エドサトウ
この冬は比較的に雪の多い年であったようである。雪が降れば仕事もできなくなり、家にいることも多くなり、ゆるやかな生活になるのであるが、僕の左足が12月の始め頃から少し不自由になって、足が上がらなくなり、最寄りの医者に行き見てもらうと、夕方に電話があり「すぐに病院へ行きなさい」と言われた。VGH総合病院へ行き、頭や足のスキャンを撮ってもらった。
担当の先生に「頭や足の血管に異常はないので、また別の先生にアポイントメントをとるので、改めて来てください」と言われて、その日は何事もなく「一安心」をして帰宅する。
しばらくして、病院から「整体の先生の予約がとれたので、某日に来てください」と電話があり、数日前に雪が降り道路に雪が残っている寒い日に病院へ行くと「脊椎の病気の可能性があるので、血の検査をしてください」と言われた。その足で血液検査のクリニックへ行くと「予約を取ってください」と言われて、クリスマス過ぎに再度、血液の検査に行くとスパインに問題があることが判明する。
その後、首の後ろの脊椎のレントゲンを撮ってたりして、いよいよ脊椎管狭窄症の手術という段取りが進んでいった。
僕の足の状態は日増しにひどく成り、二階の自分のベッドルームに行く階段の昇り降りがかなり危険になり、ぼくは、赤子のようになり四つ這いで階段の昇り降りをしていたが、そのうち右手の指先にもしびれが来た。頼りにしていた右手がダメになれば好きな文章も書けなくなる。さらに、頼りにしていた右足の膝を屈折すると、急に右足の力が抜けて床にひっくり返ることが、しばしば起きた。
さらに、毎日の水分の飲む量が少ないのか、ひどい便秘となりウンチがでなくなり、同時におしっこも出なくなるというふうになってきたが、幸いひまし油を綿棒で何度も肛門から塗り込んでいたら朝の9時ころに切れ痔になり、出血はしたが問題は解決した。
その時に思った「手術もリスク(問題)があるかもしれない。少々怖いけれど、人生、晩年まで仕事を続けられたのだから、少々のことは覚悟しよう」と。息子たちにも同じことを言って、その日の昼過ぎにVGH病院へ行き、そのまま即入院となり、翌日朝の手術となったのである。
朝の7時に起こされて、車のついたベッドに移され、エレベイターを2回乗り換えて迷路のような病院の廊下をとうりぬけて、手術室の手前の狭いボックスルームにベッドのまま運びこまれる。まるで、早朝出撃前の戦闘機のりが格納庫で出撃の合図を待っているような緊張感がただよう。ナースが待ち構えたようにすぐに来て、本人かの確認、血圧や脈拍体温など体調の検査など、再度確認をとり手術室へ行く準備が整い、少しの間ベッドの上で待つ自分は「方丈にし流れゆくもの、木の葉(ベッド)に身をのせて」という気分か?
やがて8時半、今日の手術の一番機とも言うべき僕の乗るベッドがコロコロと押して運びこまれると、天井の手術用の明るい照明にスイッチが入り、にわかに忙しくなる。手術担当の先生とサポートの女の先生がそれぞれ名前を僕に告げると、主治医のF先生が「手術が終わったら息子さんに電話をするからね」と僕に確認をとった。看護婦さんが、麻酔液の入った袋のコックをオープンすると細いビニールの管を伝わり麻酔が少しずつ体内に入ってくる。5分もしない内に僕の記憶は何も無くなる。
手術は首の後ろを切開して、メタルを入れて圧迫されているスパンを元に戻すということらしい。とにかく大変な手術で3時間近くかかったらしい。手術で僕が目が覚めたのは1時ころであった。翌日に自分の意志で持ち上げることのできなかった左足がベッドの中で持ち上がった時は、妙に嬉しかった。
その後はVGH病院に3週間、リハビリの病院に3週間入院して、現在は自宅療養中である。まずは、車椅子の生活にならなくて本当に良かったと思うのである。
お世話になった担当の各先生方、また、献身的にお世話をいただいたか若い看護師の皆さんに心よりお礼申し上げます。
人生の面白さは深い悲しみとか、苦悩があるから面白くもあるまいか。苦悩に負けた枯草もまた、一つの生(せい)の在り方であり否定されるものではないとラフマニノフのコレルリの主題による変奏曲を聞いて思うことである。