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「カナダで出会った新渡戸稲造」⑥

sotokaramiru-nihongo

台湾で大仕事、国際連盟でも!

 この「カナダで出会った新渡戸稲造」ですが、バンクーバー新報に2017年6月から7回ほど掲載されました。その後、新たな発見や付け加えたいこと、そして少し直したいところなども多々見つかり、今回の新しいオンライン版バンクーバー新報に改めて投稿したく、よろしくお願いいたします。

***

 武士道を出版した翌年1901年、新渡戸稲造は台湾総督府の役人となり、技師として砂糖キビの改良に乗り出します。当時の台湾は日本の植民地であり、農業開発が大きな課題でした。そこで農学の専門家である新渡戸稲造に白羽の矢が立ちます。これは当時の台湾総督府の児玉源太郎と後藤新平による強い要請でした。台湾の農産業、特に糖業はひどい状況で、新渡戸稲造は念入りに調査し、風土に合った質の良い砂糖キビを外国から取り寄せます。戸惑う農民をやさしく説得し、古い製法を改善し、その後台湾の製糖産業は大発展を遂げることになり、新渡戸稲造は「製糖の父」として語り継がれてきたとのこと。素晴らしいですね。

稲造のおかげで台湾の製糖産業は大発展を遂げることになり、新渡戸稲造は「製糖の父」として語り継がれてきたそうです。 Photo © 矢野修三
稲造のおかげで台湾の製糖産業は大発展を遂げることになり、新渡戸稲造は「製糖の父」として語り継がれてきたそうです。Photo © 矢野修三

 台湾南部の高雄には日本統治時代の製糖工場跡があり、今は糖業博物館。そこに新渡戸稲造の胸像があると、台湾にいる生徒が教えてくれたので、胸像に会いたく、2016年に台湾を訪れ、高雄まで足を延ばしました。館長さんからいろいろ話を聞いて、台湾に親日的な人が多いのは新渡戸稲造がそのきっかけを作ったのだ、と強く感じました。2014年にUBCの新渡戸ガーデンに台湾の人から稲造の胸像が寄贈されたのも大いに頷けます。

高雄にある糖業博物館 Photo © 矢野修三
高雄にある糖業博物館 Photo © 矢野修三

 日本に戻った稲造は再び教育者として活躍します。1906年に第一高等学校(現東京大学教養学部)の校長に就任。教育者らしくない教育者として教育界に新風を吹き込みましたが、一部の学生や文部省などと意見の衝突もあったようです。そのころの日本は日露戦争の勝利などですっかり浮かれており、学生の間でも野球熱が高くなり過ぎ、早慶戦が中止になるなど社会問題になっていたようです。

 第二回目に書いた「出会いのきっかけ」の「野球害毒論」(朝日新聞)がこの時でした。でもなぜあのようなコメントを出したのか、どうしても理解できず、国際人・新渡戸稲造としては、かなりマイナスだったのでは、と思えてなりません。本人もあの世で「野球害毒論」だけは後悔しているよ、と勝手に想像してしまいました。女子教育にも力を注ぎます。1918年に創立された東京女子大学の初代校長に就任し、文筆家としても大活躍、ますます名声を高めました。

 大きな転機が訪れます。第一次世界大戦が終わると、1920年に世界平和を目的として国際連盟が作られました。日本代表として新渡戸稲造にまた白羽の矢が立ち、事務次長に就任。58歳、今度はスイスのジュネーブに向かいました。

 スウェーデンとフィンランドの真ん中にあるオーランド諸島は昔から紛争が絶えず、第一次世界大戦終了後も両国間で領土問題が起こり、一触即発。出来たばかりの国際連盟が調停役を務めました。その調停は、フィンランドが統治するが、言葉や文化はそのままスウェーデン式とし、オーランド諸島に高い自治権を与える。これが「新渡戸裁定」です。状況を熟慮し、白黒をはっきりさせず、寛容さを加えた、いかにも日本的な裁定として有名であり、オーランド諸島に平和をもたらしてくれた人として、今でも尊敬されているとのこと。フィンランドでも新渡戸稲造を記念して毎年「桜祭り」が行なわれていると聞きました。さらにユネスコの前身となる知的教育委員会を立ち上げ、アインシュタインやキューリー夫人を引き込んだのも新渡戸稲造であり、当時、国際連盟では「ジュネーブの星」として高い評価を受けていたとのこと。うーん、すごいですね。

 しかしながら、新渡戸稲造が台湾や国際連盟でこのような素晴らしい大仕事をしたことなど、日本ではほとんど知られていません。なぜ歴史授業の中で教えないのか、何か理由でも…、とても残念でなりません。

糖業博物館にある新渡戸稲造の胸像 Photo © 矢野修三
糖業博物館にある新渡戸稲造の胸像 Photo © 矢野修三
カナダのバッチを置いてきました Photo © 矢野修三
カナダのバッジを置いてきました Photo © 矢野修三

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カナダ保健省がモデルナ社ワクチンを承認

Parlament, Ottawa, Canada; File Photo by Japan Canada Today

 カナダ保健省が米製薬大手モデルナ社の新型コロナウイルスワクチンを承認した。12月23日に声明を発表した。

 「モデルナ社は10月12日に申請を行っていて、内容を徹底的に調べた上で、カナダ保健省の厳しい安全および有効基準を満たしていると結論付けた」という。

 モデルナ社のワクチンは現在のところ18歳以上の使用に限られるが、先に承認されたファイザーとビオンテックのワクチンのように摂氏マイナス70度で輸送、保管が必要ということはない。そのため都市から離れた地域でも、ワクチン接種が可能となる。

 さらにトルドー首相がファイザーとビオンテックのワクチンについても、来月25万本分の追加供給が決まっているとツィッターで発表した。1月31日までには、ファイザーとビオンテック、そしてモデルナで合計120万本のワクチンが届く見通しとなっている。

 モデルナ社ワクチンの承認については、ブリティッシュ・コロンビア州衛生管理局長ボニーヘンリー博士も23日夕方の定例会見で触れた。BC州ではこれまでに5603人がファイザー社のワクチンの接種を受けていて、モデルナ社のワクチンは来週に届く予定という。

モデルナ社ワクチンの到着予定について触れるトルドー首相のツィッター
ファイザー社ワクチンを接種するボニー・ヘンリー博士

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晴天に恵まれて賑わうスキー場

サイプレスマウンテンからのハウサウンドの眺望 Photo ©Cypress Mountain
サイプレスマウンテンからのハウサウンドの眺望 Photo ©Cypress Mountain

出かける前にはSNSなどで予約状況の確認を!

