念じ続けて花開いた”逆転人生” Part 1/2

世界初のアルツハイマー病治療薬「アリセプト開発物語」

 日本語認知症サポート協会が、世界初のアルツハイマー病治療薬「アリセプト」の開発者、杉本八郎氏をゲストに迎えて開催する講演会。3回シリーズで開催される。

 第1回は「アリセプト開発物語」。アルツハイマー病の治療薬開発を始めた経緯やアリセプト開発まで、開発にかける思いなどの内容となった。

 講演会はZoomで杉本氏の住む京都と、バンクーバーをつないで10月3日に開催。バンクーバー在住という杉本氏の二人の姉を含め53人が参加した。

 画期的な医薬品の開発者に贈られる、英国ガリアン賞特別賞をはじめ、化学・バイオつくば賞、恩賜発明賞などを受賞している杉本氏。華々しい経歴を持つが、その裏では何度も壁にぶつかり、そのたびに諦めることなく立ち上がってきた。2019年にはNHK総合の『逆転人生』に出演。まさにその番組名を地で行く道のりだった。

 今回の講演「アリセプト開発物語」の内容を2回に分けて紹介する。

エーザイへは高卒で入社

 杉本氏は9人兄弟の8番目として昭和17年に生まれた。大家族で米を一升炊いても足りない、雨が降っても傘がないという生活だったという。父親は「甲斐性がなく」、母は昼も夜も働いていた。

 その母の勧めで入学した工業高校を昭和36年に卒業。当時は研究員数50人ほどの小さな会社だったエーザイに入社する。大学に行くお金はなかった。

エーザイ入社時の杉本八郎氏 Photo courtesy of Hachiro Sugimoto 
エーザイ入社時の杉本八郎氏。赤と青はエーザイのロゴの一部 Photo courtesy of Hachiro Sugimoto 

 昭和40年前後の日本の製薬業界は海外の薬を導入するというスタイル。しかし、社長だった内藤豊次氏はエーザイオリジナルの薬を開発することを夢に掲げていた。そんな内藤氏に人生で夢を持つことの大切さを学ぶ。

 大学を卒業していなかった杉本氏は”研究補助員”で、周りからも研究者として認めてもらえなかった。「悔しくてよく上司とぶつかりました」と振り返る。

 しかし、大学を出たいと考えて、研究所に近かった中央大学理工学部の夜間部に入学する。仕事を5時に終えた後に大学で勉強するという生活を4年間続けた。

 一方で気持ちのはけ口に組合活動にのめり込み、趣味でもある剣道にも熱中した。そんな杉本氏に転機が訪れる。ファイザー社のブラゾシンの構造が面白かったので真似てみたところ、ブナゾシン(商品名デタントール)という降血圧剤の開発に成功したのだ。このことで自信がついた。最初の逆転だ。

開発の原点となった母親の「あんたさん誰でしたかね」

 当時エーザイは循環器の製薬を中心としていた。しかし、杉本氏は中枢系疾患の認知症の薬を次に創りたいと考えた。

 その根底には母親の脳血管性の認知症があった。戦後9人の子どもたちを苦労して育てた母が認知症になり、杉本氏に「あんたさん誰でしたかね」と聞いた。息子のことを忘れてしまった母を見てショックを受ける。それが、世界初のアルツハイマー病治療薬「アリセプト」誕生の原点だった。

 当時、認知症の薬はなかった。「せっかく製薬会社に勤めているのだから私がやろう」と決心する。

日光での母と息子 Photo courtesy of Hachiro Sugimoto 
日光での母と息子 Photo courtesy of Hachiro Sugimoto 

8年の歳月と8億円をかけた脳血管型認知症薬開発がとん挫

 まず脳血管性認知症の薬に取り組む。エーザイが合成を行い、埼玉医大が猿の脳血流を調査した薬は、脳血流を増やしたことから、臨床試験に移る。しかし、第一相試験でとん挫する。

 副作用を調べたところ、肝機能障害を起こす恐れがあることがわかった。このプロジェクトには、開発開始から研究集結まで8年の年月と8億円という長い月日と莫大な費用がかかった。「八郎が8年、8億円かけて成功しなかった」と自虐ネタを披露した。しかし、この事態をアリセプトの成功で巻き返す。

Part 2に続く。
(取材 西川桂子)

杉本氏の講演第二回『あなたが認知症にならないために』の詳細はこちら

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