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Naomi Mishima

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The Life of Chuck(邦題:ライフ・オブ・チャック)マイク・フラナガン監督

Courtesy of TIFF
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 昨年あたりからバンクーバーでは頻繁にオーロラが見られるようになりました。寒いところが苦手なためオーロラなんて一生縁がないと思っていた私。こんなチャンスは逃すまい!とオーロラ情報が出る度に外に出て、夜空を見上げる日々を繰り返しています。6月の初めでも見れたってすごくないですか?

 今回ご紹介するのは、私がオーロラを見上げる度に思い返していた「The Life of Chuck」(マイク・フラナガン監督)。昨年のトロント国際映画祭(TIFF)で観客賞を受賞したこの作品は、スティーブン・キング原作のSFファンタジー。私たち一人ひとりが形作る世界は、オーロラがかかる星空のように深くて広いのかも知れない、と思わせてくれる素敵な映画です。

 スティーブン・キングといえばスリラーやホラーの印象が強いですが、実は心温まる系の物語もたくさんあって、「ショーシャンクの空に」や「スタンドバイミー」なんかの原作も彼の作品。そしてこの「The Life of Chuck」も、そんな観た後に優しい気持ちになれるストーリーです。

 この映画は逆時系列で語られる3幕構成。あらすじは、異常気象や天変地異によって世界が終わりを迎えつつある中、街のあちこちに突如現れる「39年間ありがとう、チャック!」という謎の広告に人々は困惑します。「チャックって誰?」「一体世界に何が起こっているの?」… というのが第3幕。そこから第2幕、第1幕へとさかのぼりながら、チャックという男の平凡ながらも幸せだった人生が丁寧に描かれていきます。

 まず感想としては、最初はよくわからないけど、最後には「人生っていいな」と思える映画。そして後でいろいろなシーンやセリフを思い返しているうちに、どんどん良さが増して、じわじわと感動が押し寄せてくる、そんな作品でした。

 世界の終わり、人生の終わりが近づいた時に、愛や悲しみ、生と死も全部含めて生きていてよかった、体験してきた出来事にはそれぞれ意味があったんだ、と感じられるのは幸せなこと。そして死がいつ訪れるかは誰にもわからないからこそ「今」という瞬間を大切にするべきだと気づかせてくれる。映画が伝えるメッセージは素敵だし感動した、という人が多いのもわかるけど、ややテンポがスローで説明的なナレーションが多すぎるために気持ちが入りこみにくかったところが少し残念。子役も含め俳優陣の演技が皆素晴らしいだけに、なおさらそう感じました。

 チャックがまだ幼い頃に祖父母から「人生の美しさは日常のささやかな瞬間にある」と教わる場面があります。マーク・ハミル演じるおじいさんがチャックに語るこの場面と、ミア・サラ演じるおばあさんがチャックにダンスの楽しさを教えてくれるシーン。トム・ヒドルストンのダンスシーンが好評ですが(確かに見ごたえあります!)、私は、この祖父母とのシーンに強く惹かれました。

 “I contain multitudes”というウォルト・ホイットマンの詩の一節に出会えたことも、この映画を観て良かったと思えたところ。スティーブン・キングほどの深い “multitude”は私の頭の中にはありませんが、私自身の中に築いてきた宇宙や私に影響を与え今の私を形作ってくれた人たち、そしてそのすべてに伴う悲しみと幸せ――そんなことを考えていると、この詩の表現にも納得し原作にも触れてみたくなりました。

 死を描きながらも、人生の美しさや尊さを讃える、そんな一作です。

 バンクーバーを始めカナダ各地ではCineplex系映画館で上映中。トロントではTIFF Lightboxでも上映しています。

Lalaのシネマワールド
映画に魅せられて

バンクーバー在住の映画・ドラマ好きライターLalaさんによる映画に関するコラム。
旬の映画や話題のドラマだけでなく、さまざまな作品を紹介します。第1回からはこちら

Lala(らら)
バンクーバー在住の映画・ドラマ好きライター
大好きな映画を観るためには広いカナダの西から東まで出かけます
良いストーリーには世界を豊にるす力があると信じてます
みなさん一緒に映画観ませんか!?

「夏至光*蝶も私も迷子かな」

カナダde着物

第72話
*初夏の着物と帯:紫陽花に魅せられて*

 日本からカナダに戻ると、まず真っ先に自然の違いに気づかされます。

 「澄んだ空気」と「強い光」

 空気は乾いていて、風が衣服をすり抜ける湿度のない空気は、なんとも言えない心地よさがあります。 そして、長く強く射し込む眩い光、そんな光の中では、蝶も私も、ふと迷子になってしまいそうです。 気温の変化が激しい季節、どうか皆さまもお身体を大切に、お健やかにお過ごしくださいませ。

「Waterfall and pond」 Manto Artworks
「Waterfall and pond」 Manto Artworks
「Cabbag White Butterfly」Manto Artworks
「Cabbag White Butterfly」Manto Artworks

*今日の着物*Today’s Kimono

「初夏の着物:紫陽花に魅せられて」

 最近、道を歩いていると、目を奪われるのが紫陽花です。
 淡い青や紫、私の大好きな小ぶりな白や薄い緑色の花々。
 どこか手染めの着物や帯の柄のようでもあります。

 お気に入りの紫陽花の名古屋帯は、混麻の素材が涼しく、どの着物にも合う重宝な一枚です。 茶道のお稽古や友人との会食など、色々な場面で活躍し、着付教室の生徒さん達には、いつもお勧めしています。あえて、着物に紫陽花を施さず、帯の柄にすることで、額縁の中の絵画のよ うに見せることができるでしょう。

「紫陽花柄の名古屋帯」コナともこ
「紫陽花柄の名古屋帯」コナともこ

 6月の着物は、雨の雫ごしの風景のような、暈しやモザイク柄が好きです。 単の着物ですので、気軽に楽しめるカジュアルな兵児帯にして、淡い雰囲気を出すのはいかがでしょうか。

 紫陽花に魅せられて選んだこの着物や帯は、また来年の初夏、箪笥の中でそっと私を待ってい てくれる。
 そんな風に思うと、季節を重ねることが少し楽しみになりますね。

「単の着物と名古屋帯、兵児帯」コナともこ
「単の着物と名古屋帯、兵児帯」コナともこ

*今日の和の学校*Today’s gathering*

 先日、コキットラム市にある東漸寺(とうぜんじ)の本堂にて、「施餓鬼大法要(せがきだいほうよう)」が 執り行われました。これは毎年6月14日の「東漸寺の日」に合わせて行われるもので、当日は朝から本堂に特別な設えが施され、厳かな雰囲気の中で法要が進められました。

 「施餓鬼」とは、餓鬼道に落ちた霊や、供養されることのない無縁仏に食べ物や飲み物を施し、供養する仏教の伝統行事です。

 この法要に参加しながら、ふと思い出したのが、現在NHKの連続テレビ小説で放送されている「あんぱん」です。先週の放送では、漫画家・やなせたかしさんが第二次世界大戦中に体験した、戦場での悲惨で苦しい日々が描かれていました。

 人間にとって何が一番つらいか、やなせさんは「ひもじいこと」だと語ります。そして、本当のヒーローとは「食べ物をくれる人」なのではないかと訴えていました。

 現代の私たちは、食べ物が豊富にある時代に生きています。しかし、そうではなかった時代が確かに存在していました。

 私の父は、来月92歳になります。子どもながらに戦争を体験した世代であり、当時の記憶はきっと今も残っているはずですが、その頃の話を自分から語ることはほとんどありません。ただ、その無口さの奥に「食べ物を粗末にしてはいけない」という強い思いが感じられます。

 父の兄、つまり私の伯父は、戦争体験を語る会に参加し、当時の状況をスケッチ画を通して伝えてきました。伯父の話から、私たちはあの時代の一端を知ることができました。

 戦争を実際に体験した世代は、年々少なくなっています。80年前の出来事は、もはやテレビや映像を通してしか知ることができなくなりつつあります。

 それでも今もなお、世界のどこかでは戦争が続き、かつて父たちが経験したような「ひもじさ」に苦しんでいる子どもたちがいるかもしれません。「食べ物をくれるヒーロー」、まるでアンパンマンのような存在を心のどこかで願っている子どもたちが、きっといることでしょう。

