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今年行きたい、カナダ紅葉スポット ケベックの秋に出会う旅

ラ・モーリシー国立公園の紅葉(モーリシー地方)。写真提供:ケベック州政府観光局© GouvQc / Laurene Bath
ラ・モーリシー国立公園の紅葉(モーリシー地方)。写真提供:ケベック州政府観光局© GouvQc / Laurene Bath

 あっという間に夏も終わりに近づき、強い日差しの合間に吹き抜ける風が少しずつ涼しさを帯びてきた。街の緑をよく見てみると葉がわずかに色づきはじめ秋の気配が漂い始めている。

 9月中旬から10月下旬にかけてケベック州では、山や森は赤や黄色のグラデーションに染まり、短い秋が一気に深まっていく。

 今回はケベック州政府公式観光サイト「Bonjour Québec」が勧める、ケベックシティやモントリオールから日帰りで行ける4つの紅葉スポットを紹介する。

氷河谷に広がる紅葉と幻想的な霧「ジャック・カルティエ国立公園」

エポール川沿いの紅葉風景(ジャック・カルティエ国立公園、ケベック州・ストーンハム=エ=テウクスベリー)写真提供:ケベック州政府観光局 © GouvQc / Olivier Langevin
エポール川沿いの紅葉風景(ジャック・カルティエ国立公園、ケベック州・ストーンハム=エ=テウクスベリー)写真提供:ケベック州政府観光局 © GouvQc / Olivier Langevin

 今年の秋、特に「お勧め」と教えてくれたのが、ケベックシティから北へ車で約30分のジャック・カルティエ国立公園。数千年前に氷河によって形成されたU字型の渓谷とジャック・カルティエ川が交差する国立公園だ。

 9月下旬から10月中旬にかけて、谷を囲む木々が一斉に色づき、赤、だいだい、黄金のグラデーションが水面に映り込む。園内には初心者向けの散策路から中・上級者向けの登山道まで整備され、各地点から谷を見下ろすことができる。

 ここはもともと数世紀にわたり、モンタニエ族とヒューロン族が漁業や罠猟のための移動・交易路として利用していた歴史を持つ。

  Bonjour Québecが勧めるのは、何と言ってもジャック・カルティエ国立公園での早朝散歩。川の上に立ち込める霧が幻想的で、まるで絵画のような光景が広がるという。そして、地元のシードルや手作りチーズも忘れてはいけない。秋はシードルや手作りチーズの収穫の季節だそう。旬の味覚も秋の楽しみのひとつだ。

珍しい隕石地形と亜寒帯植生「グラン・ジャルダン国立公園」

秋の森の空撮風景(ガブリエル=ロワ・ウエスト・トレイル、ケベック州・プティト=リヴィエール=サン=フランソワ)。写真提供:ケベック州政府観光局 © GouvQc / Olivier Langevin
秋の森の空撮風景(ガブリエル=ロワ・ウエスト・トレイル、ケベック州・プティト=リヴィエール=サン=フランソワ)。写真提供:ケベック州政府観光局 © GouvQc / Olivier Langevin

 ケベックシティから車で約90分。シャルルボワ地域に位置し、ユネスコ生物圏保護区にも登録されているグラン・ジャルダン国立公園。約3億年前の隕石衝突により形成されたクレーター地形が特徴だ。

 南ケベックでは珍しいタイガとよばれる広大な針葉樹の原生林や、凍結した荒原ツンドラ、高山植物、山岳植生などが混在し、北方系と南方系の植物が共存する生態系を持つ。そこからフランス語で「大きな庭園」を意味する「グラン・ジャルダン(Grands-Jardins)」と名付けられたそうだ。

 特に、モン・デュ・ラック・デ・シーニュへの登山道が人気で、山頂からはクレーター全体と広大な紅葉を一望できる。 Bonjour Québecも紅葉シーズンの色彩は格別だと教えてくれた。園内には全長30キロ以上のトレイルが整備され、体力や目的に応じたコースを楽しむことができる。

ヨーロッパ風の町並みと秋景色「モン・トランブラン」

モンタン・ヴェルト山頂からのパノラマ(ケベック州・ラベル)。写真提供:ケベック州政府観光局 © GouvQc / Olivier Langevin
モンタン・ヴェルト山頂からのパノラマ(ケベック州・ラベル)。写真提供:ケベック州政府観光局 © GouvQc / Olivier Langevin

 ローレンシャン地域にある山岳リゾート、モン・トランブランは、モントリオールから北へ車で約90分。1930年代から観光地として発展し、紅葉の名所としても知られる。

 モン・トランブランでは、サトウカエデを中心とした山肌が9月下旬から10月上旬にかけて赤や黄色に染まり、ゴンドラからは360度のパノラマが広がる。トレイルは家族向けから中級者向けまで多様に整備され、展望ポイントも複数存在しているという。

 モン・トランブランの街は、季節ごとに表情を変える5つのエリアから成っている。世界的に有名なトランブラン・リゾート、山麓のビレッジ、ダウンタウン、モン・トランブラン国立公園、そしてドメーヌ・サン=ベルナールだ。

 その中でも、1895年に「モンターニュ・トランブラント公園」として設立された国立公園はケベック州最古の公園で、400の湖、6本の川、サトウカエデ林を有する豊かな自然が広がっている。

 カヌー、ハイキング、サイクリング、ビア・フェラータ、スカンジナビア式スパ、ゴンドラでの絶景散策など、四季を通じて多彩なアクティビティを楽しめるのも魅力。特に9月下旬から10月上旬はローレンシャンの紅葉が最盛期を迎え、訪れるのにベストなシーズンだ。

 年間を通じて多彩なアクティビティが揃うリゾートだが、ゴンドラから楽しめる360度の紅葉パノラマは秋にしか見られない特別な景色。山肌を覆う赤や黄のグラデーション、一度は眺めてみたい。

湖と山が描く紅葉のグラデーションが美しい「モン・オーフォード国立公園」

森の中に佇むモダンキャビン(ケベック州・ラシーン)。写真提供:ケベック州政府観光局 © GouvQc / Olivier Langevin
森の中に佇むモダンキャビン(ケベック州・ラシーン)。写真提供:ケベック州政府観光局 © GouvQc / Olivier Langevin

 モン・オーフォード国立公園は、イースタン・タウンシップス地域に位置し、モントリオールから車で約90分。スキーリゾートとしても知られる山岳エリアだが、秋には紅葉の名所としても高い人気を誇る。

 標高差のある山肌に沿って広がる針葉樹と落葉樹が複雑な色彩を描き、湖や森林と交じり合う風景が特徴。元々は狩猟の地だったが、現在では62のスキーコースと18の林間ルート、ゴンドラも完備され、四季を楽しめるリゾート地として世界的に人気だという。山頂には5つの展望台に加えてハイキングコースもあり、頂上から紅葉の絶景を楽しめる。

 公園から車で約30分南下するとメンフレマゴグ湖の西岸に建つ「サン=ベノワ=デュ=ラック修道院」がある。1912年に創設されたベネディクト会の修道院で、グレゴリオ聖歌や個性的な建築で知られる。

 さらに、秋の一大イベント「ラ・フランベ・デ・クルール」は、モン・オーフォード国立公園とモン・オーフォードのスキーリゾート一帯を舞台に開催される。期間中の週末にはさまざまなイベントが行われ、モン・オーフォードの麓にあるテラスでは、シードルやチーズといった地元の味を楽しめるフードトラックが並び、音楽パフォーマンスも披露される。開催期間は9月12日から10月13日まで。

 Bonjour Québecでは、紅葉の進み具合を確認できるインタラクティブマップも提供している。https://www.bonjourquebec.com/en/explore/seasons/fall

(取材 田上麻里亜)

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カナダで変わる「働く」のかたち パソナが見た10年の雇用変化

左から、パソナ・カナダの和田文枝さん、水野あおいさん、ジョイ・ヘイウッドさん。提供:パソナ・カナダ
左から、パソナ・カナダの和田文枝さん、水野あおいさん、ジョイ・ヘイウッドさん。提供:パソナ・カナダ

 カナダに進出する日系企業の雇用環境はこの10年で大きな変化を遂げたという。現地採用の増加、多様化する人材ニーズなど、企業の採用活動はより複雑化している。

 1992年、オンタリオ州トロント市のダウンタウンに設立されたPasona Canada, Inc.(パソナ・カナダ)は、同州を中心に日系企業と現地人材の橋渡しを担いながら、こうした変化を最前線で見てきた。

 今回は、オンタリオ州での日系企業の雇用の現状と背景を聞いた。

現地人材を活用する企業が多数派に

「パソナグループの価値観を大切に(求職者を)支援しています」と語る、ジョイ・ヘイウッドさん。提供:パソナ・カナダ
「パソナグループの価値観を大切に(求職者を)支援しています」と語る、ジョイ・ヘイウッドさん。提供:パソナ・カナダ

 「現在では現地で人材を確保しようとする動きが主流になっています」と話すのはパソナ・カナダ社長ジョイ・ヘイウッドさん。 実際にパソナ・カナダが支援する求職者のうち約半数は日本人だが、残りの半数はカナダ人や他国出身の移民が占めており、「この10年で登録者の層は非常に多様化しました」と語る。

 ヘイウッドさんは、このような人材の広がりについて、多文化社会のカナダならではの特徴ではないかとも説明する。また「世界中から来る求職者のスキルや価値観に触れることで、私たち自身も常に学びがあります」と話し、人材の多様性がカナダ社会全体の活力にもつながっているという。

