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山野内勘二

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「エレノア・コリンズ」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第21回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 3月の声を聞き、夏時間が始まりました。春はすぐそこまで来ているという雰囲気があります。日照時間も日毎に伸びて来て、気分も明るくなります。ですが、オタワは、世界で最も寒い首都の一つ。まだまだ油断は出来ません。

 さて、今月は、エレノア・コリンズです。カナダの「ファースト・レディー・オブ・ジャズ」と称されている偉大な歌手です。北米で初めて、自らの名前を冠した全国放送のテレビ番組のホストを務めた黒人であり女性です。音楽を超えた社会的インパクトを与えた人物です。カナダ勲章を筆頭に多数の賞を受賞し、ブリティッシュ・コロンビア芸能の殿堂にも叙せられています。

 実は、今回はエレノアを書こうと前から決めていました。そして、実際にこの原稿を書き始めた直後に、バンクーバーから訃報が届きました。エレノア・コリンズが104歳で他界したというのです。家族の発表によれば、3月3日、ブリティッシュ・コロンビア州サリー市のサリー記念病院で安らかに逝ったそうです。グローブ&メイル、CBC等の主要メディアで大きく報道されました。

 2022年1月には、カナダ郵便公社が、エレノア・コリンズの業績を讃えて、記念切手を発行しました。その際に、5分32秒のビデオを制作していて、YouTubeで視聴出来ます。そこには、彼女の代表的なパフォーマンス、関係者のコメントとともに、インタヴューが収録されています。この時、102歳です。が、非常に若々しく、全身からポジティブなメッセージが発せられています。

 エレノア・コリンズの1世紀余の人生は、優れたジャズ歌手にして時代を切り拓いたテレビ・ショー・ホストという業績を超えて、カナダの歴史そのものを体現しているように思えます。

先駆者の娘

 エレノア・コリンズは、1919年11月、アルバータ州エドモントン郊外に誕生します。黒人の父とクレオール系先住民の母の間の3人姉妹の2番目です。ここで注目すべきは、両親が米国オクラホマ州からのホームステッド移民だったことです。

 米国のホームステッド法は、リンカーン大統領が1862年に署名した、自作農民育成を目的とした法律です。映画「シェーン」や「大草原の小さな家」が正に、ホームステッド法で自分の農場を持った家族の物語です。

 カナダの場合は、20世紀初頭、カナダ政府は人口を増やすための積極的な移民政策を展開します。カナダ版ホームステッド法とも言うべき土地所有法を制定し、アルバータ州については、1908年から14年にかけて、米国のテキサス州、オクラホマ州、ミズーリ州等の黒人入植者を募集します。一定の条件を満たせば、州内の未開拓地160エイカー(東京ドーム14個分)を米国からの黒人移民に対して無償で払い下げるのです。

 1910年、エレノアの両親は、この募集に応じ、米南部のオクラホマ州から厳しい気候のアルバータ州の未開地に入植したのです。正に、パイオニア精神です。米南部の黒人にとって、カナダは自由にして希望の地に見えたことでしょう。

 エレノアは、先駆者たる両親からパイオニア精神と音楽の才を受け継ぎ、彼女の人生を歩み始めます。

エドモントンの歌姫

 ちょうどエレノアの両親が移住して来た1910年、エドモントンには、米国からのホームステッド移民達によって、シロホ・バプテスト教会が設立されます。この教会こそ、エレノアが音楽的才能を開花させていく場所となります。

 エレノアは、天性の歌手でした。微妙な音程の差異や音色の陰影を聴き分ける優れた耳を持っていました。家族で歌い楽器を演奏する家庭環境で育ちます。幼少の頃より、シロホ教会で聖歌や讃美歌や国歌などを歌うのです。正確な音程と豊かな表情を持った歌唱は、教会に集う老若男女を魅了したことでしょう。

 1934年、エレノア15歳の時に、エドモントンで開催されたアマチュア・タレント・コンテストで優勝。それをきっかけに、地元ラジオ局CFRNと契約します。エレノアの舞台は、教会を超えて、拡がります。そして、エレノアの伴奏も、教会のオルガンから、プロのダンス・バンド等の楽団へとグレードアップ。プロの歌手としてのキャリアを歩み始めたのです。地元エドモントンで歌う日々がエレノアの歌を磨きます。

バンクーバー

Eleanor Collins singing with her band. Photo by Jack Lindsay. Courtesy of City of Vancouver Archives
Eleanor Collins singing with her band. Photo by Jack Lindsay. Courtesy of City of Vancouver Archives

 1939年、19歳になるエレノアは、満を侍して拠点をブリティッシュ・コロンビア(BC)州バンクーバーに移します。そして、「スゥイング・ロウ・カルテット」と名乗る4人組のゴスペル・コーラス・グループを結成します。このカルテットは、時を経ずして地元で評判となっていきます。1940年には、バンクーバーを中心に広くBC州南部を聴取エリアとするCBCラジオへ定期的に出演するようになります。CBCラジオとの関係がやがてエレノアの一層の飛躍をもたらします。

 さて、音楽活動が充実してきこの時期、エレノアにとって運命の出会いが到来します。エドモントンとは違って年間を通じて温暖なバンクーバーで、エレノアはアウトドアの活動を満喫していたといいます。特に、スタンレー公園のテニス・コートがお気に入りだったそうです。そこで、生涯を共にするリチャード・コリンズと出会うのです。出会って2年後の1942年に2人は結婚します。結婚によって、彼女の人生に芯が通ったのかもしれません。彼女の歌には一層磨きがかかります。

 1945年、25歳のエレノアは、ゴスペル・コーラス・グループから独立し、ソロとしてのキャリアを歩み始めます。バンクーバーを拠点に活躍するカナダ屈指のジャズ・バンド、レイ・ノリス五重奏団の専属歌手に迎え入れられます。そして、CBCラジオの新番組「セレナーデ・イン・リズム」に出演します。この番組は、海外に駐在するカナダ軍基地においても放送されました。レイ・ノリス楽団のスィング感溢れる演奏で際立つエレノアの歌はリスナーに愛され、この番組は数年続きました。

バーナビー〜子育ての日々

 やがて、エレノアとリチャードは、4人の子宝に恵まれます。音楽活動は極めて順調ではありましたが、エレノアは1948年から52年まで育休を取ります。女性の社会進出に関連し、出産・子育てと仕事を如何に両立するかは現代でも課題ですが、75年前、エレノアの選択は鮮やかです。

 コリンズ家は、バンクーバー郊外のバーナビーに新居を構えます。大都市の中心部から離れて落ち着いた環境で家族との時間を過ごします。一見、素敵なことに見えます。しかし、そこは、完全なる白人コミュニティーでした。1948年のカナダ・BC州は、現在のカナダ・BC州とは全く違います。日系カナダ人を、カナダ市民でありながらも、敵性外国人として財産を没収し強制キャンプに収容し、45年に戦争が終結しても49年4月までは日系カナダ人がBC州に帰還することを禁じていたのです。極めて、露骨な人種差別と偏見があったのです。

 白人街の唯一の黒人家族として、大変に苦労があったようです。が、ボランティア活動や地元の子供達に音楽を教える活動を通じて、コミュニティーから敬愛されるに至ります。多様性と包摂性を自らの手で勝ち取っていくエレノアです。そこには、未開地で人生をスタートさせた両親の強靭さが受け継がれています。現在のカナダのモットーである多様性と包摂性は、現状を打破するこのような先駆的人々の不断の努力の上に築かれているのだと得心します。

歴史をつくる

 子育てを一段落させたエレノアは、母としての慈しみと強さを内に秘め、歌に一段と深みを増して、徐々に音楽活動を再開させます。

 1952年には、バンクーバーを拠点とする非営利の音楽振興組織「シアター・アンダー・ザ・スターズ」がスタンレー公園内の野外劇場で夏の間に主催するミュージカル「フィニアンの虹」に出演します。聴衆の前で歌い演じ喝采を浴びる喜びとの再会です。勿論、家族との時間は何ものにも代え難いのでしょうが、音楽家魂に火が付いたようです。翌53年は、シェークスピアの原作を巨匠コール・ポーターがミュージカル化した傑作「キス・ミー・ケイト」に出演し、再びスタンレー公園の舞台に立つのです。

 ちょうどこの頃、時代がラジオからテレビへと進化します。1952年、カナダ最大の都市モントリオールと第2の大都市トロントで、一般家庭向けにテレビ放送が始まります。翌53年には、テレビの波はバンクーバーにも到達します。この全く新しいメディアは、エレノアに、更なる機会をもたらします。

 1954年、エレノアは、CBCバンクーバーTV制作のバラエティー番組「バンブーラ:西インディーの1日(Bamboula: A Day in the West Indies)」に出演します。これは、カナダ史上初の複数の人種のキャストが一緒に出演する番組でした。カナダの社会が人種差別と偏見を克服していく最前線にエレノアはいたのです。CBC幹部は、エレノアのパフォーマンスに感銘を受けます。舞台は、バンクーバーからカナダ全土へと拡大します。

 1955年6月19日の日曜日、エレノアが司会を自ら務め、歌い、ゲストをもてなす音楽番組「ザ・エレノア・ショー」の全国放送が始まりました。この番組は、北米史上初となる、黒人がホストを務めその名を冠した全国放送の番組となりました。女性、ジャズ歌手がホストを務める番組としても北米初です。この時、エレノアは35歳。YouTubeで、この時の模様を見ることが出来ます。白黒の画面で音質も良くはありません。それでも、慈愛に満ちて美しい表情と絹のような声と絶妙の歌唱は、彼女の実力と魅力を余すことなく伝えます。歴史をつくった瞬間です。

 因みに、類似の番組としては、米国NBCの「ナット・キング・コール・ショー」の方が有名です。が、こちらは、1956年11月5日が初回放送です。米国に先んじたカナダの矜持とも言えます。

結語

 エレノアは、その後もテレビ、ラジオ、公演と活躍します。米国への進出についてオファーが何度もあったそうですが、断り、カナダに留まりました。このコラムでも取り上げた才能溢れる多くのカナダ出身の音楽家は、米国へ拠点を移し、より大きな成功を得て、名を成しています。勿論、競争の苛烈な米国音楽業界での活動は綺麗事だけでないでしょうし、「夢破れて山河あり」の場合も多々あるでしょう。

 実は、現在、エレノアの音盤を入手するのは非常に難しいです。優れた楽才とパイオニアの精神を持ってはいましたが、誰かのカバーやスタンダード曲だけでなく、商業的に成功した彼女のヒット曲に恵まれなかったからでしょう。歴史にifを言っても詮無いことですが、仮に両親の祖国アメリカで勝負していたら・・と想像してしまいます。

 エレノア・コリンズ、104歳の大往生。

 カナダの誇りです。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「ジェームス・エーネス」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第20回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 私にとって2回目のオタワの冬も2月も半ばです。そろそろ終盤に近づきつつある中で、地球温暖化を実感する日々でもあります。リドー運河の天然スケート・リンクが昨年は史上初めてオープン出来なかった訳ですが、今年は、限定的とは言え、オープンしました。が、気温のマイルドな日が続き、氷の厚さが足りず、今は閉鎖されています。オタワの冬の風物詩が体感出来ないのは残念です。

 しかし、音楽に関しては、2024年のオタワは、素晴らしい幕開けを迎えました。国立芸術劇場の今年最初のコンサートが1月10日に開催されたのですが、素晴らしいプログラムでした。現在、世界最高峰のヴァイオリニストと目されているジェームス・エーネスが登場したのです。英デイリー・テレグラフ紙によれば「地球上に僅かに存在する完璧なヴァイオリニストの1人」という事になります。という訳で、今回は、カナダが誇るジェームス・エーネスです。

神童現る

 ジェームス・エーネスは、1976年1月27日、マニトバ州ブランドンに生まれます。父アランはトランペット奏者にして地元のブランドン大学音楽学部トランペット科教授、母バーバラはバレリーナという家系です。音楽に溢れる家庭環境で、3歳児のジェームス君は、何故かヴァイオリンに強烈な関心を示し、ヴァイオリンを両親にねだったと云います。芸術家のDNAの成せる業でしょうか。1979年のクリスマス、両親は4分の1のサイズのヴァイオリンをプレゼントとします。

 そして、ジェームス君が5歳になると父からヴァイオリンを正式に習い始めます。圧倒的な才能が顕になるのに時間は要りませんでした。地元の音楽イベントの常連になります。9歳になると、もう父が教えられる事は尽きました。

チャップリンとの出会い

 幸運なことに、父の職場ブランドン大学の同僚にカナダの至宝とも言われたヴァイオリニスト兼ヴァイオリン教師、フランシス・チャップリンがいました。ジェームス君はチャップリンに師事することになります。ここから華麗なるキャリアへの本格的助走が始まります。

 1986年、10歳にして、地元で本格的リサイタルを開きます。

 1987年、11歳の時に、若手演奏家の登竜門として1958年に始まったカナダで最も権威のある音楽コンクールであるThe Canadian Music Competitionの弦楽部門で優勝。

 1988年、12歳で、モントリオール交響楽団主催のコンテストで優勝。翌89年には、13歳にして、シャルル・デュトワ率いるモントリオール交響楽団と共演。これがオーケストラ・デビューでした。才能の原石は磨かれる運命にあります。いよいよカナダの重力圏を超えます。

 ジェームス少年は、チャップリンの強力な推薦もあって真に優れた若き演奏者だけに許される「メドウモント音楽院」に入ります。この音楽院は、イツァーク・パールマンを育てたことで知られるヴァイオリン教師ガラミアンが1944年ニューヨーク州北東部のウェストポートに開きました。夏期7週間だけの非常に密度の濃い弦楽器のためのプログラムです。広大なキャンパスには、食堂、ラウンジ、パフォーマンス・スペース、練習スタジオ、コンサート・ホール、更に、テニス、バスケ等のレクリエーション設備も完備。音楽漬けの7週間を過ごします。生徒は、1日5時間の個人練習に加え、スタジオでの授業、個人指導、更にゲスト講師として招かれた名だたる名演奏家による特別ワークショップがあります。ヨガも取り入れられています。週に3回は、教授、ゲスト講師、生徒が参加するコンサートが開催されます。将来のトップ・プロの養成機関です。ヨーヨー・マ、リン・ハレル、ピンカス・ズッカーマン、チョン・キョンファ等々現在も活躍する錚々たる演奏家を輩出しています。13歳のジェームス少年がその入り口に立った訳です。89年から92年まで、夏になるとメドウモントで学びました。

ジュリアード

 そして、1993年17歳になったジェームス青年は、ジュリアード音楽院に入学。いよいよ、世界の舞台の中心の近傍に来ました。ここで、ジェームス青年の未来を決定づける出来事があります。カナダ楽壇の重鎮ウォルター・ホーンバーガーとの出会いです。

 ホーンバーガーは、グレン・グールドを発掘しマネージャーも務めたことで知られるプロデューサー兼スカウトにして興行主。トロント交響楽団のマネージング・ディレクターを長年務め、その手腕でトロント響の地位を大きく向上させました。トロント大学にホーンバーガー講座を開設する等の後進の指導に熱心で、日本の民音が主催する東京国際指揮者コンクールの審査員も務めています。カナダ楽壇の発展に大きな足跡を残し、1987年、63歳に引退します。

 そのホーンバーガー御大が、1993年、69歳にして悠々自適の生活を切り上げて、17歳のジェームス青年のマネージャーに就任するのです。ここから、ヴァイオリニスト、ジェームス・エーネスの活動が本格化します。ジュリアードで学びつつ、ホーンバーガーの采配で、北米、欧州、そしてアジアの有名オーケストラとの共演を重ねて行きます。

 1995年、未だジュリアード在学中の19歳にして、テラーク・レコードと契約を結びます。デビュー盤は「ニコラ・パガニーニ、24のカプリース」です。超絶技巧を要求される難曲中の難曲。この選択に、エーネスの自信と野心が伺えます。眼光鋭いジャケット写真も印象的です。但し、この段階では、未だ一般的知名度は低く、関係者の間で、あのホーンバーガーがマネージャーを務める期待の大型新人という程度でした。元々、クラシック音楽のレコードCD市場は大きい訳ではなく、商業的には一敗地に塗れました。その後は、録音の機会は与えられませんでした。音楽業界の厳しい現実を垣間見た訳です。しかし、今や、このデビュー盤は相当な貴重品で、中古盤1枚500ドル超のプレミアが付いています。

世界の檜舞台へ

 エーネスは、ジュリアード在学中から、ホーンバーガーのバックアップで北米を中心に世界各国の名だたるオーケストラで客演を重ねていきます。学業との両立は決して容易ではなかったでしょうが、経験こそは何ものにも代え難い生きた教育でした。

 1997年、極めて優秀な成績で、ペータ・メニン賞を受けて、ジュリアードを卒業しました。いよいよ、生き馬の目を抜く厳しい競争と政治的駆け引きとも無縁ではいられない、世界のクラシック音楽業界へと参入するのです。

 順風満帆に見えるエーネスにとっても一つ悩みがあったと云います。それは、ヴァイオリニストにとっての生命線。己の技量をも左右する優れたヴァイオリンを如何に確保するかということです。演奏会であれ、レコーディングであれ、美しき音色は絶対条件です。最高峰は、17〜18世紀に製作されたストラディバリウスです。超一流の奏者は、有力な支援者・団体から貸与され、専属的に使用します。エーネスの場合は、カナダの芸術協会のサポートで、1717年製のウィンザー・ウェインスタイン・ストラディヴァリを使用することが出来るようになりました。

