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「アラニス・モリセット」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第33回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 3月になり、厳しかった冬の寒さも幾分緩み始めました。世界で最も寒い首都の一つオタワにも春の予感が漂う日もあります。但し、翌日には冬に逆戻ることもままあります。日本で言う三寒四温に似た感じでもあって、一歩一歩春が近いている実感のある今日この頃です。

 そこで今回は、カナダが誇る現代の自由奔放なシンガー・ソングライター、アラニス・モリセットです。全く個人的な事で恐縮ですが、かつて友人とバンドを組んでた際に、ゲストで招いた女性ボーカルが大のアラニス・モリセットのファンでした。歌い方もアラニスを真似ていました。それに、何かと言えば、アラニスが如何に素晴らしいアーティストかを語っていたのを思い出します。特に、『ジャグド・リトル・ピル』が女性の本音を大胆かつ率直に述べつつ、荒削りながら極上のロック・ミュージックに昇華させていると力説していました。

 アラニスは、同時期にブレイクした先輩シェリル・クロウをより先鋭化させ現代的にしてると感じました。聴き比べると、米国のシェリルの方が音楽的にはより保守的で、カナダのアラニスの方がより進歩的で冒険的です。コマーシャリズムの影響が隅々にまで及ぶ音楽業界にあって、アーティストの創造性を重んじる気風がカナダには根強いのかもしれませんね。

オタワっ子

 アラニス・モリセットは、1974年6月1日に、オタワ大学医学部付属リバーサイド病院で、教師を両親の下、二卵性双生児の妹として誕生しました。因みに、12分早く生まれた兄のウェイドも地元でヨガ教師をしつつ音楽活動しています(アラニスほど有名ではありませんが)。

 両親とも教師、父の家系は、フランス系とアイルランド系です。一方、母はユダヤ系のハンガリーからの移民です。家族が1956年のハンガリー動乱で反ソ連活動に関わり、祖国を追われて、カナダに移住したのです。但し、母は自分がユダヤ系である事を隠していたと云います。

 いずれにしても、アラニスの両親の来歴は、移民国家カナダを代弁するような、多様性を示しています。アラニスの血脈には、ヨーロッパ諸国の多彩な歴史と伝統と文化が流れている訳です。

 幼少期のアラニスについて、もう少し詳しく述べると、アラニスが3歳の時にモリセット家は西ドイツのラール/シュバヴァルツアヴァルトに引越します。両親が現地のカナダ空軍・陸軍基地に付属する学校の教師となったためです。そこで3年間過ごし、1980年にオタワに戻ります。

 翌1981年、アラニスは7歳になると、オタワ市カトリック教育委員会の小学校に入学します。同時期に、ピアノとバレエとジャズ・ダンスを習い始めます。11歳の頃には、人前で歌うようになります。12歳で、子供向けのテレビ番組「You Can Do That on Television」にも出演するようになります。更に、オタワ地区最大の高校グリーブ・コリジエイト・インスティテュート(Glebe Collegiate Institute) に進学します。この学校は、芸術・スポーツ分野で活躍する多くの卒業生を輩出しています。首都オタワは、決してエンタテインメントの中心ではないのですが、アラニスは芸能分野で才能を開花させていくのです。

始動

 上述のとおり、アラニスに非凡な才能が宿っていることは明らかでした。が、それがどれ程のものかは簡単に分かりません。彼女の巨大な才能は、徐々に全貌を顕わし始めます。

 1987年、アラニスは、自主制作シングル盤「Fate Stay with Me」を発表します。この音盤は、レコード会社やラジオ局が出資して設立した非営利団体、FACTOR(Foundation to Assist Canadian Talent on Record)の支援を受けて完成したものです。若干13歳です。地元、オタワのラジオ局ではヘビー・ローテーションで、知名度が上がります。

 次のステップは、世界的レコード会社MCAのカナダ法人との間で契約です。レコード会社とアラニス本人、そしてアラニスの両親が署名しました。地元のちょっと出来る女子からプロフェッショナルへと移行するのです。

 1990年の9月から12月 にかけて、オタワ市内のディストーション・スタジオにて、デビュー・アルバムの録音が行われます。プロデューサーは、オタワ出身のレスリー・ハウです。収録された10曲は、全て、アラニスとハウの共作です。曲調は、マドンナやジャネット・ジャクソンに代表されるエレクトリック・ポップのダンス・ミュージックです。要するに、当時の流行りのサウンドで、未だアラニスの個性は確率している訳ではありません。しかし、この時、アラニスは若干16歳。フル・アルバムを自作曲で固めて、世界的レコード会社傘下でメジャー・デビューするのです。その事実だけでも見事とは言えるでしょう。

 1991年4月、音盤のタイトルをシンプルに自身の名前を冠し『アラニス』として、カナダ国内でリリースされました。この音盤からは「Too Hot」等の3曲が相次いでシングル・カットされて、カナダ国内でトップ10にチャート入りするスマッシュ・ヒットとなります。アルバム・チャートでもトップ30にランクインし、総計で10万枚のセールスを記録して、プラチナ・ディスクを獲得しています。商業的には成功です。

 この勢いをかって、翌1992年10月には、同じ路線のアルバム『ナウ・イズ・ザ・タイム』をカナダ国内でリリースします。「An Emotion Away」等の4曲がシングル・カットされ、5万枚を売り上げ、ゴールド・ディスクに認定されました。とは言え、苛烈な競争が日常のエンタテインメント業界では、二匹目のドジョウの如く流行のサウンドを続けては生き残れません。耳の肥えた批評家達もマドンナやポーラ・アブドゥルの亜流だと切って捨て始めました。MCAレコードとの契約も終了しました。

 この時、アラニス・モリセットは未だ18歳の高校生でした。ここからが真の音楽的冒険の始まりです。

脱皮

 1993年、アラニスはグリーブ・コリジエイト・インスティテュートを卒業します。この時まで、アラニスは、両親と共にオタワに住み高校に通いながら音楽活動をしていた訳です。決して音楽で勝負する上で最高の環境ではありません。それにも関わらず、2枚の音盤をリリースし、プラチナとゴールドを獲得したのは並大抵ではありません。彼女の潜在力を示しているとも言えますが、真の才能は未だ埋もれたままです。

 そこで、アラニスは、高校卒業を期に、トロントに拠点を移します。オンタリオ州の州都にして、カナダ最大の都市です(北米でも4番目)。政治、ビジネス、文化、学術の中心です。自由で多様で多彩。アラニスの音楽的冒険を進化させる絶好の街です。ここで、アラニスは、新たなレコード会社やプロデューサーと出会うのです。

 閑話休題ですが、音楽の世界は、何よりもアーティスト個人の才能が核心です。それがなければ何も始まりません。ですが、一人だけでは音楽は完結しません。アーティストの才能を最大限に発揮させるチームが不可欠です。敏腕プロデューサーのジョージ・マーチンがいなければビートルズはリバプールの田舎バンドで終わっていたでしょう。音楽学者ルードヴィッヒ・フォン・ケッヘルがいなければモーツァルト作品が後世に完全な形で伝わることはなかったでしょう。ハービー・ハンコックを採用しなかったなら、マイルス・デイビスの1960年代黄金のクインテットの新主流派ジャズは生まれていなかったでしょう。

邂逅

 トロントへ拠点を移したアラニスには、運命的な出会いが待っていました。ソング・ライター兼プロデューサー、グレン・バラッドとの邂逅です。バラッドは、非常に多くのアーティストを手掛けていますが、有名なところでは、リンゴ・スター、ヴァン・ヘイレン、アニー・レノックス、デイブ・マシュー・バンド等です。音楽出版社の紹介でアラニスと面談したバラッドは、僅か30分ほどの会話でアラニスの核心を察知。潜んでいる唯一無二の個性を見抜いたといいます。1994年のことです。この時、アラニスは19歳、バラッドは41歳。音楽的魂の触れ合いには年齢は関係ありませんが、後年バラッドは親子のような感じだったと述懐しています。

創造

 アラニスとバラッドは、早速、米カリフォルニア州はサン・フランド・ヴァレーにあるバラッドの自宅スタジオに入って、2人で曲作りとデモ・テープの録音を始めます。毎日、15時間ほど音楽漬けだったといいます。曲の骨格が出来ると、バラッドがドラム・マシーンでリズムをプログラムし、各種ギターとキーボードを多重録音して伴奏トラックを作ります。それを聞きながら、アラニスがハーモニカを吹き歌います。何度も試行錯誤を繰り返しながら曲を仕上げていきます。2人の作業は数ヶ月に及びました。

 年が明けて1995年、2人で作ったデモテープを土台に、実際のレコーディングがロサンゼルスのウエストレイク・スタジオで始まります。マイケル・ジャクソン『スリラー』等の名盤が生まれた場所です。

 ここで録音されたのがアラニス最大の成功作となる『ジャグド・リトル・ピル』です。1995年6月にマーヴェリック・レコードからリリースされました。因みに、このレコード会社は、ワーナーブラザーズ傘下のレーベルでマドンナが実質的に創設したものです。アーティスト側の創造性と商業主義の両立を目指す、史上初の女性アーティストによるレコード会社とも言われています。

訣別

 実は、マーヴェリック・レコードが『ジャグド・リトル・ピル』をリリースするに際して、一つ重大な条件が課されました。以前、MCAからリリースされた2枚の音盤を廃盤とするというものです。新生アラニス・モリセットとして世界デビューする観点から、マドンナの亜流ダンス・ポップ時代を封印し、軽薄な歌詞とエレクトリック・デジタルな機械サウンドとは完全に一線を画す戦略的な狙いだったとも言えます。

 確かに、『ジャグド・リトル・ピル』を聴いた耳で『アラニス』や『ナウ・イズ・ザ・タイム』を聴くと、本物と習作の差以上の大きな落差を感じるかもしれません。

 『ジャグド・リトル・ピル』は、女性の本音や怒りを直裁に訴える歌詞、感情を剥き出しにした歌唱、敢えて美声を拝した強靭な声、そしてグランジ系のリアルなバンド・サウンドが聴衆の胸を鷲掴みにします。特に、女性の共感を得て、“フェミニスト・アンセム”とも受け止められています。

記録

 『ジャグド・リトル・ピル』は、世界中で3,300万枚を超えるセールスを上げ、チャートを席巻。カナダ人アーティストとして初めてダブル・ダイヤモンド・ディスクを獲得しました。

 グラミー賞は、9部門にノミネートされ、最優秀アルバム賞、ベスト・ロック・アルバム賞、最優秀女性ボーカル賞等の5部門で実際に受賞しています。しかも、21歳でのグラミー賞受賞は、当時の最年少記録でした。この記録を塗り替えたのは、テイラー・スイフトです。

結語

 アラニス・モリセットと言えば、『ジャグド・リトル・ピル』ですが、2002年発表の『アンダー・ラグ・スゥエプト』も聴き応えのある名盤です。今、聴いても新鮮なサウンドです。唯一無二の声と歌唱がアラニスの書く歌詞と旋律を天高く飛翔させています。

 私生活では、2010年に、ヒップ・ホップ・アーティストのマリオ・“ソウルアイ”・トレッドウェイと結婚。3人の子供を出産しましたが、産後鬱に苦しんだことを公表しています。

 そんな私生活上の困難も吸収して、アラニスは、その後もコンスタントに音盤を発表しています。最新作は、2022年発表の『ザ・ストーム・ビフォー・ザ・カーム』です。瞑想のための音楽を志向しています。一人のアーティストが進化し変貌を遂げる様が音楽に投影しています。

 アラニスは未だ50歳。まだまだ現役で頑張ってもらいたいと思います。激動の時代、彼女自身がどんな変貌を遂げ、新しい音楽を提供してくれるのか楽しみです。遠からず、『ジャグド・リトル・ピル』を超えて、世にインパクトのある音盤を送り出してくれることを期待しています。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「ジャン=ミッシェル・ブレ」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第32回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 2月になり、冬が本格化しています。私にとっては3度目の冬ですが、初めて、世界で最も寒い首都の一つというオタワの本領が発揮されていると実感する日々です。寒い日は、氷点下20度を下回る日が続きます。青空で雲一つない晴天で、積もった雪が眩しく感じるような日が実は気温が低いのです。放射冷却現象です。どんよりと曇っている日は、厚い雲が地表面の熱を保存しているせいで、マイナス5度ほどにまで上昇します。

 そんな冬の日々、仕事がら様々な方々にお目にかかり、実に色々な事を学びます。先日は、公邸にカナダ国立美術館の関係者をお招きして夕食を共にしました。公邸の嶋シェフの絶品和食と日本酒で、お互いに打ち解けた雰囲気で、大いに盛り上がりました。話題はトランプ政権、カナダ内政、現代美術の将来、日系人アーティスト、NYのメトロポリタン美術館の歴史、更には2028年の日加外交関係樹立100周年に向けた国立美術館との協力にまで多岐に渡りました。

 私は、食卓でも常に音楽をかけています。BGMですから、音量は控えめです。ちょうど、マイルス・デイビスの「イン・ア・サイレント・ウェイ」を流している時でしたが、音楽話しが弾み、ジャン=フランソワ・ベリズリー館長が現代のカナダ音楽界で素晴らしいアーティストがいるとして、ピアニスト・作曲家のジャン=ミッシェル・ブレ(Jean=Michel Blais)を教えてくれました。実は、これまで、ブレの音楽を聴いたことはありませんでした。ベリズリー館長は、外交官の息子として世界各地で育ち、長じて名門コンコルディア大学で美術史・現代アートを専攻し、卒業後はサザビーズ、UNESCO等で活躍。48歳の若さで国立美術館の館長に就任した才人です。鋭い感性を備えたベルズリー館長の一押しです。アップル・ミュージックで探して、直ぐにかけました。それが、ブレの音楽との出会いです。

 前置きが長くなってしまいましたが、今月の「音楽の楽園」は、ジャン=ミッシェル・ブレです。

第一印象

 夕食会が終わりゲストの皆様が帰った後、書斎でブレを聴きました。「II」という2016年に発表されたデビュー盤です。胸にすーっと入って来ました。何の準備も要らない。ただ、耳を傾ければ、音楽が染み入って来る感じです。透明でシンプル。必要最小限の音で出来ていると感じました。同時に、ブレは、ピアノと一体化していると感じました。呼吸するように、話すように、微笑むようにピアノを弾いてるのだと。喜怒哀楽が指先からピアノの88個の鍵盤に伝わっているようです。エリック・サティやジョージ・ウィンストン、或いは久石譲を彷彿させます。

 また、ブレの音楽には押し付けがましさとか過度な自己主張が無いとも感じました。私の全く個人的な感覚ですが、傑作や名作と称される音楽の中には、聴くのに凄いエネルギーを要するものがあります。勿論、そこには、巨大な音楽的感動はあるのですが、余り元気のない時には聴く気がしません。ブレの音楽は、真逆です。聴く側に元気があろうがなかろうが、聴く者の心に寄り添うように音楽的な詩情を喚起します。私小説的な親密さを感じさせます。

 聴く者にとって、ブレの音楽は非常に自由です。聴く者の思いを開放する音楽です。例えば、デビュー盤収録の「Casa」という曲は、雪景色の中で聴くと、正に雪にピッタリと感じるのですが、仮に夏の夕暮れに聴けば、暑さの火照る都市の喧騒の中に現れる一瞬の静寂にも似合うように感じます。要するに変幻自在なのです。だから、ジャンルを特定することが出来ません。クラシックの要素もあれば、ジャズ的でもあります。映画音楽にもなるでしょう。目が冴えて眠れぬ夜に聴けば、あっという間に熟睡に誘います。

 そんなブレの来歴が非常に興味深いです。

神童の放浪

 ジャン=ミッシェル・ブレは、1984年4月にモントリオール郊外のニコレに誕生します。父は聖歌隊で歌っていましたし、母はオルガン奏者でもありました。音楽に溢れる家庭で、両親からの影響は陰に陽にあったことでしょう。

 9歳の頃から自宅のピアノで遊び始めたと云います。ジャン=ミッシェル少年にとっては、ピアノは学ぶものではなく、日々の生活の中の自分の分身のような存在になっていたことでしょう。家の中にあるビンやフライパンを叩いたドラムごっこも大好き。ラジオ・カナダで放送される「ワールド・ミュージック」を熱心に聴き、ケルト音楽や東欧の音楽に惹かれたといいます。11歳になる頃には、オリジナル曲を書き始めました。特段、誰かに師事したというのではなく、自然な成り行きだったそうです。

 そして、地元の音楽関係者の間で注目され、17歳にして、ケベック州トロリヴィエール音楽院に進学。本格的に、ピアノと作曲を学び始めました。しかし、ジャン=ミッシェルにとっては、音楽院での音楽の「勉強」は、余りにも制約が多く、喜びよりも苦痛を感じたといいます。何故ならば、自分が本当にやりたい事は、その瞬間のインスピレーションを切り取る即興や変奏、破天荒な音楽的冒険なのだと気がついたからです。周囲の関係者も、音楽院が提供する科目・授業は、彼が欲する音楽とはズレていると感じたそうです。要するに、音楽院には彼の居場所はなかったのです。そうと気が付くと、ジャン=ミッシェルは躊躇なく音楽院を去ります。

 ここからのジャン=ミッシェルの青春の旅路が非常に印象的です。青年は荒野をめざす的な自分探しですね。

 まず、中米のグアテマラに行きます。何故、グアテマラだったかは知る由もありません。が、彼の地の孤児院で4ヶ月に渡って働きます。その後は、ベルリンに行きました。そして、再び南米、アルゼンチンはブエノス・アイレスに渡ります。この間、「ピアノは全く弾かず、ピアノのことも忘れていました」と或るインタビューで述懐しています。

 文字通り、音楽から離れ、故郷から離れた日々が、己を鍛え、真の自分を見出すことに繋がります。

音楽との再会〜自己流スタイルの確立

 ジャン=ミッシェルは、1年余に亘る旅からモントリオールに帰還します。

 その時、家族・友人・知人に見せるような旅先で撮った写真がないことに愕然とします。音楽院での挫折から立ち直る傷心の旅路ですし、元来、カメラを持ち歩くタイプでもないのです。とはいえ、旅先で出会った人や風景や驚きや感動を伝える術が無いことに心が騒ついたことでしょう。そこで、ジャン=ミッシェルは、自分を見出すのです。自分には、写真はないが、音楽があると。ピアノが弾けるじゃないか、作曲できるじゃないか、と。己が経験したことや感じたことを、音楽を通じて表現出来ると。

