~工藤壮人選手、32才早すぎる旅立ち~
2016年のシーズン、MLS(北米サッカーリーグ)のバンクーバー・ホワイトキャップスに所属し、今シーズンはテゲバジャーロ宮崎でプレーしていたサッカー元日本代表の工藤壮人選手が10月21日水頭症で急逝した。
高校時代から付き合っていた奥さんと今月4才になる愛娘を残しての旅立ち、32才だった。
彼が最後にインスタグラムに投稿した写真は、Jリーグ250試合出場を自宅でお祝いしている様子で、ケーキの上には250のキャンドルが灯り、当時3才半の愛娘とキャンドルの火を吹き消すシーンだった。昨年オーストラリア・ブリスベンのチームへ移籍した際も、フィールドにいる工藤選手を娘さんが観客席から見ているシーンをアップするなど、最近は娘さんとの2ショット写真が多く投稿されていた。
工藤選手は2016年シーズン、バンクーバー・ホワイトキャップスでフォワードとしてプレーをしていたが、フォワードの宿命であるゴール数が思ったようにあげられていなかった。当時のホワイトキャップスはチームプレー重視というより個人プレーを全面に出すスタイルで、前線でボールを持った選手はパスを選択せずに無理な位置からでも自分でシュートを打つというシーンが多かったように思う。
その前のシーズンまでJリーグ・柏レイソルで日本人最多得点をあげる活躍をし、2013年のJリーグヤマザキナビスコカップでは決勝ゴールをあげ、MVPも獲得した工藤選手にとってはフラストレーションのたまる状況だったと想像できる。
そしてシーズン開幕から2ヶ月ほど過ぎたシカゴ・ファイヤーFC戦。トップスピードでゴールへ向かう途中、相手ゴールキーパーに衝突し、ピッチで倒れ、試合中にバンクーバー総合病院に運ばれた。
脳震盪(のうしんとう)を起こし、あごを数箇所骨折していた。
3歳からボールを蹴り始めた彼が、2ヶ月もサッカーから離れなくてはならないという、サッカー人生で経験したことのない苦しい生活が続いた。
ワイヤーで口内を固定され、流動食のみの生活にも関わらず、2ヶ月という短期間で復帰出来たのは、奥さんの献身的なサポートがあったからだろう。
そして、2016年7月16日のオーランドFC戦。セットプレーから決めた、工藤選手渾身のへディング・ゴール。その日の試合会場だったBCプレースのあの興奮を、私は一生忘れることはないだろう。チームメイト、満員の観客が、怪我から復帰後の工藤選手のゴールを心の底から喜び、会場は熱狂の渦と化した。ゴール直後、彼が真っ先に指を差したのは奥さんが見守っている選手家族席だった。普段は落ち着いてプレーをしている工藤選手が喜びを叫び続けた。
それから両手で2と3の文字を頭の上に掲げる。これは当時怪我で欠場していた同じフォワードの23番ケクタ・マネー選手の背番号を指していた。復帰後初ゴールで喜びの絶頂にありながらも、チームメイトのことを思う工藤選手にあらためて尊敬の念を抱いたことを、その時の写真を見て思い出す。
ホワイトキャップス1年目のシーズンは、顎の怪我もあり、納得のいく成績を残せなかった。
それでも工藤選手と奥さんはバンクーバーをとても気に入り、長く住めたらいいねとよく話していたそうだ。
シーズン中も時間があると、コールハーバーやガスタウンを散歩したり、コーヒー好きの2人はカフェ巡りをしながらバンクーバーでの生活を満喫していた。
そして2016年シーズン終了後、現在日本代表監督で、当時サンフレッチェ広島の監督だった森保一氏からの強い誘いで、2年間在籍予定だったホワイトキャプスとの契約を1年残し、サンフレッチェ広島へ電撃移籍する。Jリーグの舞台で結果を残し、再び日本代表に選ばれ、ワールドカップに出場したい、という願いもあったのかもしれない。当時のバンクーバー・ホワイトキャップスでは難しいと判断したのだろう。
Jリーグ(サンフレッチェ広島)に復帰した後も、レノファ山口、ブリスベン・ロアーFC(オーストラリア)、テゲバジャーロ宮崎で大好きなサッカーを続けてきた。
行く先々で献身的にチームのためにプレーし、何処へ行ってもファンやサポーターを大切にする彼の姿に、ますますファンは増えていった。
シーズンオフも休むことなく自ら子どもたちと触れ合う機会を作り、2017・2019年はバンクーバーでサッカークリニックを開催し、2018年にはインドのデリーなどで現地の子どもたちとボールを蹴るなど、精力的にサッカーの普及にも努めた。
その間もバンクーバーでの怪我のこともあったので、念のため大きな病院で精密検査を受けることを奥さんは何度も勧めていたようだったが、”今はサッカーに集中したい” と言い続けていたと聞いた。
もし私が彼の立場だったら、病院の検査結果で万が一異常が見つかり、サッカープレーヤーとして現役続行不可能となったら?愛娘にサッカープレーヤーの自分を見せられなくなってしまうかもしれない。そう考えたら私でも検査を先延ばしにしようとしたかもしれない。
そして、10月18日、日本でも大きく報道されたように工藤選手は水頭症の手術を受けた数日後、容態が急変し、10月21日、家族と別れの言葉を交わせないまま逝去した。
そのニュースを聞いた時、私は悪い夢を見ているのだと信じていた。現実として、どうしても受け入れられなかった。
将来家族3人はもちろん、娘と2人でいろんな景色をみせてあげたいと言っていた工藤さんがどうして?サッカーの神様は何故?と何度も自問したが答えは出なかった。
下記に、今年11月に日本で撮影した写真を掲載するが、もともと私はこのような写真を撮りに日本行きのチケットを購入していたのではなかった。手術後1、2週間で退院すると聞いていたので、この時期ならリハビリをしている工藤選手をご家族と一緒に写真を撮ることで励ませるだろうと思っていたのだ。
でも、それは叶わなかった。
工藤選手に手向けられたたくさんの花、彼のユニフォームや写真、私はひどく困惑し、目の前で繰り広げられている光景を受け止められずにいた。しかし、それと同時に、工藤選手は日本各地でこんなにも愛され慕われていたのだ、とあらためて知ることができた。
旅の最後に訪れた宮崎で、工藤選手の奥さんは「最初は夫婦2人、娘が生まれてからは家族3人で、サッカーを通して色々な土地に連れて行ってもらえて、多くのことを経験できたことは、娘の将来にもきっと繋がる」と涙ぐみながらも前向きな思いを語ってくれた。
今、私から伝えたいのは、“バンクーバーに来てくれて本当にありがとう”という言葉だ。
工藤選手に出会えたことを私はとても誇りに思う。
彼ほど周りの人を気に掛けられるプロスポーツ選手を他に知らない。ホワイトキャップス時代、試合終了後には必ず場内を周り、観客と一緒に写真を撮ったり、サインを書いたりして、ロッカールームに引き上げる最後の選手はいつも彼だった。シーズンオフに、バンクーバーで開催されたサッカー教室「工藤ファミリー・サッカークリニック」に参加した子どもたちは、サッカーの神様が工藤選手に会わせてくれた!と、いつまでも感謝することだろう。
工藤選手がバンクーバーにいる私たちだけでなく、世界の多くの人たちをサッカーで幸せにしたように、私は写真家としてより多くの人を幸せにしたい、より良い写真を1枚でも多く残したいとあらためて強く思った。
(写真、文: 写真家・斉藤光一)
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