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「アナ・ソコロヴィッチ」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第45回

はじめに

 音楽ファンの皆さま、日加関係を応援頂いている皆さま、こんにちは。

 既に3月も半ばを過ぎ、そろそろ春分の日です。夜明けは早まり、日没の時間は遅くなって来ました。オタワの冬は決して油断できません。寒さが幾分緩んだかと思うと、厳寒の日がぶり返します。とは言え、オタワ版の三寒四温はあって、春も遠からじと感じる今日この頃です。

 一方、国際情勢はと言えば、ロシアのウクライナ侵略から4年が過ぎ、イスラエルと米国によるイラン武力攻撃で中東情勢は混迷の度を深めています。そんな中、カナダは独自のスタンスを取り、平和と繁栄を維持しようと努力しています。その様子を日々見ていると、カナダという国家の成り立ちや困難な現実に直面しつつも理想を懸命に掲げて発展して来た歴史が想起されます。そして、多文化主義や開放的かつ包摂的な社会は現在カナダのアイデンティティーなのだと納得します。

 そこで音楽です。“歌は世につれ”と言います。確かに、古来、洋の東西や時代を問わず、音楽は世の中の動向を反映して来ています。カナダの現代音楽には、カナダの社会の有り様が滲んでいるのです。

 と言う訳で、今回は、現代のカナダが誇る作曲家、アナ・ソコロヴィッチです。ポピュラー・ミュージックの作曲家ではありませんから、一般的な知名度は高くありません。が、極めてカナダ的な作曲家だと思います。

 それでは、アナの世界へようこそ。

ピアノのための2つの練習曲

 アナ・ソコロヴィッチの名前が音楽関係者の目を引いた最近の例は、昨年のエリザベート王妃国際音楽コンクールの時です。

 エリザベート王妃コンクールは、チャイコフスキー国際コンクール、ショパン・コンクールと並ぶ世界3大コンクールの一つですが、最も歴史が古いのです。ベルギー青年音楽院の創始者であるルネ・ニコリが提唱したのに対し、音楽に深い理解を持っていたベルギーの元王妃エリザベートの名を冠して1951年から始まりました。世界最高峰の登竜門の一つで、その優勝者や上位入賞者には、輝かしい未来の扉が開きます。ヴァイオリン、ピアノ、声楽、チェロの4部門がそれぞれ4年ごとに開催されています。

 2025年は、ピアノ部門でしたが、そのセミファイナルには12人が残りました。その際の課題曲は、各ピアニストの真の実力を知るために、バッハやモーツァルトやベートーヴェンといった既存の曲ではなく、真新しい曲が課題として与えられるのです。セミファイナルの課題曲に選ばれたのが、アナ・ソコロヴィッチの「ピアノのための2つの練習曲」でした。エリザベート王妃財団から委嘱され、アナが書き下ろしたものです。

 世の中には、クラシック音楽、ジャズ、ロック、ポップスまで、無数の楽曲が存在します。元来ピアノ独奏曲もあれば、ピアノ用に編曲された曲もあります。そんな中、アナは、謙虚に“練習曲”と名付けていますが、その実態は、超絶技巧を要する難曲です。弾く者にとっては、己の限界を思い知らされる程です。ですから、コンクールの課題曲の意味はそこにあります。しかし同時に、この“練習曲”は、聴く者には音楽を聴く醍醐味を与えてくれます。これまで味わったことも見たこともない、全く新しい音楽的な地平と風景を提供してくれるのです。しかも、その新しさは、美しい響きを秘めています。クラシック音楽の系譜にある現代音楽の世界で高い評価を得ています。

 コンクールの主要プログラムを収録した4枚組CDライブ録音で、日本人入賞者、桑原志織の素晴らしい演奏を聴いてみて下さい。

ユーゴスラビアの天才少女

 それでは、アナ・ソコロヴィッチの来歴を辿ってみましょう。とにかく極めてカナダ的です。

 1968年、東西冷戦下のユーゴスラビアの首都、ベオグラードに生まれます。そして、4歳からバレエを始めました。家にはピアノがなかったので、バレエの練習の合間にスタジオにあるピアノを見よう見まねで弾くようになったのが8歳の頃です。正式に習った訳ではないのですが、ピアノの鍵盤を押すと湧き上がる音色に魅了されたといいます。押す鍵盤の組み合わせを変えると異なる響きが生まれ、強弱をつけ、リズムに乗ると音楽が溢れる。魔法のような空間に、自らの未来を直感したに違いありません。ピアノに触れた瞬間から、天然の作曲家の資質が開花しはじめます。

 ここで、アナの音楽について一つの重要なポイントがあります。彼女はバレエの練習を通じて音楽に出会ったことに由来すると思うのですが、アナは音楽を舞踏と演劇と一体を成すものとして体感していたということです。正に、芸術を尊んだ古代ギリシアの市民が円形劇場で喜劇や悲劇に興じた時と同じです。そこでは、音楽・舞踏・演劇は三位一体だったのですから。

 長じて、ベオグラード芸術大学に進学し、本格的に音楽を学びます。私のリサーチ不足で、アナの学業というか音楽活動に関する詳細は分からないのですが、きっと思う存分に音楽の奥義を探求したに違いありません。教授陣からも、将来のユーゴスラビア現代音楽を担う人材として嘱望されていたに違いありません。しかし・・・・

激動の時代

 1989年11月9日の夜、ベルリンの壁が崩壊し、冷戦が終結します。今から振り返れば予兆はあったとは言えます。しかし、第2次世界大戦終結から40年余にわたり国際情勢の基本構造となっていた冷戦下の社会主義体制です。一般国民からすれば、それが瞬く間に不安定化し、崩れていくとは想像だにできなかったというのが実情でしょう。突然の壁の崩壊で、東欧諸国の政治情勢は一変します。

 特に、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、「7つの国境・6つ共和国・5つの民族・4つの言語・3つの宗教・2つの文字」と形容される多様性を内包した国家でした。傑出した政治指導者チトーにして冷戦構造という状況で連邦国家としての安定も何とか保たれていました。しかし、冷戦が終わりソ連の圧力から解放されると、折からの不況と相まってユーゴスラビアを構成する各共和国の分離独立要求が高まります。政治的緊張は武力衝突に至り、ユーゴスラビアは混乱します。

 ベオグラードの芸大生、アナにしてみれば、政治は主たる関心の外側にあったに違いありません。しかし、冷戦が終わり、民族主義が勃興し政治的に落ち着いて音楽を勉強する状況ではなかったのだと思います。まるで、ワルシャワ音楽院に学んでいたショパンのようですね。若き天才は、一方で音楽を極めたいという情熱があり、他方で故国ポーランドをロシアの横暴から守りたいという思いの間で葛藤しましたが、パリへ向かった訳です。1830年11月のことです。

 時は流れて、1992年です。24歳のアナもまた、音楽の旅路を続けるために故国を出る決断をします。ベオグラードを出て向かった先は、モントリオールでした。

新天地モントリオール

 それでは何故モントリオールだったのでしょうか?

 カナダは多文化主義を標榜し多様性に溢れた国です。しかも、モントリオールは、これまで「音楽の楽園〜もう一つのカナダ」で紹介して来たとおり、音楽に溢れた街です。

 更に、歴史を紐解くと、20世紀初頭からユーゴスラビアからモントリオールへの移民が本格化します。モントリオールには、伝統的なフランス文化、カトリックの伝統、そして欧州的な都市の構造があり、大西洋の対岸という地理的近接性もあって、東欧からの移民にとっては適応しやすかったという面があります。また、冷戦が始まると、共産・社会主義に反発し政治的理由でモントリオールに来る知識人層や自由主義者も多かったといいます。そして、冷戦終結後の動乱の渦中、ユーゴスラビアから多数の移民が来た訳です。

 アナもそんなユーゴスラビアからの移民の一人でした。モントリオール大学・大学院に進学し勉強を続けます。ホセ・エヴァンゲリスタ教授に師事し修士課程で作曲を学びます。

飛翔

 音楽に溢れ多様で多彩な才能が競うモントリオールで、アナは瞬く間に頭角を顕します。ヨーロッパの古典的な音楽技法に加え、多民族国家ユーゴスラビアで培われたバルカン的なリズムとハーモニーは強い印象を与えたといいます。更に、アナにとっては、音楽は舞踏や演劇の不可分の一体であり続けています。そのアプローチは、舞台芸術としての広がりと可能性に満ちています。

 アナ・ソコロヴィッチの名を音楽界に知らしめた代表作、オペラ「結婚(Svadba)」には、彼女の音楽的エッセンスが凝縮しています。2011年、トロントで初演されました。完全アカペラによる歌劇です。オーケストラはおろか楽器は一切ありません。出演者は6人の女性歌手のみ。歌詞はセルビア語で、結婚式前夜の花嫁の儀式的な集まりを描いています。極めてシンプルな舞台設定で、全ては声と身体リズム(足踏み、手拍子、喘ぎ、擬音等)の人間が発する音で構成されています。声こそが最高の楽器であり、声の持つ無限の可能性を感じさせます。

 音楽は、変拍子を多用した独特なリズムや民族的な旋律でバルカン的な色彩に満ちた、結婚式前夜の女性だけの儀式を描いています。一方、主題は結婚です。人生の転機にあたり、友人との絆や結婚への一抹の不安といった普遍的かつ極めて人間的な要素を音楽で表現しています。

 更に、このオペラ「結婚(Svadba)」が高く評価されている理由がもう一つあります。それはリーズナブルな制作費です。例えば、ヴェルディ、ワーグナー、プッチーニ、モーツァルト等の本格的オペラの上演となると、膨大なコストがかかります。それらと比べれば、女性歌手6人のみのシンプルな舞台は、より幅広い聴衆に現代オペラの愉悦を提供できるのです。

 このオペラは、トロント初演の後、2015年1月にはフランスでリール上演。大きな反響を呼び、その後、欧州各地で上演されています。21世紀の室内オペラの最重要作品の一つと評価されています。

結語

 アナは、現在はモントリオール大学教授を勤めつつ、ケベック現代音楽協会の芸術監督でもあり、多彩な活動を続けています。オペラ、管弦楽、室内楽、更に器楽曲等の作品を発表しています。ユーゴスラビアからモントリオールに来て35年目です。偉大なるカナダの作曲家です。

 そして、アナ・ソコロヴィッチの音楽的冒険は未来に向かって進化しています。訪日もして欲しいですし、もっと録音もして欲しいところです。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「エド・ビッカート」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第44回

はじめに

 音楽ファンの皆さま、日加関係を応援頂いている皆さま、こんにちは。

 前回は、「新年明けましておめでとうございます」と御挨拶させて頂きました。が、瞬く間に時間が経ち、既に2月も後半です。私事で恐縮ですが、趣味のウォーキングを通じて、車窓からでは分からないオタワの街の四季折々の素晴らしさを実感しています。春は新緑、夏は青空、秋は紅葉。そして、冬は雪景色の純白が非常に印象的です。

 オタワの雪を毎日見ていますと、村上春樹の最新長編「街とその不確かな壁」を思い出しました。第2部では、主人公の「僕」は福島県の山間部にあるZ**町の図書館長になり、町のコーヒーショップを頻繁に訪れるのですが、そこでデイブ・ブルーベック四重奏団の演奏が流れている場面があります。そして、この四重奏団のサウンドの核心がポール・デズモンドのアルト・サキソフォンです。村上春樹は若い頃ジャズ喫茶を経営していたことがあり、巨大なジャズ愛を持っていて、デズモンドのアルトを穏やかで静かな空間を演出する上品なジャズとして描写しています。

 さて、前置きが長くなってしまいましたが、ここからが「音楽の楽園」です。何故、米国人ポール・デズモンドについて記したかと言えば、彼の代表作で自らの名を冠した1975年の名盤「ポール・デズモンド」はカナダの誇る燻銀ギタリスト、エド・ビッカート無しには成立し得なかったからです。実際に、デズモンドはライナーノートで「この音盤はエドのアルバムだと思っている。本当に」と述べています。知名度で言えば、オスカー・ピーターソンやダイアナ・クラールに遠く及ばないものの、エド・ビッカートは、カナダのジャズ史において特別な地位を占める音楽家です。

 という訳で、今回は、エド・ビッカートです。

カナダ的な極めてカナダ的な

 エド・ビッカートの来歴を辿ると、彼は、実にカナダ的な家族から登場して来たことが分かります。旧約聖書も預言者の来歴を詳細に描くことから始まっていますが、それに習い、ここでもエド・ビッカートの両親から始めたいと思います。少々細かい事を書きますが、どうぞお付き合い願います。

 まず、エドの父親、ハリー・ビッカートについてです。

 ハリーは、旧ソ連のウクライナ共和国モロスチナ・コロニー出身のメノナイトでした。メノナイトとはキリスト教再洗礼派(アナバプティスト)の一派で、16世紀の宗教改革期にドイツ・オランダで生まれ、非暴力にして質素な生活を旨とする信仰共同体です。17〜18世紀、多くのメノナイトがロシアに集団移住しました。更に、時代が下り、19世紀後半、ロシア在住のメノナイトは北米へ移住。20世紀に入り、特にロシア革命後は、カナダへの集団移住が増加します。

 と言うのも、1920年代のカナダは、未だ大英帝国の自治領でしたが、第一次世界大戦で多大な犠牲を払いつつも主権国家へと力強く歩み始めます。平原州マニトバは極寒の地でしたが、農業技術の飛躍的発展と鉄道網の整備で、発展著しい地でした。カナダ政府も国家建設の観点から積極的に移民を受け入れました。そして、メノナイトを含めウクライナから多くの移民が新天地マニトバにやって来たのです。特に、州都ウィニペグから南へ120km、米国ノースダコタ州との国境の街スタンリーには農業を中心としたメノナイトの自治地区が生まれていました。ハリー・ビッカートもそんなウクライナ系移民の一人でした。但し、一つだけ他のウクライナ移民と異なっていたのは、ハリーがヴァイオリンの名手だということでした。メノナイト共同体の中でヴァイオリン奏者として活躍したと云います。

 そんな中、ハリーは、スタンリーの隣街プラム・クーリー出身のヘレン・ディック嬢と出会います。彼女は、オランダ系のメノナイトで、ピアノの名手でした。二人は恋に落ち、結ばれますが、それは極めて自然な成り行きであったのでしょう。そして、1932年11月、父ハリーと母ヘレンの間に、エドが誕生します。

 子を授かったビッカート家は、程なくしてマニトバ州スタンリーからブリティッシュ・コロンビア(BC)州カナディアン・ロッキー山脈の奥深い街ヴァーノンへと転居します。その地で、ビッカート家は養鶏農場を営むことになるのです。同時に、ヴァイオリンの名手ハリーとピアノの名手ヘレンは、農場経営の傍ら、カントリー・ダンス・バンドを組み、地元で音楽活動を始めます。地元のエド少年は、音楽に溢れた家庭ですくすく育ちます。

ギターとの出会い

 1942年、エド少年10歳は生涯の楽器となるギターと出会います。兄が持っていたギターを手に取ったのが最初だったといいます。父はヴァイオリン、母ピアノなのに、何故、エド少年はギターだったのでしょうか?たまたま兄が持っていたという偶然だったかもしれませんが、その後のエド・ビッカートの成功を知っているので、どうしても運命の出会いと言い切ってしまいたくなります。そこで、ヴァイオリンとピアノとギターという3つの楽器について少々考えてみましょう。全くの私見ですが、ギターは、弦楽器としてのヴァイオリンの特性と和音楽器としてのピアノの特性を併せ持つ唯一の楽器なのです。その意味では、ヴァイオリン奏者の父とピアニストの母の息子がギターで道を拓いたのは必然とすら言えるように思います。

 ヴァイオリンの最大の特徴は、弦を押さえる指と弓を引く指の絶妙な操作と力加減で、ヴィブラートやポルタメント、フラジオレット等々それぞれの奏者に固有の多彩な音色や表情を生み出せることにあります。しかも何処へでも持ち運べます。但し、特殊奏法はありますが、ヴァイオリンは基本的に短音楽器で、それ自体ではハーモニーを奏でることには限界があります。

 一方、ピアノの最大の特徴は、多数の鍵盤を弾くことで、同時に主旋律も対旋律も、和音も重低音も奏でることが出来ますし、リズムを刻むことも可能です。1台のピアノで音楽を完結できるのです。但し、一つ一つの音色は決まっていて、極端な話、猫でも赤ちゃんでも音大生でも著名なピアニストでも、同じ鍵盤を押せば基本的に同じ音が出ます。勿論、楽曲を弾けば、運指の速度、強弱、微妙なタッチの差、更にペダルの使用で個性的にして豊穣な音楽が生まれる訳ですが。そして、ピアノの最大の弱点は、楽器として完璧であることの裏返しで、持ち運び出来ないことにあります。

 そこで、ギターですが、“小さなオーケストラ”と呼ばれるように、6本の弦を制御することで、ピアノのように同時に主旋律も対旋律も和音も重低音も弾けるのです。同時に、ヴァイオリンのように、弦を絶妙に制御することでヴィブラート等の豊かな表情や音色を生み出せます。コード・カッティングではリズム楽器と化します。しかも持ち運びが容易。強力な楽器です。

 エドは、音楽一家のDNAを伝承し、ギター少年になります。これは運命です。

ギター少年の誕生

 ギターを手に取ったエド少年は、瞬く間に上達したそうです。やがて、両親のカントリー・ダンス・バンドに参加するようになります。モーツァルトやベートーヴェンを筆頭に数多のヴァイオリン・ソナタが作られたことに端的に現れているとおり、ヴァイオリンとピアノは良き音楽をつくる上で2つの楽器のコンビネーションとして完璧です。が、そこにギターが加わる意味は何処にあるのでしょうか?リズムの強化です。一層力豊かな音楽を奏でることを可能とするのです。ダンス・バンドの任務は、客を踊らせることにあります。エドの参加は、ビッカート家のダンス・バンドを、踊るという観点でより魅力的な楽団へと押し上げました。

 同時に、エドは、ダンス・バンドを通じて生きた音楽を学びました。客を前に演奏することで、何が客を刺激するのか、頭よりも先に身体が踊り出したくなるような音楽の核を体得するのです。極論を言えば、太古の昔から音楽の核には舞踏がありました。バッハの傑作「フランス組曲」や「イギリス組曲」も基本はダンスのための音楽です。その系譜にあるのが、ブラームス、ガーシュイン、グレン・ミラー、ビートルズ、マイケル・ジャクソンらです。要するに、素晴らしい旋律、ワクワクするハーモニー、そして刺激的なリズムの融合が、客の胸を掻きむしり、踊り出したくなるのです。これこそ、ギター少年エドが両親のダンス・バンドで学んだことのエッセンスです。

