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第65回 しっくりしない「国葬」

 社会に大変な衝撃を与える事件が発生した後は、日を追うごとにメディアによって次々に詳細が明るみに出るため、しばらくの間人々はそのニュースを追うことに必死になる。

 6月28日にDuncan市出身の双子の兄弟が、ビクトリア市内のモントリオール銀行に押し入った強盗事件の時も例外ではなかった。だが犯人たちは現場で警官に射殺されたため、彼らのバックグランドが分かるまでにはしばらくの時間を要した。その間当地の人々はその話で持ち切り。日系人や移住者の間では、事件の銀行がよく名の知れた日本食料品店の真横であったため驚きも一塩だった。

 数日後犯人たちの写真がメディアに流されたのだが、二人共一見は爽やかでハンサムな22歳の白人の若者であった。多くの人が「何故?」という疑問を持っても不思議ではなかったためか、カナダ社会では口には出さないまでも、そのショックはひと際大きかったようだ。もし彼らが有色人種か先住民であったなら、きっと違った反応であったろう。

 北米社会での銃撃事件は余りにも日常茶飯に起こる。だがそうは言ってもこの風光明媚で穏やかな町での銀行強盗である。「ビクトリア、お前もか?!」と思った人は多かったのだ。

安倍元首相の銃撃事件

 同じように安全神話が崩れたと思われた出来事は、日本の参院選2日前に奈良で起こった安倍元首相の殺害事件。日本はもとより、世界中の国々がニュースとして採り上げた。

 事件直後には「言論の自由に対する挑戦、民主主義の危機」等とコメントした有名なジャーナリストもいた。だが真相が日ごとに明るみに出るに従い、そんな視点はピント外れで、犯人が抱える個人的な何とも痛ましい動機であったことが分かって来た。

 建設業を営んでいた父親が急死し、母親が心の拠り所を信仰宗教に求めて入信。その後支えていた祖父も亡くなり、多額の献金を母親が継続したため食事にも事欠くようになった生活苦。子供心にもその宗教団体(旧統一教会=世界平和統一連合)をどれ程恨み、憎しみが助長して行ったかは容易に想像出来る。

 とは言え、銃殺などは決して許されるものではない。だが情報によれば、安倍氏は同教会のイベントにメッセージを送ったことがあるとか。犯人はそれ故に安倍氏と教会の関連を見たのか?真相は今後何処まで明かされるかは疑問である。

 信仰宗教の甘い勧誘に乗せられて一人の人間が正気を失い、そのあおりで家族が崩壊する。今更説明するまでもなく、麻原彰晃のオウム真理教のようにその恐ろしさは良く知られている。

「国葬」に相応しい?

 岸田首相は事件から数日後、費用は全額国費で安倍氏の葬儀を国葬とし秋に実施すると表明した。外国からの参列者や物価高を考慮すると2億円はかかるとか。

 告別式を迎えた4日後に、安倍氏の棺を乗せた車が数多くの人々に見送られながら総理官邸や国会を巡って最後の別れをしたのだが、これでは十分ではない様である。

 勿論どの国の総理大臣や首相でも完璧な人はいないのは分かるが、安倍氏も負の側面の大きい政治家だった。「森友学園」を巡る疑惑では、財務省による公文書改ざんや記録破棄もあり、職員が自殺に追い込まれた。また「桜を見る会」前日の夕食会問題では、国会で事実と異なる説明を100回以上も繰り返したと言われている。

 岸田首相の「民主主義を守り抜く決意」と何処かチグハグの感が否めない。

 それにしても今回何度もニュースに出て来る安倍氏夫妻の豪邸には誰もが驚いたようだ。家系図を見れば、祖父(岸信介)、父親(安倍晋太郎)、親戚にも政治家が多く裕福な家庭に育ったことが伺える。

 こういう人が地道にコツコツ働く庶民の代表として「天下国家」を論じていたのかと思うと、そのチグハグさに何か鼻白む思いを感じるのは私だけだろうか。

サンダース宮松敬子 
フリーランス・ジャーナリスト。カナダに移住して40数年後の2014年春に、エスニック色が濃厚な文化の町トロント市から「文化は自然」のビクトリア市に国内移住。白人色の濃い当地の様相に「ここも同じカナダか!」と驚愕。だがそれこそがカナダの一面と理解し、引き続きニュースを追っている。
URL: keikomiyamatsu.com/
Mail: k-m-s@post.com
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第64回 広がる多様な生き方

  日本が過日発表した2021年度の合計特殊出生率(一人の女性が一生の間に産むと見込まれる子供の数)は1.30で、前年の1.33より更に0.3ポイント低下した。過去には2015年に前年より多少上昇したが、以後は6年連続で低下が続いている。

 しかしこの傾向は日本のみならず韓国も同様で、二月に発表された数字は0.81となっており、また中国でも「子供不要」とする世帯が25%にも達しているという。

 こうした数字の裏に潜むそれぞれの理由について頻繁に耳にするのは、今を生きる若い女性たちが「子を産む」という選択肢以外にも、より自分らしい生活スタイルを選びたいという欲望を持つ人が増えていることが挙げられる。

 この潮流はまだ「大きなうねり」になっているとは言えないまでも、近年はそれが可能である社会的傾向が加速しているのは確だ。

 加えてこの2、3年の新たな理由は、以前にはなかったコロナという世界的な感染病問題や、昨今ではロシア対ウクライナの戦争も暗い影を落としている。戦禍を直接受ける生活ではないにしろ、インフレの加速による物価高、不動産や教育費の高騰などなど・・・共感疲労も広がっている。確かに「子を産んで楽しい家庭を作りたい!」と希望しない若者が増えても無理ないと思える。

養子という選択

 とは言え、若い時は自由にやりたいことや生きたい道を選んでも、ある時子供が欲しいと思った時、残念ながら女性には「出産可能な年齢」と言うものがある。日進月歩の医学の発達で、高年齢出産も珍しくはなくなったが、母子ともに危険が伴う比率が高い。その線引きの一つは更年期を過ぎたかどうかということになるようだが、これは男性にも言えることで、年齢と共に精子の衰えが顕著になる。また男性の場合は、年齢に関係なく「無精子」という人もいて、女性の妊娠が不可能になる場合も珍しいことではない。

 個々にいかなる理由があるにせよ、もし自身以外の子供を育てたいと望む場合は「養子を迎える」という選択肢があるのは嬉しいことだ。

 これは個人的な体験であるが、ビクトリアの2、3世グループの集会に参加すると、主に白人夫婦が東洋人の顔の子供を連れている家族に出会うことがある。生物学的な見地からすると、それは珍しい組み合わせになるのだろうが、聞けば日本から国際養子としての手順を踏んで家族の一員として迎え、実母との連絡もあるのこと。いかに愛おしく大事に育てているかが伺い知れ、傍から見ても微笑ましい光景である。

