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Naomi Mishima

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ホワイトキャップス大勝で首位奪還、高丘はクリーンシートチームタイ記録を達成

試合終盤、ダラスのコーナーキックに備えるホワイトキャップスのディフェンス。2026年8月24日、BCプレース。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ
試合終盤、ダラスのコーナーキックに備えるホワイトキャップスのディフェンス。2026年8月24日、BCプレース。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ
試合終盤、ダラスのコーナーキックに備えるホワイトキャップスのディフェンス。2026年8月24日、BCプレース。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ
試合終盤、ダラスのコーナーキックに備えるホワイトキャップスのディフェンス。2026年8月24日、BCプレース。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ

 ゴールラッシュで圧勝した。前半に4ゴールと大量得点し、GK高丘の出番がないほど堅い守りで無失点に抑えた。これでホワイトキャップスは西カンファレンス首位を奪還した。

8月22日(BCプレース:25,398)
バンクーバー・ホワイトキャップス 5-0 FCダラス
先制は11分。試合序盤から猛攻を続けていたホワイトキャップスがコーナーキックからこぼれ球をMFサビが決め勢いがついた。その後は、23分、37分にFWホワイトが連続ゴール。アディショナルタイムにDFオカンポが決め前半を終え4-0。後半にも追加点をあげ、大勝した。

FWホワイト(左)のゴールを喜ぶキャプテン・ゴールド。2026年8月24日、BCプレース。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ
FWホワイト(左)のゴールを喜ぶキャプテン・ゴールド。2026年8月24日、BCプレース。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ

GK高丘、45試合目のクリーンシートでチームタイ記録達成

 危なげない守りだった。ディフェンスが機能し、ほとんどシュートを許さない展開。GK高丘は6分にペナルティエリアを大きく離れて相手のパスを阻止したあとは、87分にダラスのコーナーキックからの際どいシュートを弾く好セーブ。94分にはミドルシュートを横っ飛びで止め、クリーンシートを達成した。

 試合後「前節(ヒューストン・ダイナモとの首位攻防戦)で負けてしまったので勝ててよかったです」と高丘。この試合でホワイトキャップスとして45試合目のクリーンシートとなり、MLS(メジャーリーグサッカー)昇格後ではデービッド・ウーステッドのチーム最多記録と並んだ。ホワイトキャップス歴代ゴールキーパーの最高記録はポール・ドランの51試合。

前半6分にGK高丘が見せたペナルティエリアを飛び出してのセーブ。2026年8月24日、BCプレース。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ
前半6分にGK高丘が見せたペナルティエリアを飛び出してのセーブ。2026年8月24日、BCプレース。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ

 来月はカナディアン・チャンピオンシップ2試合を含め7試合と多いが、慣れているので問題ない「準備するだけ」と話した。

ホワイトキャップス、首位に再浮上

 ワールドカップ後に再開したレギュラーシーズンでなかなか白星が伸びず、首位から陥落していたが、この日の勝利で勝ち点を40に伸ばし、ヒューストン・ダイナモを2ポイント差引き離して首位に返り咲いた。ここまで20試合を終了して12勝4敗4分。

9月のホームゲーム

9月2日 CFモントリオール戦(カナディアン・チャンピオンズシップ)
9月5日 セントルイス・シティ戦
9月9日 LAギャラクシー戦
9月13日 オースティンFC戦
9月26日 DCユナイテッド戦

(取材 三島直美/写真 斉藤光一)

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珠玉の日本映画を紹介する「第1回バンクーバー日本映画祭」9月11日から3日間開催

「TOKYOタクシー」より。 ©2025 “TOKYO TAXI” Film Partners
「TOKYOタクシー」より。 ©2025 “TOKYO TAXI” Film Partners
「TOKYOタクシー」より。 ©2025 “TOKYO TAXI” Film Partners
「TOKYOタクシー」より。 ©2025 “TOKYO TAXI” Film Partners

 カナダ日系文化会館が主催する第1回バンクーバー日本映画祭が9月11日から13日まで開催される。

 これまでトロント市にある同会館で15年間続いている「トロント日本映画祭」がバンクーバーにやってくる。

 今年紹介する映画は日本を代表する実力派俳優陣が出演する珠玉の7作品。6月11日から26日まで開催されたトロント日本映画祭でも上映された作品が揃った。バンクーバーでのオープニングは、倍賞千恵子、木村拓哉主演の「TOKYOタクシー」。

 同会館によると「どの作品も観客から高い評価を受け、上映後のアンケートでは全ての作品が88%以上の支持を集めました。こうした観客の反応はバンクーバーで上映する作品を選ぶうえでも重要なポイントとなっています」という。トロント日本映画祭の最優秀作品賞(Grand Jury Prize for Best Film)受賞作も含まれている。

 バンクーバー日本映画祭ディレクター兼プログラマーのジェームス・ヘロンさんは、第1回日本映画祭をバンクーバーで迎えることに、「心より光栄に思います」と語る。「第1回となる今回のプログラムでは、今日の日本映画が持つ驚くほど幅広い魅力をご紹介します」と上映作に自身をのぞかせる。「楽しく、心を動かし、ときに私たちに問いを投げかける、人間味あふれる作品ばかりです。それぞれの映画は日本ならではの文化や感性を映し出していますが、そこで描かれる愛、喪失、家族、アイデンティティ、困難を乗り越える力、そして人と人とのつながりといったテーマは、国境を越えて私たちの心に響くものです」

 カナダ日系文化会館は1963年創設。「独自の文化、歴史、そして日系カナダ人のレガシーを全カナダ人に向け発信、提供している」非営利団体。会員数は約5,200人。各種プログラムやイベントなどで約21万人が同館を訪れて、日本文化に触れているという。

 その中でもトロント日本映画祭は最大級のイベントで、今年は24作品が上映された。ヘロンさんは「カナダ日系文化会館(JCCC)は15年以上にわたり、映画を通して人と人をつなぎ、日本映画の豊かさと多様性をカナダの観客の皆様に紹介するとともに、日本とカナダの相互理解を深める機会をつくってきました」と自負する。

 「映画祭とは、単にスクリーンに映し出される作品だけではありません。映画をきっかけに生まれる会話や、そこから育まれる人と人とのつながりもまた、映画祭の大切な一部です。JCCCが長年大切にしてきた理念は『文化が分かる。心が通う。(Friendship Through Culture)』です。まさにその精神のもと、私たちはこの新しい映画祭をバンクーバーでスタートします。第1回バンクーバー日本映画祭の実現に力を貸してくださったパートナー、スポンサー、映画関係者、配給会社、ボランティア、そして観客の皆様に、心より感謝申し上げます。
 この映画祭が長く続く新たな歩みの第一歩となり、これから皆様とともにバンクーバー日本映画祭を育てていけることを心から楽しみにしています」とメッセージを送った。

 開催期間中、9月12日には上映作「あるく」の片岡志帆監督が登壇する。

第1回バンクーバー日本映画祭

期間:2026年9月11日~13日
会場:VIFFセンター(1181 Seymour St, Vancouver, BC)
チケット:大人19ドル、シニア17ドル、学生・ユース・アクセシブル14ドル、VIFF+メンバー16ドル(GST別途加算)購入は各上映作VIFFサイトから。
情報:日系文化会館バンクーバー日本映画祭ウェブサイト https://jccc.on.ca/ja/films/vancouverjff

上映作品

 全作品バンクーバープレミアとして上映。英語字幕付き。

TOKYO タクシー

「TOKYOタクシー」より。 ©2025 “TOKYO TAXI” Film Partners
「TOKYOタクシー」より。 ©2025 “TOKYO TAXI” Film Partners

 タクシー運転手の宇佐美浩二(木村拓哉)は、85歳の高野すみれ(倍賞千恵子)を東京・柴又から神奈川の葉山にある高齢者施設まで送ることになった。すみれの「東京の見納めに、いくつか寄ってみたいところがある」という頼みを受けた宇佐美は、すみれの指示で各地へタクシーを走らせる。旅を共にするうち、次第に心を許したすみれから語られたのは、彼女の意外な過去だった。タクシーの運転手と客として偶然出会った2人の心、そして人生が大きく動き始める。

 91本目の作品となる名匠・山田洋次監督が、2022年製作のフランス映画「パリタクシー」を原作に人生の喜びを描いたヒューマンドラマ。

9月11日(金)7:30pm
https://viff.org/whats-on/tokyo-taxi

かくかくしかじか

「かくかくしかじか」より。©Akiko Higashimura/SHUEISHA ©2025 FUJI TELEVISION NETWORK, INC./ Warner Bros./ S・D・PHIGASHIMURA PRODUCTION All rights reserved
「かくかくしかじか」より。©Akiko Higashimura/SHUEISHA ©2025 FUJI TELEVISION NETWORK, INC./ Warner Bros./ S・D・PHIGASHIMURA PRODUCTION All rights reserved

 宮崎県に暮らす、お調子者でぐうたらな女子高生の林明子(永野芽郁)は、幼い頃から漫画が大好きで、将来は漫画家になりたいという夢を抱いている。その夢をかなえるべく美大進学を志す明子は受験に備えて地元の絵画教室に通うことになった。そこで出会ったのが竹刀片手に怒号を飛ばすスパルタ絵画教師の日高先生(大泉洋)だった。何があっても、どんな状況でも、生徒たちに描くことをやめさせない日高。一方の明子は、次第に地元の宮崎では漫画家になる夢をかなえることはできないと思うようになっていき、日高とすれ違っていくが……。

 笑いと涙で人生を描き、日本中を励まし続ける伝説の漫画家・東村アキコが描いた自身の実話を映画化した作品。監督は関和亮。

9月12日(土)1:00pm
https://viff.org/whats-on/kaku-kaku-shika-jika

ブルーボーイ事件

「ブルーボーイ事件」より。©2025 “Blue Boy Trial” Film Partners
「ブルーボーイ事件」より。©2025 “Blue Boy Trial” Film Partners

 1965年、オリンピック景気に沸く東京。警察は街の国際化に伴う売春の取り締まりを強化していたが、性別適合手術を受けた「ブルーボーイ」と呼ばれる者たちの存在に頭を悩ませていた。戸籍は男性のまま女性として売春をする彼女たちは、現行の売春防止法では摘発対象にならないのだ。そこで警察は、生殖を不能にする手術が「優生保護法」に違反するとして、ブルーボーイたちに手術を施した医師・赤城(山中崇)を逮捕し裁判にかける。一方、東京の喫茶店で働くサチ(中川未悠)は、恋人にプロポーズされ幸せの絶頂にいた。

 高度経済成長期の日本で実際に起きた「ブルーボーイ事件」を題材に、自らもトランスジェンダーであることを公表している飯塚花笑監督が、性別適合手術の違法性を問う裁判に関わった人々の姿を描いた社会派ドラマ。主人公のサチをはじめ実際のトランスジェンダーが出演している。

9月12日(土)4:00pm
https://viff.org/whats-on/blue-boy-trial
2026年トロント日本映画祭でGrand Prize Jury – Special Mention受賞

あるく

「あるく」より。2025 – ARUKU 歩く(CJ 2025)
「あるく」より。2025 – ARUKU 歩く(CJ 2025)

 毎年、四国には「四国遍路」を目指して何千人(15万人〜20万人)もの旅人が訪れる。900年以上にわたり、人々は日本仏教に大きな足跡を残した弘法大師・空海の足跡をたどり、88の札所を結ぶ約1200キロの道のりを歩いてきた。この作品は、そうした巡礼の道を現代に歩む4人の姿を見つめた、静かな瞑想性をたたえるドキュメンタリー。疲労、孤独、あるいは言葉にならない幻滅をそれぞれに抱えた彼らの歩みを、片岡志帆監督が四国の穏やかな風景と寺々のたたずまいの中に美しく映し出す。

