ホーム 著者 からの投稿 Naomi Mishima

Naomi Mishima

Naomi Mishima
1607 投稿 0 コメント

自力整体カナダ2025年10月から2026年3月までのお知らせ

自然治癒力・自己免疫力がつき、身体が整う教室を開催しています

身体の痛みや各種の不快症状も自分で完治できるどこにもない教室です

★日系センター教室   初心者、単発参加も大いに歓迎 !

⑩金曜日クラス 10月3日(金)・31日(金) AM10:30~11:30
10月の日曜日クラスは休講

⑪金曜日クラス 11月7日(金)・21日(金) AM10:30~11:30
日曜日クラス 11月30日(日) 正午~13:00

⑫金曜日クラス 12月5日・12日・19日(金)AM10:30~11:30
12月の日曜日クラスは休講

①金曜日クラス 1月9日(金)・23日(金)AM10:30~11:30
日曜日クラス 1月18日(日) 正午~13:00

②金曜日クラス 2月6日・13日・2月20日(金)AM10:30~11:30                                
2月の日曜日クラスは休講

③金曜日クラス3 月13日(金)・20日(金)AM10:30~11:30
日曜日クラス  3月29日(日) 正午~13:00

★Web教室も好評配信中❢サンプル動画もお気軽に❢
(月)・(木)の夕方クラス(週1回、1回90分)
(木)・(土)の朝のクラス(休憩時間5分込です)
★ Zoom配信ではなくWebが苦手な方も簡単と好評 ★

★Webサイトも「自力整体法カナダ」で配信中❢]
(Jirikiseitai.Canada@)

詳細・お問い合わせはお気軽に、、、
☎ 604-448-8854
eメール jirikiseitai.canada@gmail.com

★メールで教室開催案内を希望の方はお知らせください。

和の学校@東漸寺9月のお知らせ

こんにちは。
夏休みが終わり、秋の風を感じる季節となりました。
9月9日は重陽の節句です。
陽が重なり、邪気を払うと言われています。

コキットラム市にあります東漸寺では、親子さん向けの五節句のお祝いとキッズ茶会を開いております。

今年最後のお節句のイベントとなります。
どうぞ、皆様お揃いでお寺へお越しください。

以下、ご案内となります。
どうぞよろしくお願い致します。

コナともこ
和の学校@東漸寺

重陽の節句

子ども演劇、茶道体験

914日(日)
午前1015分〜子ども演劇体験
午前11時〜子ども茶道体験

重陽の節句*キッズ茶会

子どもたちと楽しむ、お茶の時間♪呈茶スタイルでカジュアルに茶道経験してみましょう。
お茶代:$3(お子様〜12歳)$5(13歳〜大人)同時開催「子ども演劇体験」参加費:無料

演劇というコミュニケーションの表現を通じて、親子で昔話などの朗読や体を使った遊びをしてみませんか。
毎週日曜日、各種稽古を行っております。
最初は見学や体験から、お気軽にご参加くださいませ。

「フィルム向/殺陣教室」

9月7日、14日、28日(日曜日)*21日はお休みとなります。
午前10時~午後11時半 「殺陣*レギュラークラス」午後12時~午後1時半 「殺陣*基礎クラス」

<参加費>
レギュラークラス、基礎クラス
$23/回

「着付教室、着物ワークショップ/着物クラブ」

ご自分で着物を着て、お出かけしてみませんか。初心者向けの着付け教室です。
着物及び帯や小物のレンタルもしております。(有料)

*日時について変更もございますので、その都度ご連絡をいただけましたら幸いです。

<参加費>
通常教室$25/回(グループクラス;最少人数3名)

*セミプライベートやプライベートクラスもございます。

レンタル着物&名古屋帯$30/回 レンタル浴衣&半幅帯$20/回

「茶話タイム」
午後12時~1時
(茶話タイム内では、各種お教室に参加された方同士の社交の場として、お愉しみください。着物クラブを同時開催することもございます。)
茶話タイム $5~ドネーション/教室への参加者は無料です。

<和の学校@東漸寺イベント及び各種教室のお申し込み*お問い合わせ>
和の学校@東漸寺TOZENJI コナともこ tands410@gmail.com

住所 209 Jackson street Coquitlam, B.C.
和の学校@東漸寺ホームページ https://wanogakkou.jimdofree.com/

沖縄県人カナダ移住125周年記念公演 創作芸団レキオス「沖縄の鼓魂・ヌチカジリの響き、沖縄から世界へ」

日時:2025年9月21日(日) 午後4時~6時(開場:午後3時)

会場:Michael J. Fox Theatre(7373 Macpherson Ave, Burnaby)

チケット料金:一般:$30、シニア(65歳以上)・学生:$20、小人(4~12歳):$10、3歳以下:無料、※グループ割引:5枚以上のご購入で10%割引

お問い合わせ: REQUIOS2025@gmail.com Tel: 604-250-9532

チケット販売所:The Postcard Place、Tatchannoodle、Eventbrite (eventbrite.ca)

モントリオール植物園日本館で被爆80年展示会「被爆者の体験した記憶を次世代へと引き継ぎたい」

モントリオール植物園日本館で開催されている広島の基町高校の生徒が描いた「原爆の絵」を展示する「Hiroshima – Passing the Torch(Hiroshima – Relayer l’Histoire)」の様子。Photo: Ms. Sonia Dandaneau
モントリオール植物園日本館で開催されている広島の基町高校の生徒が描いた「原爆の絵」を展示する「Hiroshima – Passing the Torch(Hiroshima – Relayer l’Histoire)」の様子。Photo: Ms. Sonia Dandaneau

 カナダ・モントリオール市のモントリオール植物園内にある日本館で広島の高校生が描いた「原爆の絵」を展示する「Hiroshima – Passing the Torch(Hiroshima – Relayer l’Histoire)」が開催されている。

 モントリオール市は広島市と姉妹都市で、毎年8月5日午後7時15分(日本時間8月6日8時15分)には同園内日本庭園で平和式典が行われている。

 展示会を企画したモントリオール植物園日本庭園日本館館長ソニア・ダンダノーさんに話を聞いた。

広島基町高校生徒が描いた被爆者の体験した「原爆の絵」を通して次世代へとつなげたい

 今年は広島に原爆が投下されて80年という節目の年を迎えた。モントリオール市は1998年に広島市と姉妹都市提携。それ以前にも1987年7月には平和首長会議に参加していた同市にとって被爆80年を特別な思いで迎えていたという。

 「被爆80年という現実を考える時、『ヒバクシャ』がいなくなっていくということは、歴史の記憶に大きな穴が開くということだと思いました。被爆し、原爆投下の被害を目の当たりにした体験をした人は彼ら以外にいないのです」

 そこでこの貴重な体験をどのように伝えるかと考えた時、次世代に引き継がなければならないという思いに駆られたと語る。

 「『ヒバクシャ』の体験は忘れてはならない。人間には過去の過ちを簡単に忘れ、繰り返すという性質がある。若い人たちに伝えるにはどうすればいいか」。当初は日本館が所有する被爆者自身が描いた作品30点を展示することを考えた。しかし、被爆者の記憶を次世代へと継承していくための取り組みとして、基町高校のプロジェクトに注目した。

 広島市基町高校では、広島平和記念資料館が2004年から行っている「被爆体験証言者の記憶に残る被爆時の光景を若者が絵に描き、当時の状況を伝える『次世代と描く原爆の絵』の事業」に2007年から同校創造表現コースの生徒が参加していた。被爆者との共同制作による「原爆の絵」として資料館に保存されている。

