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Naomi Mishima

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「いい旅」2 ~投稿千景~

エドサトウ

 95歳になる母が、夏にコロナで熱を出してから体調をくずして食事がとれなくなり、点滴で命を長らえている状態となり、実家にいる弟と相談をして思い切って日本へ行くことにして、カナダを旅だったのは10月の中旬であった。

 足の不自由な小生は、J航空のハンディキャップのサービスをつけてもらい、バンクーバー、東京、名古屋の各空港では車椅子で係の方に運んでいただいて、大変快適な旅をすることができた。名古屋空港では、母が使用していた車椅子を用意して、弟と甥っ子が迎えに来ていた。かつて、甥っ子は我が家にワーキングホリデーでしばらく滞在していたことがあり、懐かしい再会となった。どの空港も大きな問題もなく無事に往復の旅ができて大変にいい旅となった。

 母の容態は、95歳なので、あまり期待はしていなかったが、幸いにも話ができるほどになっていたのは嬉しかった。認知症もあるので、話のかみ合わない部分もあったが、血色の良い母の顔は僕にとって最高の喜びであった。週一回の面接を二回にしてもらい、短い期間ではあったが母の元気な分、中身の濃い旅となった。

 実家にいることが多かった今回の旅は、弟の奥さんが車の運転、友に会うスケジュールの予定、約束など事細かに、まるで秘書のようになってこなしてくれて、本当に多くの友と会うことが出来て嬉しかった。互いに話し合えば50年という時の流れが過ぎ去ったことを忘れ、少年のように話ができたのは嬉しかった。

 多くは、もう退職をしていて良い晩年の暮らしているように見える友でも、それなりに大病を患ったりしていて、妻を亡くしたり、仕事を無くしたりして大変な人生を過ごしてきた小生と同じようなことがあったのだとしみじみと思えば、苦しかったのは、自分一人だけではなかったのだという思いがした。光陰は百代の過客のように流れてゆく。

 帰国前の晩に近所の友とお酒を飲みながら、話は盛り上がり楽しかったが、終わりころに、わりと無口の福ちゃんに「おねいさんはどうしてるの?」と問うと、少し悲し気にして「姉は、もう、だいぶ前に九州で亡くなったよ。まだ60代だったなあ」と静かに話す彼のおねえさんのことを聞きながら、僕と同じような人もいるものだと思うと、なんとなく亡き妻の人生も納得が出来たような気がした。

 勝ちゃんの話も面白かった。サラリーマンの後、親の農業を継ぎ、今も新しい品種の作物の栽培に挑戦していて、大粒のブドウを育てているとのこと。このブドウの一粒が鶏の卵ぐらいになるというから驚きである。僕が「その種を僕にくれないか?」と冗談で言うと、「種なしだで、あかんわ!」と言うので、皆で大笑いであった。

 僕の前に座っていた仁ちゃんは、今は皆に頼まれて地元の連合自治会長である。話の話題が、ガザの戦争の話題になると、淡々と今の戦争の状況などを説明をして、昔、おとなしかった仁ちゃんが、こんな話をするなどとは想像もしなかったので、少々驚きである。

 ある時は、幼馴染の中央大学出身の奥君とやはり奥君と同じ大学の同期だというYさんが奥さんと同伴でやって来た。その奥さんは僕の妻と日本に居るときに親しくしていて、妻のことを知りたくて僕の実家を訪ねてくれた。奥君と会うのは、カナダに僕が行く前に話をしただけで、もう50年以上の歳月が流れたが、その後、彼はビジネスに成功して、億単位のお金を動かしているらしい。息子さんたちは、シンガポールの大学に行かせて、今は金融関係の仕事をされているとのこと。自然に話がグローバルな経済の話となり、これまたエキサイティングな夕べであった。

 いやいや、話せば別の友との出会いも興味深く深刻な話である。僕と同じころに派米で農業研修に行った幼馴染の友が近所にいるので街に出たついでの帰り道に、ふらりと事務所によってみると、彼が「あんたの友達の神川は、大きな借金をして自分の農業に投資をして破産だわ!古い昔からのかやぶきの屋根の家は雨漏りがしてブルーのシートを被せて悲惨なことになっとるぞ!」と言う。神川も僕の幼馴染と一緒に愛知県の代表で派米農業研修に2年間参加している能力のある奴なのだけれど、焦りすぎたのか、コロナの感染症のためか?家に帰り、昔の仲間に電話をすると彼は腕が上がらなくなり、肩の手術をして病院に入院している最中で、神川のことを問うと「俺も歳で、みんなとは会わんで、ようわからんわ?」と言う。とにかく、昔の電話番号を探し出して、神川に電話をすれば、「この電話番号は使われていません」と電話会社の答えのみで、僕も何もすることが出来なかったのは残念であった。

投稿千景
視点を変えると見え方が変わる。エドサトウさん独特の視点で世界を切り取る連載コラム「投稿千景」。
これまでの当サイトでの「投稿千景」はこちらからご覧いただけます。
https://www.japancanadatoday.ca/category/column/post-ed-sato/

10☆「年」と「歳」どっちがお好み?