求職者側にも求められる、変化への対応

 こうした企業の採用戦略の見直しや北米経済の動向に伴い、求職者自身もキャリアの築き方を再考する動きが広がっている。

 和田文枝さんは、就職戦略を考える上では「どの業界に注目するか、どこに就職の軸を置くかによって求められるスキルが異なる」と語る。全体的な傾向として、カナダではITや医療、サイエンス分野の人材ニーズが依然として高いというが、カナダの日系企業からは、会計、技術営業、通訳、翻訳など、日本語を武器にした職種の需要が高い。

 さらに、近年の移民政策の変更が求職環境に与える影響も無視できない。昨年10月、カナダ政府は2025~2027年の移民レベル計画で、2026年末までに一時滞在者数をカナダの人口の5%まで削減することを発表。その後、留学生と外国人労働者の家族に対するオープンワークパーミット(OWP)の資格変更や、カレッジや大学を卒業した留学生が一定期間カナダで働ける制度「ポストグラデュエーションワークパーミット(PGWP)」の対象プログラムの変更などが進められ、一部の留学生は将来設計の見直しを迫られている可能性もある。

 また和田さんは、約30年前に自身がカナダへ移住した経験と現在を比較しながら、「以前は『海外で働いてみたい』『経験を積みたい』という希望が多かったのですが、最近では『子どもをカナダで育てたい』『ワークライフバランスを求めて移住したい』といった目的が増えているように感じます」と話す。制度面のハードルは以前より高くなっているものの、キャリア志向にとどまらず、家族や暮らしを重視した移住目的が目立ってきたという。

求職者を支える日系コミュニティのつながり

ジャパニーズ・ソーシャル・サービス(JSS)へ参加した時の様子。提供:パソナ・カナダ
ジャパニーズ・ソーシャル・サービス(JSS)へ参加した時の様子。提供:パソナ・カナダ

 こうした状況のなかで、地域のつながりが果たす役割に期待している。ヘイウッドさんは、「バンクーバーに比べれば規模は小さいですが、トロントにも日系コミュニティのつながりがあります」と語る。ゴルフ大会や年末年始の交流会などを通じて、企業や個人が自然に関係を築く機会があるという。

 またパソナの取り組みとしては、ジャパニーズ・ソーシャル・サービス(JSS)など地域団体と連携し、イベント協力や寄付を行っている。「困っている方の相談が、結果的に就労やキャリアの話につながることもあります。そうした部分でもお手伝いができればと思っています」と和田さん。

 2028年には日加修好100周年を迎える。ヘイウッドさんは、「アメリカ依存からの脱却と市場の多角化が進む中で、カナダと日本の関係はさらに深まっていくでしょう」と期待した。

 カナダにおける日系企業の雇用環境は、政策や経済情勢に応じて変化を続けている。パソナ・カナダは、こうした動きに対応しながら、地域団体との連携や生活面の支援にも取り組み、企業と人材の橋渡しを続けている。雇用形態の多様化や移住目的の変化に対応しながら、日系企業の採用活動は今後も変化していくとパソナ・カナダは見ている。

(取材 田上麻里亜)

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岡本フル出場、ライズFCはカルガリーに圧勝 

前にパスを繋ぐ岡本。後ろで立ち上がって見守るのはアンニャ・ハイナー=モラー監督。2025年9月6日、バーナビー市スワンガード・スタジアム。Photo by Koichi Saito/japan Canada Today
前にパスを繋ぐ岡本。後ろで立ち上がって見守るのはアンニャ・ハイナー=モラー監督。2025年9月6日、バーナビー市スワンガード・スタジアム。Photo by Koichi Saito/japan Canada Today

 NSL(ノーザンスーパーリーグ)のバンクーバー・ライズFCは9月6日、バーナビー市のスワンガード・スタジアムでカルガリー・ワイルドFCと対戦、6-0で圧勝した。

9月6日(スワンガード・スタジアム:3,897人)
バンクーバー・ライズ 6-0 カルガリー・ワイルド

今季2度目の大量6得点、攻撃陣が躍動

 立ち上がりからバンクーバーの攻勢が続いた。14分、デ・フィリッポが左サイドから相手GKにプレッシャーをかけてボールを奪い、そのこぼれ球をラティファ・アブドゥが押し込んでデビュー戦で先制点を挙げた。前半終了間際の49分には、デ・フィリッポがハーフライン付近でパスをカットし、弧を描くロングシュートを見事に決めて追加点。2点リードで折り返し、会場を沸かせた。

後半から冷たい雨に見舞われるも、バンクーバーの猛攻は続いた。2025年9月6日、バーナビー市スワンガード・スタジアム。Photo by Koichi Saito/japan Canada Today
後半から冷たい雨に見舞われるも、バンクーバーの猛攻は続いた。2025年9月6日、バーナビー市スワンガード・スタジアム。Photo by Koichi Saito/japan Canada Today

 ハーフタイム中に降り始めた雨により後半の開始が遅れたが、バンクーバーの勢いは止まらなかった。52分にはアブドゥがこの日2点目。64分にクイン、71分にマライア・リー、77分にリサ・ペチェルスキーと立て続けに得点し、6点差の大勝となった。

 この日のボール支配率は62%、シュート数でも24対11と上回り、バンクーバーが完勝。岡本祐花は「前半で2点取って折り返せたところが大きかった。後半に4点取れたことはチームとしても勢いがつくいい試合になった」と振り返った。

岡本、右サイドでスペースを作る

 先発メンバーとして右サイドバックでフル出場した岡本は、守備で相手の突破を抑えつつ、攻撃では高い位置を取ってスペースを生かした。今回の試合でチーム2番目となる63本のパスを記録し、ビルドアップの起点として存在感を発揮。監督から「もっとポジショニングをしてボールをつなごう」と指示を受けて臨み、「焦って前に行きすぎず、後ろからビルドアップを意識した」と語った。「少し消極的になってしまったかも」と振り返りながらも、自らシュートを放つ場面もあり、リズムを作った。

 カルガリーとの対戦は初めて。「様子を見ながらだったけど、自分たちがボールを持つ時間も多かったので、楽しみながら落ち着いてできた」と振り返った。

加入2カ月、サッカーもカナダ生活も充実

試合後、笑顔で手を振りファンに応える岡本。2025年9月6日、バーナビー市スワンガード・スタジアム。Photo by Koichi Saito/japan Canada Today
試合後、笑顔で手を振りファンに応える岡本。2025年9月6日、バーナビー市スワンガード・スタジアム。Photo by Koichi Saito/japan Canada Today

 岡本はチームの雰囲気について、「ミスしてもみんなでカバーし合って声をかけ合える。すごくいい雰囲気の中でできている」と語った。7月に加入してから2カ月余り。生活面については「みんなすごく優しくしてくれて、生活にもサッカーにも慣れてきたかなってところです。今はすごく楽しくやってます」と充実感をのぞかせた。

 ファンの存在については「ファンも増えてすごくうれしい。もう通訳をつけずにやっているので(英語がまだ)全然分からないけど、とりあえず笑顔でやっています」と笑い、試合後も最後までファンの声援に応えていた。

「勝つことが大前提」首位トロントとの直接対決へ

 バンクーバーは、NSL首位のAFCトロントに勝ち点で6点差をつけられているものの、勝ち点32で2位を維持。AFCトロント(38点)との直接対決は9月13日、トロント市ヨーク・ライオンズ・スタジアムで行われる。AFCトロントには木﨑あおいが所属している。

試合後のインタビューで今後の意気込みについて語る岡本。2025年9月6日、バーナビー市スワンガード・スタジアム。Photo by Koichi Saito/japan Canada Today
試合後のインタビューで今後の意気込みについて語る岡本。2025年9月6日、バーナビー市スワンガード・スタジアム。Photo by Koichi Saito/japan Canada Today

 岡本は「首位のトロントとやるので勝つことが大前提。ここまで負けなしできているので、しっかり勝って次のホームゲームにつなげたい」と意気込みを語った。

 続く9月20日はホーム最終戦となるオタワ・ラピッドFC戦。その後アウェー戦が続き、プレーオフに臨む。

バンクーバー・ライズの今季ホームゲームhttps://www.vanrisefc.com/

9月20日(土)1pm オタワ・ラピッドFC戦

(取材 田上麻里亜/写真 斉藤光一)

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朝日レガシーゲーム2025 歴史を継ぎ、未来へつなぐ

試合開始前に集合写真。今年も青空に恵まれた。2025年9月1日、バンクーバー市。撮影 田上麻里亜/日加トゥデイ
試合開始前に集合写真。今年も青空に恵まれた。2025年9月1日、バンクーバー市。撮影 田上麻里亜/日加トゥデイ

 秋の始まりを感させるさわやかな青空の下、ナナイモパークにはミットの音と選手たちの声が響き渡り、試合前から活気にあふれた。

 9月1日、レイバーデーに今年も朝日レガシーゲームが行われた。11回目となる今回は、朝日軍メンバーだった上西ケイさんがいない少し寂しい開催となったが、戦前に活躍した朝日軍の歴史と精神は白球を追いかける選手たちに受け継がれているようだった。

世代を超えて交わるフィールド

 今年の試合には、3月のジャパンツアーに参加した17人全員が青のユニフォームを着て数カ月ぶりに再集結。今年は黒のユニフォームを着たジャパンツアーOBや卒業生を交えた混合チームを編成し、世代が入り交じった試合となった。ジャパンツアーの監督を務めた小川学さんは「普通は忙しいので卒業した選手が顔を出すのは珍しいんです。でも今回は17人全員来てくれたのでうれしい」と晴れやかな表情を見せた。

試合序盤にホームランを放ち、チームメートに迎えられる藤岡さん。2025年9月1日、バンクーバー市。Photo courtesy of Noriko Tsuchiya
試合序盤にホームランを放ち、チームメートに迎えられる藤岡さん。2025年9月1日、バンクーバー市。Photo courtesy of Noriko Tsuchiya