 「とても興味深いプロジェクトだと思いました」。作品の画像データを提供していることも分かった。そこで「約200点から私自身が選び、20点を展示することにしました。見る人に強く印象に残る作品、視覚的に訴える作品を中心に、さまざまな角度から紹介できると思う作品を選びました。選ぶ作業は大変で、かなりの時間がかかりました」。

 選んだ作品にはそれぞれに説明があり、高校生と被爆者のコメントが付いていた。「それらから印象に残ったコメントを選んで、テレビ画面に映し出すという方法で展示会場で紹介しています」。コメントを読んでいると「広島の高校生ですら原爆について知らないことがあると気づいたと言っていました。それを考えると、広島以外、ましてや日本以外の若者はなおさらだと思います」

 今回の展示会を通して「私は見た人が、罪のない被爆した全ての人々が経験した苦しみや困難に共感し思いやりの心を持ってもらいたいと思います。また被爆を体験した実際の体験に耳を傾けてほしいです。偽の情報が深刻な問題をもたらしている現代だからこそ、確かな情報から学ばなければならない。体験者の声は重要な意味を持つのです。展示会を訪れた人がそれを理解してくれることを期待します」

広島とのつながりを大切に特別な思いで迎えた8月5日

多くの人が見守る中で行われたモントリオール植物園日本庭園での平和式典。平和の鐘を突くモントリオール市議会マルティンヌ・ムサウ=ムエレ議長(左)と内川昭彦モントリオール総領事。モントリオール日系コミュニティとMr. Luc Leblanc, a member of the Montréal Japanese Garden and Pavilion Foundationから贈られた各千羽鶴も平和の鐘に飾られた。Photo Crédit : Ville de Montréal / Meve Design
多くの人が見守る中で行われたモントリオール植物園日本庭園での平和式典。平和の鐘を突くモントリオール市議会マルティンヌ・ムサウ=ムエレ議長(左)と内川昭彦モントリオール総領事。モントリオール日系コミュニティとMr. Luc Leblanc, a member of the Montréal Japanese Garden and Pavilion Foundationから贈られた各千羽鶴も平和の鐘に飾られた。Photo Crédit : Ville de Montréal / Meve Design

 日本庭園には広島から寄贈された「平和の鐘」がある。毎年8月5日には記念式典が行われ、午後7時15分にモントリオール市代表と在モントリオール日本国総領事が共に鐘を突く。広島の8月6日8時15分と同時刻だ。

 ダンダノーさんによると今年は例年より多い約300人が参加したという。モントリオール市を代表してモントリオール市議会マルティンヌ・ムサウ=ムエレ議長と、内川昭彦モントリオール総領事が鐘を突いた後、広島市松井一實市長の平和宣言が読み上げられた。平和宣言は式典後に全文をフランス語、英語、日本語で読めるようにした。そして今年はさらに日本館での「原爆の絵」の展示会場も訪れたという。

 「すごくシンプルな式典ですが、毎年とても感動します」。さらに今年は80年ということで「みなさんに鐘の音を聞いてもらいたかったので」と8月6日にも鐘を突いた。1日かけて80回。「同僚の中には1日中鐘の近くにいて、訪れる人に広島との関係や、『なぜこういうことをしているのか、鐘はどういうものか』などを説明していました」。

 記念式典は毎年一般公開されている。ただ情報を知らない人は来ないため一般の人が鐘の音を聞く機会はほとんどない。「でも今年は8月6日が何の日か知らずに植物園を訪れた人にも紹介できる機会になりました」。広島のこと、モントリオールとの関係、鐘についてなどを伝える、「それが重要だったと思います」。

 「平和の鐘」は広島市との姉妹都市提携した年にモントリオール市に寄贈された。以来、平和式典で鐘を鳴らし、哀悼の意を表している。

 モントリオール植物園日本庭園と広島市との姉妹都市提携には縁がある。日本庭園造設のきっかけは、当時のピエール・ブルク植物園園長と日本人僧侶・高畑崇導さんの出会いだったと説明する。「お互いに尊敬する存在となり、高畑さんからブルク園長に植物園に日本庭園を造ってはどうかと提案したそうです」。

 モントリオール市では1967年にモントリオール万博、76年にモントリオールオリンピックと国際的なイベントが続いた。モントリオール市民が海外文化に興味を持つきっかけになり「タイミング的にとてもよかったのでは」と話す。

 資金集めやさまざまな問題をクリアして1988年に日本庭園がオープンした。手掛けたのは造園家・中島健さん。それから10年後、広島市と姉妹提携した。調印式には日本庭園オープン時に植物園園長だったブルグさんが市長として調印した。

 日本館は1989年にオープン。ダンダノーさんは「広島は今、市民の日常、未来に引き継ぐ平和」という展示会を開催したこともあると話した。「数年前にプライベートで家族と日本を訪れた時、広島にも行きました。その時に広島といえば原爆というイメージしかないということに気づいたんです」。そこで被爆地という顔だけではなく、広島の町、人々の日常などを紹介したいと思ったという。「もちろん被爆地としての広島は歴史の重要な一ページですが、それだけが広島の町を定義しているわけはないのです」。

 そこで広島市の協力も得て、展示会を開催した。「それは現在の広島の日常を伝えるものです。すばらしい町で暮らす豊かな生活です。広島という町について人々の見方を少し変えるきっかけになればと紹介しました」。

 広島の町の魅力もモントリオールで発信したダンダノーさん。モントリオールと日本をつなぐ役割も担い、その功績に2024(令和6)年春の外国人叙勲受章者として旭日双光章が贈られた。

 今回の展示会は今年10月31日まで開催されている。

「Hiroshima – Passing the Torch(Hiroshima – Relayer l’Histoire)」

期間:2025年8月1日~10月31日 午前10時~午後6時
会場:モントリオール植物園日本館(4101, rue Sherbrooke Est, Montréal, QC)
ウェブサイト:https://calendrier.espacepourlavie.ca/hiroshima-n-passing-the-torch-a-powerful-exhibition-984585

モントリオール植物園日本館で開催されている「Hiroshima – Passing the Torch(Hiroshima – Relayer l’Histoire)」で広島の基町高校の生徒が描いた「原爆の絵」を熱心に見る来場者。Photo: Ms. Sonia Dandaneau
モントリオール植物園日本館で開催されている「Hiroshima – Passing the Torch(Hiroshima – Relayer l’Histoire)」で広島の基町高校の生徒が描いた「原爆の絵」を熱心に見る来場者。Photo: Ms. Sonia Dandaneau

(取材 三島直美)

合わせて読みたい関連記事

カナダ日系文化会館JERFから東北3大学に各1000万円寄付

高円宮妃久子さま(前列中央)を囲んで記念撮影。後列はこの日の式典に参加した基金の支援を受けた元学生たち。2025年5月22日、東京。撮影 三島直美/日加トゥデイ
高円宮妃久子さま(前列中央)を囲んで記念撮影。後列はこの日の式典に参加した基金の支援を受けた元学生たち。2025年5月22日、東京。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 カナダ日系文化会館(JCCC)は2011年に起きた東日本大震災で被災した東北3県の3大学に各1000万円(約10万ドル)を寄付した。5月22日には東京の在日カナダ大使館で贈呈式が行われた。式には高円宮妃久子さまも出席され、カナダからの迅速で多大な援助に改めて感謝の言葉を述べ、奨学金を受けた学生が夫(故高円宮)がそうであったようにカナダを第2の故郷のように思ってくれることを願っていると語った。