 そして、ギター少年は、ジャズの洗練を受けます。20世紀に生まれた新しい音楽、ジャズの核心は自由です。制約はありません。エドは、ハーモニーの面で天性のセンスにますます磨きをかけます。同じ旋律でも、エドが伴奏すれば、魔法にかかったようにお洒落な響きに化けるのです。

 後年、インタヴューで「自分は、生まれながらのサイドマンだ」と語っていますが、その意味するところは、主旋律を際立たせる時に、エドのギターが最も輝くということです。その原点は、両親のダンス・バンドでギターを弾き始めた時にあるのです。

 長じて、18歳になると、地元ヴァーノンのラジオ局の音響技師として職を得ます。が、ギタリストとして、己の腕を試したいと思うのです。が、地元ヴァーノンは余りに小さな街でした。

 20歳になると、カナダの音楽業界の一大中心地トロントへと旅立つのです。自信と不安が交叉するエド青年の心境はどんなだったでしょう。

トロント〜挫折と鍛錬、そして秘宝へ

 世に“井の中の蛙”と言います。カナディアン・ロッキーの田舎ヴァーノンでは最高のギタリストだったエド。しかし、トロントに到着して程なくして、この街の音楽シーンには凄い才能の持ち主が数多いることを知るに至ります。自信喪失だったのかもしれません。自分は未だ準備ができていないと悟ります。2年余にわたり人前ではギターを弾かなかったと言われています。

 一方、大都市トロントで生きていくためには、仕事をしなければなりません。エドは、トロントのラジオ局でサウンド・エンジニアの職を得ます。但し、音楽の道を諦めた訳ではなかったのです。ラジオ局の技師として働く傍ら、仲間内のセッション等で、新しい技法を学び、腕を磨きます。いつの日か、ステージに登りスポットライトを浴びることを夢みていたのでしょう。

 そして、1955年、エドは、トロントの音楽シーンに鮮やかに登場します。サックス奏者ジミー・アマロの楽団のレギュラーとなります。音楽業界では、徐々にエドのギターに注目が集まり始めます。「俺様が、俺様こそが・・」と自己主張の強いジャズの世界にあって、生まれながらのサイドマンとして共演者の演奏を際立たせることに威力を発揮するエド。いよいよ、エド・ビッカートの時代の幕開けです。

 25歳の時、モリス・コフマン楽団のレギュラーに招かれます。コフマンは、カナダが生んだジャズの巨人で、サックス奏者・フルート奏者にして作曲家、バンド・リーダーです。エドが参加して録音した「スゥインギング・シェパード・ブルース」はビルボード誌チャート23位のスマッシュ・ヒットとなります。このヒットは、3つの意味で意義深いです。まず、カナダ発のヒットであること。そして、トップ40に歌のない演奏だけの曲がランクインするのは非常に珍しいのです。その後、ハービー・マンはじめ多くのアーティストにカバーされるようになる時代を画す名曲です。

 この後、エドは、スタジオ・ミュージシャンとして、数多くのアーティストの録音に招かれると同時に、ラジオやテレビの仕事も増えます。ディジー・ガレスピー、ベニー・カーター、バディー・テイト等々、ディスコグラフィーは大変に充実しています。多くのアーティストが、エドと一緒に録音するためにトロントに来るようになります。正に、トロントの秘宝になったのです。

結語

 冒頭に述べた、ポール・デズモンドの音盤へのゲスト参加は、エド・ビッカートのギターの素晴らしさを雄弁に語る演奏です。的確なリズム感、柔らかく美しい音色、旋律を生かす優れたハーモニー。ジャズ・ギターの最高峰と言って良いでしょう。勿論、エドの名前を冠した彼自身のリーダー作「エド・ビッカート」も隠れた名盤ではあります。しかし、率直に言えば、他のアーティストのリーダー作をサポートする時にこそ、エドの魅力が全開するように感じます。稀有な存在です。

 「三つ子の魂、百まで」とも言います。カナディアン・ロッキーの街ヴァーノンで地元のお客さんが踊るのを音楽でサポートした日々。両親のバンドでギターを弾き、客が上機嫌で踊る時に、感じたに違いない混じり気のない喜び。エド・ビッカートを聴くと、幾つになっても彼の奏でるギターにはそんな素朴な喜びが宿っていると感じます。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「ゴードン・ライトフット」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第43回

はじめに

 音楽ファンの皆さま、日加関係を応援頂いている皆さま、遅ればせながら、新年明けましておめでとうございます。

 2026年がスタートして早くも3週間が経ちました。新年早々のトランプ政権のベネズエラへの軍事攻撃と大統領拘束は、世界に衝撃を与えました。一気にお屠蘇気分が醒めた人も多いと思います。我々は歴史の転換点に生きているのではないかと感じる今日この頃です。後世の歴史家が2026年1月をどのように位置付けるのか興味が尽きません。

 それはさて置き、日々の生活は続きます。陰に陽に国際情勢の影響を被りながらも、2026年が、読者の皆様にとって健やかな年となるように祈念しつつ、皆様の更なる御活躍と御健勝を願っております。

 新年のご挨拶はこれぐらいにして、音楽です。

 今月は、カナダの伝説的シンガー・ソングライター、ゴードン・ライトフットです。彼が2023年5月1日に逝去した際には、カナダ最大の新聞グローブ&メール紙が特集を組みました。ジャスティン・トルドー首相も公式コメントを発出しました。曰く「カナダの最も偉大なシンガー・ソングライターの一人で、その訃報を深い悲しみをもって受け止めている。彼の作品はカナダの精神を捉え、国の音楽的伝統を形成した。カナダの音楽的遺産として永遠に残るであろう。」

 正に、カナダの国民的な歌手が追悼される様子を目の当たりにしました。

最初の出会い

 私がゴードン・ライトフットという名前を知ったのは、長崎県の地方都市・佐世保の中学1年生の頃でした。当時は、多くの同級生と同様に「オールナイト・ニッポン」や「こんばんは、落合恵子です」等の深夜放送に完璧にハマってしまいました。午前1時から始まる「オールナイト・ニッポン」を聞くと、翌朝は、睡眠不足で大変でしたが、深夜放送で流れてくる洋楽(現在は死語ですね)に胸が震えました。そんな洋楽アーティストの一人がゴードン・ライトフットでした。

 彼の代表曲“心に秘めた想い(原題: If You Could Read My Mind)”は、田舎の中学生をノックアウトしました。SONY製のTHE11という当時最新の3バンド・ラジオで聴く異国の歌は今も胸の奥で鳴っています。実は、歌詞は全く分かりませんでした。仮に英語が出来ていたとしても、恋愛の機微や男女の想いのすれ違いのニュアンス等は全く理解できなかったに違いありません。ですが、アコースティック・ギターが奏でるアルペジオの響きと語りかけるような歌声、何よりも美しい旋律に魅了されたのを鮮明に憶えています。それにしても、英語の微妙なニュアンスを示す素敵な邦題ですね。最近は、原題を単にカタカナ表記するものばかり。当時の洋楽ディレクターは偉かったですね。

 と言うものの、中学生の頃は、ゴードン・ライトフットがカナダ人ということは全く知りませんでした。というか、洋楽のアーティストの国籍には、ビートルズとサイモン&ガーファンクルを除いて、無頓着な田舎の少年だったのです。

 そして、高校生になる頃には、私の関心はよりハードでプログレッシブなロックに移っていきました。ジャズも聴き始めました。フォーク・ミュージックを基調とするゴードン・ライトフットのようなシンガー・ソングライターの音楽からは離れて行きました。

ゴードン・ライトフット再発見

 齢を重ね、様々な音楽体験を経て、ゴードン・ライトフットを再発見したのは、私がオタワに着任してからです。正直に言えば、カナダは8000km余の国境で接する米国の圧倒的な影響下にあるに違いないと私は思い込んでいました。しかし、着任直後から、米国とは異なるカナダの文化やスタイルを実感するようになりました。そんな中で、改めてゴードン・ライトフットの音楽に触れた訳です。

 放蕩息子の帰還ではありませんが、刺激溢れる前衛の音楽を浴びた後で聴くゴードン・ライトフットのナチュラルな音楽は胸に沁みました。虚飾もギミックも無い素顔の歌。しなやかさと優しさの中に潜む力を感じさせます。カナダという国の個性が彼の歌に滲み出ているようです。

 その頃の最新音盤が「ソロ」でした。前作「ハーモニー」から16年ぶりの新譜で、20枚目のスタジオ録音盤。ちょうど新型コロナの感染爆発が拡まった2020年3月にリリースされました。81歳のゴードン・ライトフットが現在進行形で刻まれています。全10曲は全て自身の作詞作曲で、表題どおり生ギターだけの弾き語りです。シンプルこの上ありません。若い頃の声と比べれば、加齢によるスモーキーな濁りはありますが、明瞭なバリトンの美声は十分に維持されています。何よりも、ライトフット節と呼ぶべき、美しい旋律が健在です。最近の音楽業界では、リズムを強調したラップ・ミュージック全盛という感がありますが、ここには本物の歌が息づいています。

 しかし、誠に残念ながら、最新盤「ソロ」が遺作となってしまいました。

訃報と弔辞

 2023年5月1日、ゴードン・ライトフット逝去は、多くのファンに深い悲しみを与えました。自然死と発表されたので、彼の寿命だったのかもしれません。ですが、84歳にして現役で、コンサート・ツアーも予定されていました。天国に召されるには若過ぎました。

 そして、訃報に接して、多くの大物ミュージシャンが心のこもったメッセージを発出しました。ゴードン・ライトフットの音楽が如何に素晴らしく人々の胸に沁みていたのかを如実に伝えています。

「セルフポートレイト」ボブ・ディラン
「セルフポートレイト」ボブ・ディラン

 ボブ・ディランは「ライトフットの曲に嫌いな曲なんて思いつかないね。かれの曲を聴くたびに、永遠に続けばいいのにと思うような感じだ…ライトフットは長い間、俺にとって師匠(mentor)だった。たぶん今もそうだと思うよ」と自身のウェブサイトで表明しています。実際、他人の曲をカバーすることの殆どないディランですが、1970年の傑作「セルフポートレイト」には、ライトフットの曲“Early Morning Rain”を収録しています。

 ビリー・ジョエルは、自身のインスタグラムに“If You Could Read My Mind”をピアノで弾き語っている動画をあげ、追悼の意を示しています。古今東西の名曲は、如何なる編曲で奏でられても素晴らしいものです。ビリー・ジョエルのヴァージョンは、曲の骨格を見事に浮き彫りにし、美しさを際立たせています。ピアノの名手のジョエルならではです。フレッド・シュルアーズ著「イノセントマンーービリー・ジョエル100時間インタヴューズ」には、ゴードン・ライトフットの歌唱法から影響を受けたことが記されています。また、やんちゃな若き日のアシッド・トリップで、激しくラリった後で、ゴードン・ライトフットを聴いて心の安寧を取り戻した旨の記述もあります。かつてラジオ番組で、ライトフットに会いたいとも語っています。

 また、同郷のシンガー・ソングライター達も胸に残るコメントをしています。ニール・ヤングは「カナダは偉大な詩人を失った」と述べました。ジョニ・ミッチェルもライトフットを「ソングライターの中のソングライター」と評し、彼の曲の物語性と旋律美に敬意を表しました。ブライアン・アダムスは「私たち全員の道を切り拓いた」と強調しました。

 実は、ブライアン・アダムスのこのコメントは、シンガー・ソングライターの世代についての極めて的確な指摘です。と言うのも、ゴードン・ライトフットは、1960年代後半から顕著な活躍を示す一連のシンガー・ソングライター達よりも数年早く誕生し、いち早く音楽活動を開始し、道を切り拓いたパイオニアだからです。

音楽の旅路〜前哨戦

 ゴードン・ライトフットは、1938年11月、オンタリオ州南部のシムコー湖畔の街オリリアに誕生しました。ここは、4000年前から先住民のヒューロン族やイロコイ族が暮らしていました。いわば、カナダの心の故郷とも言うべき街です。両親はスコットランド移民の家系で、クリーニング店を経営していました。

 そして、母親ジェシーが未だ幼かったゴードン少年の素質を見抜いたといいます。地元の聖パウロ合同教会の聖歌隊に入ると、音楽監督を勤めていたレイ・ウィリアム師から音楽の基礎を教わります。当時を振り返って、ライトフットは、心の内に湧き上がる様々な感情を如何に歌に反映させるかについて実に多くの事を学んだ旨述べています。三つ子の魂百までということでしょうか。

 そして、ライトフットは聖歌隊で活躍します。地元のラジオ局の番組でオペラやオペレッタの楽曲を歌うようになります。12歳の頃のことです。変声期前のボーイソプラノでコンクールに出場し、見事に優勝しました。その副賞がトロントの音楽の殿堂マッセイ・ホール(連載第18回参照)でのコンサート出演でした。ライトフットは、その生涯でマッセイ・ホールで170回も公演していますが、これが初のマッセイ・ホール体験です。

 母親の眼力はさすがです。その後、ピアノ、ギター、ドラム等の楽器も独学でマスターしていきます。やがて、聖歌隊の世界だけでは満足できなくなります。19世紀の米国の作曲家、ステファン・フォスターの音楽に傾倒していきます。フォーク・ソングやカントリー・ミュージックを歌うようになります。高校生になる頃には、避暑地として有名なオンタリオ州ムスコカ(2010年のG8サミットも開催された街)でも観光客を前に様々な場で歌うようになります。

 高校を卒業すると、ライトフットはロサンゼルスのウエストレイク音楽院に進学します。ここでは、ジャズ、作曲、編曲を専攻しました。ライトフットの音楽の幅が一段と拡大します。そして、いよいよ、職業的音楽家への道が拓きます。

飛翔

 2年間のロサンゼルス留学を終えて、ライトフットはトロントに戻ります。1960年のことです。本当は音楽業界の中心ロサンゼルスで名乗りをあげたかったに違いありません。ある種、夢破れた傷心の帰郷だったのかもしれません。しかし、ライトフットは、苦さも甘さも学んだ上で、地元トロントで歌手として本格的な活動を開始します。最初はフォーク/カントリー系のコーラス・グループに参加して頭角を顕します。地元レーベルからシングル盤もリリースします。が、この段階ではトロント圏内の新人でした。

 転機は、1963年に訪れます。1年間にわたり、ロンドンに遠征し、BBCテレビのカントリー番組のホストを勤めます。その間、人気デュオ、イアン&シルビアに自作曲を提供しソングライターとしての評判を高めていきます。特に“Early Morning Rain”は、カナダ・チャートで首位になります。ピーター・ポール&マリーのヴァージョンも米国でスマッシュ・ヒットします。エルビス・プレスリーらへも楽曲提供していくことになります。知る人ぞ知るカナダの才能が開花していきます。但し、花開いたのは米国でした。ボブ・ディランの敏腕マネージャーとして知られたアルバート・グロスマンこそライトフットの巨大な才能の発見者でした。

 1966年1月、遂に記念すべきデビュー盤「ライトフット!」がリリースされます。実は、この音盤は1964年にニューヨークで録音されていたものの御蔵入り状態だったのです。が、グロスマンの働きで、ライトフットがニューポート・フォーク祭で演奏し、人気TV番組ジョニー・カーソン・ショーにも出演したことで、音盤リリースに至ったのです。御蔵入りしていたとは言え、その内容は今聴いても古臭くありません。収録された全14曲のうち11曲はライトフットの自作曲です。上述の“Early Morning Rain”も聴けます。

カナダの精神を刻む音楽

 1967年4月、第2弾「The Way I Feel」がリリースされました。特に、注目すべきは“Canadian Railroad Trilogy”です。この曲は、CBC(言わばカナダのNHK)から委嘱された特別な曲です。1967年はカナダ建国100周年の記念すべき年ということで、それに相応しい歴史を描写する希望と誇りに溢れる力強い曲が出来上がった訳です。6分22秒という長尺です。日本の27倍の広大な国土が東西は大西洋岸から太平洋岸に広がり、北は北極海に面する若い国家カナダの統合を象徴するのが鉄道のネットワークでした。1885年に大陸横断鉄道が完結しました。ライトフットは、そんなカナダ建国と鉄道の絆を歌い上げたのです。CBCが100周年に際して委嘱した音楽家がライトフットであったという事実は、ライトフットが真に国民的な歌手だということを端的に示しています。カナダの精神を刻む音楽です。必聴です。

結語

 ゴードン・ライトフットが没して既に3年近くが経過しました。世に『去る者日々に疎し』と言います。しかし、如何に歳月を経ても風化することのない本質というものがあります。カナダの心情と歴史を描き人々の心に深く沁みるライトフットの歌は永遠です。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「アンジェラ・ヒューイット」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第42回

はじめに

 音楽ファンの皆さま、日加関係を応援頂いている皆さま、こんにちは。

 12月と言えば「しわす」。師走です。万葉集の頃からある言葉です。語源には諸説ありますが、学術的には古語の「しはす」説が有力との見方があります。漢字で書くと「為果つ」。事を終えるという意味で、一年の事が果てる月という趣旨だそうです。但し、「としはつ=年果」或いは「せわし=忙」等もあります。一般的には、「師(先生)も走るほど忙しい」が広がっていますが、後付けの説のようです。

 いずれにしても、激動の1年を締め括る12月は大変に忙しいです。日本に限らずオタワでも眼の廻る忙しさです。クリスマス前に溜まった仕事を終わらせたいという思いは、大晦日までに決着させたいという覚悟と同じで、そのような発想は洋の東西を問わないようです。

 そこで音楽です。多忙な12月に聴きたい音楽と言えば、俗世の現実とは別の次元で、心を落ち着かせ、人生は素晴らしいと感じさせてくれる調べです。音楽は、極めて個人的・主観的なものですし、人の好みは分かれるものです。が、私はヨハン・セバスチャン・バッハを聴いています。そこには、虚飾を排した音の連なりが生む、言葉を超えた美しさがあります。BWV(バッハ作品目録)で整理されている楽曲1071曲は、深遠なる音楽の宇宙です。1オクターブの中にある12個の音の順列組合せが生む無限の可能性の扉を開いたのがバッハです。1685年3月31日に神聖ローマ帝国(現代のドイツ)アイゼナハに生まれ、1750年7月28日にライプツィヒに65歳で没し、生涯ドイツから出たことがなかった男です。その後クラシック音楽のみならず、20世紀以降のハード・ロックやプログレッソ・ロック、フォーク、更にはジャズにもバッハが響いています。

