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Naomi Mishima

Naomi Mishima
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「いい旅」瀬戸 ~投稿千景~

エドサトウ

 「(江戸は)非常な活気であった。都市の規模としてはまだまだ京大阪にくらぶべきもないが、町で活動している商人、職人などの顔つきは上方の両都よりもはるかに活力にあふれているようにおもわれた。ーーー(庶民には勘がある。江戸にくれば職がある。物が売れる、という先々の利益だけでなく、江戸はやがて天下の中心になることを皮膚で感じ取っているのではあるまいか。)」関ヶ原合戦前の様子が司馬遼太郎著『関ヶ原』の中にある。

 かつては尾張藩の瀬戸は瀬戸物の生産のまちで一年中活気に満ちていたと思われる。中世頃から、この地方で生産されて、江戸や大阪に茶わんなどの食器が商品として運ばれていたようである。江戸のまちに住む庶民の住居のあとから瀬戸物と思われる陶器のかけらが出土している。当時としては少々ハイカラな色の陶器のかけらをみれば、江戸の人々も瀬戸物の食器を楽しんでいたようにも見えるのは庶民のささやかな楽しみを感じる。

 江戸時代から徳川家尾張藩の中心的な産業、日本における一種の産業革命とも思える産業であったためか、瀬戸の街は陶器の職人さんや、その商売人で昭和の時代まで続いて、賑やかで、威勢の良いまちであった。一年中、陶器を焼く窯の煙突からもくもくと灰色の煙が上がっていた。街の中心を流れる瀬戸川は陶器の粘土を溶かした白い水で、いつも白く濁っていた。

 その白い河の流れは昭和の時代も同じであった。僕たちが自転車で通学していた中学校へ行く途中にあるこの白い瀬戸川は僕たちの処にくると矢田川となる。僕の中学生のころには矢田川の北側は平野が広がっていて古くからの水田地帯である。かつて、徳川家康と秀吉が戦った長久手の古戦場に通じるこの坂道を僕たちが自転車で下って行くと矢田川の橋に出る。この橋のところで、豊臣秀次の軍が家康軍を襲うためここで野営をして朝食をしている時に逆に徳川軍に襲い掛かられて敗退している。橋を渡ったところに神社があるので、ここで朝食の炊き出しがおこなわれたのかもしれない。多くの兵が亡くなり、その亡霊がこの薄暗い竹藪の坂道の途中に夜になると現れるという言い伝えがあり、一人で帰り道に自転車から降りて、竹藪の薄暗い坂道を歩くのは少し怖い感じがした。

 この陶土で白く濁っていた白い川は、バブル経済がはじける前ころにはきれいな水となり、今頃は魚が泳いでいる。かつては上流の瀬戸川の両岸に1000以上の大小の陶器工場があったのが、今は300ぐらいだと瀬戸の商店街の年配の店主が話をしてくれた。

 陶器の窯の火が消えることもなく栄えてきた瀬戸のまち、職人さんたちは給料をもらうと一晩のうちに使ってしまう景気の良いまち、給料を全部使ってしまっても明日の仕事がある。明日があればお金は入ってくる。なんの心配もいらないという気分の職人さんたちが、多くいたのであろう。窯の火が入れば何日も昼夜、火は燃え続ける。窯の火の勢いが落ちるまで外に出て長椅子に座り込み将棋に興じたりして時間をつぶす。そういう将棋の文化が現在の将棋の名人藤井聡太君のような天才将棋少年を育てたのかもしれない。

 瀬戸の中心にある深川神社の近所には、職人さんたちが利用するのか多くの食堂や映画館など建ち並んでいたが今は閑散としたもので、ところどころで店も閉店していて、かつての賑わいはない。店主は言う。「若い人たちは別の職業につき、商店街の店の店主も高齢になり、店を閉めてやめていく人が多いので、本当にかなわんです」

 数日前の週末に、近所の広場でイベントがあって、多くの人出があったと言って、わざわざ携帯電話の写真を見せてくれた。若い人を呼び込む新しいまちづくり、たとえば、週末の休みに青空市を開き、新鮮な農産物とか若手陶芸家の作品を売る店とか、骨董品の蚤の市などをすれば、面白くて、賑わいが出てくるかもしれない。藤井聡太名人の勢いをもらい、瀬戸のまち頑張れ!

 今回、帰国した折に、瀬戸市の少し奥の方に住んでいる友と50年ぶりに再会して、楽しいひと時をすごした。過日、自宅でとれた柿を実家に届けてくれたと弟の方から連絡があり、ほのぼのとして嬉しかった。友よありがとう!

