でCBC(カナダ放送協会)オーケストラと共演し独奏パートを演奏。神童現ると大きな話題になります。そして、奨学金を得て名門モントリオール高校(現在のマギル大学附属高校)に入学します。ところがメイナード少年は、1年で高校をドロップ・アウトします。音楽で生きていくと決意したのです。人間誰しも、自分は何をすべきか、如何に生きるかについて思い悩み、自分探しします。自分の道を見い出すのに時間がかかる人も少なくありません。が、メイナード・ファーガソンの場合、15歳で人生の決断をした訳です。

 学業から解き放たれ、思う存分に音楽に打ち込むメイナード少年は、地元モントリオールのダンス・バンドに雇われます。歓楽街に集う客を前に演奏する事で多くを学んだ事でしょう。客を乗せ、刺激し、アンニュイな気分にさせる技も。やがて、自らが実質的リーダーとして楽団を率い、名をあげていきます。1940年代のモントリオールは歴史と文化に彩られたカナダ最大の都市でしたから、米国からスタン・ケントンはじめ有名楽団が公演に来ます。メイナードの楽団は、よく彼らの前座を務めていました。メイナードの演奏は、ジャズの本場、米国から来た強者どもをも虜にし、米国へ来るように誘われる訳です。そして、20歳にしてメイナードはハリウッドに旅立ち成功の階段を駆け上がる訳です。

3.ニューヨークからインド〜波瀾の時代、そして再び米国へ

 ハリウッドを拠点にメイナードは、20代から30代前半まで鮮やかに疾走します。が、変化の著しいジャズを取り巻く金銭主義に嫌気がさします。少年時代から音楽の女神に愛され、順風満帆の道を歩んで来たメイナードに初めて「波瀾の時代」が訪れたのです。

 1963年11月、35歳のメイナードは、レコード会社やジャズ・クラブとの契約を終了させると、家族を伴いマンハッタンの150kmほど北のハドソン渓谷の街ミルブルックに移住します。そこでは、ハーバード大学で心理学の教鞭を取るティモシー・リリー教授らが行っていたLSD等のサイケデリック薬物を使った実験に参加します。3年余に及ぶミルブルック実験が終わると、メイナードはインドのマドラス郊外へ移住します。1967年の事です。サティヤ・サイ・ババに心酔し、宗教哲学者ジッドゥ・クリシュナムルティの教えに立脚した学校で音楽を教え、ブラス・バンドを指導します。そんなインド生活が2年程続きます。

 そして、1969年。サイケデリック薬物とインド的スピリチュアル生活の6年を経て、“不惑の歳”を迎えます。心機一転。世界の音楽の中心ロンドンに移住します。新たにバンドを組み、英国のテレビに出演する等、音楽活動を本格的に再開します。1971年には世界最大のコロムビア・レコードと契約。

 73年にはニューヨークに戻ります。75年には再びハリウッド近郊のオーハイに移住します。フュージョン界の大物ボブ・ジェームスらとロック色の濃いポップな音盤を制作。時代の息吹を感じます。映画「ロッキー」のテーマを収録した「コンキスタドール」等、矢継ぎ早にヒット音盤を発表します。唯一無二のメイナードのトランペットは雄弁です。日本でもテレビのクイズ番組等でメイナードの音楽が流れました。

結語

 20歳で故郷を出た後の拠点は米国でしたが、メイナードはカナダ人です。1976年のモントリオール・オリンピックの閉会式では、主催国を代表する音楽家として演奏しています。メイナード自身にとっても、カナダの人々にとっても誇らしい瞬間であったと思います。

 トランペットはジャズという音楽の歴史を体現する特別な楽器です。創世記のルイ・アームストロング、ビバップ革命のディジー・ガレスピー、帝王マイルス・デイヴィス、更にクリフォード・ブラウン、リー・モーガン、フレディー・ハバードと強者どもの名が連なります。そんなトランペッター列伝にメイナード・ファーガソンの名は鮮やかに刻まれています。2006年8月に78歳の生涯を閉じるまで現役。実は9月には日本公演が予定されていました。

 ジャズ史上最高のハイノート・ヒッターにして、正確な音程、艶があって豊かな音色、超高速フレーズという3拍子揃ったメイナード・ファーガソン。カナダが生んだ偉大なるトランペッターでした。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身