さくらシンガーズでは新規団員を募集しています。男女、年齢、経験の有無は問いません。練習の見学も歓迎しています。
練習日:毎週土曜日14:00 〜16:00
場所::聖十字日系聖公会ホール
Holy Cross Japanese Anglican Church Hall:4580 Walden St., Vancouver, B.C.(Main St. × 30thを東にすぐ)
問い合わせ:Phone 604-221-0545 E-mail: info@thesakurasingers.org
さくらシンガーズでは新規団員を募集しています。男女、年齢、経験の有無は問いません。練習の見学も歓迎しています。
練習日:毎週土曜日14:00 〜16:00
場所::聖十字日系聖公会ホール
Holy Cross Japanese Anglican Church Hall:4580 Walden St., Vancouver, B.C.(Main St. × 30thを東にすぐ)
問い合わせ:Phone 604-221-0545 E-mail: info@thesakurasingers.org
6月から10月までの期間中、毎月第2、第4日曜日に開催されます。マーケットの営業時間は午前10時から午後2時までです。ガーデンとロビーに30以上のブースが並びます。来場者は、無料駐車場とトイレが利用でき、キッズコーナー、博物館の展示、ミュージアムショップ、パフォーマンス、日本文化プログラムもお楽しみいただけます。
マーケットでは、産地直送の農産物をはじめ、近隣で製造された食品や、ユニークな工芸品などが販売されます。和風な食品や商品が多数用意されており、日系ガーデンの季節の変化もお楽しみいただけます。6月9日、初回マーケットでは日本の植物の販売や「楽一」による演奏が行われます。
2024年の開催日程は以下の通りです。
特別イベント
また、7月14日には「七夕フリーマーケット」が同時開催されます。フリーマーケットの時間は1時間延長して10時から3時まで行われます。
日系ガーデン・ファーマーズ・マーケットについて
日系ガーデン・ファーマーズ・マーケットは、地域社会との関わりを深め、コミュニティに根ざした企業を支援し、持続可能性を推進し、より健康的なコミュニティの構築に貢献することを目的として、2021年に設立されました。
また、コミュニティ作りのために他の団体と協力しています。ご来場の際は、コミュニティ・ブースでどんなサービスがあるかチェックしてみてください。
日系ガーデン・ファーマーズ・マーケットは、ベンダーやボランティア、そしてお買い物客の皆様に支えられています。
日系ガーデン・ファーマーズ・マーケットに関する詳細は、以下のウェブサイトをご覧ください。
https://centre.nikkeiplace.org/events/nikkei-garden-farmers-market-2024/
お問い合わせは、日系文化センター・博物館までお願いします。
電話番号:604-777-7000
メールアドレス:info@nikkeiplace.org
日系ガーデン・ファーマーズ・マーケット
6月から10月まで
第2と第4日曜日
午前10時から午後2時まで
日系文化センター・博物館
6688 Southoaks Crescent, Burnaby
centre.nikkeiplace.org
お問合せ:604-250-4935(テキスト可)、keikonorisue@gmail.com 則末恵子まで
住所:4010 Victoria Dr, (Between 23rd and 25th Ave East), Vancouver
教会ホームページ https://vjuc.org/
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
サレーNorthwood 合同教会 日本語会衆礼拝
6月16日(日)午後2時より
住所:8855 156 St, Surrey, BC, V3R 4K9
お問い合わせ:kuniokazaki98@gmail.com 岡崎まで
エドサトウ
ガレオン船のキャノン砲は陸路と海路の二手に分けて運ばれたのでは、というのが小生の考えである。いやいや、これは考え事というよりも小生の空想の世界と言った方がよいかもしれない。
船で運ばれた大砲は、愛知県の知多半島にある港で陸揚げされて、東海道を荷車で北上して、家康の本陣と合流する。これは船であるから、大砲は六門以上、さらに火薬や鉛玉も相当運ばれたであろう。
六門の大砲は、戦では二門ずつ別々にセットされた三段構えのスタイルで、二門ずつ時差をもうけて発射されたと思われる。だから、大砲は休みなく西軍の石田三成の本陣や大谷軍に打ち込まれたのではあるまいか。
一方、中仙道からは息子徳川秀忠の二軍が大砲六門を木曽駒五平の荷車で運んでいた。その内数門は、長野県の六文銭旗印のつわものぞろい真田軍の抑えにも用いられた。真田軍が中仙道から関ヶ原に進軍するのを抑えることは重要な課題でもあった。一方、無事に中仙道から運ばれた大砲は、東軍の井伊軍の特殊部隊でもある忍者部隊甲賀衆に与えられて、敵の陣地から2キロメートルぐらいのところに設置されて、彼らの用意していた大型の火縄銃を持った甲賀は朝霧に紛れて敵陣500メートルまで接近した関ヶ原合戦の朝の様子である。