9月12日(土)7:00pm
https://viff.org/whats-on/aruku-i-walk
上映当日には片岡志帆監督が登壇し、Q&Aに応じる。

ふつうの子ども

「ふつうの子ども」より。© 2025 "HOW DARE YOU" FILM PARTNERS
「ふつうの子ども」より。© 2025 “HOW DARE YOU” FILM PARTNERS

 唯士(嶋田鉄太)は、放課後に毎日虫取りをするのが大好きな典型的な10歳の少年。クラスメイトの心愛(瑠璃)が「大人が引き起こした気候危機の負担を子どもが背負う不公平さ」についてスピーチをしたことをきっかけに、唯士は心愛に淡い恋心を抱くようになる。やがて、クラスの問題児・陽斗(味元耀大)も仲間に加わり、3人は町の環境への無頓着な習慣を暴くため、遊び心あふれる抗議活動を思いついていく。しかし、彼らの「エコ作戦」がエスカレートするにつれ、自分たちの行動がもたらす本当の結果を理解し始め、そして自分たちの動機と向き合わざるを得なくなる。

 監督はバンクーバー国際映画祭で「ぼくが生きてる、ふたつの世界」が上映された呉美保。独特の鋭いユーモアセンスと若いキャストから自然な演技を引き出す才能で、大きな倫理的問いと子どもたちの静かな感情の芽生えを丁寧に描きながら、あらゆる世代の観客に向けた観察力に満ちたほろ苦い警告の物語に仕上げている。

9月13日(日)1:00pm
https://viff.org/whats-on/how-dare-you
2026年トロント日本映画祭で最優秀作品賞(the Grand Prize Jury for Best Film)受賞

人はなぜラブレターを書くのか

「人はなぜラブレターを書くのか」より。© 2026 “ONE LAST LOVE LETTER” FILM PARTNERS
「人はなぜラブレターを書くのか」より。© 2026 “ONE LAST LOVE LETTER” FILM PARTNERS

 2024年、定食屋を営む寺田ナズナ(綾瀬はるか)は、ある青年に宛てて手紙を書く。24年前、17歳のナズナは、いつも同じ電車で見かける高校生・富久信介(細田佳央太)にひそかな恋心を抱いていた。信介は進学校に通いながらプロボクサーを目指し、学校帰りにボクシングの練習に打ち込む日々を送っていた。そんな彼らに、運命の日である2000年3月8日が訪れる。そして2024年、信介の家族の元にナズナからの手紙が届く。父・隆治(佐藤浩市)は手紙の中に亡き息子の生きた証を確かに感じ、息子の知られざる青春の断片と成長を知る。

 2000年3月に発生した地下鉄脱線事故にまつわる奇跡のような実話をもとに描いたドラマ。監督は石井裕也。

9月13日(土)4:00pm
https://viff.org/whats-on/one-last-love-letter

木挽町のあだ討ち

「木挽町のあだ討ち」より。(c)2025 “One Last Throw” Production Committee
「木挽町のあだ討ち」より。(c)2025 “One Last Throw” Production Committee

 時は江戸時代。ある雪の降る夜に起きた大事件として、語り草となった見事な仇討。しかし、そこには誰も知ることのなかったもう一つの物語が隠されていた。木挽町の芝居小屋「森田座」のすぐ近くで、美しい若衆・菊之助(長尾謙杜)が父の仇討ちを見事に成し遂げた。その事件は多くの人々に目撃され、美談として語られることになる。1年半後、菊之助の縁者だという侍・総一郎(柄本佑)が、仇討ちの顛末を知りたいと森田座を訪れる。菊之助に関わった人々から事件の経緯を聞くなかで徐々に事実が明らかになり、やがて仇討ちの裏に隠された「秘密」が浮かび上がる。

 直木賞と山本周五郎賞をダブル受賞した永井紗耶子による同名小説を映画化したミステリー時代劇。監督は源孝志。

9月13日(土)7:00pm
https://viff.org/whats-on/samurai-vengeance

「木挽町のあだ討ち」より。(c)2025 “One Last Throw” Production Committee
「木挽町のあだ討ち」より。(c)2025 “One Last Throw” Production Committee

(記事 編集部)

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シベリアから日本に来た「ポーランド孤児」(後編)「君が代」からたどる父の過去

ポール・ヴォイダクさん、在カナダ日本国大使館開催プレゼンテーションにて。2026年2月、オンタリオ州オタワ市(本人提供)
ポール・ヴォイダクさん、在カナダ日本国大使館開催プレゼンテーションにて。2026年2月、オンタリオ州オタワ市(本人提供)

 ブリティッシュ・コロンビア州タイー・レイクに住むポール・ヴォイダクさんは、父パヴェル・ヴォイダクの生涯に関し調査し、「シベリアからの脱出、記憶からの脱出」(2024年)を出版した。その中で、こう書いている。

–ある日、家に来た日本人の修理工が仕事を終えて帰ろうとしていると、父は直立不動の姿勢になり、日本の国歌「君が代」を歌い始めた。完璧に歌えた。日本語で1から10まで数えることもできた。父は誇らしげだった。

シベリアから日本に来た「ポーランド孤児」(前編)記録が語る父の過去

■日本で健康を取り戻した孤児たち

 1919年、ロシアで「ポーランド救済委員会」を組織したアンナ・ビエルキェヴィッチらは、シベリアで悲惨な状況にあったポーランド孤児たちの同国帰還を計画。日本政府・陸軍・海軍、日本赤十字社がこれを支援した。

 1920年7月から21年7月まで、ウラジオストクから5回の航海で375人が福井県敦賀港に到着。東京の福田会(ふくでんかい)育児院が無償で提供する宿舎に向かった。1922年には、さらに390人の孤児が同港に着く。大阪市がやはり無償で提供した大阪市立公民病院の付属看護婦寄宿舎に収容された。

 孤児たちは栄養失調でやせ細り、中にはチフス、コレラ、皮膚病を患っている子もいた。しかし、東京や大阪で受けた献身的な看護と栄養ある食事のおかげで健康を取り戻す。着物を着て、日本の子どもたちと遊び、遠足に行った。日本語を学びながら日本の文化に親しみ、ポーランドと日本の国歌も練習した。

 「孤児たちは日本滞在が平均わずか3カ月だったにもかかわらず、生涯にわたり日本での思い出を記憶していた。優しい看護、親切、安心感が、彼らの心に深い印象を残したからでしょう」とヴォイダクさんは話す。そして、ある出来事を振り返る。

 父パヴェルが45歳ごろのこと、家にきた日本人の修理工としばらく一緒にいた父は、その修理工の帰り際、突然「君が代」を歌い始めた。「驚きました。どんな言葉であろうと、父が歌うなんてそれまでなかったこと。父の心の奥深くで眠っていた日本での温かい思い出が、その日本人と接したことで目覚めたのでしょう」

■日本での思い出

 ヴォイダクさんは「シベリアからの脱出、記憶からの脱出」の中で、ポーランド孤児たちの日本での思い出の数々を紹介している。

 「とても低いテーブルで、木製の箸を使って食べた。どう使うのか最初は分からなかったが、すぐに上手に使えるようになった。日本の文化が好きになった」

 「初歩の日本語を習った。日本滞在は、まさに日本語の詩にあった『希望の夜明け』だった」

 「(病気から回復すると)着物を着せてもらい、草履をはいた。着物は、職業学校の女性たちが縫ってくれた。着物の袖にはお菓子やボール、なんでも入る。そのうち袖が重くなる」

 「靴職人が私たちの足のサイズを測った。翌日、全員に靴が配られた」

 「日本の国歌や亀についての歌を教えてもらった。今でも思い出す。もしもしかめよ、かめさんよ…」

■ポーランド大使、孤児ゆかりの場所を発見

 ポーランド孤児を受け入れた東京の福田会(ふくでんかい)は、仏教の高僧による発議で1876(明治9)年に創立され、日本初の児童養護施設を運営した。

 2010年、渋谷区広尾を歩いていた当時の駐日ポーランド大使ヤドヴィガ・ロドヴィチ=チェホフスカさんは、福田会の看板に目が留まった。日本語には精通している。ポーランド孤児の話については知っていた。「あの福田会のことだろうか」。確認しようと事務所に入り職員と話しているうちに、孤児たちについて書かれた古い新聞記事が発見された。

 福田会の園庭には、孤児たちを撮影した斜面が今も残っている。その写真のコピーが入った額を手にロドヴィチ=チェホフスカ元大使は、「今から100年以上も前、この斜面でポーランドの子どもたちが写ったことに感動する。孤児たちが日本で受けた親切はいつまでも人の心に響く」と語る。

ヤドヴィガ・ロドヴィチ=チェホフスカさん、福田会の園庭で撮ったポーランド孤児の写真コピー(左)と、同じ場所に立ったロドヴィチ=チェホフスカさんの写真(右、右端)が入った額をもって(ポーランド、スレユベク、2026年5月、高橋文撮影)
ヤドヴィガ・ロドヴィチ=チェホフスカさん、福田会の園庭で撮ったポーランド孤児の写真コピー(左)と、同じ場所に立ったロドヴィチ=チェホフスカさんの写真(右、右端)が入った額をもって(ポーランド、スレユベク、2026年5月、高橋文撮影)

■パヴェルとヴワディスワフ

 日本で体力を回復した孤児たちは、順次ポーランドに向かった。東京に滞在した375人は8グループに分かれ横浜からアメリカ経由で。大阪に滞在した390人は神戸からスエズ運河経由、イギリス・ロンドンに至り、1922年11月初旬、ポーランドに着いた。

 アメリカに向け出発する最初のグループ56人は、「ポーランド救済委員会」のユゼフ・ヤクブキェヴィッチに引率され、1920年9月28日、横浜から日本郵船・伏見丸に乗船。同年10月12日シアトル到着。

 伏見丸の乗船客名簿にヴォイダクさんが父パヴェルだと確信するヴワディスワフ・ヴォイダクの名前がある。

 ヤクブキェヴィッチは孤児たちから「お父さん」と呼ばれていた。ヴォイダクさんは父パヴェルから「子どものころ父親に連れられアメリカに行った」と聞いていたが、父親とはヤクブキェヴィッチのことだったのだろう。

 さらに、アメリカ到着後に作成されたヴワディスワフに関する記録では、雑誌「極東の叫び」のリストにある情報に加え(前編参照)、「この少年は話そうとしない」、出身地はロシアのノボミコワイェフスク、少年の父親はヴワディスワフ・ヴォイダクとある。これらの記述に関しヴォイダクさんは、この少年はハルビンで発見された時、持ち物に父親の名前が記されたものを持っていたのではないか。しかし、話そうとしないので本人の名前が判明せず、父親の名前がこの少年の名前として使われたのではないかと考える。そうだとすると、いつ、なぜヴワディスワフからパヴェルという名前になったのか。

■ドイツ軍にいた父

 ヴワディスワフはアメリカ到着後、シカゴとミルウォーキーの孤児院で1年3カ月ほど過ごし、その後、ポーランドに送られた。ドイツ国境近くの孤児院に着くと、そこからさらにドイツ系ポーランド人夫婦がもつ農園に移される。労働者として扱われ、納屋で寝た。冬だけ靴をはくことを許された。農園主に連れられ、収穫した作物を国境を越えドイツ側に売りにいくこともあった。

 このようにドイツ色の濃い環境で生きる間に、名前がポーランド名ヴワディスワフからドイツ名ポールと変わり、その後ポールのポーランド語での呼び方パヴェルになったのではないか。父がドイツ語を話せた理由も納得がいくとヴォイダクさんは言う。

