
ジム・コジマさん(本名:ユズル・コジマさん)
1938年3月、スティーブストン生まれ
1942年アルバータ州レスブリッジに強制移動、1946年にグランドフォークスへ移動、1951年にスティーブストンに戻る
元カナダ柔道協会会長、祖父母は和歌山県御坊出身
アルバータ州レスブリッジの農場へ
カナダ政府の強制収容政策が始まった1942年、コジマさん一家はアルバータ州レスブリッジ市へと鉄道で移動した。コジマさんは当時4歳。バンクーバーからトンネルをいくつも抜けて着いたのはカルガリー市だった。「母が『カルガリーもそんなに悪くないかもね』と言っていたのを覚えています」。しかしそれからさらに列車に揺られて到着したのがレスブリッジだった。
レスブリッジはカルガリーから南に約215キロメートルに位置する町。冬の寒さは平均で氷点下10度、厳しい時には氷点下40度にもなる乾燥地帯で、強風の日が多い地域としても知られている。
「レスブリッジの駅に着くと、そこには農家がズラリと並んでいました。名前を呼ばれると、そこが自分たちの行き先の農家でした」。コジマ家は両親と祖父母、もう一人の祖父とコジマさんの6人だった。強制収容は収容先が農場の場合は家族一緒に移動できた。
「住まいはニワトリ小屋でした。冬の時期はニワトリ小屋のひさしが開くと雪が舞い込んでくるので、母は服や紙や段ボールでふさいでいました」。そこの農家のブレア夫妻はとてもいい人だったと振り返る。「豚や牛を殺した時には肉を分けてくれたりして、とても親切でした」。夫妻には4人の息子がいて、兄弟のように育ったという。「(移動した)当時は英語は全く話せなくて、日本語しか話せませんでした。それでも一緒に遊んでいると子どもですからすぐに英語は習得したね」。学校にも一緒に通った。
ただブレア夫妻はとても貧しい農家だったという。そのためコジマさんの両親は農家を移ろうとして何度も夫妻に告げようとしたが結局言い出せず5年滞在した。「日本人は義理堅いですからね」。

1947年に別の農場に移った。1948年12月には叔父がいたグランドフォークスへ。ここにも強制収容でバンクーバーを追われた日系カナダ人のコミュニティがあった。そして、コジマさん一家は1951年にスティーブストンに戻る。
農場での生活を振り返ったコジマさんは、シュガービート(テンサイ)農場で働いていた父親たちのことを語った。冬にはシュガービート工場で働くが、日系人は屋外での労働の上、昼食や休憩でも屋内に入れなかったという。「氷点下30度、40度の中、お弁当も凍っていたに違いないのに、日系人たちが文句を言っているのを聞いたことがありませんでした。なんとか我慢していたように思います」。
日系人漁師を必要としたスティーブストンへ
コジマさんたちがスティーブトンに戻った当時は、バンクーバーの漁業会社がカナダ国内を回って日系人漁師をリクルートしていたと振り返る。「BCパッカーズ(ブリティッシュ・コロンビア・パッカーズ・リミテッド)、ネルソン・ブラザーズ(ネルソン・ブラザーズ・フィッシャリー・リミテッド)、グレート・ウエスト(グレート・ウエスト・パッキング・カンパニー)などの会社が、日系人漁師に戻ってくるようにリクルートしていました。日系人漁師が多いほど、会社にとって利益となることが分かっていたのでしょう。それだけ彼らが漁師として優秀だったというです」。
当時、会社は日系人漁師をリクルートするため、将来的に家を購入するためのローンも用意していた。それは漁師たちにとっても悪い条件ではなかった。会社は「日系人漁師たちを非常に信用していました」。一生懸命働くし、それが会社にとっては利益になる。双方にとって都合がよかった。こうしてスティーブストンに日系人たちが戻ってきた。
コジマ家はネルソン・ブラザーズ・フィッシャリーの社宅に1956年まで住み、それから家を購入して移り住んだ。
日系一世、二世が築いたスティーブストン日系コミュニティへの信頼
スティーブストンは、今でもカナダで唯一と言っていい日系カナダ人コミュニティ地区。それを強制収容終了後にも実現できたのは日系一世、二世たちの功績が大きいとコジマさんは振り返る。