大型の火縄銃は火薬も二倍は入るので少なくとも弾丸は1キロメートルぐらいは飛んだであろう。その大型火縄銃を持った忍者部隊甲賀衆が朝の8時ごろに関ヶ原合戦の先陣をきるように敵陣に打ち込めば、火縄銃の爆音が関ヶ原の静寂な朝もやに響く。甲賀衆が後方に下がれば、用意された大砲が火をふき白い爆炎の煙が舞い上る。同時に家康の本陣にいる按針の大砲隊も6門のキャノン砲で石田三成の本陣をめがけて打ちかける。
静寂な朝もやが晴れ上がるころに、大音響がすさまじく響けば、東軍の陣太鼓や鐘がにぎやかに陣中に響く、東西どちらの軍も生き残りをかけた、壮絶な戦いの始まりであった。
石田三成の西軍が兵員の数では、圧倒的に有利であったが、古今東西の歴史の中でも、小軍が大軍に勝った戦の例は数多くある。
現在でも、ウクライナでロシアの大軍に対して、自国ウクライナの存亡をかけて戦っているではないか、しかしながら、これは長期戦になろうとしている。となれば、小国には不利かもしれない。しかし、ロシア国内での戦争反対の世論も大きくなれば、また、新たなロシア革命が起きることも考えられなくもない。それが雪と氷に閉ざされた長い冬の北国ロシアの宿命なのかとも思える。
とにかく、徳川家康のすごさは、日本の東西を二分するような大戦を短時間で終わらせたことであろう。
かつて、家康の若いころに天下一と言われた武田の騎馬軍団と静岡県三方ヶ原で戦ったことがあるが、武田軍にはとうていかなわず、ほうほうのていで自分たちのお城に引き返している。その時、恐怖のあまり、馬上で脱糞したといわれている。お城に引き返してすぐ絵師に、恐怖に打ち震える我が姿を描かせて、生涯座右に置いていたという言い伝えの日本画を見るために名古屋市にある尾張徳川美術館に30代のころに見学に行き、そのコピーした画を購入してしばらく我が家に飾っていたことがある。
戦争の怖さを一番知っていたのは、石田三成よりも徳川家康の方であったのであろう。そのことが、按針さんの船のキャノン砲を使って戦いを勝利に導いたのであろう。
関ヶ原合戦は、コロンブスが1492年に新大陸を発見してからほぼ100年後のこと、ヨーロッパでは近代が始まろうとしていた。
投稿千景
視点を変えると見え方が変わる。エドサトウさん独特の視点で世界を切り取る連載コラム「投稿千景」。
これまでの当サイトでの「投稿千景」はこちらからご覧いただけます。
https://www.japancanadatoday.ca/category/column/post-ed-sato/
日本語教師 矢野修三
日本語教師として、日本語は難しいなどと、決して口には出したくない。でも、確かにいろいろ難しさはある。その一つが「漢字」。こんな複雑な文字に、中国文化圏以外の国の学習者はなかなか馴染めず、学習意欲も湧いてこない。
まず、漢字にはいろいろな読み方があること。表音文字のアルファベットなどでは考えられないが、はるか昔、中国から伝わった表意文字の漢字には音読み(中国式発音)や訓読み(日本式発音)があり、複数の読み方があるのは致し方なし。
さらに、送り仮名によって読み方や意味が変わってしまうなど、日本人でも戸惑うことがあり・・・、生徒にとっては超難解である。しかし日本語をマスターするには、「漢字」は避けて通れず、何とか頑張ってもらいたい。でも漢字に面白さを見いだす生徒もおり、うれしい限り。
そんな漢字に興味を持ち、前のエッセイ「日光は結構です」を読んだ上級者から、今度日本に行ったら、ぜひ日光に行きたいですが・・・、「日光を訪ねる」と「日光を訪れる」と、どちらがいいですか、どんな違いがありますか、こんな質問が舞い込んできてうれしいやら戸惑うやら。
確かに、この「訪」だが、送り仮名によって「訪(たず)ねる」と「訪(おとず)れる」と読み方が変わるし、意味も若干違いがあり、とても厄介である。
漢字指導に決まりなどないが生徒に合わせて、いろいろ工夫を凝らしながら・・・。この「訪」も先ずは音読みの「訪問する」を。さらにレベルが上がるにつれ、訓読みの「訪ねる」や「訪れる」も教えたくなる。すると違いが気になる。英語ではすべて「visit」であろう。でも日本人は習った記憶などないが、母語として何となく見事に使い分けている。
先ず「訪ねる」だが、ある目的を持って人や場所に行く行動に。「訪問する」とほぼ同じで、「田中さん」や「○○会社」を訪ねる、である。一方「訪れる」は主に観光地などへの行動に。「壮大な景色のバンフを訪れる」などで、確かに「田中さんを訪れる」はチト違和感あり。でも「宅」を付け「田中さん宅を訪れる」は違和感なし。うーむ、なるほど。
そこで、「日光」は場所だから「日光を訪れる」のほうがふさわしいね、と彼に説明した。でも、日光に行って「徳川家康公」に会いたい、そんな思いが強ければ・・・、「日光を訪ねる」も結構なのでは。うーん、ごもっとも。生徒にはあまり気にすることないよ、と教えたい。
しかし「訪れる」しか使えない表現もあるので要注意。「何か待ち望んでいる状況がやってくること」。例えば「季節」や「平和」など。「やっと春が訪れた」や「訪れる」の名詞化した「訪れ」を使って「木の葉が色づき、秋の訪れを感じる」など。単に「春や秋が来た」よりは、とても趣のある表現になり、使いこなせれば上級レベルの証(あかし)で、教師冥利に尽きる思いでである。