サンダース宮松敬子提供
サンダース宮松敬子提供

ビクトリア市の例

 世界を見渡せば出生率が低い国は一般的に先進国に多いが、生まれる子供の数が少ないことで将来問題になるのは、言わずと知れた少子高齢化である。

 ではカナダの率はと見れば、2020年の統計では1.4で、成人後も親と同居している率や、第一子の出産年齢も30歳過ぎる傾向が強いという。

 中でもカナダ国内で一番出生率が低いのはビクトリア市で0.95、次いでナナイモ市、バンクーバー市と続く。西海岸の中でも一番気候が温暖なビクトリア市は、東方面の酷寒の町々からリタイア後のシニアが続々と集まることで有名である。統計の数字などを見なくても、昼間町中を歩けばそれは一目瞭然だが、一方IT産業に従事する若者もかなりいてビジネスの発展に寄与していると聞く。この町が「newly wed & nearly dead」と揶揄されるのが頷ける。

サンダース宮松敬子 
フリーランス・ジャーナリスト。カナダに移住して40数年後の2014年春に、エスニック色が濃厚な文化の町トロント市から「文化は自然」のビクトリア市に国内移住。白人色の濃い当地の様相に「ここも同じカナダか!」と驚愕。だがそれこそがカナダの一面と理解し、引き続きニュースを追っている。
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第63回 戦争と性犯罪

 戦争が勃発すると決まって問題になるのが、紛争下で逃げ惑う婦女子への、侵略側兵士による性暴力である。ジュネーブ条約の国際規制には、民間施設や民間人への攻撃は「人道に対する罪」として戦争犯罪に問われる対象になるとある。だが一たび戦闘が開始されれば、この3カ月程のロシア軍のウクライナ侵攻を見ても分かるように、そんな規制はないも等しいかに見える。

 日々目にするニュースには「殺される直前にレイプされていたウクライナ女性たち、遺体から証拠…」「ロシア兵に母親がレイプされ殺される現場を目迎した少年…」「14歳の少女がレイプされ、妊娠…」と言った見出しが飛び交う。

 だが戦争のどさくさにおける性暴力は、単に兵士の「性のはけ口」だけが目的ではなく、民間人や捕虜の戦闘意欲を萎えさせるための武器として実行される場合もあると言う。

 いずれの理由にしろ、ウクライナの人々は晴天の霹靂で日常生活を奪われ、戦場と化した故郷から命からがら避難するだけでも大変なのに、かてて加えて、性暴力の対象になった女性たちの心情は如何ばかりか…。その後例え生き延びたとしても、体験した忌まわしい記憶は永遠に脳裏から離れず、精神的に完全に立ち直れるかの保障はない。

 彼女たちは戦争を、独裁政治を、そしてプーチンをどれ程憎んでいる事だろう…。

戦場での残虐性 

 「戦場での狂気と横暴」といえば、第二次世界大戦の終結直後、満州に侵入して来たソ連(当時の呼称)軍が、引き揚げ船に乗るのを待つ日本からの移住者――多くは満州開拓団の家族たちに行った暴行、強奪、殺戮、特に女性たちへの強姦などは、目撃した人の証言によれば、目を覆う惨状だったと言う。

 また歴史的背景やその他の状況は完全に異なるものの、第二次大戦中当時の日本軍による韓国女性に対する「慰安婦問題」は、終戦から77年が経過した今もくすぶり続けている。

 日時が過ぎるに従って、生き残りの当事者は殆ど亡くなっているものの、それ故に、サポートをする若い韓国人たちの日本に対する政治的、社会的、文化的な背景が複雑に絡み、日韓両国の言い分や要求に食い違いが生じている。つい先日新政権になったユン・ソギョル大統領は、二国間の関係改善に力を注ぐ姿勢を見せているが、今後の出方が注目される。

 だがかく言う韓国も、米国によるベトナム戦争では米国側の要求に応じて派兵し、その際にはベトナム女性を多数強姦したり、その後虐殺したりのケースも多かったと報告されている。このレイプによってベトナム女性が産んだ混血児は「ラダイハン」と蔑称で呼ばれ、その数は5000~3万人にものぼるとの報告もある。だが韓国はベトナムに対し、正式の謝罪はしていないと聞く。

 戦争には付き物のこうした悲劇には、多くの映画制作もなされた。その一つは、女優・映画監督であるアンジェリーナ・ジョリーのボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992~1995)を描いた作品『In The Land Of Blood And Honey(最愛の大地)』(2011)である。大分古い映画だが、スクリーンを直視出来なかった場面が幾つもあったのを覚えている。

初の戦争犯罪裁判 

 5月15日には「ロシア軍兵士の戦争犯罪裁く初公判、キーウで開かれる」とのニュースが全世界に発信された。被告は21才の戦車部隊所属の若者である。彼は命令に従って、武装していない62歳の民間人に発砲し殺害した疑いがもたれており、もし有罪になれば最高で終身刑になる可能性があると言う。

 もちろん無防備な民間人を狙撃した事には何の言い訳もできない。だが命令に従わなかったなら、彼自身が上官に殺されたかもしれない。どういうバックグランドの若者か知る由はないが、彼も人の子、もし親が存命であるならどんな思いで息子の行く末を見守っているのだろう。

 いずれの戦争でも、その指導者たちが容易に悪魔のようになってしまう恐怖に戦慄を覚えずにいられない。一日も早い終戦を切望する。

ロシア軍によるウクライナへの侵攻は続いている。Photo courtesy of Keiko Miyamatsu Saunders
ロシア軍によるウクライナへの侵攻は続いている。Photo courtesy of Keiko Miyamatsu Saunders

サンダース宮松敬子 
フリーランス・ジャーナリスト。カナダに移住して40数年後の2014年春に、エスニック色が濃厚な文化の町トロント市から「文化は自然」のビクトリア市に国内移住。白人色の濃い当地の様相に「ここも同じカナダか!」と驚愕。だがそれこそがカナダの一面と理解し、引き続きニュースを追っている。
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第62回 難民/避難民/準難民

碧眼、金髪、白い肌

 先日日本のある友人とスカイプで話しをした時、ウクライナ戦争で祖国を追われ逃げ惑う人々が話題に上った。

 つい最近の日本からのニュースでは『ウクライナ侵攻に伴う避難民の受け入れのために、難民条約上の「難民」に該当しない紛争地からの避難民たちを「準難民」と位置付ける法的枠組み制度の創設を検討している』とのことで、当然ながら友人もそれを知っていた。そこで「日本ではその純難民が550余人になったとかだけど、一般の人たちの反応はどうなの?」と聞いてみた。彼女曰く「個々の市町村にもよるけれど、随分と盛り上がっていて、手を差し伸べる公共の団体や組織も多く、また有名人もかなりいるのよ。黒柳徹子もその一人」と言う。

 続けて「それにしてもウクライナの女の人達って綺麗な人が多いわね。特に子供は可愛らしいの。ああいう人たちが戦火に追われて自国を後にしていると思うと何とかしてあげたいと思うのよ」との返事が返って来た。

