アレキサンダー・ストリートにある、バンクーバー日本語学校並びに日系人会館(VJLS-JH。以下、「日本語学校」)。1906年に設立された非営利団体で、校舎はカナダ政府が日系人強制移動当時に没収した資産の中で、戦後日系人に返還された唯一の建物という。カナダの日本語学校では最も古い歴史を誇る。
その日本語学校の隣に生活困窮者のシェルターが一時的に移転してくるという。園児の安全を懸念する読者から、シェルター計画について調べてほしいと編集部にEメールで連絡があった。
学校のウェブサイトの情報から歴史を振り返るともに、シェルターの運営団体ファーストユナイテッドチャーチのカメロン・ランズダウン博士とコミュニケーション担当アマンダ・バロウズさんにZoomインタビューして聞いた計画について紹介する。
前編では日本語学校、後編では移転計画についてリポートする。
日本からの移民や日系人とともに歩んできた日本語学校
日本語学校は、1905年、当時の小村寿太郎外務大臣がバンクーバーに立ち寄り、森川領事に日本国民教育を目的とした学校の設立を奨励して150ドルを寄付したことがきっかけに生まれたという。
当時日本人街があったエリアに、仮校舎の「晩香坡共立日本國民學校(当時の学校名)」が1906年に開校。戦前は地域に住んでいた日系の子どもたちが朝からストラスコナ小学校に通い、放課後の「アフタースクールプログラム」として毎日、日本語学校に通った。
現在、日本語学校のある475 Alexander Streetに、日本語学校校舎並びに日系人会館が移ってきたのは1928年のこと。この校舎は1995年にバンクーバー市歴史的建造物に、さらに2019年にはカナダ国定史跡に指定された。
ピーク時には1010人の生徒が学んでいたが、1941年の太平洋戦争勃発により、学校閉鎖の命令を受ける。1942年には日系人強制移動・財産の没収が始まり、日本語学校の校舎も国防相に賃与された。
日系人はブリティッシュ・コロンビア(BC)州内陸部やオンタリオ、アルバータ、マニトバ州などへ強制移動させられて、コミュニティはバラバラになった。
戦争による学校閉鎖を経て、戦後再開
戦争が終わってもすぐに学校を再開することはできなかった。授業を再開したのは終戦から7年後の1952年。その後、日系2世、3世や新移民の子どもたちが日本語を学ぶ場所、またカナダで日本文化を体験できる場所としての役割を果たしてきた。
20年ほど前に家族でイベントに参加したという女性は「カナダ生まれの子どもたちがお餅つきに参加しました。七五三の撮影もしていただきました。娘は杵でお餅をついたのが楽しかったようで、今でもその時の話をすることがあります」と振り返る。
1988年に戦時補償問題の合意が全カナダ日系人協会とカナダ政府の間で締結され、コミュニティ基金、日系カナダ人リドレス基金の設置が決まった。
日本語学校にも新校舎及び日系人ホールを建設しようという計画に対して基金から140万ドルが寄託され、新校舎が1999年に完成した。
完成に合わせて1999年には幼児教育部門としてプリスクール「こどものくに」の運営が始まった。ジャパニーズイマージョンというコンセプトで3歳から6歳の子どもたちが通っている。
プレスクールに子どもを通わせているという保護者の一人は、(バンクーバー日本語学校のあるエリアは)「少し行くと、デザイン事務所や衣料会社のオフィス、家具屋のショールームなどがあり、学校自体も通わせていて、危険は感じません」と現状について語る。
さらに「(パンデミック)以前は子どものクラスが終わるのを待っている間、図書室でほかのお母さん方と下の乳児をあやしながら話をしたり、ランチルームで子どもたちにお昼を食べさせてから体育館で遊ばせて帰ったりなど、とても良い交流の場になっていました」と振り返る。
この保護者はバンクーバーイーストサイドの問題は「私も答えがわからない」としながらも「日本語学校にとっても問題が大きすぎるのでは?」と問いかける。
(後編に続く)
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