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山野内勘二

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「アンドレ・マシュー〜“カナダのモーツァルト”再発見」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第9回

 音楽ファンの皆様、カナダ好きの皆様、こんにちは。

 3月も中旬で、長い冬も最終段階です。長崎出身の私も何とか初めてのオタワの冬を無事に越しつつあります。一方、オタワ名物、リドー運河の世界一長い天然スケートリンクがオープンしませんでした。歴史上初めての事と伺いました。寒さが足りず運河の氷が十分に厚くならなかった訳です。正に地球温暖化を実感します。

 さて皆様、未だ、気候変動という概念もない頃の事ですが、“カナダのモーツァルト”と称された素晴らしい作曲家がいた事をご存知ですか? 

 アンドレ・マシュー(Andre Matheus)です。

神童

 アンドレ・マシューは、1929年2月18日、モントリオールの音楽教師の家に生まれました。両親とも音楽教師で、父ロドルフは作曲家、母ウィレミンはチェリストでした。しかし、両親ともに音楽の素晴らしさを知ると同時に、音楽家としての人生の過酷さを嫌というほど知っていました。それ故に、アンドレにはピアノを禁じていました。息子には社会的に認知され安定した人生を望んだのです。が、両親の音楽DNAを引き継いだアンドレは驚くべき早熟で、4歳の頃には作曲を始める程でした。その才能は、音楽が出来るというレベルを遥かに越えた天才でした。父ルドルフは覚悟決め方針を転換。モーツァルトに対し父レオポルドが全身全霊で英才教育を施したように、アンドレを鍛え磨きます。成果は直ぐに現れます。

 1935年3月25日、モントリオールのリッツ・カールトン・ホテルでリサイタルを開きます。アンドレの作品を父子がピアノ2台で連弾したのです。6歳でのデビューです。翌36年には、カナダ放送協会オーケストラと共演してアンドレ作曲の「ピアノと管弦楽のためのコンチェルティーノ」を初演します。この演奏が関係者の目と耳にとまり、ケベック州政府の奨学金を得てパリ留学が実現します。この時、アンドレは7歳になったばかりの少年です。両親と姉の家族4人での事実上のパリ移住です。

パリ

 マシュー少年は、パリに到着したその年の12月には、早速リサイタルを開きます。神童の域を越え、巨大な潜在力が明らかになります。が、まだ単純で音楽の真髄と奥義には至ってはいません。アンドレの本当の勉強が始まります。

 1930年代のパリは、世界の楽都です。ストラヴィンスキー、ラフマニノフ、プロコフィエフ、ラヴェルらが暮らす街です。アンドレ少年は、スポンジが水を吸うよう、少年の心と眼でパリの全てを吸収します。パリ音楽院のド・ラ・プレスレ教授に師事し和声と作曲を学びます。1939年、隣のドイツではヒットラーの不気味な足音が徐々に大きくなる中、音楽漬けの少年は10歳になります。3月26日、パリ8区ラ・ボエン通りの「サル・ガヴォー」でリサイタルを開きます。フランスのピアノ製作会社ガヴォーに因んだコンサート・ホールで、ラヴェル、ドビュッシー、ストラヴィンスキーらが室内楽曲を初演した由緒ある場所です。カナダはモントリオール出身の10歳のピアニスト作曲家が登場する訳です。もはや芸達者な少年の発表会ではありません。極めてシリアスなものです。ラフマニノフら音楽関係者も多数聴きに来ます。耳の肥えたパリの聴衆は容赦ない事でも知られています。

“カナダのモーツァルト”現る

 其処で、アンドレはピアノ協奏曲第1番等の自らの作品を弾きます。不安げな両親を尻目に自信に満ちた10歳のアンドレは神がかっていたと云います。会場は総立ち、圧倒的な賞賛を得ます。作家エミール・ヴュイエルモーズは「カナダのモーツァルト現る」と論じ、パリのメディアが大きく報じるのです。フランス各地への公演旅行も企画され、「カナダのモーツァルト来る」は格好の宣伝文句となり各地で大きな話題を集めます。

 そこで、アンドレ親子は3年振りにモントリオールに帰郷します。いわば凱旋帰国です。ところが・・。

 1939年9月1日、ヒットラーはポーランドを侵攻し、第2次世界大戦が勃発。欧州は戦場と化します。アンドレ親子はパリに戻る事を諦めます。カナダは英連邦の一員として直ちに連合国に加わり参戦しますが、戦場は大西洋の対岸。モントリオールは平和そのものでした。でも、パリとは比べようもありません。早熟の神童には刺激が足りなかったでしょう。ザルツブルグがモーツァルトにとって退屈な街だったように。

ニューヨーク

 アンドレ親子は、北米各地を公演旅行で訪れます。1940年2月3日にはニューヨークはカーネギー・ホールで公演。これを機に、アンドレ親子はニューヨークで暮らし始めます。ジュリアード音楽院やコロンビア大学で教鞭を取るモリス教授に師事し作曲を勉強。この頃、ニューヨーク・フィルハーモニック創設百周年を記念して作曲コンテストが行われます。因みに1842年創設でウィーン・フィルと同じ年です。11歳のアンドレが書き上げたばかりのピアノ協奏曲第2番を父ロドルフが勝手に応募します。そして、見事に一等賞に輝きます。カーネギー・ホールでも公演。実り多き日々です。一方、早熟の天才アンドレも今やティーンエイジャーです。強烈な自我が芽生え始めます。14歳のアンドレはピアノ協奏曲第3番を書きます。今では「ケベック協奏曲」と呼ばれ、美しい旋律と流麗なピアノを際立たせる管弦楽は聴けば聴くほど惹き込まれていきます。特に第2楽章アンダンテの微量の哀愁は異国にあったアンドレ青年の心象風景のようです。1943年、アンドレ親子は故郷モントリオールに帰ります。地元が生んだ天才の帰還です。公演は盛況です。が、満たされぬ思いも募ります。

再びパリ

 欧州全土を巻き込んだ第2次世界大戦も終結した翌46年、マシューは17歳の青年に成長。再びパリへ留学します。音楽面では、ピアノ協奏曲第4番ホ短調を完成させます。アンドレ・マシューの代表作です。第1楽章冒頭からデモーニッシュな響きが迫ります。人間の奥に潜む言葉にならない複雑な情念がピアノの超絶技巧に乗り移っています。一転、第2楽章の抒情的な面には心が洗われます。動と静、陰と陽が交錯する振幅の大きいダイナミックな音楽です。18歳にして、この力量。巨大な才能です。しかし、この2度目のパリ留学は、実生活ではホームシックに陥り孤独と酒の苛烈な日々でもありました。アルコール依存症に陥りこの後の人生の宿痾となってしまいます。

モントリオール

 1947年、アンドレは留学を切り上げモントリオールに戻ります。その時は全く別人のようだったと伝わっています。18歳にして疲労困憊し世捨て人の如き雰囲気だったと。既に、作曲家として傑作を残していたアンドレにとって、生きる意味を問い自分を探す旅路に疲れてしまったのかもしれません。1950年代になると、徐々に、活動の場が遠のきます。光が強ければ影も濃くなるもの。天才の人生は過酷です。才能の代償でしょうか?

 1968年6月2日、アンドレ・マシューは39歳3カ月余の生涯を閉じます。かつて“カナダのモーツァルト”と絶賛されたアンドレ・マシューです。76年のモントリオール・オリンピックの開会式ではマシューの曲が使用されました。が、徐々に忘れられていきます。

再発見

 が、21世紀に入り、アンドレ・マシューは再発見されます。カナダが誇るピアニスト、アラン・ルフェーブルがマシューの音楽を精力的に取りあげ、再びマシューの音楽と人生に光が当たり始めたのです。最大の理由は、時代を越えて輝くマシューの楽曲自体の素晴らしさです。が、ルフェーブルの公演活動やCDリリースがなければ、どうだったか・・。例えば、人類史に輝く傑作、バッハ「マタイ受難曲」も百余年の時を経て忘れられていました。メンデルスゾーンが再発見して現在に繋がっています。

 ルフェーブルはピアノ連弾曲からピアノ協奏曲まで次々にCDを発表。上述の「ピアノ協奏曲第4番」は半世紀余ほぼ演奏される事はありませんでした。ルフェーブルが2008年にCDリリースし世界に聴かせたのです。そして、2010年にはアンドレ・マシューの光と影を描く映画「L’enfant  Prodigy」が公開されますが、ルフェーブルはその実現にも極めて大きな役割を果たしています。音楽も担当しています。

 “カナダのモーツァルト”の音楽と人生を味わってみては如何ですか?

