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Naomi Mishima

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日本人薬剤師の佐藤厚さん、BC州薬剤師協会のBowl of Hygeia賞を受賞

2026年5月2日、バンクーバー市で行われた授賞式で。佐藤厚さん(左)と賞のプレゼンターを務めたロンドンドラッグス薬局部門GMのChris Chiewさんと一緒に。Photo courtesy of The BC Pharmacy Association
2026年5月2日、バンクーバー市で行われた授賞式で。佐藤厚さん(左)と賞のプレゼンターを務めたロンドンドラッグス薬局部門GMのChris Chiewさんと一緒に。Photo courtesy of The BC Pharmacy Association
授賞式で受け取った表彰盾を手に、佐藤厚さん。写真提供 佐藤厚さん
授賞式で受け取った表彰盾を手に、佐藤厚さん。写真提供 佐藤厚さん

 ブリティッシュ・コロンビア(BC)州薬剤師協会(BC Pharmacy Association)が5月2日、地域に貢献した薬剤師を表彰する“Awards for Excellence”の2026年受賞者8人を発表。当社でコラム「また、お薬の時間ですよ!」を執筆している佐藤厚さんが、Bowl of Hygeia賞を受賞した。同日、バンクーバー市で授賞式が行われた。記録が残っている限りでは日本人薬剤師の受賞は今回の佐藤さんが初めて。

 同賞は、コミュニティへの貢献が顕著だった薬剤師に与えられる賞という。佐藤さんはBC州サンシャインコースト地域の町ギブソンズのロンドンドラッグスで薬局のマネージャーとして毎日薬局に訪れる人々と向き合っている。

 今回の受賞について「このたびはBC Pharmacy Associationから地域社会への貢献を称える『Bowl of Hygeia賞』という、大変名誉ある賞をいただき、誠に光栄に思います」と喜んだ。

2026年5月2日、バンクーバー市で行われた授賞式で。佐藤厚さん(左)と賞のプレゼンターを務めたロンドンドラッグス薬局部門GMのChris Chiewさんと一緒に。Photo courtesy of The BC Pharmacy Association
2026年5月2日、バンクーバー市で行われた授賞式で。佐藤厚さん(左)と賞のプレゼンターを務めたロンドンドラッグス薬局部門GMのChris Chiewさんと一緒に。Photo courtesy of The BC Pharmacy Association

 「1999年3月に初めてバンクーバーを訪れて以来、その美しい街に魅了され、また当時は北米で薬剤師の役割が臨床志向に変遷していた時期ということもあり、私も薬剤師としてカナダで働きたいと強く願うようになりました。ただその道のりは平坦ではなく、国家試験の実地試験には3回不合格になるなど苦労もしました」と振り返り、「それでもあきらめずに薬剤師となり、また18年後にこのように私の仕事を評価していただけたことを、心からうれしく思います。これまで支えてくださったロンドンドラッグス、地域の患者さん、薬局チーム、そして長時間の勤務にも理解を示し、支えてくれた家族には深く感謝しています」と感謝した。

 同僚や患者など多くの人から受賞への祝福の言葉がSunshine Coast BC Canadaのフェイスブックを通じて寄せられている。

 佐藤さんが受賞したBowl of Hygeia(ボウル・オブ・ハイジーア)のハイジーアは、健康・衛生・病気予防を司るギリシャ神話の女神の名前に由来するという。

 ギブソンズで薬剤師として活躍する佐藤さんだが、BC州を中心とするカナダの日本語コミュニティでも、コラムを通してBC州の薬局や薬剤事情を発信するとともに、オンラインで個人的な相談にも応じている。国が違い、言葉が違うカナダで薬に関して不安を感じる日本人も多く、そうした人々にも丁寧に寄り添う活動は、国境を越えた地域社会への貢献となっている。

 BC薬剤師協会はBowl of Hygeiaの他に、Excellence in Patient Care、Collaborative Care、Pharmacy Leadership、Murray Dykeman Mentorship、Pharmacy Leadership、New Practitioner、Ben Gant Innovative Practiceの各賞も発表した。

(取材 三島直美)

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五つの小学校とその後の統廃合(福岡・東京・石岡・三条・東京)

福岡女子師範付属小学校(大濠公園で)
福岡女子師範付属小学校(大濠公園で)

佐伯洋子

 昭和15年4月に小学校に入学してから、昭和21年3月に卒業するまで、5つの小学校に通った92歳の年寄りです。
 信じられない、と言われそうですが、本当の話です。なぜかというと太平洋戦争のせいなのです。昭和19年になって空襲が激しくなり、学童疎開が始まった、その影響で、小学校5年生のわたしは茨城県石岡市の祖母の家に縁故疎開をしました。そして、終戦は父の郷里、新潟県三条市で迎えたのです。

 今、思い返すと、その頃の学校に必ずあったものは、奉安殿と二宮金次郎の銅像でした。そして、女学校では「日本の母」という石碑が校庭に立っていました。奉安殿(正式には奉安所₋金庫式奉安庫)は、正装の天皇・皇后の御真影(ポートレート)と教育勅語が収められていた神殿風の堅固な建物で、校庭の一角にあり、その前を通る時は最敬礼をし、朝礼の時にはまた、生徒一同恭しく最敬礼をしました。また、明治節(明治天皇の誕生日 十一月三日:今の文化の日)や紀元節(神武天皇が即位をしたといわれる二月十一日:今の建国記念日)、天長節(天皇の誕生日、当時は四月二十九日:今の「みどりの日」)には、そこから御真影と勅語を取り出して、モーニング着用、白手袋をはめた校長が恭しく、巻物になっている勅語を取り出して、教育勅語、開戦後は開戦の詔勅)という難しい詔を読み上げました。高学年になると、教育勅語は暗誦させられましたが、「朕(チン)惟(オモ)フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇(ハジ)ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」で始まる勅語を朗読するのです。
 この建物は、戦後ほとんど壊されましたものの、堅牢な建物なので、戦後は慰霊塔、平和塔、神社の社殿などに使われています。

 最初の小学校は父の任地である福岡県福岡市にあった福岡県女子師範附属小学校でした。大濠公園のすぐ近くにある木造の校舎で、体育館はありましたが、大濠公園の池の近くなので、いろいろな課外授業をしました。すぐそばには黒田如水以来の福岡城が建っていました。とても古びた木造の城で、歴史を知らなかった一年生の私にはただの板張りの屋敷でした。奉安殿がどこにあったのかは思い出せません。多分、女子師範の敷地のほうにあったのでしょう。この学校は戦時中に焼け、昭和18年(1943年)に福岡第一師範学校、昭和24年(1949年)の新制・福岡学芸大学になり久留米市に移転しています。

 昭和16年3月に父の転任で東京へ戻り、豊島区池袋第五小学校に転校しました。立教大学正門前にある学校で、コンクリートの校庭にプールのあるコの字型の木造二階建ての校舎でした。奉安殿と二宮金次郎の像は正面玄関の前にありました。コンクリートの上に立っている鉄棒から落ちて膝に怪我をし、その傷痕は今も残っています。開戦後、この小学校は、国民学校になりました。校舎は戦災で焼失しましたが、平成17年(2005年)に旧大明小学校と合併して、池袋小学校となっています。昭和20年、山田温泉に疎開した5人の生徒(同級生では、反り目さん、露無さん)は旅館の火災で亡くなりました。https://www.city.toshima.lg.jp/documents/2548/kataribe41.pdf

 生徒は学校近辺の子どもが多かったのですが、私は父の友人の家に寄留しての通学だったので、毎日、片道30分の道程を歩いて通いました。戦争が始まってからは集団登校で、通称、「お化け屋敷」近くの煙草屋付近に10人ほどの生徒が集まっての登校になりました。空襲が頻繁になってからは、防空頭巾を背負っての登校です。帰りは、ばらばらで、立教大学付属の神学校、その近くの料理学校、タイル屋、飴屋、下駄屋、バスの車庫、地蔵堂の商店街、墓石を彫る石屋で、出征軍人の標識のある家、城西学園でのグライダーの訓練、陸軍准尉が教官で、サーベルを腰に、いつも怒鳴っているのを眺め、蕎麦屋、千早町に住んでいた熊谷守一の家の前を通ってぶらぶらと帰宅していました。
 途中で友達の家に寄ったりしていましたが、今とは違って、親は心配もせず、私ものんびりと勝手に歩いていました。
 私の学年は、疎開後、卒業式が行われず、50年後の平成7年(1995年)にやっと卒業式が行われたというのを知りました。