投稿千景
視点を変えると見え方が変わる。エドサトウさん独特の視点で世界を切り取る連載コラム「投稿千景」。
これまでの当サイトでの「投稿千景」はこちらからご覧いただけます。
https://www.japancanadatoday.ca/category/column/post-ed-sato/

第20回 何もできない私とセレンディピティ(1)

 家に一人でいる。老齢のせいだろうか?それがとても淋しくて解決策を考えた。結局、此処バンクーバにある色々な集まりに参加してみることにした。このバンクーバ―在住46年。
 以前はあまり気付かなかったが、今、色々なアクティヴィティに参加し、出会う人、出会う人、皆が何か特技を持ちステキな人がばかりなのだ。櫻楓会、敬子パーカーさんの音楽の会、ジェーン・オ―スチェンの会、女性企業家の会、高木月子さんのブッククラブ、隣組、アイフォンの会、歌声喫茶、コーラス(私は聴くだけ)等々色々だ。ハワイアンダンスをステキに踊る70歳、80歳を過ぎて美声で歌うコーラスグループの人、又毎月、自分で描いた絵を会誌に紹介する人、手芸、美しい物を作り、販売したり、展示したり。色々出来る人の多い事、私は堪らなくうらやましい!何もできないのは私だけかなぁ?

 小学生の時、先生が「学芸会の遊戯、6人でやるけど貴方もやりなさい」と言った。喜び勇んで「小鹿のバンビ」を踊った。今でも『小鹿のバンビは 可愛いなぁ…』と歌いながら踊れるほど好きだった。
 又、ある時、先生がクラスへ一匹の生魚「アジ」を持ってきて、その絵を描けと言った。皆が「わぁ!いやぁー」と叫んだ。私は大変興味を持ち、その魚を描いた。絵は生き生き描かれ、自分でもよく描けたと思った。そして、その絵はクラスの後壁に飾られ、やがて教員室近くの特別絵飾り場所に移されそこに飾られた。中学入学と同時に「バレエ」を習い始めた。初めての発表会の時、白い衣裳を着て仲間と踊った。帰宅後、観に来てくれた母に、「お母さん、どうだった?」と聞いた。母は「うーん ジャガイモが転がっているみたいだった。ハハッハ」

 私はバレエを止めた。でも小学校以来、絵は好きで描いていた。映画俳優の似顔絵も得意で色々な人に「似顔絵描いて?」と頼まれ、うれしくて一生懸命描いた。高校生になって油絵も描いた。やがて大学進学の時だ、絵の先生が「貴方、もし美大に行きたければ美大推薦してあげるよ」と言った。嬉しかった。そして、美術の先生が母を説得に、我が家まで来てくれた。
 家まで来て下さった美術の先生に、母は玄関先で彼を入り口に立たせたまま「先生、私は夫亡き後、女手一つ、4人の子供と老人1人抱え生きています。娘を‘看板描き′にするお金はありません」と言って先生を追い返した。

 私の好きな「歌」、これは自分の「悪声」と完全な「音痴」で「好きの横好」。結婚し、家事、料理は長い間、香港在住時は常に手伝人がいた。そして、来加後は、なんと夫が料理好き、私が手伝うと彼が「触るな!」と厳しく言う。だから料理も出来ない。彼は60歳でさっさと次の世へ行ってしまった。淋しい。でも料理の上手な息子がいてくれる。

 やがて、我が人生振り返って「貴方、本当にどうやって生きてきたの?」と問いかけてみる。すると答えが返ってきた。なんとその答えは「自分で出来ない事、全てを楽しみなさい」。「天の声」は励ましてくれた。いつの間にか、「自分に出来ない」素晴しいオペラやコンサート、世界の美術館を訪ね回り、絵も彫刻も楽しむ。結局、それが私の「『セレンディピティ』幸運をつかむ」だったのだ。

セレンディピティ(英語: serendipity)とは、素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見すること。また、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値があるものを偶然見つけること。平たく言うと、ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ることである。

許 澄子
2016年からバンクーバー新報紙でコラム「老婆のひとりごと」を執筆。2020年7月から2022年12月まで、当サイトで「グランマのひとりごと」として、コラムを継続。2023年1月より「『セレンディピティ』幸運をつかむ」を執筆中。
「『セレンディピティ』幸運をつかむ」はこちらから全てご覧いただけます。

12☆「何で帰るの?」 の返事は・・・

日本語教師  矢野修三

 明けましておめでとうございます!今年は辰年、何卒幸せ多き年になりますように。

 昨年末から日本語が大好きな大学生に、オンラインで日本語を教え始めた。彼は上級レベルを目指しており、やる気満々。とても教え甲斐がある。とりあえず週に一回、何曜日にしようか、と電話で打ち合わせた。彼の能力を試す目的もあり、ワザと意識的に「なに曜日がいいかな?」と「なに」を強めて繰り返した。