 そう思うと、私たちは施餓鬼の法要に込められた「誰かを思いやる気持ち」や「命をつないでいくことの大切さ」について、今一度立ち止まって考えてみることが大切なのではないでしょうか。

「施餓鬼大法要が行われた東漸寺」コナともこ
「施餓鬼大法要が行われた東漸寺」コナともこ

*参照*

暦生活
https://www.543life.com

家庭画報 紫陽花の着物と帯
https://www.kateigaho.com/article/detail/78666

著者の伯父が語り部をしていた静岡平和資料センター
https://shizuoka-heiwa.jp

施餓鬼大法要が行われた東漸寺
https://tozenjibc.ca

*参照*

「着物語り」
コナともこさんが着物の魅力をバンクーバーから発信する連載コラム。毎月四季折々の着物やカナダで楽しむ着こなしなどを紹介します。
2020年8月から連載開始。第1回からのコラムはこちらから

コナともこ
アラフィフの自称着物愛好家。日本文化の伝道師に憧れ日々お稽古に励んでおります。
14年前からコキットラム市の東漸寺で「和の学校」を主宰。日本文化を親子で学び継承する活動をしております。

年間を通じて季節の行事に加え、お寺での初参り、七五三祝い、十歳祝い、元服祝い、二十歳祝い、結婚式、生前葬、お葬式などの設えと装いのお手伝いもさせていただいております。

*詳しくはコナともこ までお問い合わせ下さい。tands410@gmail.com
東漸寺は非営利団体で、和の学校の収益は東漸寺の活動やお寺の維持の為に使われています。

カナダ人の夫+社会人と大学生の3人娘がおり、バンクーバー近郊在住。

和の学校ホームページ https://wanogakkou.jimdofree.com/
インスタグラム https://www.instagram.com/wa_no_gakkou_tozenji/
フェイスブック https://www.facebook.com/profile.php?id=100069272582016

東漸寺Tozenji Temple https://tozenjibc.ca/

コナともこ
Facebook https://www.facebook.com/tomoko.kona.98
Instagram https://www.instagram.com/konatomoko/?hl

「東漸寺🌸春🌸2024」Manto Artworks
「東漸寺🌸春🌸2024」Manto Artworks

29 ☆ 雨多き月を「水無月」とは?

日本語教師  矢野修三

 今年も、早や6月も下旬になってしまった。日本では、ジメジメした梅雨の時期である。

 そういえば、旧暦ではそれぞれの月を、古い和風名で呼んでいた。現代では使われておらず、日常生活には全く必要ないが、日本特有のカレンダーなどには、睦月(1月)、如月(2月)、弥生(3月)・・・、神無月(10月)、霜月(11月)、師走(12月)と書いてあるのも数多くあり、少なからず目にする機会も。確かに。

 6月になると、ふと思い出すことがある。かなり昔だが、この和風月名を学んで、6月を「水無月(みなづき)」と知ったとき、えっ、梅雨の時期なのに、なぜ、「水が無い月」なのか、不思議に思った。でも、旧暦と新暦では1か月以上ずれがあり、また当時はこんな昔の月の名前など興味なく、ほとんど気にしなかった。

 しかし、日本語教師になってから気になり始めた。この旧暦の月名は日本文化の象徴として、自然の変化や人々の生活様式などを表わしており、なかなか風情がある。さらに、古典に興味を持つ日本語上級者との会話にも折々登場し、語源などの質問も受けるので、日本語教師としては、かなり大事な知識である。

 そこで、いろいろ調べてみた。これらの月名は驚くことに、はるか昔の奈良時代から使われていたようで、由来などもはっきりしない月もあり、いろいろな説があるとのこと。

 この「水無月」も「水が無い月」という意味ではなく、「無」は、古語では「の」を意味する漢字だったようで、田んぼに水を張る季節であり、「水の月」すなわち「水無月」になったという説が有力らしい。えー、ホント、びっくり。

 さらに、同じような10月の「神無月(かんなづき)」だが、これも「神が無い月」ではなく、この時期は農作物の実りを神に感謝する「月」ということで、「神の月」、すなわち「神無月」と呼んで、お祈りしたようである。またびっくり。

 でも、出雲地方ではこの月を「神在月(かみありづき)」と。理由は、この月は出雲大社に八百万の神々が集まる特別な「月」であり、日本中の神様が集まってくるので、「神無月」ではなく、「神在月」と呼ぶことに。なるほど。出雲の人々のユーモアあふれる言葉遊びを感じる。事実、全ての神々が出雲大社に集まるので、日本中に神様がいなくなるから、「神無月」と呼ぶようになったという説もある。そのように学んだ記憶あり。

 こんなことを考えながら、1月「睦月」から12月「師走」の月名を眺めていたら、思わぬことに気づいた。月の名前だから、「月」がついているのが当たり前だが、なぜか2つの月だけ、「月」がついていない。

 そう、「弥生」と「師走」である。でもなぜ?うーん、これといった理由は見当たらないが、3月は年度末、そして、12月は年末。どちらも一年のうちで、いろいろ忙しい時期。ひょっとして、名前をつける役目の神様もバタバタして「月」をつけ忘れちゃったのでは・・・。すると、この”うっかり神様”は、この大事な「月」に、出雲大社からお呼びがかからなくなってしまったのでは・・・。これぞ、まさに「運の尽き 《月》」かも。おそまつ、失礼しました。

「ことばの交差点」
日本語を楽しく深掘りする矢野修三さんのコラム。日常の何気ない言葉遣いをカナダから考察。日本語を学ぶ外国人の視点に日本語教師として感心しながら日本語を共に学びます。第1回からのコラムはこちら

矢野修三(やの・しゅうぞう)
1994年 バンクーバーに家族で移住(50歳)
YANO Academy(日本語学校)開校
2020年 教室を閉じる(26年間)
現在はオンライン講座を開講中(日本からも可)
・日本語教師養成講座(卒業生2900名)
・外から見る日本語講座(目からうろこの日本語)    
メール:yano@yanoacademy.ca
ホームページ:https://yanoacademy.ca

「県人会が集まってトロントの日系社会を盛り上げる」トロント都道府県人会・連合会

左から、連合会代表兼トロント千葉県人会・原会長、トロント沖縄県人会ケン・デイビス会長と仲座キャサリンキヨミさん、オンタリオ広島県人会・澤原こずえ代表、連合会副代表兼トロント新潟県人会プオポロ浩子会長、トロント京都府人会・川尻彩未会長。2025年4月1日、トロント市。撮影 日加トゥデイ
左から、連合会代表兼トロント千葉県人会・原会長、トロント沖縄県人会ケン・デイビス会長と仲座キャサリンキヨミさん、オンタリオ広島県人会・澤原こずえ代表、連合会副代表兼トロント新潟県人会プオポロ浩子会長、トロント京都府人会・川尻彩未会長。2025年4月1日、トロント市。撮影 日加トゥデイ

 カナダで暮らす人々が同郷の絆を深め合う場として長年親しまれてきた県人会。同じ都道府県出身者が集まり、互いの近況を語り合いながら、地域の伝統や文化を次の世代へと伝える貴重な邦人・日系人コミュニティとして、現在でも各地で継続されている。

 トロントでは、各都道府県人会をまとめる「トロント都道府県人会・連合会」が2022年に発足した。「一つ一つの都道府県人会はそれほど規模が大きくなくても、一緒になって活動すればイベントでも存在感を表すことができる」とトロント新潟県人会会長で連合会副代表のプオポロ浩子氏は話す。

 代表はトロント千葉県人会会長の原あんず氏。現在は全カナダ日系人協会(NAJC)新移住者委員会(JNIC)と共催で、7月5日の「終戦80年 広島・長崎を通して戦争を考える-次世代と共に」のイベント開催に向け準備に忙しい。

