はじめに
日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。
ここオタワでは、6月は最高の季節です。天気が良くて陽光の眩しい日には、空と雲と水と緑の四重奏が目も心も身体も癒やしてくれます。雨が降れば降ったで、雨上がりの爽快感は筆舌に尽くし難いほどです。
一方、温暖化に起因する異常気象を背景に、山火事が頻繁している状況には心が痛みます。G7カナナスキス・サミットの主要議題の一つでもあります。大自然が相手ですから、思うに任せぬ容易ならざる課題ですが、叡智と決断で解決に道筋がつくことを期待しています。

そこで、音楽です。季節や天気がどうであれ、音楽は日々様々な形で私たちに関わっています。日常生活の一部です。が、時には、そんな日常の中にも歴史的な出来事が起こります。例えば、先日の国立芸術センター管弦楽団(National Art Centre Orchestra:以下NACOと記述します)の韓国・日本ツアーです。韓国は史上初、日本へは40年振りの公演旅行でした。
率直に言って、知名度という点ではNACOはまだまだです。特に、世界中の名だたるオーケストラの公演が連日目白押しの東京は、世界でも最も競争の厳しいクラシック音楽のマーケットと言っても過言ではありません。聴衆の耳も肥えていますし、情報の質と量も半端ありません。そんな中で、NACOは鮮烈な印象を残しました。「音楽の楽園」カナダの首都オタワが誇るオーケストラの面目躍如です。
と云うことで、今回の本コラムでは、NACOの日本ツアーを取り上げます。
圧倒的な成功〜鍵は完璧な準備也
一言で言えば、40年振りのNACO日本ツアーは大成功でした。
NACO一行がオタワに帰還した直後に、NACOの総帥クリストファー・ディーコンCEOと話す機会があったのですが、普段は沈着冷静なクリストファーが、如何に素晴らしい公演ツアーであったかを興奮気味に話してくれました。東京はサントリーホール、津は三重県文化会館、大阪は大阪シンフォニーホールと大阪万博ではカナダ・パビリオン特設会場の計4公演です。それぞれに、思い出深いコンサートとなったそうです。とにかく、聴衆の反応に感銘を受けたと語ってくれました。
コンサート意外で素晴らしかったこととして、日本で食べる和食が忘れ難いと声を大にしていました。高級懐石から、鉄板焼き、たこ焼きまで、本当に堪能した様子が伺えました。
そこで、改めて今回のNACOの訪日公演ツアーを振り返ると、これは成功すべくして成功したとのだと思います。何故ならば、そこには足かけ3年に及ぶ入念な準備があったからです。私事ですが、2022年5月にオタワに着任し、暫くして、NACOのディーコンCEOやネルソン・マクドゥーガル渉外部長と親しくなり、会食やレセプション、公演の場でいつも音楽の話をするようになりました。
2023年になると、日本大使館は2025年4月からの大阪・関西万博のプロモーションに力を入れ始めます。私の記憶によれば、同じ頃、ディーコンCEOやマクドゥーガル部長から万博の機会にNACO日本公演ツアーを企画したいとの構想を聞くようになりました。1985年以降途絶えた40年振りのNACO日本ツアーです。最初は願望というか野心的なアイデアという感じでした。徐々に、地に足のついた議論になっていきました。100人に及ぶ楽団員と関係者、大小様々な楽器群の運搬、移動・滞在費等々必要経費の問題。演奏会場、チケット・セールス、宣伝等々、処理しなければならない項目は多岐に渡りました。
願望が企画になり計画へと進展すると、マクドゥーガル部長は、頻繁に日本を訪れ、日本側の関係団体・組織との折衝が始まりました。が、一筋縄では行きません。何事につけ人生のほぼ全てを言い当てているシェークスピアが喝破した通り、悪魔は細部に宿ります。一時期は、NACOの日本側エージェントが急遽変更するといった事態にも遭遇しました。しかし、大阪万博に合わせて訪日公演を行うとの強い決意で難局を乗り切っていくのです。
マクドゥーガル部長は、きっと幾晩もの眠れぬ夜を過ごしたに違いありません。そして、日本のみならず、初めてとなる韓国ツアーも合わせて、見事なプログラムが出来ました。NACOの歴史にその足跡を刻んだと思います。
そして、今回の韓日ツアーを応援すべく、親友のイム・ウンスン駐カナダ韓国大使とともに壮行会を兼ねた夕食会を共同開催しました。シェリー、川崎はじめ、日系と韓国系の楽団員のみならず、ディーコンCEOやマクドゥーガル部長はじめNACO経営陣も公邸にお招きしました。非常に愉快な夕べでした。同時に、皆が韓日ツアーの成功を確信したのです。