加えて、悲惨な戦火が一日も早く収まり、全世界に「平和が訪れる」。そんな日を願うばかりである。
「ことばの交差点」
日本語を楽しく深掘りする矢野修三さんのコラム。日常の何気ない言葉遣いをカナダから考察。日本語を学ぶ外国人の視点に日本語教師として感心しながら日本語を共に学びます。第1回からのコラムはこちら。
矢野修三(やの・しゅうぞう)
1994年 バンクーバーに家族で移住(50歳)
YANO Academy(日本語学校)開校
2020年 教室を閉じる(26年間)
現在はオンライン講座を開講中(日本からも可)
・日本語教師養成講座(卒業生2900名)
・外から見る日本語講座(目からうろこの日本語)
メール:yano@yanoacademy.ca
ホームページ:https://yanoacademy.ca
「ある男」「マチネの終わりに」などの小説で知られる平野啓一郎氏が、“What am I?”「私とは何か?という問い」をテーマにブリティッシュコロンビア大学(UBC)アジアンセンターで3月18日に講演した。
当日は英語での講演のあと質疑応答の時間があり、著書や作家活動、アイデンティティについてなどの質問があった。講演の後には参加者が平野氏と直接話したり、サインを求めたりできる時間も設けられ、ファンにとっては楽しいひと時となった。
講演会は、日本ペンクラブ、UBCアジア研究学科、国際交流基金トロント日本文化センターの共催。
講演の翌日、3月19日にバンクーバー市内で話を聞いた。
前編の「バンクーバーの印象や講演会について」に続いて、後編を紹介する。
小説家・平野啓一郎氏バンクーバー講演「私とは何か?という問い」(前編)
「講演の中でも語ったロストジェネレーションについて」
(日本での「ロストジェネレーション」とは)世代の呼称です。1970年代生まれぐらい(一般的には1970年から1984年ぐらいに生まれた世代)の人たちのことをロストジェネレーションと呼んでいます。その特徴としては、雇用が不安定とか、貧困率が高いとか、所得が低いとか、非婚率が高いとか、統計的にはっきりと出ています。1990 年代後半から2000年代の初めぐらいまで(就職氷河期で)、非常に就職率が悪く、終身雇用制が一般的な中で就職機会を逃すとなかなかその後に良い職に就くことができなかったんです。
もちろん中には社会的に成功してる人もいますけど、雇用が非常に不安定ということが社会的なアイデンティティにおいては不安定化してしまってますから、なぜ自分は生きてるのかとか、そういう不安を抱く傾向は強いと思います。
昨日の(講演の)話でどこまで伝わったか分からないですけど、職業選択と自分のアイデンティティが非常に強く結び付けられていた世代なので、それにもかかわらず就職がうまくいかなかったってことでアイデンティティロス(喪失)に結び付いている。それに、所得も低いので生活水準も低いですから、そうすると前後の世代に比べて十分に満足のいく社会的なポジションもないし、消費もできないという中で、その間に政策的になんの対策も取られなくて。日本自体が90年代半ばからいまに至るまで、失われた30年という言い方もされてますから、その間に何にも政策的に救済もされなかったという意味も含めて「ロスジェネ」と言われてます。
「ロストジェネレーションの小説家としてのアイデンティクライシス」
世代的な経験として(アイデンティティクライシスは)ありますね。周りが、友人たちが、そうですから。その中に自分は属してるし、その世代の中の人間と目されてきましたし。だから、社会的に成功してもあまりそれを誇ることができないです。不況に陥ってる同世代人がたくさんいますから、成功してもあまり誇らしい気持ちもなれないっていうのはある気がしますね。
「ロストジェネレーションを政治や社会が放置した問題」
(ロストジェネレーション世代は)ポストもなにもないまま、貧困して、結婚しないまま、年を取っていきますから、その世代が高齢者世代になった時に日本の社会保障制度が破綻するっていうのがいまの社会の一番大きな懸念なんです。そういう風に目されている世代なんです。かなり大きな問題だと思います。
「いま関心があるテーマ」
テクノロジーの進歩が非常に急速ですから、その中で人間はどうなっていくのかということは興味があります。(急逝した母をAI技術で再生させた青年が主人公の「本心」を2021年に発表)。あとは気候変動とか、世界で戦争していますし、そういう意味では非常に心配してます。
「核について」
日本は核の傘論みたいな完全にアメリカが自分の国の核政策を肯定するために作り上げたみたいな机上の空論を今でもリアリズムと称して信じてる人たちが多いので、世界の安全地帯を考えればアピールしていくという方向に舵を切るしかないと思います。
戦略核兵器という大規模なものではなく、戦術核兵器として使われる小型のもの(小型核)があって、ロシアがいまウクライナに使うかもしれないって言われています。あれは広島長崎に落とされたぐらいの規模のもので、半径2、3キロ(メートル)ぐらいの規模です。それは(ロシアの)プーチン(大統領)みたいな人が世界地図を見た時に半径2、3キロって点ぐらいにしか見えないですか?