 ここからは、現代のクラシック音楽界の歴史そのものと言えるでしょう。「百年に一人のヴァルチオーゾ」と称されるジェームス・エーネスの誕生です。

 レコーディングに関しては、デビュー盤の不調で、4年間は新規録音はありませんでした。契約上の問題を整理する必要もあったのかもしれませんが、力を貯める良い機会にもなったに違いありません。2000年以降は、CBC、Analekta、Chandon等のレーベルから、精力的にCDを発表しています。年平均2枚余のペースです。如何なる分野の芸術でも、超多作は天才の証です。今や、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンからパガニーニ、ラヴェル、ドビュッシー、ストラヴィンスキー、バルトーク、更にはフィリップ・グラスまで、協奏曲、ソナタ、無伴奏ソナタ等々がヴァイオリンの主要レパートリーを網羅する膨大なディスコグラフィーを誇ります。

 最新盤は、2024年2月9日にリリースされたばかりの「我らの時代の真実(Truth in Our Time)」です。アレクサンダー・シェリー率いるカナダ国立芸術劇場管弦楽団との抜群の相性です。

音は人なり

 ヴァイオリンという楽器は、演奏者の人格識見が音に直裁に反映します。左手の指が押さえるポイントが0.5ミリ違えば音程がズレてしまいます。指の力加減がヴィヴラートの質を決めます。右手の弓を弾くスピードと圧力が音色を決めます。同じ楽器でも弾く人が違えば、全く異なる音が生まれます。ピアノならば、誰が鍵盤を押さえても同じ音程で基本的に同じ音が出ます。勿論、曲を奏でる場合は演奏者の違いが出ます。が、一つ一つの音は既に準備されています。ヴァイオリンは、一つ一つの音をつくるところから始まります。それ故に、ヴァイオリンの音にその人間のほぼ全てが滲むのです。

 もう随分前の事ですが、某テレビ局の有名アナウンサーと懇談の機会を得ました。その方はアナウンス室長を務められていて、後進の指導に当たっておられました。モットーは「声は人なり」。視聴者の方々にニュースを正確に客観的に届けるために、声を鍛え、発音を磨くのだと。謙虚に努力した声には誠意が宿り、視聴者の信頼を得るのだ、と力説されていたのを思い出します。一見華やかな世界の土台に地道な準備があると学びました。

 ヴァイオリンも本質は同じです。外からみれば、才能だ偉才だ天才だと言って片付けてしまいそうですが、そんな簡単な訳がありません。世界最高水準で演奏し続けるための鍛錬とコミットメントは人格そのもののです。故に、音は人なりです。心の乱れは音の乱れです。演奏と人格の境界線は、五木寛之の傑作「海を見ていたジョニー」にも通じる深淵なテーマです。

 2017年発表のCD2枚組「モーツァルト・ヴァイオリン協奏曲全集」を聴いた時の事です。エーネスのヴァイオリンが純朴で善意の塊のような音色だと感じました。モーツァルトの父レオポルドは成功したヴァイオリン教師でしたから、幼いモーツァルトは英才教育で徹底的にヴァイオリンを仕込まれました。モーツァルトにとってヴァイオリン協奏曲は、彼の人格の一部でもあります。その協奏曲を3歳児の頃からヴァイオリンを弾いて来たエーネスが奏でるのです。時代を超えた共感と絆があるに違いありません。小手先ではなく、エーネスの全人格が反映しているのです。

結語

 2024年1月の国立芸術劇場(National Art Centre)での公演プログラムは、エーネスとNAC管弦楽団による4曲のバッハのヴァイオリン協奏曲集です。エーネス自身が指揮して独奏する「イ短調」と「ト短調」。そして「2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調BWV1043」では、 ジュリアードの同級生であるNACのコンサートマスター川崎洋介と共演。更に、「3つのヴァイオリンのための協奏曲ニ長調BWV1064R」では、右の2人に川崎夫人でもあるジェシカ・リンバックが加わりました。音楽の本質は、音学ではなく、音を楽しむことにある、と心底得心させる素晴らしい演奏会でした。そして、この日の演奏は全て録音されていて、2024年9月にはCDリリースされる予定です。また一つ、名盤がエーネスのディスコグラフィーに加わる訳です。

 最後に全くの私事ですが、演奏会の後、幸運にも楽屋で御挨拶をさせて頂く機会を得ました。巨匠ぶったところは全くなく、お茶目で本当にフレンドリーな人柄に魅了されました。NHK交響楽団との共演が感慨深いとも語ってくれました。最後に「アリガトウ」と笑顔で言ってくれました。

 カナダが生んだ現代の巨匠ジェームス・エーネスは47歳になったばかりです。この先、どれだけの傑作を残すのか超楽しみです。既にクラシック音楽の名演奏家列伝に入っているエーネスが如何なる物語を加えるのでしょうか。時代に彼を聴ける喜びを噛み締めたいと思います。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「ダニエル・ラノア〜鬼才プロデューサーの軌跡」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第19回

はじめに

 明けましておめでとうございます。

 同時に、能登半島地震の被災者・犠牲者の方々に心よりお見舞いを申し上げます。

 2024年は辰年です。昇龍の如く、全てがエネルギーに満ち、苦難を乗り越え、災いを転じて福と成すように、素晴らしい年となるように祈念します。

 さて、今回は、カナダが生んだ稀代の音楽プロデューサー、ダニエル・ラノアです。おそらく、この連載で取り上げた中で、一般的な知名度は最も低いかもしれません。が、1980年代以降のロック・ポップの展開を見れば、ダニエル・ラノアは、間違いなく、最も影響力のある音楽家の1人です。彼がプロデュースした作品群は、ボブ・ディラン、U2、ピーター・ガブリエル等ロックの現代史の重要な章に刻まれています。但し、ラノアの名前が前面に出ることは稀だったのです。

 そこで、読者の方には、音楽プロデューサーって一体何者?という素朴な疑問が湧き上がると思います。有名なのは、ビートルズを世に出したサー・ジョージ・マーチン。5人目のビートルとまで言われました。全く無名のボブ・ディランを発見したのは、伝説のプロデューサー、ジョン・ハモンド。若き日にベニー・グッドマン、ビリー・ホリデーらを発掘し、今日のジャズの隆盛の基礎をつくった人物です。「ウィ・アー・ザ・ワールド」は、クインシー・ジョーンズにして初めて実現した企画。尾崎豊を発見し育てたのが須藤晃でした。

 そこで、プロデューサーの仕事です。例えば、歌手、作詞家・作曲家・アレンジャー、演奏家は、彼らが参加し創造した音楽の中に具体的な音が刻まれています。役割が明確で、聴くことが出来ます。しかし、プロデューサーは、音楽制作そのものを総括していても、具体的な痕跡は見え難いかもしれません。録音スタジオの選定、参加ミュージシャンの選別、音盤のコンセプト、サウンドの色彩感、収録曲の決定等々に直接関わります。プロデューサーの役割は決定的です。

 敢えて言えば、音楽プロデューサーは、スポーツの監督に似ているかもしれません。野球でもアメリカン・フットボールでも駅伝でも、試合そのものは選手によって競われます。が、全体の戦略、個別の戦術、練習方法、選手の選択や起用のタイミング等は、監督が差配しています。そこに監督の力量が顕れます。

 そこで、ダニエル・ラノアに戻ります。カナダならではの響きを体現したラノアは、カナダ発世界行きの軌跡を鮮やかに描きます。

1951年、ケベック州ガティノー

 ダニエル・ラノアは、1951年9月、ケベック州ガティノー市ハル地区のフランス系カナダ人の家庭に生を受けました。ハル地区は、オタワ川を挟んで、首都オタワの対岸です。カナダ最大の博物館である「歴史博物館」の所在地ですが、一面ではギャンブルと酒場の街という顔も持ち合わせています。ラノア家は、決して裕福ではありませんでした。高級レストランの豪華な食事とは無縁だったけれど、祖父も父もヴァイオリンを弾き、母は歌がうまく、祝い事があれば、親戚が集まって皆で音楽を奏でていたといいます。

 そういう家庭環境で育ったダニエル少年は、自然に音楽の素養を身につけます。10歳の時に、スティール・ギターを習い始め、やがて、他の様々な楽器、さらに音楽理論も学び、吸収します。

 両親が離婚し、母親に引き取られますが完全に放任状態でした。ラノアは、後年、この頃を振り返り「自分がしたい事をする最高の養育環境であった」と述べています。時代は、疾風怒濤の1960年代です。ビートルズらが牽引しロック・ミュージックが単なる娯楽から前衛芸術へと進化します。ティーン・エイジャーになったダニエル少年も、大きな影響を受け、音楽の道へと歩み始めます。3つ年長の兄ボブの影響もあったようですが、その他の道は目に入らなかったと云います。高校在学中から、プロの演奏家として様々なバンドで伴奏をし、時には、誰も行きたがらないオンタリオ州の最北部にも出張しました。

 楽才に溢れるダニエル・ラノアです。様々な角度から、音楽にアプローチする訳です。興味深いのは、演奏だけではなく、録音スタジオに大きな関心を持ったことです。「サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」や「ペット・サウンド」等60年代の偉大な音盤は、スタジオでの実験と冒険の賜物。スタジオが楽器なのです。

1969年、オンタリオ州ハミルトン

 1969年、ラノアの母親は、ガティノーからオンタリオ州ハミルトン市アンカスター地区に転居し、家を新築します。そこで、ラノアは兄ボブと一緒に一計を案じます。この新居の地下室に防音を施し、小さな録音スタジオにしたのです。ラノア家には、旧式のオープン・リール・テープレコーダーがありました。当時は、未だ自分の声なり演奏を録音して、それを再生して聴くということは特別な体験でした。従って、現代の目から見れば、極めて素朴な資機材ですが、一般向けの録音スタジオが商売としても成り立ったのです。兄の影響があったにしても、高校在学中の17歳です。本能の赴くまま、目的のために、利用出来るものは全て利用したのでしょう。が、己の将来への明確なヴィジョンがあったのです。早熟と言えば、早熟。凄いことです。慧眼です。

 この「アンカスター・スタジオ」で、マイクの位置や音源との距離、多重録音の効果、エコーやイコライザー等の機材が如何に音楽の色彩感を決めるのか、音楽制作の核心を体得していきます。地元のローカル・バンド達との交流が深まり、プロデューサーとしての腕を上げ、音楽関係者の間で名を知られるようになります。

 1976年、25歳の時に、自宅地下室からステップ・アップします。ハミルトン市のダウンタウンにある20世紀初頭に建てられたビクトリア朝風の3階建家屋を兄と共同で購入し、大幅に改修。「グラント・アヴェニュー・スタジオ」をオープンするのです。この名称はここの住所、38 Grant Avenue, Hamilton, Ontario L8N 2X5 に由来します。兄弟は、Revox社製テープレコーダー等の本格的な機材・設備を導入し、地元のミュージシャンの音盤をプロデュースし始めます。後にメジャーになる地元のローカル・バンド「マーサ&マフィンズ」、更に「タイム・ツインズ」もラノアが手掛けたアーティストです。彼らを通じて、ラノアの評判が国境を越えます。

1979年、トロント〜ニューヨーク〜ハミルトン

 ニューヨークは世界の最先端を走る都です。世界中の猛者が集まり、時代を牽引します。そして、様々な出会いが起こります。

 トロント出身の「タイム・ツインズ」は、ラノアがプロデュースしたパンク・ロック調の「ユーリ・ソング」というデモ・テープを持ってニューヨークを訪れます。世に出る機会を探すプロモーションです。偶々このテープを聴いたのが、偶々ニューヨークを訪れていたブライアン・イーノです。ロンドンで異彩を放っていた鬼才です。若くして、シンセサイザー奏者としてロキシー・ミュージックに参加した後、ソロ・キャリアを展開しつつ、デビット・ボウイのベルリン三部作にも参加し、プロデューサーとしての活動を本格化させていました。

 そんなイーノの耳が「タイム・ツインズ」のテープに宿る新しい「音」を聴き取ります。彼が探し求めていた「音」があったのです。その段階で、ラノアは、カナダの無名の新米プロデューサーに過ぎません。が、イーノはラノアの巨大な才能の原石を察知したのです。

 ここからのイーノの動きは非常に素早いものがあります。ダニエル・ラノアに連絡を取ります。そして、あの「音」を生み出したハミルトンの「グラント・アヴェニュー・スタジオ」を訪れます。初対面にして、イーノは、音楽制作に関して通じ合う特別な紐帯があることを直感します。ラノアにとっては師との邂逅です。この出会いこそ、この後に続くイーノ/ラノア・チームの傑作群の始まりの始まりです。

 イーノは、早速、新しい音盤の録音を「グラント・アヴェニュー・スタジオ」で始めます。完成したのが「プラトウ・オブ・ミラー」です。ミニマルな環境音楽の代名詞“アンビエント・ミュージック”の傑作です。この音盤は、イーノ自身がプロデュースした作品です。小さな字ではありますが、ラノアへの特別な謝意がクレジットされています。初めて、メジャーな世界で認知されたのです。

 それまで世界的には無名のオンタリオ州ハミルトンの小さなスタジオが注目され始めました。

1981年、「グラント・アヴェニュー・スタジオ」

 イーノとの共同作業でダニエル・ラノアの才能は一気に開花します。カナダのローカルなマイナー・アーティストを世に出す仕事を続ける一方、スーパー・メジャーな音楽家の作品を手掛けるようになります。

 最初は、師であり同志であるブライアン・イーノとの共同名義の音盤「アポロ」の録音です。イーノは英国ロンドンを拠点にしていますが、この音盤は「グラント・アヴェニュー・スタジオ」で録音することに拘ります。1981年から翌年にかけ、イーノが何度も足を運び、完成に漕ぎつけます。元々は、アポロ計画に関するドキュメンタリー映画「フォー・オール・マンカインド」のためのサウンド・トラックとして企画されたものでしたが、映画の公開に先立ち、1983年7月に発表されました(映画の公開は89年)。ジャケットの月面写真が示すように、宇宙空間や月のイメージを音で紡いでいます。ここに響いている音楽は、もはやロックというよりは、ジャンルを超えた現代音楽です。幾つかの楽曲は、「28デイズ・レイター」など他の映画でも使用されています。

 音盤「アポロ」は、商業的に大成功という訳ではありませんでしたが、音楽・映画関係者の間では高く評価されていました。ダニエル・ラノアのファンにとっては、最初のメジャー作品です。そして、2019年7月には、アポロ11号の月面着陸50周年のCD2枚組特別編集盤がリリースされました。世紀を超え、今も新鮮な音楽です。

1984年、アイルランド

 1984年イーノ/ラノア・チームは、U2新作アルバム「焔(Unforgettable Fire)」をプロデュースします。この背景が非常に興味深いです。

 U2は1983年発表の3枚目のアルバム「闘」で、母国アイルランドを超え、英国、米国、更にはグローバルに成功していました。直裁なパンク・ロック的アプローチで時代の空気を掴んで、若い世代から絶大な支持を得ていました。しかし、U2は更に前進するために、もっと深みのある音楽を志向します。1983年米国ツアーのシカゴ公演の際、U2メンバーがシカゴの平和博物館を訪れ、そこで観た、「忘れざる炎」と題された広島・長崎の被爆者達が描いた絵画展に感銘を受け、構想が固まります。

 そこで、U2はイーノにプロデュースを依頼します。が、イーノは乗り気ではありません。自身がロキシー・ミュージックでロックの最前線にいた訳ですが、既に音楽的関心は別の次元にあったからです。しかし、U2側は非常に熱心です。そこで、イーノは最も信頼する同志ラノアを引き連れてダブリンに赴きU2メンバーとの面談に臨みます。U2にしてみればイーノに依頼してるのであって、ラノアは眼中にありません。ラノアは、依然として知る人ぞ知る存在でした。協議の末、イーノ/ラノアの共同プロデュースで話がまとまります。

 実際の録音セッションは、84年5月から約1ヵ月間、アイルランド北東部のスレイン村の古城に楽器・録音機材を搬入し、U2メンバーと関係者一同が住み込みで行われました。時には、朝10時から深夜1時まで続きました。集中力と創造性の究極の融合です。

 「焔」は84年10月にリリース。各国チャートを席巻します。因みに、音盤ジャケットの写真が正にスレイン城です。名義上は、イーノ/ラノアの共同プロデュースですが、実際のレコーディングを仕切ったのはラノアでした。ラノアは、U2の音楽をパンク・ロックからアート・ロックへと大きく変貌させた最大の功労者です。

 そして、革新的プロデューサー、或いは、スタジオの魔術師としてのダニエル・ラノアの名前が一気に知られることになります。ここから後は、現代ロック・ポップの歴史そのものです。が、もう1枚だけ、紹介します。ラノア自身が数多あるプロデュース作品の中で最も印象深いと言っている音盤、ボブ・ディランの「オー・マーシー」です。