 県人会の存在意義が近年薄まっているという声もあるが、自分が暮らした土地に愛着があるのは今も昔も変わらない。

 カナダで最初の県人会発足は、1902年8月2日、のちにカナダ広島県人会と改称する「芸備同志会」。戦前のバンクーバーには日本から多くの人が移民し、いくつもの県人会が創設された。当時は同郷からの移住者を迎え入れ、生活を支え合う役割を担っていた。

 いまは各地で日本という同郷でイベントや集まりをすることが多いが、「各都道府県にはまだまだ知られていない埋もれた良い話がたくさんあるんです」とプオボロ浩子副代表。それを連合会で開催するイベントなどで各都道府県が紹介できる機会があれば県人会が盛り上がると話す。

 戦前の県人会は1942年の日系カナダ人強制収容政策で解散してしまったが、戦後再開した県人会も多い。そうした戦前からの伝統を引き継ぐ県人会と、新移民の若い世代が作る県人会とが協力して日系コミュニティを盛り上げていけたらとトロント都道府県人会・連合会の意味があると原代表。県人会を通して日本文化の発信と日系コミュニティ、日系・日本に関心のある多くの人々をつないで次世代へとバトンを渡す、そんな役割が担えたらとこれからますます活動を活発にしていく。

***

 7月5日「終戦80年 広島・長崎を通して戦争を考える-次世代と共に」はトロント市在住で広島での被爆体験を持つ平和活動家サーロー節子さんをゲストスピーカーに招き、オンタリオ州ハミルトン市でドキュメンタリー映画「平和への誓い」を上映後、Q&Aが行われる。会場では連合会に参加している県人会を紹介するコーナーも設置される。イベントはバンクーバー市でも同時開催する。

トロント都道府県人会連合会:https://www.torontorengokai.com/

(記事 三島直美)

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「『瓢箪から駒』を数える」ひょうたんアーティストあらぽんさんバンクーバーでワークショップ

バンクーバーでのワークショップで参加者がデザインした色とりどりのひょうたん。クリスマスオーナメントとして作ったつわものも。2024年11月26日、バンクーバー市。写真提供:ウィトレッド太朗さん
バンクーバーでのワークショップで参加者がデザインした色とりどりのひょうたん。クリスマスオーナメントとして作ったつわものも。2024年11月26日、バンクーバー市。写真提供:ウィトレッド太朗さん
楽しそうに自身の経験を話す、あらぽんさん。2024年11月26日、バンクーバー市で。写真提供:ウィトレッド太朗さん
楽しそうに自身の経験を話す、あらぽんさん。2024年11月26日、バンクーバー市で。写真提供:ウィトレッド太朗さん

 東京で2024年夏に個展を開いた2カ月後にはバンクーバーでワークショップを開いた。ひょうたん芸人兼ひょうたんアーティストとして活動するあらぽんさんがバンクーバーに来るきっかけは佐藤広樹さんとの出会いだった。

前編:「ひょうたんアートで『新世界』を開く」ひょうたんアーティストあらぽんさん、バンクーバーでワークショップ

東京足立区出身で意気投合

 あらぽんさんが佐藤さんと出会ったのはエコ関連のイベントがきっかけだった。佐藤さんはバンクーバーではGifts and Things他2店舗のオーナーとして忙しくしているが、東京でも環境問題を考える機会を作るエコ関連イベントを数年前から開催している。

 「そのエコイベントに1年くらい前に来てくれたのが最初です」と佐藤さんが説明する。「あらぽんさんのことも、ひょうたんのことも、知っていました。結構有名でしたよ」と笑う。二人とも東京都足立区出身というつながりもあった。

 佐藤さんは何か一緒にできればと思っていたがコンビの時はなかなか機会がなかったと振り返った。解散して一人で動けるようになって「やっと一緒にできるようになりました」。

 バンクーバーでのワークショップについて話し合ったのは東京での個展開催の約1カ月前。それまでも何度か東京でイベントを一緒にやっていた。佐藤さんは「東京で一緒にワークショップをやった時にかなり盛況でした。これはあらぽんさんという知名度とひょうたんという組み合わせですごいおもしろいことができるなって思って。なんとかカナダでできないかなと考えました」。

 あらぽんさんは「3回くらいの打ち合わせでカナダ行きを決めました」とほぼ即決。「行くしかないと思って。僕の中ではひょうたんで繋がっているので。僕の前にそうやって現れる方とは何か縁があるんだろうなって思って」。

 そうしてバンクーバーでのワークショップが決まった。

バンクーバーで大成功のひょうたんアートワークショップ

ワークショップの様子。写真提供:ウィトレッド太朗さん
ワークショップの様子。写真提供:ウィトレッド太朗さん

 バンクーバーで佐藤さんと共にワークショップ開催に尽力したのは、日本カナダ商工会議所の副会長ウィトレッド太朗さん。「ワークショップだと年齢問わず楽しめると思ったし、アートなので言語もあまり気にしなくていいかなと」。バンクーバーの参加者の中には日本語を話さない人も多くいたと振り返った。「すごく幅広く皆さん楽しまれたという感じです」。

 それは参加者が作った作品にも表れている。ユニークなのはひょうたんを見たこともない人が楽しんでいたことだという。「一つひとつ形も少しずつ違うから、海外でもおもしろいだろうなと企画段階から思っていました」。

 あらぽんさんも「めちゃくちゃ皆さん楽しんでくれているなと思って、びっくりしました」。それに日本で開催するより多くの人が集まったことにも驚いたという。「過去最大人数でした」と笑う。

バンクーバーでのワークショップで参加者がデザインした色とりどりのひょうたん。クリスマスオーナメントとして作ったつわものも。2024年11月26日、バンクーバー市。写真提供:ウィトレッド太朗さん
バンクーバーでのワークショップで参加者がデザインした色とりどりのひょうたん。クリスマスオーナメントとして作ったつわものも。2024年11月26日、バンクーバー市。写真提供:ウィトレッド太朗さん

 作品にも大いに刺激を受けたと話す。「海外の人たちは日本とは全然感覚が違っていて、できる作品が全然違うんです。それが新鮮でした」。バンクーバーではマーブリングはなかったものの、和紙を貼ったり、色を塗って絵を描いたりして、それぞれにデザインした。「絵の色合いとか、和紙の使い方が斬新というか。中には和紙の上から色を塗る子どももいて。もともと色が付いている和紙なのにそこに色を付けるという。あれは僕にない発想だったので、アートでも使えるなと、色々勉強になりました。かなりレベルが高かったです」。

次はカナダで個展開催を目指す

 バンクーバー滞在中には美術館も積極的に回った。「すごい刺激的で」。ウィスラーで巡った美術館では、自由に入れて、親切に詳しく作品を説明してくれる人がいた。「僕の知らない技法もあって、ひょうたんで使えるなって思ったものは写真も撮らせてもらいました。しかも1日1枚は作品が売れていて、その値段もすごくて」。美術館巡りは色々なことが刺激的だったと話す。

 自分の作品としては「カラフルな色を使った立体的なアートをこれからも制作して、現代アートとして広められたらいいなって」。キャンバスだけでなく、置物型の作品も手掛ける。

 それでも基本は変わらない。自分が育てたひょうたんで唯一無二のアートを作っていく。その年によって収穫できるひょうたんの種類も違うという。「今年は小さいのができなかったんです。でも逆に、最初に自分がひょうたんに出合った時に買いたいと思った6000円ぐらいのものが爆発的にできて。だから今年はこれを作れってことなんだなと思って」。自然に抗わずに共存していく。「だから来年はアートとして作品が広まっていくんだろうなって」期待している。

栽培して実った大きなひょうたんと一緒に。写真提供:あらぽんさん
栽培して実った大きなひょうたんと一緒に。写真提供:あらぽんさん

 スタートダッシュに大成功したひょうたんアートだが、その秘密は夢や希望を語ること。「自分だけでは絶対に叶えられないのでいろんな人に夢を話すようにしています。それがコンビを解散して一番変わったところかなと思います」。それまでは「これできる、あれできるって言ってたんです。それを聞いた人は『ああ、そうなんですね』で終わってしまいます。でも一人になってから不安が大きくて、できないことが多いと感じてたんです」。