 やがて、空襲が頻繁になり、学童疎開が始まり、母の実家のある茨木県新治郡石岡町(昭和29年‐1954年から石岡市)に縁故疎開しました。新しい通学先は、府中城の本丸跡に建てられていた当時、日本で二番目に生徒数の多い石岡国民校(現在、石岡市立石岡小学校)でした。石岡は、常陸国府のあった古い町で、恋瀬川が流れ、常陸総社神社があります。この学校は、当時、石岡の町にあった唯一の小学校でした。今も残る城門があり、土塁を上った所に木造とモルタルの校舎が幾棟か並び、奉安殿は土塁の麓に、その傍には二宮金次郎像がありました。
 生徒数は2000人と聞きました。全校生徒が校庭に並び、奉安殿を横に見て朝礼が行われました。木製の渡り廊下があり、とても大きな学校でしたが、5、6年生のための校舎と体育館の往復ぐらいで、校舎をめぐり歩くことは滅多にありませんでした。
 疎開先の家は、青木町にあり突き当りが若宮八幡宮、それから、二十三夜尊の御堂があり、傍らに大銀杏の木が立っていました。通りには文房具屋、塩の専売所、速水酒造、写真館、佃煮屋、肉屋、祖母の営む煙草屋が並び、生まれて初めての商店のある町での生活でした。
 昭和20年、空襲が激しくなった5月になり、危険だというので、父の郷里、新潟県三条市の四日町国民学校に転校しました。我が家の真ん前にある学校で、正面入り口の前に奉安殿と二宮金次郎があり、朝礼は体育館でありました。校内は裸足のため、辛い毎日でした。この学校は、2014年に廃校になり、敷地は三条市立嵐南小学校第二グランドになっています。
 8月15日、終戦となり、11月に帰京してから通ったのは千早町の家の近くの豊島区立長崎第五国民学校です。学校は昭和22年(1947年)豊島区立千早小学校となり、麦畑の中の学校は街中の学校へ変貌しています。この学校を昭和21年3月に卒業して、私の小学校遍歴は終りました。戦中の写真は皆無です。

 当時は国定教科書でしたので、多少の進度の違いはあっても同じ教科書さえ持っていれば、別に問題はありませんでした。

 困ったのは方言です。茨城では「ちくだっぺ」(嘘だろう)、三条では「鎮西八郎は頼朝のヲヂだ」のヲヂ(末の弟の意味)でwoとziの発音の違いが分からなかったのです。まさに、「疎開っ子」の悲劇でした。日常生活では、福岡での店先で声を掛ける時、「すみません、お願いします」ではなくて「モーシ(申し)」と言わなければならないことも経験しました。

豊島区立池袋第五小学校(二年生のクラス)右後ろに奉安殿
豊島区立池袋第五小学校(二年生のクラス)右後ろに奉安殿

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日系カナダ人物語「記憶を次世代へ」:キクコ・タサカさん「日系コミュニティへの思い」

Ms. Kikuko Tasaka/キクコ・タサカさん
Ms. Kikuko Tasaka/キクコ・タサカさん

キクコ・タサカさん

1939年ブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市スティーブストン生まれ
1942年グリーンウッドに移動、1958年頃にバンクーバーに戻る
父方は愛媛県、母方は和歌山県三尾村出身

グリーンウッドでの生活

 タサカさん一家は1942年にスティーブストンからグリーンウッドに移動した。父親は、強制収容前はスティーブストンで床屋をしていたという。「とても大きなすてきなビルだったけど、建ったあと移動させられたから」。タサカさんが3歳の時だった。

ブリティッシュ・コロンビア州東部アメリカとの国境近くにあるグリーンウッド。
ブリティッシュ・コロンビア州東部アメリカとの国境近くにあるグリーンウッド。

 グリーンウッドはブリティッシュ・コロンビア(BC)州中央南部、バンクーバーから東に約400キロメートルのアメリカとの国境に近いところに位置している。自己支援強制収容地の一つだが、他の収容地と異なり、強制移動させられる日系カナダ人を町として積極的に受け入れた。さらにカトリック教会のベネディクト・クイグリー神父やフランシスコ会の修道女も日系人の支援に大きな役割を果たしている。

 タサカさんは「悪いことは全然経験していないの」と話し始めた。グリーンウッドには大工が先に入り、ベッド、テーブル、イス、そして日本式風呂など生活に必要なものを作って準備していたと当時を思い出す。

 ただ「最初の年は寒かったの。バンクーバーは暖かかったけど、グリーンウッドは山の中だからすごく寒かった」。厳しい寒さは、軍の古いブランケットやユニフォームを買ってきて活用してしのいだ。「そうやって過ごしたのね、何もなかったから」。

 それでもグリーンウッドでの生活は楽しかった。学校もすぐに始まった。フランシスコ会の修道女が運営していた。「その学校もすごく良かったの。グレード8まであって。(就職のための)タイピングなども教えてくれたの」。

 町では日本の祭りもあった。「日本人は着物を着て、踊りもあった。日本人の人たちは芝居もしたりしてよかったよ」。町が積極的に日系人を受けて入れていたことで、日系人コミュニティができていた。

 「グリーンウッドの田舎に日本人が来てくれて白人の人たちは喜んでた。日本人が来てからカルチャーやいろんなことを教えてくれて、フェスティバルもしてくれて、いろんなことをしてくれたから、みんな良かったと喜んでた」。

 タサカさんの両親は強制収容が終了してもグリーンウッドから離れなかったという。「グリーンウッドみたいに良い町はないって言って喜んでね」。

バンクーバーでの差別を乗り越えて

 グリーンウッドで約15年暮らしたあとバンクーバーに戻ってきた。18歳くらいで仕事を探しにバンクーバーに戻る人は多かったと振り返る。「グリーンウッドに仕事がなかったから」。タサカさんもその一人だった。

 すでに1950年代後半になっていた。強制移動は1949年に終了。日系人は自由に移動ができた。それでもバンクーバーに戻ってきた当時の「差別だけは忘れられない」と言う。「こっち(バンクーバー)の人たちは私たちを下に見てたのね。みんなではなかったけど、いい人もいたけど。みんなで我慢した。我慢しかなかったのね。差別は本当に大変だった。差別されていると思ったら嫌だった。ひどい人もいたけど、しょうがなかった」。

 タサカさんは日系カナダ人二世の多くが日本語を使わないのは、差別も関係していると話す。「みんな(バンクーバーに)帰ってきた時は日本語を使いたくなかった。なるべく英語を使って。差別されているから日本人って見せたくなかったのね。その時はしょうがなかったのね」。いま二世の人たちと話すと「日本語を使っていたらよかったって」。後悔している人もいると感じている。

 三世のタサカさんは流暢な日本語を話す。グリーンウッドでは日本語を使っていた。「親たちは英語ができないから日本語を使っていたの」。それにグリーンウッドでは日系人が多かったこともあり差別を感じなかった。「でもバンクーバーに帰ってきた時は社会が違ったから日本語を使えなかったの」。

 それでもバンクーバーでは同年代で自分たちのコミュニティを作り、時々集まって、ダンスパーティや祭りを楽しんだ。「悪くなかったよ、差別はあったけど。我慢してがんばりました」。当時の友達は60年たったいまでも続いているという。

日系コミュニティへの思い

 「いまでも私の中では(自分は)日本人だと思っている。どこにいても。もう三世になるのにね」。父方の祖父が1890年に愛媛県から移民。バンクーバーの対岸にあるバンクーバー島南部に近い島ソルトスプリングス・アイランドでビジネスを手掛けていた。父親はその島で生まれた。母方の祖父は和歌山県三尾村出身。「私たち親から(日本の)良いところたくさんもらってるから。だからそれを絶対なくしたくないのね」。

 また日本から来る多くの日本人と関わっているタサカさんは「日本の人たちは、なんて言ったらいいのかな…英語で言うとKind、Considerate」、親切で思いやりがあると話す。カナダで生まれ、カナダで育ち、カナダ人とも多くの付き合いがあるが、「なぜか分からないけど、日本の人たちとの付き合いの方が居心地いいの。そんなことを言ったら怒られるかもしれないけどね」と笑う。

 タサカさんは隣組でボランティア活動をしている。隣組は1970年代に当時英語に不慣れだった一世や二世のシニアを助けるために設立された日本語ボランティア団体。いまでも、シニアを中心に日本語で多くのサービスを提供している。

 「きょう私はこのインタビューを日本語でしたかったの」。一つは日本語を話す勇気をなかなか持てない二世たちを応援する意味で。もう一つは、日系収容で苦労した一世、二世たちのことを知らない日本からの人たちに直接日本語で伝えるため。

 「時々、一世、二世の人たちの苦労が分からない人たちがいるの。だから移民してきている日本の人たちにも知ってほしいの、一世たちが経験したことを」。1942年から始まったカナダ政府による日系カナダ人強制収容政策、日本の人にも知ってもらいたいと語った。

(記事 三島直美)

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『Mile End Kicks』(チャンドラー・レバック監督)モントリオールの夏を舞台にした、20代女性の成長物語