 晴天に恵まれたノースショアのゲレンデが、スキー客らで賑わいをみせている。

 今年は新型コロナウイルス対策で、利用者の人数を制限して営業しているほか、リフト券などの事前購入が必要となっている。マウントシーモア、グラウスマウンテン、サイプレスマウンテンともに、SNSなどで予約状況を確認の上で訪れて欲しいと呼びかけている。

 22日午後7時の時点で、グラウスマウンテンの翌23日のチケットは売り切れている。

マウントシーモアは12月25日まで、サイプレスマウンテンも23日まで売り切れ。

25日まで売り切れを告げるシーモアマウンテン
サイプレスは24日から1月3日までは22日午後7時の時点でチケットが残っている。

 BC Parksでは冬のハイキングなどで、シーモアマウンテンやサイプレスマウンテンを訪れる場合も、予め交通状況を調べて欲しいという。
@Seymour_Park_PO 
@Cypress_Park_PO 

渋滞を伝えるサイプレスの交通情報 

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オンタリオ、26日から州全域でロックダウン

 オンタリオ州全域がボクシングデー、26日よりロックダウンとなる。ダグ・フォード州首相が21日の会見で発表した。

 現在の規制の下では、今後も一日当たり1500人以上の人が新たに新型コロナウイルス感染すると見られている。さらに入院患者やICU病床使用率も増えていて、これ以上の感染拡大を阻止するために対策が必要となったという。

 ロックダウンの間は小売店やヘアサロン、フィットネスセンターなどが閉鎖。レストランやバーもテイクアウトやデリバリーのみの営業となる。スーパーマーケットなどは入店者の数を制限して開店する。屋内での社交的な集まりは禁止、屋外は10人まで、結婚式や葬儀などについては屋内、屋外共に10人までに制限される。

 期間は今のところトロントや首都オタワ、ハミルトン、ナイアガラフォールズほか、州南部の27の保険局が管轄する地域については1月23日まで、その他の地域は9日までロックダウンが継続される。

同時に中小企業への支援も発表

 フォード首相は、今回のロックダウンにより深刻な影響を受ける中小企業に対する支援、Ontario Small Business Support Grantについても発表した。従業員100人未満の企業に対して、1万ドルから2万ドルの支援を行うという。

 詳細や申請方法については追って1月に発表される。

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医療従事者らへの感謝、今度はライトで

Canada News by Vancouver Shinpo; Designed by ©Vancouver Shinpo

 新型コロナウイルスの感染が今年の春に急速に拡大した際、カナダで多くの人が午後7時に拍手をしたり、クラクションを鳴らして、最前線で戦う医療従事者らに感謝の意を示した。

 第二波の真っただ中で、バンクーバーコースタルヘルスが今度はライトアップすることで、コロナとの闘いを続けている医療従事者を応援しようという運動を始めた。懐中電灯やスマートフォンを使って外を照らすなど、どのような方法でもいいという。さらにソーシャルメディアに#ShareTheLightBCのタグをつけて投稿して欲しいと呼び掛けている。

 ただし、キャンペーンが始まってすぐに、航空機の運行に支障をきたして危険なため、レーザー光は使わないようにとカナダ運輸省が警告を行っている。Canadian Aviation Regulationsで個人の場合、最大で5000ドルの罰金が課される。
 

ノースバンクーバー市ブカナン市長もTwitterで
運動をサポート

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古川さん殺害、終身刑の男が控訴

古川夏好さんの友人や知人、そして多くのボランティアがチラシを配り、古川さんの行方を捜したが…
古川夏好さんの友人や知人、そして多くのボランティアがチラシを配り、古川さんの行方を捜したが…

 古川夏好(こがわ・なつみ)さん(当時30)が、2016年9月にブリティッシュ・コロンビア(BC)州バンクーバーで遺体で発見された事件では、2018年11月に裁判所がウィリアム・シュナイダー被告に14年間は仮釈放を認めない終身刑判決を言い渡した。しかし、翌年5月にシュナイダー被告が控訴して、今年10月16日に控訴裁判となるかを決めるための公聴会が開かれた。

古川夏好さん殺害事件

 バンクーバーに語学留学していた青森県出身の古川夏好さんが、2016年9月8日に友人とLineでのやり取りをしたのを最後に行方不明になった。警察だけでなく、友人らもビラを配ったり、Facebookのページを立ち上げたりと懸命に行方を捜していたが、同28日に空き家になっていたバンクーバーウエストエンドのガブリオラ・ハウスで遺体で発見された。

 この事件で犯人として逮捕されたのは、ウィリアム・シュナイダー被告(53)。夏好さんと並んで歩く姿が映っていた監視カメラ画像が公開されていた。

 警察犬が発見した遺体はスーツケースに入れられていたという。行方不明となってから3週間近くが経過して、遺体は腐敗が進み、検視官は死因を確定できなかったほか、被告を結びつけるDNAは検出されなかったとされている。夏好さんに外傷はなかったが、体内からは抗不安薬ロラゼパムの成分が検出された。

 被告は夏好さんの遺体をスーツケースに入れたことは認めたが、殺人については否認していた。裁判所は、2018年11月にシュナイダー被告に第二級殺人で終身刑判決を言い渡したが、2019年4月に被告が控訴。新型コロナウイルス感染拡大で延期となっていた公聴会が、10月16日と19日の2日にわたり開かれた。

被告は殺害を否認

 被告は前の裁判において誤りがあったとして控訴請求を行っている。2年前の裁判では、被告が逮捕される前に、前妻に電話をして事件について「I did it(私がした)」と話しているのを聞いたと被告兄が証言している。しかし、それは「I did it(私がした)」で「I killed her(私が殺した)」ではなく、十分な証拠ではないと今回の公聴会で弁護側は主張した。