2025年6月3日のサントリーホール
40年振りに日本の土を踏んだNACOは、まず、世界に冠たる音響の素晴らしさ誇るサントリーホールの舞台に立ちます。多様性を体現するカナダのオーケストラですから、楽団員も老若男女で多種多様。1985年の公演の際には生まれていない若いメンバーもいれば、40年前の古参メンバーもいます。彼らを牽引するのが音楽監督兼首席指揮者アレクサンダー・シェリーです。そして、コンサートマスターが川崎洋介です。
今回の訪日にあたり、演目は慎重に選ばれました。NACOの力量が遺憾無く発揮される得意中の得意のレパートリーにして、日本の聴衆が大好きな楽曲です。しかも、日本との縁を実感させるものです。
〈ケイコ・ドゥヴォー〉
まず、冒頭は、国立芸術劇場が委嘱した新曲です。モントリオール在住の日系カナダ人ケイコ・ドゥヴォー作曲の管弦楽曲「水中で聴く」です。水の流れを再現する打楽器群の音が弦楽器を誘導。聴く者は知らず知らずのうちに、水の中に溢れる音の時空に導かれます。随所に、東洋的な音色と響きを感じます。いわば、ドビュッシー的な印象派の21世紀ヴァージョン。現代カナダ音楽の真髄です。
〈ラフマニノフ〉
次がピアノ協奏曲の名曲中の名曲、ラフマニノフの2番です。実は、私は国立芸術劇場でこの曲のNACOの演奏を2度聴いています。
1度目は、2023年5月の辻井伸行との共演です。リハーサルも観る機会に恵まれたのですが、普段着でリラックスした中で要所要所の詰めを確認する姿は極めて印象深かったです。そして、本番は圧巻でした。指揮者シェリー、コンサートマスター川崎、ソリスト辻井、そして全ての楽団員が心を一つにして築きあげた音楽の桃源郷でした。細部に渡り緻密に計算され制御されている管弦楽と、ソリストの胸に湧き上がる創造性が奔放に羽ばたくピアノが見事に共存し昇華していました。CDや配信サービスで聴く再現されたデータとは違う次元です。演奏者と同じ空間にいて、目の前で、指揮者・コンサートマスター・独奏者・楽団員の動きを見て、息づかいを感じ、全ての音を聴くのです。音楽の最高の愉悦を感じました。
2度目のラフマニノフ2番は、正に今回のサントリーホール公演の独奏者であるオルガ・シェプスでした。女性的な繊細さと同時に鋭角的な超絶技巧を持つ奏者です。こちらも本当に素晴らしい演奏でした。指揮者シェリーは、それぞれの独奏者の個性を尊重し抱擁し、ピアノを支えつつ、刺激し、優しく挑発するのです。第3楽章が終了した瞬間、圧倒的な歓声に包まれました。
シェリーとシェプスの共演が、時に厳しく辛口のサントリーホールの聴衆をも唸らせた様子が目に浮かびます。
〈ベートーベン〉
メイン・ディッシュは、交響曲第5番「運命」です。こちらも、NACOの十八番です。こちらも国立芸術劇場で2度聴く機会がありました。
特に、2023年4月の演奏は忘れ難いです。ドイツのフランク=ヴァルタール・シュタインマイヤー大統領のカナダ公式訪問の際のオタワでの日程でした。カナダ側の歓待に対するドイツ側の答礼行事という位置づけです。ドイツ大統領主催の国立芸術劇場での特別な演奏会は、シェリー指揮でNACOが演奏する「運命」だったのです。
音楽ファンなら誰もが熟知している名曲中の名曲です。だから、この夜の演奏が異様な熱気を纏った演奏だったと分かります。シェリーのタクトが振り下ろされた瞬間、第1楽章冒頭のダダダ・ダーンが響きます。まるで、自ら意思を持つ生き物のように、音の塊が聴衆に襲います。と、劇場の空気は一変し、聴衆の目も耳も心も一気に引きつけました。シェリーは指揮台に楽譜を置かず、全ての楽器の全ての音を完璧に頭に入れて、渾身でオーケストラを牽引しました。コンサートマスター川崎も阿吽の呼吸でシェリーの意図を感じ楽団員を鼓舞しました。佳境に入ると椅子から立ち上がらんばかりに音楽に没入するのです。
第4楽章が大団円を迎えると、筆舌に尽くし難い感動が胸に溢れて来ました。招待してくれたスパウサー駐カナダ独大使には、コンサート直後に、心からの謝意と祝意を述べました。彼女も本当に感動していて、本当に誇らしいと言っていたのを思い出します。
実は、このコンサートには若干の後日談があります。数日後に、NACOのマクドゥーガル渉外部長と話す機会があったのですが、実際は薄氷を履む状況であったと言うのです。というのも、大統領の全体日程の調整が難航しこのプログラムが決まったのは直前で、NACO以外の仕事もあって超多忙なシェリーの日程を何とか調整できたものの、全体のリハーサルは出来ないまま、本番に臨んだのだと言うのです。正に、NACOの真の実力が証明されたとも言えます。