そうすると例えばウクライナであれだけめちゃくちゃに空爆して、それぐらいの規模の街を全滅させているような人にとっては歯止めがないと思うんです。それじゃあ実際に(ロシアが)使ったらアメリカが全面的な核戦争を始めるかっていうと、僕はやっぱりそこまで行かないんじゃないかと思うんです。
だから言われてるほど「核の傘」とか「抑止論」っていうのは現実的じゃなくて。そうなると、特に小型の核を誰かが使い出してしまえば使われ始めるんじゃないかってことで非常に強く懸念しています。
僕は、林京子さんという長崎で被爆された後に、ずっと創作活動を続けられた作家の方にお目にかかる機会があって。作品も非常に好きで、お話もうかがいましたけど、やっぱり抽象的に核兵器がいいかどうかとか、戦略的に考えるってことではなくて、その経験が一人の人間の人生を一体どれぐらい壊してしまったのかとか、その生き残った人たちはどういう人生を歩んだのかっていうようなことを見ていけば、とてもこれは容認できるような兵器ではないですし、そういう声を、そういう意味での現実主義っていうのが必要だと思います。
「メディアについて」
メディアってもの自体に非常に関心があるんですよね。特にレジス・ドゥブレ(Regis Debray)という人のメディオロジーという研究分野があって、それに非常に強い影響を受けたんです。なぜある作品は世に多く広まり、ある作品は広まらないかっていうのは、その作品が良いかどうかっていうことだけじゃなくて、具体的にそれを伝えるメディアという実体を持って存在している。それが大学組織というアカデミアの実体を持って世界中に伝わっていくのか、本の出版流通ということを通じて伝わっていくのか。とにかく、そういうメディアの実体があるということを議論してる本なんです。
そういう流通手段としてのメディアというのと、昨日の(講演で)少しお話ししましたけど、写真とか動画とか、本人がいて、それを媒介して伝える存在としてのメディアと、 2つの意味で非常に関心を持っていて。そういう意味では、それと共に自分の活動もあると思っています。そこに携わる人とか会社がどうかっていうのは、また別次元の話で考えていくべきだと思ってます。
「今後について」
この秋に短編集を出す予定で、4作ほど収録されます。ほぼ終わっていて、あとはその手直しをして秋の刊行の準備をするっていう感じです。
***
3月18日の講演内容や平野氏のホームページ、これまでのインタビュー記事などを参考に、トピックを選んで話を聞いた。「ロストジェネレーション世代の作家として」と自身を表現し、「日本文学について、自らの作品とアイデンティティの問題」を語った講演や短いインタビューから読者に伝えられることには限りがあるが、洋の東西を問わずアイデンティティという普遍のテーマについて再考するきっかけとなった。
平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)
小説家。1999年大学在学中に文芸誌「新潮」に投稿した「日蝕」により第120回芥川賞を受賞。
小説「決壊」(2009年芸術選奨文部大臣新人賞受賞)、「ドーン」(2009年Bunkamuraドゥマゴ文学賞)、「マチネの終わりに」英訳“At the End of the Matinee”(2017年渡辺淳一文学賞)、「ある男」英訳“A MAN”(2019年読売文学賞)やエッセイなど。また、「三島由紀夫論」(2023年)で小林秀夫賞を受賞した。
(取材 三島直美/写真 斉藤光一)
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「英語を使いこなし、世界の舞台に立てるように」を目標にして、画期的な英語教育シリーズ「英語の達人になるためには」(日本カナダ商工会議所の主催)の第1弾、計3日間には、各日2人の講師が登壇。春の陽光が徐々に感じられる2024年2月12日、3月3日、3月24日の3日間、賑やかなダウンタウンの会場SELC ランゲージ・カレッジは、若き参加者の情熱でさらに熱意と希望に包まれた。開始にあたり、在バンクーバー日本国総領事館・岡垣さとみ首席領事が英語を使って仕事をすることについてお話された。
Day 1:
「脳科学的アプローチで英語を自分の言葉にする」by ホール奈穂子(Gabby Academy代表)
「瞬発的に日本語を英語にする」by 加藤まり(Focus Education Services 代表)
加藤さんは「海外に住んでいるからといって、自動的に英語が使えるようになるわけではないのですが、効果的な学習方法で学び実践することが大事なんですね」と発言。
“どうしても、いったん頭で考えていしまい、出遅れる”という多くの人にありがちな課題に対して「自動的に英語が出てくるにはどうしたら良いか」を中心に、おふたりの講師は説明と実践練習を取り入れて展開。
Day 2:
「英語も幸せも人を愛することから」by 吉川英治(Boxers Without Boarders)
海外で講演と執筆を続ける“世直しボクサー”吉川さんは、世界を飛び回った体験を熱く語った。
「ネイティブの発音を真似る」by サミー高橋(SELCランゲージ・カレッジ校長)
ネイティブのように発音ができるようになるには英語力が高くなくても可能。英語特有の母音、子音の存在を知ることを通して、あとは練習を積むことだとわかりやすく手ほどきした。
Day 3:
「日本アニメ北米展開と映像翻訳」by 筆谷信昭(日本映像翻訳アカデミー(JBTA) LA代表)
東京、LAを拠点に日本映像翻訳アカデミー(JVTA)で映像翻訳者養成スクールを経営する筆谷氏は映像翻訳の市場やアニメの翻訳について、同社による字幕も上映しながらの講演。聴衆にはアニメファンが多く、活発な質疑応答が飛びかっていた。
「Global Career Development: ネットワーキング・インフォーメイショナル・インタビューで差をつける」by 高林美樹(AK Jump Educational Consulting Inc代表) &ブレア・ジョーダン(Highmont Advisors Inc代表)