  私は「なるほどね…」と思いながら、ちょっと意地の悪い質問をぶつけてみた。「じゃあ、見た目が良いと同情を買う率が高いってことね?」と言うと「そういうわけではないけど…、ニュースなんかで白い肌で青い目の金髪の子供が、お人形なんか抱いてじっと母親の傍にいるのを見ると、やはり涙をそそられるわ」との返事。

 この会話で私の脳裏に浮かんだのは、戦争が始まって10日ほど立った3月初旬、あるニュース媒体が流した「『青い目の人々が殺されるのは感情的になる』報道が露呈する人種差別」と言う記事であった。これは英国の某放送局のインタビューに、ウクライナの元次長検事が上記のように答えたものだった。後にジャーナリストはその場で異議を唱えなかった事を陳謝したが、他にも「ウクライナはイラクやアフガニスタンのように何年も紛争が続いている場所とは違う」といった比較論的な記事も掲載されていたのを思い出す。

 世界を揺るがし終息の見えないウクライナ戦争。奮闘するジェレンスキー大統領の勇気を讃え、彼等に手を貸す欧米諸国の中にも、政治的な意味合いばかりではなく、口には決して出さないまでも、人種に対する隠された同情的感情があるのかもしれない…と、ふと考えさせられてしまった。

日本の難民受け入れ問題 

 アジアの国々の中で唯一G7の一員である日本は、最初の内は仲間と足並みを揃えることに息せき切っている感があった。だが最近は、ウクライナ侵攻のロシア軍による殺害行為を「戦争犯罪」だとする欧米の意見に賛成する首相を「支持する」が88%を占め、岸田内閣の支持率も55%で政権発足以来最高になったと言う。

 とは言え難民問題は日本政府の政策の中で、一番不得意とする分野であることは広く知られている。今回は「準難民」と言う形で対処することになるようだが、それは流出するウクライナ難民500万人の内の0.011%でしかない。

 もちろん諸々の政治的条件はウクライナとは全く違うものの、去年ミャンマーの国内で起こった暴動の際に、国軍に迫害を受ける恐れのある多くの人々がいた。だが日本政府が難民と認めた人は殆どいなかったとされ、加えてアフガニスタンからの難民も民間人が手を貸している以外には皆無のようだ。

 何はともあれこのウクライナの人々を「準難民」と制定するのを機に、日本政府、日本国民は長い間の懸案である難民問題、ひいて移民問題にもしっかり向き合い開かれた国になる事を心から願っている。

ウクライナをサポートする日本の人々。Photo courtesy of Keiko Miyamatsu Saunders
ウクライナをサポートする日本の人々。Photo courtesy of Keiko Miyamatsu Saunders

サンダース宮松敬子 
フリーランス・ジャーナリスト。カナダに移住して40数年後の2014年春に、エスニック色が濃厚な文化の町トロント市から「文化は自然」のビクトリア市に国内移住。白人色の濃い当地の様相に「ここも同じカナダか!」と驚愕。だがそれこそがカナダの一面と理解し、引き続きニュースを追っている。
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第61回 広島の被爆者活動家サーロー節子さんの悲痛な願い

~「原発だけには何があっても爆撃しないで!」~

 時事問題のニュースを私なりに追っている物書きとしては、どうしてもこの時期にウクライナに関する原稿を一本書きたいと思っていた。だが事態は刻々と変化しており、この原稿を書いている14日(月)の状況と、読者の目にふれる17日(木)までに戦況がどの様に変化しているか見当はつかない。

 国際法無視の限りを尽くしているプーチン大統領。「気が狂ったか?!」と迄言われる強硬姿勢は2月24日の開戦以来今日で18日目を迎えた。世界中が日々の動きを注目しているものの、ロシア軍はキエフ陥落を目指しているようで撤退などする様子は全くない。

 ここに至るまでのロシアの政治的/歴史的な成り行きを始め、G7などを中心にしたロシアに対する経済的締め付け、戦場で取材するジャーナリストたちからの破壊されたウクライナの街々の状況は、間断なく茶の間に届けられる。だがSNSの拡散などで、信憑性に疑問を感じるものも少なくないため注意を要する。

 この状況はコロナが蔓延し始めた二年余り前、病原菌に世界中が脅かされ右往左往した時を彷彿とさせる。あの時も各方面からの情報が錯綜し、正誤の判断の難しさを感じたものだ。

難民の受け入れ 

だが今回は武器を使っての戦争である。それまでは平穏に暮らしていたウクライナの人々が、取るものも取り敢えず雪のチラつく中をスーツケース一つで逃げ惑う姿は、凝視するのが困難である。

 青天の霹靂で難民になった人々の多くは、女性、子供、老人でその数は現在までに260万人と言われる。しかし近隣国に親戚、友人、知人が居る人ばかりではなかろう。身寄りがなく、独り身の人々もいるであろう。地下鉄の構内で産気づき子を産んだ人、爆弾で子供を失くしたりけがを負った人、祖国のために戦う夫、息子、兄弟を残して国を後にした家族…。乳飲み子のオムツは? 若い女性の生理用品は? 老人の常備薬は? 考えただけでも胸がキリキリと痛む。

 こうして多くの欧州諸国が、数えきれない難民を急遽受け入れているのに反して、日本では「まずは親族や知人が日本に居る方々を受け入れる」とし、その後は「適切に認定する」と言うにとどまっている。手始めとして、訪日希望者に対して在外公館は90日間の短期ビザを発給していると言うことだが、彼らのステータスは『難民(refugee)』ではなく『避難民(evacuees)』であり、11日までに8人が日本に到着したと言う。

 日本の難民受け入れのハードルが高いことは良く知られているが、ちなみに2020年に難民申請した3936人の中で認定したのはわずか47人で1.19%、カナダは56%であった。

原発への爆撃

欧州最大級のジャポロジェ原発のニュース。Photo courtesy of Keiko Miyamatsu Saunders

 今までの戦況経過の中で誰もが一番恐れたのは、ロシア軍が制圧したチェリノブル原発(1986年に爆発事故を起こし現在は閉鎖されている)と、欧州最大級のジャポロジェ原発のニュースではなかったろうか!

 ウクライナ原子力規制当局によると、同国の4カ所にある15基の原子炉の内現在は8基が稼働中という。現時点では放射線レベルは正常とのことだが、今後ロシア軍が他の原発を標的にしないとは限らない。一たびロシアがそうした愚行を行ったら、生きとし生ける者たちの苦しみは如何ばかりか。放射能汚染やその被害の恐ろしさを世界で一番よく知っているのは日本である。

ドキュメンタリーフィルム、『The Vow from HIROSHIMA(ヒロシマへの誓い)』と題する
ドキュメンタリーフィルム、『The Vow from HIROSHIMA(ヒロシマへの誓い)』。Photo courtesy of The Vow from HIROSHIMA

 折も折3月6日には、National Association Japanese Canadian(NAJC)の肝いりで、『The Vow from HIROSHIMA(ヒロシマへの誓い)』と題するドキュメンタリーフィルムがzoomによって上映された。