Coutesy of TIFF
Coutesy of TIFF

 木々の緑が眩しく、バンクーバーはいよいよ美しさが増してきました。今回ご紹介するのは、これからの季節にぴったりな『Mile End Kicks』(チャンドラー・レバック監督)。おしゃれで音楽シーンも活発なモントリオールに移住した夏を舞台に描く、20代女性の成長物語です。今大注目のカナダ人女性監督が、前作『I Like Movies』に続き、若い世代の揺れ動く自己形成とカルチャーとの距離感を優しく描きます。2025年のトロント国際映画祭(TIFF)で注目を集めた作品が、やっと劇場公開を迎えました。

あらすじ

Coutesy of TIFF
Coutesy of TIFF

 主人公は24歳の音楽ライター、グレース・パイン。彼女はトロントで音楽批評の仕事をしながらも、「もっと刺激的な場所に行けば人生は変わる」という若者特有の幻想に突き動かされ、モントリオールへの移住を決めます。アラニス・モリセットの名盤『Jagged Little Pill』についての本を書くという、構想だけは立派な計画を掲げながら、実際にはインディーロックバンドの面々と出会い、曖昧な人間関係と不安定な生活に巻き込まれ自分を見失っていきます。

 レバック監督の前作『I like movies』が大好きで、楽しみだったこの作品。今回も「若いオタク気質の主人公が、カルチャーの世界で自分の居場所を探す」という構造や、「未熟な主人公が小さな失敗を繰り返す痛々しさ」を、かなり正面から描いている点が前作と共通しています。

 前作と大きく異なるのは、今回は主人公が、男性中心の音楽批評業界で成功しようともがく若い女性である点です。レバック監督はトロント国際映画祭で上演された際に「自分の若い頃の体験を元に作った」と話しており、「実は『I like movies』よりも前から構想があり、ずっと作りたかった作品」とその思い入れも語っていました。なので男性中心のカルチャー空間にいる若い女性への、見えない圧力や無意識の偏見などはレヴァック自身の経験も反映されているのでは、と思われます。

以前はTIFFでも働いていたというチャンドラー・レバック監督の挨拶に会場も大喝采でした。撮影 Lala
以前はTIFFでも働いていたというチャンドラー・レバック監督の挨拶に会場も大喝采でした。撮影 Lala

 この作品の魅力は、何よりも主人公グレースの危うさにあります。彼女は才能も観察力もあるのに、目の前の承認欲求や一時的な恋愛感情に振り回され、しばしば自分を傷つける選択をしてしまう。その姿は観客にとって時に苛立たしくもあるけれど、同時に驚くほどリアルです。若さとは、必ずしも正しい判断ができることではなく、間違いながらも進むしかない時間なのだなと、思わずにはいられません。若い人ならきっと共感できるでしょうし、そうでない人にとっては失敗ばかりした若い頃を振り返る、ほろ苦くも大切な思い出を見つめ直すような感覚になるのでは。

 一方で、彼女を取り巻く男性キャラクターたちは皆、やや単純化されて描かれているような気がして少し残念でした。意図的に(?)グレースの見る眼のなさを際立たせる役回りなんでしょうか、男性陣とのやり取りが若干退屈になっていた感も。その対比なのかルームメイトのマデレーンは、とても魅力的な人物なんですけどね。

 新しい街で、キャリアも恋愛も失敗を繰り返しながら成長してゆく女性の物語。(同じ国ですが)カルチャーショック的な面も描かれているので、留学生の方には自分の経験と重なるところが見つかるかも知れません。そして・・・『I like movies』を観た方は、アイゼア君もあのローレンスが大人になったような役で出ているのでお楽しみに!

 この映画の公開と同時に、Netflixではレバック監督作の「Roommates」の配信も始まりました。こちらも、イケてない女の子の成長を描いた作品で、北米の大学生活が垣間見れる楽しい一本です。カナダ出身のレバック監督。これからも、どんな作品を作ってくれるのか楽しみです。

TIFFのプレミア上映に来場したキャスト、スタッフのみなさん。撮影 Lala
TIFFのプレミア上映に来場したキャスト、スタッフのみなさん。撮影 Lala

Lalaのシネマワールド
映画に魅せられて

バンクーバー在住の映画・ドラマ好きライターLalaさんによる映画に関するコラム。
旬の映画や話題のドラマだけでなく、さまざまな作品を紹介します。第1回からはこちら。

Lala(らら)
バンクーバー在住の映画・ドラマ好きライター
大好きな映画を観るためには広いカナダの西から東まで出かけます
良いストーリーには世界を豊にるす力があると信じてます
みなさん一緒に映画観ませんか!?

さくらデイズ・ジャパンフェア2026、これからも日本文化の発信を

あっぱれよさこいバンクーバーのパフォーマンス。2026年4月11日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/日加トゥデイ
あっぱれよさこいバンクーバーのパフォーマンス。2026年4月11日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/日加トゥデイ

 さくらデイズ・ジャパンフェアが4月11日、12日にバンデューセン植物園で開催された。バンクーバー桜まつりの一環で毎年この時期に開催される日本文化を満喫できる2日間。今年はすでに葉桜となった緑の桜が出迎えた少し肌寒い春の植物園だったが、多くの人がさまざまな日本を堪能した。

第15回となる記念の年にさらなる日本文化発信の役割を目指す

開会式であいさつするバンクーバー桜まつり発起人のリンダ・ポールさん。2026年4月11日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/日加トゥデイ
開会式であいさつするバンクーバー桜まつり発起人のリンダ・ポールさん。2026年4月11日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/日加トゥデイ

 2005年から始まったバンクーバー桜まつりから4年遅れて始まったのがさくらデイズ・ジャパンフェア。開会式のあいさつで桜まつりの発起人リンダ・ポールさんは、ジャパンフェアが始まるきっかけがバンデューセン植物園にあったと話した。「バンクーバー桜まつりが始まって3年目に、ブリティッシュ・コロンビア州で初めて中国系カナダ人として副総督に就任したデイビッド・ラムさんがここで700人を前に宣言したのです」。その時には日本のプログラムと桜の植樹があったという。

 ジャパンフェアが正式に始まったのは2009年。第1回から実行委員長を務める塚本隆史さんは植物園の入り口前で約10店のベンダーから始まったと振り返る。今では約1万5千人が来場する桜まつりの一大イベントとなっている。

開会式で恒例の鏡開き。左から、バンクーバー市公園庁トム・ディグビー委員長、アン・ガスリー=ワーマンさん、在バンクーバー日本国総領事館・髙橋良明総領事、さくらデイズ・ジャパンフェア塚本隆史実行委員長。2026年4月11日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/日加トゥデイ
開会式で恒例の鏡開き。左から、バンクーバー市公園庁トム・ディグビー委員長、アン・ガスリー=ワーマンさん、在バンクーバー日本国総領事館・髙橋良明総領事、さくらデイズ・ジャパンフェア塚本隆史実行委員長。2026年4月11日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/日加トゥデイ

 「正直ここまで大きくなるとは思わなかった」と笑う。「今まで毎年実施することで精一杯で気が付いたら結果的に15回も続いてたって感じですね」。途中、バンクーバーオリンピックや新型コロナウイルス禍の影響で開催できなかった年もあるが、「一番は続けること」と断言する。

 「ここまで続けられたから、止めないようにこれからも続けていく方法を考えたい」と話す。その先にもっと人気が出てきて規模を大きくできるタイミングがあれば考えてもいいと言う。ただ「一番の目的は続けること。日本の文化を発信するジャパンフェアとして、日本の文化に興味を持ってくれるカナダの人がたくさん来てくれるのが一番うれしい」と語った。

バンクーバー日系ガーデナーズ協会によって造園された日本庭園。2026年4月11日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/日加トゥデイ
バンクーバー日系ガーデナーズ協会によって造園された日本庭園。2026年4月11日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/日加トゥデイ

 第1回から会場となっているバンデューセン植物園には今年、日本庭園が造園された。それまでは茶室だった場所が枯山水に生まれ変わった。担当したのはバンクーバー日系ガーデナーズ協会。伊澤敏之さんは「元々この場所で(茶室の時から)使われていた石や岩をなるべく再利用して完成させました」と説明。バンデューセン植物園とガーデナーズ協会をつないだのはジャパンフェア実行委員会だったという。日本庭園はこれからもバンデューセン植物園で楽しめる。

バンクーバー市の桜をメンテナンスするバンクーバー市公園庁

 バンクーバー市内の公園や施設を管理しているのは市の公園庁。選挙で選ばれた委員で構成されている。

バンデューセン植物園内にも多くの桜が植えられ、毎年ジャパンフェアとコラボする。今年は葉桜となっていたが春の趣を演出した。2026年4月11日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/日加トゥデイ
バンデューセン植物園内にも多くの桜が植えられ、毎年ジャパンフェアとコラボする。今年は葉桜となっていたが春の趣を演出した。2026年4月11日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/日加トゥデイ