そんなシェリー指揮NACOの第5番「運命」がサントリーホールに響いたのです。このコンサートに赴いた友人から、即座にメールが来ました。曰く、シェリーの「運命」に圧倒され、鳥肌が立った、と。
大阪・関西万博「Shining Hat(カナダ・パビリオン)」へ
NACOは、サントリーホール公演を成功させ、西に向かいます。
まず、6月5日は、津市の三重県文化会館です。サントリーホールと同じメニューで、聴衆を魅了しました。そして、翌日は大阪です。

6月6日は今回の訪日のハイライト。大阪・関西万博カナダ・パビリオン特設会場でのコンサートです。日本とカナダとの友情を更に深める特別なプログラムが用意されました。題して、『オスカー・ピーターソンに捧げるコンサート(Oscar Peterson Tribute Concert)』です。世界中で、カナダに匹敵するレベルでオスカー・ピーターソンが敬愛されている国は日本だけです。この連載「音楽の楽園」第2回でも取りあげましたが、秋吉敏子を発見した名伯楽でもあります。在京カナダ大使館のオードトリウムは「オスカー・ピーターソン・ホール」と名づけられていて、日本人にとっては、その名前はジャズを超えてカナダを代表しているのです。
特別プログラムは、オスカー・ピーターソンの音楽的遺産をクラシックとジャズを融合させると同時に、世代と国境を超える形に昇華したものです。音楽監督アレクサンダー・シェリーの面目躍如です。

『夢の軌跡:カナダ組曲(Trail of Dreams: A Canadian Suite)』は、オスカー・ピーターソンの代表作でピアノ・トリオの傑作『カナダ組曲』を管弦楽団とジャズ・ピアノ・トリオとの共演用に編曲されたものです。モントリオールで生まれ育ち、幼少期からクラシック・ピアノを学んだオスカーにとっては、クラシックもジャズも共に美しく斬新で新しい音宇宙の構築を目指すという意味では本質的な違いはありませんでした。実際「カナダ組曲」は、ドビュッシーやラベルを加速し現代化した趣すらあります。
更に、シェリーが用意したオスカーに捧げる極めつけが『自由への讃歌(Hymn to Freedom)』です。ピーターソンの代表曲であるばかりでなく、第2のカナダ国歌とも称されています。1962年発表の『ナイト・トレイン』という音盤に収録されています。オスカーの父親は、ドミニカからの移民で、鉄道員の職を得て刻苦勉励しオスカーを育て、息子がプロのピアニストを目指す時には深い愛と智慧を授けました。そんな父に捧げた音盤の核が『自由への讃歌』です。初めての人も、最初のワン・フレーズを聴くだけで、心の奥の柔らかい部分が慰撫されるように感じるはずです。そんな名曲中の名曲がオーケストラと児童合唱団によって再生されたのです。会場は、感動と興奮の坩堝と化したと伺いました。
結語
オーケストラの実力は、本質的には知名度とは関係ありません。但し、実力が証明されれば評判が評判を呼び、いずれ有名になっていきます。NACOは、今回の訪日公演ツアーでその流れに乗ったと思います。今後の活躍に期待が一層高まります。
シェリー、川崎、NACOは、韓国・日本ツアーから凱旋しましたが、その感慨に浸る間もなく、過密な日程が待っています。次は、国立芸術劇場にてストラヴィンスキー『春の祭典』の演奏会です。既に世界レベルのNACOが今回の韓日ツアーで一皮剥けた演奏をしてくれるのではないか。オタワ在住の音楽愛好家は待ちきれません。

そして、溢れる情熱と大きな構想力でNACOをここまで引っ張って来た音楽監督アレクサンダー・シェリーは、今シーズンで11年に及ぶ契約を完了します。来年からは、米国カリフォルニア州オレンジ郡を拠点とするパシフィック交響楽団の音楽監督に就任します。パシフィック響は、1978年創設とNACOよりも約10年若い楽団ですが、ヨーヨー・マも参加したエリオット・ゴールデンサール作曲『水・火・紙:ベトナム・オラトリオ』の委嘱・初演で知られます。NACOとの11年で培った伝統と前衛、統率と自由の絶妙なバランスでもって、シェリーが牽引するクラシック音楽の新しい潮流から目が離せません。武運長久を祈ります。
(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。
山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身