津田佐江子氏、旭日小綬章受章

2021年4月、旭日小綬章を受章した津田佐江子前社主。写真は2014年日系プレースにて。Photo by ©︎ バンクーバー新報社
2021年4月、旭日小綬章を受章した津田佐江子前社主。写真は2014年日系プレースにて。Photo by ©︎ バンクーバー新報社

 日本政府は4月29日(日本時間)、令和3年(2021年)春の叙勲受章者を発表、バンクーバー新報前社主津田佐江子氏が旭日小綬章を受章した。「日本とカナダとの相互理解促進に貢献した功労」が認められての受章となった。

 津田氏は知らせを受けた時には喜びよりも驚きの方が大きかったという。「はっきり言ってびっくりしました」と感想を述べた。

 今回の受章について「これは私個人がいただいたというよりも、(コミュニティの)みなさんと一緒にいただいたと思っています。これまで支えていただいたみなさんのおかげです。本当に感謝しています。ありがとうございます」と喜んだ。

 ブリティッシュ・コロンビア州日系コミュニティでは、平成28年(2016年)春にロバート・バンノ日系プレース基金理事長(当時)が旭日双光章を受章して以来となる。女性では平成22年(2010年)春に日系人小説家ジョイ・ノゾミ・コガワ氏が旭日小綬章を授章している。

津田佐江子氏旭日小綬章受章記念インタビュー

「バンクーバー新報41年間を振り返って」

 受章の感想を聞くと開口一番「びっくりよねー」と破顔した。バンクーバー新報の廃刊から丸1年。それまで41年間、社主として走り続けてきた。その苦労が思ってもいない形で報われた。「私はこういう堅苦しい感じはあまり好きじゃないのよね」。津田氏を知っている人なら誰もがクスッと笑ってしまう、彼女らしい言葉だ。

 これまでを振り返ると「苦労はもう数え切れないくらい」と言う。毎週、白紙のページを作らないように新聞を発行する。「今週号には、これと、これと、あれを入れて、なんて毎週、毎週考えて。それを繰り返してきたからね」

 それでも41年間続けてこられたのは、コミュニティの人たちから掛けられた言葉があったから。「私の顔を見るとね、楽しみにしてるよって、すごくたくさんの人が言ってくれたのよ。楽しみに読んでるよって」。この言葉に励まされてやってきた。

 これまでで最も印象に残っているできごとを聞くと、2009年7月の天皇皇后(当時)カナダ公式訪問をあげた。そのとき、バンクーバーとビクトリアにも立ち寄られた。「当時の天皇皇后両陛下が訪問されたのは大きなできごとでした。歴史に残ることですし、それに(私も)お言葉をいただいて、すごく印象に残っています」

 日系コミュニティも大歓迎した。新報も総力を挙げて取材した。ビクトリアにも記者とカメラマンを派遣し、バンクーバーと両都市のご訪問を大特集した。日系コミュニティだけではなく、カナダ全体の歓迎ぶりを取材した。記録としてだけでなく「コミュニティの記憶にも残る一大イベントでした」と振り返った。

日系の歴史を見つめ、コミュニティとともに

 バンクーバー新報が産声をあげたのは1978年12月。当時はパウエル街と言われる戦前の旧日本人街だった辺りで発行作業をしていた。とにかく多くの人に支えてもらったという。

 当時あの辺りでビジネスをしていた日系の人たちが、事務所を安い家賃で貸してくれたり、新聞を置いてくれたり、ボランティアで作業を手伝ってくれたり、「みんな好意的でした。ほんとに親切にしてくれたんですよ」。多くの人が助けてくれたと振り返る。

 あの当時、日系社会は活気があったという。「ある意味、激動の時代で、パウエルフェスティバルが始まって、隣組もできて、日系が盛り上がった時期でもありましたね」。新報がそれを特に意識したわけではないが「やっぱり波に乗ったんでしょうね」

 それから80年代になってワーキングホリデーが始まり、86年にEXPO開催、90年代前半までの空前の日本からの海外旅行ブームで日系コミュニティは活気に満ちていた。

 日系100周年、リドレス運動と日系社会が一つになるできごとが多かった。そんな中で、日本語での情報をコミュニティが欲していた時代でもあり、発信する場を渇望していた時代でもあった。新報はそうした日系の歴史を見つめ、コミュニティとともに歩んできた。

自分にとっての「バンクーバー新報」

 新聞を廃刊したとき「やっぱりね、ホッとしたというのと、寂しいのと両方の気持ちでしたね」と1年たってみて思うという。「こんなことを言っていいのかわからないけど」と前置きして「(発行を)止めてからゆっくり寝られるんですよ」と笑った。

 41年間毎週欠かさず新聞を発行するということはそれだけ重責だったということだろう。それでも「今でもね、ニュースをチェックしちゃうんですよね」と40年以上の「クセ」は抜けないようだ。

 新しいバンクーバー新報にも期待する。オンラインで継続される新報に「やっぱりね、時代は変わっていってますからね」と津田氏。「私の一番苦手とするところですし」と笑う。

 それでもバンクーバーで日本語での情報発信が必要であることは昔も今も変わらないとの思いは強い。「今は(日本語で)知る手立てが日系コミュニティでは特に少ないですからね。紙の時と全く同じというわけにはいかないと思うけどコミュニティと一緒になってね」とアドバイス。「本当に厳しいと思うけど、(ウェブの方でも)コミュニティの中に溶け込んで、役割を果たしてもらいたいですね」とエールを送った。

 こうしてみてくると、そもそもなぜ「新聞発行」を始めようと思ったのかとの疑問がわく。1970年代後半、ほかの仕事を選択する機会はあったはずだ。当時は違う仕事も掛け持ちしていたという。2人の子どもを育てていたため、給料がもらえる仕事が必要だった。新聞発行では生活できない。「それでもこっちを選んだということはね」と少し考えて「多分こっちの仕事が自分に合ったんだということだと思う」と語った。

 それから紆余曲折を経て41年でバンクーバー新報紙の歴史の幕を閉じた。今は多くの人に感謝の思いしかない。手書きで新聞を始めた初期のころにボランティアで手伝ってくれた友人・知人、無料で記事を提供してくれたライターたち、41年間支えてくれたスタッフ、ボランティア、記者、「本当にお世話になりました」。そしてもちろん、バンクーバー新報の愛読者に感謝した。バンクーバー新報は「コミュニティのみなさんに育ててもらったと思います」。そして「この仕事が、私を育ててくれました」と微笑んだ。

 しかしこれで終わりではない。「私の人生でいうとね、この『章』は終わったかなという感じ」と、しんみりしているヒマはないらしい。またいつものお茶目な笑顔を見せて「この章が終わったから、今度はしっかりと次の『章』を考えてね」。もうだいたい方向性は見えているという。「まだ内緒だけどね」。津田佐江子氏の『次章』に乞うご期待のようだ。

 バンクーバー新報は1年間52回発行する。それを41年3カ月1度も休まずに続けるという大仕事を成し遂げた前社主津田佐江子氏。心より「お疲れさまでしたとありがとうございました」を伝えたい。そして次の『章』の悪だくみ(?!)に期待したい。

 「旭日小綬章受章、おめでとうございます」。バンクーバー新報全スタッフより

(取材 三島直美)