 被告は夏好さんの遺体をスーツケースに入れたことは認めているが、殺人は否認していた。

 10月の公聴会で弁護側は判決を破棄して、裁判を新たに開くことを求めた。一方、検察側は先の裁判には何ら問題はなかったとして、異議を唱え、被告への原判決が維持されるべきとした。

 終わらない遺族の苦しみ

 夏好さんの母、古川恵美子さんは、バンクーバー新報の取材に対して、総領事館から被告が控訴をするようだと2019年4月に対して連絡を受けたと語った。そのときの気持ちについて、「夏好に謝罪の言葉すらなにひとつないのに、自分の主張だけを繰り返す相手に対して許しがたいものを感じました」と振り返る。

 さらに、終身刑判決が出た2年前の裁判についても、「裁判での被告の証言は嘘だとはっきりわかるようなことばかりでした」という。「命を奪ったうえに、人としての尊厳まで傷つけるような嘘の証言を平気でしていました」。

 夏好さんの体内から抗不安薬の成分が検出されたことについても、「風邪をひいても薬を飲まない、薬の嫌いな夏好の身体から、不思議なことに薬物が検出されました。その時に飲まされたとしか考えられません」と訴える。

 「ところがシュナイダーは夏好が自分から飲んだと嘘の証言をして保身に走りました。そんな数々の態度にいまだに憤りを感じています」

 控訴についても、「人の気持ちがあるのなら反省し罪を認め謝罪するところなのに、人の心を全く持たない人間がなぜまた弁護され守られようとしているのか、私には理解できません」と怒りと困惑を語った。

 今回の公聴会は、コロナ禍の中であったこと、またZoomでオンラインで行われたこともあり、恵美子さんは日本で視聴した。時差があるため日本時間で深夜の開始ではあったが、近くにいる息子たちと一緒に被告の主張を聞いたという。また、離れている息子らもそれぞれの家で、夏好さんの友人で現在も協力しているバンクーバー在住の4人がバンクーバーで、現在日本に住んでいる3人が日本で公聴会の行方も見守った。
 
 在バンクーバー日本国総領事館の担当者も公聴会の様子を視聴したそうだ。その後、総領事館からは英語で行われた公聴会の内容について、恵美子さんに連絡があったほか、「事件発生の時から今まで、なんらかの動きがあった時には密に連絡をくださっています。私たちが渡加したにも手厚いサポートをしてくださいました」と感謝を述べた。

 公聴会での主張を基に、裁判所が双方の主張について審議して、控訴の裁判が行われるかを決定する。再度裁判を行うかの決定には数カ月を要するとみられている。

***

古川恵美子さんコメント

 夏好は誰に対しても思いやりのある明るい娘でした。シュナイダーに対しても同じように接していたことは間違いないはずです。そんな夏好に対して自己中心的な行動をとり、命まで奪ったシュナイダーを絶対に許すことはないと思っています。

 事件後から私たちの生活は正常なものではなくなり、体調を崩し、病気に苦しめられています。

 私の母に至っては孫の夏好の変わり果てた姿を初めて見たその日に悲しみのあまり倒れ、救急車で運ばれました。それからの3年間、何度も入退院を繰り返し、とうとう昨年亡くなりました。

 もうこれ以上誰も苦しめないでほしいし、誰にも迷惑をかけないでほしい。一生、刑務所でから出てこないでほしい。

 事件が起こったのは、夏好がバンクーバーに住むようになってほんの3~4カ月しか経っていないときでした。にもかかわらず、夏好が消息不明になってから多くの方々に寝ずの捜索活動をしていただきました。

 夏好が発見されてからは右も左もわからない私たち遺族はバンクーバーの皆様にさまざまな形でサポートしていただきました。

 そして今もなおずっと支えていただいています。

 息子たちはまだ完全に元の精神状態には戻れていないようですが、少しずつ笑顔を取り戻してきています。私もようやくここ最近から、いくらかずつ仕事ができるようになってきたように感じています。

 夏好を失った私たち家族は肉体的にも精神的にも過去に経験したことがないほどの苦しい毎日を送ってきました。

 しかし、こうして今なんとか生きていられるのはバンクーバー総領事館の職員の方々をはじめバンクーバーのコミュニティの皆様のおかげと言っても過言ではありません。

 どんなに感謝の言葉を重ねても気持ちは言い表せないほど感謝しております。

2016年、古川さんの行方を探して情報を求めたバーナビーRCMPのTwitter

(取材 西川桂子)

ビッグホワイトスキー場で60人感染(更新)

ビッグホワイトスキー場 Photo by Keiko Nishikawa
ビッグホワイトスキー場 Photo by Keiko Nishikawa

 更新情報 ビッグホワイトは新型コロナウイルスクラスター発生に関連して、スタッフを解雇したと16日発表した。

 解雇されたスタッフはリゾートとの間の契約に違反したという。ビッグホワイトでは新型コロナウイルスの症状がある場合、接触のあった家族やルームメイトに症状がある場合は職務にはつかない、政府が定めたソーシャルギャザリングについての規則に従う、などを定めた契約書、『Social Responsibility Contract』をスタッフとの間で交わしていた。

 またスタッフは毎日仕事を始める前に、健康状態を確認する『Health Declaration』に署名している。

 クラスター発生を受けて、RCMPが地域のパトロールを強化している。 

 オカナガンにあるスキー場、ビッグホワイトで新型コロナウイルスのクラスターが発生した。ブリティッシュコロンビア州内陸部を管轄する保険局、インテリア・ヘルスが12月15日に発表した。

 インテリアヘルスによると、確認した感染者は約60人で、宿泊施設をシェアしていた人の間で発生している。最近、ビッグホワイトを訪れた人も、現在、濃厚接触の連絡がなく、滞在中、同居家族とのみ過ごしていた場合は、リスクは低い。

 クラスター発生の発表を受け、ビッグホワイトでは「働いていたスタッフやスタッフとスキー場利用者の間での感染については確認していない」、「クラスターは一緒に宿泊していた人たちの間で、またソーシャルギャザリングによるもの」との声明を出している。リスク軽減のためにRCMPなどとも話し合いを行っているという。