 或る時、かつて即興的に作曲した曲のディテールを思い出せなかったことがあったといいます。それ以来、断片であれ何であれ、録音しておくようになります。高級な機材ではなく手頃に入手できるもので。自分の部屋の日常的な音も録音されます。それも音楽の一部だと感じるようになります。ここにジャン=ミッシェルの独自のスタイルが出来上がるのです。

 とは言え、この段階では、未だ音楽だけで生活を支えるには至っていません。放浪から帰還したジャン=ミッシェルは、コンコルディア大学で、一般教養を修めると同時に特別支援教育について学びます。そして、ケベック州の特別支援学級の教師となります。情熱をもって教師を勤めつつ、自己の音楽を追求する日々です。有り体に言えば、音楽を趣味とする教師です。趣味と言うには、ほぼプロですが。実は、世の中には、世に出る機会に巡り会わない玄人裸足の音楽家は少なからずいます。ジャン=ミッシェルも10年程そんな日々を過ごします。

Arts & Craftsとの出会い

 特別支援教師の傍ら、自己の音楽を追求していたジャン=ミッシェルは、やがて、完成した曲をBandcampというオンライン・プラットフォームに投稿し始めます。メジャーなレコード会社との契約のない音楽家にとっては、貴重な作品発表の場です。教師とセミプロ音楽家の日々を過ごすジャン=ミッシェルにとっては、教師と音楽を両立できて不満はなかったと言います。ですが、遂に、運命の扉が開きます。

 2015年、31歳になったジャン=ミッシェルは、モントリオール地元のArts & Crafts(A&C)というレコード会社に発見されたのです。キャメロン・リードというアーティストがBandcampで聴いたジャン=ミッシェルの曲に魅せられます。そこで、リードはA&Cの関係者に彼の音楽を紹介します。美しいというだけでは音盤になりません。レコード会社も民間企業ですから商売にならなければ意味はありません。この時、A&Cのプロデューサーはジャン=ミッシェルの音楽にサムシングを感じたといいます。無駄な装飾のない音楽の原風景でしょうか。A&Cは、ジャン=ミッシェルに連絡を取ります。最初のコンタクトに関し、ジャン=ミッシェルは、冗談だと思って、送られてきたEメールを削除しそうになったと語っています。最終的には、双方のコミュニケーションが取れて契約に至ります。条件は、教師を辞めて、音楽に専念することでした。生活が一変する訳ですから、逡巡もあったに違いありませんが、プロの音楽家としての道を歩み始めました。

 デビュー盤「II」は、ジャン=ミッシェルの自宅で録音されました。使用楽器は、自宅のアップライト・ピアノとキーボード。録音時の生活音もありのままに含まれています。耳をすませば、雨、子供たちの声も聞こえます。即興的に作られた8曲が収録されています。

 今や、音楽は、高度に産業化され、最新の設備で工業品のように生産され商品にされています。そんな中にあって、「II」は手作り感いっぱい。時代の流れから超然としていると言えば、褒め過ぎですね。でも、偽らざる等身大の音楽です。シンプルな音楽ですが、旋律が生きています。何度聴いても発見があり、新鮮です。

 タイム誌「今年のベスト10アルバム」にも選択されました。そして、ジャン=ミッシェル・ブレは、素晴らしい楽曲を生み続け飛翔します。

カンヌ映画祭

 2019年には、ジャン=ミッシェルは、ケベック出身のグザヴィエ・ドランが監督・脚本・主演を務めた映画「マティアス&マキシム」の音楽を担当しました。ドラン監督は、幼少の頃から子役も務めたカナダ映画の申し子です。友情と恋愛の境界線と自己認識の揺らぎを繊細に描いた本作品は、映画の批評家筋から高い評価を得て、カンヌ映画祭においてプレミア上映されました。映画音楽はジャン=ミッシェルです。音楽が全面に出過ぎず、しかし、映画を観る者にそれぞれの場面の情感をリアルに伝えるのです。彼が映画のために提供した音楽は、目と耳の肥えたカンヌの批評家等を魅了しました。カンヌ映画祭のサウンドトラック部門を受賞したのです。

 この受賞に関し、ジャン=ミッシェルは「映画音楽作曲家として仕事が出来るなんて思ったことはありませんでした。まして、カンヌに来れるなんて」とSNSでコメントしています。謙虚な人柄の一端が現れていますね。

 その後も着実に名盤をリリースしていますが、もう1枚だけ。

aubades

 私が最も好きなアルバムが2022年に発表された「aubades」です。このタイトルは、直訳すれば「夜明けのセレナーデ」です。ここには、新しい始まりに歓喜し、未だ見ぬ出会いを応援するような響きがあります。闇に抱かれた夜が終わって、これから登る陽光への憧憬があります。

 ジャン=ミッシェルは、この音盤について「私は、ロックダウンの最中に自宅で一人、離婚の手続きをしていました・・・孤独に負けないよう、自分自身を癒すために書いたものなのです」と語っています。

 全11曲が収録されていますが、ピアノを軸にしつつも、弦楽器と管楽器が音楽の陰影を深く多彩に仕上げています。アップル・ミュージック版には本人が記した簡単な解説が付してあります。そこには、フィリップ・グラス、ドビュッシー、チリー・ゴンザレス、ヤニー、サティ、ショパンといった作曲家の名前も言及されています。創作の過程を垣間見る思いです。

結語

 ジャン=ミッシェル・ブレは、今年41歳。デビューから9年、いよいよ脂が乗って来たようです。1オクターブに存在する12の音の順列組合せが生む、音楽の無限の可能性を自然体で、さりげなく見せてくれます。頭脳ではなく心が感じる旋律の妙があります。

 最新盤は、3月発表予定の「désert」です。将来がいよいよ楽しみです。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「k.d.ラング」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第31回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、
 明けましておめでとうございます。
 本年も宜しくお願いします。

 厳しい国際情勢と激動のカナダ内政で幕を開けた2025年ですが、年末年始の休暇ではリラックスした時間を過ごすことが出来ました。そして、改めて実感したのは、カナダが生んだ音楽家の奥深さです。特に、休暇中の極私的ヘヴィーローテーション音盤の一つがk.d.ラングの「makeover」だったのですが、この音盤を聴くにつけ、頭と身体の双方に実に心地良く爽快な刺激を受けたのです。音盤ジャケットもデザインといい色合いといい最高です。

 仕事がら、私は日々カナダの各界の要人の方々とお目にかかる訳ですが、硬い話のみならず、時にはソフトな事柄も沢山話します。その際に、カナダを代表するアーティストは誰かという話題にもなりますが、多くの方がk.d.ラングだと指摘されます。その意味するところは、単に歌が上手いとか、ヒット曲が沢山あるという事を超えて、カナダという国家のあり様を体現しているという事だと思います。

 という訳で、今回の「音楽の楽園」は、k.d.ラングについてです。

ハレルヤ

 k.d.ラングには実に多彩な面があります。何処から始めればよいか悩むところですが、まずは「ハレルヤ」からにします。2004年発表の音盤「北緯49度の讃歌(Hymns of the 49th Parallel)」に収録されています。静謐な中にも雄弁に歌う、名唱です。

 カナダは国の成り立ちからして非常に多様性に富んだ国。それはカナダの生む音楽の多様性に直結しています。このコラムでも、ロック・ポップからジャズ、更にはクラシックまで毎月紹介して来ています。カナダ人が誇り愛する音楽に満ちています。が、敢えて、カナダを象徴する歌を選ぶとすれば、第2の国歌とも言われる「ハレルヤ」でしょう。本コラム第4回で取り上げたレナード・コーエンの作詞・作曲で1984年発表の音盤「哀しみのダンス」に収録された曲です。歌詞には旧約聖書からの逸話も言及され、完成に5年を要したと云われています。旋律は讃美歌のような崇高さと親しみやすさが同居しています。ボブ・ディランやマドンナはじめ300を超えるアーティストがカバーしています。その中でも、ラングが歌う「ハレルヤ」は、原作者のコーエンに勝るとも劣りません。

 ラングの「ハレルヤ」が数多あるカバーとは一線を画す特別な存在となったのは、2010年2月のバンクーバー冬季オリンピックの開会式での歌唱です。バンクーバー冬季五輪の開会式は、史上初の屋内開催。中心には先住民の誇りである氷製の巨大なトーテムが設置されました。ミカエル・ジャン総督が開会宣言を行いましたが、五輪史上初の黒人による宣言でした。要するに、カナダの歴史と文化と個性を前面に出した式典だった訳ですが、ラングの「ハレルヤ」は、音楽の面からカナダの誇りを示したものでした。多くのカナダ人にとって忘れられない瞬間だったと云います。

カントリー・ミュージックとの出会いと革新

 そんな国民的歌手k.d.ラングの生い立ちを簡単に記します。1961年11月、アルバータ州の州都エドモントンでドラッグストア経営者の父と教師だった母の下、4人兄弟の末っ子として誕生。7歳でピアノ、10歳でギターを始めました。12歳の時、父は出奔したそうです。人知れぬ苦労もあったようですが、アルバータ州のレッド・ディア大学に進学します。そして、運命の扉が開きます。

 ラングは、学業はさて置き、カントリー・ミュージックにのめり込みます。特に、米国現代カントリーの先駆者パッツィー・クラインのナッシュビル・サウンドに魅せられ、パッツィーのカバー・グループ「ザ・リクラインズ」を結成します。1983年、22歳の時には、シングル盤「フライデー・ダンス・プロムナード」でプロ・デビュー。エドモントンのクラブで演奏活動を本格化させます。

 84年には、アルバム「A Truly Western Experience」を発表。カントリーを基礎としつつより現代的な要素も盛り込んだ音盤は高い評価を得て、エドモントンのローカル・バンドから全国区へと成長します。批評家達は、従来のカントリーを革新するk.d.ラング&リクラインズの音楽を“カウボーイ・パンク”と呼びました。ラングの声と歌唱、更にバンド・サウンドは、時代と共鳴し始めます。

 85年には、ジュノー賞の最優秀新人女性ヴォーカリスト賞を受賞します。注目すべきは、k.d.ラングは最早カントリーというジャンルに限定されない歌手としての大いなる可能性が開花し始めるのです。

 トリビアですが、今をときめくテイラー・スウィフトもカントリー&ウエスタンの歌手としてデビューしますが、進化を遂げて、カントリーの重力圏を超えたポップ・ミュージックの境地に達しています。ラングは、スウィフトに先立つこと30年前に、カントリーを超える音楽的冒険の旅路を始めたのです。

音楽と文学の邂逅

 k.d.ラングの特徴の一つが、名前の表記です。誕生時の姓名は、Kathryn Dawn Langでした。が、デビューしてからは、一貫して、k.d. langと全て小文字で表記しています。法律的にも改名しています。そこには、ラングの拘りがあります。特に、米国の詩人e.e. cummingsから影響を受けたと云います。

 e.e. cummingsは、アバンギャルド志向で、既存の形式を破り、ユニークな構造や語順、スペースを使った自由詩スタイルを信条としました。人間の本質を深く掘り下げ、極めて内省的なトーンの表現が読む者の胸に迫ります。そんなカミングは、自身の名も型破りな表現を反映させて、e.e. cummingsと小文字のみで記していました。一説には、謙遜を意図したとも云われています。

 k.d.ラングは、虚飾を排した赤裸々な感情を形式的な制約を超えて自由に表現しようとしています。音楽と文学の違いはあるにせよ、真に自由な表現を希求しようとする衝動という意味では、k.d.ラングとe.e.カミングスの姿勢は重なります。音楽と文学の邂逅を小文字のみを使った名前の表記が象徴しています。

成功

 k.d.ラングは、カントリー・ミュージックを基盤とし、多彩な音楽的な要素を導入して独特なサウンドを築くとともに、前衛的な文学的要素も加味して、ラング流音楽を進化させます。その核心は、彼女の声と歌唱です。アルトの声域で芯太く情感が籠った歌が聴く者の心の奥に刺さります。

 エドモントンの地元シーンから始まった音楽キャリアは、カナダ全土、更にエンタメビジネスのメッカ米国へと広がります。

 1986年には、カントリー・ミュージックの本場テネシー州ナッシュビルに進出。恐るべき創造力と生産性を示します。翌87年には「エンジェル・ウィズ・ア・ラリアット」、88年には「シャドウランド」をたて続きに発表。そして、89年には、k.d.ラングのカントリー時代を締め括る「アブソルート・トーチ・アンド・トワング」を発表します。非常に高い評価を得て、グラミー賞の最優秀女性カントリー・ヴォーカル賞を受賞します。商業的にも、シングル・カットされた『愛いっぱいのフルムーン』がカナダのチャート1位を獲得し、米国でもヒットしました。

 1992年、前作から3年のインターバルを経て、k.d.ラングは「アンジャニュウ」を発表します。収録された10曲は全てラング自身の作品で、ソングライターとしての資質が全開します。サウンドは、カントリー的なフレイバーを微量に感じさせつつも現代的。いわゆるコンテンポラリー・ポップに仕上がっています。都会的な雰囲気の中に滲む田園的要素がお洒落。ラングの声は、最初のワン・フレーズから、ラングと分かる屹立した個性です。歌唱は、語るように歌います。言葉に吹き込まれた生命が舞うようです。商業的にも大成功し、母国カナダ以外でも、日米英独豪NZ等のアルバムチャートで好成績を残しました。そして、グラミー賞6部門にノミネートされ、見事に最優秀女性ポップ・ヴォーカル賞を受賞しました。

 その後も、ラングは栄光に包まれたキャリアを歩みます。歌手としては勿論、女優として映画にも出演します。007ジェームス・ボンド「トゥモロー・ネバー・ダイ」では、エンディング・テーマ「サレンダー」を歌いました。1996年には、35歳の若さで、「カナダ勲章」を受賞します。2006年の音盤「Reintarnation」ではエルビス・プレスリー追悼を前面に出します。2010年は、上述のとおり、バンクーバー・オリンピック開会式を彩りました。2013年には、「カナダ音楽の殿堂」に列せられました。2014年には、ブロードウェイへも出演します。彼女の活動は留まるところを知りません。

私生活と社会活動

 k.d.ラングは、1992年に、同性愛者であることをカミングアウトしました。伝統を重視し、保守的な面もあるカントリー・ミュージック界からの反発も覚悟したと云いますが、それは杞憂に終わりました。彼女の正直な姿勢は評価されました。時代の変化を牽引し体現したのです。HIV問題も献身的に支援。アニー・レノックスと共同で、チャリティー盤「Sing」を2007年12月1日の世界エイズデーに発表しました。

 また、彼女は、チベット仏教徒にして、菜食主義者でもあります。米国で設立された動物愛護団体PETA(People for the Ethical Treatment of Animals)の活動にも積極的に関わっています。彼女の地元アルバータ州では、畜産が州経済を支えている関係で軋轢も生じました。アルバータ州農業大臣が「州を挙げて応援してきたラングが動物愛護側についたことは、裏切られたような気分で極めて遺憾だ」と発言しました。とは言え、ラングの姿勢は一貫していますし、アルバータ州は畜産を重視し、アルバータ牛は今や強力な輸出品目でもあります。

 自由で多様性を旨とするカナダの現実の一旦がここにあります。同時に、個人としてのラングの社会的な影響力の大きさを示す逸話でもあります。

結語

 k.d.ラングの歩みを俯瞰すると、何通りにも自己を表現する術を持ち、それぞれに成果を残しています。一人の人間が為し得る可能性の振幅の大きさに驚嘆します。

 実は、彼女は2019年には、BBCのラジオ番組に出演し、ほぼ引退する意向を表明しました。還暦を前にした、一つの決断だったのでしょう。それでも、2021年には、既存の録音をリズム重視のクラブサウンドに大胆に編曲し直した「makeover」を発表。ラングの音楽が時代を超えて共鳴し得ることを証明しました。

 そして、2024年9月、k.d.ラングは力強くカムバックします。還暦を過ぎて、原点回帰するのです。32年ぶりに、あのリクラインズを再結成したのです。「カナダ・カントリー音楽の殿堂」入りを祝してのことです。YouTubeでその模様は観れますが、彼女自身も聴衆も本当に楽しんでいます。理屈も蘊蓄も超えた、音楽の楽しさに溢れています。

 2024年10月、彼女は新たに音楽出版社と出版契約を結びました。既存の作品のみならず、将来の作品も視野に入っているとのことです。

 k.d.ラング、成熟した国民的歌手の今後の更なる活躍が楽しみです。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「イェーデン・イジク=ドズルコ」 音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第30回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 12月に入り、オタワの冬が本格化してきました。雪が積もり見事な雪景色です。世界で最も寒い首都の1つであることを証明しているかのようです。地球温暖化の時代ですから、オタワの冬も数十年前と比べるとマイルドだと言われていますが、長崎出身の私にとって雪に囲まれた生活は憧れでもあり、圧巻です。

 実は、健康のために8月から毎朝ウォーキングをしており、雪の中でもスノーブーツを履いて毎朝5キロ程度歩いておりました。ところが先日フリージング・レインで道が完全に凍結し、スノーブーツにスティックで武装しておりましたが、不覚にも転倒し右上腕部を骨折してしまいました。

 従って、今回のコラムは音声入力と左手だけで書いております。右手が使えなくなり、日常生活のごく普通のことも難しくなってしまい、健康の大切さを実感しながら書いています。そして、難しい日常に、改めて、音楽のチカラを思い知りました。

 そこで、今回の音楽の楽園は、カナダが世界に誇る若手ピアニスト、イェーデン・イジク=ドズルコです。実際のところ、イェーデンは、未だ知名度と言う意味では高くありません。しかし、2024年の2つの国際的な音楽コンクールを制しました。5月のモントリオール国際コンクール、そして9月のリーズ国際ピアノコンクールです。将来が非常に楽しみなピアニストです。

2024年〜コンクール・キラーの面目躍如

 これまでの「音楽の楽園」で何人ものカナダ人音楽家を取り上げています。特に、ピアニストと言う意味では、クラシックのグレン・グールド、ジャズのオスカー・ピーターソンを筆頭にカナダは天才・鬼才・異才の宝庫です。第23回の本コラムでは新世代の若き巨匠ヤン・リシエツキを取り上げました。カルガリー出身のヤンは、若くして頭角を現し、「コンクールに出る必要のなかったピアニスト」と言われています。一方、今回取り上げるイェーデンは、その対極にあって、まさに「コンクール・キラー」のピアニストと呼ぶべきでしょう。

