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Naomi Mishima

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建友会2026年新年会開催

写真 建友会
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2026年1月29日、建友会新年会を開催いたしました。

あいにくの雨模様ではありましたが、会場にはそれを感じさせないほどの熱気と笑顔が集まり、静かな高揚感に包まれた一夜となりました。

写真 建友会
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当日は木山領事をはじめ、他団体の代表の皆様にもご参加いただき、松原会長の安定した司会進行のもと、総勢27名が一堂に会しました。世代や立場を越えた対話が自然に生まれ、建友会ならではの風通しの良さを改めて感じる時間となりました。

写真 建友会
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会はビュッフェ形式で進行し、料理の美味しさもまた会話を後押しする大切な要素に。和やかな空気の中、村山ユミさんと清水さんによる息の合ったクイズ大会がスタートすると、会場の温度は一段と上がり、笑い声が絶えないひとときに。

クイズの正解数が多いグループ順で行われたプレゼント交換会では、それぞれが思いがけない“縁”を手にし、記憶に残る余韻を残しました。

写真 建友会
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新たなメンバーも加わり、建友会は今、少しずつ、しかし確実に新しいフェーズへと歩みを進めています。これからも皆様のお役に立てる情報や、つながりを生む場を継続的に共有してまいります。

本年も建友会をどうぞよろしくお願いいたします。

この場を借りて、ご参加いただいた皆様に心より感謝申し上げます。

写真 建友会
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写真 建友会
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(寄稿 建友会)

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「水沢腹堅(さわみずこおりつめる)」

カナダde着物

第79話
*子どもたちと着物*

 皆さま、遅ればせながら
「明けましておめでとうございます。本年も着物コラムをどうぞよろしくお願いいたします。」

 旧正月はこれからということもあり、しばらくの間、お正月気分を楽しんでおります。皆さまは、どのようなホリデーを過ごされたでしょうか。

 年末から年始にかけてお天気に恵まれたこともあり、お出かけされた方が多かったようです。素晴らしい日の出は心が洗われるようで、毎朝、初日の出に手を合わせている今日この頃です。

「Sunset at the Queen Elizbeth Park in Vancouver」By Manto Artworks
「Sunset at the Queen Elizbeth Park in Vancouver」By Manto Artworks

 七十二候では「水沢腹堅(さわみずこおりつめる)」を迎えました。
 沢の水が堅く凍るという意味を持ち、一年で最も寒い時期とされています。毎年、最低気温が記録されるのも、この時期が多いそうです。

 では、カナダではどうでしょうか。州によって気候が大きく異なるため、一概には言えないかもしれませんが、それでも霜がおり、雪が降り、冬の真っ只中であることは間違いありません。

 各地で風邪やインフルエンザが流行っているようです。
 どうぞ皆さま、お身体に気をつけてお過ごしください。

Lions Mountain in Vancouver」By Manto Artworks
Lions Mountain in Vancouver」By Manto Artworks

*今日の着物*Today’s Kimono*
「子どもたちと着物」

 最近、日本では子どもたちが着物を着る機会が増えてきたと耳にします。私の周りには着物好きが多いため、そうした情報が集まりやすいのかもしれませんが、日本の若い方々や保護者の皆さまが、日本文化から大きく離れているという印象はあまりありません。

 一方で、小学生などが着物を着るようになったことで、経済的な理由から着ることができないお子さんがいるという「格差」の問題が話題になることもあります。

 私自身は、それほど高額でなくとも、中古の着物は数多くあり、十分に楽しむことができるのではないかと感じています。「着物=高額」というイメージが、こうした問題の発端になっているのかもしれません。

 もちろん、高価な着物も存在しますし、職人の手間や時間、人件費や技術への対価を考えれば、妥当な価格であるとも言えます。車に新車や中古、価格帯の幅があるのと同じように、着物もそれぞれの経済状況に合わせて選ぶことができるのです。

 ちなみに私は、「中古品を中古品に見せない技を持つ着付師」です。
 ……と、ここは少し自画自賛させてください(笑)。

 「新品を購入し、大切に着続けています」という雰囲気を出す、と言いましょうか。実は多くの着物好きの方は、着物と付き合う中で自然とその感覚を身につけているのではないでしょうか。

 さて、子どもの着物の話に戻ります。
 子どもは毎年成長します。そのため昔から、子どもの着物は少し大きめに仕立て、「肩上げ」や「腰上げ」と呼ばれる縫いを施し、成長に合わせてそれをほどいていくという工夫がされてきました。

 この習慣には、子どもの健やかな成長を願う意味が込められており、「成長の余地を残す」縁起の良いものとされています。
 現代の視点で見ても、非常にサスティナブルなファッションと言えるのではないでしょうか。

 お子さまをお持ちの皆さまには、ぜひお子さんたちに着物を着せ、その姿を堂々と世界へ発信していただきたいと思います。

「カラフルな着物を楽しむ子供たち 和の学校@東漸寺にて」写真家:Haruka
「カラフルな着物を楽しむ子供たち 和の学校@東漸寺にて」写真家:Haruka

*今日の和の学校*WA gathering

 お日柄にも恵まれた日曜日、東漸寺の本堂では、着物でおめかしした子どもたちが正座をし、挨拶を交わしながら、お菓子とお抹茶をいただくお茶会が開かれました。

 和の学校では、今年最初の五節句である「人日の節句」と「節分」を祝うお茶会を開催しました。今回は着物レンタルと着付けサービスを設けたこともあり、大変多くのお申し込みとお問い合わせをいただきました。

 和の学校は、ボランティアの各分野のプロフェッショナルの皆さま、そして信者の皆さまに支えられて運営されています。そのため、物理的にすべてのご要望にお応えすることができず、一部のご家族には次回のお茶会へのご参加をお願いすることとなりました。

 当日は色とりどりの着物が用意され、特に男の子の参加が多かったため、着物が十分に揃わない場面もありましたが、プロの着付師の皆さまが肩上げを施すなど工夫を凝らし、対応してくださいました。