 ドイツのポーランド侵攻で始まった第2次世界大戦の間、父はドイツで働いていた。そう母リッキーから聞いた。しかし、ドイツ軍がポーランド人を招集することは、ドイツ敗北が濃厚になるまではなかった。ドイツで働いていたというのは強制労働だったと考えられる。

 ヴォイダクさんは父のドイツ軍歴を調べようと、ドイツ連邦公文書館に問い合わせ、2020年、次のような内容を含む記録を受け取った。

 ポール・ヴォイダク、1912年7月27日(ドイツ語表記で)ノボミコワイェフスク生まれ、1944年1月召集、同年3月イタリアに配置。

 想像通りドイツ軍での父の名前は「ポール」。1944年であれば、ドイツ敗北は見えてきていた。

 先にイギリス国防省から入手していたポーランド軍歴には「パヴェル」とあった(前編参照)。1944年9月、ドイツ軍を離脱してポーランド軍に加わった時点でポーランド風にパヴェルとなったことが分かる。

 ドイツ軍への入隊は44年1月。戦争勃発の39年9月以降44年までドイツ国内で強制労働下にあったのであれば、41年リビアの「トブルクの戦い」に父はいなかったことになる。44年1月から5月までのイタリア「モンテ・カッシーノの戦い」にもいたかどうかは分からない。いたならばドイツ側だ。

 戦争初期からポーランド軍にいたと言っていたことや、名だたる戦いでの体験談は作り話だったのか。ヴォイダクさんは、「ショックを受け、打ちのめされた」と自著に書いている。

■記憶からの脱出

 「父は孤児院を転々とする理由を十分に理解していなかったに違いない。故郷や文化から引き離された孤児は、言語や文化的アイデンティティを失うことがある。自分がだれなのかという感覚が乏しく、自尊心も低くなる」とヴォイダクさんは説明する。

 子どものトラウマ(心的外傷)と記憶喪失に関する勉強をした。そして父パヴェルは、トラウマ後のストレス障害(PTSD)の状態にあったという分析に至る。

 シベリアで子ども時代に目撃したと思える両親の死。暴力や苦しみ。厳しい寒さや病気。パヴェルは精神的シックを受け、感情は混乱した。その結果、話すことができなくなった。心の中で、つらい過去の記憶を分離しようとする働きが起こり、自分の名前も両親についても語ることができなくなった。

 反対に、体験してもいない軍隊での話は、認識票にあったコンスタンティ・ムロテックの体験をあたかも自分のものとして記憶し語ったと思われる。ムロテックは、パヴェルが入隊した部隊に先にいて戦死した実在人物であったことをヴォイダクさんは後日知った。パヴェル自身は、ポーランド軍に属して以降、部隊の仲間からムロテックについて聞き、彼の軍歴を自分自身の体験として記憶した可能性がある。

 パヴェルは除隊となったイギリスで、オランダ出身の女性リッキーと出会い結婚。1948年、ヴォイダクさんが生まれる。一家は52年、カナダに移住。オンタリオ州で堅実な生活を営んだ。パヴェル、1984年11月逝去。

 ヴォイダクさんは、「日本での温かい思い出は、孤児たちがよい大人になるのに役立った」と、父の人生と重ね合わせる。パヴェルは花を育てるのが好きだった。特に菊が好きだった。「日本では菊が特別な意味を持っていることを習っただろうか」とヴォイダクさんは言い、自著「シベリアからの脱出、記憶からの脱出」の表紙にあるパヴェルの写真と菊の花の絵を見る。そして、「この本が、日本とポーランド、そしてカナダを結ぶ架け橋になってくれればうれしい」と結んだ。

(取材 髙橋文)

<関連サイト>

資料館「人道の港 敦賀ムゼウム」敦賀ムゼウム
社会福祉法人 福田会 福田会について | 社会福祉法人 福田会 | 社会福祉法人 福田会
日本赤十字社 感染症と赤十字|特別企画|赤十字WEBミュージアム
在カナダ日本国大使館開催「日本が救済したシベリアのポーランド孤児に関するプレゼンテーション」日本が救済したシベリアのポーランド孤児に関するプレゼンテーション | 在カナダ日本国大使館

高橋 文(たかはしあや)

カナダ在住ジャーナリスト。カナダの文化・歴史に関する記事をカナダと日本の新聞に執筆。

第2次世界大戦中、リトアニアで外交官・杉原千畝から日本通過ビザを受給しカナダ・アメリカ・オーストラリアをはじめとする国々へ渡ったユダヤ難民と子孫らに関する調査・取材記事を多数執筆。カナダと日本での「杉原ビザ」関連の常設・企画展示に参画。関連シンポジウムやセミナー等で講演を行っている。

著書:
「太平洋を渡った杉原ビザ:カウナスからバンクーバーまで」(岐阜新聞社、2020年)
「命のビザで旅した子どもたち:暗やみから光さすほうへ」(同、2021年)

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シベリアから日本に来た「ポーランド孤児」(前編)記録が語る父の過去

ポール・ヴォイダクさん、「シベリアからの脱出、記憶からの脱出」表紙イメージのあるシャツを着て。2026年7月、ブリティッシュ・コロンビア州タイ―・レイク(本人提供)
ポール・ヴォイダクさん、「シベリアからの脱出、記憶からの脱出」表紙イメージのあるシャツを着て。2026年7月、ブリティッシュ・コロンビア州タイ―・レイク(本人提供)

 ポール・ヴォイダクさんは、ブリティッシュ・コロンビア州バンクーバー市で40年間、地質学者として働き、2011年に引退。現在、同州スマイザーズ市に近いタイ―・レイクに住んでいる。2024年、父パヴェル・ヴォイダクの生涯に関する「シベリアからの脱出、記憶からの脱出」を出版した。

 2026年7月、ポール・ヴォイダクさんにオンラインで話を聞いた。

■父の経歴

 ヴォイダクさんの両親がそれぞれの生い立ちについて話すとき、大きな違いがあった。母リッキーは、オランダのアムステルダムで両親と姉兄妹あわせて8人の家族で育ったこと、若い頃の思い出などを快活に話してくれた。反対に、ポーランド人の父パヴェルは自身の過去についてほとんど語らなかった。孤児院にいた、農場で住んだと話すことはあった。しかし、それらの名前も場所も言おうとしない。

 父に両親のことを聞くと、母親は汽車の事故で亡くなった。その後、父親も汽車の事故で亡くなったと言う。それ以上は言わない。しかし、子どもの頃、日本とアメリカに行ったことがあり、父親が連れていってくれたと話していた。

 不明なことが多かった父の経歴をたどろうと、調査を始めたのは2001年5月。父の没後17年がたっていた。家には、第2次世界大戦中、ポーランド軍で兵士として父が属していた部隊のバッジや、認識票のブレスレットが残っていた。しかし認識票に父の名前はない。コンスタンティ・ムロテックとなっている。敵に捕まった時のための偽の認識票と父は説明した。血液型だけが父と同じだ。リビアの「トブルクの戦い」や、イタリアの「モンテ・カッシーノの戦い」での体験については、臨場感あふれる口調で語ってくれたものだ。

 そういった思い出の品や話を手掛かりに調べていると、同大戦中、ソ連軍に捕まったポーランド軍兵士や彼らの家族がシベリアに抑留されていたことを知った。関連して、大戦以前には、シベリアにいたポーランド人の子どもたちが孤児となり、1920年から21年、日本とアメリカを経由してポーランドに帰国したという簡単な記述も目にした。父の子ども時代と年代があう。それに日本とアメリカに行ったことがあるという父の話とも共通する。「父は孤児の一人だったに違いない」。直観で確信した。

■記録が示す父の過去 

 同じ2001年の6月、ヴォイダクさんは、「極東の叫び」という雑誌(1924年刊)に掲載されたポーランド孤児救済に関する記事のコピーを得た。それは「ポーランド救済委員会」による詳細な報告で、東京で撮影された孤児たちの写真と、子どもたちに関するリストが含まれていた。それぞれの氏名・年齢・同委員会により子どもたちが発見された場所・両親の生存に関する情報・アメリカでの滞在先が載っている。

 リストに、ヴォイダク姓の気になる男児の情報がある。名前はヴワディスワフ・ヴォイダク、7歳、満州のハルビンで発見され、両親はいない、ウィスコンシン州ミルウォーキーとある。

 ヴォイダクさんの父の名前であるパヴェルではなく、ヴワディスワフであることは疑問だ。しかし、この男の子は父だと再び確信する。

 同じく2001年、ヴォイダクさんは、イギリス国防省に第2次世界大戦中の父のポーランド軍歴を問い合わせた。1939年9月に勃発した同大戦中、40年6月以降、ポーランド亡命政府はイギリス・ロンドンにあり、ポーランド軍はイギリス軍下となった。さらに父はイギリスで除隊になったからだ。2001年6月、同省から3つの驚くべき内容を含む記録が届いた。

 まず、父は1912年7月27日、ポーランドではなく、ロシアのノボミコワイェフスク(現ノボシビルスク)で生まれた。しかしこれは父がシベリアで孤児になったとするなら納得がいく。

 次に、父はヴォイダクさんの母であるリッキーとイギリスで結婚する前に、ポーランドで他の女性と結婚していた。これについてリッキーは既に知っていた。「便宜上の結婚」という。経済的援助のため、市民権取得のため、あるいは出産前に法律上の夫婦になるためなど、いくつか理由が考えられる。

 何よりも仰天したのは、1944年9月、父はドイツ軍を離脱してポーランド軍に加わっていた。ドイツ軍にいたとは、聞いたことがなかった。

 こういった事実を基に、ヴォイダクさんは数多くの書籍・インターネットを通して情報を集める。関係すると思われる場所にはカナダ国外でも足を運んだ。ポーランド孤児の子孫たちの集まりに積極的に参加して話を聞く。そして孤児たちの話をまとめ、父パヴェルにも起こったと考えられる状況を推定した。

■シベリアのポーランド孤児

 シベリアのポーランド孤児とは、ロシア革命(1917年)やそれに続く内戦による混乱で、シベリアに取り残されたポーランド人の子どもたちのこと。親は、1800年代にロシア帝国によりシベリアに流刑された政治犯、1800年代末から1900年代初頭にシベリア鉄道敷設に関連した技術者や労働者、第1次世界大戦中の1915年、ドイツ侵攻によりロシアへ退去を余儀なくされたポーランド人たち。

 革命を起こした急進派は、ポーランド人を反革命的とみなし、さげすんでいた。職を追われ、配給制となった食料や衣料を受け取ることができなくなったポーランド人は難民となる。流れる方角は東。

 革命や内戦が起こる前、シベリアには4万から5万人のポーランド人がいた。革命後、難民となり極東方面へ逃げたポーランド人は15万から20万人に膨れ上がった。(1) その混乱の中で、親が殺されたり、親からはぐれたりした子どもたちは、家もなく、飢餓・病気・危険にさらされながらシベリアに置き去りにされていた。ヴォイダクさんは、1918年から19年、当時6歳であった父パヴェルと彼の両親は、この災いの渦の中にいたと考える。

■シベリアからの脱出

 ロシア極東ウラジオストクに住むポーランド人政治活動家アンナ・ビエルキェヴィッチは、やはり同地で活動していた医師ユゼフ・ヤクブキェヴィッチらと、1919年、「ポーランド救済委員会」を組織。シベリア東部や満州のハルビンで浮浪する数多くのポーランド人の子どもたちの悲惨な状況を目の当たりにし、彼らをポーランドへ帰国させるための活動を始める。