カナダでの就活の際に必須なコネクションの作り方を披露。「見栄えの良いレジュメを作成、応募するだけでは採用される可能性は低い。いかにコネクションができるネットワークを作り、採用担当者にインフォーマルな形で会って、話を聞くことができるかが鍵だ」とブレアさん。
どのセミナーにも、英語学習者が、違う角度から、それぞれの持つ英語力に、より一層磨きをかけ、実践で英語が活かせるようになるための有益なヒントが数多く散りばめられた。
(記事寄稿:日本カナダ商工会議所)
日時 5月25日(土)、26日(日) 11時から5時まで
年一度のArt Walk 今年 32年目を迎えました。今年は70人のlocal artistsが参加しています。上記の両日 地図に載っている artistsの家、studio がオープンされますので自由に訪ねてみてください。地図は最寄りのcommunity centre にprintされたものが置かれてありますがポスターの下のQRコードかemail address でご覧いただけます。
ご質問がありましたら 長井 あずみ 604-736-4461
あるいは azuminagai@gmail.com にご連絡ください
待望の「SHOGUN」が2024年2月からディズニープラスで始まった。主演の真田広之さんをはじめ豪華キャストによるテレビシリーズの撮影は、2021年からバンクーバー近郊で行われた。
今回は撮影中にバンクーバーに滞在していた原田徹監督へのインタビューを紹介する。2022年5月、バンクーバー市内で話を聞いた。
***
映画監督、また舞台演出家として活躍してきた原田徹監督。カナダでの「SHOGUN」撮影では、「テクニカル・スーパーバイザー」としてバンクーバーに10カ月あまり滞在することになった。「いろいろなご縁があったおかげです」と振り返る。
原田監督が、「SHOGUN」の撮影に参加のためバンクーバー国際空港に着いたのは2021年8月15日。さっそくダウンタウンの水辺に立った。「晴れた空の下、真っ青な海。向こうにノースバンクーバーの山並みが見えてきれいだった」と初印象を語る。
日本でもカナダでも新型コロナウイルス蔓延中。海外で長期滞在になることに不安があった。カナダ滞在ビザの取得も遅れていた。飛行機の予約もできずにいたが、8月13日、ビザが下りた。徹夜で詰めた荷物を持って空港へ。朝一番のPCR検査を受け、バンクーバーへ向かう機内に収まった。
縁のないカナダだと思っていたが、出発前になって、友人や京都の行きつけのレストランからのつながりが、バンクーバーまで続いていることがわかった。「ご縁ですね」。
バンクーバー島のトフィーノの撮影現場に立って見渡すと、浜辺も岩場も日本の風景に近い。波が強いことも似ている。日本を舞台にした撮影にはうってつけだ。
「テクニカル・スーパーバイザー」。原田監督の「SHOGUN」撮影現場での役どころだ。17世紀の日本を舞台にした作品なので、登場人物の様子や動き、家屋や城の美術的な面も、当時の日本のように見せなくてはならない。それを原田監督がチェックし、必要な修正を指示する。
作品の主な出演者は、日本の俳優がバンクーバーに来て演じる。一方、武士・武家の妻・漁村の人々など多くのエキストラは、バンクーバーで日系人を募集した。ところが、正座や、すり足は、生活習慣の違う日系カナダ人にはなかなか難しい。さっそく原田監督の目が光る。なんとか難行苦行に耐えたエキストラに、「長時間よくがんばってくれました」と感謝する。
武士の着物には、刀が落ちないように帯を巻かねばならない。そこで、日本から時代劇衣装の着付けのベテランが呼ばれ、カナダ人衣装部の20数人に講習会。スマートフォンで撮った手順を見ながら、カナダ人らは武士の着付けに取り組んだ。「刀が落ちなくなりました」と原田監督、満足げ。
壺を置けば北米人は花を生ける。「壺には花は生けない」と一声。
畳の上で草鞋を履いたままだと、「はだしで」とまたもや監督の声が飛ぶ。「説明して、やっとはだしになってもらいました」
日系人を含め北米のスタッフと10カ月の長丁場だったが、日本の文化・習慣を説明することで、違いを理解してもらい、そのうち楽しんでもらえるようにもなった。すでに撮影した場面の撮りなおしも出てきた。よりよいものを作ろうというスタッフの気概からだ。
映画「バンクーバーの朝日」は、原田監督が教える大阪芸術大学で教え子であった石井裕也さんが監督だ。この映画には、他にも原田監督の知り合いや、「SHOGUN」スタッフとのつながりがある。ここにも「縁を感じる」と原田監督は言い、Asahiのロゴが入った帽子や布製バッグを披露する。バンクーバー滞在中の2021年9月、「朝日」のレガシーゲームを見に行った。翌22年3月には、元選手の上西ケイさんの100歳の誕生会に招待され一緒に祝った。「楽しい思い出」と顔をほころばす。
日本に家族が一時帰国したとき、自宅で飼っているペットをバンクーバーに連れてきた。「パン」という名前のチワワで、撮影現場にも連れていくと、スタッフのIDを首にかけてもらえた。パンはかわいがられ、監督とスタッフとの間の潤滑油のようになった。監督自身にとっても、パンの存在は癒しになった。「バンクーバーは、犬を連れて歩いている人が多いことも気に入りました」と、身を乗り出して話す。
海外で規模の大きい作品の制作に携わったことについて原田監督は、「チャンスに恵まれた」と言う。そして、日本とカナダの撮影現場では、いろいろな違いがあることを知った。「ハロウィーンやクリスマスの衣装を着けたスタッフとの仕事は愉快でした」。違いをおもしろいと思えるようになった。
「コロナ禍では、感染が心配なうえ、国際間の往来がままならないことは不便でした。でもカナダの日系の方々が参加してくださったことで、作品の制作が可能になりました」と感慨深げに語る原田監督。黒地に白く「将軍 SHOGUN」のロゴがある帽子が似合っていた。
原田徹(はらだ・とおる)
大学在学中、8ミリ映画「午後の幻想曲」がヒロシマ国際アマチュア映画祭に入選。
卒業後、助監督として活動を開始。篠田正浩、深作欣二、五社英雄、勅使河原宏、黒木和雄、工藤栄一ら日本映画を代表する数々の監督につく。