 お菓子は、私の友人でお菓子作りの名人による手作りです。節分が近いことから、「赤鬼と青鬼」をテーマにした練り切りを用意してくださいました。

 お抹茶は、静岡市の実家近くにある丸七製茶(ななや)さんの「新舟の風(にゅうふねのかぜ)」。
 お子さまにも飲みやすいよう、苦味の少ない薄茶を使用しました。

 茶道には多くのルールがありますが、それは相手を思いやり、心地よい時間と空間をつくるために受け継がれてきたものです。決して人の行動を制限するものではなく、一定のルールの中で個性豊かな世界を生み出していく茶道は、とてもユニバーサルな文化だと思います。

 子どもたちには、次のような例えを用いて説明しました。

 「サッカーの試合では、参加者はルールを守ってプレーしますよね。
 茶道は戦いではありませんが、同じルールを学んだ者同士が、時間や空間を分かち合い、共鳴する喜びがあります。」

 分かっていただけたでしょうか。

 次回は、**3月1日(日曜日)『ひな祭り茶会』**を予定しております。お楽しみに。

「新春*キッズ茶会 和の学校@東漸寺にて」Minaha Photography
「新春*キッズ茶会 和の学校@東漸寺にて」Minaha Photography

コナ ともこ
(和の学校@東漸寺 主宰)

*参照*

暦生活
https://www.543life.com

丸七製茶株式会社
https://www.marushichi-group.jp/nanaya/index.htm

<写真家の紹介>

中村マントさん(Manto Artworks)
グレーターバンクーバーエリアや日系社会でもご活躍の写真家
Facebook
https://www.facebook.com/manto.nakamura

HIROMIさん(Minaha Photography)
バンクーバーエリア中心に今しかない一瞬をかたちに残す写真家
Instagram
https://www.instagram.com/minaha.photography?igsh=MWRyaGRrenF6aWlnMA%3D%3D&utm_source=qr

HARUKAさん
ワーキングホリデーでバンクーバーに滞在中。和の学校のボランティアをしたり、好きな写真を撮影しています。
https://www.instagram.com/haru.ka_photo?igsh=MTNqZmg5NHF3bGRkMQ%3D%3D&utm_source=qr

「着物語り」
コナともこさんが着物の魅力をバンクーバーから発信する連載コラム。毎月四季折々の着物やカナダで楽しむ着こなしなどを紹介します。
2020年8月から連載開始。第1回からのコラムはこちらから

コナともこ
アラ還の自称着物愛好家。日本文化の伝道師に憧れ日々お稽古に励んでおります。
15年前からコキットラム市の東漸寺で「和の学校」を主宰。日本文化を親子で学び継承する活動をしております。

年間を通じて季節の行事に加え、お寺での初参り、七五三祝い、十歳祝い、元服祝い、二十歳祝い、結婚式、生前葬、お葬式などの設えと装いのお手伝いもさせていただいております。

*詳しくはコナともこまでお問い合わせ下さい。tands410@gmail.com
東漸寺は非営利団体で、和の学校の収益は東漸寺の活動やお寺の維持の為に使われています。

次女とバンクーバー近郊在住。

《和の学校@東漸寺》

ホームページ https://wanogakkou.jimdofree.com/
インスタグラム https://www.instagram.com/wa_no_gakkou_tozenji/
フェイスブック https://www.facebook.com/profile.php?id=100069272582016

東漸寺Tozenji Temple https://tozenjibc.ca/

コナともこ
Facebook https://www.facebook.com/tomoko.kona.98
Instagram https://www.instagram.com/konatomoko/?hl

「東漸寺🌸春🌸2024」Manto Artworks
「東漸寺🌸春🌸2024」Manto Artworks
東漸寺はカナダ・ブリティッシュコロンビア州メトロ・バンクーバーのコキットラム市にある西山浄土宗の寺院です。
東漸寺はカナダ・ブリティッシュコロンビア州メトロ・バンクーバーのコキットラム市にある西山浄土宗の寺院です。

進むおっさん化、進化する血糖値測定器

 新年のご挨拶が大変遅くなりましたが、日加トゥディ読者の皆様、明けましておめでとうございます。2026年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 昨年は何かにつけてワクチンや感染症の話題が多くなってしまいましたが、今回は少し軌道修正して、糖尿病と血糖値測定の進化について書いてみようと思います。というのも、実は私、糖尿病指導士(Certified Diabetes Educator)の資格を持っています。この資格は5年に一度更新する必要があるのですが、新年早々、その更新案内(つまりテスト受験)が届いたので、今日はこのテーマで話をしましょう。

 思い返せば今から17年前、移民申請時の健康診断で「糖尿病っぽいですねー」と言われ、思わずドキッとしたことがありました。当時はカナダでの仕事に慣れようと必死で、知らないうちにストレスが溜まり、毎晩大きな箱を抱えてアイスクリームを食べていたのが原因だったと思います(そう、まるでくまのプーさん状態です)。学生時代にテニスに打ち込んでいた頃と同じ感覚で、運動量は減っているのに摂取糖分だけは多いという生活を続ければ、やはり血糖値が高くなるのも無理はありません。しかも新潟育ちの私は、基本的にお米を主食としていましたから、どうみても糖質の取り過ぎだったのでしょう。

 その後、一時的には気をつけていたものの、育児などに追われ、どうなったかといえば、とにかく加齢の影響(おっさん化)が体型などに顕著に現れてきて大変です。最近は老眼まで入り、私にとってこれらは全て予想外の出来事です。

 とにかく仕事中心の生活で運動量が減り、年齢とともに代謝も落ちる。すると、以前と同じ食事をしているつもりでも血糖が上がりやすくなる。そんなことは頭では分かっているのに、具体的に何ができるのかと考えた時に、じゃあ運動でもしようかなという行動になかなか移せないのが今までの現実です。

 そんなタイミングで、アボット社の「FreeStyle Libre 3」という、上腕の後ろ側に装着するタイプの血糖値測定センサーのサンプルが届いたので、勉強がてら試してみることにしました。

 従来の血糖測定は、指先から採血して、その瞬間の値を確認する方法でした。必要なときに確実に測れる一方で、食後のピークを逃したり、上がっている途中なのか下がっている途中なのかが見えにくかったりします。何より、毎回の指先の穿刺(せんし)が負担でした。