 さて、前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。現代を代表するバッハ弾きについてです。世界中の名だたるピアニストでバッハをレパートリーにしない演奏家はいません。しかし、アンジェラ・ヒューイットこそが現代最高のバッハ演奏家と言って過言ではないでしょう。ヒューイットは、1958年7月オタワ生まれ。オタワの、いやカナダの誇りです。

 ということで、今回の「音楽の楽園」は、アンジェラ・ヒューイットです。

美しい音

 「速く弾いたり大きな音を出せる人はたくさんいるけれど、美しい音を出せる人はそうそういません。」

 ヒューイットが『王子ホールマガジン』とのインタビューで語った一節です。耳と心で美しい音を感じ、和音を弾く時もそれぞれの音のバランスに細心の注意を払い、ひとつ一つの音に歌わせ、トーンの質を保つことがピアノ演奏の極意だと述べています。既に膨大な録音を残していますが、1986年にドイツ・グラモフォンからリリースした国際的デビュー音盤「J.S.Bach・Angela Hewitt」こそヒューイットの原点とも言える録音です。ここには、彼女が追求し続ける“美しい音”が溢れています。

神童、オタワに現る

 “美しい音”を奏でるアンジェラ・ヒューイットの来歴を辿ります。

 まず、父ゴッドフリー・ヒューイット。英国はヨークシャー出身の音楽家で、1930年、24歳の頃、カナダに移住にします。そして、オタワ中心部の連邦議会や最高裁判所の所在する一角にあるクライスト教会大聖堂の聖歌隊監督にしてオルガン奏者となります。50年間にわたりこの職にあったそうです。因みに、ここは未だオタワがバイタウンと呼ばれていた1832年に設立されたオタワで最古の由緒正しき教会です。

 母マーサは、1914年生まれのカナダ人でピアニスト兼ピアノ教師です。ゴッドフリーにオルガンを習っていたそうです。それが二人の出会いだったのでしょう。

 アンジェラ・ヒューイットは、この両親の下、1958年7月にオタワに誕生します。父52歳、母44歳の高齢出産でした。家庭内には常に音楽が流れていたそうです。2歳でおもちゃのピアノを買い与えられ、3歳になると本物のピアノで母からレッスンを受けるようになります。親に言われて嫌々練習するのでは全くなく、アンジェラの方から教えて欲しいとせがみ、毎日、ピアノに向かっていて、ピアノを弾いていない頃を憶えていない程だと云います。

 世に、“好きこそものの上手なれ”と云いますが、アンジェラは4歳にして初めて公開演奏を行います。

 この幼少期について、アンジェラは振り返ってコメントしています。「母は、私にとって最初の、そして最良の先生だった。厳しくも優しく、私に音楽の“神聖さ”を教えてくれた。」と述べています。

 そんな偉大な母ですが、アンジェラが6歳になる頃には、早くも母の重力圏を越え始めます。2週間に1度、オタワから電車とバスを乗り継ぎ5時間余をかけてトロント王立音楽院まで通い、本格的なレッスンを受けるようになります。更に、ヴァイオリンとリコーダーも学びます。音楽の奥義への探求の始まりです。

 9歳の時には、同音楽院で本格的なリサイタルを開くほどに超速の進化を遂げます。

 15歳でオタワ大学音楽学部に進学し、ジャン=ポール・セビル教授に師事。

 17歳になると、満を持して各国のピアノ・コンクールに出場するようになり、その名を北米、更に欧州へと知らしめていきます。

ショパン国際ピアノ・コンクール

 バッハ弾きとし名を成しているアンジェラですが、実は、古典派からロマン派の作品まで多彩なレパートリーを誇っています。そして、その実力は瞬く間に証明されていきます。

 コンクール出場を始めた1975年、17歳の時には、ニューヨーク州バッファローで開催されたショパン・ヤング・ピアニスト・コンクールとワシントンD.C.でのバッハ・コンクールで優勝。20歳の時、地元のCBCラジオ音楽コンクールのピアノ部門で優勝。21歳で、ロベール・カサドシュ国際ピアノ・コンクール(旧クリーブランド国際ピアノ・コンクール)で3位。

 22歳となった1980年は、まず、イタリアはミラノで開催されたディノ・チアーニ・ピアノ・コンクールで優勝します。そして、5年に1度のショパン・コンクールに出場しました。

 この年のショパン・コンクールは10回目となる節目で、センセーショナルな大会として長く語り継がれています。ベトナム人ピアニスト、ダン・タイ・ソンがアジア人で初めて優勝する一方、革新的な演奏で最有力候補と前評判の高かった天才ポゴレリチは最終選考に残らず落選。彼の革新性を高く評価していたアルゲリッチは、この結果に抗議し審査員を辞任する騒動となりました。最高レベルでの音楽評価の多様性と主観性を赤裸々に示しました。4位は該当者なしで、5位に日本の海老彰子が入賞しました。実は、アンジェラはこの大会で入賞した訳ではありません。しかし、ショパン特有のテンポ感を再現しつつ旋律を“美しい音”で歌わせたアンジェラは聴衆から圧倒的な喝采を浴び、名誉賞(Honorable Mention)が与えられました。

 いよいよ、世界へ羽ばたく準備が整って来た感がありますが、もう一つの極めて重要な節目がアンジェラを待っていました。

トロント国際バッハ・ピアノ・コンクール

 1985年、アンジェラ27歳の年です。各国のピアノ・コンクールに出場し始め10年が経っていました。

 この年は、バッハ生誕300年の記念すべき特別な年でした。そこで、カナダ・バッハ協会(Canadian Bach Society/ Société Bach du Canada)が企画・主催した特別なプロジェクトが「トロント国際バッハ・コンクール(Toronto International Bach Piano Competition)」でした。カナダ・バッハ協会の狙いは、バッハ作品に関する学術的な研究を深めると同時に演奏の質の向上にありました。技巧を競うというよりも、解釈の誠実さが重視されたコンクールでした。これは、とてもアンジェラ向きだったと言われています。

 アンジェラの演奏は、現代音楽の巨匠オリヴィエ・メシアンを筆頭とする審査員団から絶賛されました。特に次の3つの点です。①バッハの構造を知悉し、各声部が明確で、対位法が『見える』と評されました。②テンポも自然で、当時はバッハが舞曲として作曲していたことを改めて想起させたのです。③装飾音も極端に触れず節度をもって楽曲を彩りました。

 要するに、アンジェラは、過度に思いが込められたロマン主義的バッハでもなければ、乾いた学術的古楽主義的バッハでもない、独自のスタイルで演奏したのです。知る人ぞ知る存在だったアンジェラがバッハ弾きとしての特別な地位を得た瞬間です。この時から30年前の1955年に、カナダ人グレン・グールドが「ゴールドベルグ変奏曲」を引っ提げて彗星の如く登場したのを思い出させます。

 そして、コンクール優勝の副賞こそ、“美しい音”の原点でもある上述のドイツ・グラモフォンへの録音でした。1986年にリリースされたこの国際的デビュー盤には、審査員が絶賛したアンジェラの3つの資質が鮮やかに刻まれています。世界がアンジェラを聴き始めたのです。

バッハ全曲録音

 閑話休題ですが、エジソンが録音・再生装置を発明する以前は、音楽が奏でられている場に行かなければ音楽を聴くことはできませんでした。しかし、現在は、スマホ等で気軽に音楽を聴くことが出来ます。演奏する側も自主録音をSNSにアップして世に問うことが出来ます。便利な時代になりました。とは云え、ピアニストに限らず音楽家が世界水準の上質の音楽を奏でて、世界のリスナーに聴かせたいと本気で考えるならば、信頼のおけるレコード会社との契約が不可欠です。

 ここで重要なのは信頼です。では、信頼とは何でしょうか?音楽家が真に納得するクオリティーの録音を確保し、会社の持つ販売網を通じてリスナーに届けると同時に、会社として持続可能な利潤をあげ、音楽家にも充分な報酬を支払うということです。会社である以上、儲けなければなりません。しかし、音楽性を犠牲にして売れれば良いという訳ではありません。一方、音楽性にこだわり過ぎてもいけません。非常に微妙なバランスで成り立っているのです。

 で、アンジェラです。1994年、英国の独立系の雄、ハイぺリオン(Hyperion)社と専属契約を結びます。ハイぺリオン社は1980年創業の独立系で、その名はギリシア神話に登場する神々の1人ヒュペリーオーン(太陽神)に由来します。クラシック音楽専門で、大会社には決して出来ない企画に果敢に取り組んでいます。アンジェラとハイペリオンは、オルガン曲を除いて200曲を超えるバッハの鍵盤楽曲の全てを録音しました。快挙です。幼少期よりバッハには特別な愛着を感じて来たアンジェラにとっては最高の夢でしょう。そんな夢を抱くピアニストは数多いると思いますが、夢を実現するためには、途方もない探求と鍛錬が不可欠です。レコード会社からすれば、バッハ全曲録音を託すことの出来るピアニストはごく僅かです。ハイペリオンとアンジェラは相思相愛でした。1994年から2018年まで、24年間をかけて、オルガンを除く、バッハの鍵盤楽曲の全曲録音を行ったのです。ゴールドベルグ変奏曲、平均律クラヴィーア曲集、インベンションとパルティータ、フランス組曲、イギリス組曲、更には協奏曲集等です。

 同時並行的に、『バッハ・オッデセイ』と銘打った企画で、バッハの鍵盤楽曲の全曲演奏を各国のライブを積み重ねて達成しました。これは2016年の日本公演から始まったそうです。日本とカナダの素晴らしい文化交流の一つと言えるでしょう。

結語

 アンジェラ・ヒューイットは当代唯一の「バッハ弾き」としての名声を得て、演奏旅行で世界を飛び回っています。「バッハ弾き」と称されることは、大変な名誉なことだとアンジェラは言っています。バッハは音楽的素養と技術を極めて高いレベルで求められるし、それ以上の音楽は考えられないとも語っています。しかし、アンジェラのディスコグラフィーを見れば、決してバッハだけではありません。スカルラッティー、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン等々本当に多岐にわたります。最近は、ピアノ独奏に加え、オーケストラとの協奏曲や室内楽にも取り組んでいます。正に、天才は多彩にして多作を地で行っています。

 最後に、アンジェラは演奏家としてだけでなく湖畔の興行主としての活動も行っています。彼女はロンドンを拠点としていますが、2002年にイタリア中部のウンブリア州トラジメノ湖畔の町マジョーネに土地を購入しました。この町には15世紀に出来た由緒ある大聖堂と庭があります。その庭に一目惚れして、2005年から、毎夏にバッハを軸とした室内楽主体の音楽祭を開催しています。湖畔の静かな雰囲気がバッハの音楽に必要な集中力と呼吸と親密な雰囲気を与えてくれると云います。勿論、アンジェラも演奏しますが、主催者として音楽祭を盛り上げています。

 自由と多様性と包摂性がカナダの美徳です。オタワで生まれ育った神童が世界で大活躍しています。カナダ贔屓としては嬉しい限りです。上述のバッハ鍵盤全曲録音は、CD27枚組のボックス盤として遂に完成し、2026年1月にお目見えする予定です。待ち遠しいです。更に、その先にどんな音楽の桃源郷を見せてくれるのか、本当に楽しみです。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「オードリー・オチョア」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第41回

はじめに

 音楽ファンの皆さま、日加関係を応援頂いている皆さま、こんにちは。

 11月は、MLBワールド・シリーズ最終戦とともに始まりました。息を呑む白熱した試合は、日付を超えて、延長11回にまで縺れ込みました。私はと言えば、ブルージェイズの野球帽を被り、背番号27番ゲレーロJrの公式ジャージを着込んで、オタワ・ダウンタウンのスポーツバーの大画面を前に同僚達と精一杯応援しました。優勝にあとちょっとというところで、非常に残念ながら、ワールド・チャンピオンを逃しました。試合後に帰宅する際の体感温度は氷点下でした。

 そして、今(11月9日午後5時)、この原稿をオタワ空港で書き始めました。G7外相会合の開催されるナイアガラ・オン・ザ・レイク出張に向かう途上なのですが、今季初の積雪で、航空便が大幅に遅れています。その時間を活用している訳です。

 正に、冬到来です。日没時間も早く、夜がどんどん長くなっていきます。そんな冬の寒い夜には、トロンボーンが良いです。時に、過剰な程に熱量を発散するラテンのリズムに乗った温かい音色が気分を解してくれます。そこで、今回は、トロンボーン奏者にして作編曲家のオードリー・オチョアです。知名度は、率直に言って、未だ高くありません。しかし、彼女の音楽には、カナダならではの多様な要素が溶け込んでいます。是非、聴いて欲しいアーティストです。

オードリー・オチョアとは誰?

 フランシス・フォード・コッポラ監督の傑作「ゴッドファーザー」を持ち出すまでもなく、主人公をより良く理解するためには、その両親を知ることが極めて重要です。そこで、オードリーの父親、ロメオ・オチョアです。ロメオは、フィリピン人のトランペット奏者です。オチョア家は音楽一家でロメオは運と実力を試すべく、フィリピンを出てカナダはアルバータ州エドモントンに移住したのです。多文化主義の下、自由と開放性と多様性を重んじるカナダ社会の求心力と言えるでしょう。とは言うものの、移民であれ誰であれ、音楽で身を立てるのは容易ではありません。単純に演奏が上手いというだけで道が開けるほど甘い世界ではありませんから。ですが、ロメオは音楽で身を立てるに至るのです。地元の誇りエドモントン交響楽団、更に人気絶頂のトミー・バンクスの楽団でも演奏するようになります。このトミー・バンクスという音楽家はエドモントンを拠点に活用したピアニスト・作曲家にしてTV番組ホストでもありました。後年、上院議員にも任命される地元の名士でした。フィリピンからの移民一世ロメオは、正に運と実力を証明したのです。

 オードリーは、そんなロメオを父として、エドモントンに生を受けます。母親もアコーディオン奏者です。音楽溢れる家庭環境で育ちます。ですから、オードリーが幼少の頃からピアノを習い始めたのも自然な成り行きと言えるでしょう。

トロンボーンとの出会い

 ピアノを通じて音楽の基礎を身につけていったオードリーの運命の瞬間は、中学1年生の時に訪れました。それ以来、「トロンボーンから離れたことは一度たりともない」とエドモントン音楽評議会のインタビューに答えています。ヴァイオリン、チェロやフルート、サクソフォンではなく、トロンボーンが生涯の楽器となったのです。

 そこで、トロンボーンの歴史です。ルネッサンス期にトランペットに伸縮可能なスライドを装着した新しい楽器として登場。柔らかく荘厳な音色が特徴で、バロックを経て古典音楽の金管楽器群の一翼を担って来ました。ベートーヴェン「運命」でも活躍しています。そして、20世紀初頭に全く新しい音楽ジャズが誕生。日々進化を遂げていますが、20世紀前半は、率直に言えば、黒人が演奏する奇妙な音楽と一般には受け取られていました。そんな偏見を撃ち破ったジャズ音楽家がトロンボーン奏者にして作曲家・バンドリーダーのグレン・ミラーです。「ムーンライト・セレナーデ」や「イン・ザ・ムード」は、今や古典ですが、その核心は、美しく印象的な旋律を奏でるトロンボーンにあります。20世紀後半になると、トロンボーンはクラッシック、ジャズ、更にはロック、レゲエ等にも導入されるようになります。ビートルズも「Got To Get You Into My Life」や「All You Need Is Love」で効果的に使用しています。

 オードリーは、そんなトロンボーンに熱中します。「好きこそ、モノの上手なれ」と云うとおり、彼女は瞬く間に上達します。地元の名門アルバータ大学音楽学部に進学。18歳になると、アルバイトで演奏する機会も増え、結構なお小遣いを稼ぐようになります。ここで特筆すべきは、オードリーの旺盛な音楽的好奇心です。クラシックのみならず、ジャズ、ロック、更にはレゲエ、スカといった音楽をも演奏。そして、自ら作曲も手がけるようになります。当然ながら、職業音楽家への関心も湧いてきます。

 しかし、父ロメオは、愛娘が職業音楽家の道に進むことには消極的であったそうです。その道が険しいことを身を持って知っていたが故かもしれません。ですが、フィリピンからトランペットだけ抱いて未知の国へ移民し、実力と運で音楽の道を歩んだ父のDNAを持つオードリーです。自ら、職業音楽家への道を歩み始めます。父ロメオも応援します。

デビュー盤の衝撃

 2013年、オードリーはデビュー・アルバム「Trombone & Other Delights」を地元アルバータ州の独立系クロノグラフ・レコードから発表します。表題もジャケットも非常に軽妙で洒脱な装い。ですが、トロンボーンを通じてオードリーの持てる音楽のチカラを全て示そうとする彼女の覚悟を感じさせます。

 全8曲、45分に及ぶ音盤は、正に音楽の楽園です。ここには、ジャズをベースにしつつも、ロックやポップやラテンの深く豊かな芳香があります。全て、オードリーの作曲です。録音はエドモントンで、地元ミュージシャンの協力を得て完成させました。カナダの音楽業界をみれば、その中心はトロントです。カナダ最大にして北米3位の大都市で経済・学術・文化の活力に満ち多様性に溢れています。次いで、モントリオール、バンクーバーでしょう。エドモントンは地方都市に過ぎません。オードリーのこのデビュー盤は、言ってしまえば、音楽的辺境の地の無名の女性トロンボーン奏者のマイナーなレコード会社からリリースされた一枚に過ぎませんでした。しかし、音楽の本質は、何処で制作されたか、誰の作品かではなく、内容です。優れた音楽であるか否かに尽きます。そして、カナダの聴衆は、肩書や外見ではなく、音楽を愛でる耳を持っています。このデビュー盤は、カナダのジャズ・チャートの首位に立ちました。快挙です。

 ここで一つトリビアです。オードリーのこのデビュー盤は、その表題といいジャケットデザインといい、ハーブ・アルパートの「Whipped Cream & Other Delights」と瓜二つです。深夜放送オールナイト・ニッポンの主題歌「Bittersweet Samba」も収録したこの音盤は、1965年11月にはビルボード誌チャート首位となった名盤です。オードリーは、この音盤にインスピレーションを得て、その成功にあやかったのでしょう。是非、2枚のジャケットを見比べてみて下さいませ。