 すると、さすが日本語大好きなW君。最初の授業のとき、「なに曜日」と「なん曜日」はどう違いますか、との質問があり、うれしくなった。

 この「何」の読み方は「なに」と「なん」と二つあり、特に中上級レベルの生徒は気になる。「何時・何日・何月」などは「なん」だけだが、確かに「何曜日」は両方使える。するとその違いは、「なに曜日」のほうが丁寧な感じなので、お客様などには「なに曜日がよろしいでしょうか?」であり、友達には「なん曜日がいい?」と、とりあえず彼に説明した。

 しかしこの単語はどっちも同じ意味なので大した問題ではないが、例えば「何県」は「なに県」と「なん県」とで意味が変わってしまうので厄介である。でも日本人は文脈から容易に判断できるのでノープロブレム。「出身は何県ですか」であれば「なにけん」であり、「東北地方には何県ありますか」であれば「なんけん」と、すぐ分かる。

 こんなこと我々日本人は考えたこともないが、うーん、ちゃんと使い分けている。当たり前だが、さすが母語、すごい。でも生徒にとってはかなり難しく、教える先生もしんどい。

 さて、表題の「何で帰るの?」だが、「ナニで帰るの?」であれば手段だと分かり、「もう遅いから、タクシーで」こんな会話が。でも「ナンで帰るの?」であれば、状況にもよるが、大半の人は「なぜ帰るの?」と理由を聞かれたと思い、「カラスの勝手でしょう」とでも言いたくなる。

 しかし方言や個人差そして言いやすさなども絡んで、この「ナンで帰るの?」を手段の意味として使う人も少なからずおり、そんな場合は当人同士、意味の取り違いで一悶着起きる場面も・・・。そんな訳で、会合やパーティーなどにおける、この「何で帰るの?」はタブーなり、と話題になった、はるか昔のサラリーマン時代を思い出した。

 そこで上級者には、「何」は日本人でもややこしいので何が何でも、何から何まで、何としても理解するぞ、などと思い込まず、何となくゆっくり体で覚えてと、言い含めている。こんなクイズを楽しみながら・・・、「虹は全部で何色?」や「虹の一番外側は何色?」など、楽しく学ぶのが一番。It’s important to have fun while learning.

 されど、何にせよ、この「何色」などの「何」を教えるのは日本語教師として難色を示したい。ところでこの「難色」は何色なの?

「ことばの交差点」
日本語を楽しく深掘りする矢野修三さんのコラム。日常の何気ない言葉遣いをカナダから考察。日本語を学ぶ外国人の視点に日本語教師として感心しながら日本語を共に学びます。第1回からのコラムはこちら

矢野修三(やの・しゅうぞう)
1994年 バンクーバーに家族で移住(50歳)
YANO Academy(日本語学校)開校
2020年 教室を閉じる(26年間)
現在はオンライン講座を開講中(日本からも可)
・日本語教師養成講座(卒業生2900名)
・外から見る日本語講座(目からうろこの日本語)    
メール:yano@yanoacademy.ca
ホームページ:https://yanoacademy.ca

日本語認知症サポート協会「オンライン de Cafe・笑いヨガ」

「笑顔の力」を引き出そう

〜「笑いヨガ」で、元気な心と体づくり〜

毎月、「笑いヨガ」を行っています。自宅にいながら参加できる、オンラインでのセッションです。
興味のある方、初めての方も大歓迎。楽しく一緒に笑いましょう!

日時:2024年2月15日(木)午後8時〜午後9時
会場:Zoom
参加費:初回無料、2回目からドネーション(e-Transfer、PayPalまたは小切手にて)
申し込み締め切り:2024年2月13日(火)
申し込みリンク: https://forms.gle/3HK3FGNe2cQUvji1A

*お申し込みいただいた方には、追って、参加方法をご案内いたします。
お問い合わせ先:orangecafevancouver@gmail.com
主催:日本語認知症サポート協会(Japanese Dementia Support Association) http://www.japanesedementiasupport.com

ピアニスト・作曲家 中村天平さんリサイタル

2019年初のリサイタルに続き、トロントでリサイタルが再び決定しました!日本全国ツアー、ヨーロッパツアーなど精力的にご活躍中です。

ぜひ、中村天平さんの生演奏に聴きにきてください♪

日時:2月3日(土曜日)4:00PM〜

場所:Calavin Presbyterian Church

16 Delisle Ave, Toronto

*会場にはパーキングがありませんが、隣に有料パーキングはあります。

チケットの購入は、E-Transferでnorikop26@yahoo.co.jp (Noriko)までお願いします。

料金を受け取りましたら確認のEメールを後日送ります。

もし、E-Transferができない方はEメールでお問い合わせください。

第19回 シュリシュリさん

84年、ああ、随分長いこと生きて来たなぁ。もう、2024年だぁ。そして、こんな便利な世の中、朝起きて息子の愛犬に食事とトイレを済ませコンピューターの前に座る。スイッチを入れPC開けると、わぁー、手紙、手紙、手紙。
何だか目の前がパッと明るくなった。

澄子さま

Happy New Year!!

