「レナード・コーエン」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第4回

   皆様、こんにちは。

 10月も中旬にオタワでは晩秋の気配が濃厚です。長崎で育った僕にとっては、ほとんど冬ですが、燃えるような紅葉を見ていると、やはり秋なのだと納得します。読書の秋、食欲の秋、馬肥ゆる秋、で「芸術の秋」という言葉に思いが至ります。芸術と言うとちょっとペダンチックに響きますが、要するに、人間には己を表現したいという本能があるんだと思います。崇高で美しいものから邪悪で醜いものまで矛盾を内包する人間が、自らを虚心坦懐に眺めて、内側から溢れてくる思いが文学や絵画や音楽といった形になっているのだと感じます。

 そこで、今月は、カナダが生んだ真の芸術家ということで、レナード・コーエンを取り上げたいと思います。溢れる才能で文学と音楽の境界線を歩んだ偉人です。

1.きっかけはロバータ・フラック

 まず個人的なきっかけですが、僕が最初にレナード・コーエンを知ったのは、ロバータ・フラックの大ヒット『やさしく歌って』のLPを聴いた時です。田舎の高校生1年生でした。A面1曲目がお目当ての『やさしく歌って』です。ロバータの素晴らしい歌唱力に酔いしれアルバムを聴き進めてB面の最後に来た時、言葉でうまく言い表せない感動というか衝撃を受けたのを憶えています。

 それは『スザンヌ』という曲で9分45秒の長尺で、歌詞はよく理解できませんでしたが、ロバータの素晴らしい声で語るように歌われるシンプルな旋律に心が震えました。B面の最後だけ何度も繰り返して聴きました。こんな素晴らしい歌をいったい誰がつくったのだろうと思い、チェックしたらレナード・コーエンが書いた曲でした。そして、レナード自身の歌を聴いた時の印象は、ボブ・ディランみたいだな、というものでした。派手さはなく地味なんだけれど歌詞と旋律が一体となって迫るのです。

2.レナード・コーエンとは何者だ?

 その後、今に至るまで、折に触れレナード・コーエンを聴いて来ました。そして、敢えて一言で描写すれば、レナード・コーエンは己の表現を求めて82歳で逝くまで走り続けた生涯現役の本物の表現者であった、と思います。

 文学では小説「ビューティフル・ルーザーズ」が一押しです。今でも入手可能なカナダ現代文学の傑作の一つとされています。1966年に出版された時、辛口論評のボストン・グローブ紙が“ジェームス・ジョイスは未だ死せず。モントリオールにおいてレナード・コーエンという名で生きているのだ”と論評しています。

 音楽面では、英国の月刊音楽誌Qが選ぶ「歴史上最も偉大な100人のシンガー」で54位にランクされています。米国の「ロックンロールの殿堂」にも列せられています。代表曲の一つがコーエン50歳の時に発表した「哀しみのダンス」収録の『ハレルヤ』です。オタワに着任して5ヶ月が経ちますが『ハレルヤ』を知らないカナダ人に会ったことがありません。僕がこの曲を下手なりに口ずさむと誰もが喜びの表情を見せます。カナダの誇りなんだと思います。先般のエリザベス女王崩御に際してオタワで営まれた葬儀の式典でも歌われていました。

 全くのトリビアですが、中島みゆきの名曲「ヘッドライト・テールライト」のサビの部分にはこの曲のエッセンスが静かに継承されているように感じます。

3.芸術家の目覚め

 そんなレナード・コーエンの人生は、それ自体が神話のような凄い物語に満ちています。

 1934年9月21日、ケベック州モントリオール郊外のウエスト・マウントの正統派ユダヤの紳士服専門店の家に生まれます。

 まず、コーエンは詩人として世に出ます。モントリオールの名門マギル大学に在学中、22歳で詩集「神話を生きる」を出版。米国の国民的詩人ウォルト・ホイットマンや前衛作家ヘンリー・ミラーの影響から、卒業後はニューヨークに出てコロンビア大学院に入ります。が、得るものは無いとして退学します。かつて、マイルス・デイビスがジュリアード音楽院に入ったものの学ぶものは無いとしてドロップアウトした故事を彷彿させます。