 それで助けを求めるようになった。「これやりたいけど、どうしたらいいですかね?っていう言葉に自然と変わってきました。そしたらいろんな人が手を差し伸べてくれて。こうした方がいいんじゃない、ああした方がいいじゃないって。佐藤さんもそうだし、皆さんがこうして助けてくれることが増えました。だから応援してもらっているのが分かるから自分もできることはやろうと思うように変わりました」。

 次はカナダで個展を開きたいと話す。佐藤さんも次はアートの個展としてできたらと応援する。ウィトレッドさんは個展を通じてワークショップとは違った人たちを引き付けられないかという。「そこから可能性が大きく広がるような気がしています」とひょうたんアートの可能性に期待する。

 あらぽんさんはバンクーバーで個展ができて、ワークショップではマーブリングができたら「また皆さんと交流も深められるし、アートがもっと身近になるんじゃないかなって思っています」と語った。

大切にしている言葉「瓢箪から駒」を数える

 バンクーバーの感想を聞くと「すごくいいなって」。海外は今回で3回目くらいだと言い、「普通に夜、怖い思いをせずに歩けたのはカナダだけでした」と笑う。「人が優しいというか、ガツガツしていないというか。キリキリとせわしくしていないという感じがします」。目が合えば「Hi、みたいな。すごくいいですね」。

 バンクーバーでも声を掛けられて「カナダで『あらぽんさんだ』って言ってもらえるのはやっぱりうれしいです」と、バンクーバーでの滞在は楽しいことが多かったようだ。それもひょうたんが繋いだ縁と思っている。

 そんなあらぽんさんの座右の銘は「瓢箪から駒」。「僕は本当に『瓢箪から駒』という言葉をめちゃくちゃ大切にしています」と目をクリクリさせる。意味は、「意外な所から意外な物が出ること、ふざけて言ったことが実現することのたとえ」だ。

 あらぽんさんは「僕に今ひょうたんのことを教えてくれているおじいちゃんから『ひょうたんをやってるんだったら絶対に瓢箪から駒の数を数えなさい』って言われて。何気なく見過ごしている幸せがたくさんある、それを分かりやすく言葉にして教えてくれているのがそれかだから数えなさいって。そしたらすごく楽しくなるからって言われたんです」。

 だから、小さいものでいいので自分のひょうたんを身に着けて「瓢箪から駒を探して数えたら、僕がそうだったように、人生の楽しい見方ができるんじゃないかなと思うので、ひょうたんを身近に置いてほしいと思いますね」と語った。

***

 インタビュー中、常に笑顔で楽しそうにひょうたんについて話すあらぽんさん。そのポジティブなエネルギーは周りの人を幸せにする力がある。

 そんなあらぽんさんの究極の目標は、同じ足立区出身のビートたけしさんのように、「アートで足立区から世界へを表現したい」だ。

 足立区という町に育てられた恩返しとして、「アートで海外で成功して、アーティストとして世界でも認められて、足立区出身だよって言えるのが一番いいですね」と笑った。

 まずは今年の夏にバンクーバーでの個展開催を目指している。

(取材 三島直美)

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『バンクーバー開催』 終戦80年 広島・長崎を通して戦争を考える /80 Years On: Learning from Hiroshima and Nagasaki 次世代とともに | Together with the Next Generation

日時 | Date & Time: 2025年7月5日(土) | Saturday, July 5th, 2025 午後12時〜午後3時 | 12:00 PM – 3:00 PM

場所 | Vancouver Japanese Language School 487 Alexander St, Vancouver, BC, V6A 1C6, Canada

 【イベント概要 | Event Overview】 当イベントは、ハミルトンでの同題イベントと同時進行形で開催されます。日本とカナダの次世代と共に、戦争と平和について考える貴重な機会です。 This event will be held in conjunction with a parallel gathering in Hamilton. It is a valuable opportunity to reflect on war and peace with the next generations of both Japan and Canada. 

【特別ゲスト | Special Guest】 ランメル幸(Rummel Komura Sachi)さん 広島原爆の被爆者であり、8歳のとき広島で原爆を体験。その後、平和の大切さと核兵器廃絶を訴え続け、福島第一原発事故を機に再び声を上げた。著書『Hiroshima: Memories of a Survivor』にて自身の被爆体験と平和への願いを綴る。 Sachi Komura Rummel is a survivor of the atomic bombing of Hiroshima. At the age of 8, she experienced the devastation firsthand. Since then, she has spoken out about the importance of peace and nuclear disarmament. After the Fukushima nuclear disaster, she renewed her advocacy. Her memoir, “Hiroshima: Memories of a Survivor,” recounts her experiences and hopes for a peaceful future.

 【プログラム | Schedule】

12:00–12:30 ランメル幸さんの被爆体験談 | Testimony from Rummel Komura Sachi

12:30–13:00 ハミルトン会場オープニング視聴 | Opening Remarks from Hamilton via YouTube 13:00–14:30 ドキュメンタリー『広島への誓い』上映 | Documentary Screening: The Vow from Hiroshima

 14:30–15:00 ハミルトン会場のQ&Aセッション視聴 | Q&A Session via YouTube 

【主催/共催オーガナイザーリスト | Organizer List】

 NAJC (National Association of Japanese Canadians)

 JNIC (Japanese New Immigrant Committee)

 NAJC Hamilton Chapter Greater Vancouver Japanese Canadian Citizens’ Association

 トロント都道府県人会連合会 (Toronto Japanese Prefectural Association Federation)

 言語 | Language: バイリンガル (日英逐次通訳) | Bilingual (Japanese to English interpretation available)

 参加無料 | Free Admission 皆様のご参加をお待ちしています・We look forward to your participation.

Registration 🔗: https://www.zeffy.com/ticketing/vancouver-a-vow-from-hiroshima-screening-registration

Website page with all the details: https://najc.ca/in-person-event-vancouver-screening-of-the-vow-from-hiroshima/

80 Years on: Learning from Hiroshima and Nagasaki, Together with the Next Generation

Date:
Saturday, July 5, 2025
3:00 PM – 6:00 PM (EDT)

Admission: Free (Hybrid format) [Register for in-person attendance]  
https://www.zeffy.com/en-CA/ticketing/80-years-on-learning-from-hiroshima-and-nagasaki-together-with-the-next-generation

Venue: The Westdale, 1014 King St W, Hamilton, ON L8S 1L4

Special Guest Speaker: Setsuko Thurlow (Hibakusha, Member of the Order of Canada, Nobel Peace Prize Laureate)

Program Highlights:
·  Film screening: The Vow From Hiroshima + Q&A session
·  Opening Performances:
Koichi Yosakoi Ambassador Kizuna International Team Canada
Inner Truth Taiko Dojo

·  Cultural Exhibits:
o    Panel display by the Niigata Kenjinkai: Isoroku Yamamoto – The Naval Officer Who Hoped to Prevent War
o    Cultural booths from various other prefectural associations

Event Website: 80 Years on: Learning from Hiroshima and Nagasaki Together with the Next Generation
https://najc.ca/nihongo/80-years-on/

Organized by:
New Japanese Immigrant Committee of the National Association of Japanese Canadians

Co-hosted by:
Toronto Japanese Prefectural Association
Hamilton Chapter, NAJC (National Association of Japanese Canadians)
With support from: Professor Kaori Yoshida, Ritsumeikan Asia Pacific University

「次のレベルでもがんばりたい」2024年度バンクーバー日本語学校卒業式

卒業生全員で記念撮影。髙橋バンクーバー総領事、町田・須田共同理事長、担任の先生らと一緒に。2025年6月14日、バンクーバー市。撮影 日加トゥデイ
卒業生全員で記念撮影。髙橋バンクーバー総領事、町田・須田共同理事長、担任の先生たちと一緒に。2025年6月14日、バンクーバー市。撮影 日加トゥデイ

 バンクーバー日本語学校2024年度(2024年9月~25年6月)卒業式が6月14日、バンクーバー日本語学校並びに日系人会館(VJLS-JH)で行われた。

 小学科、中学科、ユースの、合わせて20人が卒業。「仰げば尊し」が流れる中、卒業生は名前を呼ばれると「はい」と大きな声で返事をして、一人ひとり壇上でVJLS-JH理事会共同理事長の須田勇子氏から卒業証書を受け取った。