離陸

 デビュー盤の成功で、オードリーの一般的な知名度は、カナダ国内で上がります。と同時に、ミュージシャンの間での評判は急上昇です。晩年のマイルス・デイビスを支えた現代ジャズの巨匠であるマーカス・ミラーを筆頭に、テンプテーションズ、クリス・ポッター等と共演しています。職業音楽家として、作曲・編曲・録音、更には他のアーティストとの共演に忙殺される日々です。

 一方、上述のとおりアルバータ大学音楽学部で学ぶ中、オードリーは音楽教育の重要性を実感。同時に、人気商売である音楽家稼業とは別に生活の基盤を確保する大切さも痛感します。地に足のついた考え方は、父ロメオ譲りとも言えるでしょう。オードリーは、地元の小学校で音楽教師を勤めつつ、音楽活動を本格化させます。

 2017年には、第2弾アルバム「Afterthought」を発表。前作とは、全く赴きを異にするトリオ・アルバム。要するに、トロンボーンとベースと打楽器の3つだけです。ここで注目すべきは、ピアノとかギターという和音を奏でる楽器が無いということです。それ故に、より広い音楽的スペースが生まれ、トロンボーンが縦横無尽に走り舞うことが出来る訳です。ジャズの核心である即興演奏の実力が露わになります。非常に野心的な試みと言えるでしょう。この音盤を聴いて思い出したのがソニー・ロリンズ1957年の異色作「Way Out West」です。サキソフォン・ベース・ドラムの三重奏が生み出す独特の音空間には、歌心に満ちたロリンズ節が溢れています。

飛翔

 2020年、第3弾「Frankenhorn」が発表されました。表題とジャケットデザインが示すとおり、オードリー版のフランケンシュタインです。ヴィジュアル的にはちょっと気味悪いですが、異質な要素を繋ぎ合わせて新しい次元に踏み出そうという意気込みを感じます。

 聴けば、1枚の音盤の中に4つの異なる音楽が脈打っています。①ピアノ・ベース・ドラムという定番のリズム・セクションに乗って奏でるジャズ、②パーカッションを強調したラテン、③ピアノと弦楽器を背景にしたクラシック風、④ヒップホップ的なエレクトリカ・DJ、です。その上で、主役であるオードリーのトロンボーンが素晴らしい音色で歌っています。

 そして、2023年には最新盤「The Head of A Mouse」をリリース。まず、この表題に興味が湧きます。実は、父ロメオが娘オードリーに授けた格言で、フランスの諺「ライオンの尻尾になるより、ネズミの頭がまし」に由来するものです。中国の歴史書『史記』蘇秦伝にある「鶏口となるも牛後となるなかれ」と同趣旨です。強大な組織や集団の中で上の者に従って末端にいるよりも、たとえ小さな組織であってもそのトップになった方が良いとの考え方です。要するに、有名音楽家のバンド・メンバーになるよりも、自分自身でバンドを率いるべし、ということです。自分が心底演りたい音楽を心の赴くままに存分に演るということに尽きるのです。

 「The Head of A Mouse」は表題どおり、オードリーが持つ多様で多彩な音楽性が表れています。前作が更に拡張され、全13曲、1時間7分の大作です。ここには、トロンボーンによる現代ジャズの万華鏡の趣きがあります。

 全てオードリーの作編曲ですが、ちょうど新型コロナ感染爆発の時期に書き溜めたものです。各楽曲には、家族・喪失・絆といった思いが込められていると言われています。

結語

 オードリー・オチョアは、フィリピン系カナダ人でカナダの今を体現している音楽家だと思います。彼女は移民社会の成熟を想起させるからです。と言うのも、近年のカナダへの移民の出身国トップ3は、インド、フィリピン、中国(香港・台湾を含む)です。フィリピン系カナダ人の活躍は様々な分野に及んでいて、連邦下院議員も誕生しています。

 オードリーは、音楽家として一作毎に進化を遂げています。デビュー盤はハーブ・アルパート的なポップ感、第2作はソニー・ロリンズを彷彿させるビバップ感、第3作は多様性を示しました。そして「The Head of A Mouse」は、フィリピン系カナダ人音楽家として初めてジュノー賞候補となった作品です。

 オードリーの次なる音楽的冒険が何処に向かうのか興味が尽きません。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「アワ・レディ・ピース」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第40回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 10月の声を聞くと一気に秋が深まり既に冬の予兆を感じます。先日、朝起きたら気温は1℃。日課のウォーキングに出かけた訳ですが、近所の公園に通じる遊歩道では前日の雨で出来た水たまりに薄っすら氷が張っていました。紅葉が進み、落ち葉も目立って来ました。空気が澄んで、遠くの景色も輪郭がはっきりと見えます。

 こんな初冬の季節には、自分を元気付けるために、芯の強いロック・ミュージックを聴きたくなります。商業化されたロックではなく、ウッドストックの頃の熱量と創造性を放射するような21世紀のロックです。

 そこで、今月の「音楽の楽園」はアワ・レディ・ピース(Our Lady Peace)です。敬愛を持ってOLPと呼ばれています。1992年にトロントで結成。以来、ヴォーカル兼ギター兼ソングライターのレイン・メイダを核として30年を超えて今も現役です。カナダのオルタナ/グランジ系ロックの象徴的な存在です。現在、「OLP30」と銘打ったコンサート・ツアーを敢行中で、12月にはトロントやバンクーバーでその勇姿が観れます。

名は体を表す

 ロック史を紐解くと、幾つかの偉大なバンドはアルファベット3文字の略称を持っています。ファンにとっては、その3文字が楽団の音楽性を表すだけでなく、歴史をも語りかけるのです。例えば、ELP(Emerson, Lake & Palmer)、ELO(Electric Light Orchestra)、BST(Blood, Sweat & Tears)、BBA(Beck Bogert & Appice)等々です。そんな、ロック烈伝にOLPも列せられています。

 そこで、まず疑問が沸くのはOLPという名前の由来です。Our Lady Peace、訳しようによっては「平和の聖母」です。決してロック・バンドっぽくはありません。しかし、ビートルズもローリング・ストーンズも楽団名には強烈なメッセージが含まれています。「平和の聖母」にもバンドの思いが込められているのです。

 時は、1991年。トロント大学で犯罪学を専攻していたレイン・メイダは、英国出身のギタリストのマイク・ターナーと出会い新しいバンドを結成。「As If」と名乗り、トロント近郊のオシャワを拠点に活動を開始します。やがて、音楽プロデューサーのアーノルド・ラニと出会い、オリジナル曲を軸に活動を本格化させ、音盤制作も視野に入れていきます。必然的に、バンド名をもっと印象深く主張の明確なものに変更しようとなるのです。

 そこで、メンバー間で相談している中で、行き着いたのが詩人・作家マーク・ヴァネ・ドレンの1924年の詩集「Spring Thunder」に収録された詩『Our Lady Peace』です。ドレンは、米国イリノイ州出身で長くコロンビア大学で教鞭を取り1940年にピューリッツァー賞を受賞。アレン・ギンズバーグやジャック・ケルアックらビート世代に影響を与えています。この詩は、人間社会の混乱や戦争、暴力の中に精神的な救済を求める内容で、Our Ladyは聖母マリアの慈愛を暗示し、Peaceは魂の安寧を志向しています。

 文学的かつ哲学的で精神的な内容である上に、その響きの美しさに惹かれて、バンド名に採用したと云います。メイダ自身も「宗教的な意味はなく、混沌とした中にある平和の感覚を表したかった」と語っています。OLPは30年以上に及ぶ活動の中で進化していますが、人間の孤独、精神的苦悩、社会への問いかけが音楽の根底にあり、このバンド名は正に「名は体を表す」を地で行っている訳です。

OLP始動

 音楽に限らず、文学でも映画、絵画、ファッション等の芸術では、時として、デビュー作品に作家の核心が表れるものです。OLPも例外ではありません。

 デビュー盤「ナヴィード(Naveed)」は、ヴォーカル、ギター、ベース、ドラムというロック・バンドの黄金律が生むシンプルにしてパワフルな直裁な音楽です。1994年3月にリリースされましたが、今聴いても荒削りな中に虚飾を排した原初的ロック・ミュージックの輝きが眩しいです。音盤の表題ナヴィードとはペルシャ語で「良い知らせ」或いは「福音」を意味し、メイダが書いた歌詞には形而上学的な要素が潜み、救済と破滅の間の緊張感、希望と現実の間に引き裂かれる孤独のような二律背反がテーマになっています。哲学的な主題が荒々しいロックのリズムに乗って歌われ、聴く者の胸にダイレクトに迫ります。特に、メイダの声は、一度聴くと耳に残ります。村上龍の最高傑作「コインロッカー・ベイビーズ」の主人公ハシを彷彿させる屹立した声と言うべきでしょうか。U2のボノに近い声質です。

 「ナヴィード」には全11曲が収録されています。これらの楽曲は、1992年にOLPが結成された直後から書き溜め、デモ・テープを作って、独立系のレコード・レーベルに売り込みをかけていたものです。1993年4月に最大手ソニー・ミュージックのカナダ会社と契約。以後、デビュー盤の本格的制作に入ります。リハーサル・スタジオを借り切り、演奏力を鍛えると同時に、楽曲の完成度を高めます。この段階で加入したドラム奏者ジェレミー・タガートは100人を超えるオーディション参加者の中から選ばれた弱冠17歳の神童です。

 デビュー盤の11曲に響く全ての音はOLPの4人のものです(但し、7曲目『Denied』のリードギターだけ例外的に。後にボンジョビのギタリストに就任するフィルXがゲストで弾いた)。バンド・メンバーだけで全て録音するというのは、巨大な産業と化し専門の職業的スタジオ・ミュージシャンが録音するのが普通の音楽業界では稀有なことです。バンドの息づかいや皮膚感覚が1ミリも違うことなく伝えられるのです。

 地元トロント周辺の好事家には知られていても一般には全く無名の新人バンドOLPでしたが、デビュー盤「ナヴィード」はカナダの若者の心を掴みました。グランジ系のロックが商業的な成功に繋がる例は多くないのですが、この音盤からは5曲がシングル・カットされ、1994年に10万枚以上が売れました。カナダのグラミー賞とも言うべきジュノー賞のデザイン部門も受賞しました。この音盤のちょっと変なジャケットが評価されたのです。

 そして、OLPはロック・レジェンドの心も掴むのです。あのレッド・ツェッペリンのロバート・プラントとジミー・ペイジが結成した「ペイジ&プラント」のコンサート・ツアーに同行してオープニング・アクトを務めることになったのです。これは凄いことです。実力が認められたということです。前座と書くと軽く見られがちですが、超大物を目当てに来た聴衆を前に演奏出来るのですから、新人バンドにとっては絶好の機会です。時には、主役を食うほどの盛り上がりを見せたと云います。更に、ヴァン・ヘイレンのツアーにも同行することになりました。英米の最高峰バンドのツアーへの同行は、評判を呼び、「ナヴィード」は米国でも英国でもリリースされることになりました。

 2021年11月の段階で「ナヴィード」はカナダだけで40万枚を売り上げたと公式に確認されています。

次作への挑戦

 OLPは、1992年の結成から2年後にデビュー盤をリリースし、英米の伝説的トップ・バンドのツアーに同行。1995年には、当時人気絶頂のアラニス・モリセットのツアーにも参加しています。瞬く間にカナダ有数のバンドへと成長した訳です。

 そうなると、当然ながら次回作への期待が否が応でも盛り上がります。しかし、事はそう簡単ではありません。人によっては、その期待をプレッシャーと感じることもあるでしょう。演奏ツアーを続けながら、バンドとしての統一感を維持した上で前作を超える質を達成し、時代を先取るのは、言うは易く行うは難しです。でも、OLPは“一発屋”で終わらず、“ちゃんとアルバムを作るバンド”であることを証明したいのです。

 まず、バンドの要ベースがダンカン・クーツに交代します。そして、1996年1月、新アルバム制作の準備のために、オンタリオ州マスコーカにあるクーツの山荘に楽器と録音機材を持ち込んで約1か月間籠ります。全くのトリビアですが、マスコーカは2010年のG8サミットが開催された場所で、私も代表団の一員で参加しましたが、周りに何も無い、大自然の懐に抱かれた地でした。要するに、OLPの4人のメンバーとプロデューサーのラニーは、家族・友人・レコード会社関係者・メディアから完全に隔離された環境に身を置き合宿した訳です。しかも1月の厳冬期です。曲づくりに集中するしかありません。休憩にアイスホッケーで気分転換したそうですが。結果、20曲の新曲が出来上がりました。ほぼ毎日、新曲が出来上がった訳です。

そして、最高傑作

 1996年2月、OLPはトロントのスタジオに参集。マスコーカで出来たばかりの新曲20曲をブラッシュアップして録音します。その中からベスト・テイク11曲が厳選されます。

 そうして第2弾音盤「クラムシー」が1997年1月にリリースされました。カナダのアルバム・チャートでは初登場1位を獲得。米国でもリリースされ、ビルボード誌アルバム・チャートにも入りました。「クラムシー」はカナダと米国でもそれぞれ100万枚ずつ売り上げています。音盤の質を売上枚数で示すのは商業主義的過ぎるかもしれませんが、マスコーカの音楽三昧の合宿生活で生み出された曲は、前作「ナヴィード」を超える佳曲揃いです。今回も完全にメンバー4人のみの録音でしたが、メイダはピアノ・キーボードも弾いて、バンド・サウンドに厚みを加えています。高速のドライブ感もあればスローなバラード調もあります。メイダの声も七変化。曲想の幅が大きく1枚の音盤の中に極上のロック宇宙が拡がっています。OLPの最高傑作にして、北米におけるグランジ系ロックの最良の1枚と言えると思います。

 そんな名盤の生まれた瞬間をメイダが次のように語っています。

 「その時までの曲は全部置いていって、まったくゼロから始めたんだ。MTVもMuchMusicも、メディアもマネージャーもいない。ただ音楽を演奏して、作曲しただけだった・・・朝起きた誰かがアコースティック・ギターを手に取って、自然に曲が生まれていく。また、“音楽を楽しむ”という感覚を取り戻せたんだ・・・何かを楽しみ始めると、もう他人がそれを好きかどうかなんてどうでもよくなる。そうやってプレッシャーが完全に消えたんだ。(エドモントン・ジャーナル紙)」

継続はチカラ

 OLPは、その後もコンスタントに音盤を発表しています。

 2000年の「スピリチュアル・マシーンズ」は、未来学者レイ・カーツワイルの著書に触発された音盤です。近未来にAIが人間の知能を超える特異点が来る可能性を念頭に、改めて人間とは何かを問う傑作。バンドの生音と電子音が共存するサウンドも象徴的です。

 2002年には、創設メンバーのマイク・ターナーが抜けて、バークレー音楽院出身の米国人ギタリストのスティーブ・マズールが加入。OLPは、新たな高みを目指します。グランジ系の荒々しいサウンドからストリングスも大胆に取り入れてより洗練されたサウンドへと進化して行きます。メイダの声もかつての高音域から中音域を主体に深みのある歌唱法へと変化していきます。音盤「グラビティ」には、結成から10年を迎えたOLPの新しい面が見えています。

 2003年には「Live」をリリース。結成以来の幾多の演奏ツアーで鍛えられたライブでの実力を余すことなく見せつけます。全く私事ですが、ノイズ・キャンセリング・ヘッドホンで大音量でこのライブを聴きながらウォーキングをすると自然とチカラが沸いて来ます。ちょっと面倒くさく錯綜する難問も、きっと何とかなるとポジティブに捉えられるのが不思議です。

結語

 最新作は2025年7月に発表された「Whatever(Redux)」です。ここには、結成から33年を経ても、OLPの核にある社会の現実に関する透徹した認識と人間への温かい眼差しがあります。

 この曲は、カナダ出身でWWE所属のプロレス世界ヘビー級王者クリス・ベノワの応援歌として2002年に誕生。ベノワ入場のテーマ曲でした。「Live」にも収録されたヘヴィー・ロックの佳曲です。が、クリス・ベノワは長年のトレーニングと試合で慢性外傷性脳症を患い、2007年に悲劇的最後を迎えました。衝撃的事件でした。

 初出から23年を経て、OLPは、改めて自殺予防とメンタルヘルスへの意識を広げるために、斬新なアレンジで再録音したのです。この曲のストリーミング収益は全て北米各地の自殺防止活動に寄付すると云います。

 私達は、地球温暖化と厳しい地政学と人工知能の時代に生きています。過酷な現実の中、絶望と諦観、救済と希望を示すOLPの音楽が必要だと実感します。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「バーバラ・ペントランド」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第39回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 9月の声を聞くと、オタワでは秋の気配が日に日に濃くなっていきます。温暖化の時代故に正午前後には30℃に迫る日もありますが、朝は深呼吸すると冷んやりとした空気が肺を満たし、身が引き締まります。そして、秋と言えば、“芸術の秋”であり“スポーツの秋”です。

 さて、スポーツと芸術は一見全く別のものと思われがちですが、歴史を紐解くと非常に興味深いものがあります。古代ギリシャの誉れオリンピアの祭典では、スポーツの躍動美が彫刻や音楽で表現され、スポーツと芸術が一体となって発展していました。近代オリンピックを提唱したクーベルタン男爵は、古代オリンピアの祭典に習い、スポーツと音楽は一体として考えるべきと確信。その理念に従って、1912年のストックホルム大会からは、文学・絵画・建築・彫刻・音楽の5部門で“芸術競技”が行われ、金銀銅のメダルも授与されるようになりました。しかし、作品の輸送や客観的審査の難しさから、1948年のロンドン大会が最後の“芸術競技”となったのです。

 そして、このロンドン五輪の音楽部門には、カナダの音楽家等も参加しました。その中心メンバーの1人が女流作曲家の嚆矢にして、現代音楽の巨匠バーバラ・ペントランドで、声楽曲「Cities」を出品しました。

University of British Columbia Archives, [UBC 5.1/2414]
University of British Columbia Archives, [UBC 5.1/2414]

 そこで今回の「音楽の楽園」は、バーバラ・ペントランドです。但し、率直に言えば、日常生活の中、彼女の名前や彼女の音楽を聞くことは殆どありません。カナダ人が誰でも知っているヒット曲とかがある訳ではありません。それでも、音楽の楽園たるカナダにおける音楽の発展に注目し、その来し方を振り返れば、バーバラ・ペントランドの音楽的冒険の軌跡は鮮やかです。