 JCCC Foundationは2011年の震災直後、甚大な被害を受けた東北地方の被災者を支援するため、カナダ人からの寄付を募る「東日本大震災救援基金(JERF: Japan Earthquake Relief Fund)」を設立した。きっかけは被災地を支援したいという想像を超えるカナダの人々からの声だった。集まった寄付金は、高等教育を続けるために経済的支援を必要としている東北の学生を支援するために使うことに決定。募金は約160万ドルに上った。JERFは、赤十字に10万ドル、福島県、宮城県、岩手県に高校までの生徒のために各10万ドルを寄付、加えて、大学生を対象にした奨学金に充てた。合計で1,179,679ドルがこれまでに使用された。

 奨学金は、東北大学、岩手県立大学、福島県立医科大学で、医療や福祉関係を目指す大学学部生・大学院生を対象とし、2012年からこれまでに63人(162件)が支援(65,587,104円)を受けた。

JERFを代表してあいさつするクリスティン・ナカムラさん。2025年5月22日、東京。撮影 三島直美/日加トゥデイ
JERFを代表してあいさつするクリスティン・ナカムラさん。2025年5月22日、東京。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 しかし、JERF代表のクリスティン・ナカムラさんは、「震災から14年が経過し、基金はその目的を果たしたと判断したため、理事会は経済的支援を必要とし、カナダと何らかの関係がある学業のために利用してもらえればと、残りの基金を3大学に同額ずつ寄付することを決定した」と今回の寄付について説明した。

被災経験を基に地元で市民を支えられる人に

 この日は、これまでに基金の支援を受けたことがあり、現在はそれぞれの分野で活躍している元学生たちが多く出席、その中から6人が代表でスピーチした。

 震災当時、小学生から大学生だったという6人は、それぞれに震災の被害や家族を失った悲しみなどを語った。いつまでも続くのではないかと思われる地震にこの上ない恐怖を感じたこと、被災し、仮設住宅での生活を余儀なくされ、ストレスで不登校になったこと、持病を持つ家族を抱え心身ともに疲れ切っていたこと、恐怖と不安で震えていた避難所生活で看護師にかけてもらった言葉に勇気をもらったことなど、それぞれの10代の体験を話した。

 その中で、被害に遭った人たちを救いたいと医療や福祉の勉強をすることを決意したものの、さまざまな事情から大学や大学院への進学をあきらめかけた時に基金の支援はとても心強くうれしかったとそれぞれに感謝した。

 最後に語った福島県立医科大学耳鼻咽喉科学講座専攻医の斉藤杏さんは唯一英語でスピーチ。「カナダの皆さんに感謝を伝えるのに相手の言葉を使って話したかったから」と言う。「カナダに行ったことがないだけでなく飛行機にすら乗ったことがないが、英語でスピーチしようとチャレンジした」と笑顔を見せた。中学校の卒業式当日に地震に遭い、自宅は全壊。それでもこの経験があったから医療の道に進んで地元福島で医療に携わりたかったと語る。そして「いつかカナダの人々から受けた親切に恩返ししたい」と感謝した。

 式典を終え、ナカムラさんは「皆さんのスピーチを聞いて、また昔のことを思い出して涙が出ました」と話す。式典の様子はビデオ録画していて、トロントで関係者に見せるという。震災当時はJCCCに「なにか支援できることはないか」と多くの電話が掛かってきたため基金を作って支援することになったと振り返る。「支援が皆さんの役に立ったという話を聞いて感動しました。本当に支援をして良かったなって思います」と笑った。

(取材 三島直美)

合わせて読みたい関連記事

沖縄県人カナダ移住125周年記念公演 創作芸団レキオス「沖縄の鼓魂・ヌチカジリの響き、沖縄から世界へ」

日時:2025年9月21日(日) 午後4時~6時(開場:午後3時)

会場:Michael J. Fox Theatre(7373 Macpherson Ave, Burnaby)

チケット料金:一般:$30、シニア(65歳以上)・学生:$20、小人(4~12歳):$10、3歳以下:無料、※グループ割引:5枚以上のご購入で10%割引

お問い合わせ: REQUIOS2025@gmail.com Tel: 604-250-9532

チケット販売所:The Postcard Place、Tatchannoodle、Eventbrite (eventbrite.ca)

静かに考える戦後80年・癒しのコンサート、バンクーバーで開催

左から、ペンさん、エップさん、ラムズボトムさん、ランメルさん、アクネさん、新屋さん、コーバーンさん。バラを贈られ最後に全員で。2025年8月15日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/FRASER MONTHLY
左から、ペンさん、エップさん、ラムズボトムさん、ランメルさん、アクネさん、新屋さん、コーバーンさん。バラを贈られ最後に全員で。2025年8月15日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/FRASER MONTHLY

 日本にとって終戦80年となった2025年8月15日、カナダ・バンクーバー市で「静かに考える戦後80年・癒しのコンサート」が開催された。

 8月のバンクーバーには珍しく朝から土砂降りの雨となったが、会場には約250人が集まり、戦争体験者の語りと癒しの音楽に耳を傾け、心をゆだねるひと時となった。

今なお記憶に残る戦争体験、太平洋をはさんで日本とカナダで

 第2次世界大戦は日本、そしてカナダで人々に大きな傷を残した。日本では1945年8月6日、9日に原子爆弾が投下され、約21万人がその年のうちに亡くなったとされる。一方、カナダでは1941年12月7日の日本軍による真珠湾攻撃を機にカナダ政府の日系人強制収容政策が翌年から始まった。罪のない市民が戦争によって犠牲になる。日本でもカナダでも変わらない。

 この日は、8月6日に広島で被爆したランメル幸さんと、強制収容政策でリッチモンド市スティーブストンからアルバータ州レイモンドに移動を強いられたロイ・アクネさんが、自らの体験を語った。

自身の体験談を語るランメル幸さん。2025年8月15日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/FRASER MONTHLY
自身の体験談を語るランメル幸さん。2025年8月15日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/FRASER MONTHLY

 幸さんは8月6日、爆心地から約3.5キロメートル離れた小学校の校庭で遊んでいた時に被爆した。当時8歳。大きな木の陰にいたため奇跡的に助かったが、黒い雨に打たれ、着ていた服に黒いしみがついて取れなかったことを覚えているという。長く原爆体験は話していなかったが、2011年3月11日の東日本大震災時に起きた福島第一原子力発電所事故をきっかけに、「原爆について語らなければ」との思いに駆られた。体験談をつづった日本語版「忘れないでヒロシマ」(南々社)、英語版「Hiroshima-Memories of a Survivor」も執筆し、バンクーバーを中心に語り部として平和活動を続けている。

 キリスト教徒である幸さんにとってバンクーバーで歴史あるクライストチャーチ大聖堂で多くの人に自身の体験談を聞いてもらえたことは言葉にできないほどうれしかったという。「『すばらしかった』と言ってもらえて」と遠慮がちに喜んだ。今回は通訳が入ることもあり講演は約10分と短かかったため、まとめるのが難しかったという。「短い時間で伝わるかなと思っていましたけど、伝わったようでよかったです」。楽しみにしていたパイプオルガン演奏は講演準備のため残念ながら聞けなかったそうだが、「ピアノも、トリオもすばらしくて。教会もすばらしく、本当に胸がいっぱいになりました。最高のイベントでした」と振り返った。

転んでも立ち上がる、そんな人生を歩んできたと語るロイ・アクネさん。2025年8月15日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/FRASER MONTHLY
転んでも立ち上がる、そんな人生を歩んできたと語るロイ・アクネさん。2025年8月15日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/FRASER MONTHLY