次の目標に向かってがんばりたい

 小学科、中学科の生徒は、多くが次のレベルへと進学して日本語の勉強を続ける。

 卒業式で一人ひとりが思い出を語る「卒業生の言葉」では、小学科の卒業生は、「百人一首」、「運動会」、「茶道体験」「琴演奏」など、日本文化に触れた楽しい体験をあげた。

 上野健太君は3歳から通い、学校では友達と遊んだことが心に残っているが最も大きな思い出は夏休みにパウエル祭で手伝いをしたことと紹介。かき氷と焼き鳥の売り場で手伝ったり、日本語学校から約1ブロックのパウエル祭会場まで荷物を運んだりして、「パウエル祭が終わった後に食べた焼き鳥とかき氷はとてもおいしかったです」と話した。

 中学科になると、日本文化体験の他に学習内容に触れる生徒が多かった。特に「漢字が難しかった」と大変だったよう。それでも「百人一首で漢字と歴史的仮名遣いを覚えられた」と楽しみながら学習した学校生活をそれぞれが振り返った。村城愛紗さんは漢字や平仮名が苦手で「毎週の宿題もいやで辞めたい」という気持ちがあったが、「クラスの友達と百人一首のおかげで続けられました」とうれしそうに話した。演劇部や生徒会に入っての活動に充実した中学科を送ったと話した生徒もいた。

 6年間ある小学科と比べ、中学科は短い。漢字や宿題が大変だったけど友達と会えるのを楽しみに通い続け、3年間は「あっという間に終わった」と口を揃えた。

学校を卒業しても日本語を続けたい

卒業証書を受け取るユースプログラムを終了したシリンズさん。卒業生代表として謝辞を述べた。2025年6月14日、バンクーバー市。撮影 日加トゥデイ
卒業証書を受け取るユースプログラムを終了したシリンズさん。卒業生代表として謝辞を述べた。2025年6月14日、バンクーバー市。撮影 日加トゥデイ

 今年度は高等科からの卒業生はなく、学校を卒業するのは3年前にできたユースプログラムの4人のみ。はかま姿で出席した卒業生は、バンクーバー日本語学校が開催した着付け教室で着付けとたたみ方を家族と一緒に練習し、この日は自分たちで着付けをして家からはかま姿で登校したという。

 学校の授業をこれで終えるユース4人は、それぞれに「卒業しても日本語を続けたい」と、学んだ日本語と日本文化への興味を継続していく思いを語った。

 卒業生代表でスピーチしたシリンズあきなさんは、3歳の時にこどものくにに入園してからずっとバンクーバー日本語学校に通い、「15年間の学校生活を続けられたのは先生たちと両親のおかげです。心から感謝しています」と卒業生の思いを代弁した。シリンズさんは日系4世で祖父は日系カナダ人強制収容政策時に収容所で生まれたと話す。母から聞いていたこの事実と日本語学校で学んだ日系人の歴史には「自分のルーツや家族の歴史について考え、歴史を忘れない大切さを知ることができました」と特別な思いにも触れた。卒業しても自分のペースで日本語の勉強を続けていきたいと語った。

卒業しても日本語と日本文化への関心を

卒業生に祝辞を述べる髙橋バンクーバー総領事。2025年6月14日、バンクーバー市。撮影 日加トゥデイ
卒業生に祝辞を述べる髙橋バンクーバー総領事。2025年6月14日、バンクーバー市。撮影 日加トゥデイ

 在バンクーバー日本国総領事館・髙橋良明総領事は、「卒業生の皆さん、そして長い間支えてこられたご家族の皆さま、おめでとうございます」と祝福。人と人をつなぐため、心を通わせるために使われる言葉は、デジタルネイティブと言われる卒業生たちの世代だからこそ対面でのコミュニケーションでの人とのつながりに大切なことを理解できていると思う。「この学校で得た経験はこれからの人生で皆さんが本当に意味のあるコミュニケーションを築く時の基盤になると思います。皆さんなら日本語の力で世界をより良い場所にしていけるはずです」とエールを送った。

同校卒業生でもあるVJLS-JH町田共同理事長が卒業生へはなむけの言葉を送った。2025年6月14日、バンクーバー市。撮影 日加トゥデイ
同校卒業生でもあるVJLS-JH町田共同理事長が卒業生へはなむけの言葉を送った。2025年6月14日、バンクーバー市。撮影 日加トゥデイ

 VJLS-JH理事会共同理事長の町田友成氏は、言語を習得するということは、文化への理解、人とのつながり、自分を成長させる力を身に着けるということ、そして他人への理解への第一歩で、日本語を通じてその1歩を踏み出した卒業生に、「この経験は将来きっと役に立つと信じています」とはなむけの言葉を送った。バンクーバー日本語学校は来年創立120周年を迎える。歴史ある学校を卒業することは「何世代にも渡って受け継がれてきた伝統の一部に名を連ねるということ」であり、ここで終わらずに「卒業しても日本語と日本文化への関心を持ち続けてください。おめでとうございます」と送り出した。

(取材 三島直美)

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「ひょうたんアートで『新世界』を開く」ひょうたんアーティストあらぽんさん、バンクーバーでワークショップ

カナダを訪れるのは初めてというあらぽんさん。バンクーバー市内で。2024年11月26日。撮影 日加トゥデイ
カナダを訪れるのは初めてというあらぽんさん。バンクーバー市内で。2024年11月26日。撮影 日加トゥデイ

 「ひょうたん芸人」兼「ひょうたんアーティスト」として活動しているあらぽんさんが2024年11月にバンクーバーでワークショップを開催した。

 カナダは初めての訪問で、とても刺激的で有意義だったと話す。そして「カナダで個展を開きたい」との夢も膨らんだ。

 ワークショップを終えたあらぽんさんに話を聞いた。

ひょうたんとの出合い

 お笑い芸人としての活動は2023年12月にコンビを解散して、2024年4月からピン芸人となった。「ひょうたん芸人」を自称するあらぽんさんだが、ピン芸人となってからひょうたんと出合ったわけではない。その縁は芸人の道を目指すオーディションの頃までさかのぼる。

 「(オーディションを受ける)ライブ会場の前にひょうたん屋さんがあって、ショーケースのところにぶら下がっていたんですよ」と当日を思い出す。一発芸をする必要があり、何かないかと探している時に目についた。形がおもしろく購入しようと思ったが当時1個6000円ほどで「ちょっと無理だな」とあきらめたという。結局オーディションで使うことはなかった。

 しかしその後インターネットで種が100円で販売されているのを見つけて購入。当時住み込みでアルバイトをしていたビルの屋上で育て始めた。

 「1年目で大豊作したんです。ここがきっかけですね」。こうしてひょうたんとの縁が始まった。「いっぱいできると愛着が湧いちゃって」。それでもひょうたんはあくまでも趣味だった。

栽培して実った大量のひょうたん。その年によってできるひょうたんの大きさや量は変わるという。写真提供:あらぽんさん
栽培して実った大量のひょうたん。その年によってできるひょうたんの大きさや量は変わるという。写真提供:あらぽんさん

 しかしまだコンビを組んで芸人活動をしていた時にテレビ番組でひょうたんを育てていることがきっかけでレギュラーとして出演することになった。そこから「ひょうたん芸人」の芽が出始める。

 次は番組内でひょうたんランプの名人と出会って、「初めてひょうたんを加工して使えるんだったらアートとしてできるなと思って」。ひょうたんとアートが結び付く。ひょうたんでランプを作ることに挑戦した。ただ「ランプ作りはすごい苦手だった」と振り返る。絵の才能が必要で自分にはセンスがないと実感したからだ。それでも群馬で畑を借りてひょうたんランプの師匠と一緒にやっていた。ひょうたんアートとしては「その方法しか知らなかったので2年くらい続けました」。

 そんなタイミングで新型コロナウイルス禍に入った。東京から出られなくなりひょうたんランプもとん挫した。「ひょうたんでの活動も終わりかなと思って」。そこに新聞での企画が舞い込んだ。「在宅芸人はいま家でなにをやってる?みたいな企画で。ちょっと芸人をいじった感じなんですけど、『やります、やります』って。仕事がなかったので」と笑う。その時に家に残っていたひょうたん2個を手に1個ずつもって撮った写真が掲載された。