明けましておめでとうございます!良いお正月をおすごしになられましたか。
私の方は3日に親族・親戚一堂が集まり、イギリス、カナダからの姪(夫婦)たちも含めて総勢20数名の賑やかな新年会となりました。
東京は穏やかなお正月でしたが、元旦早々に能登半島の北陸では震度7の震災に見舞われて大変でした。
今年は辰年、日本はちょうど辰・竜のような地形で、その列島が辰年の初日から大暴れした状況です。
日本は本当に地震大国であることを身に染みて感じていますが、自然界で起きることに人間はなす術はありません。
起きた地震の被災者には救援への活動と助け合いに力と心を寄せ合うことが私たちに求められています。
かつて、シュリシュリは「お互いの人心が離れ離れで寄せ合う心がない状況にあった時、自然はそうした人の心を寄せ合わせるために災害という出来事を起こして人心を揺り戻す」と述べたことがあります。
日本の社会に住んでみますと、私がかつてカナダで触れた人の優しさに何か欠けていて、ストレスが多い社会なのでしょうか、もう少し、人の温かさ・温度が感じられたら、と思うときが結構あるのですよ。
澄子さんにはもっと早くにメールをお出ししたかったのですが、バンクーバーを訪れた時がちょうど雨季で初日に傘がなくて雨の中、街中をずいぶんと歩き回っていたのが要因だったのでしょう、帰国するや否や発熱し一週間程寝込んでいました。その後、回復したのですが、英語教室での懇談会や年末の忙しさに明け暮れておりました。
バンクーバーでは中華のランチを囲んでご一緒したひと時をとても懐かしく思い出します。
澄子さんはお顔の表情もとても若々しくお元気そうで何よりでした。その時の写真を添付してお送りさせて頂きますね。
(お会いしたとも子さんにも長年ご無沙汰をしていましたが、変わらず、お元気そうで嬉しく思いました。何かの折にくれぐれも宜しくお伝えくださいますように。)
今年一年、澄子さんにとって平安で穏やかなお年となりますよう心より祈念しております。

つきえ

セレンディピティ(英語: serendipity)とは、素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見すること。また、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値があるものを偶然見つけること。平たく言うと、ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ることである。

許 澄子
2016年からバンクーバー新報紙でコラム「老婆のひとりごと」を執筆。2020年7月から2022年12月まで、当サイトで「グランマのひとりごと」として、コラムを継続。2023年1月より「『セレンディピティ』幸運をつかむ」を執筆中。
「『セレンディピティ』幸運をつかむ」はこちらから全てご覧いただけます。

「ダニエル・ラノア〜鬼才プロデューサーの軌跡」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第19回

はじめに

 明けましておめでとうございます。

 同時に、能登半島地震の被災者・犠牲者の方々に心よりお見舞いを申し上げます。

 2024年は辰年です。昇龍の如く、全てがエネルギーに満ち、苦難を乗り越え、災いを転じて福と成すように、素晴らしい年となるように祈念します。

 さて、今回は、カナダが生んだ稀代の音楽プロデューサー、ダニエル・ラノアです。おそらく、この連載で取り上げた中で、一般的な知名度は最も低いかもしれません。が、1980年代以降のロック・ポップの展開を見れば、ダニエル・ラノアは、間違いなく、最も影響力のある音楽家の1人です。彼がプロデュースした作品群は、ボブ・ディラン、U2、ピーター・ガブリエル等ロックの現代史の重要な章に刻まれています。但し、ラノアの名前が前面に出ることは稀だったのです。

 そこで、読者の方には、音楽プロデューサーって一体何者?という素朴な疑問が湧き上がると思います。有名なのは、ビートルズを世に出したサー・ジョージ・マーチン。5人目のビートルとまで言われました。全く無名のボブ・ディランを発見したのは、伝説のプロデューサー、ジョン・ハモンド。若き日にベニー・グッドマン、ビリー・ホリデーらを発掘し、今日のジャズの隆盛の基礎をつくった人物です。「ウィ・アー・ザ・ワールド」は、クインシー・ジョーンズにして初めて実現した企画。尾崎豊を発見し育てたのが須藤晃でした。