 ビッグホワイトはオカナガンのケロウナ近郊にあるスキー場で、シャンペンパウダーと呼ばれる雪質の良さで人気がある。

日本に一時帰国、入国体験をレポート19:11月バンクーバー着、自己隔離

ArriveCanアプリをダウンロードするページのスクリーンショット。Photo © the Vancouver Shinpo
ArriveCanアプリをダウンロードするページのスクリーンショット。Photo © the Vancouver Shinpo

 カナダ政府は3月25日、入国者に対する14日間の自己隔離を義務付けると発表した。この措置は12月17日現在も継続中で、11月21日からは最終目的地がカナダの渡航者に対して、連絡先、自己隔離プラン、搭乗前の新型コロナウイルスに関する自己診断、さらにカナダ到着後は隔離先に到着した旨の報告、隔離中の健康状態を、アプリArriveCANで報告することを義務化した。

 今回は3週間日本に帰国した後、ArriveCANを使ってカナダに戻って自己隔離を行った体験談を紹介する。

***

空港から自宅へは家族が迎えに

 カナダ帰国前に悩んだのが、隔離場所となる自宅までの移動手段だった。タクシーを利用したという話を新報レポートで読んだ。友人も家族には迎えに来てもらわず、タクシーに乗ったという。しかし、カナダ政府のウェブサイトには、「できれば、プライベートな乗り物を使う」とあるものの、交通手段については明確な指示はない。

 迎えに来てもらうことで家族が隔離にならないか心配したが、最終的に甘えることにした。ただし、途中、寄り道はしないとあったので、自宅に直行した。

 また、「プライベートな乗り物に一人で乗っているのでなければ、適切なマスクなどを常に使用すること」とあったので、車内ではマスク着用。フィジカルディスタンスについては書いていなかいので、助手席に座って帰宅した。

3週間ぶり!隔離場所となった自宅

 隔離場所については、65歳以上の高齢者や免疫系に問題がある人と一緒だったり、大家族が暮らす場所はNGだが、一緒に渡航しなかった人とベッドルームが別ならOKということだったので自宅にした。

 幸い、使っていない部屋があり、バスルームも隣にある。キッチンはシェアになるが、「マスクをして、一緒に利用するときにはフィジカルディスタンスを取る」と良いとのこと。「共用エリアはしっかりと、定期的にきれいにすること」ということなので、消毒液と使い捨てのゴム手袋も用意してもらった。

 3週間ぶりに家族に会ったがハグはせず。マスク着用で過ごした。

ArriveCANの表示が変わらない?!

 カナダ入国時の指示に「48時間以内に自己隔離場所に到着したことをArriveCANで報告する」とあった。そこでArriveCANのアプリを開くが、初期画面になっていて報告の仕方が分からない。「How are you entering Canada」で飛行機を選ぶと既に答えた質問が表示される。

 私より一足先に日本からカナダに戻った友人が2人いたので聞くと、そのうちにArriveCAN登録に使ったEmail addressにメールが届くので、メール内のリンクをクリックすると報告できるという。

 木曜にカナダに戻ったが金曜にはメールは届かず。「土曜に届かなかったら、到着して48時間過ぎてしまう」と焦ったが、土曜に起きると届いていた。リンクをクリックして、到着を報告した。

ArriveCANからのemail © The Vancouver Shinpo
ArriveCANからのemail © The Vancouver Shinpo

 しかし、今度は次の「毎日、体調を報告する」ができない。友人の話ではArriveCANが初期画面から報告画面に変わるというのだが変わらない。

 「自己隔離場所に到着したことを報告した翌々日ぐらいから、ArriveCANの画面が変わって、体調が報告できるようになった」という。私の画面は3日しても変わらない。隔離場所への到着報告に失敗したのか? 困ったな…と思っていると、BC州から電話があった。(携帯の表示はProvince of BCで、250で始まる電話番号だった。”Government of Canada”と名乗った)

 隔離場所に到着したか、食料などの必需品の買い物は大丈夫か聞かれて、最後に体調の確認があった。渡りに船!とばかりにArriveCANの体調確認できないと訴える。が、担当が違うので、ウェブサイトのヘルプの電話番号に問い合わせるようにとアドバイスを受けた。隔離終了日も念のため聞いた。木曜に到着だったので、到着した時間に終了かと思ったが、深夜で隔離は明けるとのこと。木曜はフルに動けそうでホッとする。

2週間、電話で体調報告

 ArriveCANのヘルプの番号(1-833-283-7403)に電話をすると、アプリの「Notification」を見るようにいう。が、既にNotificationもチェック済みだ。何も出ていないと説明すると、別の電話番号(1-833-641-0343)をもらった。ArriveCANアプリを直してもらえるのかと期待したのだが、電話で体調報告をするための番号だった。アプリを使うことができない人はこの番号で報告するらしい。

 結局、友人たちとは違い、毎日、電話をして報告することになり、面倒だった。カナダ到着日、生年月日、ArriveCANに入力した電話番号(国番号も必要だったので、私の場合は1604xxxxxxxと入力した)と数字を押し、最後に健康状態についての質問に答える。

 政府からの電話は到着後すぐと、隔離明けの前日の2回あった。隔離明け前日は最初の電話を取り損ねてしまった。メッセージを聞くと、政府からもう一度電話があるので待てとのこと。ルールを守っているのだから慌てなくてもいいのだが、2度目の電話がきて話をするまでなんとなく落ち着かなかった。

辛かったカナダでの隔離

カナダ政府の隔離ルール © The Vancouver Shinpo
カナダ政府の隔離ルール © The Vancouver Shinpo

 日本での自己隔離と比較して、私にはカナダでの隔離はずっと辛く感じた。

 日本の自己隔離は「検疫所長が指定する場所(自宅等)において14日間の待機をお願いすることとなります。また、ご自宅等へは公共交通機関を使わず、ご家族やお勤めの会社等による送迎でのお帰りをお願いすることとなります」とある。

 カナダは自己隔離のルールを破ると罰金を科せられるが、日本の場合はお願い、要請だ。日本入国時に外出が可能かを聞いたところ、混みあっていない時間にマスクをしてコンビニなどに行くことはできるということだった。一方、カナダは罰金が科せられていると聞く。

 日本とは違って、カナダでは外に行くこともできず、バルコニーのようなプライベートの屋外スペースを使うこととなっている。言わば「缶詰め」だ。外の空気を吸うようにはしたが、息が詰まった。*注