 試合は開始直後にホームランが飛び出し、序盤から大盛り上がり。打ったのはチームを支えてきたボランティアの一人、藤岡創一郎さん。ワーキングホリデーでカナダに来て、シーズン中には週に4日も練習に通っていたという。自分にとって朝日は「居場所みたいなもの」だと語る。

 試合前のセレモニーでは、ボランティア一人ひとりの活動を讃える拍手が送られ、若い世代とOB、サポーターが同じフィールドで交わることで、朝日の精神が世代を超えていく光景が広がった。

仲間と築いた2年間の絆

 今年のジャパンツアーでキャプテンを務めたヒライ・コウタ選手は仲間と過ごした2年間を、「本当に楽しかった。日本語も少し使って、完璧じゃなくても(日本の)仲間が理解してくれて、コミュニケーションに困ることはなかった」と笑顔で振り返った。カナダと日本の野球の違いについては、「日本は静かだけど、ベンチに座っている選手も含めて全員で試合を見ていて、一体感があった」と話し、両国の文化の違いを実感したという。

ジャパンツアー2025でキャプテンを務めたヒライ・コウタ選手。この日は投手として登板の場面も。2025年9月1日、バンクーバー市。Photo courtesy of Noriko Tsuchiya
ジャパンツアー2025でキャプテンを務めたヒライ・コウタ選手。この日は投手として登板の場面も。2025年9月1日、バンクーバー市。Photo courtesy of Noriko Tsuchiya

 この日集まったのはジャパンツアーを共にした仲間たち。チームの解散を前にした心境については、「2年間一緒に戦った仲間と別れるのは正直悲しい。でもリーグでまた会えるし、これからもつながっていけると思う」と、仲間との強い絆は続くようだった。

 小川監督は、今後はジャパンツアーの経験で終わりにせず、卒業後も再び集まれる仕組みを作りたいと語る。「子どもたちのことをこれからも見守り続けたい」と、次のステップにつながる場を用意していきたいと話す小川監督の言葉には、朝日の歴史やつながりを未来へとつなげたいという思いがにじむ。その思いを映すように、世代を超えて選手たちが交わる姿がグラウンドに広がっていた。

バンクーバー朝日の精神を継ぐ

 朝日軍は1914年にバンクーバーで誕生した日系カナダ人の野球チーム。頭脳的なプレースタイル「ブレインボール」で勝利を重ね、戦前の差別が厳しい時代にあって日系コミュニティに誇りと希望をもたらした存在だった。1941年12月の日本軍真珠湾攻撃を機にカナダ政府が実施した日系人強制収容政策により解散を余儀なくされたが、2003年には戦前の活躍が認められてカナダ野球の殿堂入り、2005年にはBCスポーツ殿堂入りを果たし、その歴史的意義が広く認められた。

 時は流れ、2015年日本遠征チーム「新朝日」が結成され、2016年にはAsahi Baseball Associationが設立された。目的は、現代版バンクーバー朝日として、戦前の朝日の野球精神を受け継ぐこと。そして年に一度、毎年9月第1月曜日にレガシーゲームを開催し、敬意を表している。

 試合前のセレモニーでジョン・ウォン会長は、朝日の歴史を振り返り「チームは人種の壁を越える橋を築き、地域社会に誇りと希望の源を与えた」と語り、朝日の存在がコミュニティにもたらした意味を強調。今年は最後の存命メンバーだった上西ケイさんがいない開催となり、ウォン会長は「私たちが彼に代わってその火を受け継ぎます。彼もきっとそれを望んでいたでしょう」と、朝日の意志を胸に活動を続けていく決意を示した。

 セレモニー後には、「ケイさんがいない今、選手たちには戦争中に何が起きたのかを伝えたい。野球は大事だが、それ以上に歴史の意味を理解してほしい。困難な時代に日本人コミュニティが少しでも明るい時間を作ろうとしたことを知ってもらいたい」と歴史を伝える重要性を語った。

初の投球が始球式だったというバンクーバー領事館・岡垣首席領事と、隣で見守るウォン会長。2025年9月1日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
初の投球が始球式だったというバンクーバー領事館・岡垣首席領事と、隣で見守るウォン会長。2025年9月1日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 始球式は、在バンクーバー日本国総領事館・岡垣さとみ首席領事が務めた。これが人生初の投球だったという。「野球は観戦したことはありますが、自分でボールを投げるのは初めてで、正直とても緊張しました」。本番前には動画を見てイメージトレーニングをしてきたと笑顔で明かした。投球はしっかりキャッチャーミットに届き、会場から大きな拍手が送られた。

 「彼らがプレーしているところを今日初めて見ました。朝日のレガシーが受け継がれていると改めて実感しました」と、穏やかな表情で試合を観戦。今年3月に実施されたジャパンツアーについて「日本とカナダをつなぐ架け橋のような役割を子どもたちが担い、自信を持って帰ってきたの分かります」と笑顔で語った。

朝日ベースボールアソシエーション

 2016年に発足。当時の名称はカナディアン日系ユースベースボールクラブ。2015年に最初のジャパンツアーを実施し、これを機に2016年に創設した。

朝日チーム・ジャパンツアー

 2015年を第1回として、2年に一度、同アソシエーションでプレーする選手から選抜チームを結成し日本に野球遠征している。2021年は新型コロナウイルス感染拡大の影響で中止に。2017、2019年には、横浜、静岡、滋賀、奈良などで、2023年は神戸を中心に関西地区で親善試合や野球交流、2025年は千葉、東京、栃木を訪問した。

朝日ベースボールアソシエーションウェブサイト: https://www.asahibaseball.com/

朝日レガシーゲーム2025の様子。さわやかな秋晴れに恵まれた。2025年9月1日、バンクーバー市。撮影 田上麻里亜/日加トゥデイ
朝日レガシーゲーム2025の様子。さわやかな秋晴れに恵まれた。2025年9月1日、バンクーバー市。撮影 田上麻里亜/日加トゥデイ

(取材 田上麻里亜)

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ワーキングホリデー制度変更でカナダ滞在最長2年に、留学生の声は

 カナダ政府がワーキングホリデー制度を一部変更し、2025年4月1日からは日本人の滞在が最長2年までとなった。制度変更についてカナダに滞在する日本人留学生に話を聞いた。

カナダ滞在期間、最大2年間に延長

   カナダ政府は2024年4月1日から、18歳から30歳(申請時)までを対象とするワーキングホリデー(正式名称 International Experience Canada: IEC)の改定を実施した。これまで、同制度の申請は原則1回に限られ最長1年間の滞在しか認められていなかったが、今回の変更により条件を満たせば2回目の申請が可能となり、最大で合計2年間の滞在できるようになる。

 「ワーホリ」と呼ばれて浸透しているワーキングホリデーは、2国間の協定に基づき18歳から30歳までの若者が相手国で働きながら生活することができる制度。基本は「ホリデー」での滞在という位置づけだが、生活費のための就労(ワーキング)が許可されているのが特徴。日本とカナダは1986年から開始。若者による両国の相互理解を深め、交流を促進する目的で導入された。

 一方で、カナダ政府は移民対策として、2024年3月「2025~2027年移民レベル計画」を発表。2025年から永住者や一時滞在者の受け入れ数を段階的に減少する方針を示している。

 一時滞在者全体をカナダ人口の5%まで抑えることを目標として、労働者や留学生の新規受け入れ数にも上限が設けられている。ただ「すでにカナダ国内に滞在している一時滞在者の永住権取得を優先する」としていて、永住権申請者のうち2025年の永住権取得者は国内滞在者が約40%を占める予定と移民省が発表している。

【留学生の声】選択肢が広がったと実感

留学中の生活の様子。写真提供:矢部史華さん
留学中の生活の様子。写真提供:矢部史華さん

 矢部史華さん(21歳)は、大学を休学し、2024年11月からワーキングホリデーでバンクーバーに滞在中で、今回の制度変更は友人のSNSを通じて知ったという。

 「もともとは1年で帰国する予定だったが、現地での生活を経験して、延長するか悩んだ」と話す。結局、周囲に相談した結果、いったん大学を卒業することに決めた。「今までなら1回きりのチャンスだったが、卒業後にまたカナダで挑戦できる。選択肢が一気に広がったと感じた」と語った。

 移民政策が厳しくなる一方で、制度が緩和されたことには「率直に驚いた」とも。今後は大学卒業後、就職活動などを通じて将来のキャリアを模索する考えだ。

【留学生の声】現地就職も視野に入れる

コープ留学中にカナダ・アルバータ州バンフを訪れた時の様子。写真提供:大川菜々子さん
コープ留学中にカナダ・アルバータ州バンフを訪れた時の様子。写真提供:大川菜々子さん

 大川菜々子さん(26歳)は、2024年2月にUIデザイン関連の1年間のコースでカナダにコープ留学。留学前から日本企業と業務委託契約を結び、デザイン業務に携わっていた。コープ留学中は現地就職も考えたが、ハードルの高さを実感し、日本企業とのフリーランス契約を続けたという。

 「現地の就職は想像以上に難しい。特に移民としての立場で働く場合、日本のように会社の雰囲気やポジションを選ぶ余地は少ない」と語る。

 現在は、日本企業から受注するデザイン業務を中心に、週末はレストランでも働いている。2025年6月からはワーキングホリデービザを取得して滞在を延長している。

 「ワーホリの制度が変更になったと知り、現地就職ももう一度視野に入れようかなと思った」と話す。カナダでの生活基盤を整えつつ、滞在期間が延びることで、より多くのキャリアの可能性を探れると期待している。

(取材 田上麻里亜)