 イェーデンの名前を一気に高めた2024年の活躍ぶりを見てみましょう。

 第21回モントリオール国際コンクール・ピアノ部門は、5月5日〜16日、モントリオールで開催されました。イェーデンは、ファイナルでブラームスのピアノ協奏曲第2番を演奏し、優勝しました。実は、カナダで開催されるコンクールではあるものの、これまでカナダ人の優勝者はいませんでした。イェーデンこそカナダ人として初めての優勝でした。

Photo from Concours musical international de Montréal (CMIM) Facebook
Photo from Concours musical international de Montréal (CMIM) Facebook

 モントリオール国際コンクールは2002年に設立された比較的新しいコンクールですが、優勝賞金と副賞として与えられるリサイタル、さらには録音の機会等を換算すると優勝の総額は140,000加ドルです。また、イェーデンは、今回ベスト・カナダ人賞(5,000加ドル)、セミファイナルの段階でのベスト・ソナタ演奏賞(3,000加ドル)、カナダ人作曲家、新曲課題賞(2,500加ドル)も獲得しています。音楽が賞金で計れるわけではありませんが、モントリオール国際コンクールの賞金総額は、現在、数多ある国際コンクールの中でも最上位にあります。名門オーケストラとして知られるモントリオール交響楽団及びカナダ放送協会などが協賛しています。新しい国際コンクールとしての存在感を高めている所以でもあります。

 実は、イェーデンは、この段階でリーズ国際の第1ラウンド通過が確定していて、9月のリーズ国際ピアノコンクールの本戦への出場が決まっていました。クラシックのピアノコンクールは、陸上競技のマラソンと似た面があって、普通は大きな大会に連続して出場することはありません。何故ならば、一つのコンクールだけでも予選から決勝まで、長期間にわたって多数の課題曲について審査を受けなければなりません。強靭な精神力と集中力が求められます。世界最高峰の競争を制するためには、多数のレパートリーを仕上げ、コンディションを整えることが不可欠です。しかも、掛け持ちした片方で優勝したとして、もう一つで結果を出せなければ、評価やキャリアに悪影響を及ぼしかねません。ですから、モントリオールとリーズを掛け持ちするということは、イェーデンの自信の現れでもあります。自信の裏には、入念な準備があるということです。

 イェーデンは、モントリオールを制した後、英国は北イングランドの都市リーズへ赴きます。第21回リーズ国際ピアノコンクール本戦は、9月11日から第2ラウンドが始まりました。第2ラウンドを通過し、15日から17日までのセミファイナルに臨みます。そこを突破した5人のファイナリストが決勝に進みました。決勝は、9月20日(金)と21日(土)の2日間でした。イェーデンは、モントリオールのファイナルでも弾いたブラームスのピアノ協奏曲第2番で勝負。そして、優勝しました。モントリオールから連続で伝統のリーズでも優勝し、イェーデンの評価は一気に高まりました。

 リーズ国際ピアノコンクールは1961年の創設。63年からは3年ごとの開催です。5年に1度のショパンコンクールに匹敵するほどの権威のあるピアノコンクールと言って良いでしょう。毎回の出場者は極めて優秀にして厳しい競争です。著名なところでは、1969年はルプー、72年はペライアが優勝しています。75年は日本の誇る内田光子が2位、アンドラース・シフが3位と言う結果でした。リーズの優勝者の将来は極めて明るいのです。

サーモン・アームの神童

 イェーデン・イズク=ドズルコは、1999年にブリティッシュ・コロンビア州サーモン・アームに誕生しました。バンクーバーから北東にフレーザー渓谷を超えて約470km、オカナガン地域の入り口で森と湖に囲まれた人口約1万7000人の美しい街です。両親ともにピアノ弾きで、イェーデンが5歳の頃から父親が手解きします。13歳の頃には、BC州内の様々な音楽イベントに参加するようになります。たまたま少年イェーデンの演奏を聴いた聴衆は、彼の驚異的な技量に驚く訳です。そして、2014年、故郷サーモン・アームに近い地域の中核都市カムループスでの音楽コンクールに出場し、ピアノ部門で見事に優勝。カムループス交響楽団と共演して、15歳にしてオーケストラ・デビューを飾ります。人口2万人足らずの地方の神童が世に出る機会を得る上で、コンクールに勝つことは、将来に向けて極めて戦略的、かつ地に足の着いた現実的な手段です。逆に、コンクールの主催者からすれば、知られざる逸材の発掘こそが最重要な使命です。

 そして、イェーデン少年は、2017年、ニューヨークはジュリアード音楽院に進学。頭角を顕します。

コンクール・キラーの登場

 イェーデンの、ジュリアード入学後の主なコンクール記録だけ記します。

 知名度の高くない若手が国際的な活躍の場を求めて、己れの技量だけを頼りに果敢に挑戦する姿が目に浮かびます。

 2019年、ジュリアード・ジーナ・ベイチェイン・コンペティション優勝。
 2020年、ポーランドはワルシャワのコクラン国際ピアノコンクール優勝。

 2022年は次の3つのコンクールで優勝しています。
・スペインはカンタブリア州で開催されるサタンデール・パロマ・オシェア国際ピアノコンクール。
・スペインはバルセロナで開催される若手音楽家のためのマリア・カナルス・バルセロナ国際音楽家演奏コンクール。
・米国サウスカロライナ州ヒルトンヘッド島で開催されるヒルトンヘッド国際ピアノコンクール。

 これらの22年のコンクール3連勝は、イェーデンの覚悟と自信と野心、そして巨大な楽才を示して余りあります。凄いです。これが24年の快挙に繋がりますが、23年には初来日を果たしています。

2023年〜来日

 イェーデンは、2023年11月、横浜みなとみらいホールで開催された「第41回横浜市招待国際ピアノ演奏会」に出演しています。スクリャービンのピアノ・ソナタ第4番、ラヴェルの「鏡」、ショパン「スケルツォ」等のピアノ独奏曲を披露しました。

 そして、ピアノを学ぶ地元の小中学生との交流会にも参加しています。NHK横浜放送局がその模様を報じています(https://www.nhk.or.jp/shutoken/yokohama/article/016/98/)。この段階では、イェーデンはCDリリースも無くてほぼ無名です。将来の巨人の素顔が垣間見えて、大変に興味深いです。

 「ピアノは大好きだけど、コンクールの練習になると、あまり好きではなくなってしまいます。どうしたら好きになれますか?」という中学生ピアニストからのませた質問に対するイェーデンの次の回答が非常に誠実だと思います。

 「私も同じような経験があります。コンクールのことは忘れて、音楽そのものがどれだけ好きか、ということを考えるのが大事だと思います」

2024年11月20日〜オタワ国立芸術センター

 私は、イェーデンの公演を鑑賞する機会に恵まれました。

 実は、この時まで、イェーデン・イジク=ドズルコというピアニストの事は知りませんでした。Jaeden Izik-Dzurkoというパンフレットにある名前も何と発音するのか分かりませんでした。この夜の公演は、元々は、グラミー賞も受賞している米国人ヴァイオリン奏者ヒラリー・ハンがブラームスのヴァイオリン協奏曲を演奏する予定でした。

 ところが、1週間前になって怪我のために彼女は公演をキャンセルせざるを得なくなったのです。クラシック音楽と云えども、ショービジネスです。Show must go onです。この夜の公演の主催者である国立芸術センターは、急遽代役を探した訳です。著名なヒラリーに劣らぬ高水準の演奏家で、演目は変更したくありません。公演まで1週間、リハーサル、スケジュール調整は困難を極めたに違いありません。

 結果、イェーデンの公演が決まりました。演目は、ブラームスのピアニスト協奏曲第2番。元々の予定のブラームスのヴァイオリン協奏曲からの変更ですが、同じブラームスですし、彼にとっては、モントリオールとリーズを制した十八番です。しかも、彼にとって首都オタワ・デビューとなりました。

 この協奏曲は、第1楽章の冒頭、ホルンの導入でピアノが登場し、オーケストラと対話するドラマチックな展開です。ここから直ぐにイェーデンの強靭なピアノが楽曲を牽引します。圧倒的な求心力で、オーケストラ団員を率い、聴衆を魅了します。

 このピアノ協奏曲は、ブラームスが初めてイタリアを訪れた時の印象が音に刻まれています。構想から完成まで3年を要したブラームス48歳の成熟期の代表作です。交響曲のような4楽章の確固たる構成。自らピアノを弾いて初演した程の自信作だったのです。しかも、古今東西数多あるピアノ協奏曲の中でも最難曲・最高峰の曲です。急遽代役となった25歳の俊英にとって、この曲以上に己の実力を示す曲はありません。成熟したブラームスが紡いだピアノを正に勇躍羽ばたく若き才能が再生する。クラシック音楽の醍醐味です。

 第4楽章が大団円を迎えた瞬間の聴衆の興奮は凄まじかったです。スタンディング・オベーションで何度も呼び出されました。新星誕生の瞬間です。

 公演終了後、楽屋を訪ねる機会があり、短時間ですが言葉を交わしました。舞台上の冷利に引き締まった表情とは真逆の人懐っこい笑顔と大変に謙虚な姿勢が印象的な好青年でした。子供たちとの交流を含め日本公演が大変に良い経験になった旨を語ってくれました。最後に綺麗な日本語で、「ありがとうございました」と言ってくれました。

結語

 クラシック音楽を聴く時は、特にCD等の録音では、功成り名を遂げた巨匠を聴く機会が多いと思います。しかし、未来の巨匠の飛び立つ瞬間を味わえるのは貴重です。カナダはBC州の小さな街が生んだ俊英の将来が本当に楽しみです。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「アーケイド・ファイア」 音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第29回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 11月11日は、カナダの歴史にとって大変に重要な第一次世界大戦の終結に因んだ戦争追悼のリメンバランス・デーでした。この日を過ぎると、いよいよオタワの冬が始まります。例えば、今月分の本コラムが掲載された11月21日を見れば、日の出は午前7時10分、日の入りは午後4時27分。冬来りなば、春遠からじとは言いますが、暫くは、陽射しが恋しい日々です。そんな時は、元気の出る音楽を聴きたいものです。

ザ・サバーブ

 そこで、今月はアーケイド・ファイアです。全米・全英・全加のアルバム・チャート首位を獲得した「ザ・サバーブス」はグラミー年間最優秀アルバム賞も獲得したカナダが誇る現代のオルタナ・ロックの雄です。2014年のフジ・ロック・フェスティバルでは大トリを務めています。

 世に、音楽は世界の共通言語である、或いは、音楽に国境は無い、と云います。確かに、その通りだと思います。しかし、一方で、音楽は、その生まれた時代と場所の影響を色濃く受けます。先月のコラムで記したジャズは、正に、19世紀末のニューオリンズだからこそ生まれた音楽でした。その意味では、アーケイド・ファイアは、21世紀のモントリオールだからこそ生まれた楽団だと言えます。カナダの自由と多様性と包摂性の成せる業と言えるでしょう。

2000年、マギル大学にて〜ウィン・バトラー編

 全ての偉大なバンドには、運命的な出会いがあります。1957年7月6日、英国のリバプールの聖ピーター教会でジョンとポールが出会い、「クオリーメン」というスキッフル・バンドで一緒に演奏したのがビートルズに繋がります。1961年10月17日、英国ロンドン郊外のダートフォード駅で、マディイ・ウォーターズのLP盤を持って電車を待っていたミック・ジャガーにキース・リチャーズが話しかけたことからローリング・ストーンズが始まりました。

 アーケイド・ファイアの場合は、ウィン・バトラーがモントリオールのマギル大学でレジーヌ・シャサーニュと出会ったことが全ての起点となったのです。作詞・作曲・編曲、リードヴォーカルも担当するウィンとレジーヌこそが、バンドの核です。この二人の出会いに至る経緯は、非常にカナダ的だと思います。

 まず、ウィン・バトラーです。地理学者の父とジャズ音楽家の母との間に、1980年4月に米国はタホ湖の北に位置するカリフォルニア州トラッキーにアメリカ人として生まれました。両親の仕事の関係で、一時期は南米アルゼンチンのブエノスアイレスで、その後はテキサス州ウッドランズで育ちます。15歳で、米国大統領やノーベル賞学者を排出している名門寄宿制高校フィリップス・エクセター・アカデミーに入学しています。映画制作を夢見る少年ウィンは、その後、ニューヨーク州のサラ・ローレンス大学に進学しますが、1年で中退。2000年、20歳の時に、マギル大学進学のためモントリオールに移住します。モントリオールは、米国の51番目の州と揶揄されることも少なくないカナダにあって、革命前のフランスの伝統が息づく米国と明快な違いがある街です。

 20年以上も前の事で、実際に分からない事も多いのですが、ウィンは、学業もさることながら、バンドを結成し音楽活動に情熱を傾けて行きます。まず、ウィンは、モントリオールの名門コンコルディア大の学生ジョシュ・デューと組んで曲作りに熱中します。実は、ジョシュとウィンは、フィリップス・エクセターの同級生でした。高校時代はそこまで親しくなかったようですが、モントリオールで再会し、意気投合し、マギル大学キャンパスの練習スタジオに入って二人組で精力的に練習を始めたのです。但し、二人だけではサウンドにも限りがあります。ウィンとしては、メンバーを拡大したいと考えていました。

2001年〜レジーヌ・シャサーニュとの出会い

 レジーヌは、1976年8月、ケベック州モントリオールで、ハイチから移民した両親の下に生まれます。両親は、フランス系とアフリカ系の血を引くハイチ人ですが、フランシス・デュバリエル独裁政権時代に祖国を捨て、カナダの中でもフランスの伝統が強く残るケベック州に移住した訳です。レジーヌは、モントリオール近郊のサン・ランベールで育ちます。1998年にコミュニケーション論の学位を得てコンコルディア大学を卒業します。が、元来、多種多様な楽器も弾け歌えるレジーヌですから、音楽、特にジャズの和声学や声楽をきちんと勉強するためマギル大音楽学部に入ります。そして、レジーヌはマギル大のキャンパスの内外で様々な機会に演奏し歌っていました。

 2000年、或る美術展のオープニング・イベントで、レジーヌはジャズ楽団の一員として歌っていました。その場に観客として居合わせたウィンが初めてレジーヌという人物の存在知り、歌を聴いたのです。その瞬間、ウィンは自分のバンドに彼女を参加させたいと直感したといいます。但し、この直感が現実のものとなるには、もう一つの出会いがあるのです。

 翌2001年の初頭の或る日、ウィンとジョシュは、いつもの様に、マギル大近くのスタジオで練習していたそうです。すると、その同じスタジオの別の部屋で練習していたのがレジーヌでした。彼女は、ピアノ、アコーディオン、パーカッション等の多彩な楽器を弾くだけでなく、リードヴォーカルも出来ます。音楽的基礎もしっかりしていて、実際に活躍しているミュージシャンです。

 ウィンにしてみれば、あの美術展のオープニングで歌っていたレジーヌが同じ練習スタジオにいるというのは、只事ではありません。この段階で、ウィンは、全く無名です。書き溜めた曲はありましたが、まともな実績もない二人組です。それでも、ウィンは、レジーヌにバンドへの参加を要請し、レジーヌは承諾します。ここに、アーケイド・ファイアの骨格が出来上がるのです。

 創設メンバーのジョシュは、この出会いについて、「実際に自分たちの曲をレジーヌに聴かせた訳ではないのに、彼女がバンドに入ることになった。ウィンとレジーヌの間には運命的な啓示があったに違いない」と述懐しています。

2002年〜アーケイド・ファイア始動

 2001年、ウィンとレジーヌの協働作業が始まると、バンドに大きな求心力が生まれます。一方、離合集散はどんなロックバンドにも付きものですが、ウィンの高校の同級生で創設メンバーのジョシュは徐々に疎外感を感じ、結局バンドを去ります。ですが、ウィンとレジーヌの下には、マルチ・インストロメンタリストのリチャード・パリーのような名うてのミュージシャンが集まって来ます。バンドとしての一体感が生まれて行きます。

 因みに、アーケイド・ファイアというバンド名の由来が興味深いです。或るインタビューで、ウィンは、「アーケイドで火事が起こった」という話に触発されたと語っています。ここで云うアーケイドとは、ゲームセンターのことです。ゲーセンに集う若者の言葉にしきれないフラストレーションや希望や怒りが含意されているようです。

自費EP

 バンドの実力が備わって来た2002年夏には、ウィンとレジーヌ以下アーケイド・ファイアのメンバーがウィンの両親が住む米国メイン州に赴き、大自然の中で書き溜めた曲を録音します。そして、翌2003年6月には「アーケイド・ファイア」と題する7曲を収録したEP盤を自費でリリースします。今、聴いても、新鮮。虚飾は排したナチュラルなサウンドです。ウィンとレジーヌの声はそれぞれに個性的。各楽曲は全く異なる曲想ですが、耳にスーッと入って来るメロディーは魅力的です。

 アーケイド・ファイアの秘めた潜在力をチラ見せしているのがデビューEPです。自費リリースで、実際にプレスされた枚数は少しでしたが、オンライン配信もされました。聴力と眼力のある音楽関係者は、原石を見逃しませんでした。画一的なカテゴリーに収まらない彼らの音楽ですが、一般にオルタナ・ロックと呼ばれています。商業主義に毒された「売れてるグループ」にはない、荒削りでリアルな音楽の原風景が聴く者の胸を掻きむしります。

 因みに、2003年、ウィンとレジーヌは結婚。音楽の絆は二人を強く結びつけた訳です。

成功〜グラミー賞

フューネラル

 限定的な自費リリースで始動したアーケイド・ファイアですが、数社のインディ系レコード会社が契約を申し出ます。2004年には、マージ・レコードと契約し、満を侍してフル・アルバム第一弾「フューネラル」をリリースします。ビルボード誌アルバム・チャート・トップ200にランクインし、グラミー賞にもノミネートされます。寒い北国の街モントリオール発のアーケイド・ファイアは、瞬く間に北米でファンを獲得したのです。2005年2月には、世界中から一騎当千のバンドが覇を競うニューヨークに進出します。ウェブスター劇場での公演は、耳の肥えた聴衆に新鮮な驚きを与えます。極めて辛口の論評で知られるローリングストーン誌も絶賛します。

