第134回 「東洋のスイス」って

~グランマのひとりごと~

 許 澄子

 「ねぇ、シアヌーク殿下って知ってる?」答えは「知らない」。最近、何となく若い友人達に同じ質問をすると決まって「知らない」。
 そして、グランマの長い話が始まる。彼ってね「カンボジアの国王だった人」なの。『ノロドㇺ・シアヌーク殿下』っていうの。

 私が十代のある時、日経新聞の最終ページに外務省の人がシアヌーク殿下の事を書いた記事が掲載されてね。殿下が自分の国を「東洋のスイス」にすると言ったのよ。私の憧れの国「スイス」。東洋にも平和な「スイス」ができるのだぁ。感動した10代の私はその掲載記事の感想を、どんなに希望と夢を持たせてくれたニュースだったかと書いて新聞社宛に送ったのだ。
 そして、気が付くと新聞社は、その子供の手紙を外務省の記事を書いた人に伝えた。外務省の人は、それをまた、カンボジア大使館に伝えた。そして、皆が喜んでくれたのだ。当時の私はまだ「夢いっぱいの子供」であったかもしれない。それから、数ケ月後、カンボジア大使館からパーティの招待状が送られてきた。生まれて初めてのパーティだ。母に振袖を着せてもらい、一人で電車に乗って、確か青山に近い大使館へ行った。そこでダンスもやったし、食事も出た。知らないおじさんとダンスをした。幸い、母がダンス好きで、彼女についてダンススタジオで私は社交ダンスを母と一緒に習っていたのが役立った。

 そうして、大使館関係の人達や、その来客たちと友達になれたのだ。やがて10代だったグランマも大学に行き、それらの人達から、アルバイト仕事をもらったり、楽しい時を過ごしていた。ある時、カンボジア大使館からカンボジアでホームステイ体験招待状をもらった。中央大学の女子学生と私の2人が行けるが滞在費は大使館側と受け入れ家族が持ってくれるが、飛行機代は自費だという。まだ自由渡航のできない時代だった。母に相談すると「飛行機代は出すよ」「頑張って行っておいで」と言ってくれた。もう正確な数字は記憶にないが、当時で数十万円したと思う。自分が大学を卒業する時、研究室に残ると給料は月9000円、当時、男子大卒の給料は14000円くらい。よく母に「お金があったなぁ」と思う。外国へ行くのは難しい時代だった。自由渡航になったのは1964年くらいだったと思う。出発の時、羽田空港の出発口には赤いカーペットが敷かれて、送迎の人も盛装している人が多かった。カンボジアの首都プノンペンへの直行便はなかったから、まずシンガポールへ行き、マレーシア経由でプノンペンへ行った。

 プノンペンの空港には最初のホームステイ先のペントール夫妻が迎えに来てくれた。奥さんは日本人だ。そして、家に到着すると間もなく、日本大使館から車が来て綺麗なカードを渡された。読むと「歓迎します。この車で大使館へお越し越し下さい。美味しいおはぎが待っています」と言うことでした。
 早速、その車で大使館へ行くと大使(かもしれない)誰か分かりませんが、優しく迎えて下さり、色々な滞在注意事項とカンボジアの歴史等おはぎを食べながら貴重な話をしてくださいました。
 彼は「この国は貧しい国です。ホームステイ先ではお醤油の一滴、トイレの紙一枚無駄に使わないように、そして、お礼状を忘れないように必ず出してください」と言われました。あれから、約60数年、未だに忘れられない優しい大使の言葉です。そして、中央大学の学生さんと私は、プノンペンに滞在し、国内便でシムリップへも行き、アンコールワットの石段で昼寝もしました。観光客等いません。フランス人の考古学者達が、アンコールワットの所々で研究作業をやっていました。

 アンコールワットのあるシムリップは大使館がホテルの予約をしてくれた。しかし、小さなホテルで壁にそって置かれたWベッドが斜め坂になっていて、それに2人で寝る。それは疲れるのです。結局、数日後、自分達でタイの国境近く「バッタンバン」へ行くことにした。日本へオレンジ産業視察に来たカンボジア人グループの案内をアルバイトでやったことがあり、その人達に会えればうれしいと思ったのだ。 

 シムリップからバッタンバンへは早朝起床し、バス停へ行くとその周りに子供がフランス風の長ーいバゲットを売り歩いていた。ここがフランスの植民地であったことを思い出さされた。私達は細長いバゲットを買った。バスのドアは横に並んだ座席列ごとで6-7ケ所位あった。私達を運転手の彼の隣席に座らせてくれた。そして、長いバスの旅が始まった。窓から見る農地には、水牛や象が農耕をしていた。窓にかけた右手が真っ黒に日焼けしてひりひりした。

 そして、夕方、「バッタンバン」に到着。バスを降りると周りに何ーもない。
 インフォメーションも看板もない。だーれもいない。2人で途方にくれてスーツケースを引きずって到着した建物の外側を歩き始めた。すると何処からか声がする。『スミ―コ』『スミ―コ』、道路の先方を見ると自転車が走ってくる。
 どうやらそこから聞こえるような気がする。
 そして、声は確かにその自転車上の青年からだった。彼が私の名前を呼んでいたのだ。かなりの距離があったから、どうやって私だと分かったのか、今もって不思議だ。彼は以前日本のオレンジファームの視察団員の一人だった青年だ。私の事を覚えていたのだ。私達2人は彼の案内で、その時の団長さん宅へ行った。もう皆が大喜びだった。そして、ホテルも予約してくれた。
 バス到着所が駅と思ったが、そこは公民館だった。そこで、その夜、晩餐会があるから一緒に行こうというので同行した。大勢の人達に歓迎され、やがて皆が私達に歌を歌えというのだ。「困ったなぁ、私、音痴だから」と同行の女子大生の人に言うと、「何でもいいから歌いましょうよ」という。そして、2人で「桜、桜」を歌い始めた。暫くすると私の音程がくるってきた。困ったなぁと思ったとッタン、私は笑ってしまったのだ。「わっはは、わっはは」と笑う私に、観客たちも大笑いした。「わっはは、わっはは!」と会場中が大笑いになったのだ。楽しかった!あの音痴が役立ったのだ。

 プノンペンへの帰路はオレンジ村の村長さん(?)ご夫妻が車で象や水牛が農耕する平和な風景を見ながら、素晴らしい「東洋のスイス」の旅をすることが出来ました。

 しかし、それから数年後、この国には残虐な『ポルポト政権』時代がやってきたのです。あの「東洋のスイス」を夢見た、シアヌーク殿下は北京へ亡命、やさしい人達、オレンジの村バッタンバンは地雷の村となり、多くの人が殺されました。ホームステイ先の一つだった日本人女性ミチコさんは日本でNHKの行方不明者リストに掲載され、テレビに出ていました。又、プノンペン到着時、最初に空港へ迎えてくれたホームステイ先、ペントールさんご家族の事は一切分かりません。

 つまり、今から約40年前、私の夢の国「東洋のスイス」カンボジアはポルポト政権時代に粛清と虐殺の嵐が吹き荒れ、人口の約1/4にあたる200万人が命を落としました。一方で12世紀にはアンコール朝が最盛期を迎え、今でも世界中の人が集まるアンコールワットを立てるなど明るい歴史もあります。どんな歴史でも明るい過去と暗い過去、両方持つものですが、その両方が今ではカンボジアの大きな観光資源として成立しているのもまた事実なのでしょう。