 前回のエッセイ「8才」と「8歳」をお読みになった方から「年を取る」と「歳を取る」と、どっちが正しいのか・・・などの問い合せをいただいた。これは日本語教師としてもときどき受ける質問であり、確かに日本人でもどちらを使うべきか・・・迷う人も多い。

 先ず、漢字の決まり事を少々。「年」はもちろん、「歳」も常用漢字である。常用漢字とは国が定めた一般的に使用される漢字の目安。でも読み方が結構ややこしい。「年」は音読み(中国語式発音)の「ネン」と、訓読み(日本語式発音)の「とし」で、小学校で習う。でも中学で習う「歳」は読み方が複雑。音読みの「サイ・セイ」は常用だが、訓読みの「とし」はなぜか常用外である。

 それゆえ、公式な文書や新聞などには「歳を取る」は残念ながら使えず、「年を取る」が正式な書き方とのこと。うーん、確かにややこしい。でもこれはあくまでも目安であり、個人的なブログやメールなどには「歳を取る」を使っても全く問題なし。

 すると「年」と「歳」の違いが気になる。うまく使いこなすコツは何か・・・。別に決まりなどなく、人によってまちまちだが、一般的には年齢の老若によって使い分けているのでは・・・。

 例えば「年を取るにつれてだんだん世間が見えてくる」などは若年者であり、「年を取る」のほうがふさわしいかも。一方「歳を取ると物忘れがひどくなる」などは老齢者の表現で、「歳を取る」のほうが似合っていると思う人が多いのでは。事実「年を重ねる」よりは「歳を重ねる」のほうが何となく落ち着きを感じる。

 更に、会社などで部下を叱る場面の「いい年して、そんなことも・・・」などの対象者は若手社員であり、一方、年配者の自戒の言葉として、「いい歳して、赤面の至り」などのように「年」と「歳」の使い分け、いとおかし。「歳」の訓読み「とし」は常用外だと、ほんのり意識しつつ、使い分けは個人個人のお好みでノープロブレム!

 でもちょこっと注意も必要。「この家もかなり年取った」などの人間以外の場合は「歳」は使えない。加えて「年寄りの冷や水」や「美人に年なし」などの慣用句には「年」を使うのがルールとされている。なるほど。

 人生100年時代と言われており、年甲斐もなく、老いの木登りではないが、エスカレーターなどなるべく使わず、階段をよじ登って体を鍛え、元気に歳を取りたい、重ねたい所存でござる。

矢野修三(やの・しゅうぞう)
1994年 バンクーバーに家族で移住(50歳)
YANO Academy(日本語学校)開校
2020年 教室を閉じる(26年間)
現在はオンライン講座を開講中(日本からも可)
・日本語教師養成講座(卒業生2900名)
・外から見る日本語講座(目からうろこの日本語)    
メール:yano@yanoacademy.ca
ホームページ:https://yanoacademy.ca

毒親に育てられた正反対の姉妹が繰り広げる、心あたたまるコメディー「Quiz Lady 」(Jessica Yu監督)

「Quiz Lady 」より。Courtesy of TIFF
「Quiz Lady 」より。Courtesy of TIFF

 今回紹介する「Quiz Lady」(監督Jessica Yu )は、9月にTIFF(トロント国際映画祭)で観てすごく楽しかった作品。アジア系女優の2大スター、サンドラ・オーとオークワフィナが姉妹役で共演、とにかく楽しくて最後には少しジーンとくる映画です。やっと11月からDisney Plusで配信開始!となりました。

 地味で大人しく、仕事が終わるとまっすぐ家に帰りクイズ番組を愛犬のMr.リングイニと観ることだけが楽しみなアニー(オークワフィナ)。ある時母親がギャンブルで作った借金から逃げるためマカオにいると発覚。おまけに愛犬が借金のカタに誘拐されてしまい、お金を返すためにクイズ番組で一攫千金を狙うしかない状況に。気の進まないアニーをサポート?するのが、いい年齢なのに若作り、現実を見ずにふらふらしている姉のジェニー(サンドラ・オー)。果たしてアニーはクイズ番組で優勝してMr.リングイニを助けることが出来るのか?というストーリー。

 こういう女性がぶっとんだキャラクターのコメディーってすごく難しいと思うんですが、二人の息がぴったりでテンポも良くとても楽しく観れました。サンドラ・オーは一つ間違えたらただの痛いおばちゃんになりそうなのに全然はまり役だったし、オークワフィナは大人しい妹を演じながらもたまに見せるコメディーのセンスが光っていたし。(個人的にはクイズ番組オーディションのあたりのオークワフィナが可愛くて好きでした!)。もちろんコメディーなのでキャラクターも現実的でないところはあるけれど、二人がこんなに正反対の性格になったのは毒親の影響という設定がしっかりしているので観ている方もすんなりと受け入れることが出来ました。

 アジア系の二人が主人公だけど別にアジア系は全然関係ないストーリー。でもステレオタイプや人種差別なんかを逆手に取ったジョークはニューヨーク出身のYu監督だからこそ。自虐でもなくさらっと突いて来るネタに思わず「ぷっ」と吹き出してしまう瞬間が何度もあり楽しめます。ウィル・フェレルをはじめ脇役ではもったいないくらいの俳優さんたちも皆良い味を出しているし、どんでん返しとかは無いけれど最後まで安心して観ていられるところも良かったです。

 寒さも厳しくなり気分も落ち込みがちなこれからの季節。ちょっと家で映画でも見て元気をもらいたいなぁ、という時におすすめする映画です。

 カナダではDisney Plusで配信中。

Lalaのシネマワールド
映画に魅せられて

バンクーバー在住の映画・ドラマ好きライターLalaさんによる映画に関するコラム。
旬の映画や話題のドラマだけでなく、さまざまな作品を紹介します。第1回からはこちら

Lala(らら)
バンクーバー在住の映画・ドラマ好きライター
大好きな映画を観るためには広いカナダの西から東まで出かけます
良いストーリーには世界を豊にるす力があると信じてます
みなさん一緒に映画観ませんか!?