 レナードの場合は、故郷モントリオールに戻る訳です。職を転々としつつ詩と小説を書き溜め27歳で2作目の詩集「スパイス・ブック・オブ・アース」を出版します。その後、カナダ文化協会賞の賞金を得ると、ギリシアはエーゲ海南東部に浮かぶ樹木も生えず自動車もない人口2千人程の小島ハイドラに数年間隠遁します。次々と詩集を発表。上述「ビューティフル・ルーザーズ」もこの頃の作品です。因みに、村上春樹「遠い太鼓」にギリシアの島での生活について書いている章があって、レナードの事をつい想像してしまいます。

4.音楽への道

 1966年、コーエンはハイドラ島からニューヨークに移住します。

 理由は、音楽です。

 文学では表現し切れない心の奥底の情念を表す手段としての音楽の力と可能性を直感したのでしょう。但し、レナードには、少年の頃、モントリオールの街角やカフェでカントリー・フォークを弾き語った程度の経験しかありません。それでも、音楽だとの天啓を感じたのはハイドラ島の隠遁生活の為せる業なのでしょう。或いは、真の芸術家の心の声だったのかもしれません。

 そして、隠遁から真逆の摩天楼では、アンディ・ウォーホール主催の会合に出没する中でヴェルヴェット・アンダーグラウンド(バナナのジャケットの音盤をご存知の方もいらっしゃるでしょう)のモデル兼歌手のニコとの知遇を得ます。目的を定めると、その実現のための最良の戦略と戦術を採用した感があります。ニコから歌について大きな示唆を得たといいます。それは、歌唱力の本質は、リズム感や音程の正確さというよりは、揺れる感情を自分に正直に伝える力量なのだ、という事です。聴けば、分かりますが、レナードは、歌もギターも決して上手い訳ではありません。ヘタウマです。味があり、個性的です。他の誰でもなくレナードだけに可能な方法です。それが聴く者の胸の奥の非常にデリケートな箇所で共鳴するのです。

 音楽の世界では無名のレナードの異能の才は、ニューヨーク移住から程なくして、伝説のプロデューサー、ジョン・ハモンドの知るところとなります。ベニー・グッドマン、ビリー・ホリデイ、ボブ・ディラン等々を世に出した男です。才能の原石に将来の輝きを見出したのです。

5.飛翔

 1967年12月、33歳にしてデビュー音盤「レナード・コーエンの唄」がリリースされます。ジョン・ハモンドの肝煎りです。1960年代後半は、ロック・ミュージックが凄い勢いで発展する時代です。ジミ・ヘンドリックスらのサイケデリック・サウンドが一世を風靡している状況で、生ギター主体の簡素なサウンドです。地味と言ったらこれ以上地味なサウンドはないかもしれません。が、此処には、時代の流行り廃れとは無縁の普遍性があります。語るように歌う『スザンヌ』には、詩人・歌手・作曲家・演奏家としてのコーエンの巨大な才能が集約しています。ロバータ・フラックは、この音盤に魅了された多くの人の一人という訳です。

 レナードの音楽的才能は更に開花していきます。1977年には、ビートルズやローリングストーンズも手掛けた音の魔術士フィル・スペクターのプロデュースで音盤「ある女たらしの死」を発表します。タイトルからして短編集を想起させます。音楽と文学が共存する稀有な42分34秒です。

 そして、レナード・コーエンの音楽の求心力を端的に示すのがR.E.M.ら18組が参加したカバー音盤「アイム・ユア・ファン」です。名曲は如何なるアレンジでも名曲である事を証明すると同時に、オリジナルの凄さを改めて感じさせます。音楽好きな方は是非、聴いてみて下さい。

   己の心の声に忠実に我が道を行ったレナード・コーエンは、カナダの誇りです。

(了)

山野内勘二
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身