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シベリアから日本に来た「ポーランド孤児」(後編)「君が代」からたどる父の過去
ブリティッシュ・コロンビア州タイー・レイクに住むポール・ヴォイダクさんは、父パヴェル・ヴォイダクの生涯に関し調査し、「シベリアからの脱出、記憶からの脱出」(2024年)を出版した。その中で、こう書いている。
--ある日、家に来た日本人の修理工が仕事を終えて帰ろうとしていると、父は直立不動の姿勢になり、日本の国歌「君が代」を歌い始めた。完璧に歌えた。日本語で1から10まで数えることもできた。父は誇らしげだった。
シベリアから日本に来た「ポーランド孤児」(前編)記録が語る父の過去
■日本で健康を取り戻した孤児たち
1919年、ロシアで「ポーランド救済委員会」を組織したアンナ・ビエルキェヴィッチらは、シベリアで悲惨な状況にあったポーランド孤児たちの同国帰還を計画。日本政府・陸軍・海軍、日本赤十字社がこれを支援した。
1920年7月から21年7月まで、ウラジオストクから5回の航海で375人が福井県敦賀港に到着。東京の福田会(ふくでんかい)育児院が無償で提供する宿舎に向かった。1922年には、さらに390人の孤児が同港に着く。大阪市がやはり無償で提供した大阪市立公民病院の付属看護婦寄宿舎に収容された。
孤児たちは栄養失調でやせ細り、中にはチフス、コレラ、皮膚病を患っている子もいた。しかし、東京や大阪で受けた献身的な看護と栄養ある食事のおかげで健康を取り戻す。着物を着て、日本の子どもたちと遊び、遠足に行った。日本語を学びながら日本の文化に親しみ、ポーランドと日本の国歌も練習した。
「孤児たちは日本滞在が平均わずか3カ月だったにもかかわらず、生涯にわたり日本での思い出を記憶していた。優しい看護、親切、安心感が、彼らの心に深い印象を残したからでしょう」とヴォイダクさんは話す。そして、ある出来事を振り返る。
父パヴェルが45歳ごろのこと、家にきた日本人の修理工としばらく一緒にいた父は、その修理工の帰り際、突然「君が代」を歌い始めた。「驚きました。どんな言葉であろうと、父が歌うなんてそれまでなかったこと。父の心の奥深くで眠っていた日本での温かい思い出が、その日本人と接したことで目覚めたのでしょう」
■日本での思い出
ヴォイダクさんは「シベリアからの脱出、記憶からの脱出」の中で、ポーランド孤児たちの日本での思い出の数々を紹介している。
「とても低いテーブルで、木製の箸を使って食べた。どう使うのか最初は分からなかったが、すぐに上手に使えるようになった。日本の文化が好きになった」
「初歩の日本語を習った。日本滞在は、まさに日本語の詩にあった『希望の夜明け』だった」
「(病気から回復すると)着物を着せてもらい、草履をはいた。着物は、職業学校の女性たちが縫ってくれた。着物の袖にはお菓子やボール、なんでも入る。そのうち袖が重くなる」
「靴職人が私たちの足のサイズを測った。翌日、全員に靴が配られた」
「日本の国歌や亀についての歌を教えてもらった。今でも思い出す。もしもしかめよ、かめさんよ...」
■ポーランド大使、孤児ゆかりの場所を発見
ポーランド孤児を受け入れた東京の福田会(ふくでんかい)は、仏教の高僧による発議で1876(明治9)年に創立され、日本初の児童養護施設を運営した。
2010年、渋谷区広尾を歩いていた当時の駐日ポーランド大使ヤドヴィガ・ロドヴィチ=チェホフスカさんは、福田会の看板に目が留まった。日本語には精通している。ポーランド孤児の話については知っていた。「あの福田会のことだろうか」。確認しようと事務所に入り職員と話しているうちに、孤児たちについて書かれた古い新聞記事が発見された。
福田会の園庭には、孤児たちを撮影した斜面が今も残っている。その写真のコピーが入った額を手にロドヴィチ=チェホフスカ元大使は、「今から100年以上も前、この斜面でポーランドの子どもたちが写ったことに感動する。孤児たちが日本で受けた親切はいつまでも人の心に響く」と語る。
■パヴェルとヴワディスワフ
日本で体力を回復した孤児たちは、順次ポーランドに向かった。東京に滞在した375人は8グループに分かれ横浜からアメリカ経由で。大阪に滞在した390人は神戸からスエズ運河経由、イギリス・ロンドンに至り、1922年11月初旬、ポーランドに着いた。
アメリカに向け出発する最初のグループ56人は、「ポーランド救済委員会」のユゼフ・ヤクブキェヴィッチに引率され、1920年9月28日、横浜から日本郵船・伏見丸に乗船。同年10月12日シアトル到着。
伏見丸の乗船客名簿にヴォイダクさんが父パヴェルだと確信するヴワディスワフ・ヴォイダクの名前がある。
ヤクブキェヴィッチは孤児たちから「お父さん」と呼ばれていた。ヴォイダクさんは父パヴェルから「子どものころ父親に連れられアメリカに行った」と聞いていたが、父親とはヤクブキェヴィッチのことだったのだろう。
さらに、アメリカ到着後に作成されたヴワディスワフに関する記録では、雑誌「極東の叫び」のリストにある情報に加え(前編参照)、「この少年は話そうとしない」、出身地はロシアのノボミコワイェフスク、少年の父親はヴワディスワフ・ヴォイダクとある。これらの記述に関しヴォイダクさんは、この少年はハルビンで発見された時、持ち物に父親の名前が記されたものを持っていたのではないか。しかし、話そうとしないので本人の名前が判明せず、父親の名前がこの少年の名前として使われたのではないかと考える。そうだとすると、いつ、なぜヴワディスワフからパヴェルという名前になったのか。