 それから私の場合は同居の家族に買い物を頼むことができたが、そうでない場合はしっかり準備する必要があるなと感じた。日本に3週間いると、何となくカナダの生活のリズムに戻すのにも時間がかかる。買い物をしてもらって、さて料理しようと思ったら、醤油を切らしている! いつもなら自分でもう一度買い物に出かけるのだが、家族に頼むとなると気を遣った。

*注)カナダでの自己隔離中、人がいない時間帯に散歩をしたという人について聞いた。ブリティッシュ・コロンビア州の隔離の注意(Dos and don’ts of self-isolation)を見ると外出も可能となっている。一方、連邦政府の「Coronavirus disease (COVID-19): Travel restrictions, exemptions and advice」では外出できない。

 カナダ政府に問い合わせをしたところ、海外からカナダへの渡航は連邦政府管轄なので、連邦政府のルールを守るようにとのこと。すなわち、外出は不可ということのようだ。

*記事中の個々のサービスなどに関する感想は取材協力者の個人的な感想です。

(取材 西川桂子)

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「年末年始は着物でより華やかに」

カナダde着物

第9話 季節*歳末

 今年もあとわずかとなりました。今まで経験したことのないコロナ禍の中での冬を迎えております。まだまだ予断の許さない状況とは理解しておりますが、この現実の中でも「いつも心に花束を…」と思いながら、静寂と平安の中で年末年始を過ごせたら幸いです。

いつも心に花束を Photo © コナともこ
いつも心に花束を Photo © コナともこ

「年末年始に映える着物姿」

  年末年始は1年のうちでも一番着物が映える時かも知れません。忙し時期でもありますが、少し頑張って着物で出掛けましたら、気持ちは着る前とかなり違うと感じられるかと思います。

 人が精神的に影響されるものは、自分から一番近いものだそうです。ということは、毎日身にまとうものに私たちは何かしら影響を受けているということでしょうか。制服姿などは、その職業になりきることができますね。どこか演じているようでもあります。

 着物姿の時は他の自分になれるのかも知れません。年末年始はいつもより少しだけ華やかな着物を選んでみませんか。表情などが変わると同時に肌の色つやも明るくなると思います。

「ハレとケ 日本人の心の習慣」 

 日本には”ハレとケ”(*1)という考え方が生活の中にあるようです。ハレが非日常で、ケが日常となります。良い日もあれば上手く行かない日もある。それでもハレの日は華やかに過ごすことで、ケガレを落とし、また日々の生活を繰り返していくという、古くからの日本人の生き方なのでしょう。

 ”晴れの日”とも呼ばれる中で代表的なものは、結婚式、成人式、七五三などですね。あとは昔ほどではないのですが、宗教的な儀式を通してハレの場を一生のうちに何度か経験するかと思います。もちろんハレばかりでもメリハリがなく、つまらないものになってしまいます。ケと言われる日常があっての晴れの日なのですね。ちなみにお葬式はケガレと呼び分けているようです。

 ハレとケという感覚は着物にも深くかかわりがあり、目的によって着物の種類を分けてきた日本人にとっては、ドレスコードの基本となります。私もそれを意識して日々の着物選びをしております。

 さて、当地カナダ事情はどうでしょうか。私はカナダに移住してから、夫のルーツであるヨーロッパ系の慣わしや儀式を教会ですることが多いです。カナダの皆さんは、儀式といっても参加者はビジネスぐらいの装いで、ネクタイ姿が正装に見えるほどカジュアルで気楽な感じですね。

 日本人ほどハレとケという感覚は強くはないようです。私が一番に思いつくのは、カナダでは隣組のようなコミュニティーはないので、町内のお祭りなどはほぼ皆無です。「隣は何をする人ぞ…。」という感じで、コミュニティーは各自のバックグランドや宗教別で、それぞれが集まっているように見えます。

 もしかして、そのグループの中ではハレとケというような習慣があり、それぞれの儀式や活動ではそれに伴い民族衣装などを着ているのでしょうか。

 私が始めました”和の学校@東漸寺”では、まさに日本の歳時記を通してハレとケを継承する活動をしております。今年の夏は中止になりましたが、お寺でのお盆参りや過去にしました子どもの地蔵盆などは、普段着ない浴衣や着物で盆踊り、スイカ割り、お茶会をして、ハレの日を楽しむものです。

 コロナが収束し、皆さまと集まることが可能になりましたら、”ハレとケ”に習い、また年中行事をしていきたいと思います。皆さまも是非ご参加くださいませ。

東漸寺での地蔵盆*子ども達によるお茶会 Photo © コナともこ
東漸寺での地蔵盆*子ども達によるお茶会 Photo © コナともこ
和の学校@東漸寺*子ども達による雛祭茶会  Photo © コナともこ
和の学校@東漸寺*子ども達による雛祭茶会 Photo © コナともこ

「ハレの日の着物」

 コキットラムにあります東漸寺では、残念ながら今年の大晦日の除夜の鐘、元旦の初詣は中止及び延期となりました。いつもですと何百人の参拝者で賑わうそうです。これからの状況によりますが、またお寺が再開した際には着物でお参りにお出かけしてみませんか。

 そうです。ハレの日の着物ですね。着物と帯、どちらもおめでたい柄は沢山あります。その中でもお正月に合うものは、松竹梅、橘、南天、宝づくし、鶴亀などの文様が代表的なものでしょうか。華やかで格式高い図柄は、周りの皆さんにもとても喜ばれることでしょう。

東漸寺でのお正月*初参り Photo © コナともこ
東漸寺でのお正月*初参り Photo © コナともこ
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東漸寺でのお正月*着物チーム Photo © コナともこ

ゆく年くる年

 今年は多くのイベントや行事がキャンセルになり、着物どころか洋服でも出かけられない日々でした。2021年はどのような年になるでしょうか。丑年は「我慢(耐える)」、「これから発展する前触れ(芽が出る)」というような年になるといわれているそうです。