ネオン・バイブル

 その後は、現代ロックの歴史そのものと言っても過言ではありません。概略を記します。2005年8月には、サマーソニック・フェス出演のために初来日。11月には、モントリオール近郊ファルナンの教会を購入して、録音スタジオに改修します。そして、2006年は、ほぼ丸一年間かけて、この教会スタジオで新作アルバムの録音・制作に取り組みます。その成果は、2007年3月、第二弾アルバム「ネオン・バイブル」として世に問います。全米・全英チャートで初登場2位と大成功です。YouTubeで、ヨーロッパ・ツアーの際のパリ公演の全貌が観られますが、ウィンとレジーヌが率いる9人の実力派ミュージシャンがギター、ベース、キーボード、ヴァイオリン、マンドリン、アコーディオン、チューバ等々の多彩な楽器を持ち替える演奏は圧巻です。無駄の無いナチュラルなサウンドを堅持しながらも、時代の要素を巧みに取り入れています。「ネオン・バイブル」は、グラミー賞にもノミネートされました。競争の厳しい米国マーケットにおいて、実力バンドの一角を占めるまでに成長します。

 そして、2010年、上述の通り「ザ・サバーブス」でグラミー最優秀アルバムの栄冠を手にします。オルタナだポップだロックだ等というジャンルを越えて、彼らの音楽の力量が名実ともに認められたのです。

栄光、そしてスキャンダル

エヴリシング・ナウ

 考えてみれば、複雑化した現代の社会は、いつも激動の時代と言えます。世界には矛盾に満ち醜悪な面があります。それでも常にポジティブな面はあるのです。2017年「エヴリシング・ナウ」は、希望に満ちた素晴らしいサウンド。名盤です。「サインズ・オブ・ライフ」冒頭には、日本語のアナウンスが微かに聞こえます。

 2019年7月には、ウィンはカナダ市民権も得ました。

ウィ

 第6弾「ウィ」は、19年から構想し取り掛かっていましたが、大部分は新型コロナ感染爆発の真っ只中に録音された特異なアルバムです。米国テキサス州エルパソ郊外の荒野の一軒屋で外界との接触を絶って創られました。全曲、ウィンとレジーヌの共作です。『不安な時代』は正に時代の空気を代弁している曲です。当時を振り返り、ウィンは精神的に相当キツかったと語っています。それでも全体を通して聴けば、不安に押し潰されることなき前向きな確信を感じさせます。22年5月に発表されると加米英はじめ各国チャートで好成績を収めたのも納得できます。

 しかし、好事魔多し、と云います。「ウィ」が音楽的にも高い評価を得ていた22年8月、創始者にして実質的リーダーであるウィンによる過去の性加害を複数名の女性が告発しました。ウィンは、合意の上であった旨反論しています。が、バンドへのダメージは大きなものがあります。一部のラジオ局は、アーケイド・ファイアの楽曲の放送を一時的に停止しました。

結語

 自由と多様性に溢れるモントリオールで産声を上げたアーケイド・ファイアは、21世紀の始まりと軌を一にして歩んで来ました。時代の光と影を反映している現代ロックの物語です。商業主義とは一線を画した丁寧な音づくりは、胸の奥の柔らかい部位を時に優しく時に激しく慰撫します。

 上記のスキャンダルの結末は不明ですが、「ウィ」が彼らの最後の音盤との説もあります。ウィンもレジーヌも既に不惑の年齢を超えています。疾風怒濤の日々は否が応でも創造中枢を刺激します。過ちにはきちんとケジメを付け、誰も踏み入ったことのない領域に響くサウンドを生み出して欲しいと思います。カナダには、善悪の彼岸を超えて全てを受け入れる懐の深さがあるのですから。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

カナダのジャズ事始め 音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第28回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 感謝祭も過ぎて、10月も中旬になると晩秋です。オタワに長く住んでいる人々からは「地球温暖化で近年は、昔のように寒くはないよ」という声も聞きますが、紅葉は深まり、落葉が風に舞い、朝夕は氷点下に迫る日もあります。オタワの街もゆるりと冬支度を始めています。

 そして、街には様々な音楽が溢れています。都会の要素と自然が溶け合うオタワは、実はジャズが似合う街です。

 歴史を紐解けば、ジャズ黎明期で未だジャズという言葉が定着する以前から、オタワ出身のブラウン・ブラザーズはボードヴィル・バンドで人気を博しました。ボートヴィルはコメディー・寸劇とダンスと音楽が合体した娯楽でした。その音楽はジャズ的な要素を持ったものでした。ボードヴィルとジャズには切っても切れない絆があると言えます。ブラウン・ブラザーズは、オタワではかつてダウンタウンに在ったベネット劇場を拠点に活動しつつ、カナダ各地で公演し、米国に進出しています。

 考えてみれば、カナダは鍵盤の帝王の異名を持つオスカー・ピーターソンを生み出しました。「クールの誕生」や「スケッチ・オブ・スペイン」等ジャズの歴史に刻まれるマイルス・デイビスの代表作を編曲し実質的に共同制作したギル・エバンスもカナダ出身です。実は、デューク・エリントン楽団は、200回を超えるカナダ公演を行っていました。エリントン御大は、カナダにおけるジャズは、米国の亜流ではなく、確固としたオリジナリティーを持って発展している旨述べています。

 という訳で、今回の「音楽の楽園」は、カナダにおける「ジャズ事始め」です。

ジャズの誕生

 ジャズという音楽の原型は、19世紀末、米国ルイジアナ州ニューオリンズにて生まれたというのが定説です。西アフリカの大地の音楽、欧州の教会音楽、奴隷の労働歌、黒人霊歌、ブルースが混じり合って徐々に出来上がったのです。ジャズの誕生には、特にクリオールと称される白人と黒人の混血の人々が大きな役割を果たしました。若干の解説をすれば、ニューオリンズは当時の米国で最もヨーロッパ的な街で、綿花の積み出し港として栄えていました。ヨーロッパ系白人男性が多く居住し、地元の黒人女性との間で生まれた混血児クリオールの中には高等教育を受ける者もいました。中には、正規の音楽教育を受け、ピアノや管楽器を見事に弾ける者もいました。彼らは、黒人的なリズムや旋律を取り入れて独自の音楽を発展させて行きます。因みに、1894年のルイジアナ州法でクリオールも黒人に分類されたことも、ジャズの発展にインパクトをもったと言われています。

 そんなジャズ創世記の1914年、ニューオリンズでザ・オリジナル・クリオール・オーケストラ(以下、クリオール・バンド)という6人編成の楽団が誕生します。全員が黒人のミュージシャンです。リーダーは、最年長42歳のベース奏者ビル・ジョンソンです。彼こそ、コントラバスを弓ではなく指で弾くピチカート奏法で弾いたパイオニアです。リズムと和音の結節点としてのベースの最重要の役割は彼に由来するのです。クリオール・バンドのフロント陣は、25歳のコルネット奏者、フレディ・ケッパード。当時のニューオリンズで、コルネットの王者の1人と目されていました。かのルイ・アームストロングは13歳で少年院から出所したばかりで、ようやくコルネットを正式に習い始めたばかりで未だ全くの無名の頃です。名うてのミュージシャンが集うこの楽団は地元で評判となり、やがて、エンタテインメントの都ロサンゼルスへ出ます。そこで、アレクサンダー・パンテージスという興行主と出会い、クリオール・バンドは、歌手、ダンサー、コメディアンを加えて、鉄道に乗り北米大陸各地を巡業することになります。そして、故郷ニューオリンズから3,300キロも離れた大平原を訪れるのです。

カナダ史上初のジャズ・コンサート

 ビル・ジョンソン率いるクリオール・バンドは、1914年9月21日の月曜日、午後2時半過ぎ、マニトバ州の州都ウィニペグのダウンタウン、マーケット・ストリートとメイン・ストリートの角にあるパンテージス劇場の舞台に立ちます。これこそ、記録に残るカナダ史上初のジャズ・コンサートです。

 何故、ウィニペグだったのでしょうか?それは、地理的な要衝の地で、北米の鉄道網における米国中西部とカナダの平原州の結節点だったからです。人、モノ、カネ、そして情報が集まる街です。自ずと、エンタテインメントも発展します。因みに、この伝統は今にも繋がります。ゲス・フーやニール・ヤングはこの街から巣立ったのですから。

 翌9月22日付のウィニペグ・トリビューン紙は、このコンサートについて「奇妙な楽器を素晴らしい方法で演奏した」と報じています。何が奇妙な楽器だったのかは判然としませんが、クリオール・バンドは、米国南部のプランテーションで働く黒人の作業服姿で演奏しました。ボードヴィル・スタイルの公演でした。今とは違って、当時はSNSはおろかテレビもラジオも未だありません。漸く、エジソンの蓄音機が普及し始めた頃です。それまでには存在していなかった全く新しい音楽であるジャズの響きを初めて生で聴いたカナダの聴衆の反応はどんなものだったのでしょうか?

 クリオール・バンドの巡業は、ウィニペグで5回の公演をした後は、エドモントン、カルガリーと続きます。当時のカナダにとって最大の関心は第1次世界大戦です。未だ大英帝国の自治領でしたから、英国の参戦で自動的に参戦となりました。ドイツ軍の状況、フランス戦線、先陣を切るカナダ兵の英国での訓練などが詳しく報道されます。そんな中、新しく珍妙な音楽についての賛否論評も垣間見ることができます。

 1914年9月29日のエドモントン・ブレテン紙は「この日最大のヒットはクリオール・バンドだ。トロンボーン、コルネット、クラリネット、ヴァイオリン、マンドリン、そしてベースを演奏。“ケンタッキーの我が家”などの美しい旋律は見事だった。観客の心からの拍手がいつまでも続いた」と報じています。一方、同日のエドモントン・ジャーナル紙は酷く批判的で、「クリオール・バンドは、大きな喝采を浴びたが、要するに、雑音を奏でただけだった」と記しています。両紙の記事から、エドモントンの聴衆がクリオール・バンドの演奏を大いに喜んだことは間違いないようです。その斬新な音楽を如何に評するかは、ある意味、極めて主観的なものかもしれません。ですが、いつの世も頭の硬い保守派にとっては新しい音楽は雑音に聴こえるようです。映画「アマデウス」のモーツァルトと皇帝のやり取りを持ち出すまでもなく、時代の先を行く優れた音楽はいずれは広く受け入れられます。

 このオリジナル・クリオール・バンドは、その後も巡業を続けます。シアトルに引き続き、BC州バンクーバーとヴィクトリアでも公演し、更にサンフランシスコやロサンゼルスを巡り、ソルトレイク・シティーで千秋楽を迎えたのは1915年1月だったといいます。

カナダで録音された最初のジャズ・レコード

 20世紀初頭、モントリオールにはカナダの文化の真髄がありました。と言うのも、ケベック州の中心にして、フランス系住民が多数を占めているもののイギリス系住民も少なくなく、文化的にはフランスとイギリスの影響が融合し、独自の個性を発揮していました。また、経済・金融の中心であり、早くから製造業も発展していました。このような背景で、勃興間もないレコード制作産業の拠点となりました。

 国際的には、米国のコロンビア社やブランズウイック社、フランスのパテ社がレコード市場を席巻していました。しかし、カナダ人エミーユ・ベルリナーが興したベルリナー・グラモフォン社とその長男ハーバートが起業したコンポ社は、モントリオールで、地元の音楽家を起用してレコード制作を行っていました。1910年頃、カナダ初のレコーディング・スタジオがピール・ストリートに建設されました。

 ここに、ニューヨークの興行主ハリー・ヤークスという男が登場します。1920年、彼は、ブルーバード・オーケストラというジャズ楽団をモントリオールで編成します。ニューヨークから連れて来た音楽家も地元で雇った演奏家もいたようです。人気を博し、同年5月、べリュリー通りにブルーバード・カフェという店までオープンします。耳新しい音楽がモントリオールっ子を魅了したのです。

 そして、ブルーバード・オーケストラは、「Dance-O-Mania」という曲をベルリナー・グラモフォン社のスタジオで録音し、SP盤をリリースします。いわゆるディキシー・ランド風の明るいジャズです。コルネットやサックスに加え、バンジョーやヴァイオリンや鉄琴も入ってリズムと旋律とハーモニーが弾けます。YouTubeでも聴けます。これこそ、カナダで録音された初のジャズ・レコードです。

 モントリオールは、ジャズ創世記の熱量を今に伝えます。モントリオール・ジャズ祭は、世界最大のジャズ・フェスです(本コラム第12回参照)。

職業的ジャズ・ミュージシャンとなった最初のカナダ人

 時に、天は二物を与えることがあります。溢れる才能は、多彩に輝くのです。カナダ人初の職業ジャズ音楽家となったジョージ・パリスもそんな魅力的な人物です。

ジョージ・パリス
ジョージ・パリス

 不明な部分も少なくないのですが、ジョージは、自治領カナダ誕生の翌年である1868年、ノバスコシア州の田舎町トルーローに黒人の両親の下に生まれます。一家はその後はモントリオールに出て、そこで育ちます。ジョージは14歳で両親の下を去り、サーカス団に入り、北米各地を巡業して周ったといいます。

 ジョージ・パリスは、素晴らしい運動神経の持ち主で、スポーツ万能でした。100メートル走10秒25のパシフィック・ノースウエスト地区記録を持つ陸上選手にして、ラクロスでも活躍、ヘビー級のボクサーでもありました。その関係で、パリスは、サンフランシスコでは、1878年生まれのジャック・ジョンソンという若い選手のトレーナーを務めました。後に1908年、カナダ人の世界王者トミー・バーンズを破り、史上初の黒人の世界ヘビー級チャンピオンとなり、1915年まで防衛した伝説のボクシング選手です。

 トリビアですが、このジャック・ジョンソンは、人種差別に屈することなく己の才能を開花させた黒人の偉大な先達です。かのマイルス・デイビスは、彼の生涯を描いたドキュメンタリー映画のための音楽をつくり、彼に敬意を寄せて「A Tribute to Jack Johnson(邦題:ジャック・ジョンソン)」という音盤を1970年に録音しています。伝統的なジャズを電化し、ロックの要素を大胆に導入した名盤です。

 そんなジョージ・パリスは、バンクーバーに落ち着きます。RCMPの体育教官の職を得ています。が、サーカス出身で、芸能にも関心があるのです。1909年、世界王者となったジャック・ジョンソンが試合でバンクーバーにやって来ました。二人の再会です。そして、二人はボクシング試合と芸能を組み合わせた興行を各地で行います。ちょうどジャズ音楽が人々を惹きつけ始めた頃でした。ジョージは、人々がこの新しい音楽に熱狂する様を見ます。そこで、パリスは、若い頃サーカス団で伝授されたドラムの腕を改めて磨き直し、ドラム奏者となります。ボクシングで両手両脚を自在に駆使する運動能力が複数の太鼓やシンバル等を制御するドラムに共通したとの説もあります。

パトリシア・ホテル
パトリシア・ホテル

 そして、1917年10月、バンクーバーに、パトリシア・ホテルが開業します。そこには、キャバレーが設けられ、街の芸能の拠点になりましたが、そのインハウス楽団を率いたのが齢49歳のジョージ・パリスだったのです。パトリシア・ホテルは、勃興期のジャズの中心だったといいます。記録によれば、パリスは、アメリカ音楽家協会の第145支部に1919年から32年まで13 年間にわたってライセンス登録をしていました。一方、バンクーバー市年鑑には、パリスが職業を音楽家としていたのは1920年から22年までです。音楽以外のマルチな活動もしていた訳です。

 それでも、ジョージ・パリスは、カナダにおいて、ジャズで生計を立てた職業的音楽家の先駆けです。記録の残っているカナダで最初のプロのジャズ・ミュージシャンです。

結語

 何事にも始まりがあります。天地創造の物語には、古の出来事を想像する喜びに満ちています。若い国カナダで新しい音楽ジャズが根付いていく様子は、非常に興味深いものがあります。今般、執筆に当たっては、Mark Miller著「Such Melodious Racket」を参考にしました。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

ヤニック・ネゼ=セガン 音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第27回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 9月の声を聞くと同時に、オタワに秋がやって来ました。街には緑が溢れているものの、既に紅葉が始まっています。世界中を沸かせたパリのオリンピック、そしてその後のパラリンピックも閉幕しました。いよいよ、芸術の秋の到来を実感します。

 そこで、今回は、カナダが誇る指揮者ヤニック・ゼネ=セガンについて綴ってみたいと思います。

 ヤニックは、世界の楽壇にあって、現在、最高峰の指揮者と言っていいと思います。カリスマ指揮者と崇められたゲルギエフが、ロシアのウクライナ侵略以降もプーチン大統領との親密な関係を保っていたことから、世界の楽壇から事実上追放されたこともあり、今やヤニックは世界中で引っ張りだこです。1975年3月生まれでモントリオール出身の49歳で、既に、膨大な録音を残しています。例えば、ベートーヴェン、ブラームス、メンデルスゾーン、シューマンの交響曲全集、或いはモーツァルトの主要オペラを筆頭に実に多彩なディスコグラフィーを誇っています。

 しかも、ヤニックは、現在、フィラデルフィア管弦楽団とメトロポリタン歌劇場という世界最高峰の二つの楽団の芸術監督を同時に務めています。実は、同時に最高峰の二つの楽団の音楽監督を務めることは稀有なことです。全盛期のカラヤンがベルリン・フィルとウィーン国立歌劇場の芸術監督を務めた例があるぐらいです。

 それでは、ヤニック・ネゼ=セガンの素晴らしき世界に参りましょう。

初めてのヤニック@カーネギーホール

 私が初めてヤニックを生で観たのは、前職でニューヨークで勤務していた頃です。2019年10月15日のカーネギーホールで、フィラデルフィア管弦楽団を率いての公演でした。同月末からの日本ツアーを控えてのニューヨーク公演ということで、オーケストラ側から招待頂いたものでした。既に5年も前のことですが、ステージ正面のボックス席で、カーネギーホール館長のクライブ・ギリンソン夫妻らと一緒に鑑賞したことを昨日のように思い出します。と言いますのも、鮮やかな色彩感覚のフィラデルフィア・サウンドの美音の洪水を満喫したからです。

 公演は、まず、米国の若手作曲家ニコ・ミューリーがフィラデルフィア管弦楽団のために書いた現代音楽「Liar」の世界初演で幕を開けました。続いて、エルガーの「チェロ協奏曲」でした。このジャンルの最高傑作の一つ。チェロという楽器にして初めて可能な慈愛に満ちた音色で奏でられるメランコリックの旋律が胸に迫るのですが、チェロを懐深く優しく包み込むオーケストラがこの協奏曲の骨格を見事に支えていました。

 そして、休憩の後のメイン・ディッシュは、ベートーヴェンの交響曲第6番へ長調・作品68「田園」でした。聴力を喪失しつつある中、ベートーヴェン38歳の才能が爆発している作品です。御承知のとおり、本格的な表題音楽を交響曲というフォーマットで実現した歴史を画す傑作です。ヤニックは、フィラデルフィア管を見事に差配し、マンハッタンのど真ん中に1808年ウィーン近郊の田園風景を音で再現したのです。怒涛の拍手が湧き上がりました。