スティーブストンの歴史は日系カナダ人の歴史でもある。1877年に日系移民第一号とされる永野万蔵が到着してから、本間留吉、工野儀兵衛、トーマス・ショーヤマ、村上アサヨと、スティーブストンにゆかりの深い先人たちをコジマさんは紹介した。その功績はスティーブストンの日系コミュニティにとどまらず、カナダ社会にも大きく貢献してきたと話す。
中でも1898年に日系フィッシャーマン・ベネヴォレント・アソシエーションによってスティーブストンに設立された、カナダで初めての皆保険制度を取り入れた病院は、日系人だけでなく当時の「白人」コミュニティも利用したと説明する。「(バンクーバー市の)セントポール病院まで間に合わない場合は白人の女性も日系の病院を利用しました。私の白人の友達も日系の病院で生まれています」。日系人だけではなく地域の病院として機能していた。この日系病院は現在のカナダの皆保険制度の手本となっている。それはトミー・ダグラスとトーマス・ショーヤマの功績によるところが大きいと紹介した。
また戦後スティーブストンにコミュニティセンターを設立するとき、日系のコミュニティセンターを希望していた一世たちだが、白人コミュニティも同様にセンターを希望していたため、協力してコミュニティセンターを設立することに同意した。コジマさんはこうした先人たちの協力姿勢を「尊敬する」と話す。条件として柔道部屋を作ること、剣道の練習時には体育館を使用できるようにすることを付けた。アソシエーションは15,000ドルを寄付、センターは1957年にオープンした。引き続き必要な残りの費用はスティーブストンの住民が追加税で負担。20年かけて1977年に完済した。この経験は1972年4月18日にオープンしたマーシャルアート(武道)センター設立にも生かされた。「日系人と白人との強い関係があったからこそ実現したと思います」と振り返る。
スティーブストン日系コミュニティがうまくいっている理由について、リッチモンド市との良好な関係を挙げる。「私と同世代の多くの白人たちは日系との関係に強い情熱を持っています」。それは1973年のリッチモンド市と和歌山市との姉妹都市提携にも表れた。人口数の差などもありかなり難航したが、最終的には和歌山市長の決断で決定した。1975年からは高校生がお互いの都市を訪問している。今ではカナダで最も交流が盛んな姉妹都市としてカナダ政府にも認められていると胸を張る。
「日系人はリッチモンド市に貢献する善良な市民として認識され、コミュニティからもリスペクトされていると思います。それは日系がやろうとすることは日系だけではなくコミュニティ全体に利益をもたらすからだと思います」。
市やコミュニティからの信頼は「戦前の日系一世、二世らが築いてくれた道から来ていると思います」。
スティーブストンとバンクーバー、2つの日系コミュニティ
「スティーブストンの歴史はバンクーバーの日系の歴史とは少し違うんです」。スティーブストンにいた日系人の約75%が和歌山県からの移民と話す。
スティーブストンはバンクーバー市南隣のリッチモンド市の南西端に位置するフレーザー川に面する地域。1888年和歌山県三尾村から工野儀兵衛が来て以降、同地から漁師を呼び寄せ、和歌山県出身の漁師コミュニティとなった。
1949年に強制収容政策が終了し、スティーブストンに日系人が戻ってきたが、バンクーバーの日系コミュニティとは「溝」があったと話す。それが顕著に表れたのが日系センター(現日系文化センター・博物館)設立時だったと振り返る。
1980年代、日系カナダ人のリドレス運動はカナダ政府との補償合意で1988年に実を結んだ。その時に合意した基金で日系センターが建てられることになった。当時リッチモンドで日系センター建設のための寄付集めをしていたコジマさんは年配の日系一世に日系センターがバーナビー市に設立されるので協力しようと呼び掛けると「その人は『絶対嫌だ』と言ったんです。『戦争前にバンクーバーの日本人にバカにされた』、だから嫌だと」。バンクーバーのコミュニティと溝があるとは思っていたが「これほどまで深いとは思っていませんでした」。コジマさんや少し上の世代はトロントやモントリオールに建てられるなら、バンクーバーに建てられる方がいいとセンター建設に前向きだったと振り返る。