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「メイナード・ファーガソン〜トランペット王国の仙人」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第8回

 音楽ファンの皆様、カナダ・ファンの皆様、こんにちは。

 冬になって屋内で過ごす時間も長くなり、音楽鑑賞の時間も増えている事でしょう。そこで、ちょっと時代を振り返ってみます。科学技術が発展する中で音楽の聴き方も随分と変わって来ました。1877年にエジソンが蓄音機を発明し、レコード産業が勃興します。初期のレコードは、78回転のSP盤、12インチで収録時間は最大5分。音質も100HZ〜2kHZで高音域の伸びないものでした。ベートーヴェンの交響曲の一つの楽章を聴くのに数枚のSP盤が必要な時代でした。が、音質面ではHiFi技術で30HZ〜12kHZに向上し、収録時間も片面で20分へと飛躍的に拡大したLP盤が誕生します。1947年の事です。

1.ハリウッドの寵児

 ちょうどその頃、1人のカナダ人トランペット奏者が、モントリオールからハリウッドに進出します。メイナード・ファーガソンです。当時も今も、才能に恵まれ野心あるカナダ出身の音楽家の卵達の多くが米国を目指します。でも、成功の保証はありません。実際に成功するのはほんの一握りです。競争は厳しく、楽器の腕前だけでなく、己を信じる力と「運」が勝負の別れ目です。

 そんな中、20歳メイナード・ファーガソンは、己のトランペットだけを頼りにエンタテインメントの聖地ハリウッドに乗り込みます。様々な楽団に客演しつつ、1950年1月には、弱冠21歳で実験的に40人編成のビッグバンドを短期間ながら組織する等、野心的で音楽的アイデアに溢れていました。そして、全盛を誇ったスタン・ケントン楽団に入団。因みに、この楽団は、アート・ペッパーやスタン・ゲッツらを輩出した事でも知られています。

 1950年代前半は、SP盤からLP盤が主流へと変わる時代です。ジャズの世界も拡大します。映画音楽でもジャズ的要素が本格的に導入されていきます。その頃、メイナードは映画会社パラマウント所属のトランペッターとなり「十戒」はじめ40作品以上のサウンドトラック盤の録音に参加します。評判が評判を呼び、他の映画会社でも録音します。

 そして、1956年、28歳で自らの楽団を率います。ニューポート・ジャズ祭にも出演。「メッセージ・フロム・ニュー・ポート」はジャズ史に残る名盤です。ハリウッドを拠点に活躍するメイナード・ファーガソンには、様々なオファーが来ます。最高水準の演奏技術と旺盛な好奇心の故です。

 例えば、1957年には、ジャズの老舗バードランドのドリーム・バンドへ参加します。1959年には、レナード・バーンスタイン率いるニューヨーク・フィルハーモニック・オーケストラに客演。現代アメリカの作曲家ウィリアム・ルソーの交響曲第2番ハ長調「タイタン」のトランペット独奏を担当しました。メイナードは活躍の幅を広げ、音楽的にも充実していきます。

2.モントリオールの神童

 メイナード・ファーガソンは、1928年5月、ケベック州ヴェルダンに生まれます。音楽好きの両親の下、4歳の頃からピアノとヴァイオリンのレッスンを受け、圧倒的な楽才を示します。8歳の時、教会で聴いたコルネット(トランペットの兄弟)の音色に魅せられ、親にねだってトランペットを買ってもらいます。そして、瞬く間に上達。音楽の確固たる基礎と情熱の成せる業でしょう。生涯の楽器との出会いがメイナード少年の運命を開きます。13歳でCBC(カナダ放送協会)オーケストラと共演し独奏パートを演奏。神童現ると大きな話題になります。そして、奨学金を得て名門モントリオール高校(現在のマギル大学附属高校)に入学します。ところがメイナード少年は、1年で高校をドロップ・アウトします。音楽で生きていくと決意したのです。人間誰しも、自分は何をすべきか、如何に生きるかについて思い悩み、自分探しします。自分の道を見い出すのに時間がかかる人も少なくありません。が、メイナード・ファーガソンの場合、15歳で人生の決断をした訳です。

 学業から解き放たれ、思う存分に音楽に打ち込むメイナード少年は、地元モントリオールのダンス・バンドに雇われます。歓楽街に集う客を前に演奏する事で多くを学んだ事でしょう。客を乗せ、刺激し、アンニュイな気分にさせる技も。やがて、自らが実質的リーダーとして楽団を率い、名をあげていきます。1940年代のモントリオールは歴史と文化に彩られたカナダ最大の都市でしたから、米国からスタン・ケントンはじめ有名楽団が公演に来ます。メイナードの楽団は、よく彼らの前座を務めていました。メイナードの演奏は、ジャズの本場、米国から来た強者どもをも虜にし、米国へ来るように誘われる訳です。そして、20歳にしてメイナードはハリウッドに旅立ち成功の階段を駆け上がる訳です。

3.ニューヨークからインド〜波瀾の時代、そして再び米国へ

 ハリウッドを拠点にメイナードは、20代から30代前半まで鮮やかに疾走します。が、変化の著しいジャズを取り巻く金銭主義に嫌気がさします。少年時代から音楽の女神に愛され、順風満帆の道を歩んで来たメイナードに初めて「波瀾の時代」が訪れたのです。

 1963年11月、35歳のメイナードは、レコード会社やジャズ・クラブとの契約を終了させると、家族を伴いマンハッタンの150kmほど北のハドソン渓谷の街ミルブルックに移住します。そこでは、ハーバード大学で心理学の教鞭を取るティモシー・リリー教授らが行っていたLSD等のサイケデリック薬物を使った実験に参加します。3年余に及ぶミルブルック実験が終わると、メイナードはインドのマドラス郊外へ移住します。1967年の事です。サティヤ・サイ・ババに心酔し、宗教哲学者ジッドゥ・クリシュナムルティの教えに立脚した学校で音楽を教え、ブラス・バンドを指導します。そんなインド生活が2年程続きます。

 そして、1969年。サイケデリック薬物とインド的スピリチュアル生活の6年を経て、“不惑の歳”を迎えます。心機一転。世界の音楽の中心ロンドンに移住します。新たにバンドを組み、英国のテレビに出演する等、音楽活動を本格的に再開します。1971年には世界最大のコロムビア・レコードと契約。

 73年にはニューヨークに戻ります。75年には再びハリウッド近郊のオーハイに移住します。フュージョン界の大物ボブ・ジェームスらとロック色の濃いポップな音盤を制作。時代の息吹を感じます。映画「ロッキー」のテーマを収録した「コンキスタドール」等、矢継ぎ早にヒット音盤を発表します。唯一無二のメイナードのトランペットは雄弁です。日本でもテレビのクイズ番組等でメイナードの音楽が流れました。

結語

 20歳で故郷を出た後の拠点は米国でしたが、メイナードはカナダ人です。1976年のモントリオール・オリンピックの閉会式では、主催国を代表する音楽家として演奏しています。メイナード自身にとっても、カナダの人々にとっても誇らしい瞬間であったと思います。

 トランペットはジャズという音楽の歴史を体現する特別な楽器です。創世記のルイ・アームストロング、ビバップ革命のディジー・ガレスピー、帝王マイルス・デイヴィス、更にクリフォード・ブラウン、リー・モーガン、フレディー・ハバードと強者どもの名が連なります。そんなトランペッター列伝にメイナード・ファーガソンの名は鮮やかに刻まれています。2006年8月に78歳の生涯を閉じるまで現役。実は9月には日本公演が予定されていました。