 主人公は、13才だった1945年8月6日に原爆投下された広島に住んでいたことで被爆し、以来心身ともの苦しみを背負いながら、長い年月核兵器廃絶の活動を続けるサーロー節子氏。70数年に渡りその恐怖と愚かさを語り継ぎ、90才のご高齢の今も不屈の精神を持って精力的に活動をしている。

 2017年にノーベル平和賞を受賞したグループ「I CAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)」の発足当時から代表を務め、国連を始め世界各地での国際会議で演説し、ノーベル賞授賞式では一段と力強いスピーチを行い、世界へ向けて核廃絶の重要性を説き満場の拍手を浴びた。

*4年を掛けて制作されたドキュメンタリー映画のプレス資料/予告編:https://www.hiroshimaenochikai.com/trailer.html

*個人で観賞する場合にはNetflexと同様に以下を通して申し込むことが出来る:

https://www.ovid.tv/videos/the-vow-from-hiroshima

https://www.ovid.tv/checkout/subscribe/purchase

 サーロー氏はロシア軍に対して「何があっても原発だけは爆撃しないで!」と悲痛な思いで祈願している。

追記:
3月16日(水)の日本経済新聞によると、「日本は難民受け入れに慎重な姿勢を改める異例の対応をとる。岸田文雄首相は15日、古川禎久法相らと協議しウクライナからの避難民の受け入れ体制づくりを指示した」とあるが、あくまでも「避難民」と言う言い方に固執している。

サンダース宮松敬子 
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第59回 「母語」の不思議

忘れえぬ記憶

 年齢を重ねたシニアは、よく昔の話を繰り返す。これは脳の記憶を司る部分に、過去の出来事が何度もよぎるからで、そのため昔の事は鮮明に覚えている。一方昨日や今朝のことは、旋回回数が少ないため記憶に残らないのだとか。医学的な真意は不確かだが、聞きかじりのこんなセオリーには「なるほど!」と思え説得力がある。

 これで思い出すのは、昔ドイツ系のカナダ男性と国際結婚した日本女性の義母にまつわる話である。しっかり者のこの老夫人がカナダに移住したのは12,13才の幼い頃だった。もちろん初めこそ英語に慣れるのに子供なりの苦労はあったようだが、すぐに英独両語を完璧に使いこなせるバイリンガルとして成長した。

 ところが老齢期に入り85才頃から認知症の症状が出始めると、英語がすっぽりと抜け落ち、ドイツ語のみでしか用が足せなくなってしまった。ということは、息子の日本人妻とは会話が成り立たない。あれほど頭脳明晰だった義母の変わりように、彼女はただ唖然としたが、息子とは最後まで心の通うコミュニケーションが出来たと言う。

 もちろん人によって千差万別とは思うものの、母語とは不思議なもので、幼少期に育まれた言語は何年経っても忘れることなく記憶に残るようだ。

奪われた言語 

 話しは飛ぶが、去年の春カムループス市の元Indian Residential School(IRS)の跡地から、墓標のない先住民(含メティス/イヌイット)の子供の遺骨が何体も発見された。それを皮切りに各地に残るIRSの多くの跡地に同様な墓地が幾つも存在することが分かり、ショッキングなニュースとして世界に流された。

 周知の通り北米は、元々は先住民が住む土地に欧州を中心とした国々から多くの白人が移住して成り立ったのである。カナダも歴史的な紆余曲折の末に、John A Macdonald氏が1867年に初代首相に選出され建国のために功績を残している。だが残念ながらその中の最大で最悪の政策の一つは、欧州人と相いれない先住民に白人社会への同化を強制した事である。その手段として4~16才までの子供を親元から離し、寄宿生活をさせて言語、文化、宗教など、彼らがよって立つ軸とする物すべてを剥奪した。1996年には全国で15万人以上が在籍したと言う最後のIRSは閉鎖された。

 だがその間に子供たちは、受け継いだ先住民の言語使うと体罰を受けるなど厳しく制限され、英語のみの教育を施された。そのため家族や種族内の世代間のアイデンティティの喪失が生じ、後々までトラウマを抱えての生活を強いられることになったのである。

UNESCOの活動

ユネスコロゴ。Photo Photo courtesy of UNESCO
ユネスコロゴ。Photo Photo courtesy of UNESCO

 折しも今年はUNESCOの分科会が、向こう10年に渡り活動する「International decade of Indigenous Languages 2022‐2032(国際先住民言語年2022-2032)」の初年と位置付け、カナダにイニシャティブを執ることを薦めている。

 その理由は北方のNunavut準州では、人口(約39,000人)の70%は先住民語のInuktitut語を話しているにもかかわらず、学校での教育は英語のみ。そのためシニアが緊急で911に電話しても、オペレイターは出来ない等の不具合が生じているのである。ケベック州が仏語の存続に躍起になっているように、今後は国策として英仏の二言語国家から、Inuktitut語を加えた三言語国家にすべきであるとアドバイスしている。

 統計によると、現在世界には7000に及ぶ異なった言語が存在するが、そのうちの40%は滅亡の危機に晒されていると言う。恐らく日本のアイヌ語もその一つと言えるのではなかろうか。

© Shutterstock

サンダース宮松敬子 
フリーランス・ジャーナリスト。カナダに移住して40数年後の2014年春に、エスニック色が濃厚な文化の町トロント市から「文化は自然」のビクトリア市に国内移住。白人色の濃い当地の様相に「ここも同じカナダか!」と驚愕。だがそれこそがカナダの一面と理解し、引き続きニュースを追っている。
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第58回 詩集「I will be more myself in the next world」増谷松樹著

初めての詩集を上梓

 私はこの翻訳家であり詩人である増谷松樹氏(76)と、いつ、どの様にして知り合ったのかはっきりとは覚えていない。だが余り物事にこだわらない飄々とした風体と、柔らかい笑顔だけはずっと忘れずにいた。

 そして長い間のご無沙汰の末、数年前に西海岸に集約したある日系史の英語本を、グループ翻訳するチームを立ち上げた時、今はDenman Islandに住んでいる氏と、又ひょっこり連絡を取るようになった。

 氏が今までに翻訳/出版した著書の中で、カナダで一番知られているのは、日系二世のロイ・キヨカワ氏が、土佐からカナダに移民して100才まで生きた母親の、過ぎ越し方を著したものを翻訳した「カナダに渡った侍の娘 ある日系一世の回想」や、ヒロミ・ゴトー著「コーラス・オブ・マッシュルーム」であろう。

 以後しばらく間があったが、氏はこの秋、Salt Spring Islandに拠点を持つMother Tongue Publishing 出版社から「I WILL BE MORE MYSELF IN THE NEXT WORLD」と題する詩集を上梓した。

   氏はロイ・キヨカワ氏がまだ存命のころ、英語で詩を書くことを勧められたものの、母語は日本語であることから躊躇していた。だが彼が亡くなって何年か後に徐々に日英両語で詩を書き始め、以来温めていた幾つもの詩編を集めたのがこの処女出版に繋がった。

 上梓に至るまでには、培った仕事関係の人たちからの多いなる尽力があったものの、中でも氏の長女であるHanakoさんとその文学仲間たちの協力は大きかった。

 詩集は7編のカテゴリーに分かれており、Marriage(結婚生活)、 Japan(日本)、 Island Life(島の生活)、 Chemo(抗がん剤治療)、 Parkinson’s(パーキンソン病) Old(老い)、Grandchildren(孫)と題され、その幾つかは日英両語でしたためられている。

 とは言え、それは逐一の対訳であるとは限らないのだが、それがまた両語のニュアンスの違いを味わうことができ面白味を増している

 全編の流れは、日々の生活の中で氏がふとした時に感じる想いを、簡潔に淡々と、時にリズミカルに書き記している。そこここに軽い自嘲のユーモアも感じられ、読む者はその可笑しさに笑いを誘われる。

翻訳家であり詩人である増谷松樹氏。Photo courtesy of Keiko Miyamatsu Saunders
翻訳家であり詩人である増谷松樹氏。Photo courtesy of Keiko Miyamatsu Saunders

I was listening to
an old man
talking nonsense
on CBC radio.