日系コミュニティ間の溝はそれ以外にも、スティーブストンでは個人が補償金を受け取ることに反対していた一世や二世が多かったことでも分かったという。強制収容を経験した多くの人が亡くなった後だっただけに、「多くの漁師たちが私に言ったのは『汚いお金だ。友達が亡くなってから自分だけお金をもらうのは間違いだ』ということでした」。スティーブストンの多くの日系漁師たちがそう感じていたと言う。
「リッチモンドの日系人たちは他のグループとは違う感じ方をしていました」と当時の一世たちの思いを代弁した。
柔道の師匠の教え「コミュニティのために」を胸に
1953年「両親から、柔道が始まるからおまえも柔道を習いに行くぞ」と言われ、コジマさんの柔道人生が始まった。当時スティーブストンの漁師には黒帯が10人。しかし、環境は揃っていなかった。柔道着もなければ、畳もなかった。全てが即席だった。それでも子ども81人が習い始めた。そのうちコジマさんを含め5人は今でも元気で柔道をやっている。「もうみんな80代で、86歳が3人、84歳が2人です」と笑う。
スティーブストンから始まったコジマさんの柔道歴は、1957年には黒帯となり、1960年代にはカナダ柔道協会の副会長、1988~94年まで会長を務めた。1974年、国際柔道審判となり、その後はオリンピックや世界大会の審判を務めた。国際柔道連盟の審判員理事も6年務めている。こうした柔道人生を「幸運だった」と振り返る。「タイミングが合ったので上手く波に乗った感じです」。そんな中でも節目には師匠に近況を報告した。その時に、「『自分だけの利益のためにやっていたならすぐに辞めさせていた』と言われました。でも『みんなのためにやるなら私のできることならなんでも手助けしてやる』と」。
スティーブストンと柔道の関係は深い。1938年には柔道の祖、嘉納治五郎がバンクーバーを訪問。その際に書いた書「達 必 力(勤めれば必ず達す)」が道場に掛けられている。
1973年にはスティーブストン柔道クラブは東海大学と交流をはじめ、「51年間交流が続いています。2年に一度は3年生35人くらいが来て、柔道大会やホームスティをしています」。元日本代表の山下泰弘さんや井上康生さんも訪れている。
コジマさんは「師匠はいつも、『若いうちは師匠や学校の先生など多くの人から全てのことを吸収すればいいが、いつかそれは恩返しとして返さなければいけない』と言っていました」。
柔道でも姉妹都市でも若い人の交流は大切だと語る。それは先人から受け継いだ日系人が大切にしていたものを若い世代へと引き継ぐコジマさんの「恩返し」でもある。
「日系の一世・二世は戦争が終わってもほとんど愚痴を言いませんでした。漁師たちが網を補修しているところに行って『おじさん、戦争前や戦争中の話を聞かせてよ』と言っても、『コジマさん、仕方がないことだったんだよ』と言うだけでした。そして子どもや孫たちの将来のことを考えなければいけないと言っていました」。そういう一世たちの姿勢をコジマさんは「尊敬している」と語る。
そしてトーチは若い世代へと引き継がなければいけないと。日本で高校生たちを前に講演した時は、日系一世・二世がスティーブストンに残した「魂」として、「一生懸命働く」「諦めない」「文句を言わない」「行儀よくする」「日本の恥になるようなことはしない」ということを伝えると話す。そして、スティーブストンでは市や市民と協力して日本の伝統や文化を守り、100年前に日本から来た日本人が残してくれた「魂」「マナー」「敬意」「プライド」を若者に伝えていると締めくくると笑う。「(日系人に起きた)歴史的な事柄は、ネガティブな形でだけで伝えるべきではなく、次の世代のためにそれはポジティブであるべきだと思います」と語った。
(記事 三島直美)
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