エドサトウ
いろいろな話をボランティアの方から聞いているうちに、お昼近くになり恐縮して、取りあえずお礼を言って、受付で資料などを買い外にでる。
展示に倭人が作ったという鉄製の鎧があり、それは、渡来のものよりも薄く出来ているという。倭人というのは、九州北部や、朝鮮半島南の海岸線に多くが住んでいたらしい。そこから加工用の鉄のかたまりや加工の技術が日本に入ったのではと言われている。
だから、鉄製の鎧とか馬が南朝鮮経由で日本にもたされたならば、この堺市あたりの大きな前方後円墳は、南朝鮮から渡来した倭人とその関係の人々により、開拓が進んだように、僕には思われた。その一人の秦氏は、「古墳の巨大化にも大きな影響を及ぼし、墳丘長さ約425メートルの応神天皇陵や、墳丘長さ486メートルの第十六代仁徳天皇陵などの造営には秦氏の貢献が大きいと思われます。」さらに「また、この時代には、私が『ユダヤ人埴輪と呼ぶ、ユダヤ人男性の特徴(美豆良、帽子、あごひげ)を持つ武人埴輪も多くつくられました。」と田中英道著『日本にやって来たユダヤ人の古代史』にある。
また、秦の始皇帝はユダヤ系の皇帝としながら「始皇帝の作り上げた中央集権国家は、古代ローマなど西方国家に似たあり方と言えます。ローマには多くのユダヤ人がおり、ローマから中国までシルクロード(絹の道)を作ったのはまさにそのユダヤ人たちです。」とあるのが興味深い。
また、『5世紀の倭と東アジア』という国際シンポジウム記録集に「ーーー仁徳天皇陵古墳のローマングラス二点は、非常に大事な歴史的意味があると思います。」という朴天秀先生の発言がある。
だから、鉄の鎧とか、古墳のはにわに見られる馬が、南朝鮮経由でもたらされたならば、この百舌鳥古墳群の前方後円墳は、その関係の人々により海であったろうこのあたりの開拓が進んだのであろう。古墳時代に馬と鉄の農具による開拓は、今のアメリカ式大農業であり、そのコメの収穫は、当時としては、巨大なものであったろうと想像される。であるから、駅と駅の一区間の長さの大きな仁徳天皇陵古墳ができたのであろうと想像すれば、すべてが納得出来る様な気がした。
お昼ご飯は近くのレストランの外のテーブルで、初夏の仁徳天皇陵古墳の森を眺めながら、洋食を楽しんだ。
午後3時、あこがれの近鉄「火の鳥」に乗り難波から名古屋の帰路につく。


投稿千景
視点を変えると見え方が変わる。エドサトウさん独特の視点で世界を切り取る連載コラム「投稿千景」。
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