 伝統のオーケストラの持つ力を全開させる純白のシャツの若き指揮者。身体からエネルギーが迸り、その熱量がオケに憑依しているようでした。圧倒的な印象でした。

 実はこの段階で、私はヤニックについて何も知りませんでした。それでも、素晴らしい演奏にただただ圧倒されていました。公演終了後、楽屋を訪れる機会に恵まれ、ヤニックに紹介され、若干の会話をしました。私は、エルガーのチェロ協奏曲も「田園」も大好きでよくCDを聴いているけれど、今夜は、貴方の凄い指揮でこれらの名曲の真髄に触れることが出来て、本当に感動した旨を述べました。ヤニックは、日本公演を本当に楽しみにしていると笑顔で話してくれました。そして、驚いたことが一つあります。ステージ上では大きく見えたヤニックは、実際は小柄な人だったのです。音楽愛とエネルギーが横溢してゾーンに入っている時とオフの時の違いが、巨大な才能を浮き彫りにしていると感じたことを憶えています。

モントリオールの神童〜ジュリーニとの出会い

 ヤニックは、教育学の大学教授と大学講師の両親の下に生まれ、恵まれた環境で育ちます。5歳でピアノを本格的に習い始め、瞬く間に上達。10歳の時には、指揮者になると決意したと、各種インタビューで語っています。興味深いのは、何故、指揮者になりたいと思うに至ったかはよく憶えていないようです。両親が愛聴していたモーツァルトの交響曲第40番に合わせて指揮者の真似をするのが好きだったとも言っています。音楽大好き少年の無垢な思いだったのかもしれません。モントリオール音楽院で学ぶ傍ら、14歳で、モントリオール・ポリフォニー合唱団のリハーサル指揮者を務めます。思いを着々と実現していく訳です。

 何事によらず、勉強はすればするほど、学びたい事や教えを乞いたい師が増えていくものです。ヤニックの学びもそうで、モントリオールを超え、米国ニュージャージー州プリンストンのウェストミンスター・クワイヤー・カレッジでも合唱の指揮を勉強しています。

 運命的な転機は、モントリオール音楽院を卒業した1997年、ヤニックが22歳の時に訪れます。巨匠カルロ・マリア・ジュリーニに1年間にわたって師事する機会を得たのです。

 ジュリーニは、かつて39歳の若さでミラノ・スカラ座の音楽監督に就任し、世界のオーケストラを総なめにしたイタリアの名指揮者です。虚飾を排した歌心溢れる音つくりで、20世紀の指揮者列伝に名が刻まれています。ヤニックが師事した時は、既にジュリーニは83歳。フリーの指揮者として、特定の組織に属せず、世界の一流オーケストラに客演する日々でした。側近として、ジュリーニが如何に準備し、リハーサルに臨み、楽団員を掌握し、自らの音楽を奏でるかを間の当たりにしたことは、何物にも変え難い貴重な経験だったに違いありません。楽曲に対する深い理解と洞察に基づく、他の誰かの真似ではない自分だけの音楽的解釈で、オーケストラを率いる。ジュリーニの下で学んだ事は、指揮者の頂点を目指す若きセガンの原点であり、血となり肉となったのです。各種インタビューでは、最も影響を受けた指揮者としてジュリーニの名を常にあげています。

旅立ち

 2000年、25歳の若さでヤニックは、地元のグラン・モントリオール・メトロポリタン管弦楽団の首席指揮者兼芸術監督に就任します。快進撃の始まりです。

 2003年には、ヤニック色に染め上げたグラン・モントリ・メット管を率いてCDデビューします。演目が、ちょっと意表を突いてます。ニーノ・ロータです。名匠フェデリコ・フェリーニ監督とのコンビで数々の名画・名曲を生んだ現代イタリアが誇る作曲家です。選んだのが「組曲『道』」とハープ及びトロンボーンの2つの協奏です。歌の国、イタリアの面目躍如の旋律に溢れています。師ジュリーニの影響を感じさせます。

 実は、同年、ヤニックはピアニストとしてもCDデビューしているのです。「カンバセーション」と題するCDは、トロンボーンとの二重奏という個性的なフォーマット。冒頭に収録されたガブリエル・フォーレ作曲の「シチリアンヌ」が、チェロやフルートとは違った趣きで胸に迫ります。2つのデビュー盤は、クラシックの世界では、直球ど真ん中の勝負というよりは、変化球で腕試しという感じです。厳しい競争のクラシック市場に、知名度の低い青年が切り込むための、戦略的な動きにも見えます。が、功なり名を遂げた今から振り返れば、ヤニックが固定観念に囚われず優れた音楽を世に問う新しい発想の持ち主である証左とも言えるでしょう。

飛翔

 「指揮は人なり」です。舞台で唯一人観客に背を向け、百人に及ぶ楽団員に対峙して己の音楽をつくるのです。そこには、指揮者の全人格や個性が滲みます。エネルギー溢れる指揮ぶりは、ヤニックの音楽性と生産性を如実に物語っているのです。

 上述のとおり、2003年、28歳で発表した2枚のデビューCD以降、今日に至るまで毎年、複数枚のCDをリリースし続けています。膨大な量です。指揮者とピアニストの二刀流です。そのプログラムは非常に幅広い音楽的地平を網羅しています。マーラーやブルックナーらの交響曲を指揮する一方で、「モーツァルト歌曲集」では18世紀後半のフィルテピアノを演奏するのです。マギル大学で教鞭も取るカナダの代表的ソプラノ、シュジー・ルブランと吹き込んだ隠れた名盤です。天衣無縫のアマデウスが紡いだ珠玉の旋律が古式ゆかしくも全く黴臭くなく、生き生きと今に蘇ります。ヤニックの奔放で明朗なピアノフォルテは、きっとモーツァルトはこんな風に弾いたんだろうなと感じさせます。

 デビュー当初は、活動の舞台もカナダが中心でした。CDもカナダのクラシック音楽専門レーベルATMAからのリリースでした。が、徐々に欧州での公演も増えていきます。

 2005年には、今も音楽関係者の間で語り草になっている、ヤニックの恐るべき実力を示すステージがありました。シドニーのオペラ・ハウスでの公演です。当代の第一人者ロリン・マーゼルが病に伏せってしまい、急遽、その代役として、ヤニックに白羽の矢が立ったのです。演目はブルックナーの交響曲第8番です。その夜、ヤニックは、スコアを見ることなく全て暗譜して指揮したそうです。天才的な記憶力を見せつけました。そう言えば、トスカニーニも急遽代役で指揮。しかも暗譜していました。運命の扉はどこで開くか分からないのですね。

 2006年以降は、サン=サーンス、ドビュッシー、ラベル、ベルリオーズなどフランスの作曲家も積極的に取りあげていきます。2008年からは、ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の首席客演指揮者を務めています。

 録音についても、ドイツ・グラムフォン・レーベルと長期契約を締結。多彩な取り組みで、ヤニックの音楽的冒険が進行中です。幾多の名指揮者が残しているベートーヴェンやブラームスの交響曲全集ですが、ヤニック盤の切れの良いリズムと鮮やかな色彩感は特筆に値します。また、ショパン・コンクール優勝のチョ・ソンジンのデビュー盤「モーツァルトピアノ協奏曲第20番ニ短調」では、チョのデリケートなピアニズムに、寄り添いつつ鼓舞し刺激し、哀愁のメロディーの向こうに希望の光を灯すようです。新人を抱擁する貫禄を感じさせます。

巨匠への道と新しき音楽的冒険

 ヤニックは、2012年、シャルル・デュトワの後任として、フィラデルフィア管弦楽団の第8代音楽監督に就任します。1900年に創設された名門で、ストコフスキー、オーマンディ、ムーティ、エッシェンバッハといった錚々たる先人に肩を並べています。

 2018年からは、謂く付きで退任したジェームス・リヴァインの後を継いで、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の第3代音楽監督も務めています。6年契約を更新して、2030年までメットの顔となる訳です。

 今年49歳のヤニックは、クラシック楽壇ではまだまだ若い世代ですし、未だ巨匠というイメージではないかもしれません。しかし、これまでの実績と実力は、紛れもなく巨匠です。

 しかも、ヤニックは、新しき音楽冒険にも積極的です。その好例がフローレンス・プライス作品の録音です。プライスは、1887年アーカンソー州生まれで米国初の黒人女性作曲家と言われています。黒人霊歌を西洋の古典音楽に融合した交響曲は、20世紀の米国独自の音楽的進化を示しています。しかし、ヤニック以前には、非常に限られた音源しかありませんでした。2021年にヤニックが指揮してフィラデルフィア管が録音し、その進化を世界に示したのです。23年には、プライスの「交響曲4番」加えてウィリアム・リーヴァイ・ドーソン作曲の「ニグロ・シンフォニー」を問うています。忘れられていた優れた音楽に光を当てる。現代の音楽界を牽引しているのです。

カナダとヤニック

 才能が横溢し成功したカナダの音楽家には、世界の舞台が待っています。特に、米国で活躍します。ヤニックも例外ではありません。世界最高峰のフィラデルフィアとニューヨークを往復する日々です。しかし、ヤニックは母国カナダの聴衆にもちゃんと世界最高峰の音楽を届けています。ヤニックは、現在も故郷モントリオールのグラン・モントリオール・メトロポリタン管弦楽団の音楽監督も務めているのですから。

 24年夏には、モントリオールのマウント・ロイヤルの麓で、グラン・モントリ・メット管を率いての無料コンサートを行っています。ビゼー「アルルの女」に加えカナダ人作曲家クロード・シャンパーニュの作品も取り上げました。音楽家に出来る最大の地元コミュニティーへの貢献あるいは恩返しこそ、最高の音楽を届けるフリー・コンサートです。また、2024年4月には、フィラデルフィア管弦楽団のカナダ・ツアーを敢行しています。

 カナダが生んだ、現代の若き巨匠ヤニックが今後のどんな活躍を見せてくれるのか期待が高まります。実は、カナダは若い国ですが、優れた作曲家を輩出しています。しかし、残念ながら、世の中には余り知られていません。今後、ヤニックがカナダ人作曲家の真価を世界に問うて欲しいと思います。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

セリーヌ・ディオン 音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第26回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 4年ごとに訪れる閏年にあって世界が注目するものは何でしょう?そうです。一つが米国の大統領選挙。もう一つが夏季オリンピックです。今年の開催地は、クーベルタン男爵の故国フランスは、花の都パリでした。日本人選手の活躍に歓喜と悔し涙が交差し、胸が熱くなった2週間があっと言う間に過ぎました。

 実は、100年前の1924年もパリ五輪でした。映画「炎のランナー」の原典です。ユダヤ人ハロルド・エイブラハムスとスコットランド人牧師エリック・リデルが「走る」ことは「生きる」ことだと身をもって示したのです。

 そして、2024パリ五輪。開会式を締め括るセリーヌ・ディオンの渾身の歌唱が、「歌う」ことは「生きる」ことだと強烈に印象づけました。

 と言う訳で、今回は、カナダが生んだ世界の歌姫、セリーヌ・ディオンです。

2024年7月26日午後11時

 パリ五輪の開会式は、極めてフランス的な趣向を凝らしたものでした。史上初めて、競技場の外で行われた開会式です。選手団はセーヌ川を船で入場しました。韓国を北朝鮮と間違えたり、国旗を上下逆さまに掲げたり笑えないハプニングもありました。それでも、パリの中心地を東から西に6kmにわたりパレードが進み、様々なパフォーマンスが行われ、毀誉褒貶はありつつも、今のフランスを世界に印象づける式典でした。その極め付けがセリーヌ・ディオンでした。

 エッフェル塔に設けられた特設ステージに登場したセリーヌは純白のドレスを纏っていました。ディオールのマリア・グラツィア・キウリが特別にデザインしたオートクチュールで、スパンコールが刺繍され、背中やスカートに施されたフリンジは計500メートルに及んだそうです。衣装も凄かったですが、とにかく歌が圧巻です。

 “あなたが望めば、世界の果てまで行ってもいいわ。
 髪をきるのも、家を捨てるのも、友達さえも、祖国をも裏切るわ。
 怖いものは何もない。あなたさえいれば”

 フランスを代表する歌姫エディット・ピアフ自身が作詞した『愛の讃歌(Hymne à l’amour)』です。元来は、妻子ある恋人プロ・ボクサー、マルセル・セダンとの恋を終わらせるために書いたと言われています。背徳的な匂いも漂います。が、マルグリット・モノーが紡いだ明朗な旋律が、毒をも制する崇高な愛の核心を突きます。今や、シャンソンの名曲中の名曲で、フランスを代表する曲です。パリ五輪開会式に相応しい曲と言えます。

 セリーヌは、低音域で囁くように歌い始めます。大人の女性を感じさせます。曲の展開とともに、正確な音程とアーティキュレーションで、歌が始動します。絹のような滑らかな表面と鋼鉄のような強固な芯を持つセリーヌの声の本領発揮です。高音域になると、あの華奢な身体のどこから出て来るのか、豊かな声量で魅了します。3分30秒の音楽の王国でした。

何故、セリーヌ・ディオンだったのか?

 オリンピックは、好むと好まざるにかかわらず、主催国の威信と誇りがかかります。特に、開会式においては、主催国の文化・歴史・伝統が色濃く反映します。パリ五輪の開会式を締め括る曲が「愛の讃歌」だったのも頷けます。しかし、その「愛の賛歌」を歌ったのがカナダ人セリーヌ・ディオンだったのが非常に興味深いです。

From left to right: Daphn Brki, Thomas Jolly, Tony Estanguet. ©Paris2024
From left to right: Daphn Brki, Thomas Jolly, Tony Estanguet. ©Paris2024

 一般に、フランス人は自国の歴史・文化への誇りとこだわりが強いイメージがあるのに、最大の見せ場がフランス人歌手でなかったのは何故なのでしょうか。鍵は、開会式の芸術監督を務めた42歳の気鋭の俳優・演出家トマ・ジョリにあります。22歳で演出家デビューし、シェークスピアの「ヘンリー6世」を大胆に解釈・翻訳し、18時間連続上演させ、仏演劇界で最高の権威あるモリエール賞も受賞しています。ジョリは、過去の因習やジェンダーなど固定観念に囚われず、移民・環境・格差などの社会問題も直裁に取り入れた作品を発表しています。自身、ゲイであることも公表しています。芸術の国フランスですから、パリ五輪の開会・閉会式の芸術監督候補は数十人いたそうですが、最終的にジョリが選ばれました。フランスの懐の深さを感じさせます。

 「シャンソンの名曲『愛の賛歌』の歌い手に、ラブソングの名手であることを理由に世界的歌手のセリーヌ・ディオンを選んだ」とは、ジョリ監督の弁です。開明的な芸術監督が一切の忖度抜きで、国籍にこだわらず、非常にシンプルな理由で歌手としての実力でセリーヌ・ディオンを選んだ訳です。フランスを象徴する歌を、世界最高の歌手に歌ってもらうことこそが、フランスの文化・芸術を世界に示すことだというジョリ監督の確信でしょう。

 そして、もう一つ。セリーヌ・ディオンを起用する理由があったのです。

スティッフパーソン症候群

 パリ五輪開会式でのセリーヌ・ディオンのパフォーマンスは、当日のその瞬間まで、極秘裏にかつ慎重に準備が進められて来ました。

 何故ならば、セリーヌは、2020年3月の米ニュージャージー州での公演以降は、スティッフパーソン症候群(SPS)という難病のため、歌手活動を停止していたからです。この難病は、不随意の痙攣や筋肉の硬直を引き起こす神経性疾患で、音や接触などの体感によって症状が誘発、悪化するものです。100万人に1人という極めて稀な疾患です。

 セリーヌはこの疾患が原因で「以前のように歌えなくなった」と吐露しています。実は、数年前から、徐々にその兆候があって、公演を短く切り上げたりしていました。2022年12月には、歌手活動を休止し治療に専念すると発表しました。2024年6月に公開されたドキュメンタリー映画「アイ・アム・セリーヌ・ディオン〜病との闘いの中で〜」が、困難な生活を赤裸々に描いています。スーパースターの光と影を包み隠さず映すこのドキュメンタリーも、苛烈な競争に晒されるショービジネス故のしたたかなプロモーション戦略の一環です。それでも、SPS療法のため1日に80〜90ミリグラムのジアゼバムを飲まなければならないと苦痛に涙しながら語る様子や、リハビリの途中で倒れる様子は、セリーヌが病と闘っている現実を突きつけます。

 そんな過酷な疾患を克服して歌うセリーヌの様子は、観る者の胸に迫ります。SPSを患いながらの圧巻のパフォーマンスは、意思があれば、困難は乗り越えられるのだと、勇気を与えます。世の中、綺麗事ですまない、そんなに甘くない、というシニカルな諦観に鉄槌を下します。ジョリ芸術監督がセリーヌを起用した理由の一つでしょう。話題にならない訳がありません。感動しない訳がありません。

 次に、そんなセリーヌ・ディオンの旅路を振り返りましょう。勿論、生まれた時からスターになるべく生まれた訳ではありません。ですが、運命の出会いがありました。

ケベック州モントリオール郊外シャルマーニュ

 セリーヌ・ディオンは1968年3月、ケベック州モントリオール郊外のシャルマーニュの屠殺業を営むフランス系の14人兄弟姉妹の末っ子として生まれました。両親とも音楽愛好家で、家計は楽ではありませんでしたが、家庭には音楽が溢れていました。そして、セリーヌは幼少期から類稀な才能を示していました。とにかく驚異的に歌が上手だったのです。5歳で、兄マイケルの結婚式の大勢の来客を前に歌って、皆を驚かせたといいます。以来、ピアノ・バーなど地元で歌っていました。とは言え、この類の神童神話は、決して珍しくありません。此処そこに、歌の上手い女子はいるのですから。

 転機は、セリーヌ12歳の時に訪れます。セリーヌは、母と兄マイケルと一緒に、“Ce n’était qu’un rêve”というオリジナル曲を自主録音したのです。家族の力です。そして、兄は、その音源を、たまたま或るレコードの裏表紙に記載されていた音楽マネージャー、ルネ・アンジェリルに送ったのです。ルネの事務所には、その種の音楽テームは頻繁に送られて来ていましたが、胸に迫る音楽は滅多にありません。しかし、ディオン・ファミリーの音楽を聴いた瞬間、ルネは、セリーヌの歌に魂を奪われ涙したと言います。この時、ルネ39歳。ケベック州の音楽業界でキャリアを重ねて来た男は、12歳のセリーヌに宿る尋常ならざる才能を確信。マネージメント契約を結びます。今日のセリーヌ・ディオンの原点です。