 アンナ・ビエルキェヴィッチは、孤児たちについてこう書いている。

 「列車の数が足りないため、兵士たちは吹雪の中でも難民を列車から追い出すことがある。目撃者の一人は、ある列車の中をのぞきこんだところ、複数の遺体と、亡くなった母親の傍らで凍死している少年を目にしたと語った。親たちは自分たちの服を子どもたちにかけ、持っている食べ物を与え、子どもたちの身に何が起こるかも知らずに死んでいく。凍死した親たちの遺体が彼らの赤ん坊の間に横たわり、青ざめた顔には凍りついた涙が残されているのを彼は見た。数多くの子どもたちがさまよっていて…」(2)

 また、同委員会のユゼフ・ヤクブキェヴィッチは、次のように報告している。

 「私たちは、ロシア人や中国人の避難所に身を隠していたポーランド人の子どもたちを探し続けた。廃列車の中で住んでいる子どもたちもいれば、軍の兵舎に逃げ込んだ子どもたちもいた。近くにポーランド人がいると聞けば、私たちは足がふらつくまで歩き回って彼らを探し出した」(3)

 1920年4月、アンナ・ビエルキェヴィッチは、救援の協力者を求めてまず中国の上海へ向かった。しかし成果は得られなかった。同年6月中旬、北海道に渡りカトリック教会で協力を懇願したが即座に拒否された。そこで東京へ行き可能性をさぐる。戦争関連の省庁から外務省へとまわり孤児の窮状を説明。援助協力を嘆願すると、孤児たちを運んでくれるという。さらに、日本赤十字社を訪ねると全面的な支援を約束してくれた。こうして日本政府・陸軍・海軍と日本赤十字社の連携によるポーランド孤児救済が実現することになる。

 同年7月20日、ウラジオストクから日本陸軍の輸送船・筑前丸で最初の56人の孤児が出発。同23日に福井県敦賀港に到着した。

 敦賀港では、20年後の第2次世界大戦中、リトアニア駐在の領事代理・杉原千畝が発給した日本通過ビザ、いわゆる「命のビザ」を携えたポーランド国籍ユダヤ人を主とする数千人の難民が上陸。敦賀市ではこれらポーランド孤児とユダヤ難民に関する出来事を広く知ってもらおうと、資料館「人道の港 敦賀ムゼウム」で紹介している。

(後編に続く)

資料館「人道の港 敦賀ムゼウム」
資料館「人道の港 敦賀ムゼウム」
同館前、ポーランド孤児とユダヤ難民の上陸地点をしるしたタイル(ともに2025年5月、高橋文撮影)
同館前、ポーランド孤児とユダヤ難民の上陸地点をしるしたタイル(ともに2025年5月、高橋文撮影)

(1) Paul Wojdak, Escape from Siberia, Escape from Memory, FriesenPress, 2024, p.67 / Teruo Matsumoto and Wieslaw Theiss, Siberian Children: Japan’s Aid for Polish Children, 1919-1921, Warsaw, Wydawnictwo Sejmowe, 2018, p. 178.

(2) Wojdak, Ibid., p.85 / Matsumoto and Theiss, Ibid., p.182-183.

(3) Wojdak, Ibid., p.84 / Matsumoto and Theiss, Ibid., p.179-180.

(取材 高橋文)

高橋 文(たかはしあや)

カナダ在住ジャーナリスト。カナダの文化・歴史に関する記事をカナダと日本の新聞に執筆。

第2次世界大戦中、リトアニアで外交官・杉原千畝から日本通過ビザを受給しカナダ・アメリカ・オーストラリアをはじめとする国々へ渡ったユダヤ難民と子孫らに関する調査・取材記事を多数執筆。カナダと日本での「杉原ビザ」関連の常設・企画展示に参画。関連シンポジウムやセミナー等で講演を行っている。

著書:
「太平洋を渡った杉原ビザ:カウナスからバンクーバーまで」(岐阜新聞社、2020年)
「命のビザで旅した子どもたち:暗やみから光さすほうへ」(同、2021年)

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『太平洋を渡った杉原ビザ』

リッチモンド・アートギャラリーで日本人アーティスト作品を紹介「Ongoing/Pacific Crossings」開催中

「ハッピーランド」の入り口。2026年7月25日、リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ
「ハッピーランド」の入り口。2026年7月25日、リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ
左から、村田さん、原さん、小川さん、Daceyさん、柴田さん、同ギャラリーで展示技術者として今回の展示会をアシストした宮坂麻衣子さん。2026年7月25日、リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ
左から、村田さん、原さん、小川さん、Daceyさん、柴田さん、同ギャラリーで展示技術者として今回の展示会をアシストした宮坂麻衣子さん。2026年7月25日、リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ

 カナダ・リッチモンド市のリッチモンド・アートギャラリーで「Ongoing/Pacific Crossings」が開催されている。日本人アーティスト11人とバンクーバーを拠点とするカナダ人アーティスト、合わせて50作品以上が展示されている。

日加アーティスト交流から生まれた作品展

 今回の展示会は、東京・吉祥寺を拠点とするアートスペース「Art Center Ongoing」の活動と、そこで活動するアーティストたちを紹介する企画展。2008年に小川希さんによって設立されたOngoingは、商業ギャラリーや美術館とは異なる「オルタナティブ・スペース」として、実験的な表現を支援し続けてきたという。

 インディペンデント・キュレーターの原万希子さんは、バンクーバーを拠点に太平洋を越えた文化交流を進めるキュラトリアル・リサーチ・グループ「Pacific Crossings」を同ギャラリーのShaun Dacyさんと他2人で立ち上げたと説明。「今回のプロジェクトは、Ongoingの活動とバンクーバーの若いアーティストをつなげられないかと考え、2019年に小川さんをリサーチ・レジデンスで2週間バンクーバーへ招いたことから始まっています」。地域のアーティストやスタジオをめぐり、関係を築いて、今回の展示会へと結実したという。 今展示会は原さんと小川さんが共同キュレーターを務めている。

「見たことのないもの」と出会う場所

会場には多くの作品が展示されている。2026年7月25日、リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ
会場には多くの作品が展示されている。2026年7月25日、リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ

 小川さんは、Ongoingを1階にカフェ、2階にギャラリー、さらにライブラリーやアーティスト・イン・レジデンス機能を備えた場所と話す。所属作家を持たず、小川さんが選んだ作家による展示を約2〜3週間ごとに開催し、年間20本以上の展示会を実施。多くのアーティストが集まり、情報交換や議論を重ねる「創造のハブ」として機能しているという。 18年前に始まった時に「変な場所ができた」と口コミで広がり、今では海外からのレジデンス参加者も多く、Ongoingから海外へと送り出すこともある。そうしてネットワークが大きくなっていったと振り返る。

 原さん、Dacyさん、小川さんが、「何か一緒にやろう」という話になり、今回の「Ongoing/Pacific Crossings」が実現した。原さんは、メインストリームの美術館や商業ギャラリーとは異なる新しい実験や表現を試せるオルタナティブ・スペースが重要と強調する。小川さんも同じ思いを共有する。そうした「オルタナティブなアートシーンが東京に存在していること、それが国際的につながっていく可能性を感じてほしい」と話す。18年間、東京の一角で続いてきた実験的なアート環境そのものを紹介することに意義があるという。

 「こんなものは見たことがない」「これは何だろう」という発見こそが、この展示会の醍醐味。日本文化の表層的な紹介ではなく、「現在進行形で生まれている実験や創造の現場を見てもらいたい」と語った。

村田峰紀さん「背中で語る」パフォーマンスを通して表現

村田さんと白いシャツの背中をキャンバスにした作品「背中で語る」。2026年7月25日、リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ
村田さんと白いシャツの背中をキャンバスにした作品「背中で語る」。2026年7月25日、リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ

 「自分自身が言葉に対してコンプレックスがあって」。作品について聞くと、村田さんはそう切り出した。養護学校やアフタースクールに通っていた経験があると明かす。学校の中では優等生だったが、言葉に対しては劣等生。吃音もひどかった。「そういう幼少期がありました」。声変りをすると、より声が届かないような感覚に。

 しかし「だんだんそれを『自分らしさ』というアイデンティティに捉えるようになりました。言葉として出てこなかった言葉が、自分の中に溜まっているような感覚があったんです。それをどうにか表現しようとこのパフォーマンスが生まれました」。

 ギャラリーの入り口を抜けていくとたくさんの白いシャツがぶら下がっている。村田さんの作品だ。シャツの背中には絵とも模様ともつかない線の群れが描かれている。

 「日本語には『背中で語る』という言葉がありますよね。何もしゃべらないけど背中を見せることで相手に何かを伝える。手を動かしている姿や行動を見て、言葉ではなく、そこから学んでいく。それを自分の言葉に置き換えたら、『背中で語る』ということがアクションとしてできるんじゃないかと思ったんです」

 初めは言葉に対する黒と赤の作品だった。黒は文字、赤は訂正。しかし、それだけではないと気付く。「自分がそこに立っているということは周りに何かがあるということ。感情や時間や歴史が自分の周りにたくさんあると思うので、その時の感情を色でぶつけています」

パフォーマンスを披露する村田さん。2026年7月25日、リッチモンド市。
パフォーマンスを披露する村田さん。2026年7月25日、リッチモンド市。

 背中に描くとき鏡などは使っていない。自分の感覚だけでペンを動かす。使っているのはジェルクレヨン。「普通のクレヨンよりも柔らかい素材です。なので背中にも描きやすい」。デザインは「(木をイメージした作品を指しながら)こういうふうにしたいなと思いながら、茶色でこの辺にこう描くとこういうデザインになるだろうという感じです」。オープニングの日にはギャラリー前の広場でパフォーマンスを披露した。

 今回は100点が展示されている。台湾に3カ月滞在した時の作品という。「台湾にいながら感じたことだったり、逆に海外にいることで日本を思ったり」を表現した。「色々な場所で感じたこと、その場所ごとに思ったことを考えながら描いています」。

 自身の感情を描けるようになり言葉へのコンプレックスは克服できたのかと問うと、「今こうして話していますし、『話せなかった』という言い方も違うかもしれませんが、克服したというよりは認めたという感じです。うまく話せいないことも一つのコミュニケーションだと。これまでは言葉が話せないことでコミュニケーションが取れていないと思っていたんですけど、今は逆にそれも自分らしさなんだと思えるようになりました」と語った。

柴田祐輔さん「ハッピーランド」夢と現実のはざまで

柴田さん。写真のイチゴは日系カナダ人が働いたストロベリーファームを象徴する。イチゴの種は全て取り除いている。2026年7月25日、リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ
柴田さん。写真のイチゴは日系カナダ人が働いたストロベリーファームを象徴する。イチゴの種は全て取り除いている。2026年7月25日、リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ

 展示会場の最も奥に巨大なオブジェがある。カラフルなLEDライトがピカピカ光るそこは「ハッピーランド」。柴田さんの作品だ。

 今年初めにはリッチモンドに2週間滞在して作品のリサーチをした。日系カナダ人や留学生などに話を聞いた中で共通して印象に残ったのがカナダへの夢と現実のギャップだった。戦前に夢を抱いてカナダに渡った日本人。現実は差別との戦いだった。カナダで英語を使って働くことを夢見て渡加する留学生。来てみると無償インターンシップすら見つからない現実。「時代は違うし、その過酷さも全然違うけれど、どこかつながっているところが自分の中で見えてきたんです」。

 大きな夢とその先にある現実。「そのギャップにこそ価値があるんじゃないかと思いました」。

「ハッピーランド」の入り口。2026年7月25日、リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ
「ハッピーランド」の入り口。2026年7月25日、リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ

