シベリアから日本に来た「ポーランド孤児」(前編)記録が語る父の過去

 ポール・ヴォイダクさんは、ブリティッシュ・コロンビア州バンクーバー市で40年間、地質学者として働き、2011年に引退。現在、同州スマイザーズ市に近いタイ―・レイクに住んでいる。2024年、父パヴェル・ヴォイダクの生涯に関する「シベリアからの脱出、記憶からの脱出」を出版した。

 2026年7月、ポール・ヴォイダクさんにオンラインで話を聞いた。

■父の経歴

 ヴォイダクさんの両親がそれぞれの生い立ちについて話すとき、大きな違いがあった。母リッキーは、オランダのアムステルダムで両親と姉兄妹あわせて8人の家族で育ったこと、若い頃の思い出などを快活に話してくれた。反対に、ポーランド人の父パヴェルは自身の過去についてほとんど語らなかった。孤児院にいた、農場で住んだと話すことはあった。しかし、それらの名前も場所も言おうとしない。

 父に両親のことを聞くと、母親は汽車の事故で亡くなった。その後、父親も汽車の事故で亡くなったと言う。それ以上は言わない。しかし、子どもの頃、日本とアメリカに行ったことがあり、父親が連れていってくれたと話していた。

 不明なことが多かった父の経歴をたどろうと、調査を始めたのは2001年5月。父の没後17年がたっていた。家には、第2次世界大戦中、ポーランド軍で兵士として父が属していた部隊のバッジや、認識票のブレスレットが残っていた。しかし認識票に父の名前はない。コンスタンティ・ムロテックとなっている。敵に捕まった時のための偽の認識票と父は説明した。血液型だけが父と同じだ。リビアの「トブルクの戦い」や、イタリアの「モンテ・カッシーノの戦い」での体験については、臨場感あふれる口調で語ってくれたものだ。

 そういった思い出の品や話を手掛かりに調べていると、同大戦中、ソ連軍に捕まったポーランド軍兵士や彼らの家族がシベリアに抑留されていたことを知った。関連して、大戦以前には、シベリアにいたポーランド人の子どもたちが孤児となり、1920年から21年、日本とアメリカを経由してポーランドに帰国したという簡単な記述も目にした。父の子ども時代と年代があう。それに日本とアメリカに行ったことがあるという父の話とも共通する。「父は孤児の一人だったに違いない」。直観で確信した。

■記録が示す父の過去 

 同じ2001年の6月、ヴォイダクさんは、「極東の叫び」という雑誌(1924年刊)に掲載されたポーランド孤児救済に関する記事のコピーを得た。それは「ポーランド救済委員会」による詳細な報告で、東京で撮影された孤児たちの写真と、子どもたちに関するリストが含まれていた。それぞれの氏名・年齢・同委員会により子どもたちが発見された場所・両親の生存に関する情報・アメリカでの滞在先が載っている。

 リストに、ヴォイダク姓の気になる男児の情報がある。名前はヴワディスワフ・ヴォイダク、7歳、満州のハルビンで発見され、両親はいない、ウィスコンシン州ミルウォーキーとある。

 ヴォイダクさんの父の名前であるパヴェルではなく、ヴワディスワフであることは疑問だ。しかし、この男の子は父だと再び確信する。

 同じく2001年、ヴォイダクさんは、イギリス国防省に第2次世界大戦中の父のポーランド軍歴を問い合わせた。1939年9月に勃発した同大戦中、40年6月以降、ポーランド亡命政府はイギリス・ロンドンにあり、ポーランド軍はイギリス軍下となった。さらに父はイギリスで除隊になったからだ。2001年6月、同省から3つの驚くべき内容を含む記録が届いた。

 まず、父は1912年7月27日、ポーランドではなく、ロシアのノボミコワイェフスク(現ノボシビルスク)で生まれた。しかしこれは父がシベリアで孤児になったとするなら納得がいく。

 次に、父はヴォイダクさんの母であるリッキーとイギリスで結婚する前に、ポーランドで他の女性と結婚していた。これについてリッキーは既に知っていた。「便宜上の結婚」という。経済的援助のため、市民権取得のため、あるいは出産前に法律上の夫婦になるためなど、いくつか理由が考えられる。

 何よりも仰天したのは、1944年9月、父はドイツ軍を離脱してポーランド軍に加わっていた。ドイツ軍にいたとは、聞いたことがなかった。

 こういった事実を基に、ヴォイダクさんは数多くの書籍・インターネットを通して情報を集める。関係すると思われる場所にはカナダ国外でも足を運んだ。ポーランド孤児の子孫たちの集まりに積極的に参加して話を聞く。そして孤児たちの話をまとめ、父パヴェルにも起こったと考えられる状況を推定した。

■シベリアのポーランド孤児

 シベリアのポーランド孤児とは、ロシア革命(1917年)やそれに続く内戦による混乱で、シベリアに取り残されたポーランド人の子どもたちのこと。親は、1800年代にロシア帝国によりシベリアに流刑された政治犯、1800年代末から1900年代初頭にシベリア鉄道敷設に関連した技術者や労働者、第1次世界大戦中の1915年、ドイツ侵攻によりロシアへ退去を余儀なくされたポーランド人たち。

