「ダイアナ・クラール」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第14回

 音楽ファンの皆様、カナダ・ファンの皆様、こんにちは。

 8月も後半に入って来て空を見上げれば、入道雲のみならず鱗雲も目に入って来ます。朝夕には微妙に涼し過ぎる日もあります。夏の向こう側に秋が迫ってる感じもします。

 そんな8月の夕暮れ時に聴くのは、元気いっぱいのロック・ミュージックよりもしっとりとした味わいのジャズでしょう。で、カナダとジャズと言えば、何と言っても、オスカー・ピーターソンです。が、今回は、ピーターソンの孫弟子とも言えるダイアナ・クラールです。

カナダの歌姫

 ダイアナ・クラールは、カナダが生んだ最高峰の歌姫にしてピアニストです。が、ダイアナの凄さは、世界のジャズの歴史の中でも際立っています。例えば、ビルボード誌ジャズ・チャート初登場1位を獲得したアルバムの最多記録保持者です。その数、8枚。「ホエン・アイ・ルック・イン・ユア・アイズ」を筆頭に5度のグラミー受賞。圧倒的です。こんなジャズ・アーティストは、他にはいません。話題性や販売戦略を超えた実力の成せる業です。勿論、音楽性や芸術的価値とヒット・チャートに現れる商業的成功は同じではありません。が、数字は嘘をつきません。

 かつて、エイブラハム・リンカーン大統領は「全ての人を一時的に騙すことは出来る。一部の人を永遠に騙すことも出来る。しかし、全ての人を永遠に騙すことは出来ない」と述べて、国民の良識に対する絶対的な信頼を明らかにしました。流石リンカーン、現在、民主主義社会が直面する偽情報の問題に対して示唆に富む指摘です。

 話をダイアナに戻すと、8枚もの音盤を初登場1位にする音楽家は、単に時流に乗ったとか、運が良かったという次元ではなく「本物」だという事です。

 ダイアナの来歴もまた「本物」に相応しい物語に満ちています。

十歳で神童、十五歳で才人

 ダイアナは、1964年11月、ブリティッシュ・コロンビア州ナナイモに誕生します。父ジェームスは会計士でピアノを弾き、母アデラは小学校教諭で地元の合唱団メンバーという音楽一家でした。そんな家庭環境でしたから、4歳でピアノを弾き始めます。家のラジオで、ナット・キング・コール、ビル・エヴァンス、フランク・シナトラを聴いて育ちます。地元の高校に入ると学生ジャズ楽団のピアニストとして活躍。やがて、ナナイモのレストランでピアノを弾いてギャラを得るようになります。15歳にして、立派なプロのラウンジ・ピアニストです。

 17歳の時、バンクーバー・ジャズ・フェスティバルに出演。関係者は、ダイアナのピアノに非凡な才を直感します。カナダ社会の素晴らしい点は、音楽であれスポーツであれ学術であれ、才能の原石には機会が与えられて然るべきという理念が実践されている事です。ダイアナは、ジャズ・ピアノを本格的に学ぶための奨学金を得て、1981年、ボストンの名門バークリー音楽院に入学します。同級生には、小曽根真がいました。

 そして、1983年、バークリーを卒業します。ここまでは、一見順風満帆です。が、真の才能が開花するためには試練の時が必要です。

二十歳を過ぎれば只の人?

 ダイアナは、卒業するとナナイモに戻ります。この時、19歳。地元で地道に音楽活動を続けます。必ずしも、スポット・ライトの当たる場所ではありません。人口約10万人の地方都市のジャズ・ピアニストです。

 一方、同級生の小曽根は、首席で卒業。翌年には、大手ソニー・レコードからデビュー盤をリリース。同時に、巨匠ゲイリー・バートンの楽団のピアニストとして世の注目を浴びていきます。

 当時のダイアナの心中を知る由もありません。が、BC州の天才少女といえども、世界中から「我こそは」という猛者の卵達が集まるバークリーでは、直ぐにメジャー・デビューという訳には行かなかった訳です。世の天才・鬼才等を目の当たりにしたダイアナ。19歳で卒業ですから「飛び級」と言えます。それでも、大きな野心は挫かれたのかもしれません。

 考えてみれば、ダイアナにとって、バークリーの日々は、井の中の蛙が大海を知る千歳一隅の機会になったに違いありません。或るインタビューで、「マコト(小曽根真)のピアノを聴いた瞬間に、彼には叶わないと思った」と語っていました。