 キラキラした入り口の大きな穴を抜けると「そこは廃校になった学校という設定です」と説明する。外側のキラキラした華やかさとは対照に広く薄暗い部屋には、日系カナダ人と留学生の思いを代弁するさまざまな言葉があちらこちらに隠されている。強制移動先だったシュガービーツ農園を象徴する砂糖の近くに、「写真婚」を表現する写真がないアルバムに、鉛筆の削りかすが残る机の上に、白板のレールに、思いが刻まれている。メッセージは全部で11カ所。

 「ハッピーランド」とは日系カナダ人が1942年、強制収容所に送られる前に集められたヘイスティングスパーク(現PNE)の馬小屋近くにあった遊園地の名前で、「皮肉を込めて」付けた。キラキラした感じは、滞在中にリッチモンド市でモール前の駐車場に設置されていた移動遊園地にヒントを得た。「ある日突然遊園地が現れて、またさっとなくなる。夢の後みたいな感じ。そのハリボテ感が合ってるなと思ってハッピーランドと組み合わせました」。

 そこにぽっかり開いた穴は日系カナダ人のアイデンティティ喪失を表現する。カナダ人と結婚して家族もできて幸せだけど、どこか「Belong」していない感覚。「みんなどこか穴が開いているんじゃないですかねという話がインタビューの中にあって、それがすごく大きかったんです」。

写真のイチゴから取り除いた種で描いたメッセージ。 “There’s a hole in everyone, isn’t there?” 2026年7月25日、リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ
写真のイチゴから取り除いた種で描いたメッセージ。 “There’s a hole in everyone, isn’t there?” 2026年7月25日、リッチモンド市。撮影 日加トゥデイ

 今回の作品は「みんな夢と現実のはざまでサバイブしている。希望通りにいったり、いかなかったりしながら生きている感じ」を全体で表現している。

 柴田さんは以前アルバータ州エドモントンに1年間滞在したことがあるという。今回作品のために滞在したバンクーバーの印象を聞くと「全然違いますね」と表情を崩す。「(エドモントンは)もっとローカルな感じ。でもそれがすごくカナダっぽい感じです。バンクーバーは日本に近い気がします。おしゃれな感じもするし。ほぼずっと仕事しかしていませんでしたが、楽しみました」と笑った。

 「Ongoing / Pacific Crossings」は10月4日まで。9月12日には原さんによる日本語ツアーも行われる。

Ongoing / Pacific Crossings

期間:7月25日~10月4日
会場:リッチモンド・アートギャラリー(Richmond Cultural Centre:7700 Minoru Gate, Richmond)
ウェブサイト:https://www.richmondartgallery.org/
原万希子さんによる日本語ツアー:9月12日(土)午後2時から。予約推奨。(英語でのツアーは同日午後1時から)

(取材 三島直美)

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建友会、ジャパンフェアでの募金をチルドレンズホスピタルに寄付

左から、建友会の牧田さん(役員)、BCチルドレンホスピタル担当者、建友会松原会長。2026年5月14日、バンクーバー市。写真提供 建友会
左から、建友会の牧田さん(役員)、BCチルドレンホスピタル担当者、建友会松原会長。2026年5月14日、バンクーバー市。写真提供 建友会
左から、建友会の牧田さん(役員)、BCチルドレンホスピタル担当者、建友会松原会長。2026年5月14日、バンクーバー市。写真提供 建友会
左から、建友会の牧田さん(役員)、BCチルドレンホスピタル担当者、建友会松原会長。2026年5月14日、バンクーバー市。写真提供 建友会

 建友会は5月14日、バンクーバー市のBCチルドレンズホスピタルを訪問し、765.21ドルを寄付した。

 寄付金は2026年4月11日、12日にバンデューセン植物園で行われたバンクーバー桜まつりの日系イベント「さくらデイズ・ジャパンフェア」で、同会のブース「風車体験コーナー」で募金箱を設置して集まった参加者からの寄付。同会は毎年ジャパンフェアに参加し、ブースで募金活動を継続。2024年は同年1月に起きた能登半島地震の被災者支援として寄付したが、毎年BCチルドレンズホスピタルに寄付している。

 今年のジャパンフェアも盛況で、毎年人気の風車体験コーナーにも多くの人が訪れた。建友会はホームページで「参加いただいた皆様、本当にありがとうございました」と募金活動協力への感謝を掲載している。

 建友会はバンクーバー地域の建築・建設関係者のコミュニティ。グレーターバンクーバーとその近郊を中心に活動する建築・建設及び周辺産業に従事する会員が互いに切磋琢磨し、幅広く深い技術力を持った集団に成長することと、会員それぞれの事業の発展を促す環境整備と相互協力を深めることを目的に、2012年11月に設立された。

左から、建友会の和田さん(役員)、BCチルドレンホスピタル担当者、建友会松原会長。2026年5月14日、バンクーバー市。写真提供 建友会
左から、建友会の和田さん(役員)、BCチルドレンホスピタル担当者、建友会松原会長。2026年5月14日、バンクーバー市。写真提供 建友会

(記事 三島直美)

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「パウエル祭50年」~投稿千景~

エドサトウ

 初夏に息子と日本を旅した際に、宿の実家から車で一時間もしない名古屋市東部に東山動物園があり、少しばかり小雨がぱらつく不安な天気の日であったが、出かけて一日、朝の開園から4時近くまで、園内を散策をした。

 その時に少し階段を登った高台の展望台の近くにカバのいる水槽公園で、水中に長く潜っているカバの動きを面白く興味深く眺めていて、「あんなに、長く息も吸わずに水の中にいれば、死んでしまうのに、カバはバカか?」と思えば、そうでもなく長生きをしている。

 調べてみると、カバは大きな肺の中に空気を留めたり、筋肉の中に酸素を効率よく蓄えられる特殊なたんぱく質を多く持っているために、最大5分から8分間、水中にもぐり続けることができるらしい。

 ぼくも大きな国カナダで夏、パウエル祭の座ダイコンの演劇活動をとおして元気をもらい、高齢化社会を元気に静かにバンクーバーで生きている。日本は猛暑の夏なのに、パウエル祭翌日のここの朝の気温16度ぐらいなのは、体が楽なのでカバのように長生きできるかもしれない?かばの寿命は人間でいえば80歳くらいまでいきるそうです。

 パウエル祭50周年、おめでとうございます。

2026年パウエル祭での座ダイコン。オープニングの一場面。
2026年パウエル祭での座ダイコン。オープニングの一場面。

投稿千景
視点を変えると見え方が変わる。エドサトウさん独特の視点で世界を切り取る連載コラム「投稿千景」。
これまでの当サイトでの「投稿千景」はこちらからご覧いただけます。
https://www.japancanadatoday.ca/category/column/post-ed-sato/

韓国代表スーパースター擁するLAFCとの西カンファレンス首位攻防は引き分け「勝ち点3を取れるように」とGK高丘

LAFCの攻撃を防ぐホワイトキャップス11。2026年8月1日、BCプレース。LAFC戦。写真 斉藤光一/日加トゥデイ
LAFCの攻撃を防ぐホワイトキャップス11。2026年8月1日、BCプレース。LAFC戦。写真 斉藤光一/日加トゥデイ
FWソンは常にGK高丘を脅かす...。2026年8月1日、BCプレース。LAFC戦。写真 斉藤光一/日加トゥデイ
FWソンは常にGK高丘を脅かす…。2026年8月1日、BCプレース。LAFC戦。写真 斉藤光一/日加トゥデイ

 韓国代表スーパースター擁するLAFCとの西カンファレンス首位攻防戦は引き分けに終わった。FIFAワールドカップのため3カ月ホームから遠ざかっていたバンクーバー・ホワイトキャップス。この日BCプレースには4万人が詰めかけた。

8月1日(BCプレース:40,086)

バンクーバー・ホワイトキャップス 1-1 ロサンゼルスFC

 試合序盤から圧倒的に押していたホワイトキャップスだったが、37分、一瞬の隙をつかれLAFCソン・フンミンが決め先制する。ホワイトキャップスは後半も徹底的に攻めるがゴールに結びつかず。しかし76分、ミュラーがPKのチャンスに確実に決めて同点。試合はそのまま引き分けた。

MFミュラーのPKが決まる。今週はバンクーバーがプライドウィークだったため、この日はプライドゲームとして開催。ネットもポールのフラッグもプライドカラーに。2026年8月1日、BCプレース。LAFC戦。写真 斉藤光一/日加トゥデイ
MFミュラーのPKが決まる。今週はバンクーバーがプライドウィークだったため、この日はプライドゲームとして開催。ネットもポールのフラッグもプライドカラーに。2026年8月1日、BCプレース。LAFC戦。写真 斉藤光一/日加トゥデイ

「ソンのゴールは一瞬の隙をつかれた」

 GK高丘陽平は「ほとんど自分たちがゲームを支配していた」と振り返った。しかしLAFCがずっと守りを強いられる中でカウンターを狙っているのが分かっていながら「一瞬の隙をつかれてしまった」と反省。良い選手が揃っているチーム相手にあのような場面も抑えることが大事と語った。

 ソレンセン監督は「全体としては良い試合だったと思うが、相手のすばらしいゴールでやられた感じはあった。ああいうゴールをどうやって止めるかっていうのはいつも話し合っていることではあるが」と高丘と同様の見解を示した。オフサイドになった幻のゴールも含め、試合序盤に何度もゴールチャンスがあったが、決めきれなかった。監督は相手の守りがよかったと語ったが、「選手にしてみれば良い試合運びをしているのに1点を追いかける展開になってストレスだったと思うが、焦らずにいいバランスでプレーできていた」と選手をねぎらった。

試合終盤の88分。GK高丘がLAFCソンと1対1に。2026年8月1日、BCプレース。LAFC戦。写真 斉藤光一/日加トゥデイ
試合終盤の88分。GK高丘がLAFCソンと1対1に。2026年8月1日、BCプレース。LAFC戦。写真 斉藤光一/日加トゥデイ

 チームは7月後半にレギュラーシーズンが再開して以来、まだ勝ち星がない。この日は終始攻めていただけに勝ち点3がほしい試合だった。高丘も「勝ち切るチャンスもあったと思うので、決め切って勝ち点3を取れるチームにならなければ」と悔しがった。

 首位攻防が引き分けたため、順位は変わらず、勝ち点34で並ぶも試合数が少ないホワイトキャップスが西カンファレンス首位を堅持、LAFCは2位。3位には1ポイント差でサンノゼ・アースクエイクスが追い上げている。

3カ月ぶりのBCプレース、韓国ファンも多く

 ホワイトキャップスには4月25日以来のホームゲームとなった。BCプレースが6月11日から7月19日まで開催されたFIFAワールドカップのバンクーバー会場となったため、5月は全試合を、7月もレギュラーシーズン2試合をアウェイで戦った。

 久しぶりのホームゲームに「4万人くらい入って雰囲気も良かった」と高丘。ただ「人工芝が新しくなっていたので多少やりづらさはあった」と笑った。

 この日はW杯出場を終えたばかりの韓国代表ソン・フンミンがプレーするとあって、会場には多くの韓国ファンが詰めかけた。前半にソンがゴールを決めると会場から大歓声が起きた。

8月はリーグスカップ開幕で強硬な試合日程が続くも「準備はできている」と高丘

 W杯も終わりようやく再開したMLSレギュラーシーズンだが、8月はリーグスカップが開幕する。MLSとメキシコのリーガMXに所属する3カ国2リーグ36チームによるトーナメント。ホワイトキャップスは4日、7日とBCプレースで、11日にメキシコで試合がある。勝ち進むと8月25日以降に準々決勝が始まり、9月6日に3位決定戦、決勝が行われる。