He wasn’t up
to the points.
Just trying to
please the host.
I said to myself.
“What an old fart.” 
Then the host said,
“He is seventy-four.”

My age, exactly.

病気体験の記録 

  目次を見てすぐに理解出来るのは、氏が癌とパーキンソン病を患った経験の詩編が幾つかあることだ。恐らくその体験や想いを行間に綴っている時には、心身共に打ちのめされ、切ない思いを抱くこともあったに違いない。だがそれとても淡々と記しており、それ故に、読む者は悲壮感だけに流されない。

 以前これを文芸雑誌Capilano Reviewに発表した時、氏の友人の一人が同じ病を持つ女友達にメールした。それを受け取った女性は、キモセラピーの治療中幾度となく読み返したとか。こうしたエピソードは「書き続けたい気持ちに拍車が掛かる」と氏は述懐する。

 人は生きている限り人生がいつもバラ色とは限らない。だが何と言っても氏の一番の幸せは、元気なカナダ人の妻、愛してやまない三人の子供たち、成長著しい5人の孫たち全員が、氏の居住地から遠からぬ所に住んでいることだろう。

 いつの世も変わることのない「家族の強い絆」が、氏の人生の底辺を支えていることも読み取れる。

表紙の絵

Tumbo Islandの荒涼とした荒々しい風景をリノカットの技法を使って描いた表紙。Photo courtesy of Keiko Miyamatsu Saunders
Tumbo Islandの荒涼とした荒々しい風景をリノカットの技法を使って描いた表紙。Photo courtesy of Keiko Miyamatsu Saunders

 私がこの詩集を最初に手にした時、まず目を奪われたのは印象的な表紙の絵であった。本土とバンクーバー島を隔てるジョージア海峡には、数えきれない程の幾つもの島が点在する。その一つTumbo Islandの荒涼とした荒々しい風景を、Mimi Fujino氏がリノカットの技法を使って描いており、迫力のある筆使いが実に印象的である。

 その表紙の裏の詩評には、ジョイ・コガワ氏がカナダの詩人Fred Cogswellの“star people”について触れている言葉を引用し寄稿している:
「~彼ら(star people)は体内からある種の深い光明を発出している。松樹氏はその明るい星明りを持っている。彼に会えばそれが理解できるだろう」と。

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 詩集の購買: 出版社 Mother tongue Publishing Limited-290Fulford-Ganges Rd. Salt Spring Island, BC, V8K 2K6) に直接連絡するか、近くの本屋からオーダーしてもらうことも出来る。

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サンダース宮松敬子 
フリーランス・ジャーナリスト。カナダに移住して40数年後の2014年春に、エスニック色が濃厚な文化の町トロント市から「文化は自然」のビクトリア市に国内移住。白人色の濃い当地の様相に「ここも同じカナダか!」と驚愕。だがそれこそがカナダの一面と理解し、引き続きニュースを追っている。
URL:keikomiyamatsu.com/
Mail:k-m-s@post.com

第57回 ポピー(ヒナゲシ)の日

戦没者追悼行事

 毎年11月11日はRemembrance Day或いはPoppy Dayと呼ばれ、英連邦の国々では戦没者追悼記念式典が繰り広げられる。その一員であるカナダでも、国を挙げてこの日を記念する行事が全国津々浦々で開催され、連邦政府が定める休日となっている。

 国によって歴史的なバックグランドが異なるため、同じ呼称ではないものの、この日を同様の記念日としている国は多く、例えばアメリカの場合にはVeterans Day と呼ばれる。

 当初は第一次大戦の終戦一周年に当たる1919年11月9日に慰霊式典が執り行われたが、実際に戦闘が終結したのは1918年11月11日で同日の11時に休戦協定が発効されたことから、当時のイギリス国王George5世によってこの日を記念日と定めたという。この戦いには日本も参戦したが、それに相当する記念日は設けられていない。

赤いポピーの由来 

 11月に入ると、街中で赤いポピーのリプリカの花を胸に付けた人の姿が目に付くようになるが、これが何に由来し、カナダがその発祥元であることを知らない人は案外多いようだ。

 その謎を紐解くには、まず第一次世界大戦(1914年7月28日~1918年11月11日)の歴史を知る必要がある。

John McCrae氏。Photo courtesy of Wikimedia Commons
John McCrae氏。Photo courtesy of Wikimedia Commons

 この戦争の最前線は、大部分においてベルギーの沿岸からフランダースフィールドと呼ばれる地域を越えて北フランスの中心部まで移動したのだが、これがいわゆる西部戦線として知られている戦いだった。

 この時カナダから医師として参戦したのが詩人/アーティストでもあったJohn McCrae氏(Guelph, Ontario出身)で、目を覆うばかりに悲惨な戦いで親友が戦死した。その弔いを終えて戦場を見渡すとそこには数えきれない戦没者の十字架が建てられていたが、その合間の土壌からは赤いポピーが力強く花を咲かせていた。目に焼き付いたその光景を彼は「フランダースの野に(In Flanders Fields)」と言う詩に残したことで、第一次世界大戦以降、戦死した兵士たちを追悼するシンボルとしてポピーが使用され今日に至っているのである。

 カナダの子供たちは学校でこの詩を暗唱し、また後にメロディーを付けて歌にもなったものを音楽の時間に学習する。彼自身は1918年1月28日に髄膜炎と肺炎を併発してフランスの陸軍病院で亡くなっている。

 さて今年の記念日のビクトリア市は、まるで戦死者がすすり泣いているような気さえするうすら寒い雨のそぼ降る日であった。だが、BC 州議事堂前を始め各地に建つ戦没者の記念碑前ではそれぞれセレモニーが執り行われた。参列者は記念碑に赤いポピーのレプリカを置いたり、またそれが飾られたリースを手向け、11時には戦没者に敬意を払うために2分間の黙祷を行った。

 戦死した兵士や関係者たちに、参列者が思いを馳せる瞬間である。

ビクトリア市のRossBay墓地にて。Photo courtesy of Keiko Miyamatsu Saunders
ビクトリア市のRossBay墓地にて。Photo courtesy of Keiko Miyamatsu Saunders