 現在委員長のトム・ディグビーさんは3月27日にイエールタウンのデイビッド・ラム公園で行われたバンクーバー桜まつりの開会式で、バンクーバーで桜が広がったきっかけを紹介。この日も同様に多くのジャパンフェアファンの前で日本とバンクーバーの友好の歴史を紹介した。

 始まりは戦前に横浜市と神戸市からの桜500本の贈呈だった。現在では約4万3千本がバンクーバーの街を彩っている。こうした公園や植樹などの歴史や情報は公園庁に資料として残されているという。1958年にバンクーバー総領事館・田辺宗夫領事が「日加の永遠の記憶と友好」として贈った約300本の多くはキャンビーストリートやクイーンエリザベス公園に植えられたと説明する。公園庁では桜の木を育てていて、朽ちたりした木は新しい木と交換するなどして、バンクーバー市の桜が春に美しく咲くようにメンテナンスされている。

 ディグビー委員長は、「自然を大事にしていれば、こうやってこの季節になるとみんなが一緒になって桜の木の下に集まってくるんです」と、日本から贈られた桜がきっかけで多くの人々が集う憩いの場となっていると語った。

毎年ブースを出している建友会。今年も人気の風車作りでChildren’s Hospitalへの募金を呼び掛けた。2026年4月11日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/日加トゥデイ
毎年ブースを出している建友会。今年も人気の風車作りでChildren’s Hospitalへの募金を呼び掛けた。2026年4月11日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/日加トゥデイ
春の歌声を響かせたさくらシンガーズ。2026年4月11日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/日加トゥデイ
春の歌声を響かせたさくらシンガーズ。2026年4月11日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/日加トゥデイ
バンクーバー日系ガーデナーズ協会のブース。新しく造園した日本庭園を手掛けた。2026年4月11日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/日加トゥデイ
バンクーバー日系ガーデナーズ協会のブース。新しく造園した日本庭園を手掛けた。2026年4月11日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/日加トゥデイ
開会式の前に神輿を担いで会場内を練り歩き盛り上げた晩香坡櫻會。2026年4月11日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/日加トゥデイ
開会式の前に神輿を担いで会場内を練り歩き盛り上げた晩香坡櫻會。2026年4月11日、バンクーバー市。写真 斉藤光一/日加トゥデイ

(取材 三島直美/写真 斉藤光一)

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ホワイトキャップス西トップに!高丘は今季すでに4度目のクリーンシート

ホワイトキャップスの得点に喜ぶGK高丘。2026年4月11日、バンクーバー市BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
ホワイトキャップスの得点に喜ぶGK高丘。2026年4月11日、バンクーバー市BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
固い守りで得点を与えないGK高丘とホワイトキャップスのディフェンダー陣。2026年4月11日、バンクーバー市BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
固い守りで得点を与えないGK高丘とホワイトキャップスのディフェンダー陣。2026年4月11日、バンクーバー市BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

 バンクーバー・ホワイトキャップスがニューヨーク・シティFCに勝利して、西カンファレンス首位に躍り出た。GK高丘は、危なげない守りで今季レギュラーシーズン4度目の無失点試合だった。

4月11日(BCプレース:25,460)
バンクーバー・ホワイトキャップス 2-0 ニューヨーク・シティFC
ホワイトキャップス1点目は45分。フリーキックをゴール前でDFラボルタ(#2)が足で合わせて1-0。2点目は87分、FWホワイト(#24)がゴール前に飛び込みヘディングで押し込んだ。

攻守のバランスがいい状態

 ホワイトキャップスはこの1勝で西カンファレンス首位に躍り出た。ここまで7試合で6勝1敗。得失点差15はリーグトップ。ここまで好調な理由の一つは19得点4失点というバランスの良さだ。

相手のコーナーキックに備えるホワイトキャップス。2026年4月11日、バンクーバー市BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
相手のコーナーキックに備えるホワイトキャップス。2026年4月11日、バンクーバー市BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

 GK高丘は「守備と攻撃は表裏一体なので、そういう意味ではうまくチーム全体がつながってプレーできると思う」と評価する。

 この日は9分に高丘がボールを追いかけゴールがガラ空きになる瞬間があり、もう少しでオウンゴールを許すような場面もあった。あの場面は「プレッシャーがどこまで来ているかっていうのが多分見えていなかったので。(ディフェンダーと)意思疎通というか、もっとシンプルにやるべきところだったかなと思います」と振り返った。

 それでもきっちりと無失点で、前節の劇的な逆転勝ちの勢いをそのままに東カンファレンス上位につけるニューヨーク・シティFC相手に「決定的なシーンは作らせない」試合で勝ち切った。

 ワールドカップのため変則的な過密スケジュールになっている今季だが、今週は平日に試合がなく「この試合に向けてチームとして全員で準備してきて、準備してきたことが出せました」と余裕を見せる。「どうやって勝ちを積み重ねていくかというのがチームのテーマでもあるので、そういう意味では今日しっかり連勝できて、次に行けるのは非常に大きいことだと思います」。

 昨年の西カンファレンス覇者は今季7試合目で首位に浮上。相手は打倒ホワイトキャップスでやってくる。それでも「90分を通して自分たちが(試合を)支配できるように、たくさんのチャンスを作れるようにというのを目指していますし、もっとチームとしても個人としても質を高めていければもっともっと良くなるかなと思います」と相変わらずクールに語った。

 ホワイトキャップスのホームグランドBCプレースは6月に始まるW杯の会場となるため、チームは4月にあと2試合ホームで試合をした後は、W杯が始まるまで5月は全てアウェイとなる。W杯終了後のホームゲームは8月からとなっている。

4月のホームゲーム

4月17日(金)7:30pm スポーティング・カンザスシティ戦
4月25日(土)7:30pm コロラド・ラピッズ戦

恒例の勝利の「スタンド・バイ・ミー」。2026年4月11日、バンクーバー市BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
恒例の勝利の「スタンド・バイ・ミー」。2026年4月11日、バンクーバー市BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

(取材 三島直美/写真 斉藤光一)

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「洋子先生に贈る舞」西川流カナダ支部彩月会 松野洋子(西川佳洋)追悼舞踊公演

「西川流カナダ彩月会」全員で。2026年3月28日、バーナビー市。写真提供 西川流カナダ彩月会/撮影 斉藤光一
「西川流カナダ彩月会」全員で。2026年3月28日、バーナビー市。写真提供 西川流カナダ彩月会/撮影 斉藤光一

 満開の桜に囲まれた日系文化センター・博物館で3月28日、西川流カナダ彩月会が「松野洋子(西川佳洋)追悼舞踊公演」を開催した。広い会場には松野さんをよく知る多くの人が集り、見守った。

 西川流師範・西川佳洋として約50年間バンクーバーで西川流日本舞踊を教えていた松野洋子さんが逝去したのは2025年3月26日。さよならも言えなかった突然の別れから約1年、寂しさと戸惑いと感謝の思いを胸に練習を重ね、この日はメンバー全員が「洋子先生」との思い出の舞を披露した。稽古中の指導やいつも優しく時に厳しかった言葉など、それぞれの思いを胸に「洋子先生」に贈る追悼の舞だった。

 公演中には、松野洋子さんの軌跡を紹介する写真や動画も流され、いつも明るく笑顔の「洋子先生」の姿を来場者も一緒に目に焼き付けた。1部と2部に分かれた全12の舞は、厳かに、そして華やかに、会場を包み、最後は彩月会全員で「さくらさくら」を踊って締めくくった。

最後に全員で舞った「さくらさくら」。2026年3月28日、バーナビー市。写真提供 西川流カナダ彩月会/撮影 斉藤光一
最後に全員で舞った「さくらさくら」。2026年3月28日、バーナビー市。写真提供 西川流カナダ彩月会/撮影 斉藤光一

 最後にあいさつしたリトンかおりさんは冒頭から涙声で「もう泣いているんです」と苦笑いして、まだ近くにいるような気がするが「とても寂しいです」と声を絞り出した。それでも生前に松野洋子さんが楽しみにしていたという新たな名取3人を紹介。2025年4月6日に愛知県名古屋市の西川流家元会館で名取襲名披露式に参加して無事に苗字内に加わった、田口惠里子(西川洋惠)さん、吉武真理(西川洋真)さん、久永勝芳(西川洋芳)さんを紹介した。3人にとってはバンクーバーでのお披露目会となった。

 リトンさんは公演実現へ協力した全ての関係者に感謝の言葉を述べ、「洋子先生が多くのものを残してくださいましたので、私たちはそれを一生懸命引き継いで残していきます。これからもどうぞ応援よろしくお願いします」と語った。