1993~94年、文化庁在外芸術家研究員としてハリウッドに滞在。
1992年、監督デビュー。京都の太秦を拠点に時代劇に携わる。「風車の浜吉」「七衛門の首」「八丁堀捕物ばなし」「必殺仕事人2009」をはじめ多数。
現在、大阪芸術大学客員教授、日本映画監督協会理事。
(取材 高橋文/写真 斉藤光一)
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日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。
オタワの5月は、街中にチューリップが咲き誇り、春爛漫です。そして、街には音楽が溢れています。鼻歌を口づさむ大使館職員も公邸スタッフも少なくありません。
そこで、今回の「音楽の楽園」は、とてもカナダ的な天才ピアニストです。ヤン・リシエツキです。何故、カナダ的と記したかと言えば、全く私事で恐縮なのですが、5年ほど前のことで、私がニューヨークで勤務していた頃の記憶があるのです。
非常に親しくしていた音楽好きのアメリカ人の友人が、「音楽ファンならば、絶対にこの若い “ポーランド人ピアニスト” に注目しておくべきですよ。発音しにくいと思うけど『リシエスキー』と読みます」といって、2018年にオルフェウス・オーケストラと共演したリシエツキの新作「メンデルスゾーン/ピアノ協奏曲第1番、第2番」をプレゼントしてくれたことがありました。それまで、リシエツキの事は全く知りませんでした。初めて聴いた時から、そのCDは、愛聴盤の仲間入りをしました。そして、私はつい最近まで、リシエツキはポーランド人だと思っていました。最初に友人が「ポーランド人」と紹介してくれたことが大きかったのですが、ショパンを生んだポーランドの血が、リシエツキにも流れているのだと思って彼のCDを聴いていたのです。
しかし、或る時、リシエツキは、ポーランド移民の両親のもとに、アルバータ州カルガリーで生まれたカナダ人だと知りました。カナダ生まれのカナダ国籍。でも、リシエツキは、両親の故国の歴史・文化・生活・個性を自然に受け継いでいます。音楽好きの私の友人が躊躇うことなく「ポーランド人」と言う程にです。それは、ある意味、間違っていないかもしれません。
それこそ、カナダの多文化主義です。ポーランドであれ日本であれケニアであれ、自らの家族が受け継いで来た一切合切をありのままに維持し、誇りを持ってカナダ人としてカナダで生きる。北米大陸の北部は、何千年もの間、先住民の楽園でありました。1497年のジョン・カボットのニューファンドランド来訪から現代のカナダに直結する歴史が始まりますが、その過程で育まれてきたカナダの「お国柄」です。様々な葛藤の末にピエール・トルドー首相が提唱した、カナダのアイデンティティーの核心と言えるでしょう。
ヤン・リシエツキは、1995年3月にカルガリーで誕生。5歳から、カルガリーにある伝統校マウント・ロイヤル大学に付属する音楽院でピアノを学び始めます。
2004年、9歳にして、カルガリー・シビック・シンフォニーと共演します。演目は、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番ニ短調K466でした。ベートーヴェンが大変に好きだった曲としても知られています。モーツァルト28歳の傑作で、現存する27曲のピアノ協奏曲のうち2曲しかない短調の最初の作品です。因みに、もう一つは24番です。技巧的にも勿論大変ですが、あのデモーニッシュな感覚の表現には、技巧を超えた音楽性が必要です。それを9歳の小童が演奏したのです。恐るべし。但し、これはほんの小手調べでした。
翌2005年、10歳の時には、カルガリー・フィルハーモニー管弦楽団とメンデルスゾーンのピアノ協奏曲第1番ト短調作品25を共演しました。その夜、カルガリーのジャック・シンガー・コンサート・ホールで、第2楽章アンダンテの哀愁の旋律を奏でる神童を聴いた聴衆は、ピアノの女神の降臨を体験したに違いありません。
2006年、11歳で、首都オタワの国立芸術センター(NAC)にデビューしました。ピンカス・ズッカーマン指揮のNAC管弦楽団の胸を借りて、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番変ロ長調作品を弾き切りました。演奏終了後の楽屋での模様をリシエツキは良く憶えていているそうです。ズッカーマンも楽団員も誰一人として、リシエツキの年齢を問題にせず、一人前の音楽家として扱ってくれて、対等な立場で、音楽のことや演奏のことについて話したというのです。これが縁となり、リシエツキはNACが若手音楽家のために主催するサマー・ミュージック・インスティテュートにも参加。ピアノ独奏、室内楽、協奏曲について実践的に学びました。
2008年、13歳となったリシエツキ少年の飛翔は加速度が増し、カナダの国境を超えます。ニューヨークのカーネギーホール、パリのサル・コルトー、ドイツ、日本、それから両親の故国ポーランドへと舞台は世界へと広がっていきます。
デビューCDは、2010年にポーランド国立ショパン協会からリリースした、ショパンのピアノ協奏曲第1番と第2番です。録音は、前年と前々年の「ショパンと彼のヨーロッパ」音楽祭の時に行われました。ショパンがこの2曲のピアノ協奏曲を書いたのは、1830年。ワルシャワ音楽院の学生時代です。初恋の相手コンスタンチア・グワトフスカへの思い、パリへの憧れ、ロシアに蹂躙される故国への思い。それらに引き裂かれる心象風景を音楽で描いています。戦争と革命の時代にあって、言葉に置き換えられない心の動きと情念が溢れています。20歳のショパンが持てる全ての楽想と技量を導入して書いたピアノ協奏曲の最高峰を弾く中学生のリシエツキが鮮やかに刻まれています。