 その合間を縫うようにMLSレギュラーシーズンの試合が予定され、8月は1日の試合も含めて8試合がある。9月も同様で、キャップスはカナディアン・チャンピオンズシップが2試合あり7試合が予定されている。リーグスカップで予選を突破すればさらに試合は増える。

 それでも高丘はW杯でチームがオフの時にリフレッシュしながら、「体を動かしながらコンディションはキープしていたのでいい感じで体は作れていると思います」とこれからの過密スケジュールに向け「準備はできている」と笑顔を見せた。

8月のホームゲームhttps://www.whitecapsfc.com/

8月4日 7:30pm アトランテ(メキシコ)リーグスカップ
8月7日 7:30pm フアレス(メキシコ)リーグスカップ
8月19日 7:30pm ヒューストン・ダイナモFC
8月22日 6:30pm FCダラス

LAFCの攻撃を防ぐホワイトキャップス11。2026年8月1日、BCプレース。LAFC戦。写真 斉藤光一/日加トゥデイ
LAFCの攻撃を防ぐホワイトキャップス11。2026年8月1日、BCプレース。LAFC戦。写真 斉藤光一/日加トゥデイ

(取材 三島直美/写真 斉藤光一)

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“Stories of Japanese Canadians: Memories for the Future Generation” Mr. Jim Kojima

Mr. Jim Kojima/ジム・コジマさん
Mr. Jim Kojima/ジム・コジマさん
Mr. Jim Kojima/ジム・コジマさん
Mr. Jim Kojima/ジム・コジマさん

Carrying the teaching of His Judo Master: “For the Community”

Mr. Jim Kojima (Yuzuru Kojima)

Born in March 1938, Steveston, British Columbia
Moved to Lethbridge, Alberta in 1942, moved to Grand Forks in 1948, and returned to Steveston in 1951
Former president of Judo Canada
Grandparents originally from Gobo, Wakayama Prefecture

To a Farm in Lethbridge, Alberta

In 1942, when the Canadian government’s internment policy began, the Kojima family was forcibly relocated by train to Lethbridge, Alberta. Mr. Kojima was four years old at the time. After passing through many tunnels from Vancouver, the train first arrived in Calgary. “I remember my mother thought, ‘Well, Calgary doesn’t look like a bad place,'” he said.  But their journey continued, and their final destination was Lethbridge.

Lethbridge, a town located about 215 kilometres south of Calgary, is known for its harsh winters, with average temperatures around minus 10 degrees Celsius, sometimes dropping to minus 40. The area has a dry climate and is notorious for its strong winds.

He recalled, “When we got to the railway station, there was a bunch of farmers all lined up there, and when your name was mentioned, that’s the farm you went to.” The Kojima family—consisting of his parents, grandparents, one other grandfather, and himself—numbered six in total. Internment policies allowed families to stay together if they went to a farm.

“We lived in a chicken coop, and it was about a 10 by 12 (feet) chicken coop. And in the wintertime, the chicken coop’s eaves were open. So, snow would blow in from the roof, and my mother would stuff it up with clothes or paper or cardboard,” he explained. Despite the hard conditions, he said the Blair family, the farmer they stayed with, were “amazing human beings.” “If they killed (a) pig or a cow, they gave you the meat. They were very friendly,” he added. The Blairs had four sons, and Mr. Kojima grew up with them as though they were brothers. “I couldn’t speak a word of English in those days. I only spoke Japanese, but playing with kids, you learn to speak quickly.” They also attended school together.

The Blair family was very poor farmer, so Mr. Kojima’s parents often considered moving to another farm, but decided against it. Ultimately, they stayed for five years. “Japanese people are very loyal,” he reflected.

アルバータ州レスブリッジとブリティッシュ・コロンビア州グランドフォークス/Lethbridge, Alberta and Grand Forks, British Columbia
アルバータ州レスブリッジとブリティッシュ・コロンビア州グランドフォークス/Lethbridge, Alberta and Grand Forks, British Columbia

After 1947, the Kojima family moved to other farms. In December 1948, they relocated to Grand Forks, where an uncle lived. There was a community of Japanese Canadians who had also been displaced from Vancouver. By 1951, the family returned to Steveston.

Reflecting on farm life, Mr. Kojima recalled his father and other Japanese workers on sugar beet farms. In the winter, they worked at the sugar beet factory, but they were relegated to outside tasks and denied access to indoors, even for breaks or lunch. “In the wintertime, in 30 to 40 below weather, their lunch boxes were frozen, what they had in, it was frozen”, he said. “Somehow, I don’t remember listening to a lot of monku (complaints). They seem to suck it up somehow.”

Back to Steveston, Where Japanese Canadian Fishermen Were Needed

Mr. Kojima recalled that when his family returned to Steveston, Vancouver-based fishing companies were actively recruiting Japanese Canadian fishermen from across the country. “The fishing companies like BC Packers (British Columbia Packers Ltd.), Nelson Brothers (Nelson Bros. Fisheries Ltd.), and Great West (Great West Packing Co.), they went across Canada, recruiting Japanese to come back. Because the more Japanese they can get back, the more money the company’s going to make (because) they were good fishermen.”

At the time, these companies offered loans that would allow the fishermen to buy a house in the future. The fishermen never had any issue with that. “The fishing companies drew a lot of respect and trust in the Japanese fishermen,” he noted. The fishermen worked diligently, boosting the company profits. This arrangement was mutually beneficial and encouraged many Japanese Canadians to return to Steveston.

The Kojima family lived in company housing provided by Nelson Brothers until 1956, when they purchased a home and moved into it.

Trust in the Steveston Japanese Canadian Community Built by the Issei and Nisei

Steveston is essentially the only Japanese Canadian community district in Canada. Mr. Kojima reflects that its continued existence, even after the end of internment, is largely due to the contributions of the issei (first-generation) and nisei (second-generation) Japanese Canadians.

The history of Steveston is deeply intertwined with the history of Japanese Canadians. He highlights notable figures closely associated with Steveston, such as Manzo Nagano, the first recognized Japanese immigrant who arrived in 1877, as well as pioneers like Tomekichi Honma, Gihei Kuno, Thomas Shoyama, and Asayo Murakami. Their contributions extended beyond Steveston’s Japanese community, benefitting Canada as a whole.

Among their achievements, Mr. Kojima emphasizes the establishment of a hospital in Steveston in 1898 by the Japanese Canadian Fisherman Benevolent Association. This hospital was the first in Canada to adopt a universal healthcare system, and it served not only Japanese Canadians but also the local hakujin (white) community. “Caucasian women that were pregnant couldn’t make it in time for St. Paul’s (Hospital in Vancouver), they used the Japanese hospital”, he said. “So, some of my hakujin friends were born in the Japanese hospital.” The hospital became as a community resource for all, and served as a model for Canada’s current universal healthcare system, a contribution attributed mainly to Tommy Douglus and Thomas Shoyama.

After the war, plans to build a community centre in Steveston emerged. While the Issei hoped for a dedicated Japanese community centre, the Caucasians community also wanted such a facility. Ultimately, the two groups agreed to collaborate. Mr. Kojima respects the willingness of the issei pioneers to work with the broader community.

Conditions for this collaboration included building a judo room and allowing kendo practice in the gymnasium. The Japanese community contributed 15,000 dollars from Association. The centre opened in 1957. Additional taxes on Steveston residents covered the remaining costs, and the debt was fully paid off in 1977.

This cooperation led to the construction of the Martial Arts Centre, which opened on April 18, 1972. Supported by the hakujin community, it features a Japanese architectural design. “To me, the first thing that cemented the relationship between the Japanese and Caucasians was the building of the original Steveston Community Centre,” he adds.

When asked why the Steveston Japanese Canadian community has been so successful, Mr. Kojima said, “I think it’s the support of the City of Richmond. And, a lot of hakujin my age who grew up here have a strong passion and relationship with the Japanese.” This bond was reflected in the sister-city agreement between Richmond and Wakayama City in 1973. Despite challenges due to population differences, both cities worked hard to make the relationship official, and Wakayama’s mayor ultimately approving the agreement. Since 1975, high school students from both cities have exchanged visits. Today, this relationship is recognized by the Canadian government as one of Canada’s most active sister-city relationships.

“I think the Japanese were recognized as good citizens of Richmond and contributed to the city and the people. I just feel we’re well-respected by the community. And, everything we do, we tried to do for the benefit of everybody, not just (for the) Nikkei,” Mr. Kojima said. He emphasizes this trust earned from the city and the community “goes back to (the) Issei and Nisei. I think they paved the path for respect and the good manners that they had.”

Two Japanese Canadian Communities: Steveston and Vancouver

“Steveston history is somewhat different from Vancouver Japanese history,” Mr. Kojima explains, noting that about 75% of the Japanese immigrants in Steveston came from Wakayama Prefecture.

Steveston, located at the southwest tip of the City of Richmond and facing the Fraser River, lies just south of Vancouver. After Gihei Kuno arrived from Mio Village in Wakayama Prefecture in 1888, he invited fellow fishermen from the area, forming a fishing community primarily made up of Wakayama natives.

When the internment policy ended in 1949 and Japanese Canadians returned to Steveston, Mr. Kojima felt a “rift” between the Steveston and Vancouver Japanese Canadian communities. This divide became particularly evident during the establishment of the Japanese Canadian Cultural Centre (now the Nikkei National Museum & Cultural Centre).

In 1988, the Japanese Canadian redress movement culminated in a compensation agreement with the Canadian government. The funds from the agreement were used to build a cultural centre. While fundraising in Richmond, Mr. Kojima approached an elderly Issei and asked for support, explaining that the centre would be built in Burnaby. “He said, ‘Never! Before the war, the Japanese in Vancouver looked down on us.(戦争前にバンクーバーの日本人にバカにされた) Never!'” he recalled.  Mr. Kojima knew there was a rift between the communities but admitted, “I knew there was something there, but I didn’t realize how bad it was.” Despite this, he and others in the slightly older generation felt it was better to have the centre in the Vancouver area than in Toronto or Montreal.

Additionally, many Issei and Nisei opposed the idea of receiving individual compensation. Since many who experienced internment had already passed away, Mr. Kojima added, “Many of the fishermen said to me, ‘kitani okane (dirty money),’ I don’t want to, my friends have already passed away‘もう亡くなってから僕だけお金もらうの間違いや (It’s wrong for just me to receive the money after many already passed away).'” This sentiment was widely shared among the Japanese Canadian fishermen in Steveston.

“I just don’t feel that Richmond Japanese feel the same way as other groups,” Mr. Kojima said, expressing the sentiments of the issei generation at the time.

Carrying the Teaching of His Judo Master: “For the Community”

In 1953, Mr. Kojima’s judo journey began when his parents told him, “Judo is starting. You’re gonna go to judo.” At that time, there were 10 black-belt fishermen in Steveston. However, the environment was far from ideal—there were no judo uniforms or tatami mats, and everything was improvised. Nevertheless, 81 children started learning judo, and five of them, including Mr. Kojima, are still doing judo on the mat. “We’re all in our 80s. Three of us are in our 86, and two are 84,” he laughs.

Mr. Kojima earned his black belt in 1957. By the 1960s, he was serving as vice president of Judo Canada, and from 1988 to 1994, he was its president. In 1974, he became an international judo referee, officiating at the Olympics and world championships. He also served as referee director of the International Judo Federation for six years. Reflecting on his judo career, he said, “I was very fortunate. I think I rode the wave. And I just kept riding the wave, and my timing of going up the ladder was just perfect.” At key milestones, he would tell his progress to his sensei (master), who once told him, “If you ever do things for your own benefit, I make you quit. If you do it for everybody’s benefit, I will help you out any way I can.”

