「いい旅」瀬戸 ~投稿千景~

エドサトウ

 「(江戸は)非常な活気であった。都市の規模としてはまだまだ京大阪にくらぶべきもないが、町で活動している商人、職人などの顔つきは上方の両都よりもはるかに活力にあふれているようにおもわれた。ーーー(庶民には勘がある。江戸にくれば職がある。物が売れる、という先々の利益だけでなく、江戸はやがて天下の中心になることを皮膚で感じ取っているのではあるまいか。)」関ヶ原合戦前の様子が司馬遼太郎著『関ヶ原』の中にある。

 かつては尾張藩の瀬戸は瀬戸物の生産のまちで一年中活気に満ちていたと思われる。中世頃から、この地方で生産されて、江戸や大阪に茶わんなどの食器が商品として運ばれていたようである。江戸のまちに住む庶民の住居のあとから瀬戸物と思われる陶器のかけらが出土している。当時としては少々ハイカラな色の陶器のかけらをみれば、江戸の人々も瀬戸物の食器を楽しんでいたようにも見えるのは庶民のささやかな楽しみを感じる。

 江戸時代から徳川家尾張藩の中心的な産業、日本における一種の産業革命とも思える産業であったためか、瀬戸の街は陶器の職人さんや、その商売人で昭和の時代まで続いて、賑やかで、威勢の良いまちであった。一年中、陶器を焼く窯の煙突からもくもくと灰色の煙が上がっていた。街の中心を流れる瀬戸川は陶器の粘土を溶かした白い水で、いつも白く濁っていた。

 その白い河の流れは昭和の時代も同じであった。僕たちが自転車で通学していた中学校へ行く途中にあるこの白い瀬戸川は僕たちの処にくると矢作川となる。僕の中学生のころには矢作川の北側は平野が広がっていて古くからの水田地帯である。かつて、徳川家康と秀吉が戦った長久手の古戦場に通じるこの坂道を僕たちが自転車で下って行くと矢作川の橋に出る。この橋のところで、豊臣秀次の軍が家康軍を襲うためここで野営をして朝食をしている時に逆に徳川軍に襲い掛かられて敗退している。橋を渡ったところに神社があるので、ここで朝食の炊き出しがおこなわれたのかもしれない。多くの兵が亡くなり、その亡霊がこの薄暗い竹藪の坂道の途中に夜になると現れるという言い伝えがあり、一人で帰り道に自転車から降りて、竹藪の薄暗い坂道を歩くのは少し怖い感じがした。

 この陶土で白く濁っていた白い川は、バブル経済がはじける前ころにはきれいな水となり、今頃は魚が泳いでいる。かつては上流の瀬戸川の両岸に1000以上の大小の陶器工場があったのが、今は300ぐらいだと瀬戸の商店街の年配の店主が話をしてくれた。

 陶器の窯の火が消えることもなく栄えてきた瀬戸のまち、職人さんたちは給料をもらうと一晩のうちに使ってしまう景気の良いまち、給料を全部使ってしまっても明日の仕事がある。明日があればお金は入ってくる。なんの心配もいらないという気分の職人さんたちが、多くいたのであろう。窯の火が入れば何日も昼夜、火は燃え続ける。窯の火の勢いが落ちるまで外に出て長椅子に座り込み将棋に興じたりして時間をつぶす。そういう将棋の文化が現在の将棋の名人藤井聡太君のような天才将棋少年を育てたのかもしれない。

 瀬戸の中心にある深川神社の近所には、職人さんたちが利用するのか多くの食堂や映画館など建ち並んでいたが今は閑散としたもので、ところどころで店も閉店していて、かつての賑わいはない。店主は言う。「若い人たちは別の職業につき、商店街の店の店主も高齢になり、店を閉めてやめていく人が多いので、本当にかなわんです」

 数日前の週末に、近所の広場でイベントがあって、多くの人出があったと言って、わざわざ携帯電話の写真を見せてくれた。若い人を呼び込む新しいまちづくり、たとえば、週末の休みに青空市を開き、新鮮な農産物とか若手陶芸家の作品を売る店とか、骨董品の蚤の市などをすれば、面白くて、賑わいが出てくるかもしれない。藤井聡太名人の勢いをもらい、瀬戸のまち頑張れ!

 今回、帰国した折に、瀬戸市の少し奥の方に住んでいる友と50年ぶりに再会して、楽しいひと時をすごした。過日、自宅でとれた柿を実家に届けてくれたと弟の方から連絡があり、ほのぼのとして嬉しかった。友よありがとう!

投稿千景
視点を変えると見え方が変わる。エドサトウさん独特の視点で世界を切り取る連載コラム「投稿千景」。
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