はじめに
音楽ファンの皆さま、日加関係を応援頂いている皆さま、こんにちは。
私事で恐縮ですが、早いもので、私がオタワに着任し、この連載を始めさせて頂いてから4年が経ちました。あっという間の4年でした。正に、光陰矢の如し、と言うとおりです。今、正に、4年余のオタワ在勤を終えて帰国する、エアカナダ第1便のトロント発羽田行きの機内でこれを書いています。カナダで過ごした日々での公私にわたる様々な事が去来しますが、今回が「音楽の楽園〜もう一つのカナダ」の最終回となります。まずは、この間、私の拙文を読んで頂いた皆様に心からの感謝を申し述べます。実は、この連載を始めた当初から、最終回に書く題材は決めていました。ニール・ヤングです。カナダが生んだ最大のロック・スターにしてシンガー・ソングライターです。
今から振り返れば、これまでの私の音楽体験の中で、ニール・ヤングは常に特別な場所を占めています。
「孤独の旅路」〜ニール・ヤングとの出会い

深夜放送「オールナイト・ニッポン」から流れてくる生ギターとハーモニカの物憂げなイントロに胸が鷲掴みにされた瞬間を今でも鮮明に憶えています。中学2年の夏休み前だったと思います。イントロに続いて、裏声のような女声のようなか細い声で歌が始まります。英語の歌詞は全く分かりませんでした。その時のDJが誰だったかはよく憶えていませんが、糸居五郎だったような気もします。その曲はニール・ヤングの「孤独の旅路」だと紹介しました。田舎の少年にとって、「孤独の旅路」というタイトルは、何かしら大人の入り口に立ったような、妙な刺激があり、色々と連想しました。音楽を通じた擬似文学的体験だったのかもしれません。実際にレコードを買って知ったのですが、この曲の原題は「Heart of Gold」です。それを「孤独の旅路」と意訳した日本のレコード会社のディレクターは凄いと思いました。
「孤独の旅路」のサウンドは、生ギター、ベース、ドラムを基調とするフォーク・ロックで、特徴的なのは、ハーモニカとスティール・ギター、それに乗ったニール・ヤングの声の圧倒的な存在感です。その頃、ボブ・ディランも聴き始めていましたが、私的にはディランに比べると、ヤングの方が聴きやすく幾分ポップな感じがしていました。長髪もカッコ良く、剣道部だった私は丸刈りでしたから、いつか自分もあんな風に髪を伸ばしたいと夢想していました。憧れの対象でした。

以後、ニール・ヤングはコンスタントに音盤を発表していきます。田舎の中学・高校生にとっては、当時1枚2,000円ほどしたLP盤は高価な買い物で、月に1枚買うのが精一杯でした。聴きたい音盤は沢山ありましたからニール・ヤングばかり買うわけにもいきませんでしたが、「孤独の旅路」を収録した『ハーヴェスト』は文字通りボロボロになるほど聴き倒しました。
今では、デビュー盤から最新作まで全部入手して、折に触れて聴いています。その意味では、いつも、ニール・ヤングは側にいるのですが、初めて聴いた「孤独の旅路」と同じくらいインパクトを感じたのが音盤『コロラド』です。
新型コロナ感染爆発の最中に聴いたニール・ヤング
2020年3月当時、私はニューヨークに在勤していました。正に、新型コロナの感染爆発が一気に拡散。マンハッタンを襲い、セントラル・パークにテントの野戦病院が設営され、ハドソン川には米海軍の病院船「マーシー」が派遣されました。当時は、アッパーイーストの公邸から一歩も外に出ませんでした。感染しないことが最重要で、仕事はオンラインでした。巷に溢れる様々な情報を整理して、毎日、総領事館ニュースレターを発出していました。そんな息詰まる、先も読めず、見通せない中で、頻繁に聴いていた音盤の一つがニール・ヤングの最新盤でした。