Steveston’s connection to Judo runs deep. In 1938, Jigoro Kano, the founder of judo, visited Vancouver. A calligraphy piece he wrote during his visit, bearing the three characters meaning 「達 必 力」 “work hard, persevere, and achieve your goal”(つとむればかならずたっす:“strive and you will achieve”), still hangs in the dojo (practice hall) of the Marshal Arts Centre.

In 1973, the Steveston Judo Club began an exchange program with Tokai University, one of the top judo clubs in Japan. “(It’s a) 51-year relationship with Tokai University and, we have every two years the third-year university judo group about 35 of them, come here for our judo tournament and stay in homestays and stay here a week,” he said. Former Japanese national team members like Yasuhiro Yamashita and Kosei Inoue have also visited in the past.

Mr. Kojima emphasizes the teachings of his sensei: “My judo teacher used to say to me when you’re young, you take everything you can from your teacher, from judo teacher, school teacher, everything you can from people, but someday you have to give back.” Encouraging exchanges among young people—whether through judo or sister city programs—is his way of passing on the values cherished by earlier generations of Japanese Canadians.

“The Japanese isseis and niseis, very few of them complained even after the war when we came back here. I’d go to a Japanese fisherman mending his nets, and I’d say, ‘Ojisan (Sir),speak to me, talk to me about before the war, during the war,’ and they said to me ‘Kojima-san, shikataganai (仕方がない: there was nothing we can do)’. What’s happened, happened. They said we have to look for the future for our children and our grandchildren. If we don’t do that, then we’re not doing what we should be doing. I really admire the Japanese isseis with that kind of attitude,” Mr. Kojima said.

He believes it’s important to pass this torch to the younger generation. That is his way of “giving back.” When speaking to high school students in Japan, he tells the “tamashi (spirit)” that the Issei and Nisei left in Steveston: “Work hard,” “Never give up,” “Hardly ever complain,” “Good manners,” and “Never did things to embarrass the Japanese race.” He explains Steveston’s Japanese Canadians tried to preserve Japanese traditions and culture through cooperation with the city and all its residents. They aim to teach the young people the same spirit, manners, respect, and pride of those who left Japan over a century ago.

Reflecting on history, he remarked, “I think of historical things, and I don’t think we should do it in such a way to be negative, to be positive for future generations.”

(Text: Naomi Mishima)

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日系カナダ人物語「記憶を次世代へ」:ジム・コジマさん「柔道の師の教え『コミュニティのために』を胸に」

Mr. Jim Kojima/ジム・コジマさん
Mr. Jim Kojima/ジム・コジマさん
Mr. Jim Kojima/ジム・コジマさん
Mr. Jim Kojima/ジム・コジマさん

ジム・コジマさん(本名:ユズル・コジマさん)

1938年3月、スティーブストン生まれ
1942年アルバータ州レスブリッジに強制移動、1946年にグランドフォークスへ移動、1951年にスティーブストンに戻る
元カナダ柔道協会会長、祖父母は和歌山県御坊出身

アルバータ州レスブリッジの農場へ

 カナダ政府の強制収容政策が始まった1942年、コジマさん一家はアルバータ州レスブリッジ市へと鉄道で移動した。コジマさんは当時4歳。バンクーバーからトンネルをいくつも抜けて着いたのはカルガリー市だった。「母が『カルガリーもそんなに悪くないかもね』と言っていたのを覚えています」。しかしそれからさらに列車に揺られて到着したのがレスブリッジだった。

 レスブリッジはカルガリーから南に約215キロメートルに位置する町。冬の寒さは平均で氷点下10度、厳しい時には氷点下40度にもなる乾燥地帯で、強風の日が多い地域としても知られている。

 「レスブリッジの駅に着くと、そこには農家がズラリと並んでいました。名前を呼ばれると、そこが自分たちの行き先の農家でした」。コジマ家は両親と祖父母、もう一人の祖父とコジマさんの6人だった。強制収容は収容先が農場の場合は家族一緒に移動できた。

 「住まいはニワトリ小屋でした。冬の時期はニワトリ小屋のひさしが開くと雪が舞い込んでくるので、母は服や紙や段ボールでふさいでいました」。そこの農家のブレア夫妻はとてもいい人だったと振り返る。「豚や牛を殺した時には肉を分けてくれたりして、とても親切でした」。夫妻には4人の息子がいて、兄弟のように育ったという。「(移動した)当時は英語は全く話せなくて、日本語しか話せませんでした。それでも一緒に遊んでいると子どもですからすぐに英語は習得したね」。学校にも一緒に通った。

 ただブレア夫妻はとても貧しい農家だったという。そのためコジマさんの両親は農家を移ろうとして何度も夫妻に告げようとしたが結局言い出せず5年滞在した。「日本人は義理堅いですからね」。

アルバータ州レスブリッジとブリティッシュ・コロンビア州グランドフォークス
アルバータ州レスブリッジとブリティッシュ・コロンビア州グランドフォークス

 1947年に別の農場に移った。1948年12月には叔父がいたグランドフォークスへ。ここにも強制収容でバンクーバーを追われた日系カナダ人のコミュニティがあった。そして、コジマさん一家は1951年にスティーブストンに戻る。

 農場での生活を振り返ったコジマさんは、シュガービート(テンサイ)農場で働いていた父親たちのことを語った。冬にはシュガービート工場で働くが、日系人は屋外での労働の上、昼食や休憩でも屋内に入れなかったという。「氷点下30度、40度の中、お弁当も凍っていたに違いないのに、日系人たちが文句を言っているのを聞いたことがありませんでした。なんとか我慢していたように思います」。

日系人漁師を必要としたスティーブストンへ

 コジマさんたちがスティーブトンに戻った当時は、バンクーバーの漁業会社がカナダ国内を回って日系人漁師をリクルートしていたと振り返る。「BCパッカーズ(ブリティッシュ・コロンビア・パッカーズ・リミテッド)、ネルソン・ブラザーズ(ネルソン・ブラザーズ・フィッシャリー・リミテッド)、グレート・ウエスト(グレート・ウエスト・パッキング・カンパニー)などの会社が、日系人漁師に戻ってくるようにリクルートしていました。日系人漁師が多いほど、会社にとって利益となることが分かっていたのでしょう。それだけ彼らが漁師として優秀だったというです」。

 当時、会社は日系人漁師をリクルートするため、将来的に家を購入するためのローンも用意していた。それは漁師たちにとっても悪い条件ではなかった。会社は「日系人漁師たちを非常に信用していました」。一生懸命働くし、それが会社にとっては利益になる。双方にとって都合がよかった。こうしてスティーブストンに日系人たちが戻ってきた。

 コジマ家はネルソン・ブラザーズ・フィッシャリーの社宅に1956年まで住み、それから家を購入して移り住んだ。

日系一世、二世が築いたスティーブストン日系コミュニティへの信頼

 スティーブストンは、今でもカナダで唯一と言っていい日系カナダ人コミュニティ地区。それを強制収容終了後にも実現できたのは日系一世、二世たちの功績が大きいとコジマさんは振り返る。

 スティーブストンの歴史は日系カナダ人の歴史でもある。1877年に日系移民第一号とされる永野万蔵が到着してから、本間留吉、工野儀兵衛、トーマス・ショーヤマ、村上アサヨと、スティーブストンにゆかりの深い先人たちをコジマさんは紹介した。その功績はスティーブストンの日系コミュニティにとどまらず、カナダ社会にも大きく貢献してきたと話す。

 中でも1898年に日系フィッシャーマン・ベネヴォレント・アソシエーションによってスティーブストンに設立された、カナダで初めての皆保険制度を取り入れた病院は、日系人だけでなく当時の「白人」コミュニティも利用したと説明する。「(バンクーバー市の)セントポール病院まで間に合わない場合は白人の女性も日系の病院を利用しました。私の白人の友達も日系の病院で生まれています」。日系人だけではなく地域の病院として機能していた。この日系病院は現在のカナダの皆保険制度の手本となっている。それはトミー・ダグラスとトーマス・ショーヤマの功績によるところが大きいと紹介した。

 また戦後スティーブストンにコミュニティセンターを設立するとき、日系のコミュニティセンターを希望していた一世たちだが、白人コミュニティも同様にセンターを希望していたため、協力してコミュニティセンターを設立することに同意した。コジマさんはこうした先人たちの協力姿勢を「尊敬する」と話す。条件として柔道部屋を作ること、剣道の練習時には体育館を使用できるようにすることを付けた。アソシエーションは15,000ドルを寄付、センターは1957年にオープンした。引き続き必要な残りの費用はスティーブストンの住民が追加税で負担。20年かけて1977年に完済した。この経験は1972年4月18日にオープンしたマーシャルアート(武道)センター設立にも生かされた。「日系人と白人との強い関係があったからこそ実現したと思います」と振り返る。

 スティーブストン日系コミュニティがうまくいっている理由について、リッチモンド市との良好な関係を挙げる。「私と同世代の多くの白人たちは日系との関係に強い情熱を持っています」。それは1973年のリッチモンド市と和歌山市との姉妹都市提携にも表れた。人口数の差などもありかなり難航したが、最終的には和歌山市長の決断で決定した。1975年からは高校生がお互いの都市を訪問している。今ではカナダで最も交流が盛んな姉妹都市としてカナダ政府にも認められていると胸を張る。

 「日系人はリッチモンド市に貢献する善良な市民として認識され、コミュニティからもリスペクトされていると思います。それは日系がやろうとすることは日系だけではなくコミュニティ全体に利益をもたらすからだと思います」。

 市やコミュニティからの信頼は「戦前の日系一世、二世らが築いてくれた道から来ていると思います」。

スティーブストンとバンクーバー、2つの日系コミュニティ

 「スティーブストンの歴史はバンクーバーの日系の歴史とは少し違うんです」。スティーブストンにいた日系人の約75%が和歌山県からの移民と話す。

 スティーブストンはバンクーバー市南隣のリッチモンド市の南西端に位置するフレーザー川に面する地域。1888年和歌山県三尾村から工野儀兵衛が来て以降、同地から漁師を呼び寄せ、和歌山県出身の漁師コミュニティとなった。

 1949年に強制収容政策が終了し、スティーブストンに日系人が戻ってきたが、バンクーバーの日系コミュニティとは「溝」があったと話す。それが顕著に表れたのが日系センター(現日系文化センター・博物館)設立時だったと振り返る。

 1980年代、日系カナダ人のリドレス運動はカナダ政府との補償合意で1988年に実を結んだ。その時に合意した基金で日系センターが建てられることになった。当時リッチモンドで日系センター建設のための寄付集めをしていたコジマさんは年配の日系一世に日系センターがバーナビー市に設立されるので協力しようと呼び掛けると「その人は『絶対嫌だ』と言ったんです。『戦争前にバンクーバーの日本人にバカにされた』、だから嫌だと」。バンクーバーのコミュニティと溝があるとは思っていたが「これほどまで深いとは思っていませんでした」。コジマさんや少し上の世代はトロントやモントリオールに建てられるなら、バンクーバーに建てられる方がいいとセンター建設に前向きだったと振り返る。

 日系コミュニティ間の溝はそれ以外にも、スティーブストンでは個人が補償金を受け取ることに反対していた一世や二世が多かったことでも分かったという。強制収容を経験した多くの人が亡くなった後だっただけに、「多くの漁師たちが私に言ったのは『汚いお金だ。友達が亡くなってから自分だけお金をもらうのは間違いだ』ということでした」。スティーブストンの多くの日系漁師たちがそう感じていたと言う。