 そこで近年一気に普及したのが、センサーを皮膚に装着して連続的に変化を追えるタイプの血糖値測定器です。私のところに届いたアボット社の FreeStyle Libre 3 は、上腕の後ろ側に25セントコインくらいの小さなセンサーを貼り、スマートフォンのアプリで血糖値を確認できるシステムです。測定値が約1分ごとに自動更新され、Bluetooth通信でアプリに送信されます。同様の仕組みのセンサーに「Dexcom」というブランドもあり、これらは特にインスリン投与を必要とし、1日に何度も血糖値の測定を必要とする糖尿病患者さんの間で幅広く使用されています。

 ちなみにLibre3以前に幅広く使われていたLibre 2では、血糖測定のために、毎回センサーを携帯電話や専用のリーダーでスキャンする必要がありましたが、Libre3ではこのスキャン自体が不要となりました。

 さらに、Libre3では、数値だけでなくトレンド矢印(上昇・下降の方向)が一緒に見えるので、今現在の値だけでなく、これからどう変化していくかというところまでイメージしやすくなります。これはインスリンを使用している患者さんの低血糖予防に大変役に立つ機能です。Libre3センサーは最大15日間装着でき、日常生活(シャワーや水泳など)にも対応する耐水性が示されています。

 Libre3のアプリのレポート画面では、血糖(正確にはグルコース)の平均値に加えて、目標範囲に入っていた割合を示すTime in Range(範囲内/高め/低めの滞在時間)、平均センサー値から推定したHbA1cの目安となるGMI(Glucose Management Indicator)、そして日内のブレを示すグルコース変動(Variability)などが一目で確認できます。これらの指標によって、いつ上がりやすい、または下がりやすいかが見える化され、食後・夜間・運動時などの血糖の傾向をつかむのに役立ちます。

 気になるお値段ですが、Libre 3のセンサーは薬局にもよりますが1個あたり約100〜120ドル、1か月あたり約200〜250ドルが目安になります。一方、従来型の血糖測定器では、テストストリップ100枚が約80ドルで、測定回数が多い方ほどストリップ代がかさみますので、測定頻度によってはLibre3の方がコスパがよいと感じるケースもあります。参考までにDexcomの場合、一般に10日ごとにセンサー交換が必要で、1か月あたり約300ドルという計算になります。なお、Libre3・Dexcomいずれも、民間保険に加えて、特別承認(Special Authority)が得られ、免責金額に到達すれば、BC PharmaCareで費用がカバーされることがあります。

私の血糖値のデイリーパターン。ターゲットは少し厳しめにしてあります。
私の血糖値のデイリーパターン。ターゲットは少し厳しめにしてあります。

 最後に、私のここまで(5日間)の血糖の変化を少しご紹介します。装着して最初の頃は、思った以上に高い値を示すことがあり、正直ちょっと焦りました。ところが、データを見続けているうちに「どうすれば上げにくくできるか」を自然に考えるようになったのです。例えば、仕事の合間につい口にしていた甘いものが減りました。その代わりにアプリを開いて血糖の動きをチェックする、そんな小さな習慣ができてきました。さらに、夕食後に血糖が急上昇しやすいことにも気づき、なんと夜に15分ほどジョギングに行くようにまでなったのです。ここまでくると、Libre3さまさまです。これからは自腹で続けてみようかと考えています。そして今年は、お米を少し控えめにしたローカーボも試してみようと思います。

*薬や薬局に関する一般的な質問・疑問等があれば、いつでも編集部にご連絡ください。編集部連絡先: contact@japancanadatoday.ca

佐藤厚(さとう・あつし)
新潟県出身。薬剤師(日本・カナダ)。 2008年よりLondon Drugsで薬局薬剤師。国際渡航医学会の医療職認定を取得し、トラベルクリニック担当。 糖尿病指導士。禁煙指導士。現在、UBCのFlex PharmDプログラムの学生として、学位取得に励む日々を送っている。 趣味はテニスとスキー(腰痛と要相談)

お薬についての質問や相談はこちらからお願い致します。https://forms.gle/Y4GtmkXQJ8vKB4MHA

全ての「また お薬の時間ですよ」はこちらからご覧いただけます。前身の「お薬の時間ですよ」はこちらから。

「ゴードン・ライトフット」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第43回

はじめに

 音楽ファンの皆さま、日加関係を応援頂いている皆さま、遅ればせながら、新年明けましておめでとうございます。

 2026年がスタートして早くも3週間が経ちました。新年早々のトランプ政権のベネズエラへの軍事攻撃と大統領拘束は、世界に衝撃を与えました。一気にお屠蘇気分が醒めた人も多いと思います。我々は歴史の転換点に生きているのではないかと感じる今日この頃です。後世の歴史家が2026年1月をどのように位置付けるのか興味が尽きません。

 それはさて置き、日々の生活は続きます。陰に陽に国際情勢の影響を被りながらも、2026年が、読者の皆様にとって健やかな年となるように祈念しつつ、皆様の更なる御活躍と御健勝を願っております。

 新年のご挨拶はこれぐらいにして、音楽です。

 今月は、カナダの伝説的シンガー・ソングライター、ゴードン・ライトフットです。彼が2023年5月1日に逝去した際には、カナダ最大の新聞グローブ&メール紙が特集を組みました。ジャスティン・トルドー首相も公式コメントを発出しました。曰く「カナダの最も偉大なシンガー・ソングライターの一人で、その訃報を深い悲しみをもって受け止めている。彼の作品はカナダの精神を捉え、国の音楽的伝統を形成した。カナダの音楽的遺産として永遠に残るであろう。」

 正に、カナダの国民的な歌手が追悼される様子を目の当たりにしました。

最初の出会い

 私がゴードン・ライトフットという名前を知ったのは、長崎県の地方都市・佐世保の中学1年生の頃でした。当時は、多くの同級生と同様に「オールナイト・ニッポン」や「こんばんは、落合恵子です」等の深夜放送に完璧にハマってしまいました。午前1時から始まる「オールナイト・ニッポン」を聞くと、翌朝は、睡眠不足で大変でしたが、深夜放送で流れてくる洋楽(現在は死語ですね)に胸が震えました。そんな洋楽アーティストの一人がゴードン・ライトフットでした。