新型コロナ直前の2019年10月にリリースされた『コロラド』です。モノクロの先住民っぽいアルバム・ジャケットから流れてくるのは、何処を切り取っても、ニール・ヤングらしいロックとブルースとフォークとカントリーが絶妙に溶け合ったサウンドです。2019年4月16日〜25日、コロラド州南西部のテルランド近郊のサンファン山脈の標高2,800mに設けられたStudio in the Cloudにて録音されました。高地ですから酸素が薄く、メンバーは酸素ボンベを使う場面もあったといいます。この高度では、歩くだけでも息が切れることもあるでしょう。ならば、何故そんな場所で録音したのでしょうか?
ニール・ヤングは、元来、少々不便で危うい状況の方が音楽が生き生きするとの考えを持っています。狙いが的中して、『コロラド』には非常に生々しいサウンドが溢れています。若い頃から環境保護を重視してきたニール・ヤングにとっては、歌のテーマに最適の録音場所でもあります。
更に、驚くべき事は、録音当時のニール・ヤングの年齢です。73歳です。過酷な環境での歌声は若い頃の声とほとんど変わりません。ちょっと鼻にかかった半分裏声のようでいて非常に強靭な声です。「声は人なり」です。
この音盤が録音されている時に、新型コロナの事など誰も知る由もなかった訳です。が、新型コロナ感染爆発という特異な状況で聴いた時、私はニール・ヤングの音楽から力を頂戴しました。彼のエネルギーの放射量は凄いと思いました。その頃から既に6年余が経ちましたが、その時の感覚はつい昨日のように憶えています。
それでは、次に、カナダ人ニール・ヤングが如何にして、世界のニール・ヤングになったのか、その来歴を概観しましょう。
トロント・ウィニペグ・トロント・ロサンゼルス
ニール・ヤングは、1945年11月、トロントに生まれます。父親は、スポーツ記者として有名なスコット・ヤング。幼少期は病弱で、6歳の頃に小児麻痺にも罹ったといいます。
13歳の時に両親が離婚して、ヤングは母親と一緒にウィニペグに移ります。その頃から、エルビス・プレスリーを筆頭に、チャック・ベリー、リトル・リチャード、ファッツ・ドミノらのロックンロールに熱中します。そして、ヤングの音楽的冒険が始まります。
1961年、初めてバンドに参加します。62年には、スクワイヤーズを結成。地元では人気を博し、65年まで続いたそうです。ヤングは、地元のケルビン高校に通っていましたが、音楽で身を立てると決意して中退し、音楽活動を本格化させます。この時期に、将来の盟友となるスティーブン・スティルスと出会います。スティルスは別のバンドを率いていたので、一緒に活動するには至りません。ですが、ヤングはスティルスの楽才に惚れ込みます。
ヤングは、ニューヨークに出て上手くいかず、トロントに戻る、雌伏の日々が続きました。そんな中、マイナー・バードというバンドに参加し、かの有名なモータウン・レコードと契約しデビュー盤も録音します。しかし、金銭トラブルやバンド・リーダーの逮捕でバンドは消滅します。
ここからがロック版の塞翁が馬です。消沈したヤングは、マイナー・バードの機材を質入れして1953年型ポンティアックの霊柩車を手に入れます。この霊柩車に楽器等を積み込み、ベース奏者のブルース・パーマーと共に、一路ロサンゼルスに向かいます。スティルスを探してのLA行きでしたが、スマホも何もない1966年の春のことです。1週間程探しても見つからず、諦めてサンフランシスコに向かいます。と、渋滞中のサンセット・ブルバードの反対車線を走っていたのがスティルスだったのです。オンタリオ州ナンバーの霊柩車をLAで運転するような奴はヤングに違いないとして、Uターンして追いかけ、二人は再会するのです。
バッファロー・スプリングフィールドからCSN&Yへ
「霊柩車の運転席から窓を見ると、そこにいたのはスティルスだった。僕らはサンセット・ブルバードの真ん中で抱き合った。クラクションが鳴り響いていた。」とヤングは自叙伝で回想しています。

そして、ヤングとスティルスが軸となって、伝説的バンド「バッファロー・スプリングフィールド」が誕生します。早くも66年12月には、バンド名を冠したデビュー・アルバムをリリース。この時、ニール・ヤングは弱冠21歳です。作曲・演奏・歌と大活躍する早熟でした。しかし、このバンドは、3枚の音盤を残し、解散します。このバンドの核心は、ヤングとスティルスの協働とライバル関係でした。同い年の二人は互いに認め合った上で、刺激し合い、負けたくないとの強烈な意識を持っていたと言われています。ヤングとスティルスの関係は、協働→衝突→和解→協働→衝突→和解を生涯にわたり繰り返していると描写される程です。
バッファロー・スプリングフィールド解散後の1968年12月、ヤングは23歳でソロ・デビュー音盤をリリースします。収録した10曲中9曲がヤングの作詞作曲です。アルバム・ジャケットはカラフルな印象的イラストですが、カントリー色が強く、内省的で地味な作品です。一方、既にあの声はここに確立しています。弦楽四重奏曲まで含める大きな構えの曲想の萌芽がここにあります。とは言え、セールス的には惨敗でした。