 そこで、プロデューサーの仕事です。例えば、歌手、作詞家・作曲家・アレンジャー、演奏家は、彼らが参加し創造した音楽の中に具体的な音が刻まれています。役割が明確で、聴くことが出来ます。しかし、プロデューサーは、音楽制作そのものを総括していても、具体的な痕跡は見え難いかもしれません。録音スタジオの選定、参加ミュージシャンの選別、音盤のコンセプト、サウンドの色彩感、収録曲の決定等々に直接関わります。プロデューサーの役割は決定的です。

 敢えて言えば、音楽プロデューサーは、スポーツの監督に似ているかもしれません。野球でもアメリカン・フットボールでも駅伝でも、試合そのものは選手によって競われます。が、全体の戦略、個別の戦術、練習方法、選手の選択や起用のタイミング等は、監督が差配しています。そこに監督の力量が顕れます。

 そこで、ダニエル・ラノアに戻ります。カナダならではの響きを体現したラノアは、カナダ発世界行きの軌跡を鮮やかに描きます。

1951年、ケベック州ガティノー

 ダニエル・ラノアは、1951年9月、ケベック州ガティノー市ハル地区のフランス系カナダ人の家庭に生を受けました。ハル地区は、オタワ川を挟んで、首都オタワの対岸です。カナダ最大の博物館である「歴史博物館」の所在地ですが、一面ではギャンブルと酒場の街という顔も持ち合わせています。ラノア家は、決して裕福ではありませんでした。高級レストランの豪華な食事とは無縁だったけれど、祖父も父もヴァイオリンを弾き、母は歌がうまく、祝い事があれば、親戚が集まって皆で音楽を奏でていたといいます。

 そういう家庭環境で育ったダニエル少年は、自然に音楽の素養を身につけます。10歳の時に、スティール・ギターを習い始め、やがて、他の様々な楽器、さらに音楽理論も学び、吸収します。

 両親が離婚し、母親に引き取られますが完全に放任状態でした。ラノアは、後年、この頃を振り返り「自分がしたい事をする最高の養育環境であった」と述べています。時代は、疾風怒濤の1960年代です。ビートルズらが牽引しロック・ミュージックが単なる娯楽から前衛芸術へと進化します。ティーン・エイジャーになったダニエル少年も、大きな影響を受け、音楽の道へと歩み始めます。3つ年長の兄ボブの影響もあったようですが、その他の道は目に入らなかったと云います。高校在学中から、プロの演奏家として様々なバンドで伴奏をし、時には、誰も行きたがらないオンタリオ州の最北部にも出張しました。

 楽才に溢れるダニエル・ラノアです。様々な角度から、音楽にアプローチする訳です。興味深いのは、演奏だけではなく、録音スタジオに大きな関心を持ったことです。「サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」や「ペット・サウンド」等60年代の偉大な音盤は、スタジオでの実験と冒険の賜物。スタジオが楽器なのです。

1969年、オンタリオ州ハミルトン

 1969年、ラノアの母親は、ガティノーからオンタリオ州ハミルトン市アンカスター地区に転居し、家を新築します。そこで、ラノアは兄ボブと一緒に一計を案じます。この新居の地下室に防音を施し、小さな録音スタジオにしたのです。ラノア家には、旧式のオープン・リール・テープレコーダーがありました。当時は、未だ自分の声なり演奏を録音して、それを再生して聴くということは特別な体験でした。従って、現代の目から見れば、極めて素朴な資機材ですが、一般向けの録音スタジオが商売としても成り立ったのです。兄の影響があったにしても、高校在学中の17歳です。本能の赴くまま、目的のために、利用出来るものは全て利用したのでしょう。が、己の将来への明確なヴィジョンがあったのです。早熟と言えば、早熟。凄いことです。慧眼です。

 この「アンカスター・スタジオ」で、マイクの位置や音源との距離、多重録音の効果、エコーやイコライザー等の機材が如何に音楽の色彩感を決めるのか、音楽制作の核心を体得していきます。地元のローカル・バンド達との交流が深まり、プロデューサーとしての腕を上げ、音楽関係者の間で名を知られるようになります。

 1976年、25歳の時に、自宅地下室からステップ・アップします。ハミルトン市のダウンタウンにある20世紀初頭に建てられたビクトリア朝風の3階建家屋を兄と共同で購入し、大幅に改修。「グラント・アヴェニュー・スタジオ」をオープンするのです。この名称はここの住所、38 Grant Avenue, Hamilton, Ontario L8N 2X5 に由来します。兄弟は、Revox社製テープレコーダー等の本格的な機材・設備を導入し、地元のミュージシャンの音盤をプロデュースし始めます。後にメジャーになる地元のローカル・バンド「マーサ&マフィンズ」、更に「タイム・ツインズ」もラノアが手掛けたアーティストです。彼らを通じて、ラノアの評判が国境を越えます。