 ジャズ史上最高のハイノート・ヒッターにして、正確な音程、艶があって豊かな音色、超高速フレーズという3拍子揃ったメイナード・ファーガソン。カナダが生んだ偉大なるトランペッターでした。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「ジョニ・ミッチェル/未来の古典」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第7回

謹賀新年

 令和五年の始まりです。皆様にとって素晴らしい1年に成りますよう祈念しております。

 今年も「音楽の楽園〜もう一つのカナダ」をよろしくお願いします。掲載の媒体が今月から「日加トゥデイ」に代わりますが、今まで同様、カナダが生んだ偉大なる音楽を紹介して参ります。引き続きの皆様に読んで頂ければ、望外の悦びであります。

 という訳で、今年最初の連載は、ジョニ・ミッチェルです。

COP15とジョニ・ミッチェル

 ジョニ・ミッチェルと言えば、映画「いちご白書」の主題歌となった「サークル・ゲーム」、「青春の光と影(Both Sides Now)」、「ウッド・ストック」等のヒット曲で知られるカナダが生んだシンガー・ソングライターの大御所です。しかも、最初期のフォーク的スタイルから音楽のウィングをロック、ジャズ・フュージョン、更にはクラシックへと大きく拡げ、独特の存在感を示しています。ファルセットを主体とする歌声は、永遠に若々しく、同時に年齢不詳でもあります。1943年11月7日生まれで今年は傘寿になります。そんなジョニ・ミッチェルが、2022年7月、ニューポート・フォーク祭にサプライズ出演しました。フル・セットでのライブは20年ぶりで、話題を集めました。

 2022年末にかけて、そして、彼女の名前が意外な形で最近のニュースで流れました。12月15日、モントリオールの国際会議場で開催された生物多様性条約第15回締約国会議、COP15でのことです。COP15ハイ・レベル・セグメント議長のスティーヴン・ギルボー加環境大臣の声明の冒頭です。

 「今から50年ほど前、カナダの優れたアーティスト、ジョニ・ミッチェルが『私たちは楽園を舗装して駐車場をつくった』と歌い、そこに環境保護のメッセージを託していた。私たちはジョニ・ミッチェルの音楽を聴き、一緒に歌ったものだ。しかし、私たちは彼女が込めたメッセージを本当に理解していたのだろうか。私たちは自然を支配するのではなく、自然と調和して生きていかなければならない。そのために残された時間はわずかだ。今こそ、行動を起こす時だ」

 ギルボー大臣と言えば、若い頃から環境保護活動に真剣に取り組み、時には過激な行動も躊躇しない人物として知られる存在でした。極めて重要な国際会議の鍵になる声明でジョニ・ミッチェルに言及し、国際世論に訴えている姿は、ギルボー大臣の面目躍如ですね。

 ここに言及されたジョニ・ミッチェルの歌は、1970年4月リリースの3枚目音盤「レディズ・オブ・キャニオン」収録の『ビッグ・イエロー・タクシー』です。ジョニ自身が刻む生ギターのコード・カッティングが生む躍動感溢れるリズムと彼女が多重録音したコーラスがサウンドの核になって、ジョニ節のメロディーに乗った歌詞は強靭です。ボブ・ディランから五輪真弓までカバーしたのも頷けます。この時26歳。ジャケット・デザインも自ら手掛ける画家でもあります。恋多く、知性に溢れた才媛の音楽的冒険が本格化してゆくのです。

 それにしても、ジョニ・ミッチェルの時代の先を読む眼力はさすがです。

サウンド・クリエイターの誕生

 ジョニ・ミッチェルの最初期の音楽スタイルは、生ギターの弾き語りでした。故に、彼女の音楽はフォーク或いはフォーク・ロックと分類されていました。が、1970年代になると音楽的変貌を遂げ、時代を率いるサウンド・クリエイターに急速に成長します。

 1970年8月、英国はワイト島で開催された野外フェスでの出来事です。60万人の聴衆が詰めかけた、英国版ウッド・ストックとも称されています。ジミ・ヘンドリックスの最後の公演としても有名ですが、マイルス・デイビス、ドアーズ、エマーソン・レイク&パーマーら最先端のアーティストが出演。シンセサイザーをはじめとする電気楽器もが前衛の響きを奏でたのです。そんな中で、ジョニ・ミッチェルは生ギター、生ピアノ、ダルシマの弾き語りです。彼女の自信と誇りの現れでもあり、異彩を放ちました。一方、聴衆はより刺激の強い音楽を求めます。一部の聴衆は、彼女の演奏中に激しくヤジり暴徒化ました。これに対し、「私に敬意を払え」と堂々と諭す26歳のジョニの姿が記録されています。

 翌1971年6月、ワイト島と同じフォーマットで、ジョニ1人だけで、生ギター、ピアノ、ダルシマの弾き語りで録音した音盤「ブルー」を発表します。彼女の最傑作の一つで商業的にも成功しました。1人の音楽家の表現の極地を極めたもので、シンプルは美しいを証明しています。が、ジョニの音楽的冒険は、ここから本格化し、彼女の歌を際立たせると同時に聴取をも刺激する最良の伴奏を探究します。

 そして、君主は豹変します。

 1972年、新作「バラに送る」は一転、ジャズ・フュージョンの奏者、更にはストリングスをも登用し、サウンドの幅を大きく拡げました。彼女の頭の中に流れるフォーク、カントリー、ブルース、ロックンロール、ジャズ、更にはクラシックが混然一体となった音楽が遂に表に出てきたのです。この音盤は、ジェームス・テイラーとの恋の終焉の時期にあたり、彼女の心模様が歌詞に滲んでいます。

 この音盤を境に、時代の最先端のサウンドを大胆に取り入れ、ジャズ・フュージョン系の若手を積極的登用し始めます。エレクトリック・ベースの革命児、ジャコ・パストリアス、現代ジャズの雄パット・メセニーやマイケル・ブレッカーを率いた実況録音盤「シャドウズ・アンド・ライト」は、時代の音を体現。ジョニの歌の本質は不変ですが、伴奏が変わる事で一層モダンに響きます。ジョニ・ミッチェルは新しい段階に到達し、ロックとジャズとクラシックが融合した前人未到の境地へと進んでいきます。

 2007年には、巨匠ハービー・ハンコックがジョニの音楽への敬意を込めカバー音盤「リバー」を発表。彼女の音楽の革新性と普遍性が改めて浮き上がります。

故郷はサスカチュアン

 ジョニ・ミッチェルは、1943年11月7日、アルバータ州フォートマクラウドに誕生します。父はノルウェー系移民の血筋。空軍中尉で、フォートマクラウド空軍基地で新人パイロットの指導にあたっていた軍人でした。第2次世界大戦終戦後に除隊し、サスカチュアン州で商売を始めます。メイドストーン等、州内を転々とし、ジョニが11歳の頃、州最大の都市サスカトゥーンに落ち着きます。そして、サウカトゥーンこそ、ジョニ・ミッチェルが音楽的冒険に踏み出した街です。

 11歳の頃のポリオ罹患で、左手・指に後遺症が残ったのです。音楽に目覚めギターを始めると、コードを押さえる左手・指に不自由があるが故に、独自のチューニングを編み出し、開放弦を多様する唯一無二の生ギター・サウンドを生み出します。『必要は成功の母』であり『塞翁が馬』、或いは『災い転じて福と成す』でしょうか。

 第2に、ジョニが音楽のほぼ全てを学んだと言う一枚の音盤とこの街で出会います。ランバート、ヘンドリックス&ロスの「The Hottest New Group in Jazz」です。この音盤を聴き倒して、歌唱法、ハーモニー、和声と旋律の関係、伴奏のあり方等々を会得したのです。自分にとっての音楽の原典だったと、ジョニ自身が語っています。