 卒業に際して、苦い思いもあったのかもしれませんが、バークリーは彼女の序章を彩ったのだと思います。そして、ここからダイアナ・クラールの本当の物語が始まります。

オスカー・ピーターソンの孫弟子へ

 芸術の世界でもスポーツの世界でも、飛び抜けた才能の原石は、如何に優れていても、眼力のある師に発見され磨かれるまでは、石でしかありません。BC州ナナイモに戻った若きダイアナも、原石のままでした。

 やがて、運命の出会いが訪れます。その前に、若干の注釈です。

 このコラムの冒頭で、カナダとジャズと云えばオスカー・ピーターソンだと書きましたが、更に続ければ、オスカー・ピーターソンの真骨頂はピアノ・トリオです。ピアノ+ドラム+ベースが生むメロディーとリズムとハーモニーが世界を魅了した訳です。鍵盤の帝王オスカー・ピーターソンの面目躍如ですが、極論すれば、最大の功績は実はベース奏者、レイ・ブラウンにあります。ブラウンのベースが和音とハーモニーの土台を的確に支えることで、オスカー・ピーターソンの左手がより自由に活躍出来るようになり、右手がますます流麗になり大きな成功をつかんだ訳です。ピアノ・トリオの名盤中の名盤「プリーズ・リクエスト」がレイ・ブラウンの勇姿を伝えています。ピーターソンの同志であり、数多くのジャズ・ベーシストが目標とするジャズ史に残る名手です。

 話をダイアナに戻します。1986年の事です。レイ・ブラウンがナナイモのとあるクラブでダイアナ・クラールの演奏を目にします。ジャズ史に刻まれる名手が、どんな経緯で片田舎ナナイモでダイアナを聴くことになったかは分からないのですが、おそらく、素晴らしいピアニストがいるとの噂がブラウンの耳に入ったのだと推察します。

 レイ・ブラウンは、ダイアナの演奏を聴くと非凡な才を見抜きます。あのオスカー・ピーターソンとほぼ半世紀にわたりトリオを組み、それ以外にもデューク・エリントン、ディジー・ガレスピー、ミルト・ジャクソン等々ジャズの巨人達と共演して来たレイ・ブラウンです。厳しい審美眼と耳を持っている訳ですから、他の人には見えないし聴こえないサムシングが分かったのでしょう。ナナイモを出てロサンゼルスに来て、更に研鑽を積むようにダイアナに勧めます。

 これを受け、ダイアナは思い悩み逡巡したようです。が、最後はジャズの巨人の強力な説得により、ロサンゼルス行きを決意します。この時も、カナダ芸術財団から奨学金を得ています。ここにもカナダの懐の深さが見えます。

 ロサンゼルスでの研鑽は3年に及びます。ダイアナは、ここで多くの貴重なエッセンスを学びます。まず、ジャズ・ピアノの奥義です。単なるテクニックではありません。それなら、若くして獲得していたのですから。ブルース・フィーリングの奥に在る本質。無限にある音の組み合わせから、これだという響きを瞬時に探り出す直感です。次に、歌です。ロサンゼルスで、ダイアナはピアニストから、ピアニスト兼シンガーへと脱皮します。実は、師レイ・ブラウンは、史上最高のジャズ・シンガー、エラ・フィッツジェラルドの夫でもありました。歌についてのAからZまで知悉しています。そのブラウンが、ダイアナの声の力を解き放ったのです。そして、ロサンゼルスは、世界のエンタテインメント産業の中心ハリウッドを擁しています。ここで、酢いも甘いも学ぶのです。

 そして、1990年、ダイアナは満を持してニューヨークに進出します。と言え、世界中から才能が集まり覇を競う街です。競争は苛烈を極めます。運と実力だけがモノを言います。ニューヨークを拠点に、ボストンやトロントでも演奏し歌も本格的に歌い始めます。

デビュー・アルバム

 昔、旺文社の大学受験ラジオ講座というのがありました。数学Iを担当されてたのが、東北大学助教授の勝浦捨蔵先生で、講義の前に必ず「継続は力なり」と仰ってました。正に、ダイアナの場合も、継続は力になります。バークリー卒業から9年を経た1992年10月18日と19日、自らの音盤録音の機会を得ます。ダイアナの28歳の誕生日の4週間前です。ハリウッドの録音スタジオに参集したのは、レイ・ブラウン門下の優れ者、ジョン・クレイトン(ベース)とジェフ・ハミルトン(ドラム)ら。ダイアナのピアノと歌を完璧にサポートします。2日間で12曲を仕上げます。