 「するとそれを見た人から『あなたのひょうたんは病気だぞ』っていう手紙が送られてきたんです」。その時はクレームかと思い無視したが、この人がのち師匠となる。

 後日同じ人から荷物が届いた。中には「和紙が貼ったひょうたんが2個入っていました。コンビのあらぽん・みやぞんって書いてあって。それを見た時に『これだ!』と思って。すぐに電話しました」。

 ひょうたんを45年も作っている名人だった。ただもう年だから現役を引退する、だから2冊にまとめた自分の培ったひょうたんの情報を「全部あげるから取りに来てほしいって」。行ってみると「うちの畑で1年間やってみてそれで巣立っていたらどうかとなって。1年間、土作りから一緒にやりました。そのうちに自分にひょうたんの知識が少ないということにおじいさんが気づいて(笑)」。それで引退を辞めて一緒にひょうたんを作ることになった。「もう5年くらい一緒にやってます」。

 こうして芸能活動とは関係ないところでひょうたん作りが続いた。そんな時にコンビを解散。ピン芸人になって本格的にひょうたん「芸人」と「アーティスト」の活動が始まった。

ひょうたんを「あらぽんスタイル」でアートする

あらぽんさんが制作した、和紙を貼ったひょうたんとマーブリングしたひょうたん。ワークショップ会場で。2024年11月26日、バンクーバー市。写真提供:ウィトレッド太朗さん
あらぽんさんが制作した、和紙を貼ったひょうたんとマーブリングしたひょうたん。ワークショップ会場で。2024年11月26日、バンクーバー市。写真提供:ウィトレッド太朗さん

 ひょうたんランプ作りは苦手だったが、和紙を貼るアートは気に入っていた。「めちゃくちゃ自分に合ってるなって思って。和紙アートも大変なんですけど、自分の好きな和紙を選んで貼って。組み合わせも、表現も、自由にできるし」。そして和紙以外に気に入っているのがマーブリング。「最初にひょうたんを持った時にやりたかったのがマーブルカラーをのせる方法なんです」。しかし水とインクでは弾いてひょうたんに色がのらない。そんな時にフルイドアートを見つけて「これでやってみたらめちゃくちゃいい色になって。これだって思って始めました」。

 元々アートに興味があったわけではなかったという。ただコンビの解散が決まる少し前にアートを意識し始めた。ひょうたん芸人も定着し始めて、解散となったタイミングで「自分ができるアートを作ってみようと思ったんです」。

 ただ自分の中では「アート」とはキャンバスに描かれた部屋に飾れるものだった。ひょうたんに和紙を貼ったり、マーブリングするだけではアートとは言い難い。そこで思いついたのが、「ひょうたんを半分に切って、キャンバスに貼って、それをマーブリングしたらどうかなと」。

あらぽんさん制作のひょうたんアート。写真提供:あらぽんさん
あらぽんさん制作のひょうたんアート。写真提供:あらぽんさん

 やってみると自分しかやっていないことに気づき、自分の思い付きに感動する。「これ、めちゃくちゃいいじゃん!って。自分が種から育てたひょうたんを加工まで全部自分でやってアート作品にまで完成させる。これってたぶん世界で一人しかいないです。自分しかやっていないと思います。それって世界一じゃないですか!」。

 しかも作品は唯一無二。「フルイドアートって同じ色は絶対できないんです。流し込みなのでその時に流すタイミングとか気候とかによっても色の交ざり具合も違って、唯一無二だなと。しかも、ひょうたんの形も同じものはないので、唯一無二なものに唯一無二なものが乗っかって、『もうこれ、めちゃくちゃいいじゃん!って』。それでこのアートを自分が作っているというのを前面に出そうと思って」。自分の思い付きに酔った。

1個目のアートを作った日から2カ月後に個展が決まるひょうたんがつなぐ縁

 酔った思い付きを形にした。解散が決まった11月のその夜に1個作った。「その日に作ろうと決めていたんで。そこから、個展をやろうっていうのも決めて」。そして12月5日に解散発表。それから2カ月後に個展開催が決まった。「それもひょうたんでつながっているんです」。

 解散してアートをやるって決めたなら「まずはギャラリーを見に行った方がいい」と知人からアドバイスを受けた。「ちゃんと勉強した上で自分がどういうことができるかっていうのをやりなさい」とアドバイスされた。その約3日後、仕事会場に早く着いたため、その時間を利用してたまたま見つけた個展会場に入った。少し敷居が高く感じたが「とにかく最初のギャラリー見学をやってみよう」と中に入った。しばらくすると声をかけられた。「うわぁ、話しかけられた」と思ったという。「なんで僕だって分かったんですか?って聞いたら、『カバンについている金のひょうたん見てあらぽんだって分かりました』って言われて。それってすごいじゃないですか!」

 なぜこのギャラリーに入ってきたのかを説明した。すると「その方が熱心な方で、本当にギャラリーを探しているんだったら、うちを使ってもらえませんかって言われて」。そのまま別の場所にあるギャラリーを紹介されて、「めちゃくちゃいいですね、って言ったら、その場で『じゃあこの月に個展をやりましょう』って決まったんです」と、2024年9月に個展開催が決まった。

ひょうたんで「新世界」への扉を開く

2024年に東京で開催した個展会場で。写真提供:あらぽんさん
2024年に東京で開催した個展会場で。写真提供:あらぽんさん

 個展は2024年8月31日、9月1日の2日間開催された。「たくさんの人に来てもらって大成功でした」と振り返った。

 「その個展で僕は本当に、生意気なんですけど、絶対人生を変える、この人生にするっていうのを決めて、8カ月間アートを作り続けました」。

 個展が決まってから開催までの8カ月間、とにかく作品を作り続けた。「気づいたら一人で160点作ってました」。この8カ月間、個展だけに集中した。「仕事もなかったし、不安だったりもありましたけど、絶対ぶれないで、2024年は絶対にこの準備すると決めて。25年にはもっと大きくしたいからと思って」。仕事をしていないこともあり、芸人としての給料が850円の時もあったという。「さすがにめちゃくちゃ焦るんですけど、でも絶対にぶれないって思って、作りまくって」。

 個展のテーマは「新世界」とした。自分自身の世界も変えるという意味も込めたという。

 この個展が成功に終わった2カ月後にはバンクーバーでワークショップを開いていた。「ほんとにもうスーパースタートダッシュというか。全てがひょうたんでつながっていて」。

 バンクーバーでのワークショップはあらぽんさんにとって大満足以上に、色々なことに刺激を受けたイベントとなった。

後編に続く:「『瓢箪から駒』を数える」ひょうたんアーティストあらぽんさんバンクーバーでワークショップ

(取材 三島直美)

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「NACO訪日」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第36回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 ここオタワでは、6月は最高の季節です。天気が良くて陽光の眩しい日には、空と雲と水と緑の四重奏が目も心も身体も癒やしてくれます。雨が降れば降ったで、雨上がりの爽快感は筆舌に尽くし難いほどです。

 一方、温暖化に起因する異常気象を背景に、山火事が頻繁している状況には心が痛みます。G7カナナスキス・サミットの主要議題の一つでもあります。大自然が相手ですから、思うに任せぬ容易ならざる課題ですが、叡智と決断で解決に道筋がつくことを期待しています。

National Arts Centreウェブサイトより。
National Arts Centreウェブサイトより。

 そこで、音楽です。季節や天気がどうであれ、音楽は日々様々な形で私たちに関わっています。日常生活の一部です。が、時には、そんな日常の中にも歴史的な出来事が起こります。例えば、先日の国立芸術センター管弦楽団(National Art Centre Orchestra:以下NACOと記述します)の韓国・日本ツアーです。韓国は史上初、日本へは40年振りの公演旅行でした。