1989年、ニューオリンズ

 ラノアは、U2からの信頼と尊敬を得て、その後も、最高傑作「ヨシュア・トゥリー」を含めU2をプロデュースし続けます。その縁で、U2のリード・ヴォーカル、ボノがボブ・ディランにラノアを紹介します。1988年の初夏のことでした。

 この頃のディランは、と言えば、最新盤「ダウン・イン・ザ・グルーヴ」の評価が非常に低く、セールスも伸びてません。実はその前の作品「ノックト・アウト・ローデッド」も低迷してました。ディランは、既に、功成り名を遂げていた訳ですが、過去のスターに甘んじる気は全くありません。新しい歌が頭の中で次々に生まれているのですから。次の音盤で起死回生を狙います。そこで、ボノから紹介されたラノアを起用します。

 実際の録音は、1989年2月から4月にかけて、ニューオリンズの閑静な住宅街ソニアット通り1305番地の家屋に楽器・録音機材を持ち込んで行われました。録音は、夜間に限って行われました。それがディランのスタイルです。太陽が沈み、月光の中に浮かび上がる人間の本性と癒しを歌うのです。ラノアは「夜の音楽」を包み込む薄い靄がかかったサウンドをデザインします。それが、ディランの歌の力を呼び覚まし、聴く者の胸を突くのです。

 「オー・マーシー」は89年9月にリリース。批評家に絶賛され、セールスも好調。50歳を前に、ディラン完全復活を告げました。何事につけ辛口なディランですが、ラノアの的確な仕事ぶりに対し深い尊敬の念を示した、と伝えられています。

2024年、カナダ再び

 ダニエル・ラノアは、既に古希を超えています。生ける伝説です。一方、プロデューサー業だけでなく、ミュージシャンとしても現役バリバリです。2022年9月には最新盤「プレイヤー、ピアノ」をリリース。聴けば、誰の胸の奥にもある懐かしい風景を喚起します。虚飾を排した純朴にした美しい音楽。

 今年4月には、ニュー・ブランズウィック州モンクトンを皮切りに、ケベック州、スプリング・ツアーが行われます。

 カナダが誇る偉大なる音楽家の1人です。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「マッセイ・ホール〜音楽の生まれる場所」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第18回

はじめに

 光陰矢の如し、とは良く言ったもので、もう12月も下旬です。あと10日で大晦日です。年末年始の慌ただしい中、気持ちをリラックスさせるため、或いは、やりかけた仕事を完了させるべく気合いを入れるために、音楽を聴く方は多いです。出張で飛行機に乗るとイヤホンやヘッドホンを着用している非常に多くの人々を見かけます。

 今や、音楽は日常生活の不可欠の一部です。1日24時間、どこででも好きな時に、状況に応じ、好みに合わせ、世に存在する様々な音楽が聴けます。考えてみると、現代の科学技術の賜物です。言わば、iPhoneは現代のカーネギー・ホールです。源流を辿れば、音楽を屋外に持ち出したのはSONYのウォークマンでした。更に、音楽をテープやビニール盤に刻んで記録し再現出来る仕組みを作ったのは、発明王エジソンです。それ以前は、ストリーミングもCDもテレビもラジオもレコードも存在していません。音楽は、演奏される場所に行かなければ聴くことは出来なかったのです。

 そこで、今回の「音楽の楽園」は、カナダが誇る歴史的コンサート・ホール、トロントの「マッセイ・ホール」です。

極私的なマッセイ・ホールとの出会い

 佐世保から上京してからの学生時代の事です。“モラトリアム”とか“自分探し”とか言えば、聞こえは悪くありませんが、実際は、世の中の事を何も分からず、本当に何をしたいのかも見えず、霞を食うような日々でした。授業はサボリ、新宿のジャズ喫茶に入り浸ってました。特に、大好きだったのがDUGという店でした。ロール・キャベツで有名なレストラン「アカシア」が1階にある雑居ビルの狭い階段を上がった2階でした。中上建次の初期の傑作「灰色のコカ・コーラ」に登場します。DUGは、店内が薄暗く、おしゃべり厳禁、JBLの巨大スピーカーの腹に響く音響がリアルでした。コーヒー1杯で2時間、お代わりすれば3時間くらいは大丈夫でした。ジャズをひたすら聴き、時に情報誌「ぴあ」で名画座で上映中の映画をチェックしたり、ヘンリー・ミラーやジャック・ケルアックやジャン・ジュネらを読んでいました。正直に言えば、内容はほとんど憶えていません。が、そこで聴いたチャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーの即興が胸を掻きむしった感じは、今も鮮明に思い出します。その頃、よく聴いた音盤が「ジャズ・アット・マッセイ・ホール」です。実は、マッセイ・ホールがトロントに所在するという事や、この音盤に関する逸話はもっと後になって知るに至りましたが、これがマッセイ・ホールとの極私的な出会いでした。

マッセイ・ホールに終結したザ・クインテット

 この音盤は、70年も前に録音された古いものですが、ジャズ愛好家の必聴盤となっています。ジャズで使用される基本中の基本の5つの楽器の最高峰が5人集まっているからです。それだけでも超レアです。ドラム、マックス・ローチ。ベース、チャールス・ミンガス。ピアノ、バド・パウエル。トランペット、ディジー・ガレスピー。そして、アルト・サックス、チャーリー・パーカーです。ニューヨークを拠点にする5人の日程が合ったのが奇跡的でした。しかし、相当酷い依存症に陥っていたパーカーは自分の楽器すら忘れてくる始末です。何とか、主催者側が用意できたのが、プラスチック製の玩具のようなサックスでした。更に、この公演が行われたのが1953年5月15日の金曜日の夜。ちょうど同じ時間帯に世界ボクシング・ヘビー級王者ロッキー・マルシアノと前王者ジャシー・ジョー・ウォルコットとのタイトルマッチが米国で行われ、テレビ中継は驚異的な視聴率でした。従って、ジャズ史上に燦然と名を残す5人の揃い踏みでも、3千人収容出来るマッセイ・ホールに観客はわずかでした。当時の北米社会の中でのジャズの位置付けを反映しているとも言えます。主催者はまともにギャラが払えず、メンバーには小切手を渡しますが、結局、その小切手は現金化出来なかったそうです。

 しかしです。何重にも重なった不運な状況を吹き飛ばすほど、音楽は素晴らしいのです。マッセイ・ホールの名を今に留める名盤です。

故郷に錦を飾るニール・ヤング

 更に、何年も経って、久しぶりにマッセイ・ホールの名を見たのは、ニール・ヤングの「ライブ・アット・マッセイ・ホール1971」という音盤です。2007年3月のリリースですが、内容は、音盤タイトルにあるとおり1971年1月19日のマッセイ・ホールにおける単独公演の克明な記録です。レコード会社の販売戦略で、素晴らしい内容にも関わらず、長らくお蔵入りになっていたものが陽の目を見たのです。

 ニール・ヤングはトロントが生んだロックの英雄で、今も、現役で活躍しています。1966年以降、拠点は米国です。そのニール・ヤングがマッセイ・ホールに登場です。1971年1月と言えば、ヤングが参加するスーパー・グループ「クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング(CSN&Y)」の1970年9月発表の音盤「デジャ・ヴ」が全米・全加・全蘭アルバム・チャートで1位を獲得。正に絶頂期です。CSN&Yは、出身国で言えば、米国人、英国1人、そしてカナダ1人です。国籍はさて起き、それぞれ才能溢れる個性的なミュージシャンです。協働して素晴らしい音楽を生み出す歓喜も大きいでしょうが、嫉妬も葛藤も不可避です。そんな中、ニール・ヤングはグループから距離をおき、故郷に錦を飾るマッセイ・ホールでの単独公演です。

 自身で弾く生ギターとピアノのみを伴奏とする弾き語りで全18曲を歌います。この段階で発表されていたのは上記「デジャ・ヴ」収録の『ヘルプレス』等の8曲のみ。残りは全て未発表曲。故郷のファンの前で新曲を披露するのです。これは貴重です。この単独公演の13ヶ月後にリリースされる傑作「ハーヴェスト」に収録されることになる5つの曲の原型が聴けるのです。特に、後に全米1位になる『孤独の旅路』のピアノ弾き語りは必聴です。正に、マッセイ・ホールで、未来の名曲が現在進行形で鍛えられていた訳です。

 このライブ盤のもう一つの価値は、観客の反応をリアルに刻んでいる事です。歌詞の中に、“カナダ”とか “ノース・オンタリオ”とか出てくる箇所では、歓声があがります。曲の間で、観客に「カナダを出て5年になるけれど、戻って来れて嬉しい」と語りかける時には熱狂的な拍手が湧きます。また、アンコールを求める観客が足を踏み鳴らす音が迫力です。要するに、ニール・ヤングとカナダとの強い絆が克明に記録されています。

マッセイ・ホール略史

Hart Massey
Hart Massey

 今や、トロントは、ニューヨーク、ロサンゼルスに次ぐ北米3位の大都市です。そのトロントの象徴的な建物の一つがマッセイ・ホールです。その名は、カナダが誇る実業家ハート・マッセイに由来します。全カナダの60%のシェアを誇った農機具メーカー、マッセイ製作所の会長のトロント市民への贈り物とも言えます。鉄道王アンドリュー・カーネギーがカーネギー・ホールを完成したのが1891年ですが、その3年後の1894年に完成します。

 マッセイ製作所は、米国生まれの父ダニエル・マッセイがオンタリオ州ニュー・カッスルに創業した小さな会社でした。高校を卒業し、1851年にハートは父の会社に就職し、経営を学びます。1856年に父が他界すると、33歳のハートが会社を引き継ぎます。地元で会社の土台を固めます。

 1867年7月、大英帝国の自治領としてカナダが「建国」され、オンタリオ州は加速度的に発展します。1870年代になると、拡大著しいトロントにマッセイ製作所の拠点を移します。大きな決断でしたが、会社は順調に成長します。80年代に入ると、自社の農機具をアルゼンチン、オーストラリア、更には欧州各国へと輸出し始めます。

 そして、1884年、ハートは既に61歳で会社も順調です。引退の時と考え、商才溢れる息子のチャールズ36歳に会社を引き継ぐ準備を始めます。ところが、チャールズは腸チフスで急逝します。失意の中で、ハートはそれまで以上に経営に没頭し、同業のハリス社やパターソン・ウィンザー社等を吸収合併して、マッセイ製作所をカナダ最大の農機具メーカーに育てます。

 そして、功成り名を遂げたハート・マッセイは、息子チャールズが大変な音楽好きだったことから、チャールズ追悼の思いも込めて、コンサート・ホールの建設を決めます。コンセプトは、「宗教に関係なく、音楽を楽しみ、皆が集える場所とする」、それと、「入場料を低く設定し、コンサート・ホールを利潤追求の場としない」というものです。そして、コンサート・ホールの建物はネオ・クラシカルな意匠で、アルハンブラ宮殿がモデルとなっています。カナダが誇る建築家シドニー・バッジリーの代表作です。柿落としは、1894年6月14日、ヘンデルの「メサイヤ」でした。ハートは、マッセイ・ホール完成の1年8ヶ月後に他界。享年73歳でした。

21世紀、その先へ

 ハート・マッセイの思いが詰まったマッセイ・ホールは、素晴らしい音響と同時に、自由で多様性に満ち包摂的な街の個性と相まって、此処では、クラシックから、ジャズ、ロック、ブルース更には民族音楽に至るまで、実に多様で多彩なアーティストが公演を行っています。

 トロント・シンフォニー・オーケストラは、1906年の創設以来、1984年に新設のロイ・トンプソン・ホールに移るまで、ここマッセイ・ホールを拠点としていました。クラシック音楽では、ジョージ・ガーシュイン、マリア・カラス、グレン・グールド、ウラジミール・ホロヴィッツ、アルトゥーロ・トスカニーニ、ルチアーノ・パバロッティ等々。

 ロック・ポップならば、ボブ・ディラン、ビリー・ジョエル、ジャスティン・ビーバー、クリーム、ボブ・マーリー、ゴードン・ライトフット、ラッシュ等々。

 現在、マッセイ・ホールは、リノベーションの真っ最中です。ハートの思いは、世紀を跨ぎ、未来へと繋がっていきます。19世紀の最先端の建物が、その核を残しつつ、大胆に21世紀の最先端へと変貌を遂げつつあります。

 マッセイ・ホール、22世紀に残る古典の生まれる場所になるに違いありません。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「ポール・ブレイ」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第17回

 11月に入り、気温もぐっと下がって来ました。オタワでは氷点下に入り、体感温度は摂氏マイナス10度以下です。先日、1週間ほど、東京・大阪に出張しましたが、11月でも日中25℃を超える「夏日」で汗ばむ程でした。トロント経由でオタワ空港に降り立った時に大きな気候の差を実感しました。いよいよ、北の大地の本領が発揮される季節がやって来ました。

 今月は、ジャズ愛好家の知る人ぞ知るポール・ブレイです。モントリオール出身で、現代ジャズに大きな足跡を残し、2016年1月に83歳で他界しています。いわゆる大ヒット作がある訳ではありません。が、ポール・ブレイがいなかったら、ジャズ界の模様は随分と違ったものになっていたに違いありません。

はじめに

 ポール・ブレイの名が地元モントリオールの音楽愛好家に知られるようになった直接のきっかけは、1949年夏のことです。若干の背景を説明します。

 1949年、米国からJATP(Jazz At The Philharmonic)という一大ジャズ興行団がモントリオールを訪れます。ヴァーヴ・レコード総帥ノーマン・グランツがエラ・フィッツジェラルドやチャーリー・パーカーら錚々たるジャズ・ミュージシャンを率いての公演は、大盛況のうちに終わりました。翌日、ノーマン・グランツは、仕事に満足し、タクシーで空港に向かいます。すると、車中のカー・ラジオからはジャズ・ピアノが流れていました。グランツの耳がその素晴らしい音楽をキャッチします。思わず、「これは誰だ?」と尋ねます。たまたまこの運転手がジャズ好きでした。運転手が答えます。「オスカー・ピーターソンでさ、旦那。モントリオール最高のピアニスト、いや、カナダのナンバー1ピアノ弾きだと、おいらは思ってる」と。

「ほう。これは、レコードかい?」
「いや、実況生中継ですよ。旦那」
「何処で、やってるんだい?」
「ダウンタウンの『アルバータ・ラウンジ』というジャズ・クラブでさ」
「じゃあ、今から其処へ行ってくれ」
「旦那、空港に行くんじゃないですかい?」
「構わん。空港は忘れろ。とにかく、『アルバータ・ラウンジ』とやらへ急いでくれ」
「ヘイ」

 という経緯で、グランツは、モントリオール市街デ・ラ・ガウシェティエル通とピール通の角に所在していたジャズ・クラブ『アルバータ・ラウンジ』へ行きます。その段階では全く無名のオスカー・ピーターソンでしたが、グランツはピーターソンの演奏を目の前で聴き完全に魅了されます。演奏が終わると、グランツはピーターソンに語りかけます。「君は本当に素晴らしい。僕と契約して、ニューヨークで開催するコンサートに出演しないか?」

 そして、ピーターソンはニューヨークへ行き、1949年9月18日、カーネギー・ホールで鮮烈なデビューを飾ります。ジャズ史の最重要章の一つ、オスカー・ピーターソン創世記です。

 ここで、ポール・ブレイに戻ります。上述のとおり、オスカー・ピーターソンはラジオ番組の舞台でもある『アルバータ・ラウンジ』の主役だった訳ですが、ニューヨークに行く事になり、誰がピーターソンの抜けた穴を埋め得るのかが問題となる訳です。後に「鍵盤の帝王」の異名を授けられるピーターソンです。上記タクシー運転手のコメントにある通り無名時代から凄かった訳です。その後釜ですから、相当の達人でないと務まりません。其処で、ニューヨークに出発する24歳ピーターソンが直々に指名したのがポール・ブレイなのです。この時、ブレイは弱冠16歳。地元の名門マギル大学附属音楽院に通う俊英で、自らコンボを組んで演奏活動を行っていました。その巨大な才能がピーターソンには見えていたのでしょう。因みに、「音楽の楽園」第2回で紹介した通り、日本が誇る秋吉敏子を見出したのもピーターソンです。

神童

 ポール・ブレイは、1932年11月10日モントリオールに誕生します。出世時の名前は、ハイマン・ブレイでした。両親ともルーマニアからカナダに移民したユダヤ人。「屋根の上のヴァイオリン弾き」を彷彿させますが、5歳でヴァイオリンを習い始めたと云います。7歳の時に、両親が離婚。その頃、ポール自身の意思で、ヴァイオリンからピアノに転向し、本格的にレッスンを受け始めます。ピアノが生涯の楽器となった訳です。楽才は明らかで、11歳にして、マギル大学附属音楽院に入ります。13歳にして、ケベック州の避暑地サンタガテ・デ・モンで楽団を率いて演奏し、収入を得る程の早熟でした。この頃、ファースト・ネームをハイマンからポールに改名します。理由は、女子にモテそうだから、と云われています。が、自分自身のアイデンティティーへの屈折した思いもあったのかもしれません。