 「リッチモンドの日系人たちは他のグループとは違う感じ方をしていました」と当時の一世たちの思いを代弁した。

柔道の師匠の教え「コミュニティのために」を胸に

 1953年「両親から、柔道が始まるからおまえも柔道を習いに行くぞ」と言われ、コジマさんの柔道人生が始まった。当時スティーブストンの漁師には黒帯が10人。しかし、環境は揃っていなかった。柔道着もなければ、畳もなかった。全てが即席だった。それでも子ども81人が習い始めた。そのうちコジマさんを含め5人は今でも元気で柔道をやっている。「もうみんな80代で、86歳が3人、84歳が2人です」と笑う。

 スティーブストンから始まったコジマさんの柔道歴は、1957年には黒帯となり、1960年代にはカナダ柔道協会の副会長、1988~94年まで会長を務めた。1974年、国際柔道審判となり、その後はオリンピックや世界大会の審判を務めた。国際柔道連盟の審判員理事も6年務めている。こうした柔道人生を「幸運だった」と振り返る。「タイミングが合ったので上手く波に乗った感じです」。そんな中でも節目には師匠に近況を報告した。その時に、「『自分だけの利益のためにやっていたならすぐに辞めさせていた』と言われました。でも『みんなのためにやるなら私のできることならなんでも手助けしてやる』と」。

 スティーブストンと柔道の関係は深い。1938年には柔道の祖、嘉納治五郎がバンクーバーを訪問。その際に書いた書「達 必 力(勤めれば必ず達す)」が道場に掛けられている。

 1973年にはスティーブストン柔道クラブは東海大学と交流をはじめ、「51年間交流が続いています。2年に一度は3年生35人くらいが来て、柔道大会やホームスティをしています」。元日本代表の山下泰弘さんや井上康生さんも訪れている。

 コジマさんは「師匠はいつも、『若いうちは師匠や学校の先生など多くの人から全てのことを吸収すればいいが、いつかそれは恩返しとして返さなければいけない』と言っていました」。

 柔道でも姉妹都市でも若い人の交流は大切だと語る。それは先人から受け継いだ日系人が大切にしていたものを若い世代へと引き継ぐコジマさんの「恩返し」でもある。

 「日系の一世・二世は戦争が終わってもほとんど愚痴を言いませんでした。漁師たちが網を補修しているところに行って『おじさん、戦争前や戦争中の話を聞かせてよ』と言っても、『コジマさん、仕方がないことだったんだよ』と言うだけでした。そして子どもや孫たちの将来のことを考えなければいけないと言っていました」。そういう一世たちの姿勢をコジマさんは「尊敬している」と語る。

 そしてトーチは若い世代へと引き継がなければいけないと。日本で高校生たちを前に講演した時は、日系一世・二世がスティーブストンに残した「魂」として、「一生懸命働く」「諦めない」「文句を言わない」「行儀よくする」「日本の恥になるようなことはしない」ということを伝えると話す。そして、スティーブストンでは市や市民と協力して日本の伝統や文化を守り、100年前に日本から来た日本人が残してくれた「魂」「マナー」「敬意」「プライド」を若者に伝えていると締めくくると笑う。「(日系人に起きた)歴史的な事柄は、ネガティブな形でだけで伝えるべきではなく、次の世代のためにそれはポジティブであるべきだと思います」と語った。

(記事 三島直美)

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カーニー首相、日本での女性の労働力貢献はサウジアラビア以下と発言

改修工事中のカナダ国会議事堂。オンタリオ州オタワ市。2025年4月3日。撮影 日加トゥデイ
改修工事中のカナダ国会議事堂。オンタリオ州オタワ市。2025年4月3日。撮影 日加トゥデイ

 サウジアラビアを訪問中のマーク・カーニー首相は7月9日、現地での記者会見で女性の労働力への貢献についてサウジアラビアが日本より高いと発言した。

 会見ではサウジアラビアとの2国間協議について、両国の関係改善と経済協力が重要と説明した。記者から、サウジアラビアの人権問題、特に女性への人権についてサウジアラビアは女性のステータスは最悪だとされていると聞かれたカーニー首相は、それについて自分が判断する立場にはないと回答したが、例えとして、サウジアラビアの女性の労働力への貢献は10~15年前は6~12%だったが現在ではインドや日本よりも高いと語り、女性の状況が大きく改善している例えとした。

 質問と回答はいずれもフランス語で、発言は英語通訳によるもの。「女性の労働力への貢献」の定義は不明で、明確な数字を示しての言及でもないため、日本の方が女性の労働力への貢献がサウジアラビアより低いという根拠は全くの不明。

 日本の内閣府男女共同参画局が発表している2024年の15~64歳の女性の就業率は74.1%、OECDが発表している労働力参加率は81.5%。一方サウジアラビアのゼネラルオーゾリティー・フォー・スタティスティックス(GASTAT)によると2024年の15歳以上の女性の就業率は31.8%、労働力参加率は36.0%となっている。

 記者会見はCPACウェブサイトから視聴できる。https://www.cpac.ca/headline-politics/episode/pm-carney-discusses-canada-saudi-arabia-relations–july-9-2026?id=aaf81cb9-5dc5-4e88-a0ef-96c11c0e8f88

(記事 三島直美)

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FIFAワールドカップ2026:スイスがバンクーバーで3連勝、コロンビアとの接戦を制してベスト8へ

激しく競り合うコロンビアのキャプテン、ロドリゲス(左)とスイスのキャプテン、シャカ。2026年7月7日、バンクーバー市。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ
激しく競り合うコロンビアのキャプテン、ロドリゲス(左)とスイスのキャプテン、シャカ。2026年7月7日、バンクーバー市。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ
圧倒的な数のコロンビアファンで会場は黄色一色に。2026年7月7日、バンクーバー市。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ
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 バンクーバー市BCプレースで行われたFIFAワールドカップ決勝トーナメント2回戦ベスト16、スイス対コロンビア戦はPKまでもつれる接戦を制したスイスがベスト8へ駒を進めた。

BCプレースを埋め尽くしたコロンビアファン

 BCプレースが黄色に染まった。熱狂的なコロンビアファンで埋め尽くされた会場は、試合が始まる前からボルテージは最高潮に達していた。

激しく競り合うコロンビアのキャプテン、ロドリゲス(左)とスイスのキャプテン、シャカ。2026年7月7日、バンクーバー市。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ
激しく競り合うコロンビアのキャプテン、ロドリゲス(左)とスイスのキャプテン、シャカ。2026年7月7日、バンクーバー市。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ

 コロンビア選手がゴールに近づくたびに大歓声が起こる中、13分には早速フリーキックのチャンス。キャプテン・ロドリゲスからシュートにつながるがGKコベルの好守にはばまれ得点ならず。21分にはプエルタがシュートを放つがまたもGKが立ちはだかった。

 その後も試合は一進一退の攻防が続く。後半に入り、コロンビアの猛攻が続くがスイスの堅い守りを破ることができない。シュート数ではコロンビアが圧倒的に上回る。試合は延長30分でも0-0と決着がつかずPK戦へ。

コロンビアのエースストライカー、ディアスへのスイスの激しいディフェンス。2026年7月7日、バンクーバー市。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ
コロンビアのエースストライカー、ディアスへのスイスの激しいディフェンス。2026年7月7日、バンクーバー市。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ

 まずはコロンビアのキンテロが決める。この日初めてのゴールに歓声で会場が揺れる。続いてスイスのシャカのシュートはGKの手を弾いてネットへ。これで1-1。続いてコロンビアのサンチェスのシュートはバーに当たりゴールならず、スイス2番手が決めて1-2。しかし、コロンビア3番手が決めたのに対し、スイスのアカンジがネットの上を大きく超えて外し再び同点。ところがコロンビア4番手エルナンデスのシュートをスイスGKが止めてスイスが再び有利に。その後は両チームとも決めたため、手に汗握るPK戦をスイスが4-3で制し、120分の戦いが決着した。

 その瞬間、会場は埋め尽くしたコロンビアファンのため息に包まれた。スイスは6月25日のカナダ戦からBCプレースで3連勝、ベスト8進出を決めた。

PKを制し勝利を喜ぶスイス選手らとゴールネット前に呆然と座り込むコロンビアGKバルガス。2026年7月7日、バンクーバー市。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ
PKを制し勝利を喜ぶスイス選手らとゴールネット前に呆然と座り込むコロンビアGKバルガス。2026年7月7日、バンクーバー市。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ

 コロンビアのロレンソ監督は試合後の会見で「得点できたらよかったけど」と切り出し、「タイトな試合になることは予想していた。最初の20分は試合を支配していた」と静かに語り、4分で会見を切り上げた。スイスのヤキン監督は「今回のW杯では全てが完ぺきに機能している」と試合内容を分析。大会初戦からチームが進化していると語り、今大会は歴史的な大会になると思っていたし、実際に世界トップチームの仲間入りを果たした、選手、スタッフ、そしてファンを称えたいと語った。

カナダでのW杯全日程が終了

 7月7日のスイス対コロンビアの試合はカナダでのW杯最終戦で、これで6月12日にトロントで開幕したカナダでの試合は全日程が終了した。ベスト8以上は全てアメリカで行われる。

 今回のカナダ・アメリカ・メキシコ3カ国による北中米大会で、カナダではトロントで6試合、バンクーバーで7試合が行われた。1次リーグでグループ1位になれば、開催国が自国でプレーできるような組み合わせになっていたが、アメリカ・メキシコがグループトップで通過したのに対して、カナダは6月25日、BCプレースでのスイス戦で引き分けでもトップ通過という好条件を生かせず1-2の惜敗。舞台をアメリカに移した。

2試合連続ゴールを決めているだけあり、スイスのマークも厳しいFWデービッド。2026年6月24日、バンクーバー市。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ
2試合連続ゴールを決めているだけあり、スイスのマークも厳しいFWデービッド。2026年6月24日、バンクーバー市。撮影 斉藤光一/日加トゥデイ

 代わって、カナダに勝利したスイスがバンクーバーで3連戦となり、3連勝でベスト8を勝ち取った。カナダがせめて引き分けていればという残念さは残ったが、それでも、バンクーバーでカナダ男子がW杯初勝利をあげ、初の決勝トーナメント進出を果たし、さらにロサンゼルスでのベスト32では南アフリカに勝って初のベスト16入りするなど、自国開催がもたらした好影響は大きかった。

 トロントではスーパースターのロナウド擁するポルトガルやドイツのヨーロッパ強豪国がファンを魅了し、バンクーバーではベスト8に残ったベルギーやサッカー熱狂国トルコ、エジプト、コロンビアが試合を行い、各国の熱狂的ファンがカナダのサッカー熱に火をつけた。会場最寄り駅サイエンスワールド駅からBCプレースまでの行進は、試合開始前のファンの儀式になった。

 カナダでの13試合は全て満員で、カナダ代表以外の試合でも、カナダ国内と世界から各国代表のファンが集まり、試合会場、ファンフェスティバル、歩行者天国、カナダサッカーハウスなど、ファンが集う場所では大きく盛り上がった。

 7月7日でカナダ国内の試合は終了したが、W杯は決勝の7月19日まで続く。トロントとバンクーバーでは、引き続き、ファンフェスティバルが19日まで開催されるほか、バンクーバーではサッカーファンの聖地となっているグランビルストリート歩行者天国が9月7日まで延長されることが決まった。

 移民の国カナダにとってカナダ代表の敗退やカナダ国内での試合終了が、W杯の終了ではない。あと10日、トロントで、バンクーバーで、ワールドカップを楽しめる。

(取材 三島直美/写真 斉藤光一)

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