ウィニペグ〜旅路の始まり

 バーバラは、1912年1月にマニトバ州ウィニペグの英国系実業家の裕福な家庭に生まれます。父親はスコットランドにルーツを持つペントランド家の出身。母親は、イングランド系のスミス家の出です。両親ともに19世紀に平原州に移民して来たアングロサクソン系で、カナダ社会のエリートです。当時のカナダはと言えば、1867年に大英帝国の植民地から自治領へと昇格しドミニオン・オブ・カナダとなり、近代国家建設が進んでいました。20世紀になると、ウィニペグは、北米全体に拡がる鉄道網の要衝にして穀物取引の中心地として発展していきます。

 バーバラが生まれた頃のウィニペグは「カナダのシカゴ」と称される程に繁栄していました。恵まれた家庭環境でしたが、バーバラは心臓疾患を抱えていて外出のままならぬ状況で幼少期を過ごします。両親とも教育熱心で、家庭内では教養が尊ばれ、クラシック音楽とシェークスピア等の英文学に溢れていました。

 静養生活が続き、運動は出来ず、基本的に室内で過ごす中、3歳にして読み書きが出来るほど才能に恵まれていました。特に、音楽への関心は強かったといいます。家庭教師から教養科目に加えピアノも習うと瞬く間に上達します。運動が出来ない分、才能が音楽に集中したのかもしれません。しかも、誰に教わる訳でもなく作曲を始めます。バーバラの創造中枢は幼くして活性化し音楽は生きる喜びの源泉となるのでした。

禁じられた遊び

 9歳になる頃には、心臓疾患の症状は徐々に軽減していき、バーバラは地元ウィニペグのルパートランド女学院に通い始めます。成績優秀にして、ピアノも作曲も面白くて仕方なかったのです。しかし、実は、ここから彼女の自由への闘争は始まったのです。

 バーバラが自作曲を音楽教師に聴かせると、音楽教師は作曲は男性のする事で女子はしてはいけないと指導するのです。教育を重んじピアノも積極的に勧めた母も、こと作曲となると厳しく禁止したといいます。母が信奉していた当時の上流階級の価値観では作曲は奇人変人の悪趣味と捉えられていたと云います。母にしてみれば、上流階級の良き妻となるためにはピアノが弾けることは良き事だが、作曲はその妨げとなると固く信じていたのです。1920年のカナダ社会の一つの断面だったのでしょう。

 作曲は、バーバラにとっては「禁じられた遊び」でした。12歳の頃、ベートーヴェンのピアノ・ソナタに出会い圧倒され、自分で曲を作る行為に没頭します。ピアノを弾けば、自然に自分の曲が湧いて来るのです。どんなに厳しく禁じられても、頭に浮かぶ自分の音楽を留めることなど出来ません。普通にみられる10代の反抗期とは全く別次元の抵抗だったに違いありません。好きな音楽を極めるためには、母の呪縛と徹底的に対峙しなければならなかったのですから。そんなウィニペグ時代は、15歳の時に終止符が打たれます。

自由への助走〜モントリオール・パリ・ウィニペグ

 学業優秀でもあったバーバラは、1927年から2年間、モントリオールの寄宿舎付女学校(Miss Edgar’s and Miss Cramp’s School)に進学します。母に内緒で作曲は続けつつ、ピアニスト・オルガニスト・指揮者・作曲家のフレデリック・ブレアに師事し、ピアノと楽理を本格的に学びます。師ブレアは、バーバラの潜在的な才能を高く評価します。

 そして、1929年、バーバラは17歳にしてフランス留学の機会を掴みます。その頃には、頑迷に反対していた母もバーバラの作曲への情熱が本物だと認めざるを得なくなったようです。或いは、反対するよりも応援して最先端のパリで思う存分勉強させれば、自分の才能の限界に気付いて諦め、良家に嫁に行くだろうという深謀遠慮だったかもしれません。

 いずれにしても、バーバラはパリのスコラ・カントルム音楽院で1年間、音楽を本格的に学びます。ここはパリ音楽院と並ぶ高等音楽教育機関です。パリ音楽院がオペラとヴィルトゥオーゾ養成を重視したのに対し、スコラ・カントルムでは古楽・宗教音楽・対位法を重視し、エリック・サティやダリウス・ミヨー等の20世紀の作曲家を排出しています。

 そんなスコラ・カントルムでバーバラの指導に当たったのは、長く教鞭を取っていたセシル・ゴーティエ教授です。ゴーティエ教授自身が当時のパリでも珍しかった女性作曲家でした。バーバラは大いに刺激を得たに違いありません。後年のインタビューでは、ゴーティエ教授こそ「最初に本格的に作曲を指導してくれた師」として深い敬意を表しています。パリ留学を終えて故郷ウィニペグに戻ってからも、通信教育という形で師弟関係は続き、作曲の奥義を授かっていきます。古楽・宗教音楽の根本にある基本的骨格を徹底的に極めたのです。これこそ、その上で自由に和声・ハーモニーを展開する未来の可能性の土台です。正に温故知新です。

 1930年、バーバラは故郷ウィニペグに戻ります。が、母の目論見は見事に外れます。19歳のバーバラは、いよいよピアニスト・作曲家として本格的な活動を始めます。自身のピアノ三重奏団も結成します。とは言え、音楽で食っていける訳ではなく、生活は親の世話になるのです。そんな生活が6年続きます。

現代音楽への覚醒

 1936年、バーバラは24歳にしての奨学金を得て、ジュリアード音楽院の大学院コースに進みます。1936年当時のニューヨークは、大恐慌から7年を経て、不況の余韻はあるものの文化が爛熟しエネルギーに溢れていました。ジャズとブロードウェイ・ミュージカルが黄金時代を迎えていました。同時に、欧州ではナチが権勢を振るい、その迫害から逃れるべく、シェーンベルクやバルトークがニューヨークに移住して来ました。ウィニペグから来た無名の作曲家バーバラ・ペントランドの感性は全開で、新しい音楽を吸収するのです。

 ジュリアードの最初の2年間は、パリ時代の延長で古典派の音楽を学びます。しかし、バーバラ・ペントランドの創造中枢は、既に在る音楽の再現では全く満足出来ません。3年目に入ると、既存の音楽の重力圏の外を模索するのです。ストラヴィンスキーの音楽の更に先に目を向けます。これまで学んで来た古楽・宗教音楽・古典派の骨格を吸収した上で、リズムとハーモニーの新しい構造を目指すのです。

 3年間のニューヨーク留学の後、再びウィニペグに戻ります。地元で音楽活動を続けつつも勉強も怠りません。1941年と42年の夏には、マサチューセッツ州西部のバークシャー地方のタングルウッド音楽センターの講習会に参加。そこで、巨匠アーロン・コープランドに師事。古典音楽がヨーロッパで発展して来たからといって、アメリカ的な真に斬新な音楽を創ることを恐れてはいけないとの教えを胸に更に前進します。バーバラは30歳になりました。

音楽家として立つ〜トロント・バンクーバー

 バーバラは、1942年から49年までは、トロント音楽院で教鞭を取ります。第2次世界大戦の勃発で、多くの成人男性が前線に送られ、或いは後方支援に回されたことで、それまで男性に独占されていた仕事に女性が就ける機会が生まれたという面は否定できないでしょう。とは言え、ペントランドの音楽が評価され始めた証左と言えます。音楽教育者としても実績を積んだ訳です。一方、後年のインタビューで、「トロントこそカナダにおける音楽産業・エンタテインメント産業の拠点であったので移住した。当時の社会には厳然として女性差別があったので、作曲家として活動を始めた当初は、バーバラ・ペントランドではなく、女性であることが分からないように、ビオ・ペントランドという名前を利用していた」と述べています。冒頭に記した、ロンドン五輪への参加もトロント時代の業績の一つですが、世界的に見ても、女性作曲家は極僅かでした。

 そして、1949年からは、拠点をバンクーバーに移し、ブリティッシュ・コロンビア大学音楽学部の教授に就任。この時代に代表曲「10声部のための交響曲〜交響曲第3番」を発表します。表題のとおり、10人編成の室内楽オーケストラのための管弦楽曲。フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット、打楽器、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、チェロによって奏でられます。3楽章10分41秒は、カナダの現代音楽の到達点と言われています。音列とリズムを革新する「セリエル技法」を駆使しつつ、各楽器の最も美しい音色を提示。懐かしさすら感じさせます。

現代音楽の洗礼

 ここで、現代音楽について一言。バーバラ・ペントランドは、師アーロン・コープランドの「恐れることなかれ」という教えを胸に未知の領域へと足を踏み出し、カナダの現代音楽を切り拓きました。ルネッサンス期以降、ヴィヴァルディやバッハやヘンデルの天才等が発展させて来た音楽が20世紀に到達した究極の姿とも言えます。その核心には、音楽を自由に解き放ちたいという衝動があります。とは言え、初めて耳にすると、分かり難いというのが率直な感想でしょう。

 その関連で全く個人的な体験を共有したいと思います。中学生の頃の愛聴盤であったサイモン&ガーファンクルを親友の家に持って行き、彼の父親の書斎の高級ステレオで聴いた時の感動を今でも覚えています。私が持っていた小さなレコード・プレイヤーで聴くのと全く違う豊かな音でした。もっと違う音楽も聴いてみたいと思い、音楽好きだった彼の父親のレコード・コレクションから勝手に何枚か引っ張り出したのです。既にジャズと呼ばれる音楽がある事は知っていましたから、興味があったのです。ジョン・コルトレーンだったと思うのですが、その高級ステレオにレコードを置き針が落ちて音楽が始まるのを親友と2人で待った時のワクワク感は忘れ難いです。しかし、初めて聴くジャズは正直言うと苦行でした。雑音にしか感じず、5分も我慢出来なったのです。何処が良くて世の大人達はこんなモノを聴くのかと思いました。しかし、高校生になる頃には、背伸びして聴く苦行だったジャズの虜になりました。

 ロックとジャズの話で長くなりましたが、現代音楽にも似た面があると感じます。予備知識無しに初めてペントランドの「トッカータ」を聴いた時には、正直に言うと何も感じませんでした。2度目に聴いた時には、無機質な音だと思いました。3度目に聴いた時、何か胸に引っ掛かる感じはありました。但し、感動した訳というでもありませんでした。それでも、引っ掛かる感じの正体を知りたいと思ってもう一度聴きました。その時初めて、自由を希求する精神と真新しい響きを探し出した愉悦があるのだと感じました。ポップ・ミュージックのような綺麗なメロディーはここには有りません。しかし、「トッカータ」には音楽の美しき瞬間があります。

 簡単には気が付かないかもしれませんが、耳を澄まして心を無にすると聞こえて来ます。一度耳が慣れると、ペントランドの音楽には、それぞれの楽器が乱反射を繰り返しながらキラキラと煌めく音の断片が連なって行き、抒情と哀愁が現れて来るのがわかります。無機質と感じた響きは透明感の裏返しなのです。音楽を聴く醍醐味がここにあります。

結語

University of British Columbia Archives, [UBC 5.1/2415]
University of British Columbia Archives, [UBC 5.1/2415]

 バーバラ・ペントランドは、女性作曲家の道を開拓し、難解な音楽として敬遠されるアバンギャルドな現代音楽の地平を拡げました。女性作曲家と現代音楽という2つのマイノリティを主流に押し上げるための人生でした。1949年から教鞭を取り、彼女の音楽活動の拠点としていたブリティッシュ・コロンビア大学でも、音楽学部改革の最中に教育方針等で折り合いが付かず、1963年には辞職に追い込まれました。が、彼女は己の道を歩み続けます。1930年にパリから戻ってからの50年間で100曲を超える作品を世に問うています。

 時代がようやく追いつくのは1970年代になってからです。1976年には、故郷のマニトバ大学から名誉博士号を授与され、1987年には拠点であるバンクーバー市が彼女の誕生日である1月2日を「バーバラ・ペントランドの日」に指定しました。1989年にはカナダ人にとって最高の栄誉であるカナダ勲章を授与されました。

 バーバラ・ペントランドは、極短い結婚生活を除き、生涯独身を通しています。「私の作品は私の子供」と語っています。2000年2月に88歳で逝った彼女の作品群は20世紀のカナダ社会を映す鏡でもあります。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「アンドレ・ギャニオン」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第38回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 私事ですが、7月の末から8月初旬まで夏休みを頂き、東京に戻っておりました。東京は人が多く、賑やかで、整然として美しく、美味しい街ですが、とにかく暑かったです。高温多湿で、ほぼ熱帯でした。観測史上最高気温の更新が大きなニュースで、7月30日に兵庫県丹波市で41.2℃が観測され国内最高記録が更新されました。が、わずか1週間後の8月5日には群馬県伊勢崎市で41.6℃が観測され記録が更新され、更に同日中に41.8℃と最高気温記録が塗り替えられました。すると、それがまたニュースになる。兎に角、暑いの一言です。ニュースでは「危険な暑さ」と連呼しています。

 大阪EXPOへも行きましたが、そこもまた暑かった!それでも、各パビリオンの中は空調が効いていて快適でした。世界最大の木造建築物としてギネス世界記録に認定されている「大屋根リング」の下に入ると直射日光が避けられ、風通し良く気持ちの良い空間でした。が、EXPO会場を歩くと汗が噴き出て来ました。

 そんな東京・大阪から戻って来ると、オタワは、ほぼ天国です。温暖化の影響で最高気温が35℃という日もありましたが、緑と水に抱かれたこの新しき都は、やはり爽快です。早朝など、早くも秋の気配の予兆を微量に感じさせるような清涼感すらあるほどです。

 そこで、改めてあの暑い夏休みを思い出すと、頭の中に甦るのは、東京・大阪の危険な暑さ。それと、その暑さを癒すのにずっと聴いていたアンドレ・ギャニオンの音盤『インプレッションズ』です。

 という訳で、今回の「音楽の楽園」は、ケベックが生んだ作曲家・ピアニストで日本でも絶大な人気のあるアンドレ・ギャニオンです。

神童

 世に、「十で神童、十五で才子、二十過ぎれば只の人」と云います。芥川龍之介が1925年の著作「才一巧亦不二」の中でヴォルテールに関する逸話として紹介しています。

 その11年後の1936年8月、ケベック州サンパコムのカトリック教徒で日雇い労働を生業とするギャニオン家に、19人兄弟の末っ子として生まれたのがアンドレ・ギャニオンです。非常に質素な家庭環境で育ちます。ですが4歳の時、教会で聴いた音楽がアンドレ少年の心を捉えて離しません。見よう見まねで、幼き心を震わせた音楽をピアノで再現しようとします。瞬く間に上達し、6歳にして作曲を始めたと言います。世の中は第二次世界大戦の真っ最中ですが、幸にもカナダは戦場からは遠く離れています。金銭的には恵まれない家庭でしたが、音楽的才能には関係ありません。アンドレ少年は、神童ぶりを遺憾なく発揮します。

 そんなアンドレ少年は、第二次世界大戦終結の翌年、10歳にして地元でピアノ・リサイタルを開き、モーツァルトを演奏したそうです。16歳になると地元の音楽教師から音楽理論を学び始めます。そして、21歳で名門モントリオール音楽院に進学。ピアノと作曲について4年間本格的に勉強します。アンドレ青年の神童伝説は続きます。

 モントリオール音楽院を卒業するとケベック州政府の奨学金を得て、アンドレ青年は、1961年から62年までパリ音楽院に留学します。彼の地では、伝説的ミューズ、イヴォンヌ・ロリオ教授に師事します。ロリオ教授は、現代フランスの偉大なる作曲家オリヴィエ・メシアンのパートナーで、「トゥランガリラ交響曲」も初演しています。そんなロリオ教授から、ピアノの独奏と伴奏、作曲技法について直接指導を受けたのです。実り大きな留学でした。ピアノという楽器の特性は、1人だけで音楽を完全な形で演奏できる点にあり、左右10本の指は10人の個別の演奏家とも言い得ます。それぞれの指を駆使し、主旋律、対旋律、ハーモニー、重低音を奏でると同時に、多彩なリズムも提示出来る。要するに、無限の可能性を持つ楽器な訳です。それを極める上で、これ以上望み得ないような教授から学び、それが血と肉となっていくのです。

異能の才子

 1962年、アンドレ青年は大きな学びを得てパリからモントリオールに戻ります。だから前途は洋々だ、と行くほど世の中は甘くありません。いつの世も、音楽で食っていくのは大変なのです。あのモーツァルトも常に就業の機会とパトロンを探していたのですから。

 で、どうなったかと言うと、運こそ実力か、実力が運を引っ張ってくるのか、様々な見方があるのでしょうが、アンドレ青年は有名歌手の伴奏者という仕事を得たのです。ケベック州で絶大な人気を誇るシンガー・ソングライターにしてピアニストでもあるクロード・レヴェイエの伴奏者兼アレンジャーとなりました。評判が評判を呼び、レヴェイエに加えジャック・ブランシェ、レネ・クロード等々とも仕事をします。

 但し、アンドレ青年にしてみれば本音は、他人の伴奏ではなく、自分自身のピアノこそが主人公だとの自負はあったに違いありません。しかし、無名の新人ピアニストがいきなり頂点に立てる訳がないことも知っていたのでしょう。未来を夢想しながら音楽家としての道を歩み始めたのです。が、考えてみれば、歌伴は、観客を前に主役の歌手を引き立て脇に徹しながらも音楽全体を実地に学ぶ絶好の機会です。より良き音楽にするため何を足して何を引くのか、音楽の本質を体得する日々でした。

 そして、歌伴を続けながら、より美しい音楽をつくる術を吸収し実践する、アンドレ・ギャニオンは28歳にして才子であることを明快に証明します。1964年に自分自身のデビュー盤「ピアノとオーケストラ」を世界最大手のレコード会社コロンビアからリリースしたのです。全編、清新な叙情味に溢れています。明朗な中に時にメランコリックな旋律が胸を突きます。ピアノとオーケストラが融合し支え合い、交互に主旋律と伴奏を奏でる立体感は、クラシック音楽を彷彿させるイージーリスニングの王道です。

 翌65年には「レヴェイエ-ギャニオン」と題する共作音盤をリリース。ここに出現するのは主役(歌手)と脇役(伴奏者)という関係ではありません。2人の作曲家兼ピアニストの協力と協調です。ギャニオンとレヴェイエの個性が溶け合い、1+1が2を遥かに上回っている音楽です。ピアノ連弾があり、ジャズ的な要素も加わっています。前作に比べてより多彩で豊穣な音楽空間が築き上げられています。