 そして、オスカー・ピーターソンに認められて、彼の後任として『アルバータ・ラウンジ』での活動が始まります。

ニューヨーク

 1950年夏、ポール・ブレイはニューヨークへ旅立ちます。ジュリアード音楽院への進学です。この時、17歳です。

 1950年代のニューヨークは、正に自由で多様な新しい音楽として加速度的に飛躍する時期です。ポール・ブレイは、この街のエネルギーと刺激を自らの音楽へと昇華していきます。21歳になって3週間後の1953年11月30日(月)、デビュー盤「イントロデューシング・ポール・ブレイ」を録音。ベースにチャールス・ミンガス、ドラムはアート・ブレイキーという巨人を従えて、1日で6曲を仕上げています。今、聴けば、革命的とまでは感じませんが、確かな技術に基づき、美しく冷涼なタッチで、若々しく、溌剌とした演奏が印象的です。自作曲が2曲で、作曲家としてのセンスも光ります。商業的には駄目でしたが、世界中から猛者の集まるジャズの都で、カナダ出身の若きピアニストの潜在力を見せつけました。

フリー・ジャズ創世記

 ポール・ブレイは、着実に力をつけ、米国ジャズ界での存在感を増していきます。1955年7月13日号のジャズ専門誌「ダウンビート」に掲載されている彼のインタビューは未来を予告しています。現代のジャズは、今、新たな革命の前夜である旨を述べています。その新たな革命とは後年「フリー・ジャズ」と呼ばれるジャズの潮流です。翌1956年には、ロサンゼルスへ拠点を移し、新しい五重奏団を立ち上げます。そのメンバーとは、サキソフォンにオーネット・コールマン、トランペットにドン・チェリー、ベースにチャーリー・ヘイデン、そしてドラムはビリー・ヒギンズです。ジャズ愛好家ならば、誰もが知るジャズ史に名を刻む錚々たる音楽家達です。オスカー・ピーターソンが若く無名のポール・ブレイに飛躍の機会を与えたように、ポール・ブレイは、1956年の段階で若く無名だが新しい音楽を築くのだという情熱に溢れる面々を見出した訳です。そして、1958年10月、ファビュラス・ポール・ブレイ・クインテット名義で「ライブ・アット・ヒルクレスト・クラブ1958」を実況録音。ライブ故に真の実力が露わです。圧倒的な熱量を今に伝えています。

疾風怒濤

 ポール・ブレイは、ジャズ界きっての鬼才として、縦横無尽に活躍します。1962〜63年、代表作「フットルース!」を録音します。ポール自身は決して政治的人間ではありませんでしたが、この音盤は、米国の繁栄と冷戦と公民権運動が彩る時代の雰囲気を反映しているように感じます。ピアノ・トリオの表現領域を大きく拡げた傑作で、大きな影響を残しました。キース・ジャレットは「何千回も聴いた」と語っています。チック・コリアが1971年に発表した音盤「A.R.C.」の原風景がここにあります。

 そして、1960年代は芸術も社会も疾風怒濤の時代です。新しく自由な音楽であるジャズも2つの面で大きく変貌を遂げます。一つは、既存の音楽的枠組みや和音の概念を超える「フリー・ジャズ」の勃興です。正に、ポール・ブレイが予告した通りです。しかも、彼が見出した、オーネット・コールマンやドン・チェリーが時代を牽引します。

 もう一つが、シンセサイザー等の電子楽器の登場です。ビートルズ、ピンク・フロイド、エマーソン・レイク&パーマーら英国ロック勢が実験的に導入します。一方、ポール・ブレイはジャズ界の先頭に立って、シンセサイザーを全面的に活用します。史上初めて、観客の前でシンセサイザーを演奏した音楽家こそポール・ブレイです。1971年発表の「ザ・ポール・ブレイ・シンセサイザー・ショー」は、過去と現在と未来が溶け込んだ傑作。ポール・ブレイの前衛であろうとする明快な意思が清々しく感じられます。

ジャコとパット

 最後に、触れたいのは、明白楽、未知の才能の発見者としてのポール・ブレイの功績です。それは、現代ジャズを築いた音楽家としてジャズ史に刻まれるエレキ・ベースの巨人ジャコ・パストリアスとギターの巨匠パット・メセニーに初めて録音の機会を与えたのがポール・ブレイだということです。

 時は1974年6月16日(日)、場所はニューヨークはマンハッタン区ソーホーのグリーン・ストリート29番地。ポール・ブレイが主催するIAI(Improvising Artists Inc.)レコードへの録音です。タイトルは「ジャコ」。ポール自身がプロデュースし、エレキ・ピアノでも参加しています。ポールの信頼厚いブルース・ディトマスがドラム。23歳のジャコと19歳のパットが初めてその巨大な才能を音盤に刻むのです。ジャコとパットを鼓舞し、挑発するポールのエレキ・ピアノは刺激的で若々しいです(実はこの時41歳)。全9曲、36分37秒に及ぶ高純度の即興演奏。現代ジャズの歴史的瞬間と言って良いでしょう。聴く度に新たな発見のある名盤です。が、実は、この音盤は当初全く商業ベースに乗らず、お蔵入りしていました。

 ところが、1976年になって、ジャコがスーパー・グループ、ウェザー・リポートに参加し、その革命的かつ驚異的なベースに世の注目が集まります。パットもゲイリー・バートン楽団に入ると同時にソロ・デビュー盤をリリースして新しきギター・ヒーローとして認知度が上がります。すると、この2人が全く無名だった頃、鬼才ポール・ブレイの四重奏団で録音していた事が関係者の間で話題となり、お蔵入りだった音盤「ジャコ」がリリースされます。虚飾を剥いだ、現代ジャズの真髄が真空パックされています。

結語

 ポールの活動の主たる場は常に米国でした。ですが、ニューヨークでジャズ・ミュージシャンとして独り立ちをしてからも、機会を見つけては、カナダに戻り、後進の指導に当たっていたと云います。1953年には、モントリオール・ジャズ・ワークショップの組織化に尽力しました。ビバップの創始者としてジャズ史に刻まれるアルト・サキソフォンの天才チャーリー・パーカーをモントリオールに招き、自らもピアノで参加しています。

 米国を拠点にジャズの歴史をつくったポール・ブレイ。自宅は、ニューヨーク、ロサンゼルスでした。83歳で他界したのもフロリダでした。が、彼はカナダ国籍を保持し続けていました。カナダが誇る音楽家です。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「ブライアン・アダムス」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第16回

 10月も下旬に差し掛かり、オタワは晩秋です。紅葉もピークを過ぎ、葉が落ちて来ました。夏の間は、市街地の至る所に見かけた自転車愛好家も随分と減りました。いよいよ冬が近づいて来ました。という訳で、今月はホットな気分になるべく、今もバリバリ現役のブライアン・アダムスです。

はじめに

 ブライアン・アダムスは、1959年生まれで、今年64歳。ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」には、リンゴ・スターが歌った「When I’m Sixty-Four」という隠れた名曲があります。そこでは、64歳は、髪も薄くなり、草むしりをし、孫と戯れる老人を象徴する年齢として描かれています。実際、世の中には、そんな方々は大勢いらっしゃると思います。が、ブライアン・アダムスは、そんなイメージを微塵も感じさせません。若々しく、エネルギーに満ちています。

 最新盤「ソー・ハッピー・イット・ハーツ」は、新型コロナの真っ最中に制作を始められました。感染爆発の難しい環境下でしたが、しっかり完成させ、22年3月に発表されました。全12曲、39分のロック&ポップは、親しみやすく、ポジティブな極上の時間です。何とも言っても、ブライアンの声が健在なのが嬉しいです。少々ザラついたハスキーさは、低音から高音域まで芯が強く、正確な音程です。ブライアン・アダムスを聴くと、感動の正体とは、旋律、歌詞、アレンジ、歌唱力、そして声の5つが完璧に溶け合って最大化された音楽の力なのだと気付きます。決して、奇を衒った事はしてません。シンプルです。かつて、アインシュタインが「真理は単純にして美しい」と言ったことを思い出す程です。

外交官の息子

 ブライアン・アダムスは、成功したアーティストの例に漏れず、活動の拠点は米国ですが、カナダで生まれ育ち、カナダで芽が出て、カナダで研磨されたアーティストです。そして、移民国家カナダならではの家庭環境が彼を生み出しました。

 まず、ブライアンの両親は、1950年代に英国プリマスからカナダに移住しました。父コナルド・J・アダムスは、英陸軍士官学校出身の将校で、カナダ移住後にまずカナダ陸軍に入り、国連PKO監視員を務めた後に、カナダ外務省に移り、外交官として活躍した人物です。そんな両親の下、ブライアンは、1969年11月5日にオンタリオ州キングストンで生まれます。

 そして、外交官の息子ブライアンは、幼少期にはリスボン、ウィーン、テルアヴィヴ、ロンドンで暮らします。各地のインターナショナル・スクールで多感な時期を過ごします。知らず知らずのうちに、誰もが違う面を持ち、多様な価値がある事を受け入れるようになっていたことでしょう。中学生になる頃にオタワに戻ります。その頃までには、ブライアン少年は完全に音楽の虜となっています。ディープ・パープル、CCR、レッド・ツェッペリン、Tレックス、エルトン・ジョン、そしてハンブル・パイといった1970年代初頭のロックの王道を聴き倒します。

 初めてエレキ・ギターを買ったのは、ロンドン近郊のレディングで1970年の事です。フェンダー・ストラトキャスターのコピー・モデルでイタリア製だったといいます。本物のストラトは11歳の少年にとっては高嶺の花ですが、ディープ・パープルの核リッチー・ブラックモアの大ファンとしては、アームを使ったトレモロ奏法に憧れたのだと思います。そして、2台目のエレキ・ギターは、12歳の時に、オタワの廉価ショップで購入したレスポールのイミテーション・モデルです。或るインタヴューで「その頃、ハンブル・パイの『ロッキン・ザ・フィルモア』にのめり込んでいた。このバンドの2人のギタリスト、スティーブ・マリオットとピーター・フランプトンは両者ともギブソン製レスポールを弾いていたので、レス・ポール・モデルが欲しくてたまらなかった」と述べています。 1971年当時のオタワは、カナダ建国100年を超えて、首都機能を充実させていました。各国大使館があり、国際色豊かではあっても、ロック少年にとっては退屈な街だったでしょう。それでも、ブライアン少年は中学生にしてロック・ミュージックへの情熱が半端なく燃え盛る訳です。

プロへの目覚め〜バンクーバー時代

 転機は、1974年にやって来ます。父がオタワの外務省から在外勤務へ転勤することになります。世界中の外交官は、本省と在外公館とを往復する生活を送っている訳ですが、家族には家族の様々な事情もあります。この時のアダムス家は、父親が単身赴任して、母とブライアン少年そして弟ブルースの3人はノース・バンクーバーへ引っ越します。ブライアン少年は、芸術系も充実しているアーガイル高校へ入学します。ここまでは、何処にでもある話です。

 翌年1975年、ブライアン少年は高校を中退します。音楽活動に専念する訳です。「ショック」という名のバンドを結成。両親が将来の大学進学に備えて蓄えていた教育資金を切り崩し、グランド・ピアノを購入します。投資と言えば投資ではあります。但し、将来に対する何の保証も無い訳です。ブライアン少年には、どんな未来の自分の姿が見えていたのでしょうか?軍人から外交官に転じた父は、息子の青春をどんな思いで見ていたのでしょうか?とても興味深いところです。ロック・ミュージックへの熱い思いのみで高校中退してからビルボード誌チャート上位に喰い込む1983年1月に至るまでの7年余は、1人の音楽少年が世界に羽ばたくまでの青春の物語です。地図のない旅路と言えるでしょう。

 さて、音楽の道を歩み始めたブライアン少年ですが、極めて限られた収入しか無い訳です。生活費を賄うために、ペット・フード販売等々のアルバイトに精を出さざるを得ない時期もあったといいます。それも16歳の少年にとっては楽しき日常生活の冒険だったのかもしれません。その頃、地元バンクーバーのプロ・バンド「スゥイニー・トッド」のリード・ヴォーカルに迎えられます。そして、「ロキシー・ローラー」というシングル盤をリリース。1976年9月18日付ビルボード誌トップ100チャートの99位にランクインします。快挙です。普段は、バンクーバーの下町のパブ等で演奏しているローカル・バンドです。この曲の成功で、ブライアンを擁するスゥイニー・トッドは、カナダ版グラミーとも言うべきジュノー賞の最優秀新人バンド賞に輝きます。17歳の誕生日を前に、輝かしい未来の一端が垣間見えたに違いありません。

 そして、1978年1月、バンクーバーでの運命的な出会いが起こります。18歳のブライアンは、ダウンタウンの「ロング&マッケード楽器店」で、たまたま遭遇した友人からジム・ヴァランスという人物を紹介されます。ジムは、当時25歳。作曲家にして「プリズム」というカナダ全土で人気のあったバンドのドラム奏者でした。別のバンドに属していましたが、2人は意気投合します。ジムこそ、ブライアン・アダムスの眠れる才能を開花させるのです。

 初めて、ジムの自宅スタジオを訪れたブライアンは、2人でジャム・セッションをした際の、ジムの力量に舌を巻きます。ドラムを録音し、その上にベースを重ねるだけで、音楽の骨格が浮かび上がるのです。一方、ジムは、ブライアンの歌と曲づくりのセンスに脱帽します。2人は、作詞作曲のチームを結成します。ジョン・レノンとポール・マッカートニーの出会いを彷彿させます。数学では1+1=2ですが、音楽は1+1>2になり得ます。時には、10にも100にもなります。ブライアンとジムには無尽蔵の曲想が湧きます。ジムの人脈で、レコード会社とソング・ライティングの契約を結びます。頂上への第1歩です。キッス、ティナ・ターナー、ジョー・コッカー、カーリー・サイモン、ニール・ヤング、ボブ・ウェルチ等々への楽曲を提供です。これが起点となって、遂に、A&Mレコードとアーティスト契約を結びます。A&Mと言えば、カーペンターズやジョージ・ベンソン等を擁するメジャーの一角です。但し、契約額は1ドルでしたが。それでも、無名の19歳の視野に未来が入って来た瞬間です。

離陸と雌伏

 1979年11月、ブライアンとジムは、バンクーバーとトロントのスタジオでブライアンのデビュー・アルバムの録音に取り組みます。ジムは、ドラム、ベース、キーボード、ギターを弾き、プロデュースも担当。八面六臂でブライアンを支えます。ゲスト・ギタリストにドゥービー・ブラザーズで名を馳せたジェフ・バクスターも名を連ねます。僅か1か月足らずで全9曲、収録時間31分11秒の音盤を完成させます。遂に、1980年2月「ブライアン・アダムス」がリリースされました。ジャケットも熱いです。シングル・カットされた「愛の隠れ家」はビルボード誌チャートで43位まで上がります。が、セールスも批評も芳しくありませんでした。

 この時、ブライアンは弱冠20歳。ともかくメジャーのA&Mからデビューです。ビルボード誌にもチャート・イン。デビュー盤を引っ提げてカナダ各地で公演して回ります。勿論、まだまだ知名度は低く、スタジアムではなく繁華街のクラブ等のドサ回りです。それでも、このカナダ国内ツアーがブライアンを鍛え抜きます。

 翌81年7月、第2弾音盤「ユー・ワント・イット、ユー・ガット・イット」を発表します。デビュー盤が多重録音に頼り過ぎた点を反省して、ケベック州モリン・ハイツのスタジオ・ライブの形式で録音されました。ブライアン・アダムスの特徴である臨場感たっぷりの音楽に仕上がります。が、またしてもセールス面では惨敗です。

 メジャー・デビューを飾ったものの、21歳のブライアン、そしてチーム・メイトのジムは、確実にロックとポップの核心に迫っているものの、未だ世界の聴衆を掴み切れていません。世界中の才能が覇権を目指し集う北米マーケットの競争は苛烈を極めます。ブライアン、雌伏の時代です。そんなブライアンを励まし育んだのはカナダの大地と其処に住む人々です。

成功

 1982年8月、ブライアンは、彼の音楽的原点であるバンクーバーで新作に取り組みます。エアロスミスやボン・ジョヴィ、AC/DCらも録音した西海岸最高峰のリトル・マウンテン・サウンド・スタジオで3か月間に渡り、録音。10月には、ニューヨークのパワー・ステーション・スタジオにて最終的なミックス・ダウンが行われました。ジャケット・デザインもちょっとアイドル然とした戦略的ポップ路線です。そして、83年1月、第3弾音盤「カッツ・ライク・ナイフ」がリリースされます。ビルボード誌アルバム・チャート8位、カナダのRMP誌アルバム・チャート8位と大成功です。そして、翌84年「レックレス」は、米・加・NZのチャート首位、全世界で1200万枚を売り上げます。シングル・カットされた6曲が全てビルボード誌チャートの15位以内に入ったのは、マイケル・ジャクソン「スリラー」、ブルース・スプリングスティーン「ボーン・イン・ザ・USA」に匹敵します。

 この後は、現代ロック・ポップの歴史です。

結語

 ロックの世界で走り続けるのは、飛び抜けた才能、強固な意志、健康の3拍子が揃った上で、聴衆の支持が不可欠です。ブライアン・アダムスにはそれらが揃っています。ブロードウェイ・ミュージカル「プリティ・ウーマン」も制作。創造力は留まるところを知りません。これまでの大ヒット曲を改めて録音した「クラシック」とその第2弾「クラシック・パート2」も発表しました。ロック・フレイバー溢れるジャケット写真は、ブライアン自身の撮影です。改めて、40年に及び発表して来た楽曲の素晴らしさを実感します。

 カナダの生んだ生けるレジェンドです。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「パーシー・フェイス」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第15回

はじめに

 音楽ファンの皆様、カナダ好きの皆様、こんにちは。

 9月も下旬になると、ここオタワでは街中でも紅葉が始まり、随分と秋めいて来ました。一方、山火事は今もって収まっておらず、地球温暖化と大自然の猛威を実感します。安全確保の観点から避難された方々もいらっしゃると思います。お見舞い申し上げます。

 さて、今月はイージー・リスニングの王者、パーシー・フェイスです。1908年4月、トロントのユダヤ系家庭に8人兄弟姉妹の長男として生まれたカナダ人です。米国を拠点に大成功。日本でも人気を博し、1966年以降、自らのオーケストラを率いて来日すること5回。最晩年の1975年の来日コンサートも大盛況でした。

 パーシー・フェイスと言えば、「夏の日の恋」にトドメを刺します。1960年2月22日から9週間連続でビルボード誌ホット100首位に君臨。年間チャートでも首位です。歌のないイージー・リスニングのレコードがこれだけ大ヒットするのは異例のことで、翌61年にはグラミー賞ソング・オブ・ザ・イヤーを獲得しました。これも空前絶後です。元々は59年に公開されたデルマー・デイヴィス監督・製作・脚本の映画「避暑地の出来事」のために映画音楽の巨匠マックス・スタイナーが書いた曲です。要するにパーシー・フェイスは、この映画音楽をカヴァーしたのです。が、楽曲の真髄を浮かび上がらせるフェイスの編曲の賜物で、オリジナルを遥かに超え人々に愛されています。控えめながらキレのあるリズム、ストリングスの主旋律とハーモニーに副旋律の絶妙のバランス、管楽器の効果的な導入。音楽を知り尽くした采配です。既に60年以上前の曲ですが、全く古さを感じさせません。ティム・バートン監督の「バットマン」でもジャック・ニコルソン扮するジョーカーとキム・ベイジンガー扮する写真家ヴィッキー・ベールが美術館で会う場面で、モーツァルト、プリンスの曲の後で非常に効果的に流れていました。

 そんなパーシー・フェイスには、非常に示唆に富む人生の岐路がありました。

神童?