1979年、トロント〜ニューヨーク〜ハミルトン

 ニューヨークは世界の最先端を走る都です。世界中の猛者が集まり、時代を牽引します。そして、様々な出会いが起こります。

 トロント出身の「タイム・ツインズ」は、ラノアがプロデュースしたパンク・ロック調の「ユーリ・ソング」というデモ・テープを持ってニューヨークを訪れます。世に出る機会を探すプロモーションです。偶々このテープを聴いたのが、偶々ニューヨークを訪れていたブライアン・イーノです。ロンドンで異彩を放っていた鬼才です。若くして、シンセサイザー奏者としてロキシー・ミュージックに参加した後、ソロ・キャリアを展開しつつ、デビット・ボウイのベルリン三部作にも参加し、プロデューサーとしての活動を本格化させていました。

 そんなイーノの耳が「タイム・ツインズ」のテープに宿る新しい「音」を聴き取ります。彼が探し求めていた「音」があったのです。その段階で、ラノアは、カナダの無名の新米プロデューサーに過ぎません。が、イーノはラノアの巨大な才能の原石を察知したのです。

 ここからのイーノの動きは非常に素早いものがあります。ダニエル・ラノアに連絡を取ります。そして、あの「音」を生み出したハミルトンの「グラント・アヴェニュー・スタジオ」を訪れます。初対面にして、イーノは、音楽制作に関して通じ合う特別な紐帯があることを直感します。ラノアにとっては師との邂逅です。この出会いこそ、この後に続くイーノ/ラノア・チームの傑作群の始まりの始まりです。

 イーノは、早速、新しい音盤の録音を「グラント・アヴェニュー・スタジオ」で始めます。完成したのが「プラトウ・オブ・ミラー」です。ミニマルな環境音楽の代名詞“アンビエント・ミュージック”の傑作です。この音盤は、イーノ自身がプロデュースした作品です。小さな字ではありますが、ラノアへの特別な謝意がクレジットされています。初めて、メジャーな世界で認知されたのです。

 それまで世界的には無名のオンタリオ州ハミルトンの小さなスタジオが注目され始めました。

1981年、「グラント・アヴェニュー・スタジオ」

 イーノとの共同作業でダニエル・ラノアの才能は一気に開花します。カナダのローカルなマイナー・アーティストを世に出す仕事を続ける一方、スーパー・メジャーな音楽家の作品を手掛けるようになります。

 最初は、師であり同志であるブライアン・イーノとの共同名義の音盤「アポロ」の録音です。イーノは英国ロンドンを拠点にしていますが、この音盤は「グラント・アヴェニュー・スタジオ」で録音することに拘ります。1981年から翌年にかけ、イーノが何度も足を運び、完成に漕ぎつけます。元々は、アポロ計画に関するドキュメンタリー映画「フォー・オール・マンカインド」のためのサウンド・トラックとして企画されたものでしたが、映画の公開に先立ち、1983年7月に発表されました(映画の公開は89年)。ジャケットの月面写真が示すように、宇宙空間や月のイメージを音で紡いでいます。ここに響いている音楽は、もはやロックというよりは、ジャンルを超えた現代音楽です。幾つかの楽曲は、「28デイズ・レイター」など他の映画でも使用されています。

 音盤「アポロ」は、商業的に大成功という訳ではありませんでしたが、音楽・映画関係者の間では高く評価されていました。ダニエル・ラノアのファンにとっては、最初のメジャー作品です。そして、2019年7月には、アポロ11号の月面着陸50周年のCD2枚組特別編集盤がリリースされました。世紀を超え、今も新鮮な音楽です。

1984年、アイルランド

 1984年イーノ/ラノア・チームは、U2新作アルバム「焔(Unforgettable Fire)」をプロデュースします。この背景が非常に興味深いです。

 U2は1983年発表の3枚目のアルバム「闘」で、母国アイルランドを超え、英国、米国、更にはグローバルに成功していました。直裁なパンク・ロック的アプローチで時代の空気を掴んで、若い世代から絶大な支持を得ていました。しかし、U2は更に前進するために、もっと深みのある音楽を志向します。1983年米国ツアーのシカゴ公演の際、U2メンバーがシカゴの平和博物館を訪れ、そこで観た、「忘れざる炎」と題された広島・長崎の被爆者達が描いた絵画展に感銘を受け、構想が固まります。