 ロイ・アクネさんは現在スティーブストン仏教会で開教使補佐をしている。日本で戦争が終わった年にはカナダでは強制収容が終了するどころか、ロッキー以東への移動か日本への送還を選択するという状況だった。8月15日という日について聞くと、「当時働いていた農園でトラクターを運転していた父がトラクターを止めて涙していたことを覚えています」と話した。日本の終戦を何らかの形で聞いたのだろうと推測する。アクネさんの父は16歳の時にカナダに移住した。日本への強い思いがあったに違いないと振り返った。

 講演では自身の人生は「七転び八起き」だったと語った。6歳の時に強制収容政策が始まり、移動先では子どもながらに長男として父の農業を助けなければならなかった。バンクーバーに戻った後も就職先で昇進を拒まれる差別に遭った。差別をなくすにはどうすればいいかと考え教育の道に進んだ。教師、校長、教育長など責任ある役職をアジア人でも担えることを子どもたちに示し、肌の色や出身地に関係なく全ての人が公平に扱われることが大事だと説く。「自分の経験を語ることで何かを感じてもらえらたら」と強制収容時代のことも話すようになったという。「一人ひとりに心があり、気持ちがあります。それを尊重しなければなりません」と語り、自分の経験を語ることで平等で公平な人間関係を築いてもらえれたらと話す。

 現在は寺院の開教使補佐という仕事がら多くの人に話をする機会がある。この日は通訳が付くこともあり、原稿を読みながらの講演となったが、「本当は原稿なしに立ってみなさんに語り掛ける方が得意なんです」と笑った。

戦後80年の節目の年に改めて平和の大切さを思う

新屋宗一さんのピアノ独奏。2025年8月15日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/FRASER MONTHLY
新屋宗一さんのピアノ独奏。2025年8月15日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/FRASER MONTHLY

 講演の前にはニール・コーバーンさんのパイプオルガン演奏、講演の後には新屋宗一さんのピアノ独奏、ボー・ペンさん(チェロ)、ジーン・ラムズボトムさん(クラリネット)、リチャード・エップさん(ピアノ)のバンクーバーPROトリオによるピアノ・チェロ・クラリネット三重奏というぜいたくな時間を過ごした。

 イベントは、日本語認知症サポート協会と月刊ふれいざーの共催。日本語認知症サポート協会は、「戦後80年という節目の年に、カナダで戦中・戦後を体験された方や、日本で被爆された方をお迎えし、その生の声を直接伺えることは、今なお世界各地で戦争が続く現状を思うとき、平和の尊さを分かち合うかけがえのない機会になると考え、今回の共催企画を立ち上げました」と意義を語る。

 「語り部の方々による体験談、音楽家の皆さまの心に響く演奏、そしてボランティアの皆さまの温かなご奉仕に支えられ、会場全体が『平和への祈り』に包まれました。この節目の集いを通じて、ご参加くださった皆さまの心にも、平和の尊さが深く刻まれ、ここで共有された思いと記憶が、未来へと平和を語り継ぐ力となることを心より願っております」と思いを寄せた。

左から、クラリネット奏者ラムズボトムさん、ピアノ奏者エップさん、チェロ奏者ペンさん。2025年8月15日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/FRASER MONTHLY
左から、クラリネット奏者ラムズボトムさん、ピアノ奏者エップさん、チェロ奏者ペンさん。2025年8月15日、バンクーバー市。Photo by Koichi Saito/FRASER MONTHLY

(取材 三島直美)

訂正:オリジナル記事では真珠湾攻撃1942年となっていましたが、1941年に訂正しました。

合わせて読みたい関連記事

サーロー節子さんインタビュー「被爆80年トロントの平和の灯に願いを込める」

オンタリオ州トロント市庁舎平和庭園で行われた「広島・長崎デー」イベントでスピーチするサーロー節子さん。2025年8月6日、トロント市。写真提供 井上ヨシさん
オンタリオ州トロント市庁舎平和庭園で行われた「広島・長崎デー」イベントでスピーチするサーロー節子さん。2025年8月6日、トロント市。写真提供 井上ヨシさん

 アメリカ留学中に期せずして受けたインタビューをきっかけに、被爆者として始まったサーロー節子さんの平和活動は、トロントへと活動の場を移し、そして世界へと広がった。

 2017年国連で核兵器禁止条約が採択され、国際NGO(非政府組織)ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)が条約の成立に貢献したとして同年にノーベル平和賞を受賞した。ノルウェー・オスローでは、ICANと共に活動してきたサーローさんが「被爆者」としてスピーチ。「被爆者の声、あの状況をどのように生きてきたのか、どういう思いで今を生きているのか」それに世界が耳を傾けてくれたと感謝する。

 そして今年、広島・長崎に原爆が投下されて80年を迎えた。サーローさんが被爆者として生きてきた80年間の思いは若い世代が引き継いでいく。

ノーベル平和賞でスピーチ「よくあれだけの大役を任せくださいました」

 トロント市で始めた平和活動はオンタリオ州だけにとどまらなかった。ケベック州モントリオールやブリティッシュ・コロンビア州バンクーバーを訪問して、原爆体験について語った。それからしばらくして「今度は国際的な会議や国連で色々とお話をする機会が与えられました」。

 しかし国連の会議に参加してみると、そこは核保有国の独壇場だったという。「本当にがっかりしました。私たちの意見には耳も傾けてもらえない。国際政治はこういうものなのかと思いました」。被爆の体験を伝え、核兵器の恐ろしさを訴える自分の声は国際舞台では届かない。「非常に苦しみました」。

 しかしやはり心は折れなかった。アメリカ留学で誹謗中傷を受けた時も被爆して亡くなっていった学友たちへの誓いを忘れなかったように、ここでも立ち上がった。

 「私のできることはこれ(話すこと)だけだから、与えられた機会と与えられたスペースで最善を尽くす。コツコツと何十年もよくやってきたと思います」。こう話す時にフッと笑顔を見せる。

 その地道な活動が実ったのが核兵器禁止条約採択だった。「本当に夢のようでした。私の生きている間に起きるなんて」。採択までにはさまざまな場面で多くの人が実現に向けて活動していた。「私がスピーチする機会もどんどん与えてくださって」。交渉会議でもスピーチした。自分ができることを積み重ねた。

 国連交渉会議議長を務めたコスタリカのエレイン・ホワイト元ジュネーブ国連大使とも親しくなり、議論を主導してきたオーストリアのフランツ・クグリッチ軍縮大使らとも、「一緒になってがんばって。『節子、あなたの言うことをいつか実現させます。だからそれまで私たち寝食忘れてやります』って言って、導いてくれました」。

 そして、2017年7月7日、122カ国・地域の賛成で核兵器禁止条約は採択された。前文では核兵器の非人道性を明記し、完全廃絶の必要性を記載。内容では、核兵器の開発・実験・生産・製造などあらゆる行為を禁止している。

 同年、ICANがノーベル平和賞を受賞した。授賞式ではサーローさんがICANと被爆者を代表してスピーチ。「よくあの人たちも私にそれだけの大役をくださったと思います」と振り返り、「やっぱり被爆者の声っていうもの、理論とかなんとかではなくて、あの状況をどのように生きてきたのか、どういう思いで今を生きているのか、ということを、大事にしてくださいました。ありがたいと思っています」。