 成功した音楽家であれば誰でも、神童で圧倒的な才能を示す逸話が残っています。フェイスの場合は、7歳でヴァイオリンを習い始めます。音楽とは無縁の家柄でしたが、母親ミニーの強い勧めだったと言います。実は、瞬く間に上達した訳ではありません。ヴァイオリンにはフレットが無いので、左手の指で押さえる場所が1mm違うだけで音程がずれてしまいます。フェイスは左手の運指が不得手でした。ヴァイオリン弾きにとっては致命傷です。しかも肩と首で楽器を支えるのも苦手、その上、弓に塗る松脂の匂いが大嫌いだったそうです。それで、ヴァイオリンは3年足らずで辞めて、ピアノを始めます。ヴァイオリンの運指は不得手でも、ピアノの鍵盤は正確に押さえることが出来てメキメキ上達します。12歳になるとトロントの映画館でピアノ伴奏の仕事を始めたと云います。

 若干の補足をすれば、1920年当時の映画は無声映画。映像だけで、音はありません。故に、映像に合わせて弁士がストーリーを語り、伴奏者が音楽を奏でていた訳です。映画音楽のスコアを読み込んで即座に弾く必要があるので、読譜力は勿論、弁士の語るリズムに合わせる即興力も求められます。何よりも観客を前に弾く訳ですから良き音楽武者修行でもありました。

 そして、14歳でトロント音楽院(現在のRoyal Conservatory of Music)に入学。グレン・グールドの先輩に当たります。フェイス少年の楽才は一気に開花します。1923年、15歳にして、トロント最高の劇場、客席数3,500のマッセイ・ホールにデビューします。敢えて言えば、ニューヨークのカーネギー・ホールのトロント版でしょうか。演目はフランツ・リスト作曲のピアノと管弦楽のための「ハンガリー幻想曲」です。オーケストラとの共演、しかも超絶技巧による派手なパッセージが随所に登場する難曲です。フェイス少年には、コンサート・ピアニストとしての輝かしい未来が待っていました。

塞翁が馬

 ところが、好事魔多し。事故が起きます。

 1926年4月7日のフェイス18歳の誕生日を過ぎた或る日、両親と他の兄弟姉妹は外出していて、フェイスは3歳の妹ガートルードと二人で自宅にいました。ガートルードは何にでも興味を示す年頃、手当たり次第に物をいじり、マッチに手を出し遊んでいました。と、マッチの火が彼女の服に引火して瞬く間に燃え上がりました。恐れ慄き悲鳴をあげるガートルード。フェイスは、愛妹に駆け寄り、とにかく火を消し止めます。素手のまま服の炎と闘ったのです。幸い、ガートルードは火傷しましたが、無事でした。フェイスはと言えば、両手に大火傷を負い、9ヵ月間に渡り両手に包帯が巻かれ続けました。この間、ピアノを弾くことは出来ません。母親とピアノ教師は、神童フェイスのピアニストとしての輝かしい未来に危険信号が灯ったと大変に懸念しました。

 この時期のフェイス自身の心象風景は、想像するしかありません。ピアニストにとって最重要な左右10本の指に大火傷を負い、9ヵ月余に渡りピアノを弾けない状況が続いた事は18歳のフェイスにとって人生最大の関門だったでしょう。ピアノの神童だったが故に、ピアニストとしての道を断念せざるを得ない事実を誰よりも知悉していたに違いありません。落胆しなかった訳がありません。ですが、この時期、フェイスには違う未来が見え始めたのです。ピアノを弾けないので、頭の中で、音楽を鳴らして作編曲をする。自分が構想した音楽が実際にオーケストラの演奏で確認する事の喜びに目覚めるのです。トロント音楽院では、和声学、作曲法の講義を受け、より広い視野で音楽に向き合い、ピアノを超えて、新しい響きを探究する事にのめり込むフェイスです。火傷によって、新しい道が開けたのです。正に「人間、塞翁が馬」です。

編曲家・指揮者への道

 トロント音楽院で、編曲家そして作曲家としてのフェイスの眠っていた才能が一気に開花します。19歳にして、ファイスは地元ラジオ局の音楽番組「シンプソンズ・オペラ・ハウス」の編曲家兼指揮者に抜擢されます。そして、1933年、24歳の時に、CBC(日本のNHKに相当するカナダ放送協会)が放送する音楽番組で編曲と指揮を担当します。

 この時代、ラジオは世の中の最先端メディアです。フランクリン・ルーズベルト大統領が炉辺談話で国民に語りかけていたのも想起されます。そんなラジオ放送で、音楽番組はエンタテインメントの花形です。が、未だ、録音技術も発展途上ですから全て生放送。正確な時間管理と高水準の演奏が求められます。同時に、聴取者の好みをきちんと把握する事が不可欠です。フェイスは、この点においても優れていました。12歳の頃から、劇場でサイレント映画の伴奏をやっていたので、人々が音楽に求める核を察知する本能が進化したに違いありません。フェイスが編曲・指揮する番組は大変好評を博します。

 1938年には番組名に彼自身の名前を冠した「ミュージック・バイ・フェイス」が始まります。この番組は、米国でも放送され、パーシー・フェイスの名前は米国の音楽ファンの間にも浸透して行きます。そして、1940年、32歳となったフェイスは生まれ育ち音楽活動の拠点として来たトロントを旅立って、シカゴに移住。3大ネットワークの一角NBCラジオの看板音楽番組「カーネーション・コンテンティッド・アワー」の音楽監督となります。瞬く間にフェイス流の編曲は米国の聴衆をも魅了し、3大ネットワークの最右翼CBSの番組からも音楽監督として招かれます。

 そして1950年、CBS系のコロンビア・レコードの専属編曲家・指揮者に就任します。音楽を聴く手段として、公演を除けば、ラジオが圧倒的な地位を占めていた時代が終わり、レコード市場が拡大し、個人個人が好みに合わせてレコードを購入する時代が始まる頃です。パーシー・フェイス・オーケストラを編成し、多くのヒット曲をカヴァーしてイージー・リスニングの名盤を生みます。と同時に、トニー・ベネットやドリス・デイらの楽曲の編曲を担当し、自ら伴奏のオーケストラを指揮。また、音楽プロデューサーとしても八面六臂の大活躍をします。

カナダへの回帰と遺産

 フェイスの音楽家としての成功は圧倒的です。ビルボード誌ホット200チャートに21枚ものアルバムを送り込み、グラミー賞も「夏の日の恋」と「ロミオとジュリエット〜愛のテーマ」で2度受賞しています。世界のエンタテインメント産業の中心地ロサンゼルス・ハリウッドが拠点ですし、国籍も米国籍を取得しています。

 しかし、パーシー・フェイスはカナダ出身者としての極めて強固なアイデンティティを持ち続けた“カナダ人”でした。幼少期からの記憶、サイレント映画伴奏、神童、大火傷、そして編曲家・指揮者へと人生の旅路の骨格は全てトロントで出来上がった訳です。米国での成功の後もフェイスは頻繁にカナダを訪れています。

 晩年には、トロント大学音楽学部に寄付をして、優位な人材を発見し、鍛錬し、機会を与えるべくパーシー・フェイス音楽賞を設立。故国カナダへの恩返しでしょうか。

 1976年2月、癌を患い67歳で逝きました。終の住処はロサンゼルス、エンシノでした。60年代以降の音楽の進化は凄まじく、フェイスが試みたかった事、やり残した事はいっぱいあったかもしれません。それでも、12歳でサイレント映画のピアノ伴奏を始めて以来半世紀を超える音楽人生は素晴らしいの一言です。「グレーテスト・ヒット」のジャケット・デザインの好好爺とした笑顔が音楽に満ちた充実した人生の旅路を物語っています。

 パーシー・フェイス、カナダが生んだ世界に誇る音楽家です。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「ダイアナ・クラール」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第14回

 音楽ファンの皆様、カナダ・ファンの皆様、こんにちは。

 8月も後半に入って来て空を見上げれば、入道雲のみならず鱗雲も目に入って来ます。朝夕には微妙に涼し過ぎる日もあります。夏の向こう側に秋が迫ってる感じもします。

 そんな8月の夕暮れ時に聴くのは、元気いっぱいのロック・ミュージックよりもしっとりとした味わいのジャズでしょう。で、カナダとジャズと言えば、何と言っても、オスカー・ピーターソンです。が、今回は、ピーターソンの孫弟子とも言えるダイアナ・クラールです。

カナダの歌姫

 ダイアナ・クラールは、カナダが生んだ最高峰の歌姫にしてピアニストです。が、ダイアナの凄さは、世界のジャズの歴史の中でも際立っています。例えば、ビルボード誌ジャズ・チャート初登場1位を獲得したアルバムの最多記録保持者です。その数、8枚。「ホエン・アイ・ルック・イン・ユア・アイズ」を筆頭に5度のグラミー受賞。圧倒的です。こんなジャズ・アーティストは、他にはいません。話題性や販売戦略を超えた実力の成せる業です。勿論、音楽性や芸術的価値とヒット・チャートに現れる商業的成功は同じではありません。が、数字は嘘をつきません。

 かつて、エイブラハム・リンカーン大統領は「全ての人を一時的に騙すことは出来る。一部の人を永遠に騙すことも出来る。しかし、全ての人を永遠に騙すことは出来ない」と述べて、国民の良識に対する絶対的な信頼を明らかにしました。流石リンカーン、現在、民主主義社会が直面する偽情報の問題に対して示唆に富む指摘です。

 話をダイアナに戻すと、8枚もの音盤を初登場1位にする音楽家は、単に時流に乗ったとか、運が良かったという次元ではなく「本物」だという事です。

 ダイアナの来歴もまた「本物」に相応しい物語に満ちています。

十歳で神童、十五歳で才人

 ダイアナは、1964年11月、ブリティッシュ・コロンビア州ナナイモに誕生します。父ジェームスは会計士でピアノを弾き、母アデラは小学校教諭で地元の合唱団メンバーという音楽一家でした。そんな家庭環境でしたから、4歳でピアノを弾き始めます。家のラジオで、ナット・キング・コール、ビル・エヴァンス、フランク・シナトラを聴いて育ちます。地元の高校に入ると学生ジャズ楽団のピアニストとして活躍。やがて、ナナイモのレストランでピアノを弾いてギャラを得るようになります。15歳にして、立派なプロのラウンジ・ピアニストです。

 17歳の時、バンクーバー・ジャズ・フェスティバルに出演。関係者は、ダイアナのピアノに非凡な才を直感します。カナダ社会の素晴らしい点は、音楽であれスポーツであれ学術であれ、才能の原石には機会が与えられて然るべきという理念が実践されている事です。ダイアナは、ジャズ・ピアノを本格的に学ぶための奨学金を得て、1981年、ボストンの名門バークリー音楽院に入学します。同級生には、小曽根真がいました。

 そして、1983年、バークリーを卒業します。ここまでは、一見順風満帆です。が、真の才能が開花するためには試練の時が必要です。

二十歳を過ぎれば只の人?

 ダイアナは、卒業するとナナイモに戻ります。この時、19歳。地元で地道に音楽活動を続けます。必ずしも、スポット・ライトの当たる場所ではありません。人口約10万人の地方都市のジャズ・ピアニストです。

 一方、同級生の小曽根は、首席で卒業。翌年には、大手ソニー・レコードからデビュー盤をリリース。同時に、巨匠ゲイリー・バートンの楽団のピアニストとして世の注目を浴びていきます。

 当時のダイアナの心中を知る由もありません。が、BC州の天才少女といえども、世界中から「我こそは」という猛者の卵達が集まるバークリーでは、直ぐにメジャー・デビューという訳には行かなかった訳です。世の天才・鬼才等を目の当たりにしたダイアナ。19歳で卒業ですから「飛び級」と言えます。それでも、大きな野心は挫かれたのかもしれません。

 考えてみれば、ダイアナにとって、バークリーの日々は、井の中の蛙が大海を知る千歳一隅の機会になったに違いありません。或るインタビューで、「マコト(小曽根真)のピアノを聴いた瞬間に、彼には叶わないと思った」と語っていました。

 卒業に際して、苦い思いもあったのかもしれませんが、バークリーは彼女の序章を彩ったのだと思います。そして、ここからダイアナ・クラールの本当の物語が始まります。

オスカー・ピーターソンの孫弟子へ

 芸術の世界でもスポーツの世界でも、飛び抜けた才能の原石は、如何に優れていても、眼力のある師に発見され磨かれるまでは、石でしかありません。BC州ナナイモに戻った若きダイアナも、原石のままでした。

 やがて、運命の出会いが訪れます。その前に、若干の注釈です。

 このコラムの冒頭で、カナダとジャズと云えばオスカー・ピーターソンだと書きましたが、更に続ければ、オスカー・ピーターソンの真骨頂はピアノ・トリオです。ピアノ+ドラム+ベースが生むメロディーとリズムとハーモニーが世界を魅了した訳です。鍵盤の帝王オスカー・ピーターソンの面目躍如ですが、極論すれば、最大の功績は実はベース奏者、レイ・ブラウンにあります。ブラウンのベースが和音とハーモニーの土台を的確に支えることで、オスカー・ピーターソンの左手がより自由に活躍出来るようになり、右手がますます流麗になり大きな成功をつかんだ訳です。ピアノ・トリオの名盤中の名盤「プリーズ・リクエスト」がレイ・ブラウンの勇姿を伝えています。ピーターソンの同志であり、数多くのジャズ・ベーシストが目標とするジャズ史に残る名手です。

 話をダイアナに戻します。1986年の事です。レイ・ブラウンがナナイモのとあるクラブでダイアナ・クラールの演奏を目にします。ジャズ史に刻まれる名手が、どんな経緯で片田舎ナナイモでダイアナを聴くことになったかは分からないのですが、おそらく、素晴らしいピアニストがいるとの噂がブラウンの耳に入ったのだと推察します。

 レイ・ブラウンは、ダイアナの演奏を聴くと非凡な才を見抜きます。あのオスカー・ピーターソンとほぼ半世紀にわたりトリオを組み、それ以外にもデューク・エリントン、ディジー・ガレスピー、ミルト・ジャクソン等々ジャズの巨人達と共演して来たレイ・ブラウンです。厳しい審美眼と耳を持っている訳ですから、他の人には見えないし聴こえないサムシングが分かったのでしょう。ナナイモを出てロサンゼルスに来て、更に研鑽を積むようにダイアナに勧めます。

 これを受け、ダイアナは思い悩み逡巡したようです。が、最後はジャズの巨人の強力な説得により、ロサンゼルス行きを決意します。この時も、カナダ芸術財団から奨学金を得ています。ここにもカナダの懐の深さが見えます。

