今回は、前回に引き続き、サレー市にあるBC Cancer Agency Surreyでの私の実習体験から、がんの薬の話をします。
かつて、がんの診断は「死の宣告」に近いものとして受け止められることが少なくありませんでした。手術・放射線・化学療法の3本柱が治療の中心を担ってきましたが、従来の抗がん剤はがん細胞だけでなく正常細胞にも影響が及ぶため、脱毛・嘔吐・骨髄抑制といった副作用は避けられませんでした。ところが、最近になって、がん治療は革新的な進歩を遂げています。
わかりやすく言えば、今やおっさんとなってしまった私が、薬学部の学生の頃には教科書に載っておらず、授業では一言も触れられなかったような話が、新たなスタンダードとなっているのです。
2000年代以降、「特定の分子を標的とする」という設計思想のもとに、抗体医薬・免疫チェックポイント阻害薬・CAR-T療法という3つの革新的な治療法が登場しました。もちろんこれらは万能ではなく、すべての患者さんに効くわけでも、副作用がないわけでもありません。それでも、これらの治療法がもたらした変化は非常に大きく、がんと共存しながら日常生活を送り続ける「慢性疾患としてのがん」という概念が、現実のものになっているのです。
抗体医薬(モノクローナル抗体)
抗体とは、体がウイルスや細菌と戦うときに使うタンパク質です。特定の相手にだけくっつく鍵と鍵穴のような仕組みを持っています。抗体医薬は、この性質を利用してがん細胞の表面にある特定の目印に結合し、増殖をブロックします。
例えば、HER2陽性乳がん(がん細胞の表面に増殖スイッチのような受容体(HER2)が、通常よりも過剰に発現しているタイプの乳がん)の場合、トラスツズマブという薬はそのアンテナに直接くっついて、命令が届かないようにします。さらに、抗体薬物複合体であるトラスツズマブ デルクステカンは、抗体を運び屋にして、毒性の強い薬をがん細胞の内側にだけ届けます。外からは攻撃せず、中に入ってから作用するため、正常な細胞への影響が少なくなります。抗体医薬により、HER2陽性乳がんの予後は大きく改善しました。転移があっても複数の薬を順次使い続けることで、数年単位で病状をコントロールする患者さんが増えています。
免疫チェックポイント阻害薬
私たちの体には、もともとがん細胞を攻撃する免疫の力が備わっています。ところが、がん細胞はその免疫に「攻撃するな」というブレーキをかけることができます。1992年、京都大学の本庶佑教授がこのブレーキの正体であるタンパク質「PD-1」を発見し、およそ20年の研究を経て、2014年にニボルマブ(商品名オプジーボ)として実際の治療に使われるようになりました。この功績により、本庶教授は2018年にノーベル生理学・医学賞を受賞しています。
体の中には、ウイルスやがん細胞などの敵をやっつける、体を守るガードマンたちがいます。その中心になって働くのがT細胞です。T細胞のTは胸腺(きょうせん/Thymus)の頭文字で、骨髄でつくられた後、胸腺へ移動し、敵と仲間を見分ける訓練を受けます。訓練を終えたT細胞は体の中をパトロールしながら、敵を見つけてやっつける役割を担っています。ところが、がん細胞は「私を見逃して」という巧妙なメッセージを出してT細胞を騙します。このメッセージを出すタンパク質が「PD-L1」、そのメッセージを受け取るT細胞側の耳にあたるのが「PD-1」というタンパク質です。メッセージが耳に届くと、T細胞にブレーキがかかり、がんをやっつけられなくなってしまいます。
ニボルマブ(商品名オプジーボ)やペムブロリズマブ(商品名キイトルーダ)は、この耳(PD-1)を先にふさいでしまう薬です。耳がふさがれると、がん細胞の巧妙なメッセージが届かなくなり、T細胞のブレーキが外れて、がんをやっつけられるようになります。このような薬を免疫チェックポイント阻害薬と呼びます。薬ががん細胞を直接壊すのではなく、体自身の免疫力によりがん細胞を攻撃するのが、これらの薬のポイントです。効果が出る患者さんでは、長期にわたって奏効が続くロングレスポンダーと呼ばれる例が存在します。かつては治療法がほとんどなかった悪性黒色腫や非小細胞肺がんで、5年から10年単位の長期生存例が報告されるようになっています。ただし、免疫が過剰に働くことによる副作用(免疫関連有害事象)が出ることもあります。
CAR-T細胞療法
CAR-T療法は、患者さん自身の免疫細胞(T細胞)を体の外に取り出し、がん細胞を見つけやすく遺伝子改変して体内に戻すという治療法です。薬ではなく、生きた細胞そのものが治療の主役という点で、これまでの医療の枠を超えた発想です。患者さんの血液からT細胞を採取し、その細胞に「がん細胞を見つけるセンサー」を遺伝子技術で取り付けます(キメラ抗原受容体(CAR)と呼ばれるもの)。そして、センサーつきのT細胞を増やして、点滴で体内に戻しますが、体内に戻ったT細胞は、がん細胞の目印を見つけると自ら攻撃します。再発・難治性の血液がんで大きな成果を上げており、これまで有効な手段がなかった患者さんが回復する事例も報告されています。一方で、製造に数週間かかること、数千万円規模の高額医療費、発熱や炎症などの重篤な副作用リスクといった課題も残っています。現在は固形がんへの応用や、コストを下げる技術開発が世界中で進められています。
これらの薬の登場により、がんは「治す病気」から「共存する病気」へと、その概念が変わりつつあります。糖尿病や高血圧が「完治」ではなく「管理」を目標とする病気として定着したように、がんもまた、長く付き合いながらコントロールしていく病気に変化してきたのです。もちろん、すべての患者さんにこの変化が当てはまるわけではありません。がんの種類・病期・患者背景によって状況は大きく異なりますし、治療が奏効しないケースがあることも事実です。長期治療に伴う医療費の問題も、現実として無視できません。それでも、5年後も10年後も外来で薬を受け取りながら普通の生活を続ける患者さんの姿が、確実に増えています。BC Cancer Agencyで多くのがん患者さんを目の当たりにした私としては、いつかさらなるバイオテクノロジーの進歩により、がんが風邪のように治る病気になる日が来てほしいと、思わずにはいられません。
*薬や薬局に関する一般的な質問・疑問等があれば、いつでも編集部にご連絡ください。編集部連絡先: contact@japancanadatoday.ca
佐藤厚(さとう・あつし)
新潟県出身。薬剤師(日本・カナダ)。 2008年よりLondon Drugsで薬局薬剤師。国際渡航医学会の医療職認定を取得し、トラベルクリニック担当。 糖尿病指導士。禁煙指導士。現在、UBCのFlex PharmDプログラムの学生として、学位取得に励む日々を送っている。 趣味はテニスとスキー(腰痛と要相談)
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