 率直に言って、知名度という点ではNACOはまだまだです。特に、世界中の名だたるオーケストラの公演が連日目白押しの東京は、世界でも最も競争の厳しいクラシック音楽のマーケットと言っても過言ではありません。聴衆の耳も肥えていますし、情報の質と量も半端ありません。そんな中で、NACOは鮮烈な印象を残しました。「音楽の楽園」カナダの首都オタワが誇るオーケストラの面目躍如です。

 と云うことで、今回の本コラムでは、NACOの日本ツアーを取り上げます。

圧倒的な成功〜鍵は完璧な準備也

 一言で言えば、40年振りのNACO日本ツアーは大成功でした。

 NACO一行がオタワに帰還した直後に、NACOの総帥クリストファー・ディーコンCEOと話す機会があったのですが、普段は沈着冷静なクリストファーが、如何に素晴らしい公演ツアーであったかを興奮気味に話してくれました。東京はサントリーホール、津は三重県文化会館、大阪は大阪シンフォニーホールと大阪万博ではカナダ・パビリオン特設会場の計4公演です。それぞれに、思い出深いコンサートとなったそうです。とにかく、聴衆の反応に感銘を受けたと語ってくれました。

 コンサート意外で素晴らしかったこととして、日本で食べる和食が忘れ難いと声を大にしていました。高級懐石から、鉄板焼き、たこ焼きまで、本当に堪能した様子が伺えました。

 そこで、改めて今回のNACOの訪日公演ツアーを振り返ると、これは成功すべくして成功したとのだと思います。何故ならば、そこには足かけ3年に及ぶ入念な準備があったからです。私事ですが、2022年5月にオタワに着任し、暫くして、NACOのディーコンCEOやネルソン・マクドゥーガル渉外部長と親しくなり、会食やレセプション、公演の場でいつも音楽の話をするようになりました。

 2023年になると、日本大使館は2025年4月からの大阪・関西万博のプロモーションに力を入れ始めます。私の記憶によれば、同じ頃、ディーコンCEOやマクドゥーガル部長から万博の機会にNACO日本公演ツアーを企画したいとの構想を聞くようになりました。1985年以降途絶えた40年振りのNACO日本ツアーです。最初は願望というか野心的なアイデアという感じでした。徐々に、地に足のついた議論になっていきました。100人に及ぶ楽団員と関係者、大小様々な楽器群の運搬、移動・滞在費等々必要経費の問題。演奏会場、チケット・セールス、宣伝等々、処理しなければならない項目は多岐に渡りました。

 願望が企画になり計画へと進展すると、マクドゥーガル部長は、頻繁に日本を訪れ、日本側の関係団体・組織との折衝が始まりました。が、一筋縄では行きません。何事につけ人生のほぼ全てを言い当てているシェークスピアが喝破した通り、悪魔は細部に宿ります。一時期は、NACOの日本側エージェントが急遽変更するといった事態にも遭遇しました。しかし、大阪万博に合わせて訪日公演を行うとの強い決意で難局を乗り切っていくのです。

 マクドゥーガル部長は、きっと幾晩もの眠れぬ夜を過ごしたに違いありません。そして、日本のみならず、初めてとなる韓国ツアーも合わせて、見事なプログラムが出来ました。NACOの歴史にその足跡を刻んだと思います。

 そして、今回の韓日ツアーを応援すべく、親友のイム・ウンスン駐カナダ韓国大使とともに壮行会を兼ねた夕食会を共同開催しました。シェリー、川崎はじめ、日系と韓国系の楽団員のみならず、ディーコンCEOやマクドゥーガル部長はじめNACO経営陣も公邸にお招きしました。非常に愉快な夕べでした。同時に、皆が韓日ツアーの成功を確信したのです。

2025年6月3日のサントリーホール

© SUNTORY HALL
© SUNTORY HALL

 40年振りに日本の土を踏んだNACOは、まず、世界に冠たる音響の素晴らしさ誇るサントリーホールの舞台に立ちます。多様性を体現するカナダのオーケストラですから、楽団員も老若男女で多種多様。1985年の公演の際には生まれていない若いメンバーもいれば、40年前の古参メンバーもいます。彼らを牽引するのが音楽監督兼首席指揮者アレクサンダー・シェリーです。そして、コンサートマスターが川崎洋介です。

 今回の訪日にあたり、演目は慎重に選ばれました。NACOの力量が遺憾無く発揮される得意中の得意のレパートリーにして、日本の聴衆が大好きな楽曲です。しかも、日本との縁を実感させるものです。

〈ケイコ・ドゥヴォー〉

Photo credit: Caroline Desilets
Photo credit: Caroline Desilets

 まず、冒頭は、国立芸術劇場が委嘱した新曲です。モントリオール在住の日系カナダ人ケイコ・ドゥヴォー作曲の管弦楽曲「水中で聴く」です。水の流れを再現する打楽器群の音が弦楽器を誘導。聴く者は知らず知らずのうちに、水の中に溢れる音の時空に導かれます。随所に、東洋的な音色と響きを感じます。いわば、ドビュッシー的な印象派の21世紀ヴァージョン。現代カナダ音楽の真髄です。

〈ラフマニノフ〉

 次がピアノ協奏曲の名曲中の名曲、ラフマニノフの2番です。実は、私は国立芸術劇場でこの曲のNACOの演奏を2度聴いています。

 1度目は、2023年5月の辻井伸行との共演です。リハーサルも観る機会に恵まれたのですが、普段着でリラックスした中で要所要所の詰めを確認する姿は極めて印象深かったです。そして、本番は圧巻でした。指揮者シェリー、コンサートマスター川崎、ソリスト辻井、そして全ての楽団員が心を一つにして築きあげた音楽の桃源郷でした。細部に渡り緻密に計算され制御されている管弦楽と、ソリストの胸に湧き上がる創造性が奔放に羽ばたくピアノが見事に共存し昇華していました。CDや配信サービスで聴く再現されたデータとは違う次元です。演奏者と同じ空間にいて、目の前で、指揮者・コンサートマスター・独奏者・楽団員の動きを見て、息づかいを感じ、全ての音を聴くのです。音楽の最高の愉悦を感じました。

 2度目のラフマニノフ2番は、正に今回のサントリーホール公演の独奏者であるオルガ・シェプスでした。女性的な繊細さと同時に鋭角的な超絶技巧を持つ奏者です。こちらも本当に素晴らしい演奏でした。指揮者シェリーは、それぞれの独奏者の個性を尊重し抱擁し、ピアノを支えつつ、刺激し、優しく挑発するのです。第3楽章が終了した瞬間、圧倒的な歓声に包まれました。

 シェリーとシェプスの共演が、時に厳しく辛口のサントリーホールの聴衆をも唸らせた様子が目に浮かびます。

〈ベートーベン〉

 メイン・ディッシュは、交響曲第5番「運命」です。こちらも、NACOの十八番です。こちらも国立芸術劇場で2度聴く機会がありました。

 特に、2023年4月の演奏は忘れ難いです。ドイツのフランク=ヴァルタール・シュタインマイヤー大統領のカナダ公式訪問の際のオタワでの日程でした。カナダ側の歓待に対するドイツ側の答礼行事という位置づけです。ドイツ大統領主催の国立芸術劇場での特別な演奏会は、シェリー指揮でNACOが演奏する「運命」だったのです。

 音楽ファンなら誰もが熟知している名曲中の名曲です。だから、この夜の演奏が異様な熱気を纏った演奏だったと分かります。シェリーのタクトが振り下ろされた瞬間、第1楽章冒頭のダダダ・ダーンが響きます。まるで、自ら意思を持つ生き物のように、音の塊が聴衆に襲います。と、劇場の空気は一変し、聴衆の目も耳も心も一気に引きつけました。シェリーは指揮台に楽譜を置かず、全ての楽器の全ての音を完璧に頭に入れて、渾身でオーケストラを牽引しました。コンサートマスター川崎も阿吽の呼吸でシェリーの意図を感じ楽団員を鼓舞しました。佳境に入ると椅子から立ち上がらんばかりに音楽に没入するのです。

 第4楽章が大団円を迎えると、筆舌に尽くし難い感動が胸に溢れて来ました。招待してくれたスパウサー駐カナダ独大使には、コンサート直後に、心からの謝意と祝意を述べました。彼女も本当に感動していて、本当に誇らしいと言っていたのを思い出します。