 ロサンゼルスでの研鑽は3年に及びます。ダイアナは、ここで多くの貴重なエッセンスを学びます。まず、ジャズ・ピアノの奥義です。単なるテクニックではありません。それなら、若くして獲得していたのですから。ブルース・フィーリングの奥に在る本質。無限にある音の組み合わせから、これだという響きを瞬時に探り出す直感です。次に、歌です。ロサンゼルスで、ダイアナはピアニストから、ピアニスト兼シンガーへと脱皮します。実は、師レイ・ブラウンは、史上最高のジャズ・シンガー、エラ・フィッツジェラルドの夫でもありました。歌についてのAからZまで知悉しています。そのブラウンが、ダイアナの声の力を解き放ったのです。そして、ロサンゼルスは、世界のエンタテインメント産業の中心ハリウッドを擁しています。ここで、酢いも甘いも学ぶのです。

 そして、1990年、ダイアナは満を持してニューヨークに進出します。と言え、世界中から才能が集まり覇を競う街です。競争は苛烈を極めます。運と実力だけがモノを言います。ニューヨークを拠点に、ボストンやトロントでも演奏し歌も本格的に歌い始めます。

デビュー・アルバム

 昔、旺文社の大学受験ラジオ講座というのがありました。数学Iを担当されてたのが、東北大学助教授の勝浦捨蔵先生で、講義の前に必ず「継続は力なり」と仰ってました。正に、ダイアナの場合も、継続は力になります。バークリー卒業から9年を経た1992年10月18日と19日、自らの音盤録音の機会を得ます。ダイアナの28歳の誕生日の4週間前です。ハリウッドの録音スタジオに参集したのは、レイ・ブラウン門下の優れ者、ジョン・クレイトン(ベース)とジェフ・ハミルトン(ドラム)ら。ダイアナのピアノと歌を完璧にサポートします。2日間で12曲を仕上げます。

 が、問題は、この録音をどこのレコード会社からリリースするかです。エンタテインメント産業は、言わば究極の水商売です。慈善事業ではないので、売れる見込みがなければ、お蔵入りするだけです。残念ながら、大手のレコード会社は関心を示しませんでした。厳しい現実です。が、ここで、もう一つの幸運な出会いがあります。

 1983年、カナダはケベック州モントリオールでジャズとブルースに特化した新興独立レーベルが設立されたのです。「ジャスティン・タイム・レコード」で、カナダ人アーティストを世に出す事に注力します。ダイアナ・クラールのデビュー盤「ステッピング・アウト」は、遂にこの新興レーベルからリリースされます。大きな一歩です。ジャケット・デザインは初々しいダイアナの写真です。一方、デザインに色気が無いというか素人とくさいというか低予算という印象で、ほぼ自費出版のような感じです。はっきり言って、売れそうな予感はありません。が、ライナー・ノートは御大レイ・ブラウン自身が執筆。実際に聴けば、肝心の音は、高純度・高品質です。究極のピアノ弾き語り。ダイアナの歌は黒いです。芯が強く張りのある声です。話すように歌います。歌の根幹は、低音から高音域まで、正確な音程。でも、語尾は戦略的にズラして、聴く者の胸を掻きむしります。まるで黒人歌手が歌ってるようです。歌の後には、極上のピアノ・ソロが続きます。歌とピアノが完全に一体となって、ジャズの王道を行きます。

 セールス面では、この段階では、埋もれました。が、師ブラウンの推しもあって、ロサンゼルスの業界関係者がこの音盤を耳にします。

運命の扉〜トミー・リピューマ

 音楽制作の現場の主役は勿論、歌手であり演奏家ですし、作詞・作曲・編曲が作品の質を決めます。が、アーティストやアルバムの成功の鍵を握るのは、プロデューサーです。ビートルズを育てたのがサー・ジョージ・マーチンであり、ホイットニー・ヒューストンを育てたのがクライブ・デイビスという立志伝中のプロデューサーである事は、良く知られています。

 そこでダイアナの場合です。売れる予感のなかった新興独立レーベルからリリースしたデビュー盤をジャズ・フュージョンの大物プロデューサー、トミー・リピューマが聴いたことで、事態が急展開します。リピューマは、マイルス・デイヴィス、ジョージ・ベンソン、ポール・マッカートニーらの音盤を制作して来た人物です。YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)を世界に紹介した事でも知られています。そのリピューマがダイアナに未来の大器を見出します。と、1994年9月13〜16日の4日間、ニューヨークの超名門スタジオ「パワーステーション」で2枚目のアルバム「オンリー・トラスト・ユア・ハート」を録音。プロデューサーはかのトミー・リピューマで、メジャーのGRPレーベルからリリースです。残念ながら、この音盤はチャート入りはしませんでした。が、リピューマの確信は揺らぎません。

 翌95年10月、3枚目「オール・フォー・ユー〜ナット・キング・コール・トリオに捧ぐ」を録音。結構、地味なアルバムですが、ジャケットを見れば明らかなとおり、メジャー・レーベルの香りがしますし、聴いてみたくなります。96年3月にリリースされると、70週間もの間、チャートに留まり、グラミー賞候補になります。

 この後は、現代ジャズ・シンガーの歴史そのものです。最新作「ドリーム・オブ・ユー」は、成熟したピアノとボーカルで、リスナーを極上の時間に誘います。

カナダの誇り

 BC州ナナイモの天才少女を鍛えたのは、ボストンのバークリー音楽院であり、ロサンゼルスはハリウッドであり、ジャズの都ニューヨークです。彼女の才能を見出したレイ・ブラウンもトミー・リピューマも米国人です。が、カナダは2つの奨学金でダイアナに勇躍外へ出て行く機会を与えました。もしも、この奨学金が無かったとしたら、彼女の人生は相当異なったものになっていた可能性は否定できません。

 カナダ発の素晴らしい技術や発明やアーティストが、米国で大輪の花を開かせる事は少なくありません。市場規模でカナダの10倍、世界最大のマーケットですから、自然な帰結とも言えます。いずれにせよ、現代ジャズの歴史に大きな足跡を刻むダイアナ・クラールは、カナダの誇りです。同時に、大きな成功は簡単にはやって来ませんが、継続が力であり、素晴らしい人々の出会いこそが鍵だと、ダイアナの音盤が語りかけて来るようです。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「ザ・バンド」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第13回

 音楽ファン、カナダ・ファンの皆様、こんにちは。

 7月も下旬、オタワの盛夏です。暑過ぎず、湿度もほどほどで快適な夏です。空は何処までも青く、白い雲も芸術作品のようです。こんな夏なら永遠に続いて欲しいと思います。今、この瞬間は、全く秋の気配はありませんが、オタワの夏は短いのが現実です。

 さて、今月は「ザ・バンド」です。昨年7月から「音楽の楽園〜もう一つのカナダ」の連載を始めさせて頂きましたが、この機会を待っていました。と言うのも、ザ・バンドは単にカナダの出身という事だけではなく、是非とも語りたい事が多いのです。そもそも、5人の不動のメンバーのうち、事実上のリーダー、ロビー・ロバートソンを含め4人はカナダ人ですが、要のドラム兼ボーカル、リヴォン・ヘルムは米国はアーカンソー州出身です。ザ・バンドは、その優れた演奏能力でボブ・ディランのバックアップ・バンドとして、ロック史の重要局面の渦中にいました。独立してからは、米国を拠点に活動します。それでも、いや、それだからこそ、カナダ人としてのアイデンティティを強く意識していたようです。カナダの歴史を正面から捉えて直裁に歌っている歌があるのです。

 ザ・バンド最後期の『Northern Light – Southern Cross(南十字星)』というアルバムの4曲目「Acadian Driftwood(アカディアの流木)」という曲です。ほとんどのロック・バンド、いや全てのポピュラー・ミュージックはラブ・ソングに尽きると云っても過言ではない中、ザ・バンドは歴史に題材を求めていて異彩を放っています。初めて聴いたのは、この音盤がリリースされて2年後で、僕は大学1年生でした。生ギターの美しいイントロが印象に残る佳曲で直ぐ好きになりました。実は、日本盤よりも安い輸入盤を買って聴いていたので、歌詞カードは無く、何を歌っているのか分かってませんでした。Acadian driftwood and gypsy tailwind というフレーズとメロディーから、夢敗れた男が故郷を思う歌だと思い込んでいました。そして、40年余を経て、カナダに住み、1754年のフレンチ・インディアン戦争、アブラハム平原の戦いやアカディア人追放、1763年のパリ条約等々カナダの歴史を知った上でこの曲を聴くと、全く別次元の感動と感慨があります。ジャン・クレティエン元首相を公邸の夕食会にお招きし、政治や外交、更には歴史の話題で大いに盛り上がった際に、この曲をかけました。元首相は目を閉じて真剣に聴いておられた姿を印象深く憶えています。

 それでは、ザ・バンドの世界に参りましょう。

トロントの神童

 どんな物語にも始まりがあります。ザ・バンドは5人編成ですから、結成以前に其々のメンバーの人生がある訳です。5人とも優れた音楽家ですが、まず、ギタリストにして作詞作曲、プロデューサー、事実上のリーダーであるロビー・ロバートソンから。1943年7月生まれで、トロント出身です。父はユダヤ人でプロのギャンブラー。母はモホーク族インディアンです。ロバートソンが幼かった頃、父は交通事故(轢き逃げ)で他界。貧しい家庭環境で育ったと云います。が、母の実家のあるトロント郊外のシックス・ネーションズ保護区を頻繁に訪れていて、そこで7歳の頃、年長の従兄弟からギターの手解きを受けます。と、瞬く間に上達。13歳にして、プロとして活動し始めます。14歳で「ロビー&リズム・コーズ」という自らのバンドを結成します。その後、離合集散を経て「ザ・スエーズ」に発展し、活動を本格化させます。神童の面目躍如です。

運命の扉

 1959年10月5日、運命の邂逅が扉を開きます。経緯はこうです。

 この日、ロバートソン率いるザ・スエーズはCHUMという地元ラジオ局が運営するクラブに出演します。と、そこで彼らの演奏を観ていたのがロカビリー歌手ロニー・ホーキンスだったのです。ホーキンスは、米国南部アーカーソン州を拠点に活動し、全米ポップ・チャート26位のヒット曲もある実力者です。トリビアですが、ホーキンスは、マイケル・ジャクソンの“ムーンウォーク”の30年以上前に、“キャメル・ウォーク”と当時呼ばれたマイケルの元になったステージ・パフォーマンスを行っています。そんなホーキンスですが、米国でのロカビリー人気が下火になったため、バックバンド「ホークス」を引き連れ、1959年春に拠点をトロントに移します。

 ホーキンスの狙いどおり、カナダでは大人気を博しますが、米国南部から来たメンバー達は、なかなかトロントの生活に馴染めず、ドラムのリヴォン・ヘルムを除いて帰郷してしまいます。困ったホーキンスは、新たに「ホークス」の面子のリクルートに乗り出します。そこで、白羽の矢が当たったのが弱冠16歳のロビー・ロバートソンでした。最初の一音を聴いて「天才だ!」と分ったと云います。

 この後、別々の地元バンドで活動していたベースのリック・ダンコ、ピアノのリチャード・マニエル、そしてオルガン及びサキソフォン担当のガース・ハドソンが順次「ホークス」に参加して来ます。ホーキンスには若き才能を見抜く眼力があった訳です。ここで、ハドソンについて一言。ザ・バンド5人は全員が様々な楽器をこなす楽才溢れる優れた演奏家ですが、正規の音楽教育を受けている唯一のメンバーがハドソンです。ウエスタン・オンタリオ大・音楽学部でバッハの教会音楽と平均律を専攻。但し、クラッシック音楽を窮屈に感じ、ドロップアウトしています。土臭いブルースに洗練さを与え、シンセサイザーも弾き熟す熟練のミュージシャンです。ここに、ザ・バンド不動の5人が揃います。

祭の準備

 ロビー・ロバートソン、リヴォン・ヘルム、リック・ダンコ、リチャード・マニエル、そしてガース・ハドソンの5人は、ロニー・ホーキンス&ホークスとしてトロントを拠点に活動を続けます。筋金入りのパフォーマー、ホーキンスのバックで演奏することで、プロの演奏家として徹底的に鍛えあげられます。そして、実力をつけたホークスの5人は、永遠にバックバンドの地位に甘んじる気は無く、いつかは陽の当たる場所に出るという野望を持っていました。青は藍より出て藍より青し、です。1963年末をもって、ホークスは独立します。

 1964年、最年長にして歌も歌えるドラマーに敬意を表し、バンド名は「リヴォン&ザ・ホークス」として活動を開始します。準大手アトランティック・レコード傘下のATCOレーベルと契約し、シングル盤をリリースし、カナダと米国をツアーします。但し、ヒットとは無縁。演奏家として高水準ではあるものの、地道に活動する日々が続きます。が、何事においても継続は力です。倦むこと無く音楽をし続ける中で次に繋がる出会いがあります。ブルース歌手兼ハーモニカ奏者ソニー・ボーイ・ウィリアムソンとの共演は、真のブルースへの覚醒でした。そして、1965年、遂にボブ・ディランと出会います。

邂逅〜飛躍

 1965年は、ロック・ミュージックが単なる娯楽の音楽から前衛芸術の域に達する重要な年です。この年、ビートルズは傑作「イエスタデイ」を含む音盤『ヘルプ』、そしてサイケデリック・サウンドの嚆矢となる『ラバーソウル』をリリースします。ボブ・ディランは、生ギターの弾き語りで反戦歌を唄うフォーク・シンガーから脱皮し、エレキ・ギター、オルガン、ベース、ドラムスを導入。65年8月、代表曲「ライク・ア・ローリング・ストーン」を収録した『追憶のハイウェイ61』を発表します。反戦フォークの雄がロックンローラーに豹変したと大きな話題になります。

 そして、ディランは1965年秋から66年にかけて全米ツアーそして全英ツアーを企画します。そこで、バックバンドが必要になる訳ですが、ディランの友人らがトロントに素晴らしいバンドがいる旨助言します。そこで、実際にディランはリヴォン&ザ・ホークスを聴きに来ます。そこで、ギタリストのロバートソンを雇おうとします。が、ロバートソンは、自分を雇うならば、ダンコ、マニエル、ハドソンを含めたリヴォン&ザ・ホークスの5人全員を雇うよう要求します。全く無名のロバートソン22歳とスーパースター・ディランの折衝です。ディランは、ロバートソンのギターに惚れ込んでいましたし、信頼出来る人物だと得心しました。此処には、若き音楽家の友情と音楽的同志の矜持が滲んでいます。ディランは、5人全員をバックバンドに採用。「ボブ・ディラン&ザ・バンド」名義で、1965年9月から66年5月にかけてコンサート・ツアーに出ます。

 いく先々で、ディランは毀誉褒貶に晒されます。特に、伝統的フォーク・ファンや音楽評論家は、ディランは魂を売ったと酷評します。1966年5月17日、英国はマンチェスターでの公演では、聴衆から「お前はユダ(裏切り者)だと」とのヤジが起こり、場内が騒然とする中、ディランは「君こそ嘘つきだ」と言い返し、バンドメンバーに「Play it fucking loud (とびっきりの大音量で行こう)」と声をかけて「ライク・ア・ローリング・ストーン」を演奏します。この場面は、巨匠マーチン・スコセッジ監督のドキュメンタリー映画「ノー・ディレクション・ホーム」に克明に記録されています。いずれにしても、斬新な事を始めれば、批判はつきものです。が、聴衆は電化したディランを愛し、評価します。結果、『追憶のハイウェイ61』は全米アルバムチャート3位、全英4位と大成功します。ディランを支えたザ・バンドについても音楽関係者の評価は大いに高まります。

 しかし、好事魔多し、です。

ザ・ビッグ・ピンクと地下室

 1966年7月29日、全英ツアーを成功裡に終えて帰国した直後です。ディランはオートバイ事故で九死に一生の大怪我を負います。予定されていたコンサート・ツアーは全てキャンセル。ニューヨーク州北部のウッドストックの山奥で静養する隠遁生活に入ります。一方、ザ・バンドはと云えば、正にロック・ミュージックの一大変革期の最前線を体験し、いよいよ羽ばたく矢先でしたが、仕事が無くなりました。

 そして、1967年春、ディランの大怪我も癒えて来ます。ザ・バンドのメンバーにディランから声が掛かり、ウッドストックのディランの自宅に参集し、一緒に演奏するのです。正式なレコーディングでも公演でもありません。自分達で純粋に音を楽しむのです。何と優雅な。或いは、中学時代にバンドを結成し友人宅の居間でギターを弾いた時の歓喜というべきでしょうか。彼らは、弾き慣れたディランの曲だけでなく、古いブルースやザ・バンドのメンバーが書いた新曲等も試します。やがて、創作意欲に火がつきます。

 ザ・バンドのメンバーは、ディランの家から数キロ離れたソーガティー町に一軒家を借りて、そこから、ほぼ毎日ディランの家に通いました。その家の壁は桃色に塗られていて一際目立っていたので、彼らは“ビッグ・ピンク”と呼びます。そして、その地下室が手作りのスタジオへと変貌しました。