飛躍

 アンドレ・ギャニオンは、その後も精力的に音盤を制作していきます。1968年にはアルバム「Notre Amour」をリリース。上質のポップ全10曲が聴く者を魅了します。その秘密は、ギャニオンが紡ぐ旋律です。突き詰めれば、旋律は1オクターブの中にある12個の音階の順列組み合わせです。勇気を与え、涙を誘い、希望を与え、怒りを伝播し、疲れを癒す。そんな旋律の妙を知るギャニオンの才は特筆に値します。

 1969年には、ヴィヴァルディを踏襲した音盤「Mes Quatre Saisons(四季)」を発表します。ヴィヴァルディの有名な「四季」はヴァイオリン協奏曲ですが、ギャニオンの「四季」はピアノ協奏曲です。春夏秋冬を紡ぐ美しき音色の連なりを聴けば、クラシックとポピュラーに境界など無いと実感します。洋の東西、音楽のジャンルを問わず、音楽愛好家から注目を集めた一聴の価値ある傑作です。この時、ギャニオンは33歳。作曲家・ピアニストとして才能が爆発しています。

 以後、ポピュラー音楽を軸にしながら、オペラ、バレエ音楽、TVや映画音楽も手掛けます。ピアニストとしても作曲家としても第一線で活躍し続けます。特筆したいのは、1983年には、シャルル・デュトワ指揮のモントリオール交響楽団と共演したモーツァルトのピアノ協奏曲第22番変ホ長調です。耳の超えたモントリオールっ子に実力を見せつけたそうです。正に、全天候型の音楽家。YouTubeには、肩よりも高い位置に両手を上げ打鍵する印象的な演奏スタイルを含めて実に多彩なパフォーマンスがアップされています。

ジャポン

 最後に、日本との関わりについて。アンドレ・ギャニオンは、1970年に大阪万博のカナダ館で国を代表して演奏するために来日します。これがその後に何度も訪日を重ねる最初のものでした。

 実は、万国博覧会は、カナダにとって国威発揚の意味もある非常に重要なイベントです。と言いますのも、カナダ建国100周年の1967年に、カナダ史上初の万国博覧会がモントリオールで開催されたからです。特に、ケベック州民にとっては、カナダの礎を築いたのはケベックだとの思いが強く、ケベックの愛国心が大いに盛り上がった訳です。この年、アンドレ・ギャニオンはフランス留学から帰って来て5年。モントリオール交響楽団との初共演を果たしたと言います。古典音楽を学び尽くした上でポピュラー・ミュージックの世界に身を置く、ギャニオンにとっては意義深いものだったでしょう。そんなモントリオール万博の興奮冷めやらぬ1970年の大阪万博に、モントリオールからやって来たのが波に乗る気鋭のギャニオンだったのです。

 そして、大阪万博の初来日以降、何度も来日するようになります。その理由は、ギャニオンが日本のオーディエンスを愛したからです。が、その大前提にあるのは、哀愁漂う美しい旋律と様々な新しいアイデアを提示するギャニオンの音楽を日本の聴衆がこよなく愛したということです。

 1990年代のトレンディー・ドラマではギャニオンの音楽が頻繁に使われていましたし、21世紀になっても、平原綾香らに楽曲を提供しています。上述の「impressions」は40年以上前にリリースされた音盤ですが、その冒頭に収録された『めぐり逢い』は、今も若いファンを獲得する旋律の力を見せつけています。

結語

 アンドレ・ギャニオンが2020年12月に逝って、5年にならんとしています。率直に言えば、徐々に忘却の彼方へと追いやられている感がなくもありません。考えてみると、人間には“忘れる”という素晴らしい能力が備わっています。人間の記憶容量が無限大でない以上、重要度に応じて古い情報を捨てることで、新しい情報を記憶している訳です。新しい才能が世界で芽生え日々紹介される中で、主としてケベック州・フランス語圏・カナダ・日本で愛されたギャニオンへの注目度が逓減していくのは、ある意味、しょうがない事かもしれません。

 しかし、イージーリスニングからクラシックの領域まで幅広く活躍したギャニオンの音楽には、次の世代に繋ぎたい確固たる音楽の核があります。それは何にも制約されない自由と言葉を超えた美しい旋律です。例えば、1997年リリースのライブ盤「Au Centre Molson」には音楽キャリアを総覧するギャニオンの音楽のエッセンスが詰まっています。

 カナダが生んだ稀代の音楽家、アンドレ・ギャニオンが将来に亘って新しいリスナーを獲得し続けることを願ってやみません。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「レ・カウボーイ・フランガン」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第37回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 ここオタワは今、最高の季節を迎えています。気温は高い時でも20℃台後半で30℃を超えることは稀。湿度も高くありませんから、木陰に入って風が吹くと心地良い程度に冷んやりします。ほぼ熱帯と化した高温多湿の東京から見れば大変に贅沢な気候です。

 その上、連邦議会はカーニー政権が目玉として掲げた所得減税、暫定予算、そして「一つのカナダ経済法案(One Canadian Economy Bill)」を成立させて休会に入っています。6月15日〜17日には、アルバータ州の世界的な避暑地カナナスキスでG7が成功裡に開催されました。

 よってもって、首都オタワは7月の声を聴くと、率直に言って、かなり休日モードに入りました。街には音楽が溢れています。ブルース・フェスティバルもジャズ・フェステイバルも大変な盛況でした。オタワの地理的特性は、オンタリオ州とケベック州の接点であること。それ故に、バイタウンと呼ばれた木材交易の小さな村が首都になった訳です。自由と多様性と包摂性こそカナダの個性でありアイデンティティー、オタワで広く聴かれている音楽にもそれらが滲んでいます。

 そこで、今月はレ・カウボーイ・フランガン(Les Cowboys Fringants)です。

 ケベコワが誇るロック・バンドです。伝統的なカントリー・ミュージックと現代的ロックが融合した音楽で、歌詞は全てフランス語。エッジの効いた諧謔と極私的な出来事から政治、歴史、環境問題にまで及ぶ多様なテーマを等身大に描きます。親しみやすいメロディーとナチュラルな編曲が聴く者を惹きつけて止みません。彼らはフランス語なので米国で殆ど聴かれていませんが、欧州を中心にフランス語圏では絶大な人気を誇っています。パリ公演では、ケベック訛りのフランス語の大合唱が会場を包み込むそうです。

初めてレ・カウボーイ・フランガンを聴いた日

 私事で恐縮ですが、実は、私はつい数週間前まで彼らの音楽を聴いたことがありませんでした。それは6月4日の事でした。ブロック・ケベコア党のルイ=フィリップ・ブランシェット党首を公邸にお招きし夕食を共にしました。党首はマルチな才人で、政治家になる前は音楽プロデューサーでしたし、宮本武蔵の「五輪書」のフランス語翻訳も読破した知的な文化人です。政治・外交は当然ですが、科学技術から文化に至る多様な話題で盛り上がりました。音楽の話題になった時に、党首が最も好きなバンドとして強力に薦めて下さったのがレ・カウボーイ・フランガンだったのです。

 その時に初めて聴いた曲は2004年の音盤『La Grand-Messe』に収録された「Les etoiles filantes」という曲でした。日頃ブリティッシュ・ロックやアメリカン・ロックを聴くことの多い私にとっては、アコーディオンの音色が印象的な洒落た響きが新鮮でした。リード・ヴォーカルのカール・トレンブレイの声と歌唱も耳に残るものでした。時に囁くように歌うので、フランス語の話せない私にも鍵になる言葉が胸に迫ります。芯の強い太くハスキーな声質は聴く者を惹きつける魅力があります。村上龍の最高傑作「コインロッカー・ベイビーズ」の主人公ハシの声はきっとこんなじゃないかと想像します。

 要するに、一曲でレ・カウボーイ・フランガンのファンの末席に並びました。すると、もっと他の音盤も聴きたくなりますし、バンドの歴史も知りたくなります。ビートルズもローリングストーンズもビーチボーイズもザ・バンドもそうですが、成功した如何なる楽団なら必ず素晴らしい物語に彩られています。ファンになったばかりの私ですが、全ての音盤を聴き倒し、アクセス出来るインタビューや記事を読み倒しました。そこには、大きな感動がありました。是非、このコラムを読んで頂いている皆さまと共有したいです。

内気な少年の邂逅

 レ・カウボーイ・フランガンは5人組ですが、バンドの要はボーカルのカール・トレンブレイとギターのジャン=フランソワ・ポゼの邂逅から全てが始まります。それは1994年9月、モントリオール郊外のアイス・ホッケーのジュニア・チーム「ジェッツ・ド・レペンティニー」のロッカー・ルームの事でした。カールとジャン=フランソワは他のプレイヤーと共にトレーニング・キャンプを終えて、正式にジェッツのB級メンバーに選抜されたのでした。

 トリビアですが、ジョンとポールがリバプールの聖ピーターズ教会の夏祭りで出会ってビートルズが始まり、ミック・ジャガーとキース・リチャーズがケント州ダートフォード駅で話してストーンズが始動したのに似ています。

 但し、ジェッツのチームメイトとなった2人が打ち解けて音楽の話しをするようになるには更に3ヶ月余が必要でした。俄かには信じられませんが、彼らのホームページによれば当時は2人とも内気だったそうです。

 そして、1995年1月、カールは、ジャン=フランソワが上手いギタリストだと聞いて、思いきって彼に話しを持ちかけます。自分はボーカルでバンドを組みたくて仲間を探しているんだけど一緒にやってみないか、と。実は、ジャン=フランソワは最初は乗り気ではなかったそうです。

 しかし、カールの熱意に押されてたジャン=フランソワは、翌2月のある夜、自宅の地下室にカールを招き、初めて一緒にジャム・セッションを行います。カールは、ジャン=フランソワのギターにサムシングを感じ、ジャン=フランソワはカールのボーカルに未来を感じました。その夜、2人は「Les routes du bonheur(幸福への道)」を作曲します。記念すべき最初のオリジナル曲です。バンド結成の瞬間です。2人は翌日も集まり次々と曲を仕上げていきます。夏までには、2人でつくった曲は20曲を超えたといいます。蜜の如く甘く同時に苦く辛い恋の痛みを描く碧い佳曲です。デビュー盤「12 Grandes Chansons」には、そんな創世記が刻まれています。

マリー=アニック・レピーヌ登場

 2人はオリジナル曲でレパートリーを固めると同時に、バンドのサウンドの充実が急務だと悟ります。つまり、新たなメンバーが必要なのです。そんな中、夏のアルバイトで、ジャン=フランソワは、正式にクラシック音楽を勉強しているヴァイオリン奏者マリー=アニック・レピーヌと出会います。そして、強力に勧誘します。カールとジャン=フランソワには無い豊かな音楽的センスはさぞ眩しかったに違いありません。しかし、プロのオーケストラ入団を目指す彼女はカントリー・ロックという音楽スタイルへの関心は乏しかったようです。だからと言って、2人はマリー=アニックを簡単には諦めきれません。そして、時には情熱が運命を呼び寄せます。

 1996年夏、地元レペンティニーの「ラ・リパイユ」というビアホールでソングライティング・コンテストが開催されました。カールとジャン=フランソワは腕試しに、上述の2人で作った最初の曲「幸福への道」と「Gaetane」という2曲のオリジナル作品を出品します。親しみ安い旋律とユーモラスな中に微量の毒のある歌詞に、カールの声が審査員を掴みます。予選を通過し、決勝トーナメントへと駒を進める2人です。観客を前にした2人の歌と演奏が場内を熱狂させます。その模様を見ていたマリー=アニックは、心の中で何かが弾けたのを感じたそうです。そこで、彼女は、準決勝のステージにサポート・メンバーとしてヴァイオリンを奏でます。ほぼ即興的に演奏したのですが、クラシックで鍛えたヴァイオリンの音色とフレーズは、カントリー調のシンプルな音楽に優雅さと豊かさを与えます。音楽的な厚みと深みが格段に増します。そして、3人は決勝へ進出。このコンテストで準優勝です。マリー=アニックの参加でレ・カウボーイ・フランガンの音楽的核が出来上がったのです。

レ・カウボーイ・フランガン始動

 楽才溢れるマリー=アニックは、ヴァイオリンのみならず、ピアノやアコーディオン等のキーボード群、マンドリンも弾けます。編曲もボーカル、コーラスも出来ます。非常に強力なメンバーの獲得でバンドに弾みがつきます。バンドとして完結するには、フロントの3人と気の合うリズム隊が不可欠です。ベースとドラムです。やがて、マリー=アニックの従兄弟ジェローム・デュプラがベーシストとして加入。ジェロームが友人のドラム奏者ドミニク・ルボーを引っ張って来ます。当時、ドミニクは他のバンドで活躍していたのですが、半ば強引に誘い込みます。ここに5人組のレ・カウボーイ・フランガンが始動します。1997年のことです。

 そして、この5人で早速、デビュー盤「12 Grandes Chansons」が制作されます。とは言っても、メジャーなレコード会社との契約もない、地元の作曲コンテストで準優勝となったアマチュア・バンドです。音質も優れない500本のカセットでした。今では、CD化され、ウェブでも聴けます。オリジナルのカセットはプレミアが付いて超高額で取引されています。

飛翔

 彼らの初期の傑作「break syndical」は2002年の作品。まず、批評家から好意的なコメントを得ます。そして、地元レベンティニーやモントリオール周辺で絶賛され、やがてケベック州を横断する聴衆から愛されます。ケベック州内を公演ツアーで回ると、音盤ジャケットのモチーフになっているグリーンのTシャツが会場を覆い尽くしたといいます。

 ライブでこそバンドは真の実力を蓄積していきます。ラジオ局も頻繁に彼らの曲をオンエア。彼らは、一躍ケベックを代表するバンドとなります。

 レ・カウボーイ・フランガンは超多作ではありません。じっくりと創り込んだ良質のスタジオ音盤と熱狂を伝えるライブ音盤をコンスタントに発表していきます。それらは、ケベックの現代音楽の歴史の重要な章です。

伝説〜カール最期の日々

 人間誰しも不死身ではありません。いつかは最期の日々がやって来ます。一方、医学の進化が人生百年を日常化しています。そんな中、バンドの創設者でフロントマン、カール・トレンブレイが前立腺がんに冒されます。2020年1月の事でした。が、この事実は秘匿されていました。がんと闘いながらもライブとスタジオを精力的に活動するカール。レ・カウボーイ・フランガンは、難しい局面の中で、2021年には、名作「Les Nuits de Repentigny」をリリースします。がんの事を一切知らないファンは、ただただ、極上の音楽を愉しむのです。エルビス・プレスリーを模したカールの写真に、彼の矜持が滲んでいます。

 2022年には、カールが化学療法を受けていることが公表されます。

 2023年9月、遂に、最後のライブが敢行されます。毎年ロデオ大会が開催されるケベック州サン=ティトに彼らのファンが結集しました。

 2ヶ月後、11月15日、カールが47歳の若さで他界。トルドー首相は「カールの声は、私たちの物語を語り、心を打つ力を持っていた」との談話を発しました。ケベック州政府は、州旗を半旗にし、追悼の意を表しました。また、カールとバンドの28年間に及ぶ活動を讃え、11月28日にケベック州の「国葬」が執り行われました。

結語

 レ・カウボーイ・フランガンは、ケベック州に加え、欧州のフランス語圏で絶大な人気を誇っています。最新盤は2024年4月に発表された「Pub Royal」です。ここには12曲収録されていますが、6曲はカール・トレンブレイの最後の録音です。正に“白鳥の歌”です。これは、全カナダのアルバム・チャートで初登場3位を記録します。ケベックを超えてカナダを象徴するバンドでもあることを示唆しています。

 また、カール・トレンブレイは、環境問題に強い関心を持っていて、ある時、「売った音盤の数だけ木を植えている」と語りました。彼らは、これまで130万枚を超える音盤を売り上げています。と言うことは、130万本を超える植樹をして来た訳です。

 レ・カウボーイ・フランガンの音楽は、樹木のように、聴く者の心に根を張り、世代を超えて聴き継がれていくのだと思います。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「NACO訪日」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第36回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 ここオタワでは、6月は最高の季節です。天気が良くて陽光の眩しい日には、空と雲と水と緑の四重奏が目も心も身体も癒やしてくれます。雨が降れば降ったで、雨上がりの爽快感は筆舌に尽くし難いほどです。

 一方、温暖化に起因する異常気象を背景に、山火事が頻繁している状況には心が痛みます。G7カナナスキス・サミットの主要議題の一つでもあります。大自然が相手ですから、思うに任せぬ容易ならざる課題ですが、叡智と決断で解決に道筋がつくことを期待しています。

National Arts Centreウェブサイトより。
National Arts Centreウェブサイトより。

 そこで、音楽です。季節や天気がどうであれ、音楽は日々様々な形で私たちに関わっています。日常生活の一部です。が、時には、そんな日常の中にも歴史的な出来事が起こります。例えば、先日の国立芸術センター管弦楽団(National Art Centre Orchestra:以下NACOと記述します)の韓国・日本ツアーです。韓国は史上初、日本へは40年振りの公演旅行でした。

 率直に言って、知名度という点ではNACOはまだまだです。特に、世界中の名だたるオーケストラの公演が連日目白押しの東京は、世界でも最も競争の厳しいクラシック音楽のマーケットと言っても過言ではありません。聴衆の耳も肥えていますし、情報の質と量も半端ありません。そんな中で、NACOは鮮烈な印象を残しました。「音楽の楽園」カナダの首都オタワが誇るオーケストラの面目躍如です。

 と云うことで、今回の本コラムでは、NACOの日本ツアーを取り上げます。

圧倒的な成功〜鍵は完璧な準備也

 一言で言えば、40年振りのNACO日本ツアーは大成功でした。

 NACO一行がオタワに帰還した直後に、NACOの総帥クリストファー・ディーコンCEOと話す機会があったのですが、普段は沈着冷静なクリストファーが、如何に素晴らしい公演ツアーであったかを興奮気味に話してくれました。東京はサントリーホール、津は三重県文化会館、大阪は大阪シンフォニーホールと大阪万博ではカナダ・パビリオン特設会場の計4公演です。それぞれに、思い出深いコンサートとなったそうです。とにかく、聴衆の反応に感銘を受けたと語ってくれました。

 コンサート意外で素晴らしかったこととして、日本で食べる和食が忘れ難いと声を大にしていました。高級懐石から、鉄板焼き、たこ焼きまで、本当に堪能した様子が伺えました。

 そこで、改めて今回のNACOの訪日公演ツアーを振り返ると、これは成功すべくして成功したとのだと思います。何故ならば、そこには足かけ3年に及ぶ入念な準備があったからです。私事ですが、2022年5月にオタワに着任し、暫くして、NACOのディーコンCEOやネルソン・マクドゥーガル渉外部長と親しくなり、会食やレセプション、公演の場でいつも音楽の話をするようになりました。