「患者情報リスト」作成ワークショップ:日本語認知症サポート協会

救急救命士の兵頭渡さんを講師にお招きしたオンライン講演会を受け、対面形式を主体としたハイブリッド形式で、「患者情報リスト」を実際に作成するワークショップを行います。これまでリストを作成したことがなくても、講師の助言の元、作成いただけます。特に、初めてご参加の方には、講演会とワークショップを合わせてご参加いただくと、より一層、お役に立つ内容となっています。

尚、記入にお手伝いが必要な方、特にパソコン操作が苦手な方は、Zoom参加ではなく、日系カナダ人博物館・文化センターの会場にお越しください。ご持参の個人情報、既往症や服用薬の情報などをもとに、講師または協会スタッフがリスト作成をお手伝いいたします。

「患者情報リスト」作成ワークショップ

日時:2023年11月25日 (土) 午後2時から午後3時

会場:日系カナダ人博物館・文化センター2階 松の間およびZoom

講師:兵頭 渡 (BC EHS / BC Ambulance Service Paramedic)

参加費:ドネーション

申込み方法:

オンライン→https://www.eventbrite.ca/e/722594639017

その他の方法→https://forms.gle/t5sPzeitv9PQajZ86

申込締切:11月21日(火)

連絡先:orangecafevancouver@gmail.com

主催:日本語認知症サポート協会

オンライン講演会「Calling 911〜緊急時に備えてーパートⅢ 〜」

今年で4回目となる、救急救命士の兵頭渡さんを講師にお招きしたオンライン講演会。これまでより更に多くの実例を交えながら、緊急時に必要な情報から知っておくと為になること、現場ならではのエピソードなど、様々なトピックでお話しいただきます。また、「患者情報リスト」も新しくなり、リスト作成に役立つ日英対訳の医療用語集と合わせて、改めて既往歴や常用薬を確認するツールとしてもご利用いただけます。

〜詳細〜

オンライン講演会「Calling 911〜緊急時に備えてーパートⅢ 〜」

日時:2023年11月24日 (金) 午後7時から午後9時

会場: Zoom

講師:兵頭 渡 (BC EHS / BC Ambulance Service Paramedic)

講師プロフィール:カナダで救急救命士 (Paramedic)として勤務し12年目を迎える。ノバスコシア州ハリファックス市、BC州フォート・セント・ジョン市、ホープ市、リッチモンド市での勤務を経て、現在はバンクーバー市のStation 261 (181 W7th Avenue)に常勤。

参加費:ドネーション

申込み方法:

オンラインhttps://www.eventbrite.ca/e/calling-911-iii-tickets-722587989127

その他の方法https://forms.gle/Gvy7nVcJDt1DmnL4A

申込締切:11月20日(月)

連絡先:orangecafevancouver@gmail.com

主催:日本語認知症サポート協会

建友会、第11回年次総会開催

再任が決まった松原会長。2023年11月9日、バンクーバー市。写真提供:建友会
再任が決まった松原会長。2023年11月9日、バンクーバー市。写真提供:建友会

 バンクーバー地域を中心とした建築・建設関係者の団体「建友会」が第11回年次総会を11月9日に開催した。

 バンクーバー市内事務所で開催、オンラインでもつなぎ、2023年度(2022年11月1日~2023年10月31日)の会計、活動内容などの報告を行った。

 開催したイベントでは、昨年度は対面で実施できるイベントが多くなったことで、会員同士が顔を合わせる機会が多く、コミュニケーションが増えたと報告。主なイベントは、11月の総会・建友会サロン、新年会、見学会、桜祭りジャパンフェアでの風車作り体験と販売会、ジャパンフェアで集まった募金のチルドレンズ・ホスピタル寄付、勉強会、7月の海岸清掃、日系祭り櫓組み立てなど、1年を通して多くのイベントが開催されたと報告した。今年度も同様にさまざまなイベントを実施していきたいと語った。

 また今年度から2年任期の新役員を発表。会長は前期に続き松原昌輝氏が再任され、副会長は三河慎修氏が再任、新たにThomas Plamer氏も就任した。役員は以下の通り。伊藤公久、和田健治(会計)、吉武政治、花木康臣、後藤沙耶花、穴澤龍哉、牧田仁美、村山ゆみ(順不同・敬称略)。

 松原会長は「微力ですが、今年度からもう2年会長を務めることになりました。役員の皆さん、会員の皆さんと協力し、より交流をして、建友会をさらに盛り上げていければと考えています」と抱負を語った。

 年次総会後は食事をしながらの懇親会で親睦を深めた。

建友会

2012年11月に発足したバンクーバー地域の建築・建設関係者のコミュニティ。会員数69人(付帯会員を含む)。

グレーターバンクーバーとその近郊で活動する建築・建設および周辺産業に従事する会員がお互いに切磋琢磨し、幅広く深い技術力を持った集団に成長することと、会員それぞれの事業の発展を促す環境整備と相互協力を深めることを目的としている(建友会ホームページより抜粋)

建友会ホームページ:kenyukai.ca

建友会第11回年次総会の様子。2023年11月9日、バンクーバー市。写真提供:建友会
建友会第11回年次総会の様子。2023年11月9日、バンクーバー市。写真提供:建友会

(記事 編集部)