 ディランとザ・バンドの面々は、このビッグ・ピンクの地下室でセッションを繰り返します。リラックスした雰囲気で、気ままに演奏します。テープは回しっぱなしです。1967年6月から9月にかけて断続的に合計130曲以上が録音されます。創作のためのデモ録音で、音盤リリースを想定していた訳ではありません。が、コアなファンはその録音テープの存在を知るに至ります。交通事故後、公の場に全く姿を現さぬディランが最も信頼するザ・バンドと一緒に繰り広げる極私的な演奏です。その海賊盤が出回ります。それを聴いた音楽ファンは密度の濃い演奏に感銘を受けます。ディランは既にスーパースターでしたが、知名度の低いザ・バンドはここで評価を高めます。トリビアですが、この海賊盤は、1975年になって『Basement Tapes(地下室)』との標題で公式にリリースされます。更に、2014年には、全139曲収録のCD6枚組ボックス・セットが出ました。ディラン&ザ・バンドの輝きを真空パックする名盤です。で、話を戻します。

 翌1968年、ザ・バンドは遂にメジャー・デビューを果たします。『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』です。タイトル通り、あの地下室で生まれた音楽。ディランの全面的サポートで完成します。下手上手的ジャケット・デザインはディラン。映画「イージー・ライダー」の挿入歌として有名になりザ・バンドの代表曲の一つ「アイ・シャル・ビー・リリースト」はディランが作詞作曲しバンドに提供した曲です。この音盤は、ロック、ジャズ、ブルース、カントリー等々が溶け合った古くて新しい音楽です。サイケデリックに疲れた人々に素朴な音楽の美しさを示しました。ビートルズやエリック・クラプトンはじめ多くの同時代のミュージシャンに影響を与えたと言われています。ザ・バンドの栄光の日々が始まります。

完結〜ラスト・ワルツ

 1970年1月12日付タイム誌の表紙を飾ります。音楽を超えた社会的意義があった証です。米国を拠点に大成功します。上述のとおりカナダの原点とも言える出来事を「アカディアの流木」という一編の佳曲に綴っています。極論すれば、ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローの詩「エヴァンジェリン〜アカディアの恋物語」に匹敵する作品です。ザ・バンドは紛れもなくカナダのバンドです。

 ザ・バンドは1960〜70年代のロック・ミュージック黄金時代の最重要チャプターの一角を占めます。が、物語には終わりがあります。1976年11月25日(木)、ザ・バンドは『ザ・ラスト・ワルツ』と銘打った解散コンサートをサンフランシスコのウインターランド劇場で敢行します。此処には、ロニー・ホーキンス、ボブ・ディランを筆頭にザ・バンドが関わった多数のミュージシャンがゲスト参加。勿論、ジョニ・ミッチェル、ニール・ヤングらカナダ勢も駆けつけます。そして、マーチン・スコセッジ監督がこのコンサートを軸にザ・バンドの来歴を辿ったドキュメンタリー映画「ラスト・ワルツ」を制作。音楽ファン必見で、同名のサウンドトラック盤も必聴です。カナダが生んだ凄い連中です。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「モントリオール・ジャズ・フェス」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第12回

 音楽ファンの皆様、カナダ・ファンの皆様、こんにちは。

 6月も中旬になりますと、オタワは盛夏です。陽光に溢れた午後、青い空に直線にひかれた白い飛行機雲を見上げると、実に爽やかな気分になります。そして、夏の季節は、様々なフェスティバルが随所で開催されます。音楽イベントも盛り沢山です。

 そこで、今回は、モントリオール国際ジャズ・フェスティバルです。歴史と文化を誇るモントリオールの街の力量が全開し、北米のみならず世界から音楽愛好家が押し寄せています。今や、世界最大のジャズ・フェスとしてジャズ愛好家の垂涎の的です。

 まず、ここに至る経緯を簡単に見てみましょう。

ジャズ略史

 ジャズは、20世紀初頭にニューオリンズで生まれた新しい音楽です。そのエッセンスは、欧州の古典音楽や教会音楽、アフリカのリズム、黒人霊歌のブルースの絶妙な融合です。元来、亜熱帯の開放的な土地柄に自由な雰囲気が相まって、英国とフランス等ヨーロッパの伝統・文化、アフリカ由来の奴隷の歴史、アメリカの土着的要素が溶け合います。恐るべき吸収力で多様な要素を取り込み音楽的発展を遂げ、現代の音楽の主流となります。第2次世界大戦を経て、ジャズは世界中に拡がりました。今や、ジャズ的な要素の無い音楽を探すことは出来ない程です。

 夏ともなれば、世界中で、ジャズ・フェスが開催されていますが、その嚆矢はニューポート・ジャズ・フェスです。1954年以来、毎年7月東海岸ロードアイランド州の港街ニューポートで開催されている野外コンサート。「真夏の夜のジャズ」には1958年の公演が活写されています。ジャズは、音楽だけでなく、ファッションもライフスタイルとしても時代の最先端であることを証明しました。カナダが生んだトランペットの雄メイナード・ファーガソンも出演し傑作ライブ盤をリリースしています。

 ジャズの強力な波は欧州にも伝播します。ニューポートから13年後の1967年には、スイスのレマン湖畔の街モントルーでもジャズ・フェスが始まります。湖畔の古城のジャケットで有名なビル・エバンスのライブ盤が象徴的です。渡辺貞夫や村上ポンタら日本人の猛者も出演しています。モントルー自体はレマン湖の東端に位置する人口2万3千人の小さなリゾート・タウンですが、毎年7月にはジャズ・フェスを開催。今や、モントルーと言えば、ジャズ・フェスという程、定着し世界中から一流の演奏家が集い、観客も詰めかけます。

 そして、ジャズの波は遂にカナダにも押し寄せます。モントルーから13年後の1980年、遂に、モントリオールにてジャズ・フェスの誕生です。主催者は、実業家アラン・シマール。1950年モントリオール生まれで、音楽・映画・演劇のプロモーターとして頭角を顕わし始めた俊英30歳。大規模ジャズ・フェス実現のために協賛企業を募り、市当局と折衝して何とか実現に漕ぎ付けました。

創世記〜モントリオール・ジャズ・フェスティバル

 まずは、1980年5月10日の土曜日の夜です。「第1回モントリオール・ジャズ・フェスティバル」のプレ・イベントとして「Living Legend of the Blues」がモントリオール大学スポーツ・センターで開催されました。このセンターは、76年のモントリオール五輪のフェンシング会場にもなった由緒ある場所。ここに、B.B.キング、ジョン・リー・フッカー、マディ・ウォーターズといったブルースの生ける伝説が参集したのです。何故、ジャズ・フェスのプレ・イベントがブルースなのか?と疑問が湧くかもしれません。上述のとおり、ジャズは若い音楽で現在進行形で進化を遂げています。が、ジャズの核心にはブルースがあるのです。ハ長調で言えば、ドレミファソラシドの3番目と7番目の音を半音フラットさせる事で生まれる独特の感覚です。ジャズとブルースは同根です。主催者はその事を熟知していたのです。ジャズ・フェスの前哨戦としてこれに勝る企画は無かったでしょう。

 そして、本番の第1回モントリオール・ジャズ・フェスは、7月2日(水)午後8時から1967年のモントリオール万博の会場だったプレ・ドゥ・ナショナルでのレイ・チャールズ公演で幕を開けました。レイ・チャールズは「わが心のジョージア」や「アンチェイン・マイ・ハート」等のポピュラー音楽でのヒット曲を誇ります。が、同時に、盲目ながらピアノの名手でもあります。巨匠ミルト・ジャクソンとの共演盤「ソウル・ブラザーズ」はジャズ・ファン必聴です。歌って良しピアノも良し、ソウルもポップもジャズも良し。真のマルチ・タレントの巨人が最初のパフォーマーだった事は、モントリオール・ジャズ・フェスのその後の発展を予言するものでした。

 週末の日曜日(7月6日)は、チック・コリアとゲイリー・バートンの二重奏です。ピアノとヴィブラフォンが溶け合い完全に一体化する魔法の響き。現代ジャズの傑作「クリスタル・サイレンス」を生んだ2人の登場は、モントリオール・ジャズ・フェスが第1回にして時代の最先端を紹介する密度の濃い本物のジャズ・フェスだと証明しました。

 最終日7月10日(木)、地元モントリオール出身のピアニストにして作曲家ヴィック・ヴォーゲル率いるビッグ・バンドが、第1回フェスの締め括りとして登場しました。グローバルな知名度はさて置き、ジャズの祖国アメリカからの大物出演者に引けを取らぬ熱演はカナダの誇りです。ヴィックは、モントリオール・ジャズ・フェスの常連となって、ソロからビッグ・バンドまで多彩なフォーマットでほぼ毎年し出演することになります。

 9日間にわたる第1回モントリオール・ジャズ・フェスは大成功のうちに終わり、次回以降、大きく発展していきます。

成長と拡大

 世界を舞台に活躍するジャズ・ミュージシャンは、公演、新作の準備、レコーディング等々とても多忙に日々を過ごしています。即ち、ジャズ・フェス主催者側からすれば、どれだけ素晴らしいアーティストを呼べるかが、ジャズ・フェスの価値を決める訳です。モントリオール・ジャズ・フェスは、出演者の質と量が年々高まって行きます。マイルス・デイビス、ハービー・ハンコック、キース・ジャレット、アート・ブレイキー、パット・メセニー、ウェザー・リポート、アル・ディ・メオラはじめ、オスカー・ピーターソン、ギル・エバンズらカナダ勢も揃って、ジャズの百科全書とも云うべき錚々たる音楽家達です。カナダの歌姫にしてピアノの名手ダイアナ・クラールも常連です。アレサ・フランクリンやアントニオ・カルロス・ジョビンらも出演し、狭義のジャズに捉われない、カナダならではの包摂的なジャズ・フェスを実現しています。勿論、日本勢もです。秋吉敏子、渡辺貞夫、川崎燎、小曽根真、高瀬アキ、上原ひろみ、碓井雅史らが出演しています。

世界最大のジャズ・フェス

 そして、2004年、モントリオール国際ジャズ・フェスティバルは、ギネス公認の世界最大のジャズ・フェスとなりました。毎年、世界30ヵ国から合計3000人ものアーティストが参加します。モントリオール市内20箇所の会場で、大小合わせて650公演が行われます。そのうち450は屋外の特設ステージでの無料コンサートです。記者証を持つジャーナリスト約300人も来訪して取材。世界中に記事が配信されます。聴衆はのべ200万人を超えると見積もられています。

 毎年6月末から7月上旬の11日間、会場が集中するモントリオール市街の中心部は交通規制が行われ歩行者天国となります。ケベック州最大の観光資源にして、ジャズ・フェスを目当てに海外から15万人の観光客が来訪して7千万ドル以上の経済効果があると言われています。歴史の豊かなモントリオールの街の魅力とジャズの求心力の賜物です。

名盤・名演〜ライブ・イン・モントリオール

 既に43年の歴史を持つモントリオール・ジャズ・フェスで録音され世に出た音盤は沢山ありますが、4つの名盤・名演を紹介します。

 まず、帝王マイルス・デイビスです。1983年7月7日の公演の全貌が昨年リリースされたボックス盤「That’s What Happened 1982-1985」で初めて陽の目を見ました。完全に電化され、ファンクとロックが同居する最先端のジャズがここにあります。かつて、クール・ジャズを創始し、モード奏法をも生み出した鬼才は、幾度もその時代の主流スタイルを壊して前進し、次の時代の主流を創って来ました。リズムの洪水の中に未来のジャズが浮かび上がります。

 次に、2004年 7月10日のオスカー・ピーターソンの演奏は圧巻です。1925年12月生まれで、この時は78歳。実は1993年に脳梗塞で倒れピアノ演奏は絶望的と言われましたが、懸命のリハビリで復活を遂げたのでした。後遺症で左手はあまり使えませんが、流麗な右手が繰り出す歌心溢れるブルースは、高速フレーズからバラードまで、胸に沁みます。音楽の女神に愛されたジャズの偉人の勇姿は必見です。YouTubeでどうぞ。

 現代の巨匠パット・メセニーもモントリオール・フェスの常連。1989年は、7月4日にパット・メセニー・グループとして演奏し、その翌日5日は、ジャック・ディジョネット、チャーリー・ヘイデンとのトリオで出演。3人の濃密な演奏は、最高峰の演奏家の間でのみ成立する音楽的コミュニケーションの極致です。ジャズの本質が即興にある事を改めて実感させます。

 そして、上原ひろみ。中米コロンビアが生んだハープの鬼才エドマール・カスタネーダとの二重奏で出演した2017年6月30日の録音。明るく華やいだ色彩の音盤ジャケットが示唆するように、心優しく希望を喚起する響きが全編を覆います。たった2人の演奏と思いきや、活力溢れるリズムと多彩な音色の中に鮮やかなハーモニーと旋律が舞い、ビッグ・バンドに負けない豊かな響きを生み出しています。ジャズとも呼べますが、ひろみ流の現代音楽がここに展開しています。

結語

 今年のモントリオール・ジャズ・フェスは、6月29日(木)から 7月8日(日)までの11日間です。ダイアナ・クラール、ハービー・ハンコックの超有名アーティスト、更にはスナーキー・パピー、ゴーゴー・ペンギン、エズラ・コレクティブ等々の現代ジャズを切り拓いている若手バンドも来訪します。ジャズ色に染まるモントリオールは、音楽の楽園そのものですね。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「国立芸術センター管弦楽団」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第11回

 皆様こんにちは。5月の声を聞き、オタワに遅い春が来たと思ったら、あっという間に初夏に突入したような今日この頃です。チューリップ・フェスティバルも始まり、街中が鮮やかな色彩に溢れています。リドー運河沿いの散策に最高の季節です。自然の恩恵を受けた首都オタワの美しさを実感します。勿論、オタワには美しい自然以外にも素晴らしい点は多々あります。その一つがNational Art Centre Orchestra(国立芸術センター管弦楽団)です。地元では “NACO”として大変に親しまれていて、オタワの音楽生活をより豊かなものにしています。

歴史

 NACオーケストラは、世界水準の管弦楽団ではありますが、必ずしも日本では知られていません。そこで、簡単に歴史を辿ってみたいと思います。

 まず、オタワです。カナダの首都ですが、カナダ最大の都市はトロント(今やニューヨーク、ロサンゼルスに次ぐ北米第3位の大都市)、バンクーバー、モントリオール、そしてカルガリーに次ぐカナダ第5位の都市で、人口は約百万人。

 カナダ自体が非常に若い国家で、未だ大英帝国の植民地時代にヴィクトリア女王がオタワを首都に選定したのが1857年の事です。当時は木材交易の中継地の小さな村でした。川を挟んだ対岸がケベックであること、米国との国境から十分に離れているという地の利から選ばれた訳です。1867年7月1日、大英帝国の自治領としてカナダが建国され、1931年のウエストミンスター憲章で名実ともに主権国家となり、以来、カナダの発展とともに首都オタワも発展します。が、オタワの本質は政治都市で、経済や文化の面での発達には時間を要しました。

 転機はカナダ建国百周年です。レスター・ピアソン首相が建国百周年の1967年に向けてオタワに国立芸術センターの設立を決定します。1964年の事です。敷地は首都オタワの中心部、議会近傍のコンフェデレーション広場のリドー運河沿い。設計は、モントリオールを拠点とする設計会社AFOPの創設メンバーの1人にしてマギル大学建築学科教授のフレッド・レスベンソルドです。彼は、ポーランド出身で32歳でカナダに移民。この人選も極めてカナダ的です。1964年に着工。残念ながら竣工は百周年に間に合わず、オープンは1969年6月2日となりました。が、待った甲斐はあったのです。センターは、舞台芸術のための大劇場、リハーサル・ホール、レセプション・ホール、ワークショップ用のスペース、ショップ、レストランを擁するガラス張りの極めて現代的な複合施設で、首都の名所となります。

 同時に、NACの目玉、レジデント・オーケストラとして国立芸術センター管弦楽団が設立されます。若い国の若い首都に若いオーケストラが誕生した訳です。初代音楽監督は、ケベック州セットフォード・マインズ出身のジャン=マリー・ボーデでした。かつてカナダ放送協会を率いたカナダが誇る音楽家です。

飛躍

 何処の国の何処の街でも、地元のオーケストラは地元の誇りです。NACOもそうです。地元のみならず連邦政府からもサポートを受けて実力をつけていきます。特に、1991年、古楽器による演奏で世界的に著名なトレヴァー・ピノックを迎え、「オタワのオーケストラ」から「カナダのオーケストラ」へと実力を伸ばします。

 次いで1999年、現代最高峰のヴァイオリン奏者兼指揮者のピンカス・ズッカーマンが音楽監督に就任します。16年間にわたりNACOを磨き抜き、レコーディングにも積極的に取り組み、世界的な楽団へと飛躍させます。

 そして2015年、ズッカーマンを引き継ぐ第7代音楽監督がアレクサンダー・シェリーです。1979年ロンドン生まれで両親ともピアニスト。王立音楽院でチェロと指揮を学んだ俊英で、36歳の若さでの就任です。非常にクリエイティブで、古典的名曲の演奏には安住しません。就任直後から4人のカナダ人女性の人生を音楽で描く「ライフ・リフレクテッド」プロジェクトを始動させます。現在のカナダを象徴、ノーベル文学賞受賞のアリス・マンロー、先住民ミクマク族の詩人リタ・ジョー、宇宙飛行士ロベルタ・ボンダー、ネット上の虐待で15歳で自殺したアマンダ・トッドです。4人の若手カナダ人作曲家がそれぞれの楽曲を提供。マルチ・メディアを駆使した演奏会は新しい時代の到来を実感させます。更に、2020年に発表した「クララ-ロベルト-ヨハネス: 音楽の憧憬」は、シューマンと妻クララ、そしてブラームスという3人の天才の音楽と人生をガブリエラ・モンテーロの即興で繋いで2枚組CDに凝縮した隠れた名盤です。ここにもシェリーの先進性が発揮されています。