そして、翌2011年には、クラシック音楽の最高峰ドイツ・グラムフォンと専属契約を結びます。この時、弱冠16歳です。グラムフォンからの第1弾は、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番と21番です。特に、20番は9歳の時に地元カルガリーで初めてオーケストラと共演した思い出の曲です。指揮は、ピアニストとしても高名なクリスチャン・ツァハリアス。この時、61歳です。孫を見守るような心境でしょうか。名門バイエルン放送交響楽団がしっかり支えます。
また、2011年は、リシエツキにとってカナダを意識する年でもありました。地元カルガリーの高校を卒業して、高等教育に進む時のことです。特に、ドイツ・グラムフォンとの契約が発表されたことで、世界中の名だたる音楽院からフル・スカラーシップのオファーが来たそうです。が、彼が選択したのは、トロントの「グレン・グールド音楽院」でした。カナダを拠点にして、最高の教育と支援を受けられることが理由だったと語っています。公演旅行で多忙な日々で、個人教授と試験はキャンパスに赴き、それ以外の授業は通信教育だったといいます。その上で出来るだけ地元カルガリーで時を過ごしたいのです。
ヤン・リシエツキは、「コンクールに出る必要の無かったピアニスト」と言われています。確かに、コンクールの存在意義は、新しい才能の発掘にあります。9歳にしてオーケストラと共演して以来、次々と大きな機会を得て、その度に、期待を裏切らぬどころから、進化し続けるリシエツキ少年には、コンクールは不要だったのです。
2011年は、16歳で高校を卒業しグレン・グールド音楽院に進学した年です。この年だけで、年間70回の公演を行なっています。既に、超売れっ子でした。
2013年のボローニャ音楽祭では、18歳になったリシエツキは、急遽、マルタ・アルゲリッチの代役として登場し、巨匠クラウディオ・アバド指揮でベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を見事に演奏しました。あのアルゲリッチの代役です。リシエツキの評価が一気に高まった時です。年齢ではなく、演奏の内容で聴衆を魅了したのです。このエピソードは、かつてチェロ奏者だったトスカニーニが、急遽代役として指揮をして運命の扉が開いたのを思い出させます。真の実力が露わになる瞬間があるのですね。
最近では、年間100回以上の公演を行なっています。世界中の名だたる指揮者、オーケストラと協奏曲を演り、ヨーヨー・マらとは室内楽を共演しています。レコーディングも積極的に行なっています。グラムフォンからは10枚リリースしています。既に、歴史に残る傑作を残しています。ベートーヴェンのピアノ協奏曲全5曲を、アカデミー室内管弦楽団との共演で、2018年12月2日から6日まで5日連続で、1日1曲、ベルリンのコンチェルトハウスでのライブ録音盤です。聴衆を前に、驚異の集中力で、陰影豊かで濃密にして美しき音楽の楽園を生み出しています。この時、リシエツキは、弱冠23歳です。この先、どこまでいってしまうのでしょうか?
2011年10月にリシエツキは来日し、バッハ、ベートーヴェン、リスト、メンデルスゾーンを演奏しています。その時のインタビューがABCクラシック・ガイドに掲載されているのですが、非常に示唆に富んでいます。幾つか、引用させて頂きます。
「カナダにはヨーロッパのような歴史はありません。本当の意味でのカナダ人というのは非常に少数で、ほとんど何処からか来たカナダ人ということになります。マルチ・カルチャーな国であり、誰も、あなたが何処から来たかという事など気にもしていないと言う感じが私は好きです。とても人々にあたたかい国でみんな優しいのです。」
「人々は、ショパンを演奏するにあたって、ポーランド人であることで演奏に違いがあるか?という質問をします。そして、皆さんはYesという答えを期待していると思います。ですが、答えはYesでもあり、Noでもあります。ポーランド人であると言うことが全てではないのです・・・ポーランド人としての血が影響するとは信じていません。私はより良くポーランドの事を知ろうと思いますが、それは血によるものではありません。ショパンは大好きです。でもこれは、私がポーランドの血を引くからではなく、偉大な作曲家だからです。」
「カナダ人は、カナダ人であることを意識するのを、ちょっと面白い方法でしているかもしれません。唯一皆んながカナダ人である事を誇るのは、7月1日のカナダ・デーです。それ以外の日は、自分たちは国旗を愛し、国を愛しつつも、大声で「俺たちはカナダ人だ、行け行けカナダ!」と叫ぶことはありません。そういう意味では、静かにカナダ人である事を楽しんでいると言えます。」
16歳のカナダ人天才ピアニストの率直な気持ちが表れています。
リシエツキは、今年29歳です。物語は、始まったばかりです。それでも既に巨匠の仲間入りをし、公演に録音に超多忙な日々です。
リシエツキを見て聴いていると、同じポーランドの生んだ巨匠アルトゥール・ルビンシュタインを思い出します。1982年に95歳で大往生した20世紀を代表するピアニストは、膨大な録音と幾多の名演と人間臭いエピソードを残しました。1894年に7歳でモーツァルトを弾きデビューし、最後の録音は1976年4月23日、89歳、ベートーヴェンのピアノソナタ「狩」でした。
人生百年の21世紀、カナダが生んだ若き巨匠がどんな未来を描いていくのか楽しみです。
(了)
山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。
山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身
エドサトウ
日本名三浦按針がオランダの東インド会社の航海士として帆船のガレオン船に乗り、アジアを目指して航海してくるのであるが、仲間の船とは離ればなれになる。彼の船も、また嵐にあい航行不能となり東シナ海の海をただよう難破船となる。船の仲間たちも多くは病死をしたのであろうか、今は十名にも満たない船乗りだけとなり、わずかな食料と雨水で飢えをしのいでいたが、やがて船は黒潮にのり鹿児島沖に到達する。船は瀬戸内海の満ち潮に吸い込まれるように豊後水道を北上して、大分の小島にたどり着いたのは関ヶ原合戦のあった1600年春のことである。