■ドイツ軍にいた父
ヴワディスワフはアメリカ到着後、シカゴとミルウォーキーの孤児院で1年3カ月ほど過ごし、その後、ポーランドに送られた。ドイツ国境近くの孤児院に着くと、そこからさらにドイツ系ポーランド人夫婦がもつ農園に移される。労働者として扱われ、納屋で寝た。冬だけ靴をはくことを許された。農園主に連れられ、収穫した作物を国境を越えドイツ側に売りにいくこともあった。
このようにドイツ色の濃い環境で生きる間に、名前がポーランド名ヴワディスワフからドイツ名ポールと変わり、その後ポールのポーランド語での呼び方パヴェルになったのではないか。父がドイツ語を話せた理由も納得がいくとヴォイダクさんは言う。
ドイツのポーランド侵攻で始まった第2次世界大戦の間、父はドイツで働いていた。そう母リッキーから聞いた。しかし、ドイツ軍がポーランド人を招集することは、ドイツ敗北が濃厚になるまではなかった。ドイツで働いていたというのは強制労働だったと考えられる。
ヴォイダクさんは父のドイツ軍歴を調べようと、ドイツ連邦公文書館に問い合わせ、2020年、次のような内容を含む記録を受け取った。
ポール・ヴォイダク、1912年7月27日(ドイツ語表記で)ノボミコワイェフスク生まれ、1944年1月召集、同年3月イタリアに配置。
想像通りドイツ軍での父の名前は「ポール」。1944年であれば、ドイツ敗北は見えてきていた。
先にイギリス国防省から入手していたポーランド軍歴には「パヴェル」とあった(前編参照)。1944年9月、ドイツ軍を離脱してポーランド軍に加わった時点でポーランド風にパヴェルとなったことが分かる。
ドイツ軍への入隊は44年1月。戦争勃発の39年9月以降44年までドイツ国内で強制労働下にあったのであれば、41年リビアの「トブルクの戦い」に父はいなかったことになる。44年1月から5月までのイタリア「モンテ・カッシーノの戦い」にもいたかどうかは分からない。いたならばドイツ側だ。
戦争初期からポーランド軍にいたと言っていたことや、名だたる戦いでの体験談は作り話だったのか。ヴォイダクさんは、「ショックを受け、打ちのめされた」と自著に書いている。
■記憶からの脱出
「父は孤児院を転々とする理由を十分に理解していなかったに違いない。故郷や文化から引き離された孤児は、言語や文化的アイデンティティを失うことがある。自分がだれなのかという感覚が乏しく、自尊心も低くなる」とヴォイダクさんは説明する。
子どものトラウマ(心的外傷)と記憶喪失に関する勉強をした。そして父パヴェルは、トラウマ後のストレス障害(PTSD)の状態にあったという分析に至る。
シベリアで子ども時代に目撃したと思える両親の死。暴力や苦しみ。厳しい寒さや病気。パヴェルは精神的シックを受け、感情は混乱した。その結果、話すことができなくなった。心の中で、つらい過去の記憶を分離しようとする働きが起こり、自分の名前も両親についても語ることができなくなった。
反対に、体験してもいない軍隊での話は、認識票にあったコンスタンティ・ムロテックの体験をあたかも自分のものとして記憶し語ったと思われる。ムロテックは、パヴェルが入隊した部隊に先にいて戦死した実在人物であったことをヴォイダクさんは後日知った。パヴェル自身は、ポーランド軍に属して以降、部隊の仲間からムロテックについて聞き、彼の軍歴を自分自身の体験として記憶した可能性がある。
パヴェルは除隊となったイギリスで、オランダ出身の女性リッキーと出会い結婚。1948年、ヴォイダクさんが生まれる。一家は52年、カナダに移住。オンタリオ州で堅実な生活を営んだ。パヴェル、1984年11月逝去。
ヴォイダクさんは、「日本での温かい思い出は、孤児たちがよい大人になるのに役立った」と、父の人生と重ね合わせる。パヴェルは花を育てるのが好きだった。特に菊が好きだった。「日本では菊が特別な意味を持っていることを習っただろうか」とヴォイダクさんは言い、自著「シベリアからの脱出、記憶からの脱出」の表紙にあるパヴェルの写真と菊の花の絵を見る。そして、「この本が、日本とポーランド、そしてカナダを結ぶ架け橋になってくれればうれしい」と結んだ。
(取材 髙橋文)
<関連サイト>
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高橋 文(たかはしあや)
カナダ在住ジャーナリスト。カナダの文化・歴史に関する記事をカナダと日本の新聞に執筆。
第2次世界大戦中、リトアニアで外交官・杉原千畝から日本通過ビザを受給しカナダ・アメリカ・オーストラリアをはじめとする国々へ渡ったユダヤ難民と子孫らに関する調査・取材記事を多数執筆。カナダと日本での「杉原ビザ」関連の常設・企画展示に参画。関連シンポジウムやセミナー等で講演を行っている。
著書:「太平洋を渡った杉原ビザ:カウナスからバンクーバーまで」(岐阜新聞社、2020年)「命のビザで旅した子どもたち:暗やみから光さすほうへ」(同、2021年)
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