 革命を起こした急進派は、ポーランド人を反革命的とみなし、さげすんでいた。職を追われ、配給制となった食料や衣料を受け取ることができなくなったポーランド人は難民となる。流れる方角は東。

 革命や内戦が起こる前、シベリアには4万から5万人のポーランド人がいた。革命後、難民となり極東方面へ逃げたポーランド人は15万から20万人に膨れ上がった。(1) その混乱の中で、親が殺されたり、親からはぐれたりした子どもたちは、家もなく、飢餓・病気・危険にさらされながらシベリアに置き去りにされていた。ヴォイダクさんは、1918年から19年、当時6歳であった父パヴェルと彼の両親は、この災いの渦の中にいたと考える。

■シベリアからの脱出

 ロシア極東ウラジオストクに住むポーランド人政治活動家アンナ・ビエルキェヴィッチは、やはり同地で活動していた医師ユゼフ・ヤクブキェヴィッチらと、1919年、「ポーランド救済委員会」を組織。シベリア東部や満州のハルビンで浮浪する数多くのポーランド人の子どもたちの悲惨な状況を目の当たりにし、彼らをポーランドへ帰国させるための活動を始める。

 アンナ・ビエルキェヴィッチは、孤児たちについてこう書いている。

 「列車の数が足りないため、兵士たちは吹雪の中でも難民を列車から追い出すことがある。目撃者の一人は、ある列車の中をのぞきこんだところ、複数の遺体と、亡くなった母親の傍らで凍死している少年を目にしたと語った。親たちは自分たちの服を子どもたちにかけ、持っている食べ物を与え、子どもたちの身に何が起こるかも知らずに死んでいく。凍死した親たちの遺体が彼らの赤ん坊の間に横たわり、青ざめた顔には凍りついた涙が残されているのを彼は見た。数多くの子どもたちがさまよっていて…」(2)

 また、同委員会のユゼフ・ヤクブキェヴィッチは、次のように報告している。

 「私たちは、ロシア人や中国人の避難所に身を隠していたポーランド人の子どもたちを探し続けた。廃列車の中で住んでいる子どもたちもいれば、軍の兵舎に逃げ込んだ子どもたちもいた。近くにポーランド人がいると聞けば、私たちは足がふらつくまで歩き回って彼らを探し出した」(3)

 1920年4月、アンナ・ビエルキェヴィッチは、救援の協力者を求めてまず中国の上海へ向かった。しかし成果は得られなかった。同年6月中旬、北海道に渡りカトリック教会で協力を懇願したが即座に拒否された。そこで東京へ行き可能性をさぐる。戦争関連の省庁から外務省へとまわり孤児の窮状を説明。援助協力を嘆願すると、孤児たちを運んでくれるという。さらに、日本赤十字社を訪ねると全面的な支援を約束してくれた。こうして日本政府・陸軍・海軍と日本赤十字社の連携によるポーランド孤児救済が実現することになる。

 同年7月20日、ウラジオストクから日本陸軍の輸送船・筑前丸で最初の56人の孤児が出発。同23日に福井県敦賀港に到着した。

 敦賀港では、20年後の第2次世界大戦中、リトアニア駐在の領事代理・杉原千畝が発給した日本通過ビザ、いわゆる「命のビザ」を携えたポーランド国籍ユダヤ人を主とする数千人の難民が上陸。敦賀市ではこれらポーランド孤児とユダヤ難民に関する出来事を広く知ってもらおうと、資料館「人道の港 敦賀ムゼウム」で紹介している。

(後編に続く)

資料館「人道の港 敦賀ムゼウム」
資料館「人道の港 敦賀ムゼウム」
同館前、ポーランド孤児とユダヤ難民の上陸地点をしるしたタイル(ともに2025年5月、高橋文撮影)
同館前、ポーランド孤児とユダヤ難民の上陸地点をしるしたタイル(ともに2025年5月、高橋文撮影)

(1) Paul Wojdak, Escape from Siberia, Escape from Memory, FriesenPress, 2024, p.67 / Teruo Matsumoto and Wieslaw Theiss, Siberian Children: Japan’s Aid for Polish Children, 1919-1921, Warsaw, Wydawnictwo Sejmowe, 2018, p. 178.

(2) Wojdak, Ibid., p.85 / Matsumoto and Theiss, Ibid., p.182-183.

(3) Wojdak, Ibid., p.84 / Matsumoto and Theiss, Ibid., p.179-180.

(取材 高橋文)

高橋 文(たかはしあや)

カナダ在住ジャーナリスト。カナダの文化・歴史に関する記事をカナダと日本の新聞に執筆。

第2次世界大戦中、リトアニアで外交官・杉原千畝から日本通過ビザを受給しカナダ・アメリカ・オーストラリアをはじめとする国々へ渡ったユダヤ難民と子孫らに関する調査・取材記事を多数執筆。カナダと日本での「杉原ビザ」関連の常設・企画展示に参画。関連シンポジウムやセミナー等で講演を行っている。

著書:
「太平洋を渡った杉原ビザ:カウナスからバンクーバーまで」(岐阜新聞社、2020年)
「命のビザで旅した子どもたち:暗やみから光さすほうへ」(同、2021年)

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