これを知った北九州の大名であった小早川秀秋は徳川家康にいち早く「南蛮船、大分沖の小島に漂着、難破船にて数名の生存者あり候」と知らせている。家康はこの事を知ると素早く家康の名代を送り、簡単な応急措置で船を修繕すると西軍の手が届かない江戸に曳航させている。家康が興味を感じていたのは、その火器類の大砲や火薬、火縄銃の鉛玉などであった。この先、大戦をするならば玉の原料の鉛とか火薬に必要な硝酸などを大量に準備せねばならず、もしこの船の火器類が利用できれば幸運と言わねばなるまい。西欧の文化に興味を感じたのであろうか、彼は、英国人の按針から、個人的に数学などの学問を習っている。
彼の盟友であった織田信長や豊臣秀吉が海外との交易や文化に興味を示したように、徳川家康も南蛮人である按針に興味をもったのであろう。当時、火縄銃の鉛玉の原料は東南アジアのタイあたりから輸入されていたから徳川家康も密かに多くの弾薬を用意する必要があり、その意味で按針は大切な人材であったと思われる。
おそらく、三浦按針のガレオン船の16から20門の大砲がなければ、関ヶ原合戦の東軍の勝利は不可能であったかもしれないというのが小生の私見である。
しかし、この帆船から接収した大砲を江戸から戦場になるであろう関ヶ原までの距離約450キロメートルの中仙道の山道の街道を運ぶことは大変なことである。東北に鞍替えで移動した石田三成の盟友上杉景勝は謀反の疑いがあるとして、家康は彼を攻めるのであるが、この時も船の大砲キャノン砲は数門運ばれたかもしれないが、これくらいの距離であれば、馬で運ぶこともできたかもしれないが、さすが山道の中仙道を大砲を運ぶのは至難の業であったろうと思われる。
この時、江戸の町で今でいう運送業をしていた木曽駒五平なる者に会ったのではないかと思われる。木曽駒五平は、日本に昔からいたという小柄の木曽馬を使って運送業を手広く行っていた。おもに建設ブームで賑わう江戸へ建築の材料となる木曽の檜などの材木を運んでいたと思われる。だから結構、羽振りのよい人物であったのであろう。
そこへ家康の配下のものと一緒に按針が訪ねて行く。按針にしてみれば、木曽馬に興味があり、それに大砲を引かせるぐらいのことを考えていたのかもしれないが、五平の話を聞けば、彼の大八車に大砲を分解して、弾薬なども一緒に運ぶことにしたのであろう。「旦那さん、山道は危険ですし、大変難儀な仕事でございます。江戸の家康様のことは是非とも、私どももお力添えしたく思います。」と五平は言うとニコニコと軽く笑った。この時、按針は木曽駒五平の娘を紹介されている。この縁で後に、夫婦となり、現在の横須賀あたりの天領に徳川家の旗本として領地を拝領して、三浦家は江戸時代、代々続いているのも、按針の不思議なところである。
投稿千景
視点を変えると見え方が変わる。エドサトウさん独特の視点で世界を切り取る連載コラム「投稿千景」。
これまでの当サイトでの「投稿千景」はこちらからご覧いただけます。
https://www.japancanadatoday.ca/category/column/post-ed-sato/
私的には一年で一番良い季節になったバンクーバー。海辺をちょっと散歩するだけで幸せを感じられる毎日が冬の憂鬱をあっという間に忘れさせてくれます。そして先日のオーロラ!自然が作り出す光の美しさは本当に神秘的で、ただひたすら空を眺めて感動するというまるで子どもの頃に戻ったような楽しいひと時を過ごせました。
さて、今回ご紹介する映画「We Grown Now」(Minhal Baig監督)。1990年代シカゴに実在した低所得者向けの公営住宅「カブリーニグリーン」を舞台に、二人の12歳の少年の視点から見る子どもらしい日々と厳しい現実社会の物語です。
生まれた時からずっと友達の二人、マリークとエリック。公営住宅の隅から隅までが遊び場で、捨ててあるマットレスを集めて飛び込んでみたり、壁のシミやひび割れを見ながら想像を膨らませたり、と貧しいけれど身の周りに楽しいことを見つけて共に遊ぶベストフレンド。一見ごく普通の子どもらしい二人の日常ですが、周囲には犯罪、ドラッグ、死がすぐそこにあるような環境。嫌でも現実の厳しさと将来への不安が少しずつ二人にも見えてきます。
一生懸命に働き愛してくれるシングルマザーの母と祖母、妹がいるマリーク。自分は貧しいけれど子どもには良い未来を与えたいと願う父を持つエリック。社会では危険な場所と見られているこの公営住宅でも、二人にとっては大切な家族がいる自分たちが育った家なんですよね。そこで子ども時代を過ごす二人を見守るストーリーと映像は温かく、どこかノスタルジックなのが印象的でした。Baig監督は撮影に先立ち、2011年に取り壊されたこの住宅の元住人たちに多くの取材をして脚本を作り上げたとか。そこには外からは見えない一生懸命に生きる家族の物語がたくさんあったのだろうな、と感じました。余談ですが「ガブリーニ・グリーン」はホラー映画「キャンディ・マン」(ニア・ダコスタ監督2021年)でも舞台になっていて「貧困と犯罪の温床だった住宅」として知られています。
とにかく子役二人の演技があまりにも光っていて。彼らの澄んだ瞳と笑顔を見ているとこちらも楽しい気分になるし、不安そうな顔を見れば胸が締め付けられそうになってしまうし。そして二人が子どもなりに現実を受け入れてゆくシーンではこちらも涙が・・・。
子どもが安心して笑っていられる世界、大人の現実に左右されずにゆっくりと成長してゆける世界。そんな世界について考えてしまった映画でした。あとチェロの調べが心地よいサントラもとても素敵なのでそこも楽しんでください。
バンクーバーではInternational Villageで上映中です。
Lalaのシネマワールド
映画に魅せられて
バンクーバー在住の映画・ドラマ好きライターLalaさんによる映画に関するコラム。
旬の映画や話題のドラマだけでなく、さまざまな作品を紹介します。第1回からはこちら。
Lala(らら)
バンクーバー在住の映画・ドラマ好きライター
大好きな映画を観るためには広いカナダの西から東まで出かけます
良いストーリーには世界を豊にるす力があると信じてます
みなさん一緒に映画観ませんか!?