日本の戦没者追悼施設

 ひるがえって日本を思う時、国のために戦死した兵士たちに敬意を払い、弔う施設や記念碑は皆無であることに思い当たる。もちろん靖国神社と言う施設はあるが、周知の通りここは第二次世界大戦のA級戦犯合祀問題、それに伴う中韓との政治的軋轢、政治家たちの私的参拝、宗教の自由問題等など、戦後76年経った今も折に触れ問題が浮上し大きな議論の対象になっている。

 隣接の千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、引き取り手のない無名戦士の遺骨のみが収まっており、戦死者全体を追悼する場ではない。

 また国立追悼施設を設置する案には賛否両論があり、今のところそれが実現する可能性はない。軍人でもなく赤紙一枚で戦争に駆り出された多くの兵隊たちの死は、真に「無駄死に」と言う他にないのが残念である。

サンダース宮松敬子 
フリーランス・ジャーナリスト。カナダに移住して40数年後の2014年春に、エスニック色が濃厚な文化の町トロント市から「文化は自然」のビクトリア市に国内移住。白人色の濃い当地の様相に「ここも同じカナダか!」と驚愕。だがそれこそがカナダの一面と理解し、引き続きニュースを追っている。
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第56回 BC州の州都‐ビクトリア市ってどんな町?

大掛かりな調査

 私たちは毎日インターネットを始めとして、多くの媒体が発信する情報の波に翻弄されている。

 だがこうした情報は賢く使えば非常に便利で、ウェブサイトなどで詳細が簡単に手に入ることもあり、これからも益々利用者が増えこそすれ衰退することはないだろう。

 しかし、統計などを見る時「何々会社の調査によると~」というデータがあると、その会社名が世に知られた組織である場合は、名前を見ただけで数字を鵜呑みにして信じることもあるので要注意である。

 そんな負の面があることを思いながらも、つい先日Victoria Foundationと呼ばれる基金が「VITAL SIGNS: Greater Victoria’s Annual Check-up」(https://victoriafoundation.bc.ca/vital-signs/)と称する調査結果をまとめた統計を入手した。

無料の冊子『VITAL SIGNS』。Photo courtesy of Keiko Sanders
無料の冊子『VITAL SIGNS』。Keiko Miyamatsu Saunders

 大学ノート大の冊子(写真)は、図書館や公共の場所に置かれている。とても体裁のよい仕上げで、出版にあたってはかなりの費用が掛かっていることが見て取れるが、これが何と無料で誰でもが持ち帰ることが出来るのだ。

 ページをめくるとスポンサー名がズラッと並んでおり、メディアの大御所Black Press Media、大手銀行CIBC、高級スーパーマーケットCountry Grocer、ビクトリア商工会Greater Victoria Chamber of commerce、歴史のある高級老舗の眼鏡店maycockeyecare等など10個ほどの会社や機関の名前が散見される。

調査の詳細 

 この調査は2005年から実施されており今年は16年目に当たる。ではその内容はと言えば、ビクトリア市(以下V市)とその近郊に住む人々の生活一般に関する広域な実情調査の結果を、豊富な写真や統計を屈指して仕上げている。

* 対象:3757人。性別:女性53%、男性44%、両方に属さない人1%。

* 年齢:34才以下25%、35‐54才31%、55⁺44%

* 年収:最高額$10万1000‐27%、$5万~8万‐25%、最低額$2万‐6%

*    人種:白人84%、東アジア人/先住民3%、南アジア人/黒人2%、ラテンアメリカ人/アラブ人/東南アジア人/各種混血1%

* 職業:失業中37%、(パンデミックの影響のため高率と推察される)民間企業30%、政府/公共機関23%

* 以上のような人々が、12の調査項目に関してそれぞれが示したレイトをまとめたものが以下のような結果になっている。

①Art&Culture(B) ➁Belonging&Engagement (B⁻)③Economy(B⁻) ④Environmental Sustainability (B⁻)⑤Getting Started(D⁺) ➅Health &Wellness(B⁻) ➆Housing (D⁺)➇Learning(B⁺) ⑨Safety(B⁻) ⑩Sports & Recreation(B⁺) ⑪Standard of living (B⁻)⑫Transportation (B)

 ページを繰りながらじっくりと詳細を見ると、かなり均衡のとれた調査と言えるようだ。 

調査の結果

 さてそれではV市がどんな街かをレイトの順からまとめてみると「A=0、B⁺=2、B=2、B⁻=6、C=0、D⁺=2」ということになり、総合点は「B」ということである。

 だがこの結果が果たして他の町と比べて「良いのか悪いのか」は判断の難しいところである。もし全く同じ調査を他の地域でも実施して、それを持って云々するなら別であるが、さもなければ比較は無理というものだ。

 またこうした指標は、それを武器にして論陣を張る人の都合によって解釈がよくも悪くも捻じ曲げられることもある事を考慮しなければならない。だが、ここではこれが現在のV市の実態である事をお知らせするに留めるとしよう。

サンダース宮松敬子 
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第55回 発掘された先住民の子供たちの遺体 後編

~「記録」も「墓標」もない墓地跡から~

 現在カナダに住む人々の歴史をたどれば、先住民にルーツを持つ人以外は、過去に何処かからやって来た「新移住者」と言うことになるわけだ。その点から考えると、極端な言い方ではあるが、先住民のみがこの北米大陸を支配する権利を持つことになる。

 だが移り変わる長い歴史の中で、支配/非支配の立場が逆転し、現在のような立ち位置になった。その流れを「前編」(2021年8月19日)「後編」に分けて先住民側から追ってみよう。

象牙の塔からの研究発表

 5月末にBC州本土に位置するKamloops市から、先住民の子供215人の墓地跡が発された。その後関連の悲惨なニュースが次々にメディアに流れる中、6月21日にReal Women of Canadaと称するグループが、オンタリオ州北方のThunder Bay市にあるLakehead 大学のScott Hamilton教授が調査したIndian Residential School(以後IRS)に絡む論文をネットに載せた。
https://realwomenofcanada.ca/jumping-to-conclusions-without-the-facts-in-the-indigenous-residential-schools-question/

 グループの目的は、メディアから一方的に流されるショッキングなニュースばかりを信じるのではなく、その裏に潜む事象にも目を向ける必要がある事を示唆している。確かに一つの社会現象が指摘される時、一方からだけの視野で物事を判断することは危険で、多角的に問題を見据えることが大切なのは言をまたない。

 そこで筆者は同教授の44頁に渡る論文をすべて印刷し読み込んだ。結論から言えば、何人もの象牙の塔の文化人類学者たちがまとめた研究成果は、カナダの先住民たちの足跡を示すに十分であるが、それ以上のものではない。だが注意したい点は、当時の先住民の生活環境もさることながら、子供たちが送られたIRSも劣悪な衛生状態であったことが記されていることだ。