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カナダ・オンタリオ州 ナイアガラでワイナリーを訪ねる

ナイアガラ・オン・ザ・レイクでワインを楽しんでいる様子。写真提供:ナイアガラ・オン・ザ・レイク観光局
ナイアガラ・オン・ザ・レイクでワインを楽しんでいる様子。写真提供:ナイアガラ・オン・ザ・レイク観光局

 オンタリオ州南部に位置するナイアガラ・オン・ザ・レイクは、ナイアガラの滝の北に広がる風光明媚な町。カナダ有数のワイン産地としても知られるこの地域が初夏の雰囲気に包まれる6月にワイナリーを訪れた。

歴史息づく古都 ナイアガラ・オン・ザ・レイク

現在もヘリテージ・ディストリクトには英国風の建築が並ぶ。写真提供:ナイアガラ・オン・ザ・レイク観光局
現在もヘリテージ・ディストリクトには英国風の建築が並ぶ。写真提供:ナイアガラ・オン・ザ・レイク観光局

 ナイアガラ・オン・ザ・レイクは、オンタリオ州南部に位置する小さな町だがその歴史は古い。1779年、アメリカ独立戦争を機にカナダへ移住したイギリス・ロイヤリスト軍の補給基地として設立され、短期間だがアッパー・カナダの首都として機能した。その後1813年に火災で焼失したが、ロイヤリストの入植者によって再建された。現在も歴史地区(ヘリテージ・ディストリクト)には英国風の建築が並び、土産店、劇場、カフェなどが軒を連ねている。

 ナイアガラ・オン・ザ・レイク観光局によると、今まではカップルや中高年層が中心だった旅行者だが、近年はミレニアル世代やZ世代など若者が増加しているという。背景には、小規模なワイナリーへの関心や、サステナブルな観光、自然を取り入れたウェルネス体験など、新たな旅のスタイルへの注目があるとのこと。観光の傾向は環境意識の高まりとも連動して、旅行者は環境負荷の少ない目的地を選ぶ傾向にあるそうだ。

 また、年間を通してイベントが多いことも人々を引き付けている。8月にはピーチ・フェスティバルやガーデン・ツアー、ジャクソン・トリッグス・ワイナリーでは屋外コンサートも開かれる予定だ。

ワインを育てる風土と地域の強み

カナダ有数のワイン産地としても知られ、ワイン畑を眺めながらワインを楽しめる。写真提供:ナイアガラ・オン・ザ・レイク観光局
カナダ有数のワイン産地としても知られ、ワイン畑を眺めながらワインを楽しめる。写真提供:ナイアガラ・オン・ザ・レイク観光局

 ナイアガラ・オン・ザ・レイクはカナダ有数のワイン産地として知られる。シャルドネ、リースリング、ピノ・ノワールなど主要品種のワインと共に、冬に凍結したブドウを使ったアイスワインも世界的に評価されている。

 ナイアガラ地域には多くのワイナリーがあり、ワインテイスティングやガイド付きのツアーなどを楽しめる。観光局によれば、2026年1月には恒例の「Icewine Gala in Niagara」が開催予定で、希少なアイスワインを堪能できる貴重な機会となりそうだ。

 地元のワイナリーStratus Vineyardsによると、ナイアガラ地域はカナダ国内の他の産地と比較して、ワイン造りで多くの利点を備えているという。夏に温暖な気候を必要とするブドウ品種の栽培に適し、オンタリオ湖に近いため秋の霜害も防ぎやすい。さらに、土壌の多様性もワインに良い影響を与えている。

 こうした良質なワインが醸造される条件が揃うナイアガラ・オン・ザ・レイクは、最近の高品質なワイナリーの増加とトロントへのアクセスの良さが相まって、カナダのワイン文化を支える重要な拠点のひとつとなっている。

カナダと日本の食文化をつなぐ Stratus Vineyards

スパークリングワインやアイスワインを含む幅広い種類の少量生産ワインを作っている。写真提供:Stratus Vineyards
スパークリングワインやアイスワインを含む幅広い種類の少量生産ワインを作っている。写真提供:Stratus Vineyards

 訪れたStratus Vineyardsは、4階建ての重力式醸造施設で、ワインをポンプで移動させず上階から下階へと自然の力を利用して工程を進めていると関係者が教えてくれた。こうすることで果汁やワインの繊細な風味を保つことができるのだという。

 醸造ではワインの原酒を混ぜ合わせる伝統的な手法「アッサンブラージュ(Assemblage)」を使い、バランスや奥行きを引き出しているとのこと。「ミニマル・インターベンション」という考え方に基づき、畑の個性がそのままワインに表れるよう細やかな手法が取られているという説明に、作り手の思いが伝わってきた。

 施設のデザインも特徴的だ。セラーには障子に着想を得たという窓が設けられ、施設全体として禅のミニマリズムに通じるデザインが施されている。こうした空間設計は日本からの旅行者にも親しみを持って受け入れられることが多いと話してくれた。

 Stratus Vineyardsのワインは、東京のカナダワイン専門店「Heavenly Vines」で取り扱われていて、カナダと日本の食文化をつなぐ存在にもなっている。9月25日には、トロント市内の和食レストランで、Stratusワインと日本料理のペアリングイベントが開催される予定だ。

現在でも畑を歩いて回りながらブドウの世話は全て手作業で行っている。写真提供:Stratus Vineyards
現在でも畑を歩いて回りながらブドウの世話は全て手作業で行っている。写真提供:Stratus Vineyards

(取材 田上麻里亜)

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第49回パウエル祭が開幕 来年の50周年に向けて始動

神輿の周りを多くの人が囲み、威勢のよい掛け声とともに練り歩いた。最後には観客から大きな拍手が送られ、会場は一層の熱気に包まれた。2025年8月2日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
神輿の周りを多くの人が囲み、威勢のよい掛け声とともに練り歩いた。最後には観客から大きな拍手が送られ、会場は一層の熱気に包まれた。2025年8月2日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

 第49回パウエルストリートフェスティバル(パウエル祭)が8月2日と3日の2日間、バンクーバー市オッペンハイマー公園とその周辺で開催された。

 日本文化と日系カナダ人コミュニティの歴史を祝うこの催しには、地元住民や観光客が訪れ、多彩なパフォーマンスや展示、食文化を楽しんだ。開会式では地域の先住民や政府関係者も出席、来年の50周年に向けた思いを語った。

協会新体制で迎える49回目のパウエル祭 次の50年に向けて

 開会式は、ツレイル・ワウトゥス族のカーリーン・トーマス長老によるあいさつで幕を開けた。トーマスさんはツレイル・ワウトゥス族の言語で「皆さんにお会いでき、この場で一緒に祝えることを心からうれしく思います」と述べた。自身がスコーミッシュ族やナナイモ、ナス渓谷の村にルーツを持つことにも触れ、コースト・セイリッシュの伝統である両手を高く掲げる所作で「この地へようこそ」と晴れやかに開会を告げた。

開会式に出席した、(左から)、パウエル祭協会ジャン会長、バンクーバー市カービー=ヤング市議、フィリップBC州議員、クワン国会議員、髙橋総領事、ツレイル・ワウトゥス族トーマス長老、パウエル祭協会ラティマー事務局長。2025年8月2日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
開会式に出席した、(左から)、パウエル祭協会ジャン会長、バンクーバー市カービー=ヤング市議、フィリップBC州議員、クワン国会議員、髙橋総領事、ツレイル・ワウトゥス族トーマス長老、パウエル祭協会ラティマー事務局長。2025年8月2日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

 カナダ連邦議会のジェニー・クワン国会議員(バンクーバー・イースト選出)、ブリティッシュ・コロンビア州ジョアン・フィリップ議員、バンクーバー市サラ・カービー=ヤング市議と続き、それぞれにパウエル祭への思いと文化的な意義、地域とのつながりの大切さを語った。

 在バンクーバー日本国総領事館・髙橋良明総領事は、昨年11月に着任後今回が初めての参加となったことに触れ「このバンクーバーの街に、まるで突然日本が現れたかのような、この光景を楽しみにしていました」と語った。「このフェスティバルが49年間も続いたのは、協会の理事の皆さま、ボランティアの方々、地元企業やスポンサーの支援、そして何よりも日本文化を愛し、この場に集まってくださる皆さまのおかげです」と関係者や来場者へ感謝を伝えた。

 パウエルストリートフェスティバル協会の新事務局長ソフィー・ヤマウチ・ラティマーさんと新会長ラッセル・チョンさんもあいさつ。二人は子どもの頃からこのフェスティバルに親しんできたことを振り返り、チョン会長は「今こうして運営側として皆さんと関われることは大きな誇りです。300人を超えるボランティア、そして地域の知恵と力でこのフェスティバルは成り立っています」と感謝し、第49回の開幕を正式に宣言した。

 ソフィーさんは就任後初めての開催に「パウエルストリートフェスティバルは、私にとって日系カナダ人としての文化的つながりを感じられる一番の場所でした。来年の50周年に向けて大きな一歩となります」と述べた。「来年は過去を振り返る回顧展を日系文化センター・博物館で開き、フェスティバルの歴史をまとめた書籍も出版する予定です。これまで築いてきた遺産や伝統を振り返りながら、次の50年を見据えて次世代を巻き込んだ活動をしていきたいと考えています」と今後の意気込みを語った。

1977年から続く、バンクーバー最大級の日系イベント

パウエル祭で最も盛り上がるイベントの一つ、相撲トーナメント。2025年8月3日、バンクーバー市。撮影 日加トゥデイ
パウエル祭で最も盛り上がるイベントの一つ、相撲トーナメント。2025年8月3日、バンクーバー市。撮影 日加トゥデイ