 第3に、ジョニが初めてプロとして演奏し報酬を得た街です。1962年10月31日、19歳の誕生日の1週間前、サスカトゥーンのクラブです。これをきっかけに、サスカチュアン州、更にはアルバータ州等の西部諸州の小さなナイト・クラブ、ライブ・ハウスで歌い、やがて東部トロント、そして米国はロサンゼルスへと進出していく原点です。

 米国、そして世界で大成功のジョニ・ミッチェル。

 彼女が何処の出身かは、特別に意識する必要もありません。が、ジョニ・ミッチェルには紛れもなくカナダ人としてのアイデンティティがあります。故郷はサスカトゥーンだと公言しています。1976年リリースの「逃避行」に収録された『シャロンへの歌』は、彼女の自伝的要素が滲んでいます。

 ジョニ・ミッチェルの進化し変貌し続けた音楽を聴き倒してみれば、彼女を育んだカナダが体感出来ると思います。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「モントリオール交響楽団」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第6回

 音楽ファンの皆様、カナダ・ファンの皆様、或いは、そのどちらでもない皆様、こんにちは。“歳月人を待たず”とは良く言ったもので、2022年も12月半ばです。あと2週間余で2023年です。

 この連載では、カナダが生んだ素晴らしい音楽家を紹介しております。天才の音楽と人生は、音楽を超えて人生の機微を語って余りあるものがありますから、紙面の許す限り色々と書いております。一方、音楽の要諦は、異なる音が最高の形で出会って生む美しき響きです。つまり、音楽においては、1+1=2とは限らず、場合によっては音楽家同士の大きな相乗効果で1+1が無限に大きくなる奇跡的な事もある訳です。

 その意味で、オーケストラこそ音楽に関するほぼ全てが詰まっている玉手箱と言ってもいいでしょう。自分が一番だと信じ切っている人が世界中から集う一流オーケストラは、百人余の演奏家を擁する動物園です。猛獣使いの指揮者とがっぷり四つに組み、素晴らしい音楽を生み出します。オーケストラは、多種多様な個性がぶつかる人間臭い最高の場にして、地元のエッセンスが溶込んだ、地元の誇りです。

 ということで、2022年最後の連載は、モントリオール交響楽団です。カナダが誇る、世界屈指の名門オーケストラです。

1.オーケストラの誕生

 現在のモントリオール交響楽団の母体となった「交響楽団(Les Concerts Symphoniques)」が設立されたのは1934年です。設立の中心は、指揮者・ピアニストにして作曲家のウィルフリード・ペルティエです。最初の芸術監督に就任し、手塩にかけてこの楽団を育てます。非常に興味深い音楽家で、いずれペルティエについても書いてみたいと思います。

 現在の名称になったのは1954年です。非常に若いオーケストラです。クラシック音楽は、ヨーロッパで発展して来て、古典派のバッハ・ヘンデル、更には、その源流になったルネッサンス期の音楽に遡れば、500年余の豊穣な歴史があります。例えば、モーツアルトが生まれたのは1756年ですから、国家としての米国やカナダよりも古い訳です。故に、世界の楽壇では伝統と格式に重きが置かれています。が、この新設の若き交響楽団は、イーゴリー・マルケビッチやズービン・メータといった巨匠を音楽監督に迎え、確実に地歩を得ていきます。

2.「フランスのオーケストラよりもフランス的なオーケストラ」

 1977年、シャルル・デュトワが音楽監督に就任します。これを期に、モントリオール交響楽団は評価を急速に高めて行きます。最大の要因は、デュトワの徹底的な指導です。意に沿わない楽団員には辞めてもらったそうです。結局、相当部分の楽団員を入れ替えて、楽団を鍛え、音色を磨きました。モントリオール交響楽団をデュトワ色に染め上げた訳です。ある意味、独裁者であり鬼です。

 因みに、デュトワは1936年スイスはローザンヌ出身。ジュネーブ音楽院等に学び、23歳で指揮者デビューを飾り、ウィーン国立歌劇場はじめ世界のオーケストラを指揮して来ました。また、恋多き男で4回結婚しています(ヘミングウェイと同数)。2度目の妻がマルタ・アルゲリッチです。そんな鬼才が指揮者として脂の乗った44歳でモントリオールにやって来た訳です。

 指揮者は直接楽器を演奏しません。各楽団員に言葉と身振り手振りで指示を出し、各楽器のテンポとタイミング、音色、強弱、ピッチ、ヴィヴラート等々のアーティキュレーションを制御します。オーケストラ全体の響きを聴ける唯一の存在が指揮者ですが、実際に楽器を奏でるのは各々の演奏者です。それぞれに美学があり自負があります。指揮者と楽団員の間には、1人vs百人の緊張と葛藤がありますが、それを乗り越える時に素晴らしい音楽が生まれるのです。

 デュトワは、1977年から2002年までの25年間、モントリオール交響楽団の音楽監督を務めました。この時代、モントリオール交響楽団は、「フランスのオーケストラよりもフランス的なオーケストラ」と評されるようになりました。考えてみれば、これは非常に逆説的です。ケベック州を含めカナダのアイデンティティについて「フランスでも英国でも米国でもないのがカナダだ」と冗談交じりに語られているのですから。スイス人指揮者が、設立から20余年の若きオーケストラを率いて、フランスよりフランス的な音楽をつくり上げる。正にカナダ的です。評判が高まれば、それだけ世界中からより優秀な演奏家が集まります。それを受け入れ支え続けるモントリオールの地元コミュニティーの抱擁力もカナダ的です。世界中の幾多の若いオーケストラに希望と勇気を与えています。決して容易ではないが、良き監督を得て地元が支えれば、世界で肩をならべられるのだ、と。

 レコード芸術誌が選定した「クラシック不滅の名盤1000」には、デュトワ指揮・モントリオール交響楽団の録音が多数取り上げられています。1枚厳選すれば、1987年10月に地元の聖ユスターシュ教会で録音された「デュトワ・フレンチ・コンサート」がお薦めです。サン=サーンス、シャブリエ、ビゼー、サティ等々7人のフランス人作曲家を見事に料理しています。

3.ベートーヴェン「ザ・ジェネラル(司令官)」世界初録音

 デュトワが確立したモントリオール交響楽団の名声は、ケント・ナガノによって更に高められます。ケント・ナガノは、1951年11月カリフォルニア出身の日系3世です。ハレ管弦楽団、リヨン国立オペラ、ベルリン・ドイツ交響楽団の首席指揮者を務めた後、2006年、55歳の時に、モントリオール交響楽団の音楽監督に就任します。早速、最初のシーズンとなる2007年に「ベートーヴェン〜フランス革命の理想」と題する2枚組CDをリリースします。

 此処には、この後15年に及ぶことになるナガノとモントリオール交響楽団の蜜月の最初の瞬間が真空パックされています。斬新なアイデアを実践する意思と能力と情熱を持つ指揮者を得た時には、音楽の女神が降臨してオーケストラが持てる力を100%いやそれ以上発揮させるのだと確信させる名録音です。そのハイライトは、世界初録音となった『ザ・ジェネラル(司令官)』です。

 この作品は、ナガノの発案・委嘱によって制作された管弦楽、ソプラノ独唱、男女混声合唱、男声ナレーションを配したベートーヴェンの音楽です。ベースは、ゲーテの悲劇「エグモント」を基にした劇音楽「エグモント」作品84です。16世紀、スペイン圧政下でオランダの独立を求めて戦ったエグモント伯が主人公で1810年5月に初演されました。この名曲を現代最高峰との評判の台本作家ポール・グリフィスが脚色し再構成し、設定を1993年のルワンダ内戦と国連平和維持活動に置き換えたものです。此処に、ベートーヴェンの他の作品も加えて全16曲に再編されたベートーヴェン・ワールドです。