 そして「洋子先生」が大好きだったというズンドコ節と炭坑節を来場者も参加して踊り、にぎやかに幕を閉じた。

来場者も一緒に炭坑節を踊る。2026年3月28日、バーナビー市。写真提供 西川流カナダ彩月会/撮影 斉藤光一
来場者も一緒に炭坑節を踊る。2026年3月28日、バーナビー市。写真提供 西川流カナダ彩月会/撮影 斉藤光一

 公演終了後、「秋の色種」を3人で踊った一人、相原満美子さんは「練習ではきちんと踊れていたのですが舞台ではちょっとミスが出ました」と反省したが無事に終わって「ほっとしています」と笑顔を見せた。「博多夜船」を舞った竹田麗子さんは「感謝の気持ちを込めてみんなでがんばろうねって練習をしてきました。それと先生は楽しいことが好きだったので楽しく踊れたら」とこの1年間全員で練習に励んできたと話す。松野洋子さんの急逝になかなか実感が湧かなかったが「先生が亡くなって1年があっという間に過ぎて、今日無事に終えてすごく感じることが多いです。本当に先生がおられないんだなという感じです」と少ししんみりした。それでも多くのものを残してくれた「洋子先生」を思いながら、二人とも彩月会を「続けていきたい」と前を向いた。

 「彩月会」は2011年に松野洋子さんが立ち上げ、日系センターで後進の指導に力を入れていた。コミュニティとのつながりも深く、日系カナダ人コミュニティを中心に幅広く活動してきた。2023年には西川流家元西川千雅さんの承認を得て6月16日に正式名称を「西川流カナダ彩月会」と改名。時を同じくして、リトンかおりさんが西川洋香に、芦田有希子さんが西川洋雪に、カナダで初めて2人が名取式を経て正式に西川流苗字内に入った。この日は名古屋の西川千雅さんから追悼公演のためにメッセージが届いていた。

第1部終了後の休憩時間に琴の音色と共に紹介されたスライドショー「舞い続けた人生:西川佳洋メモリアル・フォトストーリー」。2026年3月28日、バーナビー市。写真提供 西川流カナダ彩月会/撮影 斉藤光一
第1部終了後の休憩時間に琴の音色と共に紹介されたスライドショー「舞い続けた人生:西川佳洋メモリアル・フォトストーリー」。2026年3月28日、バーナビー市。写真提供 西川流カナダ彩月会/撮影 斉藤光一

(取材 三島直美)

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日系カナダ人物語「記憶を次世代へ」:エド・ハヤシさん「日本とのつながりを大切に」

Mr. Ed Hayashi/エド・ハヤシさん
Mr. Ed Hayashi/エド・ハヤシさん

エド・ハヤシさん

1937年4月、ブリティッシュ・コロンビア州リッチモンド市スティーブストン生まれ
1942年アルバータ州テイバーに移動、1950年まで滞在
両親は滋賀県出身

スティーブストンからアルバータ州南部へ

 エド・ハヤシさんが家族と共にブリティッシュ・コロンビア(BC)州スティーブストンを離れたのは1942年、5歳の時。行先は東隣アルバータ州南部の町テイバーだった。スティーブストンでの幼い頃のことも、アルバータ州に移動した時のことも覚えていないという。

Taber, Alberta
Taber, Alberta

 「その頃はまだ小さかったから当時のことは覚えていません。BC州を離れたことも覚えていないです」

 テイバーで両親はシュガービート(テンサイ)農園で働いた。なぜアルバータ州だったのか?カナダ政府の指定した収容所はBC州に多くあった。「両親には4人の子どもがいてみんな1歳違いでした」とハヤシさんを筆頭に弟妹が3人いたと話す。「両親は家族で一緒に暮らしたかったからアルバータを選んだと思います」。シュガービート農園は人手を必要としていた。農園への移動を選んだ家族は一緒に移動できた。

 ただ生活環境が悪いことは他の収容所と変わりはなかった。「住んでいたのは農園の社宅でしたが、掘っ立て小屋でした。すごく寒かったです。断熱材も電気もありませんでした」。暖房は石炭ストーブだけだった。「石炭ストーブとは石炭を使って家を暖めるストーブのことで、暖房はそれしかありませんでした。石炭ストーブで覚えているのは、寒い日に母が石を持ってきて、その石をストーブに入れて温めて。それを古いブランケットで包んでベッドに置くんです。そうやって足を温めていました」

 ストーブの上で沸いていた湯は翌朝には氷になっていたことを覚えている。「それだけ寒かったってことですね」。テイバーでは冬季の最低気温は平均で氷点下10度前後。氷点下40度になることもある。そんな中で電気も断熱材もない掘っ立て小屋で家族6人が暮らしていた。それでも、「いい経験だったよね」と苦しさは表情に出さない。

 大変なのは暖房だけではなかった。「食べる物もあまりなかった」と振り返る。「自分たちで育てていたものを食べました」。冬の間も保存できるものを栽培した。週に1回、買い出しに行くのは父親の役目だった。町までは2~3マイル(3~6キロメートル)あり、そこまで父親は古いトラックを運転した。「出されたものはなんでも食べていましたね。食べ物のことで不服なんて言いません。とにかくテーブルにある物を食べる。そういう生活でした。大変でしたね」

差別を感じなかった子ども時代

 強制収容政策の中にあっても学校には通っていた。ハヤシさんはグレード1から3(小学1年から3年にあたる)まで通った。弟や妹も一緒に通学した。「あの頃、学校には馬車で通っていたのを覚えています」と笑う。生活環境は厳しかったが子どもなりに色々と楽しく遊んでいた。「白人の友達」もいたと話す。

 「まだ子どもだったので戦争のことはよく分かりませんでした。だから子どもなりに楽しく過ごせたのだと思います」。

 日曜学校(サンデースクール)にも通っていた。日曜学校とはキリスト教会で日曜日に開かれる子どものための学校。「毎週日曜日に女性が自分の車で迎えに来てくれて、テイバーのサンデースクールに連れて行ってくれました。毎週日曜日が楽しみでしたね。イエスキリストについても多くを学びました」

 当時を振り返り、日系カナダ人に対する差別は特に感じなかったという。「子どもだったから、たぶん差別は特になかったのかもしれません」

バンクーバーへ再移動

 1949年4月、カナダ政府は「戦時特措法」を解除。日系カナダ人はようやく国内を自由に移動できるようになった。

 ハヤシ一家は1950年までアルバータ州テイバーで生活し、同年バンクーバーへ戻る。戦前のように漁師として働きたいと考えていた父親は、ウエストバンクーバー市の「グレート・ノーザン・キャナリー」で漁師の仕事を見つける。

 「バンクーバーに戻るとき、そのためのお金がありませんでした。そこで父は叔母からお金を借りました」。借りた金は漁師として働いて返済した。アルバータでも、戻ってきてからも、両親は苦労したと振り返る。

 ウエストバンクーバーでは社宅で暮らした。他にも日系人家族がいたことを覚えている。ハヤシさんは12歳で、同市の学校に通った。キャナリーから通学していた日系人は自分たち兄妹だけ。クラスは全て「白人」。それでも特に「差別は感じなかった」と言う。

 その後、学校を退学して、大工養成学校に1年間通い、3年間の修行を経て大工として働き始めた。その頃は日系カナダ人の大工に対する差別を感じた。当時は組合に加入していれば仕事ができたため1957年に加入。それでも、大工の仕事を見つけるのは大変な時代だったと振り返った。大工仲間に日系カナダ人の友人もいたがお互いに強制収容時代のことを話すことはなかった。

カナダ政府の日系人強制収容政策について

 「リドレス運動」には直接参加しなかった。ハヤシさんから見れば、「教養のある人たち」が推進する活動と思っていたからだ。1988年頃、21,000ドルを受け取ったことは覚えている。

 カナダが日系カナダ人に対して行った政策は「残念なこと」と今でも思う。

 「日系カナダ人は全てをなくしたと思う。家もなくしたし、働くための漁船もなくしました。たくさんの財産をなくして、それらは二度と戻ってはきませんでした」。

 そしてずいぶん前に隣組が主催したというソルトスプリングアイランドへのツアーに参加した時に聞いた話を紹介した。

 1800年代後半に日本から来た男性の話だ。「日本人男性が500エーカーの土地を買ったそうです。今だったらすごい価値になっていると思います。でも彼には1セントも戻ってくることはありませんでした。それって恥ずかしいことだと思いませんか?」。強制収容政策で「彼は全てを失った。とても残念なこと」。