 彼の代表曲“心に秘めた想い(原題: If You Could Read My Mind)”は、田舎の中学生をノックアウトしました。SONY製のTHE11という当時最新の3バンド・ラジオで聴く異国の歌は今も胸の奥で鳴っています。実は、歌詞は全く分かりませんでした。仮に英語が出来ていたとしても、恋愛の機微や男女の想いのすれ違いのニュアンス等は全く理解できなかったに違いありません。ですが、アコースティック・ギターが奏でるアルペジオの響きと語りかけるような歌声、何よりも美しい旋律に魅了されたのを鮮明に憶えています。それにしても、英語の微妙なニュアンスを示す素敵な邦題ですね。最近は、原題を単にカタカナ表記するものばかり。当時の洋楽ディレクターは偉かったですね。

 と言うものの、中学生の頃は、ゴードン・ライトフットがカナダ人ということは全く知りませんでした。というか、洋楽のアーティストの国籍には、ビートルズとサイモン&ガーファンクルを除いて、無頓着な田舎の少年だったのです。

 そして、高校生になる頃には、私の関心はよりハードでプログレッシブなロックに移っていきました。ジャズも聴き始めました。フォーク・ミュージックを基調とするゴードン・ライトフットのようなシンガー・ソングライターの音楽からは離れて行きました。

ゴードン・ライトフット再発見

 齢を重ね、様々な音楽体験を経て、ゴードン・ライトフットを再発見したのは、私がオタワに着任してからです。正直に言えば、カナダは8000km余の国境で接する米国の圧倒的な影響下にあるに違いないと私は思い込んでいました。しかし、着任直後から、米国とは異なるカナダの文化やスタイルを実感するようになりました。そんな中で、改めてゴードン・ライトフットの音楽に触れた訳です。

 放蕩息子の帰還ではありませんが、刺激溢れる前衛の音楽を浴びた後で聴くゴードン・ライトフットのナチュラルな音楽は胸に沁みました。虚飾もギミックも無い素顔の歌。しなやかさと優しさの中に潜む力を感じさせます。カナダという国の個性が彼の歌に滲み出ているようです。

 その頃の最新音盤が「ソロ」でした。前作「ハーモニー」から16年ぶりの新譜で、20枚目のスタジオ録音盤。ちょうど新型コロナの感染爆発が拡まった2020年3月にリリースされました。81歳のゴードン・ライトフットが現在進行形で刻まれています。全10曲は全て自身の作詞作曲で、表題どおり生ギターだけの弾き語りです。シンプルこの上ありません。若い頃の声と比べれば、加齢によるスモーキーな濁りはありますが、明瞭なバリトンの美声は十分に維持されています。何よりも、ライトフット節と呼ぶべき、美しい旋律が健在です。最近の音楽業界では、リズムを強調したラップ・ミュージック全盛という感がありますが、ここには本物の歌が息づいています。

 しかし、誠に残念ながら、最新盤「ソロ」が遺作となってしまいました。

訃報と弔辞

 2023年5月1日、ゴードン・ライトフット逝去は、多くのファンに深い悲しみを与えました。自然死と発表されたので、彼の寿命だったのかもしれません。ですが、84歳にして現役で、コンサート・ツアーも予定されていました。天国に召されるには若過ぎました。

 そして、訃報に接して、多くの大物ミュージシャンが心のこもったメッセージを発出しました。ゴードン・ライトフットの音楽が如何に素晴らしく人々の胸に沁みていたのかを如実に伝えています。

「セルフポートレイト」ボブ・ディラン
「セルフポートレイト」ボブ・ディラン

 ボブ・ディランは「ライトフットの曲に嫌いな曲なんて思いつかないね。かれの曲を聴くたびに、永遠に続けばいいのにと思うような感じだ…ライトフットは長い間、俺にとって師匠(mentor)だった。たぶん今もそうだと思うよ」と自身のウェブサイトで表明しています。実際、他人の曲をカバーすることの殆どないディランですが、1970年の傑作「セルフポートレイト」には、ライトフットの曲“Early Morning Rain”を収録しています。

 ビリー・ジョエルは、自身のインスタグラムに“If You Could Read My Mind”をピアノで弾き語っている動画をあげ、追悼の意を示しています。古今東西の名曲は、如何なる編曲で奏でられても素晴らしいものです。ビリー・ジョエルのヴァージョンは、曲の骨格を見事に浮き彫りにし、美しさを際立たせています。ピアノの名手のジョエルならではです。フレッド・シュルアーズ著「イノセントマンーービリー・ジョエル100時間インタヴューズ」には、ゴードン・ライトフットの歌唱法から影響を受けたことが記されています。また、やんちゃな若き日のアシッド・トリップで、激しくラリった後で、ゴードン・ライトフットを聴いて心の安寧を取り戻した旨の記述もあります。かつてラジオ番組で、ライトフットに会いたいとも語っています。

 また、同郷のシンガー・ソングライター達も胸に残るコメントをしています。ニール・ヤングは「カナダは偉大な詩人を失った」と述べました。ジョニ・ミッチェルもライトフットを「ソングライターの中のソングライター」と評し、彼の曲の物語性と旋律美に敬意を表しました。ブライアン・アダムスは「私たち全員の道を切り拓いた」と強調しました。

 実は、ブライアン・アダムスのこのコメントは、シンガー・ソングライターの世代についての極めて的確な指摘です。と言うのも、ゴードン・ライトフットは、1960年代後半から顕著な活躍を示す一連のシンガー・ソングライター達よりも数年早く誕生し、いち早く音楽活動を開始し、道を切り拓いたパイオニアだからです。

音楽の旅路〜前哨戦

 ゴードン・ライトフットは、1938年11月、オンタリオ州南部のシムコー湖畔の街オリリアに誕生しました。ここは、4000年前から先住民のヒューロン族やイロコイ族が暮らしていました。いわば、カナダの心の故郷とも言うべき街です。両親はスコットランド移民の家系で、クリーニング店を経営していました。

 そして、母親ジェシーが未だ幼かったゴードン少年の素質を見抜いたといいます。地元の聖パウロ合同教会の聖歌隊に入ると、音楽監督を勤めていたレイ・ウィリアム師から音楽の基礎を教わります。当時を振り返って、ライトフットは、心の内に湧き上がる様々な感情を如何に歌に反映させるかについて実に多くの事を学んだ旨述べています。三つ子の魂百までということでしょうか。

 そして、ライトフットは聖歌隊で活躍します。地元のラジオ局の番組でオペラやオペレッタの楽曲を歌うようになります。12歳の頃のことです。変声期前のボーイソプラノでコンクールに出場し、見事に優勝しました。その副賞がトロントの音楽の殿堂マッセイ・ホール(連載第18回参照)でのコンサート出演でした。ライトフットは、その生涯でマッセイ・ホールで170回も公演していますが、これが初のマッセイ・ホール体験です。