 パウエル祭は日系カナダ人移民百周年を記念して1977年に初めて開催された。現在ではカナダで最も歴史が長く、規模が大きいコミュニティ・アート・フェスティバルの一つとして知られている。地元はもちろん、国内外から約23,000人が集まる。

 会場は、かつての日系人街「パウエル街」と呼ばれた地域で、現在のバンクーバー・ダウンタウン・イーストサイドに位置する。戦前、この地域には約1万人の日系人が暮らし、商店や文化施設が立ち並んでいたが、第二次世界大戦中の日系人強制収容政策によって全員が住み慣れた町を離れざるを得なかった。

 パウエル祭は、その歴史と文化を次世代に受け継ぎ、芸術やパフォーマンス、食を通じて多様な人々が交流する場となっている。

 日本の夏祭りを思わせる屋台が並び、焼きそばやかき氷、たこ焼きのほか、ヨーヨー釣りや日本のアニメの面も販売され、家族連れや幅広い世代でにぎわった。

今年も天気に恵まれ、屋台が並ぶストリートは多くの来場者でにぎわい、飲食やクラフトの買い物を楽しむ姿が見られた。2025年8月2日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
今年も天気に恵まれ、屋台が並ぶストリートは多くの来場者でにぎわい、飲食やクラフトの買い物を楽しむ姿が見られた。2025年8月2日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

 今年は和太鼓、武道、舞踊などの恒例パフォーマンスに加え、新たな企画「ビッグプリント」が行われた。これは日系カナダ人と先住民アーティストが共同で制作した4×8フィート(約1.2メートル×2.4メートル)の木版画を地面に置き、スチームローラーで刷るもので、来年の50周年やその先の活動資金のために販売された。

 このほか、会場各所では相撲トーナメント、茶道や生け花の実演、子ども向けワークショップ、アート展示など多彩なプログラムが行われ、日本文化と日系カナダ人コミュニティの魅力を発信していた。訪れた人々は、舞台での演目を鑑賞したり、日本フードを楽しみながら、思い思いに過ごしていた。

日本人留学生「改めて日本すごいなって思いました」

サーモンBBQには開幕前から長蛇の列ができ、香ばしいバーベキューの香りが広がった。2025年8月2日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
サーモンBBQには開幕前から長蛇の列ができ、香ばしいバーベキューの香りが広がった。2025年8月2日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

 友人に誘われたというバンクーバー在住のジュリー・バーナードさんは「とてもこのイベントを気に入りました。手作りの作品や地域の文化的な品々を幅広く見られるのが魅力です」と話し、会場で触れられる地域の創作活動の多様さに驚いた様子だった。日本文化については「本当に美しいと思います」と語った。

 埼玉県出身で約2カ月前に留学のためバンクーバーに来た黒田祐太郎さんは、ホームステイ先のホストからパウエル祭を紹介され初めて訪れた。「日本人なので久々にちょっと日本を感じたくて来ました」と話す。会場では焼きそばやコロッケを食べ「日本のカルチャーがカナダにもこんなあるなんて思わなかったです。改めて日本、すごいなって思いました」と、驚きと誇らしさが入り混じった笑顔を見せた。

パウエル祭のキャラクター・ダルマが会場を歩き、ボードを手に来場者との記念撮影に応じて会場を盛り上げた。2025年8月2日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
パウエル祭のキャラクター・ダルマが会場を歩き、ボードを手に来場者との記念撮影に応じて会場を盛り上げた。2025年8月2日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
バンクーバー日本語学校で行われた岩間神信合気道(武仙会)による演武。受け(攻撃側)と投げ(防御側)の役割を担い、打撃やつかみへの対応や、転がり技、武器の取り方、護身術などを披露した。2025年8月2日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
バンクーバー日本語学校で行われた岩間神信合気道(武仙会)による演武。受け(攻撃側)と投げ(防御側)の役割を担い、打撃やつかみへの対応や、転がり技、武器の取り方、護身術などを披露した。2025年8月2日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
バンクーバー仏教会で行われたバンクーバー生け花協会による展示。4つの流派のスタイルが並び、日本の花道の多様な美しさが披露された。2025年8月2日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
バンクーバー仏教会で行われたバンクーバー生け花協会による展示。4つの流派のスタイルが並び、日本の花道の多様な美しさが披露された。2025年8月2日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

(取材 田上麻里亜/撮影 斉藤光一)

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「カナダから被爆体験を語り継ぐ 終戦80年、世界に平和の種を届けて」ランメル幸さんインタビュー

著書「Hiroshima-Memories of a Survivor」を持ち笑顔を見せるランメル幸さん。2025年7月5日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito
著書「Hiroshima-Memories of a Survivor」を持ち笑顔を見せるランメル幸さん。2025年7月5日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito
著書「Hiroshima-Memories of a Survivor」を持ち笑顔を見せるランメル幸さん。2025年7月5日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito
著書「Hiroshima-Memories of a Survivor」を持ち笑顔を見せるランメル幸さん。2025年7月5日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito

 広島で8歳の時に被爆した経験を持ち、現在はブリティッシュ・コロンビア州バンクーバーで暮らすランメル幸さん。広島・長崎への原爆投下から80年を迎える今年、カナダを拠点に、自身の体験を伝えるため各地で講演活動などに取り組んでいる。

 「平和の種をまくことしかできないけれどそれでも伝え続けたい」と語る幸さんに、戦争を知らない世代へ込めた思いなどを聞いた。

福島第一原発事故発生「黙っているよりも話をする必要が」

  1945年8月6日、原爆が投下された時、爆心地から約3.5キロメートル離れた小学校の校庭で遊んでいた。当時8歳、「ちょうど大きな木の陰にいたため奇跡的に助かりました」と当時を振り返った。しかし、友人と帰宅途中には黒い雨に打たれ、放射能の被害を受けたという。この時に浴びた黒い雨のことは今も鮮明に記憶している。

  その後、日本に留学していたカナダ人のチャールズ・ランメルさんと結婚、カナダへ移住したのは1970年代。長く自身の被爆体験を公には語ってこなかったが、転機となったのは2011年の福島第一原発事故だった。テレビのニュースを見て驚き、核の脅威を再び強く感じて「もう黙ってるよりもこの話をする必要がある」との思いを強くしたという。

 活動は、カナダの日本語日系月刊誌「ふれいざー」での連載執筆から始まり、被爆体験やその後の半生をまとめた手記の英語版「Hiroshima-Memories of a Survivor」(日本語版「忘れないでヒロシマ」南々社)を出版。被爆体験と平和への強い思いを世に伝える第一歩となった。その後、活動はカナダ、日本へと広がり、学校や地域団体などで講演している。

 活動を始めてから起きた最も大きな変化は「視野が広がったこと」だったという。それまでは小さな世界にとどまっていた感覚から「世界に目を向けるようになった」と繰り返した。もっと大きな視点で物事を見られるようになったと話す。

7月5日に行われた「終戦80年-広島長崎を通して戦争を考える-(80 Years On: Learning from Hiroshima and Nagasaki, Together with the Next Generation)」でのランメル幸さん(左)とチャールズさん。2025年7月5日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito
7月5日に行われた「終戦80年-広島長崎を通して戦争を考える-(80 Years On: Learning from Hiroshima and Nagasaki, Together with the Next Generation)」でのランメル幸さん(左)とチャールズさん。2025年7月5日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito

 幸さんの被爆体験を語り継ぐ活動は、夫チャールズさんの存在が大きな支えとなっている。福島県で7年間暮らしたチャールズさんは、幸さんと共に講演の場で東日本大震災による福島第一原発事故や世界の原発事故について語る。「彼はおしゃべりだから」と笑いながらも、講演前には自宅でチャールズさんが日本語の練習をしているのを見かけることや、時に自分の原稿を翻訳してもらうことがあると話し、「一人でここまでやるのは無理だったわね」と穏やかな笑顔を見せた。

「直接話を聞けたことは奇跡みたい」

 幸さんは現在、英語で被爆体験を語っている。英語で話すことには難しさを感じると言いながらも「日本語のアクセントがあるから、かえって皆さん分からなくて一生懸命聞いてくれるんですよね」と笑う。

 ノースバンクーバーの図書館で行った講演会では、定員を大幅に上回る人が集まり、大きな反響を呼んだ。ホロコースト(第二次大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺)の経験を持つ人たちも参加し、幸さんの証言に涙を流しながら自らの記憶を語り始める場面もあったと話す。参加した子どもたちからは「『生きて直接話を聞けたことは奇跡みたい』って。それをよく聞きますね。健康で良かったねとか、カナダに来てよかったねって言ってくれますよ」と素直な反応があるという。

 講演会で使用した資料や配布物、参加者から寄せられた手書きの感想文を今も大切に保管している。そこには語りかけられた言葉がしっかりと受け止められていることが表れている。

 広島を拠点とする特定非営利活動法人(NGO)「ANT-Hiroshima」での講演には、世界各国の子どもたちが参加した。ベトナム出身の参加者は「広島で原爆に遭われた方々の話を聞くたびに、胸が締め付けられるような悲しい気持ちになります」と語り、フランス出身の参加者は「黒い雨のしみが服に残るように、戦争の傷跡は決して消えることはありません。この物語を通して、私たちは過去の出来事を忘れず、平和の大切さを考え続けるべきだと思います」と感想を寄せていた。

 一方で、カナダと日本の平和教育の違いについては「カナダは平和な国でしょう。だからかあまり戦争に対する意識が強くないんじゃないかなと思う」と言う。「それと移民で(来た人は)皆さん忙しいから生きることにいっぱいだと思うのね。来て若い時は生活も大変でしょうし」と語り、でも「やはり(イベントには)若者にもうちょっとたくさん聞きに来て欲しい」と期待した。