 実は、このコンサートには若干の後日談があります。数日後に、NACOのマクドゥーガル渉外部長と話す機会があったのですが、実際は薄氷を履む状況であったと言うのです。というのも、大統領の全体日程の調整が難航しこのプログラムが決まったのは直前で、NACO以外の仕事もあって超多忙なシェリーの日程を何とか調整できたものの、全体のリハーサルは出来ないまま、本番に臨んだのだと言うのです。正に、NACOの真の実力が証明されたとも言えます。

 そんなシェリー指揮NACOの第5番「運命」がサントリーホールに響いたのです。このコンサートに赴いた友人から、即座にメールが来ました。曰く、シェリーの「運命」に圧倒され、鳥肌が立った、と。

大阪・関西万博「Shining Hat(カナダ・パビリオン)」へ

 NACOは、サントリーホール公演を成功させ、西に向かいます。

 まず、6月5日は、津市の三重県文化会館です。サントリーホールと同じメニューで、聴衆を魅了しました。そして、翌日は大阪です。

National Arts Centreウェブサイトより。
National Arts Centreウェブサイトより。

 6月6日は今回の訪日のハイライト。大阪・関西万博カナダ・パビリオン特設会場でのコンサートです。日本とカナダとの友情を更に深める特別なプログラムが用意されました。題して、『オスカー・ピーターソンに捧げるコンサート(Oscar Peterson Tribute Concert)』です。世界中で、カナダに匹敵するレベルでオスカー・ピーターソンが敬愛されている国は日本だけです。この連載「音楽の楽園」第2回でも取りあげましたが、秋吉敏子を発見した名伯楽でもあります。在京カナダ大使館のオードトリウムは「オスカー・ピーターソン・ホール」と名づけられていて、日本人にとっては、その名前はジャズを超えてカナダを代表しているのです。

 特別プログラムは、オスカー・ピーターソンの音楽的遺産をクラシックとジャズを融合させると同時に、世代と国境を超える形に昇華したものです。音楽監督アレクサンダー・シェリーの面目躍如です。

 『夢の軌跡:カナダ組曲(Trail of Dreams: A Canadian Suite)』は、オスカー・ピーターソンの代表作でピアノ・トリオの傑作『カナダ組曲』を管弦楽団とジャズ・ピアノ・トリオとの共演用に編曲されたものです。モントリオールで生まれ育ち、幼少期からクラシック・ピアノを学んだオスカーにとっては、クラシックもジャズも共に美しく斬新で新しい音宇宙の構築を目指すという意味では本質的な違いはありませんでした。実際「カナダ組曲」は、ドビュッシーやラベルを加速し現代化した趣すらあります。

 更に、シェリーが用意したオスカーに捧げる極めつけが『自由への讃歌(Hymn to Freedom)』です。ピーターソンの代表曲であるばかりでなく、第2のカナダ国歌とも称されています。1962年発表の『ナイト・トレイン』という音盤に収録されています。オスカーの父親は、ドミニカからの移民で、鉄道員の職を得て刻苦勉励しオスカーを育て、息子がプロのピアニストを目指す時には深い愛と智慧を授けました。そんな父に捧げた音盤の核が『自由への讃歌』です。初めての人も、最初のワン・フレーズを聴くだけで、心の奥の柔らかい部分が慰撫されるように感じるはずです。そんな名曲中の名曲がオーケストラと児童合唱団によって再生されたのです。会場は、感動と興奮の坩堝と化したと伺いました。

結語

 オーケストラの実力は、本質的には知名度とは関係ありません。但し、実力が証明されれば評判が評判を呼び、いずれ有名になっていきます。NACOは、今回の訪日公演ツアーでその流れに乗ったと思います。今後の活躍に期待が一層高まります。

 シェリー、川崎、NACOは、韓国・日本ツアーから凱旋しましたが、その感慨に浸る間もなく、過密な日程が待っています。次は、国立芸術劇場にてストラヴィンスキー『春の祭典』の演奏会です。既に世界レベルのNACOが今回の韓日ツアーで一皮剥けた演奏をしてくれるのではないか。オタワ在住の音楽愛好家は待ちきれません。

 そして、溢れる情熱と大きな構想力でNACOをここまで引っ張って来た音楽監督アレクサンダー・シェリーは、今シーズンで11年に及ぶ契約を完了します。来年からは、米国カリフォルニア州オレンジ郡を拠点とするパシフィック交響楽団の音楽監督に就任します。パシフィック響は、1978年創設とNACOよりも約10年若い楽団ですが、ヨーヨー・マも参加したエリオット・ゴールデンサール作曲『水・火・紙:ベトナム・オラトリオ』の委嘱・初演で知られます。NACOとの11年で培った伝統と前衛、統率と自由の絶妙なバランスでもって、シェリーが牽引するクラシック音楽の新しい潮流から目が離せません。武運長久を祈ります。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

ビクトリアでH-Martオープン、食料品など日本の商品も充実

H-Martビクトリアのオープンを待つ長蛇の列。2025年5月22日、ビクトリア市。写真提供 H-Mart
H-Martビクトリアのオープンを待つ長蛇の列。2025年5月22日、ビクトリア市。写真提供 H-Mart

 アジア系スーパーマーケットのH-Martが5月22日、ビクトリア店(3147 Douglas St, Victoria)をオープンした。

 H-Martは1982年にアメリカで創業。カナダでの1号店は2002年ブリティッシュ・コロンビア(BC)州コッキトラム市。以来、バンクーバー・ダウンタウン店などメトロバンクーバーに8店舗、BC州ではビクトリア店が9店舗目となる。国内では、アルバータ州に4店舗、オンタリオ州7店舗、ケベック州で3店舗を展開している。

 今回のビクトリア店オープンに担当者は、「オープン当日からたくさんの方に来ていただいて大変ありがたいです」とコメントを寄せた。食料品をはじめ日本の商品も数多く扱っているという。

 「H-Martは1982年アメリカで創業以来、アメリカ及びカナダでコミュニティに寄り添い、親しまれるアジアンスーパーマーケットとしてがんばってまいりました。この度、ビクトリア店のオープンを機会にH-Martビクトリアが、ただ単に食料品を取り扱う場のみならず、多くのお客様が集い、質の良いアジア商品が正確な情報でお伝えできる場としていけるよう努力してまいります」と語った。

(記事 三島直美)

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七夕マーケット

今年も日系文化センター・博物館で、賑やかな七夕マーケットを開催します!会場は七夕飾りで彩られ、特別な一日をお届けします。ぜひ浴衣を着て七夕飾りといっしょに写真を撮りに来てください。

お買い物と食の楽しみ

  • クラフトマーケット&フリーマーケット: 素敵な手作り雑貨や掘り出し物が見つかる、見逃せないマーケットです。
  • プラントセール: 屋内・屋外の様々な植物を取り揃えています。
  • 日本食とドリンク: その場で味わえる美味しいお食事やドリンク、ご自宅で楽しめるお持ち帰り食品も充実しています。

家族で楽しむ七夕体験

  • キッズコーナー: 七夕をテーマにした楽しいアクティビティがいっぱいです。
  • 願い事を飾ろう: 願い事を書いた短冊を笹に飾る、七夕ならではの体験ができます。
  • 工作コーナー: 七夕飾りなどの楽しい工作に挑戦できます。
  • 輪投げ: 日系祭り(8月30・31日開催)チケットが当たるチャンス!腕試しをしてみませんか?
  • 盆踊り: 大人から子供まで、みんなで一緒に盆踊りの練習に参加できます。

ステージパフォーマンスと25周年記念

今年は特別に、「楽一」「ひととせ」による魅力的なステージパフォーマンスが、七夕マーケットをさらに盛り上げます。忍者にも会えるかも!

日系文化センター・博物館は今年、25周年を迎えます。七夕マーケットで皆様と一緒にお祝いできることを心より楽しみにしております。

日時:2025年7月6日(日)午前11時から午後4時

場所: 日系文化センター・博物館 (6688 Southoaks Crescent, Burnaby)

サイト:https://centre.nikkeiplace.org/events/tanabata-market2025/

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