4.その先へ

 ケント・ナガノは、2020年まで、15年に渡りモントリオール交響楽団の音楽監督を務めました。この間、ベートーヴェン交響曲全集を録音。ナガノ時代に楽団は「フランスもの」のみならず、クラシックの王道を極めた訳です。2021年、ナガノは名誉指揮者に就任。後任は、ベネズエラ出身のラファエル・パヤーレです。1980年2月生まれで、新世代の最有望株との評価があります。

 今後のモントリオール交響楽団からは目が離せません。

(了)

山野内勘二
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「ギル・エバンス」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第5回

 私事で恐縮ですが、オタワに着任して半年が経ちましたが、日々、カナダは若く新しい国だと実感します。開放性と多様性に満ちていると同時に奥深いところがあります。そして、凄い才能を生んでいる国です。例えば、ディープ・ラーニングによってAIを飛躍的に進化させたジェフ・ヒントンやヨシュア・ヴェンジオ。彼らは、未知の才能を開花させるカナダ独特の力量を世界に示しています。そこで、音楽の楽園、今月はギル・エバンスです。ジャズの世界で全く新しい響きを生んだ鬼才です。ギル自身のオーケストラでも凄い作品を残していますが、マイルス・デイビスと協働した「クールの誕生」や「スケッチ・オブ・スペイン」等は、ジャズに革命を起こしました。それに日本の音楽家とも競演しています。ギルは、高校も大学もカリフォルニアで、活躍の場はニューヨークでしたが、自分はカナダ人だと強く認識していました。正に、三つ子の魂百まで、ということでしょうか。

 「マイルス・デイビス自叙伝」には、1948年当時のギルとの関係について非常に興味深い描写があります。

・・あの頃のオレ(マイルス)は、ギル・エバンスのアパートにしょっちゅう行って、彼がする音楽の話しを聞いていた。オレ達は、初めから気が合った。彼の音楽的アイデアは、すぐにピンときたし、彼にしてもそうだった。オレ達の間では、人種の違いは問題じゃなかった。いつも音楽が全てだった。ギルは、オレが初めて知り合った、肌の色を気にしない白人だった。ギルがカナダ人だったせいもあるかもしれない。ギルは、他の奴には絶対にできない見方ができる・・

「マイルス・デイビス自叙伝」(マイルス・デイビス著、クインシー・トゥループ著、中山康樹訳、宝島社文庫。2000年)より抜粋

1.1912年5月13日、トロント

 この日、ギル・エバンスは、トロントで生まれました。

 母親はマーガレット・ジュリア・マッコナキーというスコットランド系アイルランド人です。彼女は英国で育ちましたが、19世紀末の時代、生活は苦しく、不遇のアイルランド人女性によくあった事ですが、大英帝国内を転々としたそうです。最初は、南アフリカ、オーストラリア、そしてカナダに流れて来ました。冒険心溢れる常識破りの非常に魅力的な女性だったと言います。色々な事情があったのだと思いますが、彼女は生涯で5回結婚しました。4度目で結婚したのがグリーン医師で、この結婚で生まれたのがギルです。よって、出世時の名前は、ギルモア・イアン・アーネスト・グリーンでした。が、グリーン医師は、ギル出生直前に彼が勤める病院が火事になり不慮の死を遂げました。そこで、マーガレットはジョン・A・エバンスというカナダ人坑夫と再婚します。以後、ギルモア少年はエバンス姓を名乗るようになります。

 エバンス家は、決して暮らし向きが楽ではなく、坑夫の仕事がある所に移り住んで行きます。オンタリオからサスカチュワン、そしてブリティッシュ・コロンビア。更に、米国に移住し、ワシントン、アイダホ、モンタナ、オレゴン、最終的にはカリフォルニアに落ち着きます。

 このような経緯なので、ギル・エバンスについての明確な記録は、カリフォルニアはバークレー高校時代以降です。高校1年では全教科で非常に優秀な生徒でした。が、親友の父親がジャズ愛好家だった事がギルの運命の扉を開けます。地下室にドラムとピアノ、当時大変貴重だったレコード・プレイヤーまで設置していました。ギルは、この親友の父からピアノを教わり、1927年にはデューク・エリントン公演にも連れていかれます。15歳で、ジャズに目覚めたギルは、学校の成績は下がりましたが、瞬く間に才能が開花し、音楽の道を歩き始めます。

2.1948年9月4日、ニューヨーク

 この日、劇場街のブロードウェー1580番地にあったクラブ「ロイヤル・ルースト」に、結成されたばかりのマイルス・デイビス九重奏団が出演します。当時人気絶頂のカウント・ベーシー楽団の前座でした。店の前に「マイルス・デイビス・ノネット:編曲ジェリー・マリガン、ギル・エバンス、ジョン・ルイス」と看板を出しました。22歳のマイルス・デイビスが33歳のギル・エバンスと意気投合し、従来のジャズ・オーケストラやビッグバンドとは一線を画した全く新しいハーモニーと音色を生み世に問うたのです。後に、クール・ジャズと呼ばれるようになる、緻密にして静謐、時に熱い音楽です。

 背景には、マンハッタンの西55丁目14番地のギルのアパートがありました。其処は、さながらエバンス音楽塾。チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー、ジェリー・マリガン、リー・コニッツ等々の最先端のアーティストが出入りするジャズの梁山泊でした。有名無名、人種、年齢も全く関係ありません。そして、ギルのアパートでの熱い議論が実践され、ジャズを変革して行くのです。

 この日の演奏を聴いた大手キャピタル・レコードのプロデューサー、ピート・ルゴロが翌1949年、スタジオで正式に録音します。但し、当時マイルスもギルも未だ知る人ぞ知る存在で、音楽も余りに先進的過ぎたせいか、実際にこの音楽が発売されたのは、マイルスとギルが有名になった後の1957年のことです。今では「クールの誕生:コンプリート盤」で最初期のライブ音源も合わせて聴けます。

3.1974年6月11日、ニューヨーク

 この日、ギル・エバンスは、自身のオーケストラを率いて、RCAスタジオに於いて、音盤「プレイズ・ミュージック・オブ・ジミ・ヘンドリックス」の録音に臨みます。収録曲は全てジミヘン作曲。ギルは、プロデュース、編曲と指揮、ピアノ、キーボードと八面六臂の大活躍です。既に還暦手前ながら若々しい事この上ありません。

 この音盤は、ギルの非常にオープン・マインドで音楽にも人にも接して偏見とは無縁な性格を物語っています。その包摂性は極めてカナダ的です。と、言うのも、この音盤が録音された1974年は、ジミヘンが27歳で夭折して未だ4年。ウッドストックの英雄でセンセーショナルに捉えられていましたが、ジミヘンの音楽の革新性については未だ正当に評価されていた訳ではありません。そんな時代に、ギルはジミヘンの音楽を真正面から捉えて、ロック的熱量を前衛ジャズ的語法に大胆に翻訳した音盤を創ったのです。ギルには時代の先が見えていたんですね。

 しかも、ギターは日本が生んだ伝説のギタリスト川崎燎27歳です。若きデビッド・サンボーンらジャズの聖地ニューヨークの猛者達に混じって、ブンブン弾き倒しています。今でも、ジャズの本場でアジア人が活躍するのは容易でありませんが、川崎燎の才能を発見し鍛え上げたギルの名伯楽ぶりは特筆に値します。

 ギル・エバンスは1988年3月、75歳で永眠します。カナダが生んだ極めてカナダ的な音楽家です。音盤に耳を傾けてみては如何ですか?