 サーローさんのノーベル平和賞でのスピーチはYouTubeで視聴することができる。

 条約は2020年10月24日に批准国が既定の50カ国・地域に達し、2021年1月22日に発効した。アメリカやイギリスなどの核保有国のみならず、日本もカナダも批准していない。

 条約の採択は始まりに過ぎないのだ。サーローさんは、「NPT(核兵器不拡散条約)と核兵器禁止条約はお互いをサポートしながら1歩ずつ核廃絶という目的に進められると思うんですけれども」と、疑問と提案を同時に投げかける。NPTはアメリカをはじめ日本もカナダも批准している。しかしそのNPTでさえ風前の灯火だと懸念する。「難しいですね。本当に」。70年間訴え続けたサーローさんから本音が漏れる。

 今年4月28日から5月9日に開催された2026年NPT再検討会議に向けた第3回準備委員会では勧告案を採択できなかった。

次世代へ受け継がれる核兵器廃絶への希望

 「難しい」からといって「諦める」という文字はサーローさんにはない。被爆80年の今年、サーローさんの呼びかけでカナダ10都市で広島・長崎原爆パネル展が開催された(一部は年内に開催)。

 トロント市では8月6日、市庁舎にある「平和の灯」の前で平和式典「広島・長崎デー」がサーローさんも参加して行われた。市庁舎前の水場では灯篭を流し、原爆で亡くなった人を悼み、二度と過ちを繰り返さないと誓った。

 広島市の平和公園内にある原爆慰霊碑から原爆ドームを臨むと手前に平和の灯が見える。両手で支えられているように灯る火は地球上から全ての核兵器がなくなるときに消されるという。

 その平和の灯が太平洋を渡りトロント市で長崎から贈られた水に囲まれて「平和庭園」で灯り続けている。公式には当時のローマ法王が灯し、のちにエリザベス女王が追認したとなっている。この灯を広島から運んだのがサーローさんだった。

 きっかけはトロント市制150周年を迎えるにあたり「なにか意味のあるものを残したい」という思いがあったマッシー・ロンバルディ神父(当時Director of the Office of Social Action in the Catholic Archdiocese of Toronto)がサーローさんに会いたいと言ってきたという。「被爆者で、色々活動して、がんばっているということを新聞で読んだようです」。話を聞くとトロントに「平和公園を作り、そこに広島からの灯と長崎からの水を持ってくる」という案を市に提出したということだった。「そのために私の仲介が必要だったようです。私を信用できると思って話をされたんだと思います」。ロンバルディ神父は1981年にヨハネ・パウロ2世が訪問した広島平和公園に着想を得てトロント市にも同様の記念公園を建設するという構想を1983年に当時のアート・エグルトン市長に持ちかけていた。

 サーローさんもこの計画は信用できると確信し、仲介を引き受けた。トロント市から要請されたのは「広島に行って、トロント市民の希望を伝えて、市の意向を、協力してもらえるかどうか聞いてきてほしい、ということでした。もちろん引き受けました。広島市は大歓迎でした」。当時の広島市荒木武市長に会い、全面的な協力を得た。次はロンバルディ神父と一緒に広島を訪問した。いよいよ広島の灯をトロントに持って帰ってくる大役を果たすことになった。広島市では分火式を行い、特別な入れ物に移され、特別の許可を得てエアカナダで運んだ。

 「平和公園」の建設は順調に進んだ。1984年3月、起工式での最初の鍬入れはピエール・トルドー首相(当時)が行った。同年9月14日、パウロ2世が広島平和公園からの火を「永遠の灯」に点火し、長崎を流れる川から採取した水を池に注いで、トロント平和庭園は完成した。同年10月にはイギリスのエリザベス女王が訪れ、平和への誓いの象徴として公式に追認した。

 「バチカンから法王に来てもらって、その2カ月後には今度はイギリスからエリザベス女王が来てくださって。私が最初に話を聞いた時はこれだけ(小さかった)ものがこんなに大きくなっちゃったんですけどね」と笑う。どんどん規模が大きくなるのはサーローさんの周りではよくあることのようだ。

 完成当時は市庁舎前ネイサン・フィリップ広場の東側に600平方メートルの広さがあった。広場改築工事で閉鎖の可能性もあったが市民の働きかけで存続され、現在は西側に移されている。

 「今度は平和の灯を見た人が、あれが何かわかるように歴史的背景とか、何のために作られたのかとか、教育的なものがないといけないと思って市に働きかけているんです」。93歳、挑戦はまだまだ終わらない。平和に必要なものは「教育」だと確信している。

 若い人たちにも期待している。現在の世界情勢の中で若者は「核時代に生きている自分たちはどういう風に生きればいいのか、ということを探し求めています」と語る。その中で、サーローさんの話に耳を傾け、自分たちで考え、行動していることに希望を持っている。「自分の立場で、どう生きればいいのかと絶えず探し求めています。そうした人たちがこの時期(被爆80年)に本当に立ち上がって、盛り上がって、非常に良い仕事を始めてくれています」と目を細める。

 これまでも若者を中心に話をしてきた。「『節子さん、あなたが言ってくれてよかった。それで私たちも奮い立ったんです』とか言ってくれると、本当にうれしいです」。

 70年前、アメリカ・バージニア州から始まった平和活動は、カナダで、そして、世界で、大きくその翼を広げ、いま確実に若い世代へと受け継がれている。

 サーロー節子さん、93歳。その平和活動はまだまだ終わらない。

8月6日トロント市庁舎前での灯篭流し。2025年8月6日、オンタリオ州トロント市。写真提供 澤原こずえさん
8月6日トロント市庁舎前での灯篭流し。2025年8月6日、オンタリオ州トロント市。写真提供 澤原こずえさん

サーロー節子さんインタビュー「22歳から被爆者として語る覚悟」(前編)
サーロー節子さんインタビュー「I have to break the silence」プライバシーを犠牲にして訴え続けたトロントでの活動(中編)

(取材 三島直美)

合わせて読みたい関連記事

戦後80年を振り返って。モントリオールより

モントリオール市役所前。2025年4月4日、モントリオール市。撮影 日加トゥデイ
モントリオール市役所前。2025年4月4日、モントリオール市。撮影 日加トゥデイ

戦後80年の回顧

李花

80年前のあの日々の灼けつく様な太陽と飢餓、警戒警報に飛び込む防空壕。8歳児には何が何だか、解らないまま、親兄姉に引かれて逃げ回ったあの筑豊炭田!

解らないまま、広島長崎新爆弾(原爆)。そして終戦…。

戦後80年の今日ですが、世の中は〜、世界は、80年前と大差はありません。あれから朝鮮戦争、ベトナム戦争…に続き、腹を空かして、解らないままに逃げまわった8歳児の私が写ります。今朝のニュースのガサの避難民の子等の中にも…。

終戦の日、隣組の異様な風景を見ましたが、無条件降伏とは、分かりませんでした。炭鉱は引き揚げ者が来て、賑やかになりました。

その後の朝鮮戦争で日本の経済は蘇生しました。サンフランシスコの講和条約などは知らず、カナダが敵国だったことも後になって知りました。

注:1939年に制定された国民徴用令に基づき、朝鮮半島からの労働力動員が行われました。当初は「自由募集」方式でしたが、応募状況が芳しくなかったため、1942年からは「官斡旋」方式、さらに1944年からは「徴用」による強制的な動員へと移行しました。