 しかしそれを改善する十分な資金が連邦政府から得られなかった事で、不治の病とされた結核などが蔓延し、学校によっては半分以上の生徒が死亡していたという。つまり当時のオタワ政府の要人たちには、先住民たちをカナダ国民としてケアするという概念はなく、究極の差別意識があったことが伺える。白人至上主義だった社会が次々に負の連鎖を生み、不幸な状況を招いたのだろうが、宗教関係者ばかりが悪者ではなかった点もグループは指摘したかったようだ。

踏まれた足 

 当時オタワでこの政策を推進したのがJohn Macdonald初代首相だったため、先住民の間では今でも最も忌み嫌う人物となっている。結果として近年多くのカナダの町では彼の銅像が取り去られた。

ビクトリ市庁舎前にあったJohn A. Macdonald氏の銅像。Photo courtesy of Keiko Miyamatsu Saunders
ビクトリ市庁舎前にあったJohn A. Macdonald氏の銅像。Photo courtesy of Keiko Miyamatsu Saunders

今は銅像撤去(2018年8月11日)の理由が書かれた石板が置かれている。Photo courtesy of Keiko Miyamatsu Saunders
今は銅像撤去(2018年8月11日)の理由が書かれた石板が置かれている。Photo courtesy of Keiko Miyamatsu Saunders

 人は踏まれた足の痛さは覚えているが、踏んだ者は容易に忘れてしまうのが常で「彼は多くの功績も残しているのだからこの辺で議論に終止符を打ったらどうか」というMacdonaldの支持者たちは多い。

 まさにアメリカの黒人問題同様に、カナダでは先住民問題が社会に深く根を張っているのだ。

 今から二週間後の9月30日は、今まで「Orange Shirt Day」と呼ばれ、IRSに通い悲惨な目に遭った先住民に思いを馳せる日であったが、6月にこの日を「National Truth and Reconciliation Day」として国民休日にすることが決まった。

 だがこれに対して小規模のビジネスをする人々は、一日休めば収入減につながると反対しており、国民休日になるかどうか9月半ばの今も決まっていない。すんなりと受け入れないのは、単にビジネス面からの理由だけではないとも言われている。

新カナダ総督 

 こうした一連の先住民の問題が良い方向に反映された事の一つは、8月にカナダの第30代総督に初めてイヌイット出身のMary J. May Simon氏が選出されたことだろう。

Mary J. May Simon新総督(Wikipediaより)
Mary J. May Simon新総督(Wikipediaより)

 7月26日の就任式で総督は、先住民族とカナダ社会の懸け橋となるよう努力する約束をして「過去の緊張関係を未来の約束へと、賢明かつ思慮深い方法で結び付けるように努めたい」と語った。総督はイヌイット語は話すものの、この立場になる人には珍しくカナダの公用語の仏語が流暢ではない。だが今後その習得に努力すると述べ、同時にIRSの問題などが浮上する中で「真実を許容することで国として強くなり、カナダ社会が結び付き、こうした厳しい状況の時にこそ最善を尽くさなければならない事を子供達に教えることが出来る」と述べた。

 総督の選出を後押したトルドー首相は「パンデミックからの復興や気候変動危機との戦い、また先住民との和解の道を探るなど大きな変化が起きている。そんな時こそ総督が示唆するように、公正、公平な包括的な社会の構築に向けた進歩を共有できるビジョンが必要だ」と述べた。

 総督の経歴を見るとイヌイットばかリではなく、他の先住民族の地位の確立やそれに伴う人権問題への取り組みなど、多方面にわたって活躍して来たことが伺える。

 他民族の集りで成り立つカナダ社会の中での今後の活躍が注目される。

サンダース宮松敬子 
フリーランス・ジャーナリスト。カナダに移住して40数年後の2014年春に、エスニック色が濃厚な文化の町トロント市から「文化は自然」のビクトリア市に国内移住。白人色の濃い当地の様相に「ここも同じカナダか!」と驚愕。だがそれこそがカナダの一面と理解し、引き続きニュースを追っている。
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第53回 トーテンポールが取りもつ歴史の絆 ~3

 カナダは、多くの移民によって成り立っていることは広く知られている。元をただせば、ファーストネーションズ(先住民)の人々が住む国であった。だが時の経過と共に、まずヨーロッパから入植した人々によって一歩一歩歴史が刻まれて来た。

 その長い歩みの中には、もちろん日本からの人々も含まれている。移民史をたどると今我々が置かれている立場も、その延長上にあることが容易に分かる。

 では最初にこの国に一歩を踏み入れた日本人は誰か?これに関してはすでにいろいろな研究がなされている。

 だが最近カナダ(特に西海岸)の象徴であるトーテンポールが、カナダ日系移民史の突破口を作った街に寄贈されたことで、再度その足跡を三回の連載で振り返ってみたい。(一回:5月20済二回:6月17日済/三回:7月15日)

彫刻の詳細

 Yelton氏が選んだ材木は樹齢300年以上経ったレッドシダーの巨木であったが、制作に3か月を要して彫り上げた作品は高さ4m、直径70cm、重さは500kgであった。

 トーテンポールのデザインは、彫り師のそれぞれの思いと設置される場所に相応しい意味深いものが選ばれる。

 今回は、友情のシンボルであるハクトウワシが力と栄光の象徴として頭の部分に位置し、その下には“カヤッチン”と呼ばれる他者を歓迎して、聖地に導く案内人がハクトウワシに抱えられている。

 その下には、力と強靭さのシンボルであるグリズリーベアが彫られており、手にはチヌックサーモンを抱えている。サーモンは生まれた河から太平洋に泳ぎ出るが、最後にはまた生まれた河に舞い戻る。それはあたかも、和歌山から太平洋を渡りカナダに移り住んだ工野儀兵衛氏や、三尾地区からの人々の生きざまを象徴している。

 また中程に彫られているカエルは幸運のシンボルのため、広く和歌山の人々や美浜町三尾地区の人々に幸せが訪れることを願って、心を込めて彫り上げたとYelton氏は言う。

(2)*羽鳥隆在バンクーバー日本国総領事が出来上がった白木のトーテンポールに最初の一筆の色付けをした時の模様

(3)*出来上がったトーテンポールの送り出しセレモニーとそこに参加した日系人たちのコメント:

5月11日―トーテンポール/工野儀兵衛氏胸像除幕式

 3ヶ月かけて出来上がったトーテンポールは、まだ肌寒い日の続く2月半ばにバンクーバー港から大阪港に向けて出発し、トラックで和歌山県美浜町三尾地区まで運ばれた。

包みを開けた時のトーテンポール。写真提供:美浜町役場
包みを開けた時のトーテンポール。写真提供:美浜町役場

 立地の場所は、2018年7月に三尾地区の古民家を活用してオープンしたカナダミュージアムの庭である。(以前あったカナダ博物館は閉鎖された)

 本来であれば彫刻の制作者Yelton氏、また仲介役として奔走した高橋氏も出席して賑やかに除幕式が行われる筈だったが、二人共コロナ禍のためにカナダからの訪日は不可能になってしまった。

 だがこの先いつ終息するか見通せない現在では、将来の予測は至難のため、除幕式は予定通り5月11日に執り行われ、高井利夫氏を始め薮内美和子美浜町町長やミュージアムの三尾たかえ館長ら10人余りが出席した。