80年、世代を超えたメッセージへの希望

 2025年、広島への原爆投下から80年の節目を迎える。幸さんは被爆者の高齢化が進む中で、直接体験を語れる人が年々少なくなっている現実に「今、自分が語る意味は大きい」と話す。戦争の記憶が薄れていくことへの危機感とともに「やっぱり(カナダで)聞きに来るのは年を取った方が多いんですよね」と語り、「これからの時代は若者に告げていかないといけない」との強い思いを抱く。

 そうした思いから始めたのが、紙芝居「サチズストーリー」の制作。8歳の少女の視点から原爆の悲劇を描いたもので、視覚的に伝えることで子どもにも理解しやすく構成されている。紙芝居を選んだ理由については「これからは若い世代へのインパクトが必要だから」と話した。

 小学校など子どもがいる講演の場では、話を聞いて泣き出してしまう子もいると言い、そうした姿を見て、子どもたちが戦争の悲惨さをまっすぐに受け止めていることを実感する。だからこそ、子どもの目線に立った表現の工夫が必要だと感じ、紙芝居という手法を選んだ。紙芝居は現在、英語版の制作も進めていて、アメリカやカナダの学校で教材として活用されることを目指している。

 「平和っていうのは考えれば考えるほど難しいと思う」と幸さん。それでも、原爆投下後、黒い雨が降ったあとに虹が出たという話を聞いたといい、「私は見られなかったけれど、聖書によると虹は神様の平和のしるし。あの時の虹は、将来きっと良い世界になりますよというサインのように思えた」と話した。

 「私は種をまくくらいしかできないって、いつも言ってるんですけどね。それでもやっぱり私は教育も大切だと思う」。その言葉には小さな一歩でも未来につながるという信念が込められている。「それから国のリーダーの人もちゃんとしたリーダーがいないといけない。それと世界との調和を図ること」とまっすぐな眼差しで訴えた。

  そして最後に、原爆のことを「忘れないでほしい」と静かに語った。その姿には次の世代に平和を託す強い思いがにじんでいた。

ランメル幸さん講演会

 8月15日、ダウンタウンで開催される「戦後80年・記念イベント『静かに考える戦後80年 癒しのコンサート』」と題したイベントで講演する。詳細はリンクを参照。https://www.japancanadatoday.ca/2025/07/21/shusen-80th-year-event/

(取材 田上麻里亜)

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広島・長崎から80年、証言継承と平和の誓いを次世代へ バンクーバーに集う

静かな口調で自身の被曝体験を語るランメル幸さん。2025年7月5日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito
静かな口調で自身の被曝体験を語るランメル幸さん。2025年7月5日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito

 広島・長崎の被爆の歴史を通して戦争や平和について考えるイベント「終戦80年-広島長崎を通して戦争を考える-(80 Years On: Learning from Hiroshima and Nagasaki, Together with the Next Generation)」が7月5日に開催された。

 イベントはオンタリオ州ハミルトン市とブリティッシュ・コロンビア(BC)州バンクーバー市での同時開催。さらにオンラインでも参加可能で、オタワ市(オンタリオ州)、ウィニペグ市(マニトバ州)、ビクトリア市(BC州)、ユーコン準州、ケベック州から、そして日本からも含め約600人が参加した。

 全カナダ日系人協会(NAJC)傘下の新移住者委員会(JNIC)とトロント都道府県人会・連合会が共催、人権委員会(HRC)、NAJCハミルトンチャプター、Greater Vancouver Japanese Canadian Citizens’ Association、バンクーバー広島県人会、バンクーバー日本語学校が後援した。

関連記事:広島・長崎から80年、ハミルトンでサーロー節子さんと平和について考える

日系人の戦争体験と原爆の記憶を次世代へ

 JNIC副委員長の高林美樹さんは今回のイベントについて、協会のビジョンに基づき企画されたと話す。国籍や文化を問わず誰もが参加できる「Nikkeiコミュニティ」づくりを目指し、約1年前から準備を進めてきた。日系カナダ人の戦争体験と、被爆地・広島や長崎の教訓を結びつけ、戦争と核兵器の悲惨さを次世代に語り継ぐことを目的としている。

在バンクーバー日本国領事館・岡垣さとみ首席領事があいさつ。2025年7月5日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito
在バンクーバー日本国領事館・岡垣さとみ首席領事があいさつ。2025年7月5日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito

 バンクーバー会場では、広島で被爆したランメル幸さんが講演、ハミルトン会場のサーロー節子さんともつないで話をした。参加した在バンクーバー日本国領事館・岡垣さとみ首席領事は「歴史上最も悲惨な出来事の一つを実際に経験された方々から直接話を伺うことができる非常に貴重な機会」と語り、「本日のような重要なイベントが開催されたことに改めて深く感謝申し上げます」とあいさつした。

自身が被爆3世で祖父母たちの思いも合わせて若い世代の自分たちが語り継いでいく責任があると語るバンクーバー広島県人会理事の吉崎大貴さん。2025年7月5日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito
自身が被爆3世で祖父母たちの思いも合わせて若い世代の自分たちが語り継いでいく責任があると語るバンクーバー広島県人会理事の吉崎大貴さん。2025年7月5日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito

 バンクーバー広島県人会理事の吉崎大貴さんは、自身は被爆3世で、家族の離別や別れの言葉も交わせなかった被爆者の話を聞いて育ったと言い、「1945年の出来事は過去の話ではなく、今も現実として胸に刻まれている」と話した。近年では被爆体験者の高齢化が進み、直接語ることが難しくなっていることにも触れ、「だからこそ、私たちが希望のために語り継いでいく責任がある」と強調。「このイベントが戦争のない世界に向けた小さくても確かな一歩になることを願っている」と話した。

被爆と核の記憶を語る ランメル幸さん、夫チャールズさん

 広島で被爆したランメル幸さんが被爆体験と平和への願いを語った。

 幸さんは「私は広島の原爆を体験した被爆者です。今日は3つのこと、私自身の体験、父の体験、そして平和への思いについてお話しします」と語り始め、原爆が投下された1945年8月6日は爆心地から約3.5キロの小学校の校庭で遊んでいたと話した。当時8歳だった。「ちょうど大きな木の陰にいたため奇跡的に助かりました」と振りながらも、友人と帰宅途中には黒い雨に打たれ、放射能の被害を受けた。

 「広島の町は一瞬で破壊され、およそ8万人が即死しました」と語り、爆心地近くのオフィスで被爆した父については、「目が覚めた時には火の海の中におり、かろうじて脱出したそうです」と証言した。父が目にしたのは地獄のような光景で、焼けただれた人々、子どもを託す母親、重なる死体の上を歩くしかない状態だったという。

 「長年この体験を語ることができませんでしたが、2011年の福島原発事故をきっかけに、記憶を語り継ぐ決意をしました」。2013年に著書を出版、現在は紙芝居などを通じて語り部としての活動もしている。「若い世代の皆さんに核のない平和な未来を一緒に作ってほしい。多くの子どもたちに、この体験談が届くことを願っています」と思いを伝えた。

ランメル幸さんと夫のチャールズ・ランメルさんの言葉に耳を傾ける参加者。2025年7月5日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito
ランメル幸さんと夫のチャールズ・ランメルさんの言葉に耳を傾ける参加者。2025年7月5日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito

 チャールズさんは福島県で7年間暮らしていた経験があることから2011年に起きた東日本大震災による福島第一原発事故に言及。「放射能は田畑、野菜、家畜、魚にまで及び、多くの住民が避難を余儀なくされました」と話した。事故当時は黒い雨として降った広島の放射性物質とは異なり、福島では放射性物質が空へと舞い上がり数日後に目に見えない形で広範囲に降り注いだと説明する。

  さらにカナダでも過去に数回の核関連事故が発生しており、核の脅威が決して他人事ではないことを指摘。「日本とカナダが共に核兵器禁止条約に署名し、核のない世界の実現に向けて行動する必要がある」と訴えた。

平和賞受賞者サーロー節子さんの歩み ドキュメンタリー上映

ハミルトン会場とオンラインでつなぎ、サーロー節子さんの上映前あいさつを映し出す。2025年7月5日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito
ハミルトン会場とオンラインでつなぎ、サーロー節子さんの上映前あいさつを映し出す。2025年7月5日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito

 ランメル夫妻の講演の後には、ハミルトン会場とオンラインで繋ぎ、広島で被爆したサーロー節子さんの半生を描いたドキュメンタリー映画「広島への誓い」が上映された。

 節子さんは、被爆体験をもとに核廃絶を訴え続け、平和運動家として世界中で活動している。作品では、節子さんの経験や活動の歩みが紹介され、核兵器のない世界を目指す力強い意志が伝えられた。

電話でハミルトンのサーロー節子さんと言葉を交わす、ランメル幸さんと夫のチャールズさん。2025年7月5日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito
電話でハミルトンのサーロー節子さんと言葉を交わす、ランメル幸さんと夫のチャールズさん。2025年7月5日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito

 上映後には、幸さんとチャールズさんが節子さんと電話で会話する機会もあった。幸さんがトロントにいた頃から2人は知り合いという。ランメル夫妻は「すばらしい内容だった」と伝え、互いの活動への敬意を示した。

多世代が平和の形について問いかけ合う

 バンクーバー会場で行われたQ&Aセッションでは、さまざまな世代の参加者が核兵器の廃絶、日本やカナダでの核兵器教育のあり方などについて率直に意見を交わした。会場からは、日本の教育のあり方や今後この証言をどのように記録し次世代へ継承していくべきかを問う意見も出た。

「行動を起こしたいと思えた」と語った秦ひなこさん。2025年7月5日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito
「行動を起こしたいと思えた」と語った秦ひなこさん。2025年7月5日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito