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第17回 本当それ?うーん、本当なのよ

   XXさんから電話があった。「貴女、知人、友人が多いから、今度バンクーバ―で上演する宝塚OGの上演切符を売ってくれない?」「あのね、○○さんが主催者で今回売れなくて困っているけど、彼女を応援してあげたいんだ。○○さんって本当に良い人だからね」。そして、私も応援したい。けれどその時、自分の体調が悪く、身体はフラフラ眩暈、難聴、足を痛めて歩行難等で状態が悪くてPCを使う事さえしんどかった。とても切符売り出来ない。しかし、気持ちは「マイケル J. フォックス劇場」で上演される「宝塚OGショウ」、それを観たくて見たくてたまらなかった。
  そして、いよいよ上演日が間近になった。ふっとPCのページを開けると何と懸賞で「宝塚OGショウ」、その切符が「当たる」という。試しに応募した。
 数日後、「うわぁー!当たった。当たったのだ、2枚セットで切符が」。嬉しかった。眩暈の体調は良くはなかったが、運転してくれる人がいれば行ける状態だった。そして、直ぐに運転して一緒に行ってくれる友人を見つけ、私はショウに行った。 当日、驚いたのは閑散としているかもしれないと思っていた劇場は、満杯だった。私の席は中間席でステージが見やすい所でありがたかった。
 中間席の前が通路になっていて、そこを観客が通り席に着く。通る人、通る人、皆互いに挨拶している。まぁ、どうして、私でもこんなに知っている人が多いのだろう。
 だんだん認知症傾向が出てきているこんな老齢者、私でも、昔の知人に沢山会えた。しかし、記憶に残っていない人もあり申し訳ない。多くの友人達、その名前は全部とても思い出せなかった。

 そして、ここで驚き「『セレンディピティ』幸運をつかむ」。全く知らない私の隣座者が、真実なんと私の友人だったのだ。本人の許可を取って此処に彼女のお名前を書かせてもらう「池条佐衣子」さんだ。どう考えても記憶になかったが、彼女は私を知っていた。10数年前お医者さん田中先生の母、洋子さんが中心になって「題名のない会」と言うどちらかと言うと「スピリチュアル」系の勉強会を我が家でやって居た。佐衣子さんはその会のメンバーだったという。とても信じられなかったが、兎に角、色々御存じで、一緒にお話しするだけで楽しかった。無論、宝塚OGのショウも素晴らしく、上演者が観客席の間に下りて来て、観客全員を「虜」にし、舞台と客席が一緒に音楽を、ダンスを、楽しんだ。あんな楽しいショウはめったに見ることはないだろう。兎に角、素晴らしかった。
 そして、その数日後、隣席だった「池条佐衣子」さんから以下なんと13年前の私達のメイル「Date: 2010/04/05 月 20:18 Subject: Re: 昨日はお会いできて嬉しかったです」と言うメイルが届いたのです。

2023年08月25日
澄子さん、
 昨日、宝塚OGショーで隣席に座っていた池条佐衣子です。お元気そうでなによりです。
 あれから家に戻って昔のemailを引っ張り出してみたら見つかりました!初めてお会いしたのは2010年でした!以下は昔のemail初めて交信させていただいた時のものです。
 題名も「昨日はお会いできて嬉しかったです」ですが10年以上の時を経て、今日も同じ題名です^^本当にご無沙汰していました。
 今度こそ、近いうちに飲茶ご一緒にしましょうね~~池条 佐衣子

 以下が彼女から今回転送されてきた10数年前の私の送信メイルです。
 今もう後一ケ月半で84歳になろうとしているこの自分が、13年前、70歳で書いたメイルを受信者から見せて頂けた、この偶然と不思議、「本当、それ?」「うーん、本当なのよ」

Date: 2010/04/05 月 20:18
Subject: Re: 昨日はお会いできて嬉しかったです。
佐衣子さん、
 私も本当にお会いできて嬉しかったです。生きていると一歩、歩む毎に色々な問題に出会いますね。無知から出た失敗も、知っていながらぶつかってしまう問題、色々です。私は昨年70歳になり、今年71歳です。此処まで生きていると生き方のコツと言うか、生きている事の素晴らしさが胸いっぱいで、広い海に絶対沈まない筏にのって、さんさんとそそぐ太陽の光と、そよ風と溢れる場からの自然の愛とに育まれて生きている感じでいます。考えてみれば淋しい一人住まいであるかも知れないけれど、其れに変わるかぞえ切れない幸せが転がってきます。
 2001年に卒中で両手が動かなくなり、体内大出血で残り20分の命をVGHで助けられてから、人生観がかわりました。
 毎日起こる出来事の100%、全ては私達にとって今必要だから起きている事だと思って下さい。病気になる事も、ヴィザの問題も、道を間違える事も、人と喧嘩する事も、子供に優しい言葉を掛けられて嬉しいと思う事も、全て全てなのです。理由があってその事を今、貴方が体験しなければいけないと天が経験させて下さるなら、その理由を考えながら、喜んで問題を受ける方が楽ですよね。問題を解決する度に私達の心は成長して行くのですものね。

 そんなことを毎月1回私の家で勉強し、話し合う会があります。「題名の無い会」と言いますが、是非、遊びがてら一度いらっしゃいませんか?宗教には一切関係なく、宗教関係の話は持ち込むと嫌がられ、私は宗教に関係ありません。でも本当に人の心が温かく感じられる場所ですよ。今回は4月11日11時から3時までですが、お弁当持ちで来てください。普段15名くらいが集まりますが、今回は日本へいらしている方が多く今の所6−7人かと思います。
 住所は10580Butteremere Dr., Richmond, B.C. 電話は604−271−7897です。
 それから、お子さん用のベッドを探しているなら、私の所に2段ベッドとマットレスがあります。大人用サイズですから使えると思います。もし、運搬やに依頼しても多分お得だと思います。無論無料で差し上げます。是非おいで下さい。心から愛を込めて 許 澄子