 そこで、U2はイーノにプロデュースを依頼します。が、イーノは乗り気ではありません。自身がロキシー・ミュージックでロックの最前線にいた訳ですが、既に音楽的関心は別の次元にあったからです。しかし、U2側は非常に熱心です。そこで、イーノは最も信頼する同志ラノアを引き連れてダブリンに赴きU2メンバーとの面談に臨みます。U2にしてみればイーノに依頼してるのであって、ラノアは眼中にありません。ラノアは、依然として知る人ぞ知る存在でした。協議の末、イーノ/ラノアの共同プロデュースで話がまとまります。

 実際の録音セッションは、84年5月から約1ヵ月間、アイルランド北東部のスレイン村の古城に楽器・録音機材を搬入し、U2メンバーと関係者一同が住み込みで行われました。時には、朝10時から深夜1時まで続きました。集中力と創造性の究極の融合です。

 「焔」は84年10月にリリース。各国チャートを席巻します。因みに、音盤ジャケットの写真が正にスレイン城です。名義上は、イーノ/ラノアの共同プロデュースですが、実際のレコーディングを仕切ったのはラノアでした。ラノアは、U2の音楽をパンク・ロックからアート・ロックへと大きく変貌させた最大の功労者です。

 そして、革新的プロデューサー、或いは、スタジオの魔術師としてのダニエル・ラノアの名前が一気に知られることになります。ここから後は、現代ロック・ポップの歴史そのものです。が、もう1枚だけ、紹介します。ラノア自身が数多あるプロデュース作品の中で最も印象深いと言っている音盤、ボブ・ディランの「オー・マーシー」です。

1989年、ニューオリンズ

 ラノアは、U2からの信頼と尊敬を得て、その後も、最高傑作「ヨシュア・トゥリー」を含めU2をプロデュースし続けます。その縁で、U2のリード・ヴォーカル、ボノがボブ・ディランにラノアを紹介します。1988年の初夏のことでした。

 この頃のディランは、と言えば、最新盤「ダウン・イン・ザ・グルーヴ」の評価が非常に低く、セールスも伸びてません。実はその前の作品「ノックト・アウト・ローデッド」も低迷してました。ディランは、既に、功成り名を遂げていた訳ですが、過去のスターに甘んじる気は全くありません。新しい歌が頭の中で次々に生まれているのですから。次の音盤で起死回生を狙います。そこで、ボノから紹介されたラノアを起用します。

 実際の録音は、1989年2月から4月にかけて、ニューオリンズの閑静な住宅街ソニアット通り1305番地の家屋に楽器・録音機材を持ち込んで行われました。録音は、夜間に限って行われました。それがディランのスタイルです。太陽が沈み、月光の中に浮かび上がる人間の本性と癒しを歌うのです。ラノアは「夜の音楽」を包み込む薄い靄がかかったサウンドをデザインします。それが、ディランの歌の力を呼び覚まし、聴く者の胸を突くのです。

 「オー・マーシー」は89年9月にリリース。批評家に絶賛され、セールスも好調。50歳を前に、ディラン完全復活を告げました。何事につけ辛口なディランですが、ラノアの的確な仕事ぶりに対し深い尊敬の念を示した、と伝えられています。

2024年、カナダ再び

 ダニエル・ラノアは、既に古希を超えています。生ける伝説です。一方、プロデューサー業だけでなく、ミュージシャンとしても現役バリバリです。2022年9月には最新盤「プレイヤー、ピアノ」をリリース。聴けば、誰の胸の奥にもある懐かしい風景を喚起します。虚飾を排した純朴にした美しい音楽。

 今年4月には、ニュー・ブランズウィック州モンクトンを皮切りに、ケベック州、スプリング・ツアーが行われます。

 カナダが誇る偉大なる音楽家の1人です。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

バンクーバー市、1月11日をVancouver Asahi Dayに設定

上西ケイさんを囲んで、シム市長、市議、朝日チームと。2024年1月11日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
上西ケイさんを囲んで、シム市長、市議、朝日チームと。2024年1月11日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
上西ケイさん(前列中央)、シム市長(右から6番目)、丸山総領事(左端)と、上西さん家族、市議らと。2024年1月11日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
上西ケイさん(前列中央)、シム市長(右から6番目)、丸山総領事(左端)と、上西さん家族、市議らと。2024年1月11日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