 因みに、英国の地方都市リバプールのビートルズが世界のビートルズになったのは、敏腕マネージャー、ブライアン・エプスタインの功績大です。ホイットニー・ヒューストンは、クライブ・デイヴィスなかりせば、世に出ていなかったでしょう。偉大な才能の原石は、発見され研磨されなければ、原石のままです。原石は、目利きでなければ、普通の石にしか見えません。ルネとの出会いが運命の扉を開いたのです。

 1981年、ルネは、自宅を抵当に入れて借金をして、セリーヌのデビュー盤“La voix du bon Dieu”をリリースします。この音盤は、ケベック州チャート首位に立ちます。そこで、セリーヌには、多数の公演ツアーの誘いがありましたが、ルネは「この才能を潰すわけにはいかない」として、全ての誘いを断りました。

 ここを起点に、現代のエンタテインメントのシンデレラ・ストーリーが始まるのです。但し、一朝一夕にスターダムに上り詰めた訳ではありません。必要十分な時間をかけて熟成していきます。“Easy come, easy go” は避けるのです。これもルネの戦略です。

世界へ

 1982年、セリーヌは、初来日します。「第13回ヤマハ世界歌謡音楽祭」に参加するためです。他のツアーは拒否したルネが、この音楽祭にはゴー・サインを出した訳です。極めて、戦略的です。ルネの狙いは的中します。カナダから参加したフランス語しか話せない無名14歳は、予選を勝ち抜き、「ママに捧げる詩」で最優秀歌唱者と金賞を受賞したのです。国際的に通用する歌唱力を証明しました。

 1984年には、初めてパリで公演します。オランピア劇場に出演者の最年少記録を打ち立てます。

 1988年には、ユーロビジョン・ソング・コンテストに参加。スイス代表としてフランス語の曲「私をおいて旅立たないで」を歌い、グランプリを獲得しました。フランス語圏以外にセリーヌ・ディオンの名前が知られるきっかけとなりました。

 但し、この段階では、未だフランス語のみを話し、フランス語の歌しか歌っていません。ケベック州で土台を固めて、まずカナダ全土、そして米国へと狙いを定めます。英語の猛勉強も始めます。

 1990年、ついに初の英語アルバム「ユニゾン」で米国に進出します。シングル・カットされた「哀しみのハート・ビート」がビルボード誌チャート5位のスマッシュ・ヒットとなります。今、聴いても、王道を行く良質のポップ・アルバムです。歌唱力は折り紙付きです。但し、セリーヌの唯一無二の個性は未だ発展途上との印象は否めませんが、ここから、セリーヌのサクセス・ストーリーは加速します。

 91年には、ディズニー映画「美女と野獣」の主題歌を、ピーボ・ブライソンとのデュエットでヒットさせ、アカデミー賞とグラミー賞を初めて受賞します。92年には、英語音盤第2弾「セリーヌ・ディオン」をリリース。全世界で500万枚のセールスを誇ります。96年には、アトランタ五輪の開会式で「パワー・オブ・ラブ」を熱唱。カナダ出身ですが、完全に世界を舞台に活躍するアーティストに成長します。そして、セリーヌの名を不動のものとしたのが映画「タイタニック」の主題歌「マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン」です。余りに美し過ぎる歌です。洋楽カラオケで挑戦すれば分かりますが、あの曲の美しさを引き出すには、特別な歌唱力が不可欠です。色々なカバーはありますが、セリーヌにしか歌えない、彼女のシグニチャー・ソングです。この後は、現代エンタテインメントの歴史です。

私生活

 セリーヌほどのスーパースターになれば、1日24時間、7日で1週間、1年365日を、アーティストと一個人との間で分割するのは極めて困難でしょう。音楽のことを考えない瞬間は無いかもしれません。声が楽器ですから、常に丁寧なケアが必要でしょう。アフリカの諺に、「速く行きたければ一人で行け。遠くへ行きたければ皆んなで行け」というのがあります。素晴らしいパフォーマンスは、固い絆で結ばれたバック・バンドとの不断の練習と入念なリハーサルの賜物です。

 そんな中、セリーヌは、彼女を見出したルネ・アンジェリルと結婚します。ルネの大戦略が奏功してスター街道爆進中の1994年12月のことです。この時、新婦セリーヌ26歳、新郎ルネは52歳です。実は、ルネにとってはこれが3度目の結婚でした。それはさて置き、この結婚は、セリーヌにとってもルネにとっても、ワーク・ライフ・バランスではなく、究極のワーク・ライフ・フュージョンと言えるでしょう。正に、歌うことが生きることです。

 2016年、喉頭癌を患い闘病中のルネでしたが、74歳の誕生日の2日前に、心臓麻痺で他界します。ケベック州葬が行われ、カナダ政府関連施設は半旗を掲げて、哀悼の意を示しました。

 ドキュメンタリー映画「アイ・アム・セリーヌ・ディオン」のサウンドトラック盤の内ジャケットは、自宅の居間で、薬を飲んでいるセリーヌを見守るルネの肖像写真です。セリーヌとルネの協働は次のステージに入ったように感じます。

未来へ

 数々の物語を生んだパリ五輪ですが、人々の記憶は徐々に薄れていくでしょう。エッフェル塔でセリーヌが歌った「愛の讃歌」もいずれ過去の出来事になっていきます。

 セリーヌ・ディオンの音楽的冒険は、今後も続くでしょう。それが、シャルマーニュの少女の頃からの歌手の本能だからです。難病と闘いながら、必ずや、素晴らしい歌を届けてくれることでしょう。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「きみこの真珠」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第25回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 早いもので、2022年7月に始めた「音楽の楽園」は2年を過ぎて、いよいよ3年目に突入します。実感するのは、カナダの奥深さです。それは、音楽だけに限りません。政治・経済・ビジネス・科学技術・芸術など、様々な分野でです。理想を掲げ、常識にとらわれず、斬新なものを生む、エネルギーと創造性に満ちていると思います。

「きみこの真珠」のパンフレット
「きみこの真珠」のパンフレット

 そこで、今回、皆さまに紹介したいのは、「きみこの真珠(Kimiko’s Pearl)」という新作バレエです。ここには、音楽、舞踏、舞台美術、現在、過去、歴史、政治、欺瞞、諦観、希望、赦し、勇気、家族、そして愛が凝縮しています。

「ブラボー・ナイアガラ」

 「きみこの真珠」は、オンタリオ州ナイアガラ・オン・ザ・レイク地区で優れた舞台芸術を地元コミュニティーに紹介している非営利団体「ブラボー・ナイアガラ(Bravo Niagara! Festival of the Arts)」により委嘱・制作された作品です。

 「ブラボー・ナイアガラ」は、トロント出身の日系カナダ人ピアニスト、クリスティン・モリさんと御令嬢のアレクシス・スピルデナーさんが10年前に立ち上げました。

Christine Mori(左)and Alexis Spieldenner:Co-Founders, Bravo Niagara Festival of the Arts, Co-Creators and Producers, Kimiko’s Pearl. Photo by Bo Huang
Christine Mori(左)and Alexis Spieldenner:Co-Founders, Bravo Niagara Festival of the Arts, Co-Creators and Producers, Kimiko’s Pearl. Photo by Bo Huang

 クリスティンは、アスペン音楽祭、タングルウッド音楽祭を経て、ジュリアード音楽院を卒業。米国で30年余にわたり、フロリダ管弦楽団所属のピアニストとして活動する傍ら、アイザック・スターンからボビー・マクファーレンまで多彩なアーティストと共演し、高い評価を得ます。現役を退いたクリスティンは、トロントの郊外ナイアガ地区に帰郷します。第2の人生を始めるに際し、自身の日系カナダ人としてのアイデンティティーと音楽家としての情熱が結びつきます。長年の夢を形にする時が来たのです。それは、地元ナイアガラ地区に世界水準の音楽家を呼び、地元コミュニティーに極上のパフォーマンスを届けるというものです。

 御令嬢のアレクシスは、ピアニストの母の下で音楽愛を吸収して成長し、デューク大学を優秀な成績で卒業。オンタリオ州のドーズウェル副総督から多様な文化振興に功績のあった若者を表彰する「リンカーン・アレキサンダー賞(注)」を授与されます。(注: リンカーン・アレキサンダーは、オンタリオ州初の黒人の副総督)

 「ブラボー・ナイアガラ」は、母の芸術的センスと娘のマネージメント能力が融合して、良い仕事に恵まれます。地元に密着する姿勢も好感されます。2014年の立ち上げ以降、「ブラボー・ナイアガラ」は、このコラムでも取り上げたジェームス・エーネス(第20回)ヤン・リシエツキ(第23回)をはじめとするクラシック音楽やマンハッタン・トランスファーなどのジャズ、ポップのスター達を引っ張って来ます。地元コミュニティーにとっては、居ながらにして、世界最高峰の音楽に触れるまたとない機会です。地元コミュニティーに提供する音楽・舞台芸術は、年を追うごとに、充実していきます。

日系カナダ人アイデンティティー

 「ブラボー・ナイアガラ」が確固たる基盤を固めると、クリスティンとアレクシスの母娘は、長年温めて来たアイデアの実現に取りかかります。日系カナダ人が辿って来た旅路を舞台芸術作品に昇華させるのです。

 日系カナダ人の歴史を概略すれば、最初期の移民、差別的な扱い、刻苦勉励して得た安定したカナダでの生活、太平洋戦争の勃発と敵性外国人移民としての強制収容や財産没収、戦後は、戦時中の困難を克服しカナダ社会の中で尊敬される地位を築くに至る訳です。

 実は、このような日系カナダ人の歴史が反映された芸術作品は少ないのです。それは、日系カナダ人が辿った苦難と克服の経緯が現在のカナダ社会において十分に認知されていないのと同じです。クリスティンとアレクシスは、芸術を通して日系カナダ人の歴史と誇りを伝える意義の大きさを確信します。正に、日系カナダ人のアイデンティティーの核心でもあります。

 とは言え、歴史を芸術で描くということは「言うは易く行うは難し」です。そこで選択されたのがバレエです。人類がつくる究極の舞台芸術の一つです。音楽と舞踏と舞台美術がつくりあげる空間には、言葉を超えた人間の情念が現れます。極めて具体的な事象から喜怒哀楽の感情までも盛り込めるのです。

 但し、新作のバレエ作品を制作し実際に上演するためには、台本、音楽、振り付け、美術、ダンサー、演奏家、リハーサル、上演会場等々が必要で、そのためには莫大な経費を要します。現代の舞台芸術は、如何に経費を工面するかという現実的問題に直面します。あのカーネギー・ホールも一時は倒産・解体の危機に直面したほどです。

 しかし、クリスティンとアレクシスの構想力と緻密な戦略と情熱が道を拓きます。National Creation Fundからの支援が確保出来たのです。いよいよ、構想が作品へと結実します。

総合芸術バレエ〜7つのスペクトラム

 「きみこの真珠」は、次の7つのスペクトラムが交差し融合して初めて完成しました。

 第1に、物語です。これは、クリスティンとアレクシスの4世代にわたる家族の旅路です。実は、トロント生まれのアレクシスが4代目で、ミドルネームもキミコ。「きみこ」のモデルです。家族の物語は、きみこの視点で、曽祖父シズオ・アユカワの代から描かれています。アユカワ・ファミリーの実話に基づく物語が作品の核です。但し、物語だけではバレエになりません。物語の真髄をバレエによって最高に輝かせる台本が不可欠です。トニー賞受賞台本作家のハワード・ライヒが書き下しました。

 第2に、音楽です。現代カナダが誇る作曲家ケビン・ラオが、ライヒの台本に基づいて、全編を新たに作曲しました。バレエには台詞はありません。全ての感情や情景を音楽で描かねばなりません。ラオが紡ぐ旋律とハーモニーとリズムが、音楽でしか表現できない情感を舞台に生み出します。

 第3に、振り付けです。世界最高水準のウィニペグ・バレエ所属のヨースケ・ミノが担当しました。舞台の進行に合わせて、強制収容という非道な措置、絶望、諦観、希望、愛まで、舞踏で表現します。鍛え抜かれたダンサーの律動を引き出します。

 第4に、舞台美術です。ポップ・アートから日系カナダ人の歴史をモチーフにした作品まで実に多彩かつ上質な作品群で、カナダ勲章も受賞されているノーマン・タケウチ画伯らの作品です。シンプルな舞台に、アクセントをつけ、時代と場所を提示します。

在オタワ日系人画家ノーマン・タケウチ氏による絵画(舞台のバックグランドに使用)。Photo by Embassy of Japan in Canada
在オタワ日系人画家ノーマン・タケウチ氏による絵画(舞台のバックグランドに使用)。Photo by Embassy of Japan in Canada

 第5に、演奏家たちです。ケビン・ラオ作品の常連でもある国立芸術センター管弦楽団の首席チェリストのレイチェル・メンサー、メトロポリタン・オペラ管弦楽団のハープ奏者のマリコ・アンラクらが参加。極上の演奏が物語と舞踏を包み込みます。

 第6に、ダンサーたち。ウィニペグ、コースタル、ボストンのバレエ団から参加し、鍛え抜かれた肉体の強靭さと柔らかさと美しさで、起伏に富んだストーリーを表現します。

 そして、第7は、音響と照明です。バレエが上演される場を、観客席とは完全に異なる時空へと変貌させる要です。ケビン・ラオの音楽は、観客席を取り囲む360度の何処から聞こえてくるかは、バレエの進行に合わせて、緻密にデザインされているのです。

 これら7つのスペクトラムが重なり「きみこの真珠」全2幕が完成します。入念なリハーサルを経て、実際に聴衆の眼前でその真価を問う時が来ます。

世界初演〜オンタリオ州セント・キャサリン市、2024年6月22〜23日

パフォーマンス後の挨拶。Photo by Embassy of Japan in Canada
パフォーマンス後の挨拶。Photo by Embassy of Japan in Canada

 クリスティンとアレクシスが構想した4代にわたるアユカワ家の物語は、 National Creation Fund の支援を得て、「ブラボー・ナイアガラ」が委嘱・制作。新作バレエ作品「きみこの真珠」は、抜群の音響を誇る地元の劇場「ファースト・オンタリオ・パフォーミング・アーツ・センター」において、本年6月22日、午後7時から世界初演が行われました。

戦争博物館に寄贈された鮎川家のトランク(当日のみ会場にて展示)。Photo by Embassy of Japan in Canada
戦争博物館に寄贈された鮎川家のトランク(当日のみ会場にて展示)。Photo by Embassy of Japan in Canada

 特筆すべきは、会場ロビーに展示されていたアレクシスの曽祖父シズオ・アユカワが自ら手作りした木製トランクです。これは、戦時中の日系カナダ人収容の歴史を後世に語り継ぐべくアユカワ家からオタワの「国立戦争博物館」に寄贈されたものです。今般の世界初演のために、特別に展示されました。日系カナダ人が強制退去させられた時、携行出来たのは鞄一つだけだったという非人道的な措置を無言で訴えていました。舞台にも、家族4代にわたる出来事と思い出を次世代に繋ぐ重要なアイテムとして配置されています。この木製トランクに刻印された「13657」という数字が、非人間的措置の非道さを静かに告発しています。

 世界初演は、最初に関係者の挨拶で幕を開けました。「ブラボー・ナイアガラ」を代表して、アレクシスが、家族の思い、日系カナダ人の思い、新作オペラにかける思いを述べました。一つ一つの言葉に本当に重みを感じました。私も、今日の極めて良好な日加関係の土台に日系カナダ人の存在があり、苦難を乗り越えて来た旅路への信心なる敬意を表しました。
 その後、和太鼓グループによる勇壮なオープニング・アクトが祝福しました。

 バレエ「きみこの真珠」は、1941年12月7日の日本軍のパールハーバー攻撃で太平洋戦争が没発する場面から始まりました。物理的には同じ舞台ですが、美術と音楽と舞踏と照明の妙で、全く異なる時と場所となります。変幻自在です。設定は、ブリティッシュ・コロンビアからウィニペグ、そしてトロントへと移ります。敵性外国移民として断罪される場面も、過酷な中に勇気を持って対峙する場面もあります。きみこの祖父母が恋に落ちるラブストーリーは可憐です。言葉を用いない描写の中で、舞踏の芸術性に圧倒されます。

 音楽と舞踏と舞台美術が融合した素晴らしいパフォーマンスは、瞬く間に終わりました。鳴り止まぬスタンディング・オベーションが、聴取の感動を直裁に示していました。

その先へ

 「きみこの真珠」の世界初演は壮大なプロジェクトの始まりです。

 音楽に関して言えば、2025〜26のシーズンで、トロント交響楽団による「組曲『きみこの真珠』」の演奏が予定されています。これは、バレエ作品として作曲された楽曲をオーケストラ用作品として再構成するものです。「きみこの真珠」が新しいアヴェニューを歩み始めます。ストラビンスキーの「火の鳥」もバレエ音楽が管弦楽曲へと展開したものです。「組曲『きみこの真珠』」がケビン・ラオの最高傑作になると確信します。

 そして、日系カナダ人の歴史を描くバレエ「きみこの真珠」は、将来は首都オタワ、北米最大都市ニューヨーク、更には東京においても上演されるべき作品だと思います。来年は、大阪万博の年です。日本とカナダの間でも様々な文化交流が行われます。是非とも、その一角に「きみこの真珠」が含まれることを願ってやみません。

パフォーマンス前の歓談風景、左から2番目 Alexis Spieldenner、3番目 Christine Mori(後ろ姿)、大使、MCを努めた Mary Ito (CBC Radio)、ゲーリー川口JCCC元会長。Photo by Embassy of Japan in Canada
パフォーマンス前の歓談風景、左から2番目 Alexis Spieldenner、3番目 Christine Mori(後ろ姿)、大使、MCを努めた Mary Ito (CBC Radio)、ゲーリー川口JCCC元会長。Photo by Embassy of Japan in Canada

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「イアン・マクドゥーガル」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第24回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 6月のオタワは、1年で最高の時期です。暑過ぎず寒過ぎず、陽射しも優しい。初夏の陽光と新鮮な緑と多彩な草花で、街中がナチュラルな公園のようです。ベンチに座る人も、散歩する人も、ジョガー・ランナーも、自転車愛好家も、それぞれの時間を心ゆくまで楽しんでいるようです。こんな最高の季節ですから、心と身体はリラックスし、快適な音楽が欲しくなります。勿論、皆さまのお好みで聴けば良いのです。

 私事ですが、先日、友人を招いて夕食前の食前酒をテラスで楽しんでいた時に、最近の私のお気に入りの音楽を流しました。まだ陽は高く、そよ風が爽やかで、鳥の囀りが何とも言えず心地良い、そんな平和な牧歌的な時間に、ぴったりでした。正に、音楽の楽園が去来したようでした。

 そこで、今回の「音楽の楽園」は、そのお気に入りの音楽を皆さまと共有したいと思います。カナダ最高のトロンボーン奏者にして、作曲家、教育者のイアン・マクドゥーガルです。

イアン・マクドゥーガルって誰?