From:池条 佐衣子
To:すみこ様
 昨日のきょうこさん宅でのガレージセールですみ子さんとも偶然お知り合いになれてとても嬉しかったです。最近、うちの息子の国籍問題で、気分が落ち込んでいたのでお話も聞いてもらえて少し楽になりました。香港人とご結婚されてからカナダに住んでおられるという背景が同じ大先輩にお会いできて、本当にご縁に感謝したいと思います。また今度ゆっくりお話ができれば幸いです。
 多謝!佐衣子

 そして、佐衣子さんと私は広東語で今回話が出来ました。私は香港に11年住み、彼女も香港に住んでいたのです。
 「『セレンディピティ』幸運をつかむ」、この世で会うべき人と、天に会わせてもらえた気がします。

セレンディピティ(英語: serendipity)とは、素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見すること。また、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値があるものを偶然見つけること。平たく言うと、ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ることである。

許 澄子
2016年からバンクーバー新報紙でコラム「老婆のひとりごと」を執筆。2020年7月から2022年12月まで、当サイトで「グランマのひとりごと」として、コラムを継続。2023年1月より「『セレンディピティ』幸運をつかむ」を執筆中。
「グランマのひとりごと」はこちらからすべてご覧いただけます。https://www.japancanadatoday.ca/category/column/senior-lady/

「いい旅」~投稿千景~

エドサトウ

 十月中旬に日本に来てから、最初の週末がやって来た。甥っ子が自家用のハイブリッド車を運転して、弟夫婦と一緒に観光地金沢の有名な兼六園へ一泊の予定で出かけることになった。病院で寝たきりの95歳になる母の面会は週二回のみで、今のところ、認知症はあるものの話ができるほどの状態で少し安心な状態なので、僕が一度も行ったことのない金沢まで行くことになったが、ぼく自身は関ヶ原古戦場までゆき、実際の古戦場を見てみたいというのが、希望であって、それを見られれば大満足である。

 当日は秋晴れの上天気で、ハイブリッド車は、静かに走りだし、我が街の新しい街道を走り抜けて名古屋市東部のインターチェンジから、東名高速道路に入る。日本も車が一人に一台という時代で、いい車がたくさん走っている高速道路は、カナダ、特にバンクーバーよりも発展していて、有料ではあるが、とても便利で良くできているので、カーナビに従って行けば、どこへでも簡単に車で行けるような気がした。

関が原で。写真:エドサトウ
関が原で。写真:エドサトウ

 関ヶ原古戦場には10時ごろに到着した。NHKの大河ドラマで徳川家康のことを放映しているためか、関ヶ原古戦場には、立派な新しいモダンな博物館ができていて、驚いたりした。そこで関ヶ原合戦を説明した短い映画を見てから、色んな展示を見た。4階の展望台は古戦場が360度見渡すことができて、東軍西軍の武将の位置を確認することができた。展示を見終わる頃には、お昼となり食堂兼お土産店で関ヶ原ランチを食べたが、地元の食材でできているのか意外と美味しかった。

 昼食後に車で、石田三成や徳川家康の陣地のあった場所を見に行くと、その距離は意外と近距離であった。その距離は1㎞ぐらいである。これならば、家康が、三浦按針こと英国人ウィリアム・アダムスの漂着したガレー船から接収したと思われる船どうしの海戦で使われる大砲を使用することも可能であったように思われた。

関が原で。写真:エドサトウ
関が原で。写真:エドサトウ

 家康は織田信長がかつて折からの雨をついて、今川義元の陣地を奇襲して勝ったように、また、昨夜からの雨で朝霧が低く垂れこめた関ヶ原を自ら石田三成の陣地近くまで推し進めたのではあるまいか?同じく井伊隊もほぼ中央あたりからひそかに用意した、ピンポン玉ぐらいの玉を飛ばす大型の火縄銃で、朝日で霧があがる頃から一気に打ちかける。まず、長やりどうしの戦闘からではなく、大筒の火縄銃の轟音と同時に弾が敵陣に飛ぶ、家康隊も海戦では500メートルが射程距離の大砲に45度の角度をつけて1㎞先の石田三成の陣地に、大音響とともに次々と打ちかける。

 持久戦を想定していた石田三成の軍も一気になだらかな斜面をくだり徳川軍に襲い掛かるが、徳川軍の大砲と火縄銃が連射されて、勢い良く飛び出した三成の軍も統制を失い、東軍に押されて切りまくられるという状況の中で、小早川軍が西軍から寝返り後方の横から大谷軍を攻めあがる。黒田官兵衛の軍も山裾につたい横から西軍に襲い掛かる。これにより、西軍島津義久は戦うこともせずに家康軍の横を駆け抜けて伊勢街道へ駆け抜けて行く、それを追うのは井伊軍、この頃には既に東軍に勝機がめぐっていたのであろう。

 そういうことを想像するのが古戦場を見る者の楽しみであろう。

 小生が出演した映画新『将軍』のモデルとなった三浦按針ことウィリアム・アダムスは、この時の活躍によるのか、後に横須賀市あたりに領地を拝領して旗本となっている。本当に青い目の侍となったのである。

 この映画は来春に公開予定という話であるから、これを観るのも楽しみの一つである。

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「ポール・ブレイ」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第17回

 11月に入り、気温もぐっと下がって来ました。オタワでは氷点下に入り、体感温度は摂氏マイナス10度以下です。先日、1週間ほど、東京・大阪に出張しましたが、11月でも日中25℃を超える「夏日」で汗ばむ程でした。トロント経由でオタワ空港に降り立った時に大きな気候の差を実感しました。いよいよ、北の大地の本領が発揮される季節がやって来ました。