 母親の眼力はさすがです。その後、ピアノ、ギター、ドラム等の楽器も独学でマスターしていきます。やがて、聖歌隊の世界だけでは満足できなくなります。19世紀の米国の作曲家、ステファン・フォスターの音楽に傾倒していきます。フォーク・ソングやカントリー・ミュージックを歌うようになります。高校生になる頃には、避暑地として有名なオンタリオ州ムスコカ(2010年のG8サミットも開催された街)でも観光客を前に様々な場で歌うようになります。

 高校を卒業すると、ライトフットはロサンゼルスのウエストレイク音楽院に進学します。ここでは、ジャズ、作曲、編曲を専攻しました。ライトフットの音楽の幅が一段と拡大します。そして、いよいよ、職業的音楽家への道が拓きます。

飛翔

 2年間のロサンゼルス留学を終えて、ライトフットはトロントに戻ります。1960年のことです。本当は音楽業界の中心ロサンゼルスで名乗りをあげたかったに違いありません。ある種、夢破れた傷心の帰郷だったのかもしれません。しかし、ライトフットは、苦さも甘さも学んだ上で、地元トロントで歌手として本格的な活動を開始します。最初はフォーク/カントリー系のコーラス・グループに参加して頭角を顕します。地元レーベルからシングル盤もリリースします。が、この段階ではトロント圏内の新人でした。

 転機は、1963年に訪れます。1年間にわたり、ロンドンに遠征し、BBCテレビのカントリー番組のホストを勤めます。その間、人気デュオ、イアン&シルビアに自作曲を提供しソングライターとしての評判を高めていきます。特に“Early Morning Rain”は、カナダ・チャートで首位になります。ピーター・ポール&マリーのヴァージョンも米国でスマッシュ・ヒットします。エルビス・プレスリーらへも楽曲提供していくことになります。知る人ぞ知るカナダの才能が開花していきます。但し、花開いたのは米国でした。ボブ・ディランの敏腕マネージャーとして知られたアルバート・グロスマンこそライトフットの巨大な才能の発見者でした。

 1966年1月、遂に記念すべきデビュー盤「ライトフット!」がリリースされます。実は、この音盤は1964年にニューヨークで録音されていたものの御蔵入り状態だったのです。が、グロスマンの働きで、ライトフットがニューポート・フォーク祭で演奏し、人気TV番組ジョニー・カーソン・ショーにも出演したことで、音盤リリースに至ったのです。御蔵入りしていたとは言え、その内容は今聴いても古臭くありません。収録された全14曲のうち11曲はライトフットの自作曲です。上述の“Early Morning Rain”も聴けます。

カナダの精神を刻む音楽

 1967年4月、第2弾「The Way I Feel」がリリースされました。特に、注目すべきは“Canadian Railroad Trilogy”です。この曲は、CBC(言わばカナダのNHK)から委嘱された特別な曲です。1967年はカナダ建国100周年の記念すべき年ということで、それに相応しい歴史を描写する希望と誇りに溢れる力強い曲が出来上がった訳です。6分22秒という長尺です。日本の27倍の広大な国土が東西は大西洋岸から太平洋岸に広がり、北は北極海に面する若い国家カナダの統合を象徴するのが鉄道のネットワークでした。1885年に大陸横断鉄道が完結しました。ライトフットは、そんなカナダ建国と鉄道の絆を歌い上げたのです。CBCが100周年に際して委嘱した音楽家がライトフットであったという事実は、ライトフットが真に国民的な歌手だということを端的に示しています。カナダの精神を刻む音楽です。必聴です。

結語

 ゴードン・ライトフットが没して既に3年近くが経過しました。世に『去る者日々に疎し』と言います。しかし、如何に歳月を経ても風化することのない本質というものがあります。カナダの心情と歴史を描き人々の心に深く沁みるライトフットの歌は永遠です。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身

36 ☆ 丙午の「丙」とは・・・?

日本語教師  矢野修三

 遅ればせながら、明けましておめでとうございます。今年は午年、多くの方と馬が合い、何事もウマくいきますように、本年もよろしくお願いいたします。  

 なおその上、今年は丙午(ひのえうま)である。この「ひのえうま」と聞いて、「あらー」と反応する人はそれなりのお年の方であり、若者世代は「なにそれー」。でも60年に一度やってくる、いわく付きの年なので、ニュースなどにも取り上げられ、気になっている方も多いのでは。

 この「丙午(ひのえうま)」を理解するには、「十干・十二支」の知識が必要である。はるか昔、古代中国で、年や時間、方位や占いなどに作られたもので、日本には飛鳥時代ごろ伝わったとされ、時代とともに、日本文化として定着し、江戸時代ごろから一般庶民にも大いに親しまれたようである。

 先ず、十干(じっかん)だが、これは「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」である。しかし我がおじさん世代でも、甲・乙・丙・丁ぐらいは学校で習った記憶はあるが、他の漢字は読むことも難しい。因みに、甲は音読み「こう」で、訓読みは「きのえ」。丙は音読みが「へい」で、訓読みが「ひのえ」。最後の「癸」は「き」と「みずのと」だが、ほぼ馴染みなし。

 一方、十二支(じゅうにし)は年賀状などでお馴染みの「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」であるが、これも若干ややこしい。これが作られた古き中国において、漢字など分からない一般大衆も馴染めるように、十二支の漢字に、身近な動物を「ねずみ」から順番に、それぞれの漢字に割り当てたとのこと。それゆえ、例えば、今年の「午」と動物の「馬」は全く関係なし。でも動物の「馬」がこの「午」に割り当てられたので、十二支の上では「午=馬」の特別な関係になり、日本式読み方は両方「うま」である。

 この「十干」と「十二支」が組み合わさって、暦が成立した。甲子(こうし・きのえね)から始まり、癸亥(きがい・みずのとい)まで60通り、すなわち60年で生まれた年に戻る、いわゆる「還暦」である。つまり、干支(えと)とは十干(じっかん)の「干」と十二支の「支」であり、今年西暦2026年がこの丙午(ひのえうま)の年である。