 ハヤシさん一家は戦前社宅に暮らしていたため没収される家は持っていなかった。ただ漁船は没収された。もちろん強制収容政策が終わってもそれが戻ってくることはなかった。

大切な日本とのつながり

 初めて日本を訪れたのは1985年、45歳の時。大工の仕事をするためだった。当時日本で家を建ててくれる大工を探しているという日本人「鈴木さん」とバンクーバーで知り合ったことがきっかけだった。「少しは日本語ができたから」と笑う。兵庫県西宮市で家を建てる気はないかと誘われた。

 「それで考えました。日本に行けるまたとない機会。旅費は不要。しかも稼げる仕事…と。結局バンクーバーでの仕事をいったん閉めて日本に行きました。初めての日本でした」。それから3カ月滞在した。その時立てた家は今でもそのまま残っている。

 「日本の人はすごく丁寧で、親切で、色々と助けてくれました。私は日系カナダ人だから上手に日本語を話すことはできないけど、それでも仲良くなりました」と思い出を語る。

 日本とのつながりは今でも続いている。現在はバンクーバー市にある「隣組」でボランティア活動をしている。隣組は1974年に設立された日系ボランティア団体。日系カナダ人強制収容政策から開放された後、シニアとなっていた日本語を母国語とする日系1世を助けることが目的だった。

 「ボランティア活動をするのは好きです。シニアを助けられるし。自分もシニアだけど、まだまだ体は動くから」と笑う。

 子どもの頃は「家では日本語だったから」と両親から習ったという日本語は隣組で磨きがかかっている。

 「隣組ではほとんどの人が日本語を話します。だからそれを聞きながら、私の日本語も上手くなってきていると思います」。インタビューの合間にも所々に日本語がこぼれる。

 日本文化についてはこう語る。「守っていくべきだと思いますね。私たちは日系人ですから、それは大事なことだと思います」。文化の中には振る舞いや行動も含まれる。

 「日本人は丁寧だし、ほとんどの人は正直者。『ほとんど』というのがミソだけど。その気質は大切にしたいです。そして働き者として知られているのでそれも守っていきたいですね」。

 一生懸命働くことは両親から引き継いだ。自分も大工になって一生懸命働いてきた。家族を持ち、家を持ち、成功した人生だと思うと振り返る。同時に、戦中はアルバータ州テイバーで、戦後はバンクーバーに戻ってからも苦労した両親に思いを馳せる。

 自分の子どもたちにも強制収容時代のことは折に触れて話している。「子どもたちも私たちが厳しい時代を過ごしたことは知っています」。日系カナダ人に起こった事実を伝えていくことは大切なことだ。

 そしてハヤシさんは、「私は日系カナダ人であることに誇りを持っています。日系カナダ人として今の自分があることを幸せに思います」と笑った。

(記事 三島直美)

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バンクーバー桜まつり2026開幕!デイビッド・ラム公園で第20回記念開会式

満開の桜に囲まれたデイビッド・ラム公園でたくさんのブースがビッグピクニックに参加。2026年3月28日、バンクーバー市。撮影 日加トゥデイ
満開の桜に囲まれたデイビッド・ラム公園でたくさんのブースがビッグピクニックに参加。2026年3月28日、バンクーバー市。撮影 日加トゥデイ

 今年のバンクーバー桜まつり(Vancouver Cherry Blossom Festival)が3月27日から始まった。28日にはバンクーバー市イエールタウンのデイビッド・ラム公園で開会式が行われ、公式に幕を開けた。

 フェスティバルのイベントの一つ、ビッグピクニックが行われていた同公園では、桜を愛でる多くの人々の熱気と少し肌寒い空気をまとった満開の桜が開幕を祝福していた。

今年で第20回となるバンクーバー桜まつり

バンクーバー桜まつり開会式であいさつする発起人のリンダ・ポールさん(右)と先にあいさつを終えたアンドレア・アーノットさん。2026年3月28日、バンクーバー市。撮影 日加トゥデイ
バンクーバー桜まつり開会式であいさつする発起人のリンダ・ポールさん(右)と先にあいさつを終えたアンドレア・アーノットさん。2026年3月28日、バンクーバー市。撮影 日加トゥデイ

 発起人リンダ・ポールさんは今年でバンクーバー桜まつりが20回目となることを喜んだ。「実際には21年前に始まりましたが、フェスティバルは第20回となります」と話す。第1回は駅を囲むように咲く桜並木が美しいダウンタウンのバラードステーションで開会式が行われた。設置されたのは「Cherry Gem Stage」。それから約20年。この日のステージも同じだった。

開会式の後、和太鼓の演奏が行われていた「Cherry Jam Stage」。2026年3月28日、バンクーバー市。撮影 日加トゥデイ
開会式の後、和太鼓の演奏が行われていた「Cherry Jam Stage」。2026年3月28日、バンクーバー市。撮影 日加トゥデイ

 「(開会式は)約10年バラードステーションでしたが、その後クイーンエリザベス公園になって、このデイビッド・ラム公園に移りました。広いし、交通のアクセスもいいし、なにより桜がとてもきれいだし」。

 今では当時よりもイベントも増え、多くの市民から愛されるバンクーバーの春の風物詩となった。「人々がこんなに『さくら』を好きだなんてほんとにうれしいです」。ポールさんは日本で見た桜の美しさに魅了され、人々が楽しむ花見をバンクーバーで再現したいと奔走したという。「日本の人にとって桜がどれだけ重要なものかは理解しているつもりです。だから、日本の桜まつりをそのまま持ってくるわけではなく、ウエストコーストスタイルで実現出来たらと思いました。時々日本の人から『日本人ではない人が始めてくれたのがうれしい』と言われることがあります」。それは違った角度から「さくら」への特別な思いをカナダで表現してくれるからということだと理解していると話す。

イエールタウン・デイビッド・ラム公園で3月27日、28日に開催されたBlossoms After Dark。バンクーバーの夜桜に映えるバンクーバー桜まつりの提灯。2026年3月27日、バンクーバー市。撮影 斉藤光一
イエールタウン・デイビッド・ラム公園で3月27日、28日に開催されたBlossoms After Dark。バンクーバーの夜桜に映えるバンクーバー桜まつりの提灯。2026年3月27日、バンクーバー市。撮影 斉藤光一

 20回目を迎えるまでには紆余曲折があったと振り返ったが、今後はさらにイベントを増やしていきたいと意欲を見せる。フェスティバルの実行委員長はアンドレア・アーノットさんに委ねたが、以前にあったプロジェクトマッピングの復活や新しいイベント、色々なコミュニティとのコラボなどアイデアは尽きない。そして、5年後も、10年後も、「バンクーバーの人々が一緒になって楽しめるフェスティバルであってほしい」と語った。

毎年参加しているバンクーバー総領事館ブース。髙橋総領事(左から3番目)と杉尾透首席領事(左端)、領事館スタッフと一緒に。2026年3月28日、バンクーバー市。撮影 日加トゥデイ
毎年参加しているバンクーバー総領事館ブース。髙橋総領事(左から3番目)と杉尾透首席領事(左端)、領事館スタッフと一緒に。2026年3月28日、バンクーバー市。撮影 日加トゥデイ

 今年が2回目の参加となった在バンクーバー日本国総領事館・髙橋良明総領事は、昨年は雨の開会式となったが「今年は晴れ間が見えて、バンクーバーらしさを味わいながら明るい中での桜は最高だと思います」と満開の桜を楽しんでいた。そして、「バンクーバーの人々が桜まつりをすごく大切に継続してくれていることは、本当にうれしいと思います」と語った。

開会式には植樹も、ますます広がる日加友好の証

 開会式の後には公園内で植樹の式典も行われた。バンクーバー桜まつり実行委員会によると現在バンクーバーには約4万3千本の桜があるという。中には朽ちる木もあり、毎年きれいな花が咲くようメンテナンスされている。

植樹式の様子。髙橋総領事(右)とバンクーバー市公園庁トム・ディグビー委員。関係者が順番に土をかぶせた。2026年3月28日、バンクーバー市。撮影 日加トゥデイ
植樹式の様子。髙橋総領事(右)とバンクーバー市公園庁トム・ディグビー委員。関係者が順番に土をかぶせた。2026年3月28日、バンクーバー市。撮影 日加トゥデイ

 最初にバンクーバーに桜が贈られたのは戦前の1930年代初め。神戸と横浜の市長から500本が贈られた。それらはバンクーバー市スタンレーパーク内にある日系カナダ人戦没者慰霊碑の周りに植えられた。今でもこの時期に美しい姿を見せている。

 その後も日本からの贈樹は続く。1958年には当時のバンクーバー総領事館・田辺宗夫領事より「日加の永遠の記憶と友好」として約300本が贈られたという。この日開会式であいさつしたバンクーバー市公園庁トム・ディグビー委員が紹介した。

 いまやバンクーバーに春を告げ、市民から愛される街の誇りとなった「SAKURA」。そんな歴史を知らなくても誰もがその美しさを愛でることができる友好関係こそが、戦前からバンクーバーに桜を贈った人々の願いだったに違いない。