 今月は、ジャズ愛好家の知る人ぞ知るポール・ブレイです。モントリオール出身で、現代ジャズに大きな足跡を残し、2016年1月に83歳で他界しています。いわゆる大ヒット作がある訳ではありません。が、ポール・ブレイがいなかったら、ジャズ界の模様は随分と違ったものになっていたに違いありません。

はじめに

 ポール・ブレイの名が地元モントリオールの音楽愛好家に知られるようになった直接のきっかけは、1949年夏のことです。若干の背景を説明します。

 1949年、米国からJATP(Jazz At The Philharmonic)という一大ジャズ興行団がモントリオールを訪れます。ヴァーヴ・レコード総帥ノーマン・グランツがエラ・フィッツジェラルドやチャーリー・パーカーら錚々たるジャズ・ミュージシャンを率いての公演は、大盛況のうちに終わりました。翌日、ノーマン・グランツは、仕事に満足し、タクシーで空港に向かいます。すると、車中のカー・ラジオからはジャズ・ピアノが流れていました。グランツの耳がその素晴らしい音楽をキャッチします。思わず、「これは誰だ?」と尋ねます。たまたまこの運転手がジャズ好きでした。運転手が答えます。「オスカー・ピーターソンでさ、旦那。モントリオール最高のピアニスト、いや、カナダのナンバー1ピアノ弾きだと、おいらは思ってる」と。

「ほう。これは、レコードかい?」
「いや、実況生中継ですよ。旦那」
「何処で、やってるんだい?」
「ダウンタウンの『アルバータ・ラウンジ』というジャズ・クラブでさ」
「じゃあ、今から其処へ行ってくれ」
「旦那、空港に行くんじゃないですかい?」
「構わん。空港は忘れろ。とにかく、『アルバータ・ラウンジ』とやらへ急いでくれ」
「ヘイ」

 という経緯で、グランツは、モントリオール市街デ・ラ・ガウシェティエル通とピール通の角に所在していたジャズ・クラブ『アルバータ・ラウンジ』へ行きます。その段階では全く無名のオスカー・ピーターソンでしたが、グランツはピーターソンの演奏を目の前で聴き完全に魅了されます。演奏が終わると、グランツはピーターソンに語りかけます。「君は本当に素晴らしい。僕と契約して、ニューヨークで開催するコンサートに出演しないか?」

 そして、ピーターソンはニューヨークへ行き、1949年9月18日、カーネギー・ホールで鮮烈なデビューを飾ります。ジャズ史の最重要章の一つ、オスカー・ピーターソン創世記です。

 ここで、ポール・ブレイに戻ります。上述のとおり、オスカー・ピーターソンはラジオ番組の舞台でもある『アルバータ・ラウンジ』の主役だった訳ですが、ニューヨークに行く事になり、誰がピーターソンの抜けた穴を埋め得るのかが問題となる訳です。後に「鍵盤の帝王」の異名を授けられるピーターソンです。上記タクシー運転手のコメントにある通り無名時代から凄かった訳です。その後釜ですから、相当の達人でないと務まりません。其処で、ニューヨークに出発する24歳ピーターソンが直々に指名したのがポール・ブレイなのです。この時、ブレイは弱冠16歳。地元の名門マギル大学附属音楽院に通う俊英で、自らコンボを組んで演奏活動を行っていました。その巨大な才能がピーターソンには見えていたのでしょう。因みに、「音楽の楽園」第2回で紹介した通り、日本が誇る秋吉敏子を見出したのもピーターソンです。

神童

 ポール・ブレイは、1932年11月10日モントリオールに誕生します。出世時の名前は、ハイマン・ブレイでした。両親ともルーマニアからカナダに移民したユダヤ人。「屋根の上のヴァイオリン弾き」を彷彿させますが、5歳でヴァイオリンを習い始めたと云います。7歳の時に、両親が離婚。その頃、ポール自身の意思で、ヴァイオリンからピアノに転向し、本格的にレッスンを受け始めます。ピアノが生涯の楽器となった訳です。楽才は明らかで、11歳にして、マギル大学附属音楽院に入ります。13歳にして、ケベック州の避暑地サンタガテ・デ・モンで楽団を率いて演奏し、収入を得る程の早熟でした。この頃、ファースト・ネームをハイマンからポールに改名します。理由は、女子にモテそうだから、と云われています。が、自分自身のアイデンティティーへの屈折した思いもあったのかもしれません。

 そして、オスカー・ピーターソンに認められて、彼の後任として『アルバータ・ラウンジ』での活動が始まります。

ニューヨーク

 1950年夏、ポール・ブレイはニューヨークへ旅立ちます。ジュリアード音楽院への進学です。この時、17歳です。

 1950年代のニューヨークは、正に自由で多様な新しい音楽として加速度的に飛躍する時期です。ポール・ブレイは、この街のエネルギーと刺激を自らの音楽へと昇華していきます。21歳になって3週間後の1953年11月30日(月)、デビュー盤「イントロデューシング・ポール・ブレイ」を録音。ベースにチャールス・ミンガス、ドラムはアート・ブレイキーという巨人を従えて、1日で6曲を仕上げています。今、聴けば、革命的とまでは感じませんが、確かな技術に基づき、美しく冷涼なタッチで、若々しく、溌剌とした演奏が印象的です。自作曲が2曲で、作曲家としてのセンスも光ります。商業的には駄目でしたが、世界中から猛者の集まるジャズの都で、カナダ出身の若きピアニストの潜在力を見せつけました。