 実は、江戸時代に八百屋お七という女性の放火騒動があり、気性が激しく、災いを招くなどの俗信が広まり、このお七が丙午生まれだったようで、丙午の年に女の子を生んではダメ、こんな迷信が近代でも根強く残り、1906年や1966年の丙午の年は出生数がかなり落ち込んだのは事実。さて、2026年はどうなるか・・・。

 ともあれ、正式な干支(えと)とは「十干・十二支」であり、明治ごろまでは、ちゃんと両方使っていた。例えば1868年の戊辰戦争は「戊辰(ぼしん・つちのえたつ)」の年であり、1924年は「甲子」の年で、この年に出来た野球場を「甲子園」と命名した。なるほど。ついでに、我が干支は甲申(こうしん・きのえさる)なり。

 しかし、昭和に入り、「十干」はややこしく、だんだん使われなくなり、干支といえば十二支だけになってしまった。当然、「丙午」などお呼びでなく、そんな迷信を信じる若者カップルなど、恐らくいないであろう。令和の「丙午」、むしろ、ウマく出生数が増えることを願いたい。

「ことばの交差点」
日本語を楽しく深掘りする矢野修三さんのコラム。日常の何気ない言葉遣いをカナダから考察。日本語を学ぶ外国人の視点に日本語教師として感心しながら日本語を共に学びます。第1回からのコラムはこちら

矢野修三(やの・しゅうぞう)
1994年 バンクーバーに家族で移住(50歳)
YANO Academy(日本語学校)開校
2020年 教室を閉じる(26年間)
現在はオンライン講座を開講中(日本からも可)
・日本語教師養成講座(卒業生2900名)
・外から見る日本語講座(目からうろこの日本語)    
メール:yano94canada@gmail.com
ホームページ:https://yanoacademy.ca

日本語教師として37年、81歳になって
初めて、平仮名「あいうえお」の
素晴らしさ、奥深さを悟りましたよ。

愛情、いっぱいで、生まれ
あ  い     う

笑顔で、終える。
え   お

素晴らしきかな「あいうえお」

第32回 愛を、争いに変えないために 今、できる終活 ~Let’s 海外終活~

終活は新しい大人のマナー

叶多範子

新しい年を迎え、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
年のはじまりは、これからの人生と、大切な人との関係を、そっと見つめ直すタイミングでもあります。

今日は新年のはじまりに、私にとって少し印象的だった出来事をひとつ、シェアさせてください。

昨年12月30日、アメリカでコーチングをされている方とじっくり言葉を交わす機会がありました。その対話の中で、私自身がずっと伝えたかったのに、うまく言葉にできずにいた思いが、ようやく一文になったのです。

終活は、
愛を、争いに変えないために、
今、あなたができること。

これまで私は、終活を「愛」や「思いやり」という言葉で表現してきました。
ただ、どこか抽象的で、本当に伝えたい核心に、もう一歩届いていない感覚もありました。

この一文は、私がこれまで見てきた数えきれない実例と、自身の経験が重なって生まれた言葉です。新しい年、この言葉を胸に、また一つずつ、丁寧に伝えていこうと思っています。

さて、ここから少し、大切なお話をします。

「面倒と思えているうちは、まだ余裕がある」。

この言葉は、年齢を重ねた方からの相談を聞いていると、実感する場面がとても多くあります。 特に、エンディングノートについては、そう感じることが少なくありません。

なぜ、年齢を重ねるほどエンディングノートが書きにくくなるのでしょうか?

理由は、とてもシンプルです。
体力と気力が、確実に落ちていくから。

考える
決める
選ぶ
振り返る

これらはすべて、想像以上にエネルギーを使います。

若い頃は無意識にできていたことが、年齢とともに少しずつ負担になっていく。

それなのに、
「ちゃんと考えなきゃ」
「家族に迷惑をかけないようにしなきゃ」
と思うほど、心と体が拒否反応を起こしてしまうのです。

そして「面倒」が、いつの間にか「しんどい」に変わり、結果として、手をつけられないまま時間だけが過ぎてしまう。

書いた方がいいのは分かっている。
でも、体力も気力も残っていない。
そんな状態に、多くの方が陥ります。

ここで、よく聞かれる質問があります。
70代や80代からでは、もう手遅れなのでしょうか。

正直に言うと、これは人によります。

自分で書けない
書く意欲がわかない。

そんな場合は、周りの人が手伝う、という選択肢もあります。

エンディングノートは、無理なら完成させなくてもいい。途中でもいい。空白があってもいい。

ただ、最低限の情報や、してほしいこと、してほしくないこと、それだけは残しておく。

私は遺言・相続専門の弁護士アシスタントとして、この「ほんの少し」が何も用意されていなかったことで、困り、苦しまれたご家族をこれまで数多く見てきました。

これは誇張でも、脅しでもありません。
私自身が現場で見てきた事実であり、率直な実感です。

だから私は、「全部、完璧にやりきりましょう」とはお伝えしていません。

「やれる元気があるうちに、少しでも書いておきましょう」
そうお伝えしています。

完璧でなくていい。未来の自分や家族が、「やっておいてよかった」と思える程度で十分です。

新しい年が、あなたと、あなたの大切な人にとって、少しでも安心につながる一年になりますように。

*ご感想・ご質問は、メールにてお気軽にどうぞ。voice@shukatsu.ca

本コラムは終活に関する一般的な情報提供を目的としています。内容には十分配慮しておりますが、必要に応じてご自身での確認や、専門家へのご相談をおすすめします。なお、本コラムをもとに行動されたことによる不利益については、免責とさせていただきます。

「Let’s海外終活~終活は新しい大人のマナー」の第1回からのコラムはこちらから。

叶多範子(かなだ・のりこ)

グローバルライフデザイナー/海外終活アドバイザー。カナダ・バンクーバー在住。

カナダで親しい友人を突然亡くした経験から、「準備があることで、まわりの負担が減り、安心して暮らせる」ことを痛感。現在も相続専門の弁護士アシスタントとして実務に携わりながら、海外で暮らす日本人が将来の不安を少しずつ整理できるよう寄り添いながら活動している。