徴用された朝鮮人たちは、日本の炭鉱で過酷な労働を強いられました。落盤事故や怪我をしても十分な治療を受けられず、劣悪な環境での労働を強いられることもありました。

クーパー達子

終戦時、2歳半で、何も知らず、解らずで、思い出にあるのは戦争とは関連なく、ただ貧しく、食べる物に、着るものに、不足していた事を思い出します。

学校でも、戦争の事は、原爆のあと、終戦した、(敗戦ではないと)と教わった思い出があるだけ。

戦争について、教えてくれる教師もなく、自分での勉強もしないので、細かいことには、お答えが出来ません。

しかし、戦後の色々な法律改革で、今日の自分があることを思い知らされています。

女性も対等に生きられる。男性の3歩後に付いて行かなくても良い、有り難さ。

争いは、なかったほうが良いですが、日本にとっては、負けて良かったのではないでしょうか。

戦争は、勝っても負けても人を殺します。それを知ってか知らずか、残念ながら、今でも、あちら此方で戦っていますね。

いつになったら、学ぶのでしょうか。

ウォング直美

1. 終戦の詔勅で、日本が無条件降伏をしたと分かりましたか。

いいえ、未だ小さかったので。でも大人が泣いていたのを覚えています。

2. マッカーサーが連合軍最高司令官であることが分かっていましたか。

いいえ、名前と偉い人だという事は知っていましたが、最高司令官というポジションは知りませんでした。

3. ジープに乗るアメリカ兵を目撃しましたか。

はい、東京の街なかで見かけました。家にも遊びに来ました。

4. 新憲法で、婦人参政権が認められたことを認識していましたか。

はい、かなり後になって、学校で習ったと思います。

5. 公職追放、極東軍事裁判、相次ぐ政権の交代をどう思いましたか。

若い頃は政治に関心がありませんでした。

6. 終戦後の食糧事情、引き揚げ、新円の発行など、身辺での変化についてお書きください。

終戦直後から小学校に通い始めましたが、給食でした。必ずミルクが出てそれを飲まなければならないのがつらかったのを覚えています。

7. 朝鮮戦争で、景気がよくなり、日本の経済が上向きになったと思いますか。

はい、あの戦争によって日本は戦後の貧困から抜け出し、それによって社会主義ではなく、民主主義が根付くように なった、という話も聞きました。

8. 1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約のことを憶えていますか。

はい、意味は良く分かりませんでしたが、学校の朝礼で、(初等科)の科長先生が 、日本は独立国になったとおっしゃったのを覚えてます。

9. 戦時中、日系カナダ人が収容所に入れられたことを知っていましたか。

いいえ、知りませんでした。でも、アメリカでinternmentがあったことは知っていました。

10. 終戦によって、ご自身の進学、生き方が変わりましたか。カナダが戦時中の敵国であったことを認識していますか。

未だ小さかったので、生き方、進学などに直接影響はありませんでした。

高校の時アメリカ留学をしましたが、未だ対日感情が余りよくなく、何故、日本はあのようなバカな戦争をしたのか、と聞かれましたが、勉強不足で答えられませんでした。

戦後 80 年の回顧

佐伯洋子

第二次世界大戦は、1939年(昭和14年)9月1日から1945年(昭和20年)8月15日(または9月2日、アメリカの戦艦ミズーリ号上での無条件降伏文書への調印の行われた日)、約6年にわたって続いたドイツ・イタリア・日本などの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス・フランス・中華民国・アメリカ・ソビエト連邦などを中心とする連合国陣営との間で戦われた戦争である。終戦まで中立であった国は少数であったが、スイスやサンマリノのように戦争の被害を受けた国や、スペインやポルトガルのように中立でありながら一方の陣営に協力を行う国もあった。最終的に連合国陣営の勝利に終わったが、第一次世界大戦以来の世界大戦となり、人類史上最大の死傷者を生んだ。

この戦争での日本人の死者は370万人(軍人230万人、一般市民80万人)、世界全体では、5,000万人~8,000万人(8,500 万人)、軍人2,200万人~2,500万人、民間人3,800万人~5,500万人とされている。

ユダヤ人の死者は570万人とも600万人とも言われているが正確な数は不明。

カナダ人の死者は45,000人、主に香港での戦闘とされる。

日系カナダ人22,000人が西部の海岸部からの立ち退き命令で、カナダ人であるにも拘わらず、敵国人として扱われたことから、1988年の連邦政府によるリドレスが行われた。そして、2020年のBC州政府によるリドレスは、モントリオールに住む日本人、日系カナダ人には既知のことであるから、ここでは言及しない。

あの戦争で日本は「日独伊三国同盟」で「枢軸国」、英国、ソ連、アメリカなどが「連合国」と言われていたことをどのくらいの人が覚えているだろうか。

開戦の年、私は小学校二年生だった。一年生の時は福岡に居り、皇紀二千六百年の祝賀行事(神武天皇が即位してから2600年とした日本政府の祝賀行事)で父は商工省の官吏として祝典に行った。そのころ、それまで「パパ、ママ」だったのが「お父様、お母様」というように命ぜられ、どうしてか理由がわからず、困惑した。昭和16年の4月から、東京に戻り、池袋第5小学校に通い、12月開戦。国民学校に呼称が変わり、5年生の1学期まで、通学。2学期から、祖母の家に縁故疎開。そのころ、日本で2番目に生徒が多い、茨城県石岡の小学校に6年の5月まで通学した。その後、戦況の悪化で、父の郷里、新潟県三条市の伯父の借家に母と二人の妹と一緒に住んだ。終戦の詔勅は父の実家、新潟県南蒲原郡本成寺村字長嶺(現在、三条市長嶺)で聞いた。終戦後の11月に東京に帰り、元の学校が戦災で焼失したので、家の近くの千早小学校に通学した。終戦から80年の紆余曲折を質問に従い、記述する。

1.終戦の詔勅で、日本が無条件降伏をしたと分かりましたか。

当時、国民学校の六年生。盂蘭盆会の最中、ラジオで詔勅を聞いたので、何が何やらわからず、とにかく、戦争が終わったことだけ分かった。無条件降伏ということはわかっていなかった、というより、考えもしなかった。

2.マッカーサーが最高司令官であることが分かっていましたか。

これは、わかっていた。11月に東京に帰ってからは、はっきり認識し、敗戦の現実の中での日々を過ごした。新聞、ラジオ、両親の話などですべてが変わったと思った。

3.ジープに乗るアメリカ兵を目撃しましたか。

新潟では見なかったが、東京に帰ってからは、時折、見た。街中ではない豊島区千早町の住宅街に住んでいたので、進駐軍もそれほど頻繁には来なかったと思う。今とは違い、麦畑や大根畑があり、まさに東京の田舎だった。

4.新憲法で、婦人参政権が認められたことを認識していましたか。

これは、家族の間で話題になり、母は滔々と、いかに参政権が必要であるかを話した。やたらに「家族会議」をしたのは、子どもたちが大きくなったせいかもしれない。

5.公職追放、極東軍事裁判、相次ぐ政権の交代をどう思いましたか。

不気味な感じだった。特に父は戦時中、軍需省に勤めていて、海軍司政官として、ボルネオ、セレベスの石油確保の仕事をしたりしていたので、心配した。司政長官だった人は公職追放になった。

6.終戦後の食糧事情、引き揚げ、新円の発行など、身辺での変化についてお書きください。

何よりも食糧難で、飢えに苦しんだ。米の配給は遅れるし、量が少ない。郊外の農家に母が着物を持って買い出しにいったが、取り締まりを逃れるのが大変だった。泥棒に入られた時も着物だけ盗られた。戦時中より、戦後の方がひどかった。畑の向こうに海藻麺の工場があり、悪臭が漂っていた。新円での生活も大変だった。

