カルラ 2 ~投稿千景~

エドサトウ

 司馬遼太郎さんのエッセイ「わだつみ」のなかに「想像だが、紀元前の大昔。日本の海人の世界はひろかったのではないか。かれらは、ひろく漂流した。中国の南部の沿岸から山東半島、遼東半島、南朝鮮の多島海の島々、済州島の島々、日本の北九州、瀬戸内海の島々と言った沿岸がその世界だった。船を家として時に遠く海をゆき、陸の権力から拘束されることがすくなかった。」とあるのはうなずける。

 アフリカ原産と言われるひょうたんの種が、青森県の縄文時代の三内丸山遺跡で見つかっているのを見れば、かなり古い時代から海の交流があったようである。長い航海をするのに真水を蓄える容器にひょうたんは、当時としては最高の必需品であったのではなかろうか?丸木舟に海水が入り、水がたまれば、ひょうたんでくみ出すこともできる。また、大波で海に投げ出されても、からのひょうたんは浮袋の代わりにもなる。ひょうたんの浮袋で海に漂い、丸木舟につかまれば、また、舟に乗ることもできる。木をくりぬいてできている丸木舟は、ひっくり返っても沈むことはなかろうと思われるが、竹のフロートを丸木舟にくくり付けておけば、あまりひっくり返ることもないようである。

 だから、奈良時代以前の昔から船で日本に来た中近東のペルシャの人々はいただろうと少々飛躍した想像もできる。縄文時代の終わりころには、地中海でワインなどを積み込んで地中海の国々と交易をしていた中近東のフェニキア人がいたらしい。だから、かなり大きな帆船があったようである。一世紀以前のこととして、クシャン帝国のインド北部の港に高価な銀器や葡萄酒、衣服などが運ばれたとある。インドからさらに東へ航海をしてベトナムあたりまで到達して寄港したのか、ベトナムの海岸線の港の遺跡からはローマコインが見つかっているわけだから、そういう船が島伝いに日本にたどり着いたとしてもおかしくないように思える。