出席者が協力して綱を引き序幕した。写真提供:Tomoyo₋Artworks
出席者が協力して綱を引き序幕した。写真提供:Tomoyo₋Artworks

 またトーテンポールの横には、『カナダ移民の父』と崇められている曽祖父・儀兵衛氏の胸像も建てられたため、その除幕式も同時に行われた。

儀兵衛氏の胸像。写真提供:Tomoyo₋Artworks
儀兵衛氏の胸像。写真提供:Tomoyo₋Artworks

 コロナ終息の折りには多くの人々が新たな名所を訪れ、町の歴史、ひいては日本の移民史に思いを馳せて欲しいと関係者たちは切に願っている

サンダース宮松敬子 
フリーランス・ジャーナリスト。カナダに移住して40数年後の2014年春に、エスニック色が濃厚な文化の町トロント市から「文化は自然」のビクトリア市に国内移住。白人色の濃い当地の様相に「ここも同じカナダか!」と驚愕。だがそれこそがカナダの一面と理解し、引き続きニュースを追っている。
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第52回 トーテンポールが取りもつ歴史の絆 ~2

 カナダは、多くの移民によって成り立っていることは広く知られている。元をただせば、ファーストネーションズ(先住民)の人々が住む国であった。だが時の経過と共に、まずヨーロッパから入植した人々によって一歩一歩歴史が刻まれて来た。

 その長い歩みの中には、もちろん日本からの人々も含まれている。移民史をたどると今我々が置かれている立場も、その延長上にあることが容易に分かる。

 では最初にこの国に一歩を踏み入れた日本人は誰か?これに関してはすでにいろいろな研究がなされている。

 だが最近カナダ(特に西海岸)の象徴であるトーテンポールが、カナダ日系移民史の突破口を作った街に寄贈されたことで、再度その足跡を三回の連載で振り返ってみたい。(一回:5月20済/二回:6月17日/三回:7月15日予定)

美浜町三尾地区の衰退

 日本は1941年12月8日(日付け変更線をまたぐカナダでは7日・日曜日)に旧日本軍がハワイの真珠湾を攻撃し、英米両国と開戦したことをことを宣言した。これによってBC州に住む日本をルーツとした移民や、カナダ生まれの日系人をも敵性外国人とみなし、有無を言わせず、ロッキー山脈の麓に建てた粗末な強制収容所に送った。その数は22000余人であったが、それを機に日本に帰国した移民も多かった。

 三尾村出身の彼らももちろん例外ではなく、心身共に悲惨な思いを味わう事となったため、当時400余人が故郷に戻ったと言われている。

 しかし時は流れ1960年代には再びカナダに再渡航する人も増え、村は昔カナダで働いた経験のある人たちや関係者が集まる隠居村と化したのである。近年はそれが更に助長し、2020年4月の調査では人口565人のうち65歳以上の高齢者は55%(328人)と言う『限界集落』と化してしまった。

 そんな状況を憂いた美浜町の有志が、地域の再生と活性化を目指して2018年初頭に『日ノ岬・アメリカ村』というNPO法人を立ち上げ、協力を求めるために同年10月にバンクーバーを訪問した。

 その経緯が在バンクーバーの『日本・カナダ商工会議所』会長サミー・高橋氏の耳に入ったことで、彼はこの運動を支援しようと活動を開始したのである。まず閃いたアイディアは、儀兵衛氏の銅像を建てると同時に、カナダのシンボルであるトーテンポールをアメリカ村に寄贈し、往時に繋がる移民史の流れの一端を可視化することであった。

 しかしプロジェクトの推進のためには、何をおいてもスポンサーを見付けなければならない。そこで2019年の訪日の際に、友人を介して偶然知り合うことが出来た兵庫県在住の儀兵衛氏のひ孫である高井利夫氏(72)に相談を持ち掛けた。嬉しいことに高井氏は二つ返事で快諾し、以後計画はトントン拍子に進み実現へ向かって動き出したのである。

 当時はまだ未知の国であった遥かに遠いカナダを目指し、勇気をもって太平洋を渡り、商才を発揮した曽祖父・儀兵衛氏の血を引く高井氏。現在、国際協力推進協議会の代表であると同時に、日本全国で多くの事業を展開し功を成しているビジネスの才は、3世代前の儀兵衛氏から脈々と引き継がれていることは確かなようだ。と同時に、その風貌も儀兵衛氏によく似ていることに驚かされる。

トーテンポール彫刻家との出会い

 アメリカ大陸には、ヨーロッパからの移民が入植して来る遥か昔、先住民(ファーストネーション)たちが住んでいたことは広く知られている。カナダの場合、その種族の数はざっと数えただけでも600以上と言われており、それぞれが固有の言語や文化を持っている。 

 その中から高橋氏がトーテンポールの制作を依頼する人をどのようして探すかは至難の業のように思える。だが結果的には、彼と制作者のダレン・イエルトン(Darren Yelton)氏との出会いには幾つもの偶然が重なり、その流れに導かれるように話が進んでいったのである。

スーパーマーケットのトーテンポール。Photo courtesy of Keiko Miyamatsu Saundersy of Keiko Miyamatsu Saunders。Photo courtesy of Keiko Miyamatsu Saunders。Photo courtesy of Keiko Miyamatsu Saunders
スーパーマーケットのトーテンポール。Photo courtesy of Keiko Miyamatsu Saunders

 ある日いつものスーパーマーケットSave On Foodsに買い物に行った折り、それまで気付かなかった真新しいトーテンポールが店内に設置されているのが目に入った。

 早速インフォメーションを貰うためにカスタマーサービスに行ったところ、対応に出た女性は偶然にも制作者のYelton氏をよく知っているとのこと。問題は何もなく連絡が出来た上、彼の住まいが高橋氏のご近所と言う便利さも重なった。

 Yelton氏はスクワミッシュ族出身で、45年間もトーテンポールの制作に携わっており、その内の10本以上が、バンクーバー周辺に設置されているというベテランである。当然ながら彫刻に関して熟知しているとみた高橋氏は、彼に一任することに不安はなく、またYelton 氏も日本へ送る作品を制作することに大変乗り気になったのは言うまでもない。

コミュニティー紙に紹介されたYelton氏とサミー高橋氏。Photo courtesy of Keiko Miyamatsu Saunders
コミュニティー紙に紹介されたYelton氏とサミー高橋氏。Photo courtesy of Keiko Miyamatsu Saunders

(1)経緯を説明するサミー高橋氏からのメッセージ:
www.youtube.com/watch?v=zXFINeBmndY&t=241s

サンダース宮松敬子 
フリーランス・ジャーナリスト。カナダに移住して40数年後の2014年春に、エスニック色が濃厚な文化の町トロント市から「文化は自然」のビクトリア市に国内移住。白人色の濃い当地の様相に「ここも同じカナダか!」と驚愕。だがそれこそがカナダの一面と理解し、引き続きニュースを追っている。
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