(了)

山野内勘二
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「レナード・コーエン」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第4回

   皆様、こんにちは。

 10月も中旬にオタワでは晩秋の気配が濃厚です。長崎で育った僕にとっては、ほとんど冬ですが、燃えるような紅葉を見ていると、やはり秋なのだと納得します。読書の秋、食欲の秋、馬肥ゆる秋、で「芸術の秋」という言葉に思いが至ります。芸術と言うとちょっとペダンチックに響きますが、要するに、人間には己を表現したいという本能があるんだと思います。崇高で美しいものから邪悪で醜いものまで矛盾を内包する人間が、自らを虚心坦懐に眺めて、内側から溢れてくる思いが文学や絵画や音楽といった形になっているのだと感じます。

 そこで、今月は、カナダが生んだ真の芸術家ということで、レナード・コーエンを取り上げたいと思います。溢れる才能で文学と音楽の境界線を歩んだ偉人です。

1.きっかけはロバータ・フラック

 まず個人的なきっかけですが、僕が最初にレナード・コーエンを知ったのは、ロバータ・フラックの大ヒット『やさしく歌って』のLPを聴いた時です。田舎の高校生1年生でした。A面1曲目がお目当ての『やさしく歌って』です。ロバータの素晴らしい歌唱力に酔いしれアルバムを聴き進めてB面の最後に来た時、言葉でうまく言い表せない感動というか衝撃を受けたのを憶えています。

 それは『スザンヌ』という曲で9分45秒の長尺で、歌詞はよく理解できませんでしたが、ロバータの素晴らしい声で語るように歌われるシンプルな旋律に心が震えました。B面の最後だけ何度も繰り返して聴きました。こんな素晴らしい歌をいったい誰がつくったのだろうと思い、チェックしたらレナード・コーエンが書いた曲でした。そして、レナード自身の歌を聴いた時の印象は、ボブ・ディランみたいだな、というものでした。派手さはなく地味なんだけれど歌詞と旋律が一体となって迫るのです。

2.レナード・コーエンとは何者だ?

 その後、今に至るまで、折に触れレナード・コーエンを聴いて来ました。そして、敢えて一言で描写すれば、レナード・コーエンは己の表現を求めて82歳で逝くまで走り続けた生涯現役の本物の表現者であった、と思います。

 文学では小説「ビューティフル・ルーザーズ」が一押しです。今でも入手可能なカナダ現代文学の傑作の一つとされています。1966年に出版された時、辛口論評のボストン・グローブ紙が“ジェームス・ジョイスは未だ死せず。モントリオールにおいてレナード・コーエンという名で生きているのだ”と論評しています。

 音楽面では、英国の月刊音楽誌Qが選ぶ「歴史上最も偉大な100人のシンガー」で54位にランクされています。米国の「ロックンロールの殿堂」にも列せられています。代表曲の一つがコーエン50歳の時に発表した「哀しみのダンス」収録の『ハレルヤ』です。オタワに着任して5ヶ月が経ちますが『ハレルヤ』を知らないカナダ人に会ったことがありません。僕がこの曲を下手なりに口ずさむと誰もが喜びの表情を見せます。カナダの誇りなんだと思います。先般のエリザベス女王崩御に際してオタワで営まれた葬儀の式典でも歌われていました。

 全くのトリビアですが、中島みゆきの名曲「ヘッドライト・テールライト」のサビの部分にはこの曲のエッセンスが静かに継承されているように感じます。

3.芸術家の目覚め

 そんなレナード・コーエンの人生は、それ自体が神話のような凄い物語に満ちています。

 1934年9月21日、ケベック州モントリオール郊外のウエスト・マウントの正統派ユダヤの紳士服専門店の家に生まれます。

 まず、コーエンは詩人として世に出ます。モントリオールの名門マギル大学に在学中、22歳で詩集「神話を生きる」を出版。米国の国民的詩人ウォルト・ホイットマンや前衛作家ヘンリー・ミラーの影響から、卒業後はニューヨークに出てコロンビア大学院に入ります。が、得るものは無いとして退学します。かつて、マイルス・デイビスがジュリアード音楽院に入ったものの学ぶものは無いとしてドロップアウトした故事を彷彿させます。

 レナードの場合は、故郷モントリオールに戻る訳です。職を転々としつつ詩と小説を書き溜め27歳で2作目の詩集「スパイス・ブック・オブ・アース」を出版します。その後、カナダ文化協会賞の賞金を得ると、ギリシアはエーゲ海南東部に浮かぶ樹木も生えず自動車もない人口2千人程の小島ハイドラに数年間隠遁します。次々と詩集を発表。上述「ビューティフル・ルーザーズ」もこの頃の作品です。因みに、村上春樹「遠い太鼓」にギリシアの島での生活について書いている章があって、レナードの事をつい想像してしまいます。

4.音楽への道

 1966年、コーエンはハイドラ島からニューヨークに移住します。

 理由は、音楽です。

 文学では表現し切れない心の奥底の情念を表す手段としての音楽の力と可能性を直感したのでしょう。但し、レナードには、少年の頃、モントリオールの街角やカフェでカントリー・フォークを弾き語った程度の経験しかありません。それでも、音楽だとの天啓を感じたのはハイドラ島の隠遁生活の為せる業なのでしょう。或いは、真の芸術家の心の声だったのかもしれません。

 そして、隠遁から真逆の摩天楼では、アンディ・ウォーホール主催の会合に出没する中でヴェルヴェット・アンダーグラウンド(バナナのジャケットの音盤をご存知の方もいらっしゃるでしょう)のモデル兼歌手のニコとの知遇を得ます。目的を定めると、その実現のための最良の戦略と戦術を採用した感があります。ニコから歌について大きな示唆を得たといいます。それは、歌唱力の本質は、リズム感や音程の正確さというよりは、揺れる感情を自分に正直に伝える力量なのだ、という事です。聴けば、分かりますが、レナードは、歌もギターも決して上手い訳ではありません。ヘタウマです。味があり、個性的です。他の誰でもなくレナードだけに可能な方法です。それが聴く者の胸の奥の非常にデリケートな箇所で共鳴するのです。

 音楽の世界では無名のレナードの異能の才は、ニューヨーク移住から程なくして、伝説のプロデューサー、ジョン・ハモンドの知るところとなります。ベニー・グッドマン、ビリー・ホリデイ、ボブ・ディラン等々を世に出した男です。才能の原石に将来の輝きを見出したのです。

5.飛翔

 1967年12月、33歳にしてデビュー音盤「レナード・コーエンの唄」がリリースされます。ジョン・ハモンドの肝煎りです。1960年代後半は、ロック・ミュージックが凄い勢いで発展する時代です。ジミ・ヘンドリックスらのサイケデリック・サウンドが一世を風靡している状況で、生ギター主体の簡素なサウンドです。地味と言ったらこれ以上地味なサウンドはないかもしれません。が、此処には、時代の流行り廃れとは無縁の普遍性があります。語るように歌う『スザンヌ』には、詩人・歌手・作曲家・演奏家としてのコーエンの巨大な才能が集約しています。ロバータ・フラックは、この音盤に魅了された多くの人の一人という訳です。

 レナードの音楽的才能は更に開花していきます。1977年には、ビートルズやローリングストーンズも手掛けた音の魔術士フィル・スペクターのプロデュースで音盤「ある女たらしの死」を発表します。タイトルからして短編集を想起させます。音楽と文学が共存する稀有な42分34秒です。

 そして、レナード・コーエンの音楽の求心力を端的に示すのがR.E.M.ら18組が参加したカバー音盤「アイム・ユア・ファン」です。名曲は如何なるアレンジでも名曲である事を証明すると同時に、オリジナルの凄さを改めて感じさせます。音楽好きな方は是非、聴いてみて下さい。

   己の心の声に忠実に我が道を行ったレナード・コーエンは、カナダの誇りです。

(了)

山野内勘二
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「グレン・グールド」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第3回

 皆様、こんにちは。

 9月の声を聞いて秋の気配が漂って来ました。自然の恵みを実感する美しい季節です。そして、カナダについて改めて実感するのは、非常に若い国だということです。1867年が英連邦の自治権を持つドミニオンとしてカナダが発足するのが1867年7月1日、今年で建国から155年。正式に外交権を持つ主権国家となったウェストミンススター憲章は1931年です。兎に角、若いです。若さは必然的にエネルギーを放出します。大らかな熱量に満ちているカナダは音楽においても凄い天才を次々に世に送り出しています。