 が、問題は、この録音をどこのレコード会社からリリースするかです。エンタテインメント産業は、言わば究極の水商売です。慈善事業ではないので、売れる見込みがなければ、お蔵入りするだけです。残念ながら、大手のレコード会社は関心を示しませんでした。厳しい現実です。が、ここで、もう一つの幸運な出会いがあります。

 1983年、カナダはケベック州モントリオールでジャズとブルースに特化した新興独立レーベルが設立されたのです。「ジャスティン・タイム・レコード」で、カナダ人アーティストを世に出す事に注力します。ダイアナ・クラールのデビュー盤「ステッピング・アウト」は、遂にこの新興レーベルからリリースされます。大きな一歩です。ジャケット・デザインは初々しいダイアナの写真です。一方、デザインに色気が無いというか素人とくさいというか低予算という印象で、ほぼ自費出版のような感じです。はっきり言って、売れそうな予感はありません。が、ライナー・ノートは御大レイ・ブラウン自身が執筆。実際に聴けば、肝心の音は、高純度・高品質です。究極のピアノ弾き語り。ダイアナの歌は黒いです。芯が強く張りのある声です。話すように歌います。歌の根幹は、低音から高音域まで、正確な音程。でも、語尾は戦略的にズラして、聴く者の胸を掻きむしります。まるで黒人歌手が歌ってるようです。歌の後には、極上のピアノ・ソロが続きます。歌とピアノが完全に一体となって、ジャズの王道を行きます。

 セールス面では、この段階では、埋もれました。が、師ブラウンの推しもあって、ロサンゼルスの業界関係者がこの音盤を耳にします。

運命の扉〜トミー・リピューマ

 音楽制作の現場の主役は勿論、歌手であり演奏家ですし、作詞・作曲・編曲が作品の質を決めます。が、アーティストやアルバムの成功の鍵を握るのは、プロデューサーです。ビートルズを育てたのがサー・ジョージ・マーチンであり、ホイットニー・ヒューストンを育てたのがクライブ・デイビスという立志伝中のプロデューサーである事は、良く知られています。

 そこでダイアナの場合です。売れる予感のなかった新興独立レーベルからリリースしたデビュー盤をジャズ・フュージョンの大物プロデューサー、トミー・リピューマが聴いたことで、事態が急展開します。リピューマは、マイルス・デイヴィス、ジョージ・ベンソン、ポール・マッカートニーらの音盤を制作して来た人物です。YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)を世界に紹介した事でも知られています。そのリピューマがダイアナに未来の大器を見出します。と、1994年9月13〜16日の4日間、ニューヨークの超名門スタジオ「パワーステーション」で2枚目のアルバム「オンリー・トラスト・ユア・ハート」を録音。プロデューサーはかのトミー・リピューマで、メジャーのGRPレーベルからリリースです。残念ながら、この音盤はチャート入りはしませんでした。が、リピューマの確信は揺らぎません。

 翌95年10月、3枚目「オール・フォー・ユー〜ナット・キング・コール・トリオに捧ぐ」を録音。結構、地味なアルバムですが、ジャケットを見れば明らかなとおり、メジャー・レーベルの香りがしますし、聴いてみたくなります。96年3月にリリースされると、70週間もの間、チャートに留まり、グラミー賞候補になります。

 この後は、現代ジャズ・シンガーの歴史そのものです。最新作「ドリーム・オブ・ユー」は、成熟したピアノとボーカルで、リスナーを極上の時間に誘います。

カナダの誇り

 BC州ナナイモの天才少女を鍛えたのは、ボストンのバークリー音楽院であり、ロサンゼルスはハリウッドであり、ジャズの都ニューヨークです。彼女の才能を見出したレイ・ブラウンもトミー・リピューマも米国人です。が、カナダは2つの奨学金でダイアナに勇躍外へ出て行く機会を与えました。もしも、この奨学金が無かったとしたら、彼女の人生は相当異なったものになっていた可能性は否定できません。

 カナダ発の素晴らしい技術や発明やアーティストが、米国で大輪の花を開かせる事は少なくありません。市場規模でカナダの10倍、世界最大のマーケットですから、自然な帰結とも言えます。いずれにせよ、現代ジャズの歴史に大きな足跡を刻むダイアナ・クラールは、カナダの誇りです。同時に、大きな成功は簡単にはやって来ませんが、継続が力であり、素晴らしい人々の出会いこそが鍵だと、ダイアナの音盤が語りかけて来るようです。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身