発疹チフスで前の家の娘が死に、DDTを振り掛けられ、結核の患者、戦争の為の精神病の人も近所にいて、戦時中、戦後 に死んだ。

7.朝鮮戦争で、景気がよくなり、日本の経済が上向きになったと思いますか。

まさにその通りで、どんどん経済が回復した。あの戦争がなかったら、日本の経済はどうなっていたか、わからない。

8.1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約のことを憶えていますか。

条約が締結されたことは知っていたが、それが実際に生活の場でどう表れるのか全く見当がつかなかった。

9.戦時中、日系カナダ人が収容所に入れられたことを知っていましたか。

二世の方から、いろいろと聞かされた。収容所での記憶を全く失っていた人もいた。ただ、自分たちは、不当な取り扱いを受け、1988年にやっと連邦政府のリドレスが決まったことも知っている。戦後のララ物資が海外からの日系人による物であったことは最近知った。

10.終戦によって、ご自身の進学、生き方が変わりましたか。カナダが戦時中の敵国であったことを認識していますか。

大いに変わった。教育改革によって、都立第十女学校に進学したものの、途中で高校の併設中学になり、男女共学に。それが終わって高校で、合計6年間を同じ学校で過ごした。

大学の進学の時は、男女差のない音楽を選び、それで、よかったと今も考えています。その時はカナダに来て、半世紀を過ごすとは夢にも考えなかった。

戦後80年の今も世の中は戦争だらけ、民主主義も重大な危機に晒されていて、人類は今後、どうなるのかを考えさせられている。超富裕層が金星に移住して生き延びるのだろうか。金満家の人だけがAIを頼りに生きるとしたら、などと考えると憂鬱になる。

封建的な慣習を捨てて、自分なりの生き方をしたいと思った。当時は「ガラスの天井」というようなことは聞かなかったと思う。

無戸籍の6年間

マレットあけみ

1945年2月に満洲で生まれ、翌年8月に家族で東京へ引揚げてきた。引揚げが容易なものではなかったのは母が時折語っていたが、如何せん私は何も覚えていない。当時4歳だった兄はうっすら逃避行の記憶があると言っていた。母は、兄が自分の毛布を入れた小さなリュックを背に、その年齢にしてはよく歩いてくれたと述懐していたのを思い出す。

敗戦後の疲弊した日本で、特に引揚者、復員軍人が生活を立て直すのは困難が多かったことだろう。そうした中で兄は小学校へ、私は出来立ての幼稚園に一期生として入ったものの、麻疹やら何やら続けさまに罹って長期間休み、その挙句、退園。いわゆる中退を人生初めのこの段階で経験している。

近所には1951年4月に小学校に上がる同い年の子が、私を含めて3人いた。東京都台東区立谷中小学校である。1902年創立のこの小学校には、父(1912年生まれ)も通っているので、父と私は同窓生ということになる。

さて、近所の子2人には区から入学通知が届いたというのに、私にはなにも来ない。親が心配して問合わせたところ、なんと私は存在していなかった。満州から送った出生届が海の藻屑と消えたか、戦火に遭ったか、なのだろう。そこで慌てて手続きがとられた。6歳にして戸籍デビューである。

つつがなく新入生にはなったが、手持ちの戸籍謄本をよくよく見ると、出生地、年月日に続いて、「届出昭和弍拾六年拾弍月拾五日受附入籍」となっており、記載されたのはやっと12月になってからということがわかる。

戦時中の混乱から、私のような戸籍記載漏れの子は日本中に何人もいたことだろう。

母はよく「橋の下で拾ったのよ」と笑い、私も「もっとお金持ちの家の子なのかも」と妄想交じりに返事したものだ。

当事者ながら、実感も実害もない戦争余話の一つである。

付記:戦後80周年に当たり、戦争経験者の方々に感想を書いていただきました。70周年の時には「モントリオールブレテン」に、景森照葉、井上博子、二村カノ、ノー斐子、ウォング直美、李花の皆様と佐伯洋子が回想の文を書きました。それから10年、恋人との別れ、戦時・戦後の物資不足の有様を書かれた景森さん、北海道でいざという時のために毒薬を渡されたという井上さん、満州からの引き揚げの苦労を記された二村さんは、他界されました。

今回は、李花さん、ウォング直美さん、佐伯に加え、大戦時、幼児だった、クーパー達子さん、マレットあけみさんが戦争については何も記憶がないものの、戦争にまつわる戦後の生活を綴ってくださいました。ノー斐子さんは英文の手記をモントリオールブレテンに寄稿されました。

1945年、東京への3月10日の空襲で10万人が死んだことを下町に住む中学生に聞いたら、一人を除いて、全く記憶にないことを知人が書いています。東京は 106回空襲を受けています。現在、ワルシャワに住み、ポーランド人になっているSさんは、この空襲の際、どこをどのように逃げたか記憶はないが、幸い、生き残ったと言っています。

広島の原爆での死者数は当時、約14万人とされ、今年、新たに4,940人が追加され、合計34万9,242人の名前が記帳されています。長崎では、今年3,167人が記帳され、合計20万1,942人となっています。長年、カナダに住んで、昨年、やっと被爆者手帳をもらった知人もいます。

海外からの引き揚げ者は、軍人・軍属310万人、一般邦人629万とされています。戦前からサイパン島などに住んでいた邦人は未だに帰ることが出来ないでいるのです。

20年前にモントリオールに来た親戚の中三の女子が、8月5日にモントリオール植物園での祈年祭に行くと言ったら、「広島で何があったの」と聞かれ、驚いたこともあります。

私の身内で戦死したのは、陸軍士官学校を出て直ぐに、ノモンハンに派遣され、ソ連の戦車が頭の上を通り過ぎて行って生き残った母方の叔父です。最後に会ったのは「姉さん、今度は生きて帰れません」と別れの挨拶に来た時でした。疎開先の石岡で、ある夜、祖母が跳び起きて、階段を降り、台所の入口で「悦三が帰って来た」と叫びましたが、だれもおらず、後から「多分、お別れに来たのよ」と叔母が言いました。

もう一人の叔父は栄養失調で帰還。回復するまで、時間がかかりました。大連にいた叔父は早い時期に帰りました。

また、従兄の一人は海兵の最終学年で派兵されなかったものの、終戦後はどこの大学にも行かず、風太郎になってしまい、かなり経ってから普通の生活をし、長生きして、死にました。予科練に行った従兄は、帰郷して小学校の先生になりました。

父方の従兄は満州でソ連軍に捕らえられ、シベリアで何年かを過ごして帰りました。そのため、家族から「シベリアさん」と言われていました。

もう一人の父方の従兄は徴兵されたものの、即日帰還で、腎臓結核と言われましたそうですが、治療もしないのに長生きして、昨年死にました。

母が9人兄弟でしたので、従兄弟の数も32人。自殺したのが3人。その後の消息は行き来のある従兄弟以外はわかりません。

終戦の翌日、「叔母様、これからは英語の世の中になるから、英語を教えてください」と英和辞典を片手に現れた信州医大在学中の従兄は、東京の聖母病院に就職し、神父様にいろいろと頼んで、ワシントンのジョージタウン大学の医学部に留学しましたがボートから入水して自殺しました。結核だと診断されて悲観した末と聞きました。この従兄の驚くべき変身は、ショックでした。