そんな時に、スティルスからの誘いで、CSNに参加します。再びヤングとスティルスは一緒になり、スーパーバンドCSN&Y(クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング)が誕生しました。曲づくり、ギター演奏で抜きん出た才能を持つ二人を擁するバンドは、ロック史に燦然と輝いています。
特筆すべきは、1969年8月の愛と平和の音楽の祭典「ウッドストック」への出演です。3日間にわたる屋外ロック・フェスで空前の40万人の観客がニューヨーク州北部の農村に詰めかけたのです。そのハイライトの一つがCSN&Yです。アコースティック・セットとエレクトリック・セットで圧倒的なハーモニーを披露しました。バンド演奏では、特にヤングのEギターは聴衆を金縛りにしました。時代を象徴するバンドとなったのでした。
ヤングは、CSN&Yとソロ活動を同時並行的に行いますが、結局、CSN&Yはスタジオ盤『ディジャヴ』とライブ盤『フォー・ウェイ・ストリート』を残し解散します。
ソロ・キャリア〜大輪の開花

CSN&Yの成功で、ニール・ヤングも注目され始めます。1970年8月に発表されたソロ第3作『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』はビルボード誌アルバム・チャート8位と大ヒット。カナダRMPチャートでも5位です。特に、米国南部の保守性という名の人種差別を糾弾した「サザン・マン」は圧巻です。不正義を糾弾するヤングの震える声、ヤングとスティルスのEギターの掛け合いは、情熱が迸り、聴く者の胸を掻きむしります。ここには、エンタテインメントを超えて、時代をも動かす音楽の力が宿っています。
そして、1972年2月に、全米1位の「孤独の旅路」を収録した『ハーヴェスト』を発表します。この後は、ロック現代史そのものです。
現在まで半世紀を超えて、49枚のスタジオ録音アルバムを発表しています。どの音盤にも物語があり、個性があります。

また、多数のライブ盤も発表されています。現在もアーカイブ化され未発表音源がリリースされています。2枚だけ厳選します。まず、2019年7月に慣行された欧州ツアーを収めた『ノイズ・アンド・フラワーズ』です。ヤング73歳にして完全に現役です。Eギターを弾き倒し、バッファロー・スプリングフィールド時代の曲から最新曲まで歌っています。声も健在です。ストイックに体調を管理し声を磨き続けているに違いありません。

そして、『ライブ・アット・マッセイ・ホール1971』です。この連載の第18回(2023年12月21日)でも紹介していますが、故郷に錦を飾った若きヤングの勇姿が眩しいです。生ギターとピアノの弾き語りが虚飾を剥いだ音楽の骨格をリアルに伝えます。出来立ての「孤独の旅路」のピアノ・ヴァージョンが聴きものです。ヤングの原点を今に伝えています。
結語〜ニール・ヤングにおけるカナダ性
ヤングは、トロント生まれ、ウィニペグ育ちですが、音楽活動の拠点は米国です。大成功を収め、傘寿を超えて今も現役です。最新作の録音を終え近日中にリリースされるとも伝えられています。アメリカ市民権も取得しています。それでも、ヤングは一貫して「自分はカナダ人だ」との強烈な意識を持っていると言われています。
その上で、音楽に滲む四つのカナダ的な要素が思い浮かびます。

①広大な自然への敬意。随所にオンタリオ州、マニトバ州が歌われています。後期の傑作『プレスリー・ウインド』に顕著です。
②飾らない誠実さ。ラフで、ドレス・ダウンした服装です。正装した姿は見たことがありません。スタイルと言えば、それまでですが。
③社会への責任感。環境や先住民を主題にした歌や、障害者支援等の活動に熱心です。
④米国への愛着と距離感。一方で、米国発ロックンロールを愛し、米国の大自然を愛し、米国に居住しています。他方、ベトナム戦争、ニクソン、ブッシュ、トランプら歴代大統領を容赦なく批判しています。
権威に迎合せず、自由な精神を持ち、自分に正直に生き、それを音楽に昇華し続けて来たニール・ヤング。カナダを体現する最高のロックンローラーです。
(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。
山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より2026年7月まで第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身




