 日本とカナダは2028年に外交関係樹立100周年を迎える。それ以前から続く「日加友好の証」はこれからもずっと人々の努力と愛情でバンクーバーの春を桜色に染めていく。

デイビッド・ラム公園内の桜。フェスティバル仕様に。2026年3月28日、バンクーバー市。撮影 日加トゥデイ
デイビッド・ラム公園内の桜。フェスティバル仕様に。2026年3月28日、バンクーバー市。撮影 日加トゥデイ
植樹式を終えて、関係者で記念撮影。2026年3月28日、バンクーバー市。撮影 日加トゥデイ
植樹式を終えて、関係者で記念撮影。2026年3月28日、バンクーバー市。撮影 日加トゥデイ
バンクーバー桜まつり実行委員会のブース。2026年3月28日、バンクーバー市。撮影 日加トゥデイ
バンクーバー桜まつり実行委員会のブース。2026年3月28日、バンクーバー市。撮影 日加トゥデイ
イエールタウン・デイビッド・ラム公園で3月27日、28日に開催されたBlossoms After Dark。バンクーバーの夜桜もまた美しい。2026年3月27日、バンクーバー市。撮影 斉藤光一
イエールタウン・デイビッド・ラム公園で3月27日、28日に開催されたBlossoms After Dark。バンクーバーの夜桜もまた美しい。2026年3月27日、バンクーバー市。撮影 斉藤光一

(取材 三島直美)

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ホワイトキャップス圧勝、GK高丘は今季3度目のクリーンシート

冷静な判断でゴールを死守するGK高丘。ミネソタ・ユナイテッドFC戦。2026年3月15日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
冷静な判断でゴールを死守するGK高丘。ミネソタ・ユナイテッドFC戦。2026年3月15日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
大量得点でも油断せず堅い守りでクリーンシート。ミネソタ・ユナイテッドFC戦。2026年3月15日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
大量得点でも油断せず堅い守りでクリーンシート。ミネソタ・ユナイテッドFC戦。2026年3月15日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

 圧勝だった。この日はホワイトキャップスとして初めて桜をテーマにしたチェリーブロッサムマッチとして今月末から開催されるチェリーブロッサムフェスティバルとコラボも実現。次々とゴールが決まる展開に、春を飛び越え熱気に包まれるファン大興奮の90分だった。

3月15日(BCプレース:23,885)

バンクーバー・ホワイトキャップ 6-0 ミネソタ・ユナイテッド

先制点はPK。8分にMFバーハルター(16)が確実に決め1-0。13分にはFWホワイト(24)の技ありシュートで2点目。その後も、22分、43分に追加点で前半を終え4-0と大量リードした。後半に入り、54分、またもPKのチャンスにホワイトが決め自身100得点となる記念ゴールを決めた。74分にはFWサバリー(7)がキャップス初ゴールした。

派手なゴールラッシュの裏で堅実な守りでクリーンシート

 大量6得点という派手なゴールラッシュが目立った試合だったが、守りでも気を緩めることなく相手にゴールを許すことはなかった。

 GK高丘は「点差が開いてくるとどうしても緩みだったり、これで大丈夫だろうみたいなのがちょっと出てきたりしますけど、そこを自分自身もそうですし、味方の選手に伝えながら、漏れがあったところは自分が防ぐようなイメージでいたので、それが今日はできたのかなと思います」と振り返った。

 高丘も随所で好セーブを見せた。46分には相手と1対1になったところを正面で止めた。59分にもゴール前の混戦で連続セーブ、87分には相手フリーキックからこぼれたシュートを横っ飛びで阻止した。38分に相手シュートがポールに当たり失点を免れる運もあった。「6-1とか6-2で勝つのではなく、しっかり0で抑えるっていうのは、これから長く戦っていく上で、そういうメンタリティが非常に大事になってくると思いますし、そういったところも今日示せたかなと思います」と大量得点でもクリーンシートで終えられた意味を語った。

38分、ミネソタのシュートはこのままポールに当たり...。ミネソタ・ユナイテッドFC戦。2026年3月15日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
38分、ミネソタのシュートはこのままポールに当たり…。ミネソタ・ユナイテッドFC戦。2026年3月15日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

 12日にBCプレースであったCONCACAF Champions Cup(CCC)ベスト16の試合ではシアトル・サウンダーズと対戦して第1レグを0-3と珍しく大量失点で黒星を喫した。

 そこから3日後の試合。「前節でシアトルに3-0で負けしまって、そこからどうやってリアクションするかっていうのはチームでも話し合っていたので、そこのところをよく示せたと思いますし、90分間を通して主導権を握れた試合だったことは収穫の多い試合だったと思います」とズルズルと引きずることなく気持ちを切り替えて大勝したことは勝ち点3以上の意味があると胸を張った。

W杯開催による超過密スケジュールが続く

 今年は北中米ワールドカップがカナダ・アメリカ・メキシコで、6月11日に開幕し7月19日まで行われる。ホワイトキャップスが本拠地としているBCプレースはバンクーバー開催の会場として使用されるため、ホワイトキャップスのスケジュールも異例の超過密スケジュールとなっている。

 今季は例年より早く開幕しただけではなく、ホワイトキャップスは4月25日までに前半のホームゲーム8試合をBCプレースで戦い、それ以降はW杯が終わった後の7月末まで8試合連続アウェイとなる。

 特にBCプレースは現在の人工芝から天然芝へと変更する必要もあり、ホワイトキャップスは変則なスケジュールが強制される。

冷静な判断でゴールを死守するGK高丘。ミネソタ・ユナイテッドFC戦。2026年3月15日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
冷静な判断でゴールを死守するGK高丘。ミネソタ・ユナイテッドFC戦。2026年3月15日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

 それでも「(MLSも)4年目ですし、ある程度慣れています」とそれほど気にしない様子。「(今季は)最初の方にホームの試合が多いので、そこでいかに勝ち点を稼ぐかというのは非常に大事になります。アウェイが4月から続くので、そこでどう勝ち点を拾ってくか。もちろん勝ち点3を毎試合狙いにいきますけど、移動があったり、タフな要因が多いので、賢く戦うことが必要かなと思います」と先を見据えた。

 ただ、昨季もCCCやMLSカップで決勝まで進み、シーズン終盤まで過密スケジュールだったことは同じ。それでも今季も開幕からここまでチームは好調さを維持している。「去年は良いシーズンを送れましたけど、決勝で2回勝てていないというのは自分自身も、チームも悔しさやフラストレーションを抱えているので、そういったところを良いエネルギーにできているかなと思いますし、謙虚にやっていくことが大事かなと思います」とここまでの好調の理由を分析した。

 4月25日のコロラド・ラピッズ戦の次のホームゲームは8月1日となる。

4月までのホームゲーム

3月21日(土)7:30pm サンノゼ・アースクエイク戦
4月4日(土)7:30pm ポートランド・ティンバーズ戦
4月11日(土)4:30pm ニューヨークシティFC戦
4月17日(金)7:30pm スポーティング・カンザスシティ戦
4月25日(土)7:30pm コロラド・ラピッズ戦

チェリーブロッサムがテーマのこの日の試合、カナダとアメリカの国歌斉唱は日本人のリサ・タカハシさん。ミネソタ・ユナイテッドFC戦。2026年3月15日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
チェリーブロッサムがテーマのこの日の試合、カナダとアメリカの国歌斉唱は日本人のリサ・タカハシさん。ミネソタ・ユナイテッドFC戦。2026年3月15日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

(取材 三島直美/写真 斉藤光一)

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女子日本代表も出場したカナダセブンズ2026、優勝は女子ニュージーランド、男子南アフリカ

カナダセブンズ2026優勝チーム、女子ニュージーランド、男子南アフリカ。Photo by HSBC SVNS Official Website
カナダセブンズ2026優勝チーム、女子ニュージーランド、男子南アフリカ。Photo by HSBC SVNS Official Website
日本対ニュージーランド戦。2026年3月7日、BCプレース。Photo by HSBC SVNS Vancouver Official Website
日本対ニュージーランド戦。2026年3月7日、BCプレース。Photo by HSBC SVNS Vancouver Official Website

 今年のカナダセブンズは、女子はニュージーランド、男子は南アフリカの優勝で幕を閉じた。毎年3月の恒例となった7人制ラグビーの世界大会「セブンズシリーズ」カナダ大会「カナダセブンズ」。3月7日、8日にBCプレース(バンクーバー市)で開催された。

 今年からルールが変わり、セブンズシリーズは6都市(ドバイ、ケープタウン、シンガポール、パース、バンクーバー、ニューヨーク)で開催。各都市では2日間にわたる男女各8チームでの熱い戦いが繰り広げられている。