 新しい年が皆様にとりまして 幸多き年となりますよう心よりお祈り申し上げます。

コナともこ

(⋆1)ハレとケ  暮らしの歳時記より http://www.i-nekko.jp/

 古来より、日本人は、普段通りの日常を「ケ」の日、祭礼や年中行事などを行う日を「ハレ」の日と呼び、日常と非日常を使い分けていました。「ハレ」の日には、晴れ着を着たり、神聖な食べ物である餅や赤飯を食べたり、お酒を飲んで祝ったりして、特別な日であることを示します。古来より、日本人は、木にも火にも水にも神様が宿っていると感じ、これを「八百万の神」といって大切にしてきました。そして、身辺で起こるよいことも悪いことも、神様のおかげ、神様のせいと考え、人々は祭り(祀り)をつかさどるようになりました。祭りの華やかさ、行事の晴れやかさ、ケガレを落とした後の清々しさが「ハレ」であり、「晴れ晴れ」「晴れ着」「晴れ姿」など「ハレ」の気持ちを表した言葉がたくさんあります。

カナダで楽しむ着物の世界、「着物語り」の連載を始めるコナともこさん  Photo © コナともこさん
カナダで楽しむ着物の世界、「着物語り」の連載を始めるコナともこさん  Photo © コナともこさん

コナともこ
アラフィフの自称着物愛好家。日本文化の伝道師に憧れ日々お稽古に励んでおります。

10年前からコキットラム市の東漸寺で「和の学校」を主宰。日本文化を親子で学び継承する活動をしております。

カナダ人の夫+高校生と大学生3人娘+老犬1匹と暮らしております。バンクーバー近郊在住。

和の学校ホームページ https://wanogakkou.jimdofree.com/
Facebook https://www.facebook.com/tomoko.kona.98
Instagram https://www.instagram.com/konatomoko/?hl

第103回 『ふっと死ぬ前に…』5

グランマのひとりごと

~グランマのひとりごと~

日が照れば、動物にとって晴れ、
雨が降れば、植物にとって晴れ。

立場を変えれば、相手が見えて来る
見方を変えれば、世界が見えて来る…..かぁ? 正観

 移民生活が始まった。荷物も収まり、子供の学校も順調だ。登校開始から数日目、2人の娘がスクールバスから降りて来た。

 長女の後になんとごそっと数人の子どもが付いていた。友達を連れて来たのだ!

 入学僅か数日でこんなに友達が出来るのだ! 喜んでよいのか悪いのかねぇ。でも楽しそうに、我が家の広々とがらーんとした、何もない地下室で遊ぶ子供達、その姿は平和で幸せそのもの。雪が窓下まで積もっている。次女も皆と一緒に遊んでいる。

 その子供達の両親は日中働きに出ているから、子供達を家で待つ人は居ない。淋しいのだろうか?それからほぼ毎日、子供達は夕方まで我が家で遊んでいた。結構、それがグランマにも楽しい。子供を迎えに来る親達とも、近所だから互いに行き来が出来た。

 ある日、義弟夫婦がテレビを観ながら、こう言った。「あの政党のラベック(⋆編集部注 René Lévesque。第23代ケベック州首相)が勝ったら、皆でバンクーバーへ越さないといけないなぁ」

「ケベック独立を叫んでいるからね。」

 そして、ラベックは勝った。「静かな革命」はもう始まっていた。

 義弟はBC州のウォーカース コンペンセンションボードに就職決定、義妹も銀行就職決定。2月末にはもう2人はバンクーバーへ越して行った。私達は義弟の小さく可愛らしい家をそのまま買い取り、住み続けた。

 その頃から夫の職探しが始まった。義弟は仏語が分からない人の就職難についてさんざん話してくれたが、私達には理解できていなかった。

 土木建築家の夫は自信があったのだろう。しかし、現実に就職は難しかった。グランマは移民前、もしモントリオールへ行ったら、英語と仏語を勉強しようと決めていた。

 しかし、今、そこで夫が就職難なら、自分も働かねばと予定変更。日々、職安へ通った。

 あれだけ得意がっていた、IATAのライセンスも仏語が分からねば有効ではなかった。日本語も広東語も助けにはならなかった。

 結局、職安が推薦する仏語学校へ入学。学費は無料、週75ドルの生活補助金配布。週1回のグロサリーが50ドル前後の時代だ。

 夫は転々と職探し、しかし、結局、なんと友人経営のレストランを手伝い始めた。非常に料理の好きな人だから黙ってレストラン内の仕事、料理から会計、仕入れ迄よく頑張っていた。

 ある時、彼がふっとこう言った。「テーブルの上にね、『No French no TIPS』って紙が置いてあったのだよ」と半分笑いながら言った。しかし、その顔は淋しげだった。

 世間ではモントリオールに本店がある銀行、その他大手会社は次々とトロントへ本社移転。街は公然と仏語が公用語となり、道路標識も仏語、中華街の看板まで仏語だ。

 運転免許の取り直しに習いに行くと、全てフランス語。

 教習指導員が「マダム トヨタ」というので、何だろうと思ったら、私の事だった。次の日は「マダム ホンダ」ある時は「マダム鈴木」と私の名まえが毎日違う。

 そして、運転して回る市内は全て仏系人歴史の授業みたいだ。

 フランス文化の香り高い異国的な雰囲気、町中にある数々の教会、石畳のヨーロッパ調の町並、オールド モントリオールに来るとは此処で仏系の政治家の誰それが絞殺された。

 セントローレンス川の橋を渡ると、この大きな橋は仏系カナダ人が強制労働で造ったのだ。仏系カナダ人がどのように差別をされて来たかを、運転を習いに来た日本人カナダ移民女性に一生懸命教えていた。

 こういうカナダ人たちがケベック州の独立を必死で願っているのだろう。

 マギール大学教授が多数トロント大学に移ったと言う。カナダの大学の良悪しは大学の教授の質によって決められるそうだ。近所の女性ボーリンク クラブは70名ほど会員だったが、ここも気が付くとなんと30名以下、英語を話す会員の殆ど皆トロントへ越して行った。

 しかし、私は「北米のパリ」このモントリオールが堪らなく好きだった。

 

グランマ澄子

***

 好評の連載コラム『老婆のひとりごと』。コラム内容と「老婆」という言葉のイメージが違いすぎる、という声をいただいています。オンライン版バンクーバー新報で連載再開にあたり、「老婆」から「グランマのひとりごと」にタイトルを変更しました。これまでどおり、好奇心いっぱいの許澄子さんが日々の暮らしや不思議な体験を綴ります。