 率直に言えば、誰もが彼の名を知っている訳ではないでしょう。しかし、音楽ファン、特に管楽器が好きなカナダ人にとっては、ミスター・カナディアン・トロンボーンとも言うべき音楽家です。その確かな技量で、ジャズからクラシックまで縦横無尽に活躍。教鞭も取っています。1983年には、ジャズ・ビッグ・バンド部門でグラミー賞を受賞。ジュノー賞には何度もノミネートされ、4度の受賞歴を誇ります。サイドマン、共演を含めて膨大な録音を残しています。

 勿論、音楽は肩書きや能書や蘊蓄で聴くものではありません。真実は、その逆で、音楽が素晴らしいから、その音楽家に肩書きが付与され、蘊蓄が語られることになるのです。それにしても、音楽を言葉で表現するのは恐ろしく難しいです。が、心に染みる音楽というものは確かにあり、胸の奥の非常に敏感な襞を慰撫するのです。

 因みに、友人を招いた時に掛けたのは「The Very Thought of You―Trombone with String Orchestra」という2012年に制作された音盤です。イアン・マクドゥーガルの代表作の一つ。『君を想いて』や『スマイル』や『ムーン・リバー』等の1940〜50年代を彩る14曲の美しいバラードを収録しています。ここには、特別に革新的な試みがある訳ではありません。1950年代のジャズの一大変革期に、チャーリー・パーカーやクリフォード・ブラウンらが始めた、ジャズ四重奏団と弦楽団が織りなす「ウィズ・ストリング」の系譜です。無駄な音や無理な音は一切ありません。全てがあるべき所に収まっています。それが自然で心地良いのです。原曲の旋律の妙を100%引き出す熟練のアレンジが心地良いのです。そして、何と言っても、マクドゥーガルが奏でる歌心溢れる優しくふくよかなトロンボーンの音色が格別です。

 それでは、この境地に達するまでのマクドゥーガルの旅路を見てみましょう。

神童を生んだ、父の一言

 イアン・マクドゥーガル(Ian McDougall)は、1938年6月、アルバータ州カルガリーに誕生します。生後間も無く、ブリティッシュ・コロンビア州の州都ヴィクトリアに引っ越し、そこで幼少期を過ごします。

 11歳の時に、イアン少年は、地元の楽団「ヴィクトリア・ボーイズ・バンド」に参加します。当初は、バンドのリズムを支配するドラムが志望でした。一応は希望どおり、打楽器の担当になりました。が、バス・ドラム、フロア・ドラム、スネア、タム、ハイハット、トップ・シンバルといったフルセットのドラム奏者ではありませんでした。そこで、イアン少年は、バンドの花形であるトランペットへの配置換えを希望します。しかし、ここで、イアン少年の父親が生涯を決めることになる助言をします。

 「息子よ、よく聞きなさい。管楽器を吹くのなら、トロンボーンにしなさい。何故なら、“腕の立つトロンボーン奏者”は、生涯、職にあぶれることはないのだから。」

 イアン少年は、父の助言を聞き、トロンボーンを選択。そして、トロンボーンこそがイアン・マクドゥーガルの生涯の楽器となり、人生航路を決定づけることになります。

トロンボーンとは?

 さて、イアン少年の父が助言したトロンボーンですが、歴史を紐解くと、全ての金管楽器の祖先である新石器時代のメガフォン型ラッパにまで遡ります。歴史的に最も古いトランペットの原型は、3000年前のエジプト王朝時代の出土品にあった金属製の軍用ラッパだとされています。その後、ギリシア・ローマで直接的にトランペットの祖先と言える楽器が現れます。そして、北欧からは、カップ型のマウスピースと管がS字型に曲がったトロンボーンの先駆的な楽器も出土しています。やがて、これらのトランペット・トロンボーンの原型が発展し、管を適切にスライドさせることで異なった音階を表現出来る楽器として発展。

 そして、16世紀初頭、ドイツのハンス・ノルシェルが現在の形に完成させました。以来、500年余の間、基本構造は変わっていません。音域が成人男性の声域に近く、音程はスライドでスムーズに調整でき、美しいハーモニーを奏でることができます。それ故に「神の楽器」と呼ばれ、カソリック系の教会音楽に重用されていました。

 トロンボーンが初めて、交響曲に用いられたのは、ベートーヴェンの第5番「運命」の第4楽章です。アルト・テノール・バスの3台のトロンボーンが登場することで、色彩感と力強さが一気に増します。曲全体が「暗から明へ」と進行し、その絶頂を担う楽器です。ベートーヴェン以降、交響楽団の金管パートで重要な役割を担う楽器として発展して来ます。

 そして、20世紀になり、全く新しい音楽、ジャズが誕生すると、トロンボーンは、音楽にとって不可欠な3つの役割を担う楽器として重宝されます。即ち、①ハーモニーとバックグラウンド、②リズムとパーカッション的役割、そして③独奏楽器です。トロンボーンの音色と表現力は、温かく柔らかみのある音色から、極めて鋭角的な音色、時には感情を剥き出しにした咆哮まで、実に多彩です。

 イアン少年の父のことは余り知られていません。マクドゥーガルという姓からみて、スコットランド系の移民とは想像できます。音楽的な素養も、社会の現実も分かっていた知識人だったに違いありません。イアン少年のその後の人生が直裁に証明しています。

ヴィクトリア〜ロンドン

 イアン少年は、トロンボーンを手にすると瞬く間に上達。1950年には、未だ12歳で、AFM(American Federation of Musicians)ヴィクトリア地区のメンバーとなります。要するに音楽家組合に所属する正式な職業音楽家としてのライセンスを得たということです。史上最年少記録でした。

 この後、1950年代を通じて、学校に通いながら、プロとしてヴィクトリア周辺の楽団で演奏活動を続けます。評判が評判を呼び、引く手数多だったといいます。父の助言は的確だったのです。

 そして、1960年、英国の俊英、バンド・リーダー兼作曲家のジョン・ダークワース楽団に参加します。遂に、ヴィクトリアを出て世界を舞台にするのです。22歳のイアン青年は、ロンドンを拠点として、世界各地の公演旅行に重要メンバーとして同行します。ジョン・ダークワースは、ジャズ音楽家との交流のみならず、映画音楽も手がけ、後年ジミ・ヘンドリックスにも影響を与えるような視野の広い異能の音楽家でした。また、時には、テッド・ヒース楽団にも客演しました。2年間にわたる在籍で実に多くを学びます。

バンクーバー

 1962年、帰郷すると、イアン青年は、バンクーバーを拠点として、フリーランスで活動を開始。音楽の世界の最先端の街ロンドンで養った感性と音楽のヴィジョンとトロンボーンの腕が頼りです。一方でバンクーバー交響楽団のメンバーとしてクラシック音楽を演奏。また、CBCラジオやテレビでは、劇伴から各種ショーのための音楽など何でも演奏します。他方で、バンクーバーのジャズの拠点「ケイブ・サパー・クラブ(Cave Supper Club)」の楽団でも演奏。「ケイブ」には、米国から、エラ・フィッツジェラルド、トニー・ベネット、シュープリームス、ナット“キング”コールなどスーパースターが来訪。その伴奏を的確に務めました。トロンボーン奏者として油が乗って来ます。一時期は、米国の大御所ウディー・ハーマン楽団でも演奏しました。“腕の立つトロンボーン奏者”は多忙を極めます。が、それだけで満足できないイアン青年です。もっと音楽の奥義を知りたくなるのです。

 バンクーバーには、カナダ最高峰の総合大学、ブリティッシュ・コロンビア大学があります。イアン青年は、超多忙な中、時間を見つけては音楽学部の授業を取り、楽理、作曲、そしてジャズ音楽を専攻。28歳で学士を、32歳で修士の学位を得ます。自身の少年時代からの音楽三昧の経験、2年間のロンドン時代、そしてバンクーバーの充実した日々に学術的な基礎が加わった訳です。音楽家イアン・マクドゥーガルの実力が横溢。作曲活動も本格化させていきます。

 1970年には、フュージョン・バンド「パシフィック・サルト」を結成。時代の最先端を行くジャズとロックがクロスオーバーする高品質の音楽を世に問います。マイルス・デイヴィスらがニューヨーク発でジャズの革命的な響き世界に発信した直後です。バンクーバーの聴衆の耳にはやや新し過ぎたのかもしれません。が、イアンのトロンボーンとドン・クラークのトランペット、オリバー・ギャノンのギターが、ドラム・ベース・ピアノのリズム隊の上で見事に舞います。今、聴いても刺激的です。イアンは、1973年までリーダーを務めます。

トロント〜再びヴィクトリア

 1973年、35歳のイアン・マクドゥーガルは、カナダ最大の都市トロントに拠点を移します。カナダ最高のトロンボーン奏者として縦横無尽の大活躍です。スタジオ・ミュージシャンとして、数々の録音に参加。但し、マクドゥーガルの名前が前面に出る訳ではありません。ある意味、縁の下の力持ちです。が、上質の音楽を真に担っているのです。特に、16人編成のブラスバンド「ボス・ブラス」で大活躍します。公演旅行で世界中を回りました。バンド名の通り、リズムセクション以外は全て管楽器です。つまり、木管楽器サキソフォンはおらず、トロンボーンこそがトランペットと共にバンドの鍵になったのです。そんな多忙充実し興奮と資源に満ちた音楽漬けの日々が13年間続きます。

 そして、1986年、48歳のイアンは、再び故郷のヴィクトリアに戻ります。ブリティッシュ・コロンビア大学とヴィクトリア大学で、教鞭を取り、トロンボーン奏法とジャズ楽理を教えます。

 そして、生涯の楽器トロンボーンを携えてイアン翁の音楽愛、21世紀になっても深化し続けます。

 2005年には、全編デューク・エリントン作品の「イン・ア・センティメンタル・ムード」を発表。デュークの右腕ビリー・ストレイホーン作曲の『A列車で行こう』を含め、ジャズの古典を吹き切るイアンのトロンボーン。スローバラードからアップテンポまで鮮やかです。

 2007年には、収録した全9曲をオリジナ曲で固めた「ノー・パスポート・リクワイアード」を発表。マクドゥーガルの作曲家としての力量を余すことなく伝えています。

結語

 2008年4月10日。イアン翁に、カナダに対する顕著な業績をあげた個人にのみに与えられる栄誉である「カナダ勲章」が授与されました。70歳の誕生日の2ヵ月前のことです。12歳でプロとなって以来、半世紀を超える音楽家としての功績が認められたのです。

 “腕の立つトロンボーン奏者”の音楽の旅路は、次の世代の音楽家の素晴らしき道程です。

 先週6月14日に86歳になったばかりです。誕生日、おめでとう御座います。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「ヤン・リシエツキ」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第23回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 オタワの5月は、街中にチューリップが咲き誇り、春爛漫です。そして、街には音楽が溢れています。鼻歌を口づさむ大使館職員も公邸スタッフも少なくありません。

 そこで、今回の「音楽の楽園」は、とてもカナダ的な天才ピアニストです。ヤン・リシエツキです。何故、カナダ的と記したかと言えば、全く私事で恐縮なのですが、5年ほど前のことで、私がニューヨークで勤務していた頃の記憶があるのです。

カナダ的な、あまりにカナダ的な

 非常に親しくしていた音楽好きのアメリカ人の友人が、「音楽ファンならば、絶対にこの若い “ポーランド人ピアニスト” に注目しておくべきですよ。発音しにくいと思うけど『リシエスキー』と読みます」といって、2018年にオルフェウス・オーケストラと共演したリシエツキの新作「メンデルスゾーン/ピアノ協奏曲第1番、第2番」をプレゼントしてくれたことがありました。それまで、リシエツキの事は全く知りませんでした。初めて聴いた時から、そのCDは、愛聴盤の仲間入りをしました。そして、私はつい最近まで、リシエツキはポーランド人だと思っていました。最初に友人が「ポーランド人」と紹介してくれたことが大きかったのですが、ショパンを生んだポーランドの血が、リシエツキにも流れているのだと思って彼のCDを聴いていたのです。

 しかし、或る時、リシエツキは、ポーランド移民の両親のもとに、アルバータ州カルガリーで生まれたカナダ人だと知りました。カナダ生まれのカナダ国籍。でも、リシエツキは、両親の故国の歴史・文化・生活・個性を自然に受け継いでいます。音楽好きの私の友人が躊躇うことなく「ポーランド人」と言う程にです。それは、ある意味、間違っていないかもしれません。

 それこそ、カナダの多文化主義です。ポーランドであれ日本であれケニアであれ、自らの家族が受け継いで来た一切合切をありのままに維持し、誇りを持ってカナダ人としてカナダで生きる。北米大陸の北部は、何千年もの間、先住民の楽園でありました。1497年のジョン・カボットのニューファンドランド来訪から現代のカナダに直結する歴史が始まりますが、その過程で育まれてきたカナダの「お国柄」です。様々な葛藤の末にピエール・トルドー首相が提唱した、カナダのアイデンティティーの核心と言えるでしょう。

カルガリーの神童

 ヤン・リシエツキは、1995年3月にカルガリーで誕生。5歳から、カルガリーにある伝統校マウント・ロイヤル大学に付属する音楽院でピアノを学び始めます。

 2004年、9歳にして、カルガリー・シビック・シンフォニーと共演します。演目は、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番ニ短調K466でした。ベートーヴェンが大変に好きだった曲としても知られています。モーツァルト28歳の傑作で、現存する27曲のピアノ協奏曲のうち2曲しかない短調の最初の作品です。因みに、もう一つは24番です。技巧的にも勿論大変ですが、あのデモーニッシュな感覚の表現には、技巧を超えた音楽性が必要です。それを9歳の小童が演奏したのです。恐るべし。但し、これはほんの小手調べでした。

 翌2005年、10歳の時には、カルガリー・フィルハーモニー管弦楽団とメンデルスゾーンのピアノ協奏曲第1番ト短調作品25を共演しました。その夜、カルガリーのジャック・シンガー・コンサート・ホールで、第2楽章アンダンテの哀愁の旋律を奏でる神童を聴いた聴衆は、ピアノの女神の降臨を体験したに違いありません。

 2006年、11歳で、首都オタワの国立芸術センター(NAC)にデビューしました。ピンカス・ズッカーマン指揮のNAC管弦楽団の胸を借りて、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番変ロ長調作品を弾き切りました。演奏終了後の楽屋での模様をリシエツキは良く憶えていているそうです。ズッカーマンも楽団員も誰一人として、リシエツキの年齢を問題にせず、一人前の音楽家として扱ってくれて、対等な立場で、音楽のことや演奏のことについて話したというのです。これが縁となり、リシエツキはNACが若手音楽家のために主催するサマー・ミュージック・インスティテュートにも参加。ピアノ独奏、室内楽、協奏曲について実践的に学びました。

世界へ

 2008年、13歳となったリシエツキ少年の飛翔は加速度が増し、カナダの国境を超えます。ニューヨークのカーネギーホール、パリのサル・コルトー、ドイツ、日本、それから両親の故国ポーランドへと舞台は世界へと広がっていきます。

 デビューCDは、2010年にポーランド国立ショパン協会からリリースした、ショパンのピアノ協奏曲第1番と第2番です。録音は、前年と前々年の「ショパンと彼のヨーロッパ」音楽祭の時に行われました。ショパンがこの2曲のピアノ協奏曲を書いたのは、1830年。ワルシャワ音楽院の学生時代です。初恋の相手コンスタンチア・グワトフスカへの思い、パリへの憧れ、ロシアに蹂躙される故国への思い。それらに引き裂かれる心象風景を音楽で描いています。戦争と革命の時代にあって、言葉に置き換えられない心の動きと情念が溢れています。20歳のショパンが持てる全ての楽想と技量を導入して書いたピアノ協奏曲の最高峰を弾く中学生のリシエツキが鮮やかに刻まれています。

 そして、翌2011年には、クラシック音楽の最高峰ドイツ・グラムフォンと専属契約を結びます。この時、弱冠16歳です。グラムフォンからの第1弾は、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番と21番です。特に、20番は9歳の時に地元カルガリーで初めてオーケストラと共演した思い出の曲です。指揮は、ピアニストとしても高名なクリスチャン・ツァハリアス。この時、61歳です。孫を見守るような心境でしょうか。名門バイエルン放送交響楽団がしっかり支えます。

 また、2011年は、リシエツキにとってカナダを意識する年でもありました。地元カルガリーの高校を卒業して、高等教育に進む時のことです。特に、ドイツ・グラムフォンとの契約が発表されたことで、世界中の名だたる音楽院からフル・スカラーシップのオファーが来たそうです。が、彼が選択したのは、トロントの「グレン・グールド音楽院」でした。カナダを拠点にして、最高の教育と支援を受けられることが理由だったと語っています。公演旅行で多忙な日々で、個人教授と試験はキャンパスに赴き、それ以外の授業は通信教育だったといいます。その上で出来るだけ地元カルガリーで時を過ごしたいのです。

巨匠への道

 ヤン・リシエツキは、「コンクールに出る必要の無かったピアニスト」と言われています。確かに、コンクールの存在意義は、新しい才能の発掘にあります。9歳にしてオーケストラと共演して以来、次々と大きな機会を得て、その度に、期待を裏切らぬどころから、進化し続けるリシエツキ少年には、コンクールは不要だったのです。

 2011年は、16歳で高校を卒業しグレン・グールド音楽院に進学した年です。この年だけで、年間70回の公演を行なっています。既に、超売れっ子でした。

 2013年のボローニャ音楽祭では、18歳になったリシエツキは、急遽、マルタ・アルゲリッチの代役として登場し、巨匠クラウディオ・アバド指揮でベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を見事に演奏しました。あのアルゲリッチの代役です。リシエツキの評価が一気に高まった時です。年齢ではなく、演奏の内容で聴衆を魅了したのです。このエピソードは、かつてチェロ奏者だったトスカニーニが、急遽代役として指揮をして運命の扉が開いたのを思い出させます。真の実力が露わになる瞬間があるのですね。

 最近では、年間100回以上の公演を行なっています。世界中の名だたる指揮者、オーケストラと協奏曲を演り、ヨーヨー・マらとは室内楽を共演しています。レコーディングも積極的に行なっています。グラムフォンからは10枚リリースしています。既に、歴史に残る傑作を残しています。ベートーヴェンのピアノ協奏曲全5曲を、アカデミー室内管弦楽団との共演で、2018年12月2日から6日まで5日連続で、1日1曲、ベルリンのコンチェルトハウスでのライブ録音盤です。聴衆を前に、驚異の集中力で、陰影豊かで濃密にして美しき音楽の楽園を生み出しています。この時、リシエツキは、弱冠23歳です。この先、どこまでいってしまうのでしょうか?