戦後の学校は、食糧事情が悪かったので授業は午前中。その後は弁当持参でしたが、弁当を持ってこられない人を考慮して、校舎の外で食べたものです。第十高女の作法室は畳が敷いてあるので、何人かの先生と家族が住んでいました。別棟の離れには教頭先生が住んでいました。先生の中には満州帰りの方もいましたし、俳句の森澄雄先生(森澄夫が本名)もいました。詩人の吉原幸子、後に香川京子として知られた池辺香子が高校の3年上に、宝田明が一年下に演劇狂として在学していました。

同級生の中には化学者としてサイエンスカフェを主宰した人、三省堂の国語辞典のスタッフ、東京都の婦人問題相談員などいろいろな職場で生きた人が多数でした。

私よりずっと若い世代の方から、写真はないのか、と聞かれました。それで、下の妹がいつも「兄弟みんなの小さい時の写真はあるのに、私のだけがない」という言葉を思い出しました。学校の集合写真でさえ、国民学校3年生の秋の高尾山への遠足が終わりで、その後は千早小学校での卒業式の写真です。福岡にいた時は父が乾板のカメラで撮っていましたが、戦争中は不在だし、カメラがあったのかどうかも分かりません。戦後に、近くの畑で従兄と妹二人が母と一緒に芋ほりをしているのが、唯一の写真です。

このごろのようにスマホで撮るなど出来なかったのです。終戦の詔勅もラジオ、警戒警報もラジオ。それもトランジスターではなく真空管のラジオ。テレビのない世の中です。冷蔵庫も氷一貫目を入れるものでした。お米を焚く釜は鍔付き釜。トイレは汲み取り式。モンペを履き、割烹着をかける婦人会。今ある物が戦時中もあったと考えないでほしいと思います。

防空頭巾は、今や防災頭巾になったようですが…。(ys)

(寄稿 佐伯洋子さん)

合わせて読みたい関連記事

ホワイトキャップス、ミュラーのMLS初ゴールで逆転勝利

随所に好セーブを見せたGK高丘。2025年8月23日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
随所に好セーブを見せたGK高丘。2025年8月23日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

 後半アディショナルタイムも10分を過ぎた試合終了間際にPKのチャンスを得たホワイトキャップスは、この日キャプテン腕章を付けたミュラーが決めて逆転勝利した。

8月23日(BCプレース:26,031)

バンクーバー・ホワイトキャップス 3-2 セントルイス・シティSC

先制は14分にセントルイス。ホワイトキャップスは前半終了間際アディショナルタイムにホワイトがPKを決め同点。しかし後半セントルイスが73分にゴールしてまたもリード。ホワイトキャップスは途中出場したリオスが79分に決め同点に追いついた。最後はミュラーがPKで試合を決めた。

守りの隙をつかれ2失点も、ホワイトキャップス8月初勝利

 劇的な勝利だった。今季低迷するセントルイスに2度もリードされる展開となった。それでも最後に訪れたPKのチャンスにミュラーが決めた。ファンも大歓声を上げて喜びを爆発させた。

セントルイス韓国人選手Jeongに迫られるGK高丘。2025年8月23日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
セントルイス韓国人選手Jeongに迫られるGK高丘。2025年8月23日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

 随所に好セーブを見せ2失点に抑えたGK高丘は、「オープンな試合でしたけど、ちゃんと最後に勝てたことは収穫かなと思います」と振り返った。8月はこれが初勝利。勝ち点3を取って2位に1ポイント差につける。

 昨季は9月に大失速した。今季同じ過ちを繰り返さないためにもこの日の勝利は大きい。前節は試合終了間際に相手に点を取られ、勝ち点3をあと少しのところで逃した。シーズン終盤に向けて高丘は「決めきるところはちゃんと決めきらないといけないですし、前回の試合もそうですけど、決めきるところで決めきれないで、最後失点して勝ち点も失ったというところがあったので。決め切りるところと、プラスもっとオーガナイズして相手の攻撃の機会を減らすことが大事かなと思います」と語った。

ミュラーMLS初ゴールでチームを勝ちに導く

104分にPKを決め雄たけびをあげるミュラー。2025年8月23日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
104分にPKを決め雄たけびをあげるミュラー。2025年8月23日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

 この日キャプテン腕章を着けたミュラーは先発フル出場した。試合開始から104分にPKでMLS初ゴールを挙げると、喜びを爆発させた。PKの場面を聞かれ「いい緊張感だった」と試合後笑顔で答えた。キャプテンとしてプレーしたことについて「キャプテンはゴールドであることは変わらないけれども、ケガで出場できない中、前の試合ではホワイトが着けていたので、移籍1週間でキャプテン腕章をつけることにためらいはあったが、チームのみんながそうするように言ってくれたから」と説明した。

 腕章があってもなくても自分がチームを引っ張っていかなくてはいけないことは同じとも語った。

 高丘は「ずっと喋っていますし、喋りながらプレーできますし、周りを引っ張れる選手だと思います」と話す。「リーダーシップを持っていますし、能力もあるし。チームにもたらしてくれるものは大きいと思います」。ディフェンスの面でもコミュニケーションを取ってオーガナイズをしてくれるのでやりやすいと語る。

 ドイツのスーパースターの加入でホワイトキャップスが終盤どのような戦いを見せるのか。この日もチケットは完売。満員のファンが詰めかけた。レギュラーシーズン残り7試合。8月が終わり14勝6敗7分、勝ち点49。西カンファレンス3位。2位ミネソタに1ポイント、1位サンディエゴまで4ポイントと十分に首位を狙える位置につけている。

日系ペルー人カブレラが3試合連続出場

 今年7月に入団した日本生まれの日系ペルー人選手ケンジ・カブレラが前節に続いてこの日も途中出場した。8月13日カナディアン・チャンピオンシップのフォージFC戦でホワイトキャップスデビューし、16日にバンクーバーデビューした。会場にはペルー国旗を持ったファンも応援していた。

77分、クバスに代わって途中出場したケンジ・カブレラ。2025年8月23日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today
77分、クバスに代わって途中出場したケンジ・カブレラ。2025年8月23日、BCプレース。Photo by Koichi Saito/Japan Canada Today

9月、10月のホームゲームhttps://www.whitecapsfc.com/

9月13日(土)6:30pm フィラデルフィア・ユニオン戦
9月24日(水)7:30pm ポートランド・ティンバーズ戦
10月5日(日)3:00pm サンノゼ・アースクエイクス戦
10月18日(土)6:00pm FCダラス戦

(取材 三島直美/写真 斉藤光一)

合わせて読みたい関連記事

Japan Art「ひょうたん新世界」あらぽんのひょうたんアート展示会

あらぽんが制作した「ひょうたんアート」の展示会です。

当日はあらぽんも会場で待っています!

日時:2025年9月1日 午前11時~午後7時
会場:The Kent Vancouver (534 Cambie St, Vancouver)
ウェブサイト:https://www.japan-exhibition.ca/

沖縄県人カナダ移住125周年記念公演 創作芸団レキオス「沖縄の鼓魂・ヌチカジリの響き、沖縄から世界へ」

日時:2025年9月21日(日) 午後4時~6時(開場:午後3時)

会場:Michael J. Fox Theatre(7373 Macpherson Ave, Burnaby)

チケット料金:一般:$30、シニア(65歳以上)・学生:$20、小人(4~12歳):$10、3歳以下:無料、※グループ割引:5枚以上のご購入で10%割引

お問い合わせ: REQUIOS2025@gmail.com Tel: 604-250-9532

チケット販売所:The Postcard Place、Tatchannoodle、Eventbrite (eventbrite.ca)

Today’s セレクト

最新ニュース