 ハワイと日本で育った20歳の秦ひなこさんは「今日のイベントにとても励まされた。特に若者にもっと声をあげてほしい。日本では多くの若者が無関心で、疎外感を抱いている。私自身もそう感じてきたが、今日の体験で行動を起こしたいと思えた」と自身の思いを述べた。

 今回はランメル幸さんの被爆体験を直接聞けると知り、参加を決めたという。感想を聞くと、過去に原爆ドームを訪れたことはあったものの、「何人亡くなったか、どこに投下されたかといった資料的な事実よりも、実際の経験者の方がその時に何を見て、何を感じたのかといった感情に触れられる今日の話の方が心に残った」と話す。「こうした機会が日本にももっとあれば、世の中に関心を持つ人が増え、社会の活性化につながると思う」と若者が社会と関わる場を広げていきたいと語った。

 イベント後には幸さんの著書「忘れないでヒロシマ」を参加者が手に取りながら本人と言葉を交わす姿も見られ、「たくさんの人にきていただけてありがたいですね」と笑顔を見せた。被爆体験の記憶を伝える場は、世代や国籍を超えて思いを共有し、交流を深める場となった。

会場には七夕にちなんだ笹の葉と短冊が飾られ、広島のもみじ饅頭なども配られた。2025年7月5日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito
会場には七夕にちなんだ笹の葉と短冊が飾られ、広島のもみじ饅頭なども配られた。2025年7月5日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito

(取材 田上麻里亜)

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【体験談2】日本での就活に違和感、カナダで学び直し 職歴のない大学生のコープ留学

アルバイトをしていたカフェで。提供:稲垣希々穂さん
アルバイトをしていたカフェで。提供:稲垣希々穂さん

 大学3年で一度就職活動を始めたものの、「このまま社会人になってよいのか」と悩み、カナダのコープ留学を選んだ稲垣希々穂さん(当時21歳)。現地での就職には至らなかったが、帰国後は自ら納得できるキャリアを歩んでいるという。

 大学生が語るリアルなコープ留学の実態について話を聞いた。

海外での学びを目的に選んだコープ留学

コープ留学中のクラスの様子。提供:稲垣希々穂さん
コープ留学中のクラスの様子。提供:稲垣希々穂さん

 稲垣さんがコープ留学を選んだのは、もともと高校時代から憧れていた「海外での学び」を大学時代に実現したいという思いからだった。就活を経験し、自分に強みがないと感じたことも大きなきっかけだったという。「みんなが就活しているからという理由で始めたけれど、(面接で)自分は何をがんばってきたのかと問われたときに、何も出てこなかった」と当時を振り返る。

 SNSや動画で情報を集める中で、あるエージェントの発信に引かれた。語学と実務の両方を体験できるコープ留学を通じて、少しでも自分の知識を広げたいと考え、「学びたい気持ちが一番にありました。留学後に日本で就職するつもりだったので、マーケティングの基礎知識があれば役に立つと思いました」と、ワーキングホリデーではなくコープ留学を選んだ。

そもそも求人の応募資格がない大学生

 稲垣さんが選んだのは、バンクーバーの私立カレッジでデジタルマーケティングの1年間のプログラム(6カ月間座学、6カ月間コープ)。半年間の座学期間では、グループワークやウェブサイト制作の課題など、さまざまなテーマに取り組んだ。

 だが、実務的なスキルを習得するには限界があったと振り返る。「本当はプログラムの中で、カナダのクライアント企業に対して(自分たちが座学を通じて考えたデジタルマーケティング施策を)プレゼンテーションをするはずだったけれど、直前でクライアントとの関係が切れてしまって発表の機会はなかったんですよね」と実体験を話した。

 6カ月間の座学期間終了後、コープ期間にはマーケティング職への応募も試みたが、職歴がない学生にとっては就職のハードルが高かった。応募資格に「最低3年以上の実務経験」を条件に掲げる求人も多く、そもそも応募できないことが多かった。

 やがて「1年間カナダで生活すること」を優先し、マーケティング職への応募はせず、元々アルバイトをしていたカフェでの勤務を継続しながら部分的なデジタルマーケティングの仕事をサポートする形を取った。

コープ留学の経験が日本での就職活動に

コープ留学を通じてであった友人と過ごした時間はかけがえのない時間だったという。提供:稲垣希々穂さん
コープ留学を通じてであった友人と過ごした時間はかけがえのない時間だったという。提供:稲垣希々穂さん

 コープ留学を終えて、現在は日本に帰国している稲垣さん。「自分の場合、授業には真剣に取り組んだので、そこは後悔していません。でも、行く前は学んだあとに仕事に就けると思っていたからこそ、就職にはつながらなかったという結果にはギャップがありました」と振り返る。もし学びの期間すら手を抜いていたら何も残らなかったと語る。

 コープ留学の利用を考えている人に伝えたいことがあるか聞くと、「何を目的にして行くのかを明確にすることが重要」と強調した。「学びが目的なら授業に集中すべきだし、仕事探しが目的ならもっと準備が必要。知識や経験をある程度積んでおかないと厳しいと思います」と話す。

 一方で、過ごした時間や出会いには大きな意味があったとし、「後悔は全くしていないです。もしまたコープ留学をするなら社会人経験を積んだ上で挑戦し、(渡航前に)座学終了後を考える形が理想的ですね」と語った。

 また、日本帰国後の就職活動ではコープ留学での経験が強みになったという。海外で学び、カフェで働いたという経験は、企業の面接官からも関心を集めた。「英語でマーケティングを学んだことも強みになりました。内定をもらった会社では海外事業もあり、海外に興味はあるかと聞かれる場面もあってうれしかったです」と話し、コープで得た経験が次のステップに確実につながったことを実感していた。

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 経験者が口を揃えて語るのは「コープ留学は制度そのものの良し悪しではなくそれをどう活用するかが問われている」ということ。学びの期間をどう活かし、次の行動につなげるか。コープ留学が「行ってよかった」と思える経験になるかどうかは、留学中の取り組み以上にその後の選択と準備にかかっていることが浮き彫りになった。

(取材 田上麻里亜)

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沖縄戦終結から80年の節目Ichari-Van Nightで世代超え継承

 沖縄の文化を紹介し、平和を祈る「Ichari-Van Night 2025」が6月22日、バーナビー市の日系文化センター・博物館で開催された。

 主催はバンクーバー沖縄太鼓、後援バンクーバー沖縄県友愛会。昨年に第1回を開催、第2回となる今年は沖縄戦終結から80年という特別な意味を持つ。

 今年も日本時間の6月23日、沖縄戦終結を悼む「慰霊の日」に合わせて開催された。この日は、沖縄だけでなく、バンクーバーを含め沖縄に関係ある多くの場所で、人々が集い、踊りや演奏を通して平和を思い、沖縄の歴史を胸に刻む日となっている。

会場には沖縄文化や歴史ブースも

「あなたにとっての平和とは?」というテーマで、それぞれが折り鶴に願いを込めた。2025年6月22日、バーナビー市。Photo by Koichi Saito
「あなたにとっての平和とは?」というテーマで、それぞれが折り鶴に願いを込めた。2025年6月22日、バーナビー市。Photo by Koichi Saito

 沖縄戦は1945年、太平洋戦争末期に行われた地上戦で、約20万人が犠牲となった。そのうち約12万2千人が民間人を含む沖縄県民だったとされている。日本軍とアメリカ軍の激しい地上戦に巻き込まれ、犠牲者の数は一般住民が軍人・軍属を上回った。焦土と化した沖縄は多くの物を失ったが、人々は戦後復興に向けて動き出す。その中で復興した一つがエイサー。会場での資料によると、沖縄戦で多くの踊り手を亡くし危機に陥るも、各地の収容所で踊られるなどして継承され、沖縄の人々に勇気を与え、やがて慰霊と希望の象徴となったという。

 Ichari-Van Nightは、そうした沖縄戦の歴史を見つめ直し、文化の継承と平和をつなぐ場として昨年からバンクーバーで開催されている。沖縄のことわざ「いちゃりばちょーでー(一度会えば、皆兄弟)」の精神を基に、まるで家族のように国や文化の垣根を越えて「共に世界の恒久平和について考え、希望を持ち実践していく一歩を歩み出す」のがこのイベントの大きな目的。

会場内では、沖縄料理や展示ブースが並び、多くの来場者でにぎわった。2025年6月22日、バーナビー市。Photo by Koichi Saito
会場内では、沖縄料理や展示ブースが並び、多くの来場者でにぎわった。2025年6月22日、バーナビー市。Photo by Koichi Saito

 会場では、沖縄そばやサーターアンダギーなどの沖縄料理が販売され、開始直後から長蛇の列ができた。また、沖縄戦の歴史や、琉球舞踊、三線、沖縄エイサーの起源と伝承について紹介する展示ブースも設けられ、戦前と戦後の文化の歩みや沖縄戦の背景を伝える写真や資料が並んだ。訪れた人たちは、フードや演舞を楽しむだけでなく、文化の背景とともに沖縄の歴史にも理解を深めていた。

伝統文化と平和への思い込めて

琉球時代から大切にされてきた三線の演奏。戦時中、命の次に大切なものは三線とまで言われていたという。2025年6月22日、バーナビー市。Photo by Koichi Saito
琉球時代から大切にされてきた三線の演奏。戦時中、命の次に大切なものは三線とまで言われていたという。2025年6月22日、バーナビー市。Photo by Koichi Saito

 ステージは、優雅な琉球舞踊「かぎやで風」で演舞の幕を開けた。続いて、色鮮やかな衣装をまとったパフォーマーたちが、全身を使った力強いエイサー・ミルクムナリを披露。太鼓の音が「ドン」と響くたびに観客の体にまで振動が伝わり、迫力ある演奏で視線を引きつけた。