再びカナダについて

 2011年10月にリシエツキは来日し、バッハ、ベートーヴェン、リスト、メンデルスゾーンを演奏しています。その時のインタビューがABCクラシック・ガイドに掲載されているのですが、非常に示唆に富んでいます。幾つか、引用させて頂きます。

 「カナダにはヨーロッパのような歴史はありません。本当の意味でのカナダ人というのは非常に少数で、ほとんど何処からか来たカナダ人ということになります。マルチ・カルチャーな国であり、誰も、あなたが何処から来たかという事など気にもしていないと言う感じが私は好きです。とても人々にあたたかい国でみんな優しいのです。」

 「人々は、ショパンを演奏するにあたって、ポーランド人であることで演奏に違いがあるか?という質問をします。そして、皆さんはYesという答えを期待していると思います。ですが、答えはYesでもあり、Noでもあります。ポーランド人であると言うことが全てではないのです・・・ポーランド人としての血が影響するとは信じていません。私はより良くポーランドの事を知ろうと思いますが、それは血によるものではありません。ショパンは大好きです。でもこれは、私がポーランドの血を引くからではなく、偉大な作曲家だからです。」

 「カナダ人は、カナダ人であることを意識するのを、ちょっと面白い方法でしているかもしれません。唯一皆んながカナダ人である事を誇るのは、7月1日のカナダ・デーです。それ以外の日は、自分たちは国旗を愛し、国を愛しつつも、大声で「俺たちはカナダ人だ、行け行けカナダ!」と叫ぶことはありません。そういう意味では、静かにカナダ人である事を楽しんでいると言えます。」

 16歳のカナダ人天才ピアニストの率直な気持ちが表れています。

結語

 リシエツキは、今年29歳です。物語は、始まったばかりです。それでも既に巨匠の仲間入りをし、公演に録音に超多忙な日々です。

 リシエツキを見て聴いていると、同じポーランドの生んだ巨匠アルトゥール・ルビンシュタインを思い出します。1982年に95歳で大往生した20世紀を代表するピアニストは、膨大な録音と幾多の名演と人間臭いエピソードを残しました。1894年に7歳でモーツァルトを弾きデビューし、最後の録音は1976年4月23日、89歳、ベートーヴェンのピアノソナタ「狩」でした。

 人生百年の21世紀、カナダが生んだ若き巨匠がどんな未来を描いていくのか楽しみです。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「ザ・トラジカリー・ヒップ」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第22回

はじめに

 私事ですが、オタワに着任して、早いもので、1年11ヶ月が過ぎました。この連載も22回目です。カナダは非常に若い国ですが、タイトルの通り、数多くの秀逸な音楽家を生んでいます。圧倒的な才能に溢れる天才・鬼才・異才が目白押しです。中学生で洋楽を聴き始めて以降、自然にカナダ出身のアーティストも聴いて来ていたの、大概の有名アーティストは知っているつもりでした。しかし、それは正に「井の中の蛙大海を知らず」でした。

 オタワに着任して、徐々に同僚・知人・友人が増え、音楽談義に花を咲かせていました。2022年の夏です。

カナダ人A氏「そんなにロックが好きなんだから『ザ・ヒップ』は知ってるでしょ。カナダの誇りだよ」
私「えっ。知らない。誰?」
A「トラジカリー・ヒップのことですよ。」
私「いや。初めて聞く名前だよ。でも、印象に残る名前だね。」
A「バンド名が示唆するように、オルタナ系のサウンドだよ。トルドー首相も大好きだと公言してる。」
私「へー。」

 という訳で、私は、トラジカリー・ヒップをオタワに来て初めて知った次第です。ほぼ予備知識無しに、聴き始めました。聴けば聴くほど、ザ・ヒップのサウンドに魅せられました。ロックの原点みたいなサウンドです。米国のREMに似てるとも感じましたが、同時に、とてもカナダ的なバンドだと思いました。コアなファンのみならず、多くのカナダ人がトラジカリー・ヒップのことを親愛の情を込めて、「ザ・ヒップ」と呼んでいます。私が聴き始めた時は、既に活動を停止して6年が経っていました。劇的な最後の瞬間も後になって知りました。それでも、心からの敬意を込めてザ・ヒップと呼ばせてもらいます。

 という次第で、今回は、ザ・ヒップについてです。

オルタナティブ〜ロックの原点回帰

 ザ・ヒップを聴き、彼らのライブ映像を観ていると、音楽の原風景を感じます。同時に、音楽が辿って来た長い歴史を垣間見る思いがします。

 と言うのは、音楽は、太古の昔からとても自由なもので、皆が声をあげ、石や骨や木を叩き、喜怒哀楽を表し、時に、祈り、祝福し、悼んで来たからです。ザ・ヒップのコンサートがそれに重なるのです。

 そして、時代が進むにつれ、音楽は洗練され、やがて、偉大な先人達が音楽の奥義を様々に探究し、美しく響く法則を発見し、伝承されます。教会は音楽を利用し、一層の発展を遂げます。和声論が確立し、偉大な作曲家群が西洋古典音楽を究極の芸術表現へと昇華させ、世界を席巻します。

 20世紀になると、そんな古典音楽とアフリカのリズムが融合して、ジャズが生まれ、やがてロックンロールが誕生します。ロックンロールは、若者が必然的に抱く理由なき抵抗感と不満と葛藤を完璧に吸収し、一気に現代の音楽の主流になります。近代科学技術と市場経済がロックンロールに推進力を与え、強大な産業へと変貌します。結果、音楽は、芸術性と商業主義の境界線で彷徨始めます。「売るために妥協し、その結果売れた」のと「心の底から表現したいものを表現した結果、売れた」の差は大きいのです。真実は、アーティストの心の中にしかないかもしれません。しかし、長い目で見れば、聴衆にも分かるのです。

 そこで、ザ・ヒップです。彼らのサウンドには、虚飾を排し、自分達にとって正直であろうとする強靭な意思がある、と感じます。耳障り良くするために、砂糖をコーティングしたり、人口着色料を使ったりすることを拒否しているのです。洗練され、進化し、贅肉が付いた商業化されたロックに背を向けた、原点回帰です。そこから、別の進化の道を歩み始めたのです。ザ・ヒップがオルタナティブ・ロックと称される所以です。一方、ザ・ヒップは、商業的に大成功しています。33年に及ぶ活動期間に、1枚のEP(デビュー盤)、13枚のスタジオ・アルバム、ライブ盤1枚、シングル盤50枚余をリリースし、9枚がカナダのアルバム・チャートの首位になっています。カナダで最も売れたバンドです。それでも、商業主義に堕すことなく、カナダという国の核心を衝いて来たのです。そんなザ・ヒップをカナダのオーディエンスは愛して止まなかったのだと思います。

キングストンの出合い

 ザ・ヒップは、キングストンで誕生しました。始まりは、1984年です。この時、ボーカルのゴード・ダウニーは20歳で、クィーンズ大学で人文学専攻でした。ゴードは、ドラムのジョヨニー・フェイと一緒に様々なプレイヤーと不定期に活動していました。そこで、地元の別のバンド「ザ・ロデンツ」の凄腕ギタリストのロブ・ベイカーとベース奏者ゴード・シンクレアがゴード・ダウニーとジョニーに合流します。ロブは、ゴード・ダウニーのカリスマ性のある強靭な歌声は『最強のフロントマン』になると直感したと言います。ここに4人組のパーマネントなバンドが成立。引き続きロデンツと名乗り、クィーンズ大学の学生街のバーで活動し始めます。

 1986年、この4人組ロデンツは、かなりイケたバンドではありましたが、1986年、ゴードは、幼なじみのギタリスト、ポール・ラングロアに声をかけます。サウンドに厚みが欲しかったのです。ポールは、当時、ファスト・レストラン・チェーンの「レッド・ロブスター」で働いていましたが、バンドに参加するために辞めました。ここで、ボーカル、ドラム、ベース、にギターx2の5人組が誕生します。そして、バンド名は、元モンキーズのマイク・メネエスが製作した短編コメディーの連作映画「エレファント・パーツ」の中の一つの短編のタイトルから拝借しました。敢えて和訳すれば、「悲劇的なまでに飛んでいる」でしょうか。ヒップは、ラブ&ピースのヒッピーに通じます。語感は、常識破りの飛んでる前衛的なイメージで、周りから見れば痛く可愛そうな程です。そんな名前を名乗ったところに、我が道を行く彼らの矜持があるように感じます。

 そして、トラジカリー・ヒップは、30年余にわたり、一切のメンバーチェンジ無しで、この5人は活動を共にします。

デビューEP「トラジカリー・ヒップ」

 5人は、まず、キングストン界隈のクラブから、徐々に活動の場をオンタリオ州全体に広げていきます。オンタリオ州は面積にして日本の2.8倍の広大な州です。南部の都市を中心に小さなクラブやバーで機会さえあれば、何処にでも出かけて演奏したといいます。

 1987年暮れには、7曲入りのデビューEP「トラジカリー・ヒップ」を地元独立系レーベルからキングストン近郊のみでリリースします。そして、1988年の春先に5週間かけて、カナダ全土でコンサート・ツアーと言うか、ドサ周りを敢行します。片田舎の小さな会場で、奇妙な名の無名の新人バンドを見た観客の反応は悪くなかったそうです。デビューEPは、徐々にカナダ全土でリリースされていきます。シングルカットされた「スモール・タウン・ブリングダウン」を筆頭に佳曲ぞろいです。今、聴いてもインパクトのある音盤で、ジャケット写真も、蒼い情熱が潜む唯ならぬ雰囲気です。ザ・ヒップの魅力がほぼ全開しています。しかし、FMラジオではある程度オンエアされたものの、当時は全く売れませんでした。

 似たような経歴の新人バンドは星の数ほどあります。が、ザ・ヒップの運命の扉は、この後に開くのです。

ブルース・ディッキンソンの発見

 1988年11月の或る日の朝の事です。米大手のMCAレコードの新任副社長がマンハッタンの自宅で朝食を食べている時に、新人アーティストのオムニバス盤CDをBGMとして流していました。すると、或る曲が妙に耳に残ります。調べると、トラジカリー・ヒップの「スモール・タウン・ブリングダウン」でした。即座に連絡先を調べて、ザ・ヒップのマネージャーと連絡を取ります。兎に角、彼らのパフォーマンスを観たいのだと。直近の公演は、11月11日(金)にマッセイ・ホールでのトロント音楽賞への出演でした。因みに、この夜のチケットを見れば、ザ・ヒップの名も載っています。超多忙な日程をぬって、ディッキンソン副社長は、1泊2日の予定でトロントに飛びます。この夜、ザ・ヒップは2曲だけ演奏しています。ゴードが1曲目の歌い出しでマイクを落としてしまうハプニングがありました。メンバーは動揺し、演奏が破綻しかねない状況だったといいますが、カリスマ的なゴードの機転が効いて、難局を乗り切りました。

 翌12日(土)、ディッキンソン副社長は、ザ・ヒップとの契約も視野に入れて、ランチにザ・ヒップを招待します。実は、ランチの後は、ニューヨークに帰る予定でした。しかし、その日の夜、ザ・ヒップがトロントの名門クラブ「ホースシュー・タヴァン」に出演すると知ると、予定を変更し、ザ・ヒップのパフォーマンスを観に行きます。そこで、即座に、MCAレコードと長期契約を結びます。

MCA第1弾「アップ・トゥ・ヒア」〜第2弾「ロード・アップル」〜飛躍

 1989年春、ディッキンソン副社長の強い意向で、ザ・ヒップは、米国テネシー州ナッシュビルの超名門「アーデント・スタジオ」にて第2弾の録音に取りかかります。MCA社の意気込みも感じます。何故なら、アーデント・スタジオは、レッド・ツェッペリン、ボブ・ディラン、B.B.キング、ジェームス・テイラー、オールマン・ブラザース・バンド等々の錚々たるアーティストが録音した場所。経費も相当なものだからです。無名の新人バンドに眠る才能の原石に賭けたのです。ザ・ヒップも、ライブで演奏して観客の反応の良い曲を中心に各楽曲に磨きをかけます。1989年9月、結果が出ます。

 捨て曲なしの全11曲を収録した「アップ・トゥ・ヒア」は、音楽的にも商業的にも大成功です。最初の1年だけで10万枚を売り上げ、1989年のカナダ年間アルバム・チャート14位。90年1月にゴールド・ディスク、3月にはプラチナ・ディスク認定を受け、年間チャート5位です。ジュノー賞の最優秀新人賞も得ます。

 翌91年2月、第3弾「ロード・アップル」をリリースすると、4月には初めて、カナダのアルバム・チャートで首位に立ちます。この音盤は、あのダニエル・ラノアのスタジオで録音されました。ザ・ヒップの唯一無二のサウンドが完全に確立しました。2台のギターが絡み鋭角的なリズムを刻むバンド演奏に乗って、ゴードの声が彼自身が書く歌詞を力強く歌う時、人生の機微が胸に迫ります。

 ザ・ヒップは米国では大成功を収めることはありませんでした。極上のバンド・サウンドにゴードの強力な声と歌詞であるのにです。ある意味、それだからこそ、ザ・ヒップはカナダを拠点としカナダを歌い続けることが出来たのですし、ザ・ヒップの核心がカナダ人の胸に共鳴したのでしょう。

 いずれにせよ、ここから、カナダの国民的バンドの歴史が始まりました。

脳腫瘍

 光陰矢の如し。ザ・ヒップは、時代を駆け抜け、いつしか現代カナダのアイデンティティーの重要な一部をなすに至ります。決して多作ではありません。一つのアルバムを完成するのに2年余がかかります。振り返って聴けば、どのアルバムも時代を活写している部分と時代に関わらない普遍的な部分が混在していると感じさせます。そして、バンドの一体感が損なわれることはありませんでした。しかし、何事にも予期せぬ事態は生じます。天災は忘れた頃にやって来る、と言います。

 2015年12月、ゴードが末期の脳腫瘍と診断されるのです。

 ザ・ヒップは、この診断に先立ち既に新音盤の録音を完了しており、「ゴギー・スターダスト」として16年3月にリリース予定で、その旨公表されていました。このタイトルは、デビッド・ボウイの傑作「ジギー・スターダスト」に由来します。しかし、16年1月、ボウイが逝去します。更に、2月にはゴードが発作で倒れます。これを受けて、ザ・ヒップは、アルバム・タイトルもリリースの時期も、そしてバンドの今後のあり方についても真剣に検討します。

 2016年5月、ザ・ヒップは、ゴードが脳腫瘍と診断された事を公表します。合わせて、夏にカナダ全土で公演ツアーを行うと表明します。

 6月17日、ザ・ヒップの最後のアルバム「マン・マシーン・ポエム」がリリースされます。

2016年7月22日〜8月20日

 ザ・ヒップの最後のツアーは、1カ月で10都市を周る現代カナダ史の重要な1ページを刻みます。

7月22日、ヴィクトリア、@セイブ・オン・フーズ・メモリアル・センター
  24日、バンクーバー、@ロジャーズ・アリーナ
  28日、エドモントン、@リクサル・プレイス

8月1日、カルガリー、@スコシアバンク・サドルドーム
  5日、ウィニペグ、@MTSセンター
  8日、ロンドン、@バドワイザー・ガーデンズ
  10日、トロント、@エアカナダ・センター
  12日、同上
  16日、ハミルトン、@ファースト・オンタリオ・センター
  18日、オタワ、@カナディアン・タイヤ・センター
  20日、キングストン、@ロジャース・K-ロック・センター

 脳腫瘍で発作も起こしているゴードの体調に気遣いながら、ザ・ヒップは万全の準備でこのツアーに取り組みます。医療チームも同行です。

 30年余の集大成だから、セットリストが凄いのです。デビュー盤から最新盤までの中から90曲です。10都市11公演で、毎回、90曲の中から20曲程を選び、全く違うセットリストで演奏したのです。30年余の一貫した活動の賜物です。他の大物アーティストの場合は、セットリストを決めて基本的にはそれを繰り返す場合がほとんどです。臨時で雇ったミュージシャンがバックアップします。しかし、ザ・ヒップは全て5人だけです。一回の公演に投入するエネルギーが半端ありません。

 8月20日の千秋楽は、ザ・ヒップ創世記のキングストン。素晴らしい音楽的冒険の後の帰郷です。1曲目はサード・アルバム「フルリー・コンプリートリー」収録の『フィフティ・ミッション・キャップ』で始まりました。アンコールは3回。合計30曲を演奏し切りました。そして、ザ・ヒップの30年余の活動の最後となった曲は『アヘッド・バイ・ア・センチュリー』です。第5弾音盤「トラブル・アット・ザ・ヘンハウス」に収録。シングルカットされてカナダ・チャートで首位になった曲です。フォーク・ロックのナチュラルな色調の佳曲で、日本でも放映されたCBCのテレビ・ドラマ「赤毛のアン2」の主題歌でもありました。

 トルドー首相も会場に駆けつけ、メンバーを激励。CBCはテレビとラジオで全国に生放送し、ネットでも配信。1170万人が視聴したそうです。カナダ人の3人に1人が観た計算です。ザ・ヒップは完結しました。

結語

 ゴード・ダウニーは、闘病の末、2017年10月17日、他界。ザ・ヒップは物理的にも消滅します。他のメンバーは、それぞれの道を歩み始めました。

 しかし、ザ・ヒップの最後の日々は克明に記録されていました。そして、ドキュメンタリー映画「ロング・タイム・ランニング」が同年のトロント映画祭でプレミア上映されました。Amazon primeで視聴可能です。言葉を超えたカナダの音楽と青春と友情の物語です。

 ザ・トラジカリー・ヒップよ永遠なれ。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

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