 そこで、現代の音楽界に与えたインパクトの大きさで、1人のカナダ人音楽家を厳選すれば、グレン・グールドに尽きると思います。

 兎に角、膨大な録音を残しています。数年前にグールド全録音ボックスがリリースされましたが、生前彼が発表を認めたものだけでCD81枚組です。23歳でレコード・デビューして50歳で没するまでの27年間でこの分量です。平均すれば、毎年CD3枚分のレコードを27年間続けて発表した訳です。恐るべき生産性、と言うか創造力です。勿論、全てが傑作中の傑作と言えば、贔屓の引き倒しになってしまいます。が、駄作はありません。どの1枚をとっても素晴らしいストーリーに満ちています。正に、天才の証です。興味深いことに、その録音は満遍なく幅広いものではなく、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンに集中しています。ショパンはピアノ・ソナタ第3番だけです。

 そして特筆すべきは、グールドの演奏です。人類の歴史を画する偉大な作曲家が残した音楽について、思う存分に独自の解釈で演奏しています。その結果、グールドに先立つ数多の偉大なピアニストの演奏とは全く異次元の作品に仕上がっています。勿論、残された楽譜をグールドなりに「忠実に」弾いている訳ですが、テンポを極端に早くしたり遅くしたりと奔放に設定し、自由に装飾音を加え、リピート記号は時に無視します。完全に自分の音楽として演奏しています。或るインタビューで、グールドは「10代の頃は、作曲家になりたかった」と吐露しています。他人が作った音楽を再現する事には我慢出来ず、自分自身の音楽として作曲するが如く演奏していたのかもしれません。

 そんなグールドの作品群から1枚だけ選べば、バッハ「ゴルドベルク変奏曲」です。バッハを通してグールドのほぼ全てが凝縮しています。録音は1956年6月10日から16日、世界最大のレコード会社コロンビアが誇るニューヨーク30丁目スタジオで行われました。

 此処に至る過程を簡単に紹介します。グレン・グールドは、1932年9月25日、トロントに生まれます。両親とも音楽に造詣が深く、特に母親は、ノルウェーを代表する作曲家グリーグの親類でした。3歳の時から母にピアノを習い始めると瞬く間に上達します。神童神話には事欠きませんが、7歳でトロント王立音楽院(The Royal Conservatory)に合格します。1886年創立のカナダ最高峰で、ジョージ6世(エリザベス女王の父)が英連邦最高の音楽院の1つと称賛しています。1945年にはトロント交響楽団と共演して、コンサート・ピアニストとしてデビュー。史上最年少の13歳で卒業。まずカナダ国内での公演やラジオ出演の活動を本格化します。そして1955年1月22日、ニューヨーク公演を行います。演奏を聴いた伝説のプロデューサー、オッペンハイマーは圧倒され、翌日、終身独占契約を結びます。グールド22歳です。デビュー盤としてグールドが「ゴルドベルク変奏曲」を提案するとコロンビア側は反対します。当時、ピアノでこの曲を録音した例はほとんど無く、しかもバッハの中では人気のない地味な曲と見られていたからです。が、グールドは全く譲らず、コロンビア側が折れて録音、1956年1月に発表されます。

 グールドの「ゴルドベルク変奏曲」はルイ・アームストロングを抜いて新譜チャート首位を獲得する程、商業的にも大成功。のみならず、バッハの演奏に革命を起こしました。透明感のある音色で一音一音に命が宿り音楽の骨格が鮮明です。無駄な音は1つとして無く、バッハの美しき世界を描いています。同時にジャズのように躍動的です。実は、ジャズ界の巨匠キース・ジャレットもチェンバロでこの曲を録音していますが、グールドの方がより現代的です。古色蒼然とした練習曲のようなバッハ解釈を葬り去ったのです。今や「ゴルドベルク変奏曲」は最も人気のあるバッハ作品の1つです。

 グールドを記憶に残る唯一無二のピアニストにしているもう一つの理由は、奇行とも言える様々なエピソードです。例えば、録音の際に鼻歌を歌いながら演奏しているので、耳をすまさなくても名曲の向こう側からやや調子外れの声が聴こえてくる。ピアノ演奏の時には父親手製の極端に低い椅子に座るので、鍵盤の前に顔がある。夏でも分厚いコートとマフラーを着ている。食事は多量のビタミン剤で済ませる等々です。天才ならではの微笑ましい個性とも言えます。

 もう一つだけ大切な事があります。グールドは、31歳で公演活動を辞め、スタジオでの録音に特化していきます。音楽芸術に対するグールドの思想が集約しています。観客を前にやり直しの出来ない状況でどこまで真実の演奏が可能かという命題に対し、スタジオで思う存分弾いて、最高の作品を創る事を選択したのです。この12年後、ビートルズも公演活動を辞めて、スタジオに篭り「サージャント・ペパーズ」や「アビーロード」といった名盤を生んでいくのと本質は同じです。

 最後に、文化勲章も受賞した音楽評価の泰斗、吉田秀和に「世界のピアニスト」(ちくま書房)という評論集があります。29人のピアニストを縦横無尽に論じている名著ですが、グールドが筆頭に配置され最大のページ数が費やされています。興味があれば、是非。

 改めて、カナダが生んだ20世紀最高峰のピアニスト、グレン・グールドに耳を傾けてみては如何ですか?

(了)

山野内勘二
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

ジャズが紡ぐ日本とカナダの友情〜秋吉敏子の場合

 先日、カナダ産業省のサイモン・ケネディ次官と意見交換をしました。緊迫するウクライナ情勢の下でハイテク産業協力、エネルギー安全保障、更にはクリティカル・ミネラル(希少鉱物)安全保障等についての日加間の緊密な協力の重要性で完全に一致しました。とても実り多い会談でした。

 実は、本題に入る前にお互いの趣味である音楽、特にジャズについて話したんです。その際にマイルス・デイビスやジョン・コルトレーン等ジャズの歴史を切り拓いた巨人達について話しが弾んだんです。ケネディ次官は日本のジャズ音楽家にも詳しく、特にトシコ・アキヨシが大好きだと言いました。トシコ・アキヨシとは秋吉敏子さんです(以下敬称略)。日本を代表するジャズ・ピアニストにして作曲家・編曲家、バンド・リーダーです。若くして米国に移り、ニューヨークを拠点に活躍。グラミー賞ノミネーション14回、米国のジャズ・ジャーナリズムの最高峰ダウンビート誌で女性初の作曲賞と編曲賞を受賞、「ジャズの殿堂」入りも果たしています。紫綬褒章、旭日小綬章も授けられジャズ史に残る音楽家です。カナダ政府高官とのジャズ談義・秋吉敏子談義のおかげでその直後の本題が実にスムーズに運びました。ジャズが日加間の友好親善の一層の発展に貢献するのだと改めて実感しました。

 しかし、今回の連載で皆様にお伝えしたいのは、秋吉敏子という巨大な才能が如何にして発見されたかという事なのです。それこそ、1人のカナダ人と1人の日本人の真の友情の物語です。少々長くなるかもしれませんが、お付き合い下さいませ。

***

 秋吉敏子は、1929年12月12日に満州で生まれ、小学1年生の時モーツアルトの「トルコ行進曲」を聴いて天啓を受けてピアノを習い始め瞬く間に上達します。が、45年8月15日の終戦で両親の故郷大分に引き揚げます。終戦直後の厳しい窮乏生活でしたが、秋吉敏子は米軍キャンプで米兵相手のジャズ楽団でピアノを弾き始めます。クラシックで鍛えた基礎と抜群の音楽センスで頭角を顕すと大分から福岡、そして東京へと進出します。日本人のジャズ音楽家、ジャズ愛好家の間では一目置かれる存在でしたが、レコードを出している訳はありません。はっきり言って一般的には無名の若く貧しいジャズ・ピアニストでした。但し、御本人の心象風景は日々ジャズの奥義に迫る充実した日々であったと著書「ジャズと生きる」(岩波新書)で述べています。