 2023年になると、日本大使館は2025年4月からの大阪・関西万博のプロモーションに力を入れ始めます。私の記憶によれば、同じ頃、ディーコンCEOやマクドゥーガル部長から万博の機会にNACO日本公演ツアーを企画したいとの構想を聞くようになりました。1985年以降途絶えた40年振りのNACO日本ツアーです。最初は願望というか野心的なアイデアという感じでした。徐々に、地に足のついた議論になっていきました。100人に及ぶ楽団員と関係者、大小様々な楽器群の運搬、移動・滞在費等々必要経費の問題。演奏会場、チケット・セールス、宣伝等々、処理しなければならない項目は多岐に渡りました。

 願望が企画になり計画へと進展すると、マクドゥーガル部長は、頻繁に日本を訪れ、日本側の関係団体・組織との折衝が始まりました。が、一筋縄では行きません。何事につけ人生のほぼ全てを言い当てているシェークスピアが喝破した通り、悪魔は細部に宿ります。一時期は、NACOの日本側エージェントが急遽変更するといった事態にも遭遇しました。しかし、大阪万博に合わせて訪日公演を行うとの強い決意で難局を乗り切っていくのです。

 マクドゥーガル部長は、きっと幾晩もの眠れぬ夜を過ごしたに違いありません。そして、日本のみならず、初めてとなる韓国ツアーも合わせて、見事なプログラムが出来ました。NACOの歴史にその足跡を刻んだと思います。

 そして、今回の韓日ツアーを応援すべく、親友のイム・ウンスン駐カナダ韓国大使とともに壮行会を兼ねた夕食会を共同開催しました。シェリー、川崎はじめ、日系と韓国系の楽団員のみならず、ディーコンCEOやマクドゥーガル部長はじめNACO経営陣も公邸にお招きしました。非常に愉快な夕べでした。同時に、皆が韓日ツアーの成功を確信したのです。

2025年6月3日のサントリーホール

© SUNTORY HALL
© SUNTORY HALL

 40年振りに日本の土を踏んだNACOは、まず、世界に冠たる音響の素晴らしさ誇るサントリーホールの舞台に立ちます。多様性を体現するカナダのオーケストラですから、楽団員も老若男女で多種多様。1985年の公演の際には生まれていない若いメンバーもいれば、40年前の古参メンバーもいます。彼らを牽引するのが音楽監督兼首席指揮者アレクサンダー・シェリーです。そして、コンサートマスターが川崎洋介です。

 今回の訪日にあたり、演目は慎重に選ばれました。NACOの力量が遺憾無く発揮される得意中の得意のレパートリーにして、日本の聴衆が大好きな楽曲です。しかも、日本との縁を実感させるものです。

〈ケイコ・ドゥヴォー〉

Photo credit: Caroline Desilets
Photo credit: Caroline Desilets

 まず、冒頭は、国立芸術劇場が委嘱した新曲です。モントリオール在住の日系カナダ人ケイコ・ドゥヴォー作曲の管弦楽曲「水中で聴く」です。水の流れを再現する打楽器群の音が弦楽器を誘導。聴く者は知らず知らずのうちに、水の中に溢れる音の時空に導かれます。随所に、東洋的な音色と響きを感じます。いわば、ドビュッシー的な印象派の21世紀ヴァージョン。現代カナダ音楽の真髄です。

〈ラフマニノフ〉

 次がピアノ協奏曲の名曲中の名曲、ラフマニノフの2番です。実は、私は国立芸術劇場でこの曲のNACOの演奏を2度聴いています。

 1度目は、2023年5月の辻井伸行との共演です。リハーサルも観る機会に恵まれたのですが、普段着でリラックスした中で要所要所の詰めを確認する姿は極めて印象深かったです。そして、本番は圧巻でした。指揮者シェリー、コンサートマスター川崎、ソリスト辻井、そして全ての楽団員が心を一つにして築きあげた音楽の桃源郷でした。細部に渡り緻密に計算され制御されている管弦楽と、ソリストの胸に湧き上がる創造性が奔放に羽ばたくピアノが見事に共存し昇華していました。CDや配信サービスで聴く再現されたデータとは違う次元です。演奏者と同じ空間にいて、目の前で、指揮者・コンサートマスター・独奏者・楽団員の動きを見て、息づかいを感じ、全ての音を聴くのです。音楽の最高の愉悦を感じました。

 2度目のラフマニノフ2番は、正に今回のサントリーホール公演の独奏者であるオルガ・シェプスでした。女性的な繊細さと同時に鋭角的な超絶技巧を持つ奏者です。こちらも本当に素晴らしい演奏でした。指揮者シェリーは、それぞれの独奏者の個性を尊重し抱擁し、ピアノを支えつつ、刺激し、優しく挑発するのです。第3楽章が終了した瞬間、圧倒的な歓声に包まれました。

 シェリーとシェプスの共演が、時に厳しく辛口のサントリーホールの聴衆をも唸らせた様子が目に浮かびます。

〈ベートーベン〉

 メイン・ディッシュは、交響曲第5番「運命」です。こちらも、NACOの十八番です。こちらも国立芸術劇場で2度聴く機会がありました。

 特に、2023年4月の演奏は忘れ難いです。ドイツのフランク=ヴァルタール・シュタインマイヤー大統領のカナダ公式訪問の際のオタワでの日程でした。カナダ側の歓待に対するドイツ側の答礼行事という位置づけです。ドイツ大統領主催の国立芸術劇場での特別な演奏会は、シェリー指揮でNACOが演奏する「運命」だったのです。

 音楽ファンなら誰もが熟知している名曲中の名曲です。だから、この夜の演奏が異様な熱気を纏った演奏だったと分かります。シェリーのタクトが振り下ろされた瞬間、第1楽章冒頭のダダダ・ダーンが響きます。まるで、自ら意思を持つ生き物のように、音の塊が聴衆に襲います。と、劇場の空気は一変し、聴衆の目も耳も心も一気に引きつけました。シェリーは指揮台に楽譜を置かず、全ての楽器の全ての音を完璧に頭に入れて、渾身でオーケストラを牽引しました。コンサートマスター川崎も阿吽の呼吸でシェリーの意図を感じ楽団員を鼓舞しました。佳境に入ると椅子から立ち上がらんばかりに音楽に没入するのです。

 第4楽章が大団円を迎えると、筆舌に尽くし難い感動が胸に溢れて来ました。招待してくれたスパウサー駐カナダ独大使には、コンサート直後に、心からの謝意と祝意を述べました。彼女も本当に感動していて、本当に誇らしいと言っていたのを思い出します。

 実は、このコンサートには若干の後日談があります。数日後に、NACOのマクドゥーガル渉外部長と話す機会があったのですが、実際は薄氷を履む状況であったと言うのです。というのも、大統領の全体日程の調整が難航しこのプログラムが決まったのは直前で、NACO以外の仕事もあって超多忙なシェリーの日程を何とか調整できたものの、全体のリハーサルは出来ないまま、本番に臨んだのだと言うのです。正に、NACOの真の実力が証明されたとも言えます。

 そんなシェリー指揮NACOの第5番「運命」がサントリーホールに響いたのです。このコンサートに赴いた友人から、即座にメールが来ました。曰く、シェリーの「運命」に圧倒され、鳥肌が立った、と。

大阪・関西万博「Shining Hat(カナダ・パビリオン)」へ

 NACOは、サントリーホール公演を成功させ、西に向かいます。

 まず、6月5日は、津市の三重県文化会館です。サントリーホールと同じメニューで、聴衆を魅了しました。そして、翌日は大阪です。

National Arts Centreウェブサイトより。
National Arts Centreウェブサイトより。

 6月6日は今回の訪日のハイライト。大阪・関西万博カナダ・パビリオン特設会場でのコンサートです。日本とカナダとの友情を更に深める特別なプログラムが用意されました。題して、『オスカー・ピーターソンに捧げるコンサート(Oscar Peterson Tribute Concert)』です。世界中で、カナダに匹敵するレベルでオスカー・ピーターソンが敬愛されている国は日本だけです。この連載「音楽の楽園」第2回でも取りあげましたが、秋吉敏子を発見した名伯楽でもあります。在京カナダ大使館のオードトリウムは「オスカー・ピーターソン・ホール」と名づけられていて、日本人にとっては、その名前はジャズを超えてカナダを代表しているのです。

 特別プログラムは、オスカー・ピーターソンの音楽的遺産をクラシックとジャズを融合させると同時に、世代と国境を超える形に昇華したものです。音楽監督アレクサンダー・シェリーの面目躍如です。

 『夢の軌跡:カナダ組曲(Trail of Dreams: A Canadian Suite)』は、オスカー・ピーターソンの代表作でピアノ・トリオの傑作『カナダ組曲』を管弦楽団とジャズ・ピアノ・トリオとの共演用に編曲されたものです。モントリオールで生まれ育ち、幼少期からクラシック・ピアノを学んだオスカーにとっては、クラシックもジャズも共に美しく斬新で新しい音宇宙の構築を目指すという意味では本質的な違いはありませんでした。実際「カナダ組曲」は、ドビュッシーやラベルを加速し現代化した趣すらあります。

 更に、シェリーが用意したオスカーに捧げる極めつけが『自由への讃歌(Hymn to Freedom)』です。ピーターソンの代表曲であるばかりでなく、第2のカナダ国歌とも称されています。1962年発表の『ナイト・トレイン』という音盤に収録されています。オスカーの父親は、ドミニカからの移民で、鉄道員の職を得て刻苦勉励しオスカーを育て、息子がプロのピアニストを目指す時には深い愛と智慧を授けました。そんな父に捧げた音盤の核が『自由への讃歌』です。初めての人も、最初のワン・フレーズを聴くだけで、心の奥の柔らかい部分が慰撫されるように感じるはずです。そんな名曲中の名曲がオーケストラと児童合唱団によって再生されたのです。会場は、感動と興奮の坩堝と化したと伺いました。

結語

 オーケストラの実力は、本質的には知名度とは関係ありません。但し、実力が証明されれば評判が評判を呼び、いずれ有名になっていきます。NACOは、今回の訪日公演ツアーでその流れに乗ったと思います。今後の活躍に期待が一層高まります。

 シェリー、川崎、NACOは、韓国・日本ツアーから凱旋しましたが、その感慨に浸る間もなく、過密な日程が待っています。次は、国立芸術劇場にてストラヴィンスキー『春の祭典』の演奏会です。既に世界レベルのNACOが今回の韓日ツアーで一皮剥けた演奏をしてくれるのではないか。オタワ在住の音楽愛好家は待ちきれません。

 そして、溢れる情熱と大きな構想力でNACOをここまで引っ張って来た音楽監督アレクサンダー・シェリーは、今シーズンで11年に及ぶ契約を完了します。来年からは、米国カリフォルニア州オレンジ郡を拠点とするパシフィック交響楽団の音楽監督に就任します。パシフィック響は、1978年創設とNACOよりも約10年若い楽団ですが、ヨーヨー・マも参加したエリオット・ゴールデンサール作曲『水・火・紙:ベトナム・オラトリオ』の委嘱・初演で知られます。NACOとの11年で培った伝統と前衛、統率と自由の絶妙なバランスでもって、シェリーが牽引するクラシック音楽の新しい潮流から目が離せません。武運長久を祈ります。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「サム・ロバーツ・バンド」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第35回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 5月は緑の季節です。ここオタワでは、冬が終わり春が来ると加速度的に気温が上がります。早春は瞬く間に春爛漫になります。すると、時を置かずに初夏の雰囲気が街に満ちて来ます。天気の良い週末は、郊外の保養地域に自転車とランナーと散策する人々の幸福な笑顔が溢れています。素晴らしい季節です。

 そんな5月に聴くのに相応しいのは、旋律とハーモニーが自然なサウンドの中に息づくカナダらしい音楽です。敢えて言葉にすれば、フォークとロックとR&Bとが融合し、適度に尖ったリズムで、等身大の自分を飾らず描く歌詞なら、最高です。そこで、今月は、サム・ロバーツ・バンドを取り上げたいと思います。

 カナダのオルタナ系ロックの代表格です。日本を含むアジア・ツアーも行っています。率直に言うと日本では大成功という訳ではなかったようですが、カナダではジュノー賞の常連です。音楽性でも商業面でも極めて高い評価を得ています。

 私事ですが、私は毎朝ノイズキャンセリングのヘッドホンで音楽を聴きながらウォーキングを楽しんでいますが、最近の愛聴盤の一つが昨年リリースされた『ベン・ブランクの冒険』です。奇妙なジャケット・デザインなですが、ちょっとハスキーな彼の声が切れのいいリズムとメロディーに乗って、多彩に響く最高のウォーキング・パートナーです。

 サム・ロバーツ・バンドは、名前が示すとおり、作詞作曲しリードボーカルを担当するサム・ロバーツ率いる彼のバンドです。実は、最近知ったことなのですが、サム・ロバーツは我が日本大使館の或る館員の親族なのです。ディズニーの人気者ミッキーマウスが、It’s a small world と歌っているとおり、この世界は、色んなところで知らず知らずに繋がっているものなのですね。

 それでは、早速、サム・ロバーツについてです。

モントリオールの二刀流

 サム・ロバーツは1974年10月2日ケベック州のモントリオール島のウェストマウント市で誕生しました。両親は、南アフリカからの移民です。何と、到着した3週間後に彼が生まれたのでした。当時アパルトヘイトに嫌気がさして南アフリカを出国し、英国スイス勤務した後、母親は身重の臨月で、大西洋を渡りカナダに入国したのでた。この状況からして、極めてカナダ的です。時は、ピエール・トルドー政権が推進する多文化主義の真っ最中です。モントリオール・ガゼット紙のインタビューに答えて、サムは「僕の最初の記憶は、ウェストマウントの古いパン屋“ポム・ベーカリー”の焼きたてのパンの香りです」と答えています。牧歌的な素敵な幼少期の思い出ですね。

 サムは、すくすく育ち、4歳でヴァイオリンを習い始めます。幼少期から楽才を示し音楽に情熱を注ぎます。この時のヴァイオリン教師セヴァディジアン氏とはその後も親交が続き、サムの娘もヴァイオリンを教わっているそうです。モントリオール流の地元コミュニティーの固い絆です。

 また、サムは11歳でギターを弾くようになります。ヴァイオリンで鍛えた指使いと音感は、ギターにも遺憾なく活かされ、瞬く間に上達します。13歳の時にエレキ・ギターと出会い、友人とバンドを組みます。一方、頭脳明晰で、モントリオールの名門ロヨラ高校に進学し、マギル大学で英文学を専攻します。因みに、このロヨラ高校・マギル大学のコースは、米国カーター政権の国家安全保障補佐官を務めたポーランド移民のブレジンスキー氏と同じです。かつて、日本のロック批評の草分け、渋谷陽一が「ロックは知性の革命だ」と喝破したのを思い出します。

 サム・ロバーツはモントリオールの音楽と学業の二刀流でした。サムは、高校生にして、“ウィリアム”と名乗るバンドを結成。マギルに通うかたわらバンド活動を続けていました。1996年には、地元の独立系レーベルから『ピラニア』と題するEP盤をリリースしました。1998年マギル大学を卒業すると、音楽に専心します。

ロサンゼルス〜苦い夢

 サムは、卒業を期に“ウィリアム”を“ノーススター”と改名します。そして、バンドメンバーと共に、モントリオールを出て世界のエンタメの中心地ロサンゼルスに拠点を移します。ロサンゼルスでは、バンド名を冠した『ノーススター』と題するEP盤を自主制作し、勝負をかけます。北国カナダのケベックから現れた新星には、自信もあれば野望もあったに違いありません。ダウンタウンのクラブ等での演奏活動も本格化させます。しかしながら、其処は、世界中から一騎当千の我こそは異才・鬼才・天才と信じるミュージシャンが集まり覇を競う街です。

 率直に言えば、ロサンゼルス滞在は苦いものに終わったようです。結局、翌1999年には、“ノーススター”は解散してしまいます。

 苦い夢に終わったロサンゼルス時代を振り返り敢えて総括すれば、理由は2つです。

 まず、サム・ロバーツ自身が未だ発展途上であったという点です。実は、このコラムを書くために、ノーススター時代の「Diagnosis:Evil」という曲を聴きました。イントロの刺激的なギター・カッティングとキャッチーな主旋律は可能性を感じさせますが、何処かで聞いたことのあるようなサウンドで彼の個性が際立つとまでは言えません。圧倒的な才能が開花するにはもう少し時間が必要だったのです。

 もう一つは、ロサンゼルスでは、音楽は芸術ではなくエンタメ産業です。売れる見込みがなければ、セカンド・チャンスはありません。将来性だけで生き残るのは容易ではない街です。厳しい現実です。サム・ロバーツが、才能の原石を磨く上で、ロサンゼルスは相性の良い街ではなかったということでしょう。

覚醒

 1999年、サム・ロバーツは、モントリオールに戻ります。凱旋ではありません。傷心の帰郷と言うべきでしょう。しかし、音楽に限らず誰の人生においても、試練は時として人間を鍛えます。“ウィリアム”から“ノーススター”とバンドを組んできた同志とも袂を分ち、一人の音楽家として改めて音楽に向き合います。

 サムは、自作曲12曲を自家録音します。実は、サムは、マルチ・インストロメンタリストで、ヴァイオリン、ギター、ベース、キーボード等を弾けるのです。その時のサム・ロバーツの現状を赤裸々に示す、『ブラザー・ダウン』と題するデモテープが出来上がりました。後にジュノー賞を受賞することになる名曲「ブラザー・ダウン」の最初期のヴァージョンを含んでいます。

 そして、このデモテープが運命の扉を開きます。

成功

 2001年、プロデューサー兼パーカッショニストのジョーダン・ザドロズニーが、このデモテープを評価し、全12曲の中から6曲を厳選して再録音することになります。ドラムはザドロズニーが叩きましたが、その他の楽器は全てサムが弾き、リードボーカルもハーモニーもサム自身の多重録音です。

 そして、この録音は、翌2002年7月にトロント拠点の独立系「メイプルミュージックレコード社」からEP盤『インヒューマン・コンディション』としてリリースされます。すると、リリースから9週間で、カナダのアルバム・チャート2位まで駆け上がります。デビュー・シングル「ブラザー・ダウン」は、カナダのオンエア・チャートで3位にインします。全く無名のシンガー・ソングライターの独立系の音盤が瞬く間にカナダ全国で大ヒットしたのです。快挙と言って良いでしょう。