感動

 そして、NACOは今年で設立54年。オタワ在住の私も機会を見つけて国立芸術センターに通っています。2023年の公演で感銘を受けた3つの公演について記します。

〈マーガレット・アトウッド作品の世界初演〉

 2月9日、国民的作家マーガレット・アトウッドの詩作に現代最高のオペラ作曲家ジェイク・へギー(Jake Heggie)が曲を提供した「バリトンと管弦楽のための『殺害された姉妹に捧ぐ歌』」(Songs for Murdered Sisters for baritone and orchestra)の世界初演が行われました。この作品は、NACオーケストラとヒューストン歌劇場が共同で委嘱したものです。

 『殺害された姉妹に捧ぐ歌』は、アトウッド女史が2020年に発表した詩作です。標題が如実に示すように、この作品は2015年に実際に起きたカナダ史上最悪と言われている家庭内暴力殺人事件を題材にしています。不条理としか言いようのない殺人に対する憤怒、残された家族への慰撫・慰安・救済はあるのか?答は何処かにあるのでしょうか。

 へギーが紡いだ旋律と管弦楽は、極悪非道の出来事に直面する人間の情念を音で描写しています。憤怒と復讐を超えた気高い人間性を感じさせる崇高な音楽です。

 アトウッド女史は、現在トロント在住で、83歳。遠方への旅行は控えているそうですが、この日は世界初演という事でオタワまで来訪。演奏後、舞台からご挨拶されたのが印象的でした。

 バリトンは、マギル大学で音楽修士業を納めたジョシュア・ホプキンス。2002年9月にはホセ・カレーラスからジュリアン・ゲイリー声楽コンクールの優勝を授与された逸材で、メトロポリタン歌劇場はじめ米国・カナダで活躍しています。実は、ジョシュアの姉が犠牲者の1人だったという経緯があります。アトウッド女史の磨き込まれた言葉を、深く芯の強い声で丹念に歌い込む姿が聴衆の胸を抉りました。言葉を超えた鎮魂が場を支配しました。

〈ベートーヴェン交響曲第5番「運命」〉

 4月23日は「運命」でした。これは、ドイツのフランク・シュタインマイヤー大統領のカナダ公式訪問の機会に、国立芸術センターで行われた特別公演でした。G7の同僚サビン・スパワッサー駐加ドイツ大使からの招待で、貴重な機会を頂戴しました。

 実は、NACOの面々は個別に様々な活動をしています。特に、音楽監督シェリーは、上述のとおりの八面六臂の活躍ぶりでロンドンのロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団を含むいくつもの楽団を指揮していて2年前からスケジュールが埋まっている状況です。よって、大統領のオタワ訪問の日程とNACオーケストラのスケジュールがマッチしたのは奇跡的でした。

 ベートーヴェンの母国ドイツの大統領を前にNACオーケストラは燃えました。ハ短調の冒頭のダ・ダ・ダ・ダーンから異様な緊張感が劇場を支配します。楽曲が展開していくにつれて、徐々に希望を感じさせる響きです。最終第4楽章は圧倒的な音圧。何人も運命に支配されるのではなく、自ら道を開くことが出来るのだ、と確信と自信に満ちた解放感で終結します。NACOの全員が一丸となり、個々の音が統合されて一つの明確な意思を持つ生き物のようでした。指揮者シェリーのしなやかな右腕の先のタクトは美しく弧を描き、楽団員を制御し鼓舞し挑発し、高みへと導きます。特筆したいのは、コンサート・マスター川崎洋介です。音楽の女神様が乗り移ったかのようで、指だけではなく身体全体で音楽表現します。楽曲が絶頂に達すると椅子から立ち上がって弾きます。そのエネルギーが楽団員全員に伝播するのです。本当に素晴らしい演奏でした。

 演奏直後に、NACオーケストラ専務理事のネルソン・マクドゥーガル氏が私に耳打ちしました。「超多忙な日程の合間をぬって何とか調整がついて実現した公演だった。実は、全くリハーサル無しで本番に臨んだんだよ。でも、最高の出来栄えだった。本当に誇りに思う」と。

〈ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」ピアノ辻井伸之〉

 そして、5月10日は、辻井伸之さんのオタワ初見参。NACオーケストラとの初共演でした。ラフマニノフ2番は、辻井さんの十八番です。クライバーン・ピアノコンクールで日本人初優勝を飾ったのが2009年6月ですが、その前年に佐渡豊指揮ベルリン・ドイツ交響楽団を率いて録音したのもラフマニノフ2番でした。

 実は、10日午前中のリハーサルに招いて頂きました。辻井さんはブルージーンズに格子柄のパーカーというカジュアルな姿で舞台に登場して、本番さながらに第1楽章から第3楽章まで通しで弾きます。フィッシャーの指揮棒がピアノとオーケストラを丁寧に紡ぎ音の一粒一粒が綺麗にそろいます。もしも音を見て音に触れることが出来たなら、真珠の如き深い色彩とビロードのような感触だろうと感じました。シェリー、辻井さん、NACオーケストラの相性が抜群なのです。とても初めての共演とは信じられませんでした。

 夕刻8時から本番でした。辻井さんの登場で会場は爆発的な拍手です。鍵盤を確認し、沈黙が会場を覆います。と、辻井さんがヘ短調の和音をピアニッシモで提示します。加速度を増してフォルテッシモに達したところで管弦楽が入って来ます。ラフマニノフ2番はピアノ独奏から始まるので、テンポを決めるのはピアニストです。そのテンポに管弦楽が完全にシンクロする時に劇的な効果が生まれます。辻井さんの左手とコントラバスとチェロが一体化するのです。CDではなく、目の前で聴いて空気の震えを感じて初めて分かる類の音楽的体験です。

 ラフマニノフ2番は、技術的にはピアノの超絶技巧が散りばめられた難曲中の難曲です。が、同時に美しいメロディの宝庫です。映画音楽として利用される程。ですから、技巧を見せびらかすのではなく、技巧は美しい音楽を構築するための手段です。但し、超絶技巧を完璧に奏でる実力がなければ話になりません。辻井さんとNACOは一心同体と化して儚くも美しく強靭な協奏曲を奏でました。

 第3楽章が終わった瞬間、会場は大きな感動と興奮に包まれ、拍手が鳴り止みません。辻井さんは、会場の熱狂に応えて、ショパン「革命」をアンコールしました。圧倒的な演奏でした。

未来

 2022〜23年のシーズンは5月で終了します。10月から始まる2023〜24年のシーズンへの期待が高まります。マクドゥーガル専務理事は、忙しく世界中を飛び回りNACOの海外ツアーを調整しています。カーネギーホール公演も決まっています。2025年大阪万博の機会の日本公演も視野に入っています。NACOの未来は明るく、更に飛躍し、世界一流のオーケストラと認識される日も遠くないと思います

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「ラッシュ〜ヘヴィメタとプログレの美しき融合」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第10回

 4月の声を聞き、春の到来を感じる日々です。今年の冬は暖冬で、オタワ名物のリドー運河の天然スケート・リンクがオープン出来ませんでした。それでも、兎に角私にとって初めてのカナダの冬を無事に過ごすことが出来ました。実は、3月下旬に数日間ですが要務帰国しました。東京は既に桜がほぼ満開でしたが、オタワに戻ると氷点下10℃近くまで冷え込む日もありました。やはりオタワは世界一寒い首都なのだと実感した次第です。

 さて、北の大地カナダの音楽ですが、8000キロに及ぶ陸上の国境で米国と接し、大西洋を挟んで英国と向き合う地理的な状況もあって、英米からの影響が非常に大きい訳です。しかもカナダで売れたアーティストの多くが米国を拠点に活躍する事も多いです。その意味で米加の音楽はほぼ一体化しているようにも見えます。が、カナダは、米国とは幾分異なりヨーロッパ的なニュアンスを持つ個性溢れる偉大なバンドを輩出し続ける音楽の楽園です。そして、カナダを拠点に、北米で活躍しているバンドも少なくありません。今月は、ラッシュを取り上げます。

ロックの歴史

 ラッシュの成り立ちをより良く知る上で、ロックの歴史を概観するのも意味があると思います。

 1956年、エルビス・プレスリーが彗星の如く登場します。エド・サリバン・ショーに出演し、その声と官能的な歌い方とロックンロールのビートで全米を虜にします。「ハートブレイク・ホテル」が全米1位を獲得した頃からロック・ミュージックは怒涛の勢いで発展します。英国では、エルビスの影響を受けたビートルズが誕生。ティーンエイジャーの圧倒的な支持を得て社会現象にまで発展します。しかも、単なるエンターテイメントの域を超えて、音楽的に怒涛の勢いで成長し、既存のポップ・ミュージックを革新しました。その影響は留まるところを知らず、ローリング・ストーンズ、ザ・フー、キンクス、クリーム、ディープ・パープル等々数多の偉大なバンドがロンドンから世界に多彩な音楽を発信します。

 1970年にビートルズは解散しますが、そこからロック・ミュージックは加速度的に進化します。最大の要因は、シンセサイザーやメロトロン等の最先端技術を導入したキーボード群の登場です。ジャズやクラシック音楽の素養のある鍵盤奏者が、それまでのエレキ・ギター中心のロック・バンドのあり方を大きく変えます。キング・クリムゾン、ピンク・フロイド、イエス、エマーソン・レイク&パーマ等のプログレッシブ・ロック系のバンドが台頭します。

進化の波がカナダを襲いラッシュが生まれた

 そんなロック・ミュージックの進化は、幾つもの波となって北の大地カナダにも繰り返し押し寄せます。そして、その影響を受けつつロックはカナダで独自の進化を遂げます。その好例がラッシュです。3人のメンバーはいずれ劣らぬ溢れる才能の持ち主。ゲディー・リーは歌、ベース、シンセサイザーを担当。アレックス・ライフソンはギターを筆頭に弦楽器。ニール・パートはリズムの鬼にして文学少年。北米におけるプログレッシブ・ロックの先駆者にして、ボストン、ミスター・ビッグ、ガンズ・アンド・ローゼズ等の米国のバンドにも影響を与えています。優れたアルバムを何枚も発表しています。2013年には「ロックの殿堂」入りしました。

 しかし、ロック史の論評や名盤特集で取り上げられる事は残念ながら少ないのです。シングル盤の大ヒット曲が少なく商業的に大成功とは言い難く、成功した同僚バンドとは異なりカナダを拠点とし続けた事も影響しているかもしれません。

 改めてラッシュを聴けば、時代の先を行く画期的バンドであったと再認識します。正当に評価される日が来ると確信しています。

「パーマネント・ウェイヴス」

 代表作は1980年発表の『パーマネント・ウェイヴス』です。4つの要素が絶妙の比率で溶け合っています。

 第1に、旋律と歌詞。音楽の核心です。ポップにして哀愁を感じさせ、時に刺激的なメロディーです。加えて、純文学からSFまで造詣の深い本の虫であるドラム奏者にして詩人のニールが書く深遠な歌詞が深みを与えます。言葉が旋律に乗り素晴らしい歌が生まれます。

 第2に、ゲディー・リーのヴォーカル。透明感のある芯の強い声です。極めて正確な音程で、超高音域を軽々と歌い、“魔女”の如き声と評されることもあります。唯一無二です。敢えて例えるならば、ジョン・アンダーソン(イエス)とロバート・プラント(レッド・ツェッペリン)とアクセル・ローズ(ガンズ・アンド・ローゼズ)を足して3で割ったような特別な声です。

 第3に、引き締まったバンド・サウンド。ニールは躍動感溢れるリズムを刻みかつ多彩なパーカッション群で色彩感抜群です。ゲディーが弾くベース・リフが曲の骨格を構築。その上に、アレックスのエレキ・ギターが舞います。着実なコード・ワークから超高速フレーズを駆使したアドリブまで自由自在です。聴く者の胸を掻き毟り、何か素晴らしい事が始まる予感を与えます。

 そして、第4の要素がプログレッシブ・ロックの神髄シンセサイザーを活用したシンフォニックな音創りです。聴く者の脳を刺激します。クラッシック音楽として権威の塊のように扱われている音楽も、それが作曲された当時においては時代の最先端を行く音楽だったのだと感じます。

ラッシュ誕生秘話

 ラッシュの原型となるバンドの結成は1968年8月に遡ります。トロント近郊のウィローデール地区での出来事です。音楽的早熟の高校生アレックスは15歳にして、幼き頃からの友人と3人組のバンドを結成。練習を重ね、初公演に臨みます。場所は、トロント郊外ノース・ヨークの聖セオドール・カンタベリー英国教会の地下に設けられていた青少年センターです。実は、公演が決まった段階では、未だバンド名は有りませんでした。簡潔にして特徴的な名称が良いという事で、ラッシュ(Rush)と決めます。この初公演で、メンバーは25カナダ・ドルの報酬を得たと云います。

 その後、アレックスと2人の友人は練習に明け暮れ、ラッシュとしてライブ活動を続けますが、メンバー間の実力差が目立ち始めます。圧倒的なアレックスのギターに見合う優れたヴォーカルを探します。と、ベース奏者兼リード・ヴォーカルとして参加するのが同い年のゲディーです。この2人の出会いこそラッシュの核心です。知る人ぞ知る地元のバンドに成長します。が、高校生であるが故に様々な制約がありました。例えば、酒類を出す店舗等には出演出来ませんでした。が、1971年に飲酒年齢が18歳に引き下げられ、高校生とはいえメンバーが18歳になっていたラッシュはクラブ出演が可能になります。幅広い年齢層の客の前で演奏することでバンドの実力は飛躍的に上がります。しかも出演料を稼ぎながら。若くして、プロ意識に芽生えていく訳です。そして、大手マーキュリー・レコードと契約します。

 デビュー盤『ラッシュ』は1973年11月に録音、翌74年1月にリリースされます。全8曲は全てゲディーとアレックスの作品。この時、2人とも弱冠20歳。偉大なバンドのデビュー盤には、そのバンドの過去と未だ見ぬ将来の可能性が潜んでいます。ラッシュの場合もそうです。レッド・ツェッペリンの影響は顕著ではあるものの、鋭角的ギターと超高音ヴォーカルには甘過ぎないポップ感が溶け込んでいます。ラッシュの個性の萌芽です。恐るべきロック小僧がその全貌を見せ始める訳です。

 幸先良く、国境の直ぐ南の米国はオハイオ州のDJ達がデビュー盤収録の「ワーキング・マン」を好んでオンエアします。商業的成功に直結した訳ではありませんが、ラッシュの認知度が高まって行きます。次の音盤が期待されます。ラッシュの飛躍の鍵を握る新ドラマーとしてニール・パートが加入。1974年12月の事です。ここに鉄壁の3人組ラッシュが完成します。

危機の克服

 新生ラッシュは、75年2月『夜間飛行』を発表。怒涛の勢いで、75年7月には続く『鋼の抱擁』を録音し9月に即刻リリースします。ラッシュ流ヘヴィメタルをコアなファンは高く評価します。しかし、商業的には全く駄目。マーキュリー・レコードは契約打ち切りを決めます。音楽は芸術ですが、レコード会社は私企業です。利益が不可欠です。エンタメ業界の厳しい現実です。

 1976年2月、ラッシュは最後の録音に臨みます。この時、メンバーは弱冠22歳。怖いもの知らずの好奇心の塊です。一方、野心も巨大です。ここで3人は生き残りを賭けて従来の路線からの大胆な脱皮を図ります。ラッシュ・サウンドの核であるヘヴィメタルを維持しつつシンセサイザー等を大胆に導入して交響曲的な楽曲で勝負をかけます。それが「西暦2112」です。ここにヘヴィメタとプログレが融合したラッシュの個性が確立します。商業的にもカナダのチャートで5位、米国では61位と善戦。首は繋がりました。そして、上述の「パーマネント・ウェイヴス」が大成功する訳です。そして、名盤を生み続けます。

最終章

 何事にも終わりはあります。2012年6月、ラッシュ最後のスタジオ音盤「クロックワーク・エンジェルズ」がリリースされます。不動の3人組は既に59歳。とは言え、瑞々しいサウンドは、とても還暦直前の親父が奏でているとは思えません。ゲディーの声も健在です。商業主義に負けぬラッシュの核を刻んでいます。

 2015年は、新生ラッシュ誕生から40年の節目という事で「R40」と銘打ち3ヶ月余にわたる北米ツアーを敢行します。が、終了後、ニールは、自身の腱鞘炎が悪化し引退の意向を明らかにします。波乱万丈の半世紀に迫るラッシュの音楽的冒険は、スタジオ音盤19枚、ライブ音盤11枚を残し、このツアーを最終章として完結しました。名実ともに最後の音盤となる「R40 LIVE」はCD3枚組で全30曲、収録時間195分57秒。音質はさて置き、ラッシュの歴史と真髄が詰まった名盤です。

 ヘヴィメタとプログレを融合させロック・ミュージックの進化を体現したラッシュ。カナダの誇るロック史に刻まれるスーパー・バンドです。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

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