エンディングノートを通じて、終活を“死の準備”ではなく、これからの自分の人生を整える“私活(わたしかつ)”として紹介している。

家族はカナダ人の夫、2人の息子、愛猫1匹。
ホームページ:https://www.shukatsu.ca

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「車社会」~投稿千景~

エドサトウ

 アメリカのトランプ大統領が発令した高い関税が大きな問題となったのは2025年の春のこと、アメリカでよく売れている日本車も大きな影響を受けた。

 日本のT社などは、今頃はドイツの車を抜いて、世界のトップクラスの売り上げだから、大変なことであろう。しかも、時代は小氷河期に向かいつつあると言う時代に、低温に弱いと言われている電気エネルギーの自動車に舵を切ろうとしているから、ガソリン車は少々難しい時代に入ってきたという感じである。

 過日、宇沢弘文氏の1994年の「自動車の社会的費用再論」を読めば、そろそろ自家用車などの生産を減少させても良いのではないかと思われた。

 1907年頃のバンクーバー市の記録フイルムを見れば、路面電車は走っているものの、街の大通りを走っているのは、車ではなく馬車ばかりであるから、大きな人身事故はなかったであろうと思われる。

 今頃、日本では車の事故の多い月は千件以上の事故があるというから、一年にすれば、かなり多くの人がケガをしたりして亡くなっている社会の中にあって、車の運用の在り方を変えてゆかねばと思える。

 「自動車の社会的費用の構成は、(人も含む)自然環境の破壊である。」と宇沢氏の論文にある。さらに「自動車の社会的費用として最後にあげなければならないのは、自動車の生産性、それにともなう地球的規模の環境破壊の問題である。ーーー」などなど、さらに「人間的魅力を備えた都市はまず何よりも歩くことを前提としてつくられなければならない。学校、病院、商店などすべて、公共機関をつかって利用できるように設計される。ジェイコブス的な街路は、道幅は広くなく、曲がっていて一つ一つのブロックが短い。しかも、十字路的な交差点では、T字路を基本としてーー」とある。

 バンクーバーの街に車が登場し始めたのは、記録フイルムによれば1950年頃のようである。それから75年過ぎようとして、AIのロボット社会になろうという時代に、車の事故のない時代、人が悲しむことのない社会を考えなければなるまい。

投稿千景
視点を変えると見え方が変わる。エドサトウさん独特の視点で世界を切り取る連載コラム「投稿千景」。
これまでの当サイトでの「投稿千景」はこちらからご覧いただけます。
https://www.japancanadatoday.ca/category/column/post-ed-sato/

日系カナダ人物語「記憶を次世代へ」:堀井昭さん「差別はいつでもどこでも起きる」

Dr. Akira Horii/堀井昭さん
Dr. Akira Horii/堀井昭さん

堀井昭さん

1931年10月、ブリティッシュ・コロンビア州バンクーバー市生まれ
1942年ブリティッシュ・コロンビア州イースト・リルエットに移動、1949年にバンクーバー市に戻る
元医師、両親は和歌山県出身

日系人への差別がなかったストラスコナ小学校時代

 「子ども時代はバンクーバーで育って、当時は差別なんて知りませんでした」と話し始めた。バンクーバーに住んでいた多くの日系人がそうだったように、ホリイさんもストラスコナ小学校に通った。

 当時の小学校ではイギリス系の生徒には上流階級意識があり、中国系、イタリア系、ユダヤ系の生徒たちをそれぞれ差別的に呼んでいたという。それでも「私たちを『ジャップ』と呼んでいるのは聞いたことがなかったですね」。生徒数の約50%は日系2世だったと思うと語る。『ジャップ』とは日本人を差別的に呼ぶ言葉だ。

 当時、ヨーロッパで第2次世界大戦が始まり、イギリスで困っている子どもたちにくつ下やキルトを送るため授業では先生がくつ下の編み方やキルトの作り方を教えていたという。

 「(太平洋)戦争前はハッピーな子どもでした。差別が何かも知りませんでしたしね」

人生が一変した真珠湾攻撃

 ハッピーな子ども時代を一変させたのは1941年12月7日、日本軍によるアメリカ・ハワイ州真珠湾攻撃だった。「世界が一変しました」。同日カナダが日本に宣戦布告。「日系カナダ人にとって天地がひっくり返る出来事でした」。

 ホリイさんが10歳の時だった。なにもかも突然に起きた。「突然学校を辞めなくてはいけなくなりました。パールハーバーまでは私はストラスコナ小学校のグレード5(5年生)で、アレキサンダー通りのバンクーバー日本語学校の5年生でした」。ストラスコナ小学校に通っていた日系カナダ人の生徒約630人が去らなくてはならなかった。学校の生徒数は半分に減ったという。

 それから日系カナダ人コミュニティに起こったことを説明した。

 カナダ政府は日本に起源を持つ全ての日系カナダ人をブリティッシュ・コロンビア(BC)州沿岸から100マイル(160キロメートル)以東へ移動することを強制。家屋、自動車、ビジネス、漁船などの財産は差し押さえられた。その中にはホリイさんの父親が所有していた漁船も含まれていた。健康な18歳から45歳までの男性はロードキャンプで働くことを強いられ、BC州内のホープ・プリンストン、レベルストーク・シカモス、ブルーリバー・イエローヘッドの3カ所に送られた。ロードキャンプ行きを拒否した者は移民局の建物の中に隔離される。また、ロードキャンプで抵抗した者はオンタリオ州の捕虜収容所(Prison of War)に送られた。

 カナダ政府がBC州内に用意した収容地は10カ所。最大規模だったのはタシメグリーンウッドスローカンシティ、レモンクリーク、ポポフ、ベイファームローズベリー、ニューデンバー、サンドン、カスロー。サンドンには仏教徒が多く送られ、高い山に挟まれた谷間の街で冬の環境があまりにも劣悪なため、のちにニューデンバーに移ったと説明した。これら10カ所は「政府から補助金がでる強制収容所でした」。

 1942年1月14日にカナダ政府が日系カナダ人を「敵性外国人」とし同年2月から収容所送りを開始するも、これら10カ所の収容所は準備が間に合わず、多くがバンクーバー市のヘイスティングス・パークに集められた。尿やフンの臭いのする馬小屋での生活を強いられ、長い場合には「9月や10月頃までそこで生活していた人もいたと聞いています」。

