アート・ミキ氏、マルルーニ首相でなければリドレスは成立しなかった

 ブライアン・マルルーニ元首相が2月29日死去した。84歳だった。第18代首相として、アメリカとの自由貿易、GST(Goods & Services Tax)導入、国営企業民営化など、カナダの転換期となる経済政策を実行したことで知られる。

 多くの政治家や関係者が思い出や功績を語るが、その中に1988年のリドレスはない。

 しかし日系カナダ人コミュニティにとってマルルーニ氏は、戦時補償について合意し、カナダ政府として謝罪した首相として深く記憶に刻まれる。

 1988年9月22日、マルルーニ首相は全カナダ日系人協会・会長アート・ミキ氏とともに戦時補償問題の合意書に署名した。

 当時のマルルーニ首相の印象を聞くと、ミキ氏は昨年12月に出版された自身の著書「Gaman – Perseverance: Japanese Canadians’ Journey to Justice」を引用した。そこには、署名直後のマルルーニ首相の言葉があった。

 「『ここにいるあなたやコミュニティのリーダーの皆さん、中には86歳や87歳の個人的に(強制収容)を経験された方々もいますが、皆さんに向けて私が言えるとすれば、今日この日は、日系コミュニティにとっても、カナダにとっても、長い間待ち続けてきた瞬間であり、寛容さと正義の瞬間だったと思います。私は、カナダの公平性を信じてくれた日系カナダ人の皆さんのためにこれを実現したかったのです』。それからマルルーニ氏が拍手を始めると、周りからも拍手が起きた」。(日加トゥデイ訳)

 カナダ政府による日系人強制移動政策は1942年初めから始まり1949年3月末まで続いた。リドレス運動は1977年、日系カナダ人100年祭を機にその動きが高まり、1984年ミキ氏が全カナダ日系人協会・会長に就任して本格的に始まった。それから4年、紆余曲折を経てその日を迎えた。政策終了から約40年がたっていた。

 著書には、署名のために階段を下りて会場へ移動する時のマルルーニ首相との会話が引用されている。長い時間がかかったが待つに値する時間だったと言ったミキ氏に、「これが正しいことだと他の議員を説得するに時間がかかった」と答えたという。その言葉にマルルーニ氏がもっと早くに補償問題を解決したかったという意思が見えたと回顧している。

 またその気さくな人柄も著書の中で紹介した。引用したのはミキ氏が当日署名のために待機していた部屋でのできごと。マルルーニ氏が入ってくる前に首相を何と呼ぼうか悩んでいると入ってくるなり、“Hello, Art”とファーストネームでミキ氏を呼んで握手を求められ、自分もなんのためらいもなく“Hello, Brian”とファーストネームで返したと当時を振り返っている。

 ミキ氏にマルルーニ氏とのエピソードを聞いた。10年後のリドレス10周年にマルルーニ氏と妻ミラ氏にトロントで会ったという。リドレスが日系カナダ人コミュニティにポジティブな影響を与えたと告げると、政府の補償額はいくらだったのかと聞かれ、補償額を知らなかったことに驚いたと振り返った。金額を告げると特に驚いた様子を見せなかったという。長男のベン氏も同席しており、マルルーニ氏は日系カナダ人から認められていることを喜んでいるようだったと回想した。

 「もし、ブライアン・マルルーニ氏の正義と人権に対する個人的な尽力と、ルシアン・ブシャール氏の強力なサポートがなければ、1988年の和解は実現しなかっただろうと思います」とミキ氏。著書の中で署名直後のマルルーニ首相の言葉の後に「今日は、私たちのコミュニティにとってだけでなく、人権問題にとっても歴史的で画期的なできごととなるでしょう」とミキ氏が返している。そしてその通りとなった。ミキ氏は、このリドレス合意は、後にウクライナ人、中国人、先住民族に謝罪と補償を与える前例となったと説明した。

 「マルルーニ家の人たちは気さくで話しやすかった人たちでした」とも振り返った。10年たっても署名前に気さくにファーストネームで呼んで握手を求めたマルルーニ首相と変わっていなかったようだ。

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 3月23日、ブライアン・マルルーニ元首相の国葬がモントリオールで行われた。ジャスティン・トルドー首相をはじめ、多くの関係者が別れを惜しんだ。

 全カナダ日系人協会は3月1日にフェイスブックで声明を発表し、哀悼の意を表した。

(記事 三島直美)

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