 「ブラザー・ダウン」は、ファンキーなリズムに乗って、人生の選択や社会の不条理を歌っています。現代的なサウンドと親しみやすい旋律と極めて内省的な歌詞が絶妙にマッチ。最大の武器はサムの声です。聴く者の胸を突きます。

 すると、世界最大レコード会社「ユニバーサル」がサム・ロバーツとの契約をオファーするのです。既にカナダのアルバム・チャートを席巻している音盤『インヒューマン・コンディション』に収録されている6曲を録音し直すと共に、追加で8曲を録音します。勿論、全てサム・ロバーツの作詞作曲で、大半の楽器を彼が弾いています。

 2003年6月、メジャー・デビュー音盤として14曲収録のフル・アルバム『We Were Born in a Flame』がリリースされます。しかも、カナダに加え米国でもです。かつて、夢破れたロサンゼルスの日々は、成功に至る上で通るべくして通った道程であったのでしょう。

飛躍

 このメジャー・デビュー音盤は大成功を収めます。2004年4月4日にアルバータ州エドモントンで開催されたジュノー賞で、「アルバータ・オブ・ザ・イヤー」、「ロック・アルバム・オブ・ザ・イヤー」、「アーティスト・オブ・ザ・イヤー」を受賞します。

 正に2004年はサム・ロバーツにとって飛躍の年です。本コラム第22回で紹介した「トラジカリー・ヒップ」のカナダ全国ツアーに同行し、オープニング・アクトを務めました。このツアーには、苦楽を共にした“ノーススター”のバンドメンバーに再び声をかけて万全の体制で臨みました。この経験は、ライブバンドとしての力量に一層磨きをかけました。この後、サム・ロバーツは米国ツアーも敢行しています。

 翌2005年には、「LIVE8」に参加しています。若干の解説をします。遡れば、1985年にアフリカ難民救済を目的に行われた20世紀最大のチャリティーコンサートであった「LIVE AIDE」が行われことを音楽ファンなら憶えてらっしゃるでしょう。クィーンを題材にした映画「ボヘミアン・ラプソディー」のハイライトにもなったコンサートです。LIVE8は、このLIVE AIDE の20周年を期に、2005年7月のG8首脳会議に向けて、貧困に喘ぐアフリカ諸国への支援増大や債務救済を主張して行われたコンサートです。東京、ロンドン、フィラデルフィア等G8各国の主要都市で開催され、カナダでは7月2日(土)午後4時から日付が変わった3日(日)の早朝まで、トロント郊外のバリー公園特設ステージで行われました。サム・ロバーツはこの舞台に立ったのです。LIVE8トロントには、趣旨に賛同したニール・ヤング、セリーヌ・ディオン、ブライアン・アダムス、更にはディープ・パープル等々のスーパースターが参加。サムは、名実ともにスターの仲間入りを果たした訳です。

 その後は、コンスタントにアルバムを発表。カナダを代表するロック・アーティストとしての地歩を築いて行きます。2006年には第2弾『Chemical City』、2008年には第3弾『Love at the End of the World 』をリリースします。特に、第3弾音盤は、アルバム・チャート初登場で首位。ジュノー賞も獲得しています。

 2011年以降は、「サム・ロバーツ・バンド」名義で音盤を発表しています。バンドの核となるドラム、ベース、キーボードは“ノーススター”時代から不変です。引き締まったバンド・サウンドはメンバー間の絆の深さを感じさせます。

結語

 サム・ロバーツの音楽は、彼が若き日々に聴いたボブ・ディランやビートルズやローリングストーンズの影響を陰に陽に受けています。考えてみれば、彼らの影響を受けていないバンドは皆無でしょうけれど。時に、カナダのブルース・スプリングスティーンと言われることもあるようです。しかし、サム・ロバーツには、カナダ的な余りにカナダ的な要素が色濃く現れています。メジャー・デビュー盤収録の「カナディアン・ドリーム」など良い例ですが、多文化主義のカナダの理想と現実が滲んでいます。自然との共生や旅も主要なテーマですが、日本の27倍の国土故に生まれたサウンドと言えます。

 サム・ロバーツは、既に、デビューから20年余です。彼のキャリアを一望できるベスト盤『Frequencies』がリリースしたばかりです。今年は、50歳の知命の年です。コマーシャリズムに飲み込まれることなく、サムにしか辿れない音楽的冒険の旅路を行き、これからも極上の音盤を出してくれると期待しています。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

「クロード・ヴィヴィエ」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第34回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 4月の声を聞くと春の訪れをイメージしますが、今年のオタワは違います。温暖化の時代とは思えず、4月になっても真冬に逆戻りする日もあります。さすが、世界で最も寒い首都の一つです。とは言え、街を覆っていた雪も徐々に溶け出し、樹木も目を凝らして見れば蕾が膨らみ始めています。厳しい冬の後の春は喜びもひとしおです。

 さて、今回の「音楽の楽園」は、カナダが生んだ現代音楽の鬼才クロード・ヴィヴィエです。移民立国のカナダを体現するモントリオール出身。出生の瞬間から旅路の終焉まで正に波瀾万丈そのもの。「事実は小説より奇なり」を体現したような人生を生きました。アンブローズ・ピアスの『悪魔の辞典』が芸術家について「法律を巧みにかいくぐる術に長けた者」と定義していたことを思い出します。

 クロード・ヴィヴィエは、弱冠34歳で夭折した天才。現代音楽の巨匠カールハインツ・シュトックハウゼンの下で学びましたが、師の作曲技法を消化・吸収し、誰にも似ていない唯一無二の個性を確率しました。日本にも短期間滞在し、東洋的な要素を絶妙に取り入れているのもヴィヴィエの真骨頂です。短期間に本格的な作品を40以上残しています。どれも時代の先を行く真の前衛。没後、急速に評価が高まりました。代表作は、「ソプラノと管弦楽のための《みなし児(Lonely Child)》」です。現代と伝統、東洋と西洋が交差する音楽の斬新な響きに満ちています。今なお、美しく刺激的です。

 それでは、クロード・ヴィヴィエの辿った音楽的冒険を追体験しましょう。

1948年4月14日〜モントリオール

 クロード・ヴィヴィエは、1948年4月14日、モントリオールに誕生したと記録されています。但し、両親については姓名・人種等一切不明です。と言うのも、誕生直後にカトリック教会が運営する孤児院に置き去りにされたからです。その段階では、名も無き赤ん坊でした。教会により、クロード・ロジェと名付けられ、孤児院で養育されます。そして、2歳半の時に、詳しい経緯は分かりませんが、モン・ロワイヤル公園の側のマイルエンド地区の労働者階級のヴィヴィエ家に養子として引き取ら、クロード・ヴィヴィエとなりました。

 すくすく成長すると期待されていたものの、言葉を話さなかったため特別養護施設への通院も一時は検討されたようですが、6歳になる頃、話し始め健常者だと判明し、養父母はほっとしました。ところが、それも束の間、クロードが8歳になる頃、同居していた養父母の伯父から性的虐待を受けていたことが発覚します。教会の懺悔で、クロードが告白したからです。しかし、養父母は、クロードが嘘をついていると激怒したと言われています。

 この一件以来、家族関係がギクシャクし始めたと云います。同時に、クロードの自我が芽生え、人格が形成されていくのです。

思春期

 1961年、13歳になったクロードは、1817年に創設された名門のカトリック寄宿神学校、マリスト・ブラザーズ校に入学します。ここは、基本的には聖職者養成機関で、質の高い教育で知られていました。クロードは全ての科目で非常に優秀な成績を残します。中でも特に文学と言語学そして歴史に強い関心を示します。アルチュール・ランボーの詩に感銘を受け、ラテン語やギリシャ語も勉強しました。また、ドイツ史に強く惹かれ、ドイツ語も堪能でした。この頃、クロードは友人に、自分の両親はドイツ或いは東欧出身のユダヤ系で音楽家だ、と話しています。如何なる根拠があったのか分かりませんが、後年ドイツへ留学していることを思うと、血脈の影響があることを感じさせます。

 また、マリスト・ブラザーズ校在学中に、クロードは自分が同性愛者であることに気付きます。1960年代のカナダでは、今と全く状況が異なっていて、同性愛はカナダ刑法に云う「重大な不品行為」として処罰の対象でしたし、社会的にも同性愛への偏見は根強かったのです(この状況が変わるのは、ピエール・トルドー首相の登場を待たねばなりません)。それでも、モントリオールは、カナダの中では突出して文化的に多様でゲイ・サブカルチャーが存在していたと言われています。秘密裏に運営されるゲイ・バーやサロンもあったそうです。とは言え、10代のクロードが性的指向を表現するのは極めて困難な社会状況だったのは間違いありません。そんな孤独や葛藤や渇望が音楽を求める本能と化学反応を起こしたのかもしれません。因みに、クロードは18歳の時に、自分が同性愛者であることを告白しています。

音楽への目覚め

 そこで、クロード・ヴィヴィエの音楽についてです。彼の音楽的原点は教会でした。養父母に連れられて参加した礼拝で聴いた聖歌隊の合唱は、声と歌への憧憬を深めます。パイプオルガンの荘厳な響きが幼きクロードの中枢に深く刻み込まれたのです。特に、クロード10歳の時、1958年12月24日のクリスマス・イブの深夜ミサで聴いた聖歌が決定的で、「その瞬間に何かが自分の中で開かれた」と後年語っています。

 上述のとおり、ヴィヴィエ家の家庭環境は決して望ましいものとは言い難かった訳ですが、クロードは音楽への強烈な関心と非凡な才を垣間見せます。養父母は、クロードのためにアップライト・ピアノを買い、時折ピアノ・レッスンにも通わせました。

 マリスト・ブラザーズ校は、カトリック教義を核にしていましたから、ミサ、晩課、グレゴリオ聖歌が日常的に演奏される環境でした。音楽は宗教的実践の不可分の一体だったのです。一方、教育カリキュラムとしての音楽教育は限られていました。そんな中、クロードは、ほぼ独学で音楽について学びます。特に、モーツァルト、チャイコフスキー、バルトーク、シェーンベルグの音楽に魅了されました。作曲も始め、仲間に聞かせていたと言います。また、地元のバレエ教室でピアノの伴奏をしたり、音楽を教えたりしました。また、パイプオルガンの音色に魅せられ、パイプオルガンが設置されている地元の教会を訪れては、ミサの伴奏をさせてもらうようになったといいます。

 マリスト・ブラザーズ校は聖職者養成学校だったにもかかわらず、クロードは音楽にのめり込みます。同時に、クロードの性的志向はカトリックの寄宿舎学校では全く容認されませんでした。結局、放校処分を受けました。クロードは、音楽への道を模索します。生活費を稼ぐために、地元のレストラン等でアルバイトをしたそうです。

モントリオール音楽院

 1967年秋、クロード・ヴィヴィエは、晴れて名門モントリオール音楽院に進学します。専攻は、ピアノと作曲です。作曲は、フランス現代音楽の巨匠オリビエ・メシアンの高弟ジャイルズ・トレンブレイ教授に師事します。トレンブレイ教授は、作曲には無限の可能性があり、特定の時代の技法ではなく全方位的に学ぶべきとの信念を持っていました。ヴィヴィエは、グレゴリア聖歌、バッハからアルバン・ベルグまで500年を優に超える時間軸で音楽の真髄に迫り学びます。ヴィヴィエは、授業の後も廊下でトレンブレイ教授を質問責めにしたとの逸話が残っています。ヴィヴィエの関心の核心は、旋律を如何に活かすかだったと言います。ハーモニーとリズムと音色を駆使し、誰も到達したことのない境地に音楽を導くのがヴィヴィエの野望だったのでしょう。

 この頃、ヴィヴィエが音楽を学んだのは音楽院の閉じた空間だけではありませんでした。自由な気風に溢れるモントリオールでは、世界最先端の音楽を紹介するコンサートも頻繁に開かれていました。そして、ヴィヴィエは生まれて初めてシュトックハウゼンの前衛音楽に触れ、衝撃を受けます。1968年のことでした。

 音楽院の内外から刺激が、ヴィヴィエの創造中枢の爆発への導火線を発火させます。ヴィヴィエの最初期の本格的な作品「ソプラノ、クラリネットと打楽器のための《オジカワ》」も発表されます。20歳の自画像と言ってよいでしょう。大いなる可能性を感じさせます。トレンブレイ教授は、ヴィヴィエの良き理解者でした。巨大な才能の原石の発見者にして親友となりました。教授の強力な推薦もあって、ヴィヴィエは、カナダ芸術評議会から奨学金を得ます。そして、欧州へと飛び立ったのです。この時、23歳です。

ヨーロッパにて

 1971年から73年まで3年間、クロード・ヴィヴィエはクラシック音楽の本場たる欧州に留学します。疾風怒濤の1960年代を経て、欧州は大きな変革の真っ只中にありました。グレゴリア聖歌、ジョスカン・デ=プレ、ヴィヴァルディ、バッハ、ヘンデル、モーツァルト等々、古典音楽を育んできた欧州は、今や全く新しい革命的な音楽の揺籃の地です。ヴィヴィエは、現代音楽を牽引する3人に師事します。

 まず、国立パリ高等音楽院で指揮者・作曲家のポール・メファノに師事します。特に、詩・言葉と音楽の深淵な繋がりを探求しました。次にユトレヒトにあるハーグ王立音楽院付属ソノロジー研究所でゴッドフリード・マイケル・コーニングに師事します。この研究所は、最先端の電子音楽を主導していました。最新技術と音楽の関わりを体得する絶好の場でした。

 最後に、ケルン音楽院です。ここでは、20歳のヴィヴィエに強烈な霊感を与えた稀代の作曲家シュトックハウゼンが教鞭を取っていたのです。彼にとっての欧州留学の核心です。希望に胸を膨らませるヴィヴィエでした。しかし、シュトックハウゼンは、課題に対しヴィヴィエが書いた楽曲を評価せず、弟子入りを断ったと言います。ショックを受けるヴィヴィエですが簡単には諦めません。最終的には、受け入れられ、1972年から2年間、ここで、シュトックハウゼンの音楽・美学・思想を徹底的に学んだといいます。作曲技法だけではなく、音楽に直結する時間と空間と音響の関係性、更には曲づくりの背景と骨格をつくる思想です。ヴィヴィエにとっては、誰の真似でもない自らの音楽世界を構築する上で極めて重要な土台となるのです。一方、シュトックハウゼン教授はと言えば、ヴィヴィエに関して好意的コメントすることはなく、評価は総じて高くはなかったそうです。師弟関係は、決して一筋縄ではいかないという事でしょうか。

モントリオールの新進気鋭

 1974年、3年間に及んだパリ、ユトレヒト、ケルンでの実り多き留学を終えて、ヴィヴィエはモントリオールに帰還します。作曲家としての内実は充実しましたが、一般には無名です。市内のアパートの賃料も安くはありません。地元の音楽学校で教師をして生活費を稼ぎながら、新進気鋭の作曲家としての道を歩み始めます。

 やがて、大きな転機が訪れます。CBCがヴィヴィエにカナダ国立青少年管弦楽団のための新曲の作曲を委嘱して来たのです。結果、生み出されたのが、代表作の一つ「シッダールタ」です。シッダールタは仏陀のことで、ヘルマン・ヘッセの小説『シッダールタ』にインスパイアされたものです。真理を探求し精神的覚醒に至る旅路を描いた物語に呼応するような楽曲です。ヴィヴィエ自身は「自分自身の声を見出そうとした時期」の作品だと述べています。シュトックハウゼンの重力圏から離れ、ヴィヴィエ流の音楽美学を確立する記念碑作品と評されています。実は、生前は演奏される機会はなく、没後9年を経た1992年にケント・ナガノがモントリオール交響楽団を指揮して初演しました。様々な打楽器を活用し変幻自在なリズムと多彩な音色が観客を魅了し、圧倒的な成功でした。

中東アジア紀行

 ヴィヴィエは、1976年から77年にかけて、エジプト、日本、イラン、タイ、シンガポール、バリを訪れています。欧州とは全く異なった文化的・歴史的な空間に身を置いたのです。それぞれの国で独自に発展して来た音楽について学び、吸収し、それをヴィヴィエ的な作曲語法の中に昇華させていきます。バリではガムラン音楽の影響を受けました。

 日本では、雅楽、仏教音楽、能、声明、歌舞伎等に触れています。間を大切にする独特のリズムの感覚や和楽器的な音色が代表作「ジパング」に滲んでいます。CDも出ていますし、YouTubeでも聴けます。現代音楽は苦手という方も、聴けば、東洋の響きの中に潜む音楽の驚きと喜びを感じられると思います。

パリ〜最終章

 1982年6月、クロード・ヴィヴィエは、パリに移住します。カナダ芸術評議会の奨学金を得て更なる音楽の高みを目指したのです。ヴィヴィエにしてみれば、現代音楽作曲家としてカナダで出来ることはやり尽くしたとの実感があったと言います。

 パリでは、基本的に創作活動に没頭していました。特に、チャイコフスキーの死を題材とした新作オペラに情熱を傾け、構想を練っていました。また、「魂の不滅を信じるか?」と題する新曲の作曲を始めていました。同時に、パリ高等音楽院関係者との交流もあり、正式な教授ではなかったものの、ケベックの音楽事情等についてアドホックに講義をしていたようです。

 一方、私生活は奔放で、頻繁にゲイ・バーを訪れていたことが知られています。夜な夜な行きずりの関係に溺れていたとも言われています。1983年1月には、そんな相手から暴行を受ける事件が起きます。友人たちは心配し、真剣に助言した訳ですが、ヴィヴィエの私生活は変わることはありませんでした。

 それでも、作曲家としては希望に満ちた将来が待っていたはずです。しかし、クロード・ヴィヴィエの生涯は、1983年3月7日、突然、終わります。パリの自宅アパートにて、その夜ベルビル地区のバーで出会った男娼に刺殺されたのです。嗚呼!

 葬儀は3月3日、パリのペール・ラシェーズ火葬場で行われました。そして、4月14日(ヴィヴィエの35回目の誕生日)、モントリオールの聖アルバート・ル=グラン教会において追悼式が行われています。

結語

 クロード・ヴィヴィエは、34年と11か月の人生航路をドラマチックに展開し生涯を終えました。彼の肉体が滅んで早くも42年が経ちます。一方、彼が残した音楽は時間の経過を経て輝きを増しています。

(了)

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音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

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