 今後ともコラム「グランマのひとりごと」をよろしくお願いします。

第46回 核兵器と言う魔物

核兵器科学者の暗殺

 先月末、イランの核兵器開発疑惑の総指揮者と思われていた科学者モフセン・サクリザデ氏が暗殺され、30日にテヘランで葬儀が行われた。ニュースは世界に流され、イランはイスラエルの仕業だとなじり、米国が大統領選でドタバタとやっている時機であったことから、緊張が一気に高まった。

 イスラエルやイランを含む中東の国々の関係は、歴史、外交、宗教、政治、経済など多方面の問題が複雑に絡み、スンナリと理解出来ない事が多い。特にこの暗殺事件のように対立した両国の間で起こる問題は複雑だ。一般的にはイスラエルがイランの核開発を遅らせ、打撃を与える為だったとみられているが、核を巡るこうした争いは醜さを増す一方である。イランのロウハニ大統領は「適切な時期に何らかの形で報復する」としている。何とも怖い話だが、犠牲になるのはいつも罪のない一般人である。

 ウィキペディアの情報によれば、現在世界で核兵器(原子爆弾や一部の国は水素爆弾)保有を認めている五大筆頭国は、アメリカ、中国、イギリス、フランス、ロシア。次いでインド、パキスタン、北朝鮮も保有を表明しており核実験を行っている。

 この他にも公式に保持を宣言していないものの、疑惑を持たれているのは上記のイスラエルであり、またイランは1960年代から核開発計画があったと言われているが、その後紆余曲折を経て2006年に正式に核開発を認め平和利用のためと主張している。

核兵器禁止条約

トロント在住の被爆体験者で反核運動家のセツコ・サーロー氏
トロント在住の被爆体験者で反核運動家のセツコ・サーロー氏 ©︎ Keiko Miyamatsu Saunders

 Covid-19に振り回されたこの一年の中で、数少ない嬉しいニュースの一つは、10月24日に核兵器の保有・使用に加え威嚇まで禁じる核兵器禁止条約の批准国/地域が、発効条件の50になったことである。来年一月には条約が発効される運びとなる。

 これは2017年にノーベル平和賞を受賞した国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)の地道な活動も大いに影響しているのだろう。このグループの中心人物の一人で、広島での被爆体験を持つサーロー節子さんが、授賞式で力強いスピーチを行ったことは忘れられない。

 だが周知の通り日本は世界で唯一の被爆国であり、東日本大地震では福島で原発事故が発生し未曽有の被害を被っている。これ程の体験をしながらも、いまだに日本は条約に批准していない。通説では核兵器は持たないものの、自らを守るために核保有国のアメリカの傘に頼っているからと言う。

岸田文雄元外務大臣が出版した『核兵器のない世界へ 勇気ある平和国家の志』 
岸田文雄元外務大臣が出版した『核兵器のない世界へ 勇気ある平和国家の志』 (https://www.nikkeibp.co.jp/atclpubmkt/book/20/279800/)

 今秋の安倍氏退陣後に就任した菅義偉新首相は、長い間の安倍路線の継続をするばかりで、核問題迄考える等は荷が重く期待できそうもないのは残念なことである。核保有国と共に条約に加わらない日本の姿勢を、今後更に問われることになるのは必須だろう。関係者からは、日本は合法のままにしているとみられても仕方がないと言われている。

 そんな中唯一希望が持てるのは、首相選で争った岸田文雄元外務大臣が、『核兵器のない世界へ 勇気ある平和国家の志』と題する著書を10月に出版したことである。日米の関係を理解しながらも、被爆から75周年と言う節目に、政治家として未来に向けてこれから日本が目指すべき姿を説いているという。

平和首長会議(Mayors for Peace)

 こうした国際政治レベルでの動きとは別に、市井の人々が係わる核兵器反対の活動に、平和首長会議というのがあるのを知っている人は大いに違いない。

 筆者は物書きとして、世の中の動きを日々追うことを怠らないように努力はしているものの、時には知るべきニュースの概要がうろ覚えであったりする。その一つがこの世界規模で展開している平和首長会議(http://www.mayorsforpeace.org/jp/outlines/)である。

 その詳細な知識を得たのは、2018年にビクトリア市の北に位置するSaanich市(以下S市)の、Richard Atwell前市長を訪ねたことがきっかけであった。当時S市は、広島県の廿日市市と姉妹都市関係を結ぶ気運が高まっていて、前市長はとても乗り気であった。それを耳にした私は、その本気度を確かめたかったのである。加えて西海岸を中心としたカナダ日系史のグループによる邦訳(「希望の国カナダ・・・、夢に掛け海を渡った移民たち」)を終えた時であったため、将来S市に日本から表敬訪問があった際に、お土産として贈呈出来るのではないかと思い会見を申し込んだ。

 その折りに前市長は「日本で被爆した銀杏の木から取った種が苗に育ち、当舎の前庭に一本植わっている」と言い自ら案内してくれた。

S市の庁舎前庭の銀杏(2018年9月)
S市の庁舎前庭の銀杏(2018年9月)©︎ Keiko Miyamatsu Saunders
二年後の銀杏(2020年10月)
二年後の銀杏(2020年10月)©︎ Keiko Miyamatsu Saunders

 廿日市市は広島市と隣接しているため、私はその被爆の苗は廿日市市から直接S市に贈られた物とすっかり勘違いし、2019年1月の当コラムに書いたのである。それを読んだ廿日市市の職員の方が、大部経ってから、市には苗を送った記録がないと知らせて下さった。

 そこでこの秋私は、自分の勘違いを正すため各方面に問い合わせた結果、同じバンクーバー島内にあるOak Bay市が広島から贈られた苗を、S市にお裾分けしたことが分かったのである。更にはそこにも立派に育った一本の銀杏が生育しているのを目撃することが出来た。

Oak Bay市内の銀杏(2020年7月)
Oak Bay市内の銀杏(2020年7月)©︎ Keiko Miyamatsu Saunders

 こうして被爆地広島が世界に送った銀杏の苗は、多くの国の町々で力強く育っているのを知ったのは、私にとってこよなく嬉しいことであった。現在世界の平和首長会議への加盟都市数は7974に上り、カナダも109都市が参加している。