今年も女子日本代表が出場「目指すは2028年ロス五輪メダル獲得」

 2026年も女子日本代表が出場した。予選はプールAでフランス、ニュージーランド、イギリスと対戦。1日目は、イギリスに勝利したものの1勝2敗で5位から8位決定戦へと進んだ。2日目第1試合はカナダとの対戦。完全アウェイの中、ハーフタイムまで5-12とされていたが、13分に須田がトライ、コンバージョンを決め土壇場で同点に追いついた。しかし、16分にカナダにトライを決められ惜敗。7位決定戦に回った。

 7位決定戦では前日に大勝したイギリス相手に6トライを決めて34-19で勝利。今大会を7位で終えた。

 全試合終了後キャプテン須田倫代は、「この大会はベスト4入りを目指してやってきた大会だった」が、「初戦のフランス戦をターゲットにチームでは取り組んできて、アタックの時間は長かったが、それでも結構攻めあぐねてしまったのが今回の敗因だと思う」と振り返った。それでも引きずらずに「初日の最終戦では最後(イギリスに)勝ち切ることができて、今日も(イギリスに)勝ち切ることができたので、そこはニューヨークに向けて良い流れになれたらいいと思いました」と次大会につながる感触を語った。

 「自分たちのミスやワンパス繋がればトライにいけたシチュエーションで取りきれず、小さいことですがその積み重ねで勝ち切れるようになっていくなっていくと思ったので、そこが繋がらなかったのが今回の敗因」と分析。ただ「体格で少し劣る分、プレーの速さだったり低さだったりで、もっともっと相手より動き続けて、そういう小さなラインブレイクだったり、小さなトライチャンスを必ずトライに繋げられるようにしていくことで勝利につながる」と確認できたことは収穫だったと語った。

 最終目標は2028年開催のロサンゼルス・オリンピックでの表彰台。セブンズシリーズは世界トップ8が集う戦いで、「常に強いチームと当たれるので、少しでも順位を上げつつ、ベスト4にしっかり入っていって、ベスト2、ベスト1とブレイクスルーをターゲットにやっています」と語った。

 日本代表は現在総合6位。今季初戦ドバイでは3位と幸先の良いスタートを切った。その後も、ケープタウンで5位、パースで6位と、競合ひしめく女子トップ8で健闘している。

 セブンズシリーズは次のニューヨーク大会が最終で、その後はセブンズワールドチャンピオンシップへと移行し、香港、バリャドリード(スペイン)、ボルドー(フランス)で3大会開催される。チャンピオンシップへの出場は男女各12チーム、2026年シーズンの優勝チームと2027年本大会出場チームが決定する。

 2027年カナダセブンズは3月6日、7日に開催される。

カナダセブンズ2026優勝チーム、女子ニュージーランド、男子南アフリカ。Photo by HSBC SVNS Official Website
カナダセブンズ2026優勝チーム、女子ニュージーランド、男子南アフリカ。Photo by HSBC SVNS Official Website

(取材 三島直美)

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「日本語に思いを乗せて」第38回BC州日本語弁論大会開催

髙橋総領事と出場者が揃って。2026年3月7日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
髙橋総領事と出場者が揃って。2026年3月7日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 第38回ブリティッシュ・コロンビア(BC)州日本語弁論大会が3月7日、ブリティッシュコロンビア大学(UBC)アジアンセンターで開催された。在バンクーバー日本国総領事館とBC州日本語弁論大会実行委員会の共催。

 午前に高校生の部(初級、中級、オープンの3カテゴリー19人)、午後に大学生の部(初級、中級、上級・オープンの3カテゴリー11人)が行われ、発表者は日頃の練習の成果を存分に発揮して、それぞれの思いを熱く語った。

 参加者はBC州とユーコン準州に居住する日本語を母国語としない人が対象。高校生の部は、初級・中級が各3分、オープンが4分、大学生の部は、初級・中級が各4分、上級・オープンの部は各5分の持ち時間となる。

 時間内に終えることはもちろん、内容や言語的正確さ・流ちょうさに加え、表現力も駆使しながら、聞く人にいかに分かりやすく伝えるかという高度な技術が要求される。大学生でも初めから流ちょうに話していても、残り時間を告げられると急に詰まったりすることがあり、制限時間を意識しながら伝えることの難しさを示していた。

 大学生の部の各カテゴリー優勝者は3月29日にアルバータ州エドモントン市のアルバータ大学で開催されるカナダ全国日本語弁論大会に出場する。

 大学生の部ともなると、初級の参加者ですら、日本語の流ちょうさもさることながら、内容も「人生とは」といった哲学的なものが多くなる。日本滞在中に出会った人から学んだ人生で大切なもの、ハーモニカを演奏しながら大好きなブルースともののあわれに共通する沈黙が果たす役割、失敗を恐れて行動をためらっていた自分が出合った手書きのおもしろさが変えた人生、日本語を学んだからこそ見えたカナダのすばらしさ、不正に声を上げ立ち上がる勇気など、言葉の壁を越えた普遍のテーマを外国語である日本語で語る姿は誰もが優勝者だった。

「自信を持ってがんばってください」とエールを送ったバンクーバー領事館・髙橋総領事。2026年3月7日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
「自信を持ってがんばってください」とエールを送ったバンクーバー領事館・髙橋総領事。2026年3月7日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 バンクーバー総領事館・髙橋良明総領事はあいさつで言葉は文化への理解を深める大切な手段であると同時に「自己表現の手段でもあるということで、本日は自分らしさや思いを伝える絶好の機会だと思います」と激励した。この日の出場者はまさにその通りに外国語である日本語で自分らしさや思いをそれぞれに発信した。

 審査は難しかったようで予定よりも時間がかかり、審査員を代表してあいさつしたUBCのクリスティナ・イー氏は「ほんとに僅差でした」と参加者の努力を称えた。

 大学生の部各優勝者は、初級がイリア・パルナシュビリさん「どうして言語を学ぶのでしょうか」。スピーチでは「四国から来て岡山でフランス語を習っていたおじいさんとの出会いで携帯に頼らずに自分の言葉で話す心が大切と感じた」経験を語った。
 中級はケリー・デンさん「そばに、何がある?」。昨年日本に旅行した時の「大阪で友達のように過ごしたガイドとの2日間も楽しかったが、そのあとの一人旅も楽しかった、それは自分と仲良くなれたからで、人生もそうかもしれない、自分自身はいつも自分のそばにいる」と発見した思いを発表した。
 上級・オープン優勝はサイラス・ワインバーグさん「おにぎり」。大きな身振り手振りで「日本に行っておにぎりを毎日食べたいと思っていた小学生の頃から日本語を習い、日本に高校留学した。打ちのめされることもあったけど夢を忘れかけた時、おにぎりのことを思い出した、今も日本語学習を継続している。皆さんも目的や夢を思い出して進んでください」と語りかけた。

大学生の部で優勝した3人。左から、ワインバーグさん、デンさん、パルナシュビリさん。2026年3月7日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
大学生の部で優勝した3人。左から、ワインバーグさん、デンさん、パルナシュビリさん。2026年3月7日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 全国大会に向けて、パルナシュビリさんは「全国大会でもっとたくさんの人の前でスピーチできることを楽しみにしていますし、もっと深く日本語を学んでいきたいと思います」と意気込みを語った。

 デンさんは2024年に大学生の部初級で優勝し全国大会に出場、今回は2回目という。発表した内容に触れ、「これからも自分自身と丁寧に向き合い、楽しく旅を続けていきたいと思います」と日本語で語った。

 3人に自身の名前の日本語表記を聞くと、それぞれがカタカナで書いたが、ワインバーグさんは漢字の当て字があると「最来寿・葡萄酒蟲(サイラス・ワインバーグ)」と披露した。スピーチでも語ったようにと前置きして「これからも(日本語を)続けていきたいし、もっと広げていきたい」と話し、全国大会に向けては「すごくいい機会だと思っているし、楽しみたい。こんな機会を得られて感謝しています」と語った。

 この日は、全国大会に出場する優勝者だけではなく、高校生・大学生の各部門上位3人も表彰された。BC州日本語弁論大会は、UBC、UBCアジア研究学科、バンクーバーの日系企業・団体、日本の姉妹都市(安中市、千葉市、釧路市、さいたま市)が協力している。

第38回BC州日本語弁論大会 
高校生の部優勝者

初級(Beginner)
Sophie Kucherenko「虫の人生」

中級(Intermediate)
Alison Shirran「言葉の壁」

オープン(Open)
Keira Ho「グローバル化の中で、私たちは何を失いつつあるのか」

表彰式終了後、審査員やUBCアジア研究学科長のシャラリン・オルバー教授らと一緒に。2026年3月7日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
表彰式終了後、審査員やUBCアジア研究学科長のシャラリン・オルバー教授らと一緒に。2026年3月7日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

(取材 三島直美)

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