佐伯洋子
昭和15年4月に小学校に入学してから、昭和21年3月に卒業するまで、5つの小学校に通った92歳の年寄りです。
信じられない、と言われそうですが、本当の話です。なぜかというと太平洋戦争のせいなのです。昭和19年になって空襲が激しくなり、学童疎開が始まった、その影響で、小学校5年生のわたしは茨城県石岡市の祖母の家に縁故疎開をしました。そして、終戦は父の郷里、新潟県三条市で迎えたのです。
今、思い返すと、その頃の学校に必ずあったものは、奉安殿と二宮金次郎の銅像でした。そして、女学校では「日本の母」という石碑が校庭に立っていました。奉安殿(正式には奉安所₋金庫式奉安庫)は、正装の天皇・皇后の御真影(ポートレート)と教育勅語が収められていた神殿風の堅固な建物で、校庭の一角にあり、その前を通る時は最敬礼をし、朝礼の時にはまた、生徒一同恭しく最敬礼をしました。また、明治節(明治天皇の誕生日 十一月三日:今の文化の日)や紀元節(神武天皇が即位をしたといわれる二月十一日:今の建国記念日)、天長節(天皇の誕生日、当時は四月二十九日:今の「みどりの日」)には、そこから御真影と勅語を取り出して、モーニング着用、白手袋をはめた校長が恭しく、巻物になっている勅語を取り出して、教育勅語、開戦後は開戦の詔勅)という難しい詔を読み上げました。高学年になると、教育勅語は暗誦させられましたが、「朕(チン)惟(オモ)フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇(ハジ)ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」で始まる勅語を朗読するのです。
この建物は、戦後ほとんど壊されましたものの、堅牢な建物なので、戦後は慰霊塔、平和塔、神社の社殿などに使われています。
最初の小学校は父の任地である福岡県福岡市にあった福岡県女子師範附属小学校でした。大濠公園のすぐ近くにある木造の校舎で、体育館はありましたが、大濠公園の池の近くなので、いろいろな課外授業をしました。すぐそばには黒田如水以来の福岡城が建っていました。とても古びた木造の城で、歴史を知らなかった一年生の私にはただの板張りの屋敷でした。奉安殿がどこにあったのかは思い出せません。多分、女子師範の敷地のほうにあったのでしょう。この学校は戦時中に焼け、昭和18年(1943年)に福岡第一師範学校、昭和24年(1949年)の新制・福岡学芸大学になり久留米市に移転しています。
昭和16年3月に父の転任で東京へ戻り、豊島区池袋第五小学校に転校しました。立教大学正門前にある学校で、コンクリートの校庭にプールのあるコの字型の木造二階建ての校舎でした。奉安殿と二宮金次郎の像は正面玄関の前にありました。コンクリートの上に立っている鉄棒から落ちて膝に怪我をし、その傷痕は今も残っています。開戦後、この小学校は、国民学校になりました。校舎は戦災で焼失しましたが、平成17年(2005年)に旧大明小学校と合併して、池袋小学校となっています。昭和20年、山田温泉に疎開した5人の生徒(同級生では、反り目さん、露無さん)は旅館の火災で亡くなりました。https://www.city.toshima.lg.jp/documents/2548/kataribe41.pdf
生徒は学校近辺の子どもが多かったのですが、私は父の友人の家に寄留しての通学だったので、毎日、片道30分の道程を歩いて通いました。戦争が始まってからは集団登校で、通称、「お化け屋敷」近くの煙草屋付近に10人ほどの生徒が集まっての登校になりました。空襲が頻繁になってからは、防空頭巾を背負っての登校です。帰りは、ばらばらで、立教大学付属の神学校、その近くの料理学校、タイル屋、飴屋、下駄屋、バスの車庫、地蔵堂の商店街、墓石を彫る石屋で、出征軍人の標識のある家、城西学園でのグライダーの訓練、陸軍准尉が教官で、サーベルを腰に、いつも怒鳴っているのを眺め、蕎麦屋、千早町に住んでいた熊谷守一の家の前を通ってぶらぶらと帰宅していました。
途中で友達の家に寄ったりしていましたが、今とは違って、親は心配もせず、私ものんびりと勝手に歩いていました。
私の学年は、疎開後、卒業式が行われず、50年後の平成7年(1995年)にやっと卒業式が行われたというのを知りました。
やがて、空襲が頻繁になり、学童疎開が始まり、母の実家のある茨木県新治郡石岡町(昭和29年‐1954年から石岡市)に縁故疎開しました。新しい通学先は、府中城の本丸跡に建てられていた当時、日本で二番目に生徒数の多い石岡国民校(現在、石岡市立石岡小学校)でした。石岡は、常陸国府のあった古い町で、恋瀬川が流れ、常陸総社神社があります。この学校は、当時、石岡の町にあった唯一の小学校でした。今も残る城門があり、土塁を上った所に木造とモルタルの校舎が幾棟か並び、奉安殿は土塁の麓に、その傍には二宮金次郎像がありました。
生徒数は2000人と聞きました。全校生徒が校庭に並び、奉安殿を横に見て朝礼が行われました。木製の渡り廊下があり、とても大きな学校でしたが、5、6年生のための校舎と体育館の往復ぐらいで、校舎をめぐり歩くことは滅多にありませんでした。
疎開先の家は、青木町にあり突き当りが若宮八幡宮、それから、二十三夜尊の御堂があり、傍らに大銀杏の木が立っていました。通りには文房具屋、塩の専売所、速水酒造、写真館、佃煮屋、肉屋、祖母の営む煙草屋が並び、生まれて初めての商店のある町での生活でした。
昭和20年、空襲が激しくなった5月になり、危険だというので、父の郷里、新潟県三条市の四日町国民学校に転校しました。我が家の真ん前にある学校で、正面入り口の前に奉安殿と二宮金次郎があり、朝礼は体育館でありました。校内は裸足のため、辛い毎日でした。この学校は、2014年に廃校になり、敷地は三条市立嵐南小学校第二グランドになっています。
8月15日、終戦となり、11月に帰京してから通ったのは千早町の家の近くの豊島区立長崎第五国民学校です。学校は昭和22年(1947年)豊島区立千早小学校となり、麦畑の中の学校は街中の学校へ変貌しています。この学校を昭和21年3月に卒業して、私の小学校遍歴は終りました。戦中の写真は皆無です。
当時は国定教科書でしたので、多少の進度の違いはあっても同じ教科書さえ持っていれば、別に問題はありませんでした。
困ったのは方言です。茨城では「ちくだっぺ」(嘘だろう)、三条では「鎮西八郎は頼朝のヲヂだ」のヲヂ(末の弟の意味)でwoとziの発音の違いが分からなかったのです。まさに、「疎開っ子」の悲劇でした。日常生活では、福岡での店先で声を掛ける時、「すみません、お願いします」ではなくて「モーシ(申し)」と言わなければならないことも経験しました。

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