 1953年11月、そんな秋吉敏子に運命の出会いが訪れます。

 米国から名うてのジャズ音楽家集団JATPが初めての日本公演ツアーで来日中でした。JATPとはJazz  At  The  Philharmonicの頭文字で、ヴァーヴ・レコードの創始者にしてジャズ興行師のノーマン・グランツが率いる面々です。オスカー・ピーターソン、エラ・フィッツジェラルド等々のコンサートは大変な話題になりました。特に、「鍵盤の帝王」の異名を持つ天才オスカー・ピーターソン率いる彼のトリオは大人気です。実は、オスカー・ピーターソンはカナダを代表する音楽家です。首都オタワの中心に位置するナショナル・アート・センター前の銅像が象徴的です。英領ジャマイカ出身の鉄道員を父としてモントリオールに生を受けました。

オンタリオ州オタワにあるオスカー・ピーターソンの銅像。Photo from website of Culture, history and sport of Canada
オンタリオ州オタワにあるオスカー・ピーターソンの銅像。Photo from website of Culture, history and sport of Canada

  来日中のオスカー・ピーターソンは、東京に優れたピアニストがいるとの話しを聞きます。と、いうのも、1953年11月と言えば、マッカーサー元帥率いるGHQの占領が終わって1年半後ですから東京には駐留米軍関係者が多数いて、彼らの間でトシコ・アキヨシは凄いとの評判が立っていたのです。そういう経緯で、秋吉敏子が昼に出ている「テネシー・コーヒー・ショップ」にオスカー・ピーターソンが来店します。天才は天才を知る、と言います。有名か無名かは全く無関係で、国籍も年齢も性別も関係ありません。オスカー・ピーターソンは、一曲聴いただけで、秋吉敏子の素晴らしい潜在力を見抜きます。その日の夜は「クラブ・ニュー銀座」に再び秋吉敏子を聴きに来たのです。

 そして、オスカー・ピーターソンは、JATP総帥にしてプロデューサーであるノーマン・グランツに、秋吉敏子を録音するように言うのです。ノーマン・グランツにしてみれば、演奏を聴いた事のない無名の日本人の女性のピアニストです。が、「オスカー・ピーターソンが保証するのだから自分は聴く必要はない」と言って即断即決。契約と録音が決まりました。秋吉敏子の運命の扉が開いた瞬間です。

  一週間の準備期間の後、11月13日深夜から、有楽町駅近くのラジオ東京(現TBS)スタジオでノーマン・グランツ立会いの下、14日早朝までレコーディングは続きます。オスカー・ピーターソン・トリオからベースのレイ・ブラウン、ギターのハーブ・エリス、そしてエラ・フィッツジェラルドの伴奏陣からドラムのJ.C.ハードです。天下のJATPの世界最高峰の演奏家を率いて、ほとんどリハーサルも無く本番に臨みます。この時のセッションで、秋吉敏子のオリジナル『トシコズ・ブルース』を含め8曲がOKテイクとなります。これこそ秋吉敏子のデビュー盤「トシコズ・ピアノ」です。23歳の彼女の溢れる才能全開です。この音盤は、日本発売に先立ち、米国で1954年初頭にリリースされジャズ誌「ダウンビート」で3星を獲得。ジャズ関係者に注目され、3年後には日本人初のバークレー音楽院進学、ニューヨークを拠点としての八面六臂の活躍が始まります。

 1953年11月のカナダ人オスカー・ピーターソンによる秋吉敏子の発見がジャズ史に新しいページを開いたのです。日加関係の幅広さと奥深さを示す素晴らしいエピソードだと思います。

(了)

山野内勘二
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

音楽の楽園〜もう一つのカナダ

 バンクーバー新報の読者の皆さま、初めまして。山野内勘二と申します。

 今月から、毎月第3木曜日に、カナダと音楽の多彩な関係について極私的なエッセイを掲載させて頂きます。

 振り返ると、僕が中学生になった頃、深夜放送のラジオ番組から流れて来る欧米の音楽に完全に魅せられました。最初は、欧米のフォーク・ミュージック、やがてフォーク・ロックからハード・ロック、プログレッシブ・ロック、そしてジャズ、遂にはクラシックへと音楽の楽園にのめり込んでいきました。その過程で知るに至った事の一つは、世界的に活躍し日本人にもお馴染みのミュージシャンにカナダ出身者が意外というか非常に多い事です。と同時に、その事実が余り知られてもいません。実は、音楽に限らず、AIや量子コンピューター等のハイテクでもカナダは世界をリードしているのですが、知られてないです。きっと、カナダにはunderstatementの美学のような要因があるのかもしれません。前置きが長くなりましたが、そんなカナダの「音楽の楽園」という一面や日本との関わりを紹介していければと思っています。

 さて、7月1日はカナダの建国を祝すカナダ・デーだった訳ですが、この日、東京は青山のカナダ大使館が誇るオスカー・ピーターソン・ホールにおいて極めて意義深いイベントが行われました。カナダが誇るロック・バンドThe Guess Whoのリード・ギタリスト、ランディー・バックマンの愛機1957年製グレッチPX6120を巡る60年間の旅路を象徴するものです。日本とカナダの友情という意味でもカナディアン・ロックの歴史という文脈でも極めて意義深いイベントでした。

 60年前に遡ります。マニトバ州ウィニペグの19歳の無名の音楽青年ランディー・バックマンは、チャッド・アラン&リフレクションズという地元のバンドに参加します。その頃、バックマンは1957年製グレッチPX6120を購入します。清水の舞台から飛び降りる覚悟の超高価な買い物でした。将来への夢と音楽への愛の為せる業です。この田舎バンドは徐々に頭角を顕し、メンバー交代とバンド名変更を繰り返し、1969年にThe Guess Whoとなります。そして1970年1月、最高傑作の呼び声の高いアルバム「アメリカン・ウーマン」を発表します。同名のシングル盤は、カナダと米国でチャート首位に立ちます。一躍、世界のトップ・アーティストの一角に立ったのです。この間、バックマンはバンドの要として作曲、編曲、ギター、歌で大活躍。そして、常にこのグレッチで曲を創り演奏もしていて己の分身というか身体の一部だった訳です。

 ところが、1977年トロント公演の際に宿泊していたホテルで厳重に管理していた愛器グレッチが盗難に遭います。警察に被害届けを出すも絶望的。以来、バックマンは、このグレッチを探し続けて来ました。が、行くへは杳として知れませんでした。諦めきれぬバックマンも古希を遥かに過ぎました。

 が、遂に2020年の新型コロナ感染爆発の最中、あの1957年製グレッチPX6120が見つかったのです。奇跡です。バックマンの強い思い故でしょう。如何なる経緯で日本へ渡ったかは不明ですが、アーティスト兼作曲家のTakeshi氏が所有していることが判明しました。バックマンとTakeshiの間の折衝の末、45年の歳月を経て分身のギター・グレッチがランディー・バックマンの元に戻ることになりました。その返還式が今年のカナダ・デーにカナダ大使館のオスカー・ピーターソン・ホールで行われたのです。その夜のバックマンとTakeshiの共演はYouTubeで見られます。激動の国際情勢の下、勇気と希望を与える音楽と友情の素敵な逸話です。

 さて、「アメリカン・ウーマン」は1970年代を代表する名曲で、レニー・クラヴィッツはじめ多くのアーティストがカバーしています。カナダのバンドの曲がアメリカを歌うというのは、カナダと米国の密接な関係を示しているとも言えます。実は、アメリカのバンドがカナダを歌う例もあるのです。ちょうど7月は、“地上最大のアウトドア・ショー”と言われるスタンピードがアルバータ州カルガリーで開催される季節ですが、米国カリフォルニアを代表するThe Doobie Brothersに「スタンピード」という1975年発表のアルバムがあります。1975年名手ジェフ・“スカンク”・バクスターが参加して一層強力になったギター・ワーク満載。ギター小僧垂涎の音盤です。ジャケット写真が正にスタンピードそのもの。西部劇と大平原プレーリーのカナダを代弁しています。

 1970年代、ロックの黄金時代のカナダを味わってみては如何でしょうか?

(了)

山野内勘二
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

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