 ブリティッシュ・コロンビア(BC)州バンクーバー市が1月11日をVancouver Asahi Dayに設定した。

 当日はバンクーバー市役所にケン・シム市長や市議が集まり、戦前のバンクーバー朝日軍で現在は唯一の存在となった元選手、上西ケイさんに宣言書を手渡した。

 シム市長らが読み上げた宣言書には、日系人への差別にも関わらず戦前の朝日軍が優勝するなど活躍したこと、1941年の真珠湾攻撃を機にカナダ政府による日系人への強制移動が行われたこと、朝日軍が2003年にカナダ野球の殿堂入りをしたことなどが記載され、また上西ケイさんについても1939年に内野手として朝日軍に加入、足が速く、堅実な守備で定評だったと紹介している。

 さらに2014年に設立された朝日軍の野球を引き継ぐShin-Asahiチーム、現在の朝日ベースボールアソシエーションについて、バンクーバー市に野球で貢献していると述べ、こうした功績により、1月11日をVancouver Asahi Dayに設定すると宣言している。

上西ケイさん、“Proclamation”を手に。2024年1月11日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
上西ケイさん、“Proclamation”を手に。2024年1月11日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

 1月11日は上西ケイさんの誕生日。宣言後にはシム市長や出席した関係者全員で「ハッピーバースデー」をプレゼント。今年102歳となった上西さんにとって何よりの誕生祝いとなった。

 シム市長は「こうして上西さんと朝日を招いてVancouver Asahi Dayを宣言できることはとても光栄」と終始笑顔を見せていた。

 在バンクーバー日本国総領事館・丸山浩平総領事はあいさつで、上西ケイさんと朝日のこれまでの貢献を称賛し、今後も若い選手たちに朝日野球へのガイド役となる存在であり続けてほしいと語った。丸山総領事は昨年8月に上西ケイさんに在外公館長表彰を贈っている。

“Proclamation”を読み上げるシム市長(中央)と市議ら。2024年1月11日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
“Proclamation”を読み上げるシム市長(中央)と市議ら。2024年1月11日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
左から、丸山総領事、上西ケイさん、シム市長。2024年1月11日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
左から、丸山総領事、上西ケイさん、シム市長。2024年1月11日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
上西ケイさんを囲んで、シム市長、市議、朝日チームと。2024年1月11日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
上西ケイさんを囲んで、シム市長、市議、朝日チームと。2024年1月11日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

(写真 斉藤光一/記事 編集部)

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6688 Southoaks Crescent, Burnaby BC V5E 4M7
TEL 604.777.7000 
info@nikkeiplace.org   centre.nikkeiplace.org

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状態の良い子供の本の寄付を受け付けています。ただし、その他の古本に関する受け付けは中止しています。

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常設展:「体験:世代を超えて受け継がれる、困難を乗り越え立ち上がる力」日系人の歴史を日本語で紹介しています。2階入場無料 。

ミュージアムショップ

日系の歴史の書籍、日本からの輸入品、地元作家によるハンドメイド品を取り揃えております。お気軽にお立ち寄りください。

会員募集
日本文化と日系人の歴史をサポートしましょう。会費収入は施設の維持費、展示、イベント、プログラムの充実に活用されます。会員の皆様には割引特典があります。

The Annual Raoul Wallenberg Day for Civil Courage 2024

We invite you to join us for our annual Raoul Wallenberg Day for Civil Courage, on Sunday, January 21, 2024, at 1:30 pm.  This year we will honour Wartime Civil Courage in Scandinavia.

In Autumn 1943, in German-occupied Denmark and Norway, many people defied Nazi policies that threatened the human rights and lives of their countrymen.

Holocaust educator Norman Gladstone will speak about the remarkable rescue of Denmark’s Jewish population in 1943.  Danish Jews were to be detained by the Nazis for deportation.  However, thousands of Danes courageously hid and then ferried them to safety in neutral Sweden.

Local researcher and author Tore Jørgensen will speak about the hundreds of Norwegian policemen who refused to collaborate with the Nazi occupiers.  These officers were sent to Stutthof Concentration Camp, where, with great solidarity, they helped other prisoners to survive.

We’ll show a documentary film, Passage to Sweden.  Sweden’s location, history, and neutrality during WWII changed the fate of thousands of Jews.  Swedish diplomats such as Raoul Wallenberg leveraged their influence in extraordinary ways to save Jews in both Scandinavia and Hungary.

The nineteenth annual Wallenberg Day will be held at Congregation Beth Israel, 989 W 28th Ave at Oak St, Vancouver.  Please see the attached poster for full information.

Admission is free and donations will be gratefully accepted at the door or online.  We are a registered charity; donations of $36 or more will receive a tax receipt.

We hope to see you there!

Regards,

Alan Le Fevre

For the Civil Courage Society (in honour of Wallenberg and Sugihara)

Media sponsor: Japan Canada Today

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