 このほか、戦前から受け継がれてきたカンカラ三線や三線の演奏も披露され、平和のメッセージをより多くの人に届けようと手話を取り入れた演出もあった。合唱に参加する人や、手作りの太鼓を持った子どもが音楽に合わせて太鼓を鳴らす姿も見られ、世代を超えて会場が一体となった。

 そして午後8時、日本時間6月23日正午、黙とう。エイサー演舞で幕を閉じた。

平和への思いについて語る、Ichari-Van Night実行委員長の兼次飛翔さん。2025年6月22日、バーナビー市。Photo by Koichi Saito
平和への思いについて語る、Ichari-Van Night実行委員長の兼次飛翔さん。2025年6月22日、バーナビー市。Photo by Koichi Saito

 Ichari-Van Night実行委員長の兼次飛翔(つばさ)さんは、祖父が沖縄戦を経験していたことを話した。その祖父は生前、戦争については深く語らなかったと言い、「もっと話を聞いておけばよかった」との後悔が今も心に残っているという。

 その経験から来場者に「今、身近な人たちの声に耳を傾けてほしい」と呼びかけ、語られる内容は、温かいことだけではなく、悲しいことや聞くのが難しいことがあるかもしれないが、「それを聞くことで、なぜ自分たちが平和に暮らせているのかが分かる」と語った。「今も世界の多くの場所で紛争や暴力が続いている。今夜が平和について考えるきっかけになれば」と思いを込めた。

「受け継ぐことの重要さ、これが私たちの使命」

 沖縄戦では家族を守りながら必死に逃げた人たちがいた。バンクーバー沖縄太鼓代表の花城正美さんは、その姿や親子の絆、命の尊さの思いを「歌詞や振り付けを通して表現している創作家の意向を理解しながら演舞したいと思った」と語る。

沖縄戦終結80年の節目に思いを込めて語る花城さん。2025年6月22日、バーナビー市。Photo by Koichi Saito
沖縄戦終結80年の節目に思いを込めて語る花城さん。2025年6月22日、バーナビー市。Photo by Koichi Saito

 バンクーバー沖縄太鼓は昨年20周年を迎えた。花城さんは「小さい頃から一緒にエイサーをしてきた子たちが、今は舞台や演出を自分たちで試みている」と話し、今回のイベントを通して世代を超えて沖縄文化が受け継がれていることを実感したという。今日のイベントについては「大成功です」と笑顔を見せた。

 戦後80年という節目を迎えたことについては「語り継ぐ人が減っている今、若い世代に分かりやすい形で伝えるには、エイサーや歌が一番」とし、今年は平和への願いを込めて作られた島唄を歌い、戦中・戦後の曲で「私たちの恒久平和への思いを表現した」と話す。

バンクーバー沖縄太鼓によるエイサー演舞。2025年6月22日、バーナビー市。Photo by Koichi Saito
バンクーバー沖縄太鼓によるエイサー演舞。2025年6月22日、バーナビー市。Photo by Koichi Saito

 戦後の月日が流れ、これまで戦時中の体験を語らずにきた人たちが、沖縄戦の歴史を語り始めている姿を目にするようになったことにも触れ、「受け継ぐことの重要さは今後ますます大きくなる。それが私たちの使命」と感じたという。

 そして、「バンクーバーは平和を経験できるところ。だからこそ、ただの居心地のいい場所で終わっておきたくない」と述べ、この地から沖縄の思いを発信し続け、世界で起きている出来事にも目を向けていきたいと平和への願いを語った。

イベント後には、外でパフォーマーたちが来場者を見送り、抱き合う姿や笑顔で言葉を交わす様子も見られた。平和への願いとともに、会場は温かな余韻に包まれた。2025年6月22日、バーナビー市。Photo by Koichi Saito
イベント後には、外でパフォーマーたちが来場者を見送り、抱き合う姿や笑顔で言葉を交わす様子も見られた。平和への願いとともに、会場は温かな余韻に包まれた。2025年6月22日、バーナビー市。Photo by Koichi Saito
パフォーマンスを終え、達成感あふれる笑顔を見せた運営メンバー。2025年6月22日、バーナビー市。Photo by Koichi Saito
パフォーマンスを終え、達成感あふれる笑顔を見せた運営メンバー。2025年6月22日、バーナビー市。Photo by Koichi Saito

(取材 田上麻里亜/写真 斉藤光一)

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【体験談】制度は使い方次第 現地就職を目指した1年間のコープ留学

 カナダのコープ留学を通じてキャリアチェンジに挑んだ新島啓友さん(28)。社会人経験を経て踏み出した1年間の留学は、現地での就職を目指すにどれほどの準備が必要かを痛感するものだったという。「制度自体は悪くないと思う。でも、成果を出すには本人の覚悟と準備が必要だった」と語る新島さんの体験談は、コープ留学の実情を物語っている。

SNSで知ったコープ留学、「自分にもできそうだと思った」

コープ留学中のクラスの様子。写真提供:新島啓友さん
コープ留学中のクラスの様子。写真提供:新島啓友さん

 コープ留学の存在を知ったのは就職1年目の春。X(旧ツイッター)で目にした「カナダで働きながらスキルを学べる」という投稿がきっかけだった。ラグビーに打ち込んだ大学生活の後、IT企業に就職したが、新型コロナウイルス禍での在宅勤務が続き「これがやりたかった社会人生活なのか」と疑問が生まれた。

 「これからの人生について考えている時にたまたまコープ留学の投稿を見て、おもしろそうって思ったのがきっかけでした。キャリアチェンジがてら勉強できるしいいなって」

 そこからは、SNSやYouTubeで制度や費用、学校情報を調べた。勤めていた会社を退職した後にはマーケティングを独学しながら英語学習に打ち込み、アルバイトもしながら渡航費を確保。コープの制度を「収入を得ながら学べる点では長期的にマイナスにはならない」と捉え、2022年春にカナダへ渡航した。

期待と現実のギャップ「制度に頼るより、自分がどう動くか」

クラスメートとの一枚。学校を通じて生まれた繋がりは大きかったと話す。写真提供:新島啓友さん
クラスメートとの一枚。学校を通じて生まれた繋がりは大きかったと話す。写真提供:新島啓友さん

 カナダ到着後は1カ月ほど語学学校に通い、その後バンクーバーの私立カレッジでデジタルマーケティングの1年間のプログラムを受講した(6カ月間座学、6カ月間コープ)。だが、授業内容には期待とのギャップがあったという。「英語でマーケティングを実践的に学べると聞いていたけど、実際は教科書をなぞるような内容が多かったなと思います。本を数冊読めば身につくレベルでした」と振り返る。

 さらに、カリキュラムの途中でクラスが突然分割されるなど、学校側の運営にも戸惑うことがあった。講師も月ごとに替わるため進行や指導スタイルのばらつきが大きかったという。

 それでも学校に通ったからこそ得られたものはあった。学校を通じて出会ったクラスメートの紹介で、日本企業からデジタルマーケティングの仕事を受けるようになり、フリーランスとしての経験を積むきっかけとなった。「制度に頼るより、環境の中で自分がどう動くかが一番大事だと感じます。出会った人からチャンスが生まれることもある」と語り、人とのつながりが結果につながったと強調した。

就活で突きつけられた現実と「1年分の成果」

 6カ月の座学終了後は履歴書やポートフォリオを整え、本格的に就職活動を開始。応募数は100件を超えたが、面接に進めたのは4〜5社程度。いずれもローカル企業だった。「英語力だけでなく、成果を数字で語ることが求められました。経験はあったといっても半年程度のフリーランス経験では、マーケティングの成果を定量的に証明するには不十分でした」と語り、現地採用のハードルの高さを痛感した。

 思うような結果が出ないまま、1年間のコープ期間が終了間近となる。「このままでは帰国できない」と感じ、ビザをワーキングホリデーに切り替え、滞在を延長することを決めた。その後、日系企業からオファーを受け、ようやく現地での就業につながった。

 「現地で働くには実績と運が必要だったと思います。自分は(カナダに)来てすぐにフリーの仕事を始めていたから1年分の経験があったけど、それがなければ相当厳しかったと思う」と話し、当時のクラスメート約30人のうち、オフィス職で現地就職に至ったのはわずか数人だったという。

制度をどう使うかが鍵になる

インタビューに応じる新島啓友さん。撮影:田上麻里亜
インタビューに応じる新島啓友さん。撮影:田上麻里亜

 コープ留学は、制度の使い方次第で結果が大きく変わる。「ただの高額な留学で終わるか、経験として残せるかは自分次第」と語る新島さん。

 また、就職活動は現地に来てからでは遅いと感じた。これからコープ留学を考えている人に向けては、「プログラムの後半で一気に就活を始めるのではなく、カナダに到着して最初から動く必要がある」と語り、限られた時間の中で戦略的に動く重要性を訴えた。

 「制度そのものが悪いとは思わない。むしろチャンスにはなった」と語る。それでも、事前に思い描いた理想とのギャップに戸惑ったのも事実だ。

 「高額な学費を払って終わるだけの留学にしないためには、制度をどう活用するかを考える必要があった」と振り返る。早い段階での就職活動の準備、目的の明確化、英語力と実務スキルの習得が重要だと語った。

 経験や実績のある社会人であっても就職活動には苦戦したという新島さんの体験は、コープ留学の難しさを浮き彫りにしている。実務経験のない大学生にとっては、現地で仕事を得ることのハードルはさらに高い。

 次回は、大学在籍中にコープ留学に参加した学生に話を聞く。

(取材 田上麻里亜)

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