 この世界中の多くの人々の思いが、今後も核無き世界を願う末永い草の根の運動として引き継がれて行くことを心から願っている。

付記:S市と廿日市市との姉妹都市提携案は、その後の地方選挙でAtwell 氏が落選したことで頓挫した。

サンダース宮松敬子 
フリーランス・ジャーナリスト。カナダに移住して40数年後の2014年春に、エスニック色が濃厚な文化の町トロント市から「文化は自然」のビクトリア市に国内移住。白人色の濃い当地の様相に「ここも同じカナダか!」と驚愕。だがそれこそがカナダの一面と理解し、引き続きニュースを追っている。
URL:keikomiyamatsu.com/
Mail:k-m-s@post.com

空のはて ~投稿千景~

エドサトウ

 日本の惑星探査機「はやぶさ」2号が小惑星リュグーに到達して、その岩石のサンプルを採集して、往復ほぼ6年の歳月をかけて地球に帰ってきた。それだけでも凄い感動だけれど、そのサンプルのカプセルを無事に送り届けると、再び宇宙の彼方に旅立っていった。この日本の技術は、世界の中で十年ぐらい先をリードしているというから、凄い! 

 さらに、サンプルの岩石の中には46億年前の水の成分があるのではと期待されてもいるが、はたして生命の起源に迫るのであろうか?宇宙の彼方に思いを巡らせて、小生のエッセイを読むのも面白いかもしれない。バンクーバー新報2017年3月18日号に掲載されたものだ。

***

 空のはてしないところ、宇宙の40光年先には第二の地球らしき星があり、地球のような生命体があるらしい。一秒間に地球を7周半まわることのできる光が40年かけて届く先に、その第二の地球らしきものはあるらしい。

 早い話が、たぶん電波望遠鏡で僕らが見ることができるその星は、40年前の光の映像であって、光より早いタイムマシンがあれば、第二の地球で僕達の過去や懐かしい人々に会えることも可能かもしれない。最近、我が家でも光ファイバーの通信がつながり、インターネットとかTVで瞬時に鮮明な画像と音声が日本から届くようになり、その技術の進歩に驚いているのである。前回紹介したノーベル賞受賞の大隅良典氏の講演は、同時中継で見た。宇宙の画像もコンピュターでかなり鮮明なものを見ることができる。そのうち、自宅で電波望遠鏡を直接のぞくことも可能かもしれない。

 さて、宇宙の彼方で、懐かしい人に会えるかもしれないとはいっても、僕らの映像が地球の外まではみ出しているとは思えない。たぶん見ることのできる光は、原爆の光とか、夜の大都会の輝きぐらいかもしれないのである。

 僕たちの40年前の光の残像は、日本は高度成長で忙しく皆が元気に働いていた時代であり、それなりに夢のある時代であったのかもしれない。

 光陰矢のごとし、過ぎゆくものは早い。以前、小生が創作した小話『梨太郎』が生まれたのは、終戦後の朝鮮戦争が始まり、日本の景気が良くなっていくころの田舎で、暑い夏の日のことである。不思議なことに、畑の真ん中に高さが10メートルほどの梨の木が一本茂っている。

 若い夫婦は、夏の暑さにもめげることもなく、野良仕事を続ける。妻が言う。「あんた、少し休みましょう」梨の木の木陰に座り、二人はお茶を飲む。夫がボソッと言う、「この梨は野生だから実は小さいが、少し食べてみるか?」。妻が答えて言う、「これは小さいけどみずみずしくておいしいわ」。「そうか、もっと食べたらいい」、「そうかのう、ありがとう!」。

 村の人が言うには、ある夏の夜にこの梨の木のあたりに大きな光るものが落ちたことがあったらしい。大きな木が一本もない畑の真ん中に梨の木が育ち、大きくなったのだと言うが本当のことは分からない。

 その梨を食べてから、夫婦に子供ができて、玉のように色の白い、よく太った赤子が生まれたそうだ。少し大きくなると、梨のように色白であったかは分からないけれど、腕力は強く、ガキ大将だったそうである。あだ名は「デブの梨太郎」で、夏には日に焼けて真っ黒な顔であった。

 昔、畑の梨の木に光輝く隕石が落ちたのであるが、その隕石は宇宙のチリでできていて、多くの有機物質、たとえばたんぱく質のもとになるアミノ酸なども入っていた。

 この特殊なアミノ酸は、梨の木の根っこの土壌堆肥となり、梨の実に入り、その梨を食べた若い夫婦の子供が梨太郎なのである。特殊なアミノ酸の遺伝子の子供、梨太郎には特殊な直感力があり、大きくなると「われは、聖徳太子の末裔なり」と小さな切り株の上に立ち、悪たれの近所の子供たちに言うのであったが、だれも信じはしないし、また何のことか分からなかったのである。

 聖徳太子の時代には、中国の南方からこれより以前に渡来したという秦氏という一族があり、京都の北の方から北陸を中心に裏日本で勢力を持っていた。彼らが伝えたものに、土木技術や養蚕の技術があったようである。この頃、キリスト教のネリウス派である景教があったともいわれている。そのためか、秦氏は、中近東のペルシャあたりから中国に入った一族ではないかともいう話もある。その一族の流れである秦河勝は聖徳太子のパトロンであったといわれる。日本で初めての仏教の都奈良にいた聖徳太子であるが、ペルシャあたりの中近東のシリウス信仰があったのでは、ともいわれる。古代エジプトではシリウスが現れると雨季が始まり麦の栽培がはじまるのである。

 奈良時代の古文に破斯 清通(はしの・きよみち)などの漢字の名前が見られるが、これはペルシャ人の名前であるというのは興味深い。

 話がそれたが、この光り輝くシリウスの近くにオリオン星座(1500光年先にある)があり、その昔、その一つは大爆発を起こし、その温度は7億度を超えたと言われ、さまざまな塵が宇宙の闇に散り、我が地球にも隕石となり到達したやもしれぬ。ひょっとして梨太郎はその末裔か、と勝手な想像めぐらす小生である。 

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