フリー・ジャズ創世記

 ポール・ブレイは、着実に力をつけ、米国ジャズ界での存在感を増していきます。1955年7月13日号のジャズ専門誌「ダウンビート」に掲載されている彼のインタビューは未来を予告しています。現代のジャズは、今、新たな革命の前夜である旨を述べています。その新たな革命とは後年「フリー・ジャズ」と呼ばれるジャズの潮流です。翌1956年には、ロサンゼルスへ拠点を移し、新しい五重奏団を立ち上げます。そのメンバーとは、サキソフォンにオーネット・コールマン、トランペットにドン・チェリー、ベースにチャーリー・ヘイデン、そしてドラムはビリー・ヒギンズです。ジャズ愛好家ならば、誰もが知るジャズ史に名を刻む錚々たる音楽家達です。オスカー・ピーターソンが若く無名のポール・ブレイに飛躍の機会を与えたように、ポール・ブレイは、1956年の段階で若く無名だが新しい音楽を築くのだという情熱に溢れる面々を見出した訳です。そして、1958年10月、ファビュラス・ポール・ブレイ・クインテット名義で「ライブ・アット・ヒルクレスト・クラブ1958」を実況録音。ライブ故に真の実力が露わです。圧倒的な熱量を今に伝えています。

疾風怒濤

 ポール・ブレイは、ジャズ界きっての鬼才として、縦横無尽に活躍します。1962〜63年、代表作「フットルース!」を録音します。ポール自身は決して政治的人間ではありませんでしたが、この音盤は、米国の繁栄と冷戦と公民権運動が彩る時代の雰囲気を反映しているように感じます。ピアノ・トリオの表現領域を大きく拡げた傑作で、大きな影響を残しました。キース・ジャレットは「何千回も聴いた」と語っています。チック・コリアが1971年に発表した音盤「A.R.C.」の原風景がここにあります。

 そして、1960年代は芸術も社会も疾風怒濤の時代です。新しく自由な音楽であるジャズも2つの面で大きく変貌を遂げます。一つは、既存の音楽的枠組みや和音の概念を超える「フリー・ジャズ」の勃興です。正に、ポール・ブレイが予告した通りです。しかも、彼が見出した、オーネット・コールマンやドン・チェリーが時代を牽引します。

 もう一つが、シンセサイザー等の電子楽器の登場です。ビートルズ、ピンク・フロイド、エマーソン・レイク&パーマーら英国ロック勢が実験的に導入します。一方、ポール・ブレイはジャズ界の先頭に立って、シンセサイザーを全面的に活用します。史上初めて、観客の前でシンセサイザーを演奏した音楽家こそポール・ブレイです。1971年発表の「ザ・ポール・ブレイ・シンセサイザー・ショー」は、過去と現在と未来が溶け込んだ傑作。ポール・ブレイの前衛であろうとする明快な意思が清々しく感じられます。

ジャコとパット

 最後に、触れたいのは、明白楽、未知の才能の発見者としてのポール・ブレイの功績です。それは、現代ジャズを築いた音楽家としてジャズ史に刻まれるエレキ・ベースの巨人ジャコ・パストリアスとギターの巨匠パット・メセニーに初めて録音の機会を与えたのがポール・ブレイだということです。

 時は1974年6月16日(日)、場所はニューヨークはマンハッタン区ソーホーのグリーン・ストリート29番地。ポール・ブレイが主催するIAI(Improvising Artists Inc.)レコードへの録音です。タイトルは「ジャコ」。ポール自身がプロデュースし、エレキ・ピアノでも参加しています。ポールの信頼厚いブルース・ディトマスがドラム。23歳のジャコと19歳のパットが初めてその巨大な才能を音盤に刻むのです。ジャコとパットを鼓舞し、挑発するポールのエレキ・ピアノは刺激的で若々しいです(実はこの時41歳)。全9曲、36分37秒に及ぶ高純度の即興演奏。現代ジャズの歴史的瞬間と言って良いでしょう。聴く度に新たな発見のある名盤です。が、実は、この音盤は当初全く商業ベースに乗らず、お蔵入りしていました。

 ところが、1976年になって、ジャコがスーパー・グループ、ウェザー・リポートに参加し、その革命的かつ驚異的なベースに世の注目が集まります。パットもゲイリー・バートン楽団に入ると同時にソロ・デビュー盤をリリースして新しきギター・ヒーローとして認知度が上がります。すると、この2人が全く無名だった頃、鬼才ポール・ブレイの四重奏団で録音していた事が関係者の間で話題となり、お蔵入りだった音盤「ジャコ」がリリースされます。虚飾を剥いだ、現代ジャズの真髄が真空パックされています。

結語

 ポールの活動の主たる場は常に米国でした。ですが、ニューヨークでジャズ・ミュージシャンとして独り立ちをしてからも、機会を見つけては、カナダに戻り、後進の指導に当たっていたと云います。1953年には、モントリオール・ジャズ・ワークショップの組織化に尽力しました。ビバップの創始者としてジャズ史に刻まれるアルト・サキソフォンの天才チャーリー・パーカーをモントリオールに招き、自らもピアノで参加しています。

 米国を拠点にジャズの歴史をつくったポール・ブレイ。自宅は、ニューヨーク、ロサンゼルスでした。83歳で他界したのもフロリダでした。が、彼はカナダ国籍を保持し続けていました。カナダが誇る音楽家です。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

日系リメンバランスデーでも、特別な思いで平和を願う

式典前に並べられた花輪。2023年11月11日、バンクーバー市。Photo by Japan Canada Today
式典前に並べられた花輪。2023年11月11日、バンクーバー市。Photo by Japan Canada Today
多くのポピーが寄せられたPoppy Wreath。2023年11月11日、バンクーバー市。Photo by Japan Canada Today
多くのポピーが寄せられたPoppy Wreath。2023年11月11日、バンクーバー市。Photo by Japan Canada Today

 今年も日系リメンバランスデー式典がバンクーバー市スタンレーパーク内にある日系カナダ人戦没者慰霊碑前で行われた。前夜の嵐から一転、太陽が顔をのぞかせる青空となった11月11日、カナダのために命を落とした日系カナダ人への祈りとともに、今年も特別な思いで平和を願った。

 今年は朝鮮戦争休戦協定から70年となる。カナダ退役軍人問題省によると第2次世界大戦、朝鮮戦争に参加し現在も存命している退役軍人は1万を下回ったという。

 この日は、カナダ人兵士として第2次世界大戦に参加したフランク・モリツグさん、朝鮮戦争に参加したタク・イリザワさんが紹介された(プログラム参照)。おそらく日系カナダ人としては唯一現在も存命の第2次世界大戦、朝鮮戦争を経験した退役軍人という。

式典後には多くの人が花輪が捧げられた記念碑を囲んでいた。2023年11月11日、バンクーバー市。Photo by Japan Canada Today
式典後には多くの人が花輪が捧げられた記念碑を囲んでいた。2023年11月11日、バンクーバー市。Photo by Japan Canada Today

 世界ではいまでも戦いが絶えない。昨年2月からのロシアによるウクライナ侵攻、そして今年10月から始まったイスラエルとハマスの戦いは、現地での戦闘で市民が犠牲になっているだけでなく、カナダ国内ではヘイトクライムを引き起こしている。

 式典の司会を務めたデイビッド岩浅さんは、カナダ軍兵士として戦った日系人に敬意を表するためここに集まっているが、同時に、国籍や宗教などに関係なくカナダを祖国とするために来た全ての人がこの国で平等に権利を有することを強調したいと語った。

 今年で2回目の式典参加となった丸山浩平・在バンクーバー日本国総領事は、「年々国際社会の状況が厳しくなったり、色々な悲劇的なことが起こっている中で、さらに特別な気持ちで祈りを捧げました」と語った。今年も赤いポピーが印象的だと話し、「先達たちの声があの赤いたくさんの花を通じて、いま生きてる人たちがしっかり英知を寄せ集めて力を合わせて明るい世界を作っていけと訴えかけているような気持ちで、特に今年は赤い花を印象的に受け止めました」と平和を願った。

 式典後には昨年まで新型コロナウイルス禍で中止となっていたレセプションが4年ぶりに行われ、多くの人が集まり、それぞれに思いを馳せていた。

司会を務めた岩浅さん。2023年11月11日、バンクーバー市。Photo by Japan Canada Today
司会を務めた岩浅さん。2023年11月11日、バンクーバー市。Photo by Japan Canada Today
花輪を捧げる丸山総領事。2023年11月11日、バンクーバー市。Photo by Japan Canada Today
花輪を捧げる丸山総領事。2023年11月11日、バンクーバー市。Photo by Japan Canada Today
Remembrance-Day-2023-program

(取材 三島直美)

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日本語能力試験N1の試験問題全て満点合格!グラッドストーン日本語学園

2023年7月に行われた日本語能力試験N1で全て(語彙文法・読解・聴解)満点という成績で合格したグラッドストーン日本語学園高等科の鈴木さしゃさん。写真:グラッドストーン日本語学園
2023年7月に行われた日本語能力試験N1で全て(語彙文法・読解・聴解)満点という成績で合格したグラッドストーン日本語学園高等科の鈴木さしゃさん。写真:グラッドストーン日本語学園

 去る7月に行われた日本語能力試験N1で全て(語彙文法・読解・聴解)満点という成績で高等科の鈴木さしゃさんが合格した。教員でもN1で全て満点は難しいと日本語教育雑誌に載っていた事もある程である。

 その鈴木さしゃさんのN1受験についての勉強方法を伝えてもらいました。
 「N1受験にあたり、漢字検定の予定とも重なり準備時間を多く取ることが出来ませんでした。模擬試験は会場の雰囲気や教室などがわかるほか、一度試験前に自分の実力をみておくのにも良かったと思います。そこから一週間は、漢字検定に使っていた勉強時間を使い、学園から借りてきた過去問の問題集を解きました。その中で、私が一番難しいと思ったのが長文でした。中略が入る特殊な読解問題に苦戦しました。しかし、日本語の本の面白さを教えてくれた母のお陰で、様々な日本語のネット上の小説を読む習慣がつき、そこで培った読解力と語彙力で、今回の結果が出たのだと思います。満点という結果に自分でもびっくりして表彰状を二度も見てしまいました。両親も最初はまさかと信じてくれなかった程でした」という感想でした。

 今回N1・N2の聴解で満点をとって合格した生徒が他にも二人いた。

 この日本語能力試験には人数制限があるため、受験級により受けられなかった生徒がいることが残念でならない。12月に受験できない時は翌年の7月に申し込みをして受験できるが、コロナ前のように誰でも希望者が受験できれば生徒は嬉しいだろう。

(寄稿 グラッドストーン日本語学園)

2024年漢字検定実施のお知らせ

学園では公益財団法人主催による漢字検定を2024年1月20日に実施します。
お申し込み締め切りは、2023年12月2日です。(定員に達しましたら締め切りとなります)
お申込用紙を添付にてお送り出来ますので、学園までお問合せ下さい。

グラッドストーン日本語学園
☎(604)515-0980
Email:info@gladstonejls.com

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