 その他に「自分たちで生計を立てて暮らす収容地がありました」。自立型収容地で、BC州内に5カ所。イーストリルエット、ブリッジ・リバー、ミントシティ、マックギリブレイ・フォールズ。政府からの補助金は一切ないため自分たちで生活しなければならない。ただ家族一緒に移動できた。

イーストリルエットでの生活

 「私の両親は自立型収容地に行くことにしました」。鉄道でコールハーバーからスココミッシュに行き、そこからパシフィック・グレート・イースタン・レールウェイ(PGE、現在のBCレール)、で移動した。当時はスココミッシュがPGEの最南端駅だったと記憶している。乗り換えてから一晩明けるとリルエットの町に着いた。「朝、目が覚めると山に囲まれていました。『こんな所に住むのかぁ』と思いましたね。でもまあ、リルエットという小さな町で住むのも悪くないかと考え直しました」。しかし「驚いたことに」と続けて、そこからさらにトラックに乗せられて4マイル(約6.5キロ)走って着いたのはフレーザー川を渡った「イースト・リルエットという場所でした」。

East Lillooet

 父親やそこに移動してきた男性たちは春になるとタール紙を使った小屋の建設を始めた。母親はホリイさんを筆頭に5人の子どもを抱えていた。「飲み水も、電気もなくて、差別のため仕事もありませんでした」。日系人はリルエットの町に入ることすら許されていなかったという。

 それでも生活のために色々と工夫した。飲み水は購入した。生活用水はフレーザー川からの水をろ過する装置を作って賄った。食料は野菜を自分たちで栽培した。冬季でも保存できるジャガイモやタマネギ、「ゴボウも作ってましたね」と笑う。食用に鶏も飼育、卵も取れた。時には先住民からサーモンを買うこともあった。「母はサーモンを缶詰にしていました」。各家には「お風呂」も作った。こうして自立した生活を送った。

 イーストリルエットに移動してきた男性は多くが元漁師だったため、生活のためにできることが限られた。そこで「救世主となったのがハニー(メープルリッジ)で農家をしていたトクタロウ・ツユキさんでした」。ツユキさんによるとリルエット地方の気候は暑くて乾燥しているのでトマト作りに最適だという。そこで共同でトマトの栽培を始めた。収穫したトマトはニューウエストミンスターに送っていたが、そのうちに町にトマトの缶詰工場を作るとそこで加工した。「そうやって7年間生き延びました」。

 苦しい生活環境だったが、男性たちは子どものために小学校を建てた。「でも教師がいなかったので高校を卒業していた人ならだれでも小学校の先生を務めました」。ただすでに高校生だった10代の若者は高校を卒業することができなかった。移動してきた当時はリルエットの学校には行けなかったからだ。

 しかし1946年までには通えるようになっていた。ホリイさんもリルエットの高校へ通い、4マイルを自転車で通学したという。冬の寒さが厳しいリルエットで「寒い日は道路が凍っていましたし、学校に着いた頃には口も凍っていました」。

 高校に通いながら家計を助けるためにアルバイトもした。町の新聞社で働いたり、父のトマト農園や缶詰工場でも働いた。「長男が家を助けるのは当たり前でした」。

 それから高校3年になってカナダ人の友人とUBCハイスクール・コンファレンスに参加するためにバンクーバーに戻った時のこと。学校代表として行くにもかかわらず警察の許可証が必要だったという。「自分が生まれた町に行くのにRCMP(連邦警察)の許可証を取らなければなりませんでした」。BC州沿岸付近にいることすら許されなかったのだ。「カナダ人の友人と二人で映画を見たあと、宿泊場所だったその友人のいとこの家に帰る途中、イースト・ヘイスティングス通りを歩いていると警察官に呼び止められました。私が日本人だと分かったんだと思います」。「ここで何をしている」と聞かれた。「リルエットからの許可証を見せました。バンクーバーに来るための特別な許可証でした」。1948年12月のバンクーバーはまだ日系人に冷たかった。

 そしてリルエットの高校を1949年に卒業した。

漁師をしながらUBC医学部を卒業

 1949年4月1日に強制収容政策は終了し、日系カナダ人は自由に移動できるようになった。同年に高校を卒業したホリイさんはブリティッシュコロンビア大学(UBC)に入学する。「両親が大学進学を許してくれました」。でも大学にお金がかかることは分かっている。「大学の寮に入っていましたけど、大学までは路面電車代10セントを節約するためにヒッチハイクをして通いました」。

 授業は通常5コースのところを6コース取った。「リルエットから出てきた田舎者の1年生はウブでした」と笑う。化学、物理、生物のラボもあった。「試験を受けて1年目を終えた時、よくやったなぁと思いました」。

 しかし父親の仕事を手伝うために1年で休学した。「父親はすごく漁師に戻りたがっていました」。1950年から父親を手伝って漁師となった。BC州北部のプリンス・ルーパート辺りでサーモン漁を始めた。漁師生活は2年間続いた。稼いだ収入は両親に渡した。やはりここでも長男として家族を助けるのは当然と考えていた。そうして家族は1951年にようやくバンクーバーに戻った。

 2年間の休学をへて1952年にUBCに復学した。相変わらず6コースを取ったという。夏には父を助けるために漁師として働いた。1957年まで漁師は続けた。

 1955年に大学を卒業し、友人から「医学部を受けてみないか」と誘われ申請したら「驚いたことに受理されました」と笑う。医学部時代には横隔膜下膿瘍で生死をさまよう経験をした。大学医学部の教授のおかげで一命を取り止めたが1年間を棒に振った。それでも1960年に卒業。それから2週間後には結婚し、フォルクスワーゲンで新婚旅行代わりにアメリカ北部を横断しトロントへ。トロント・ウエスタン病院で1年間インターンとして働いた。

医師時代に出会った日系一世の話

 強制収容前のバンクーバー。ホリイさんは家族の長男ということで、甘やかされることもあったという。例えば、パウエル通りの日本人街で、バンクーバー仏教会の前にあった小さな菓子屋にときどき連れて行ってもらっていた。「マツモト夫婦がやっていた店でした。そこで、あんぱんを買ってもらってました」。通っているうちにマツモト夫妻と仲良くなったが、強制収容時はどこに行っていたのか知らなかった。

 そして1961年医師として働き始めた頃、患者となったマツモト夫妻と再会した。その時に初めて、夫のマツモトさんが第1次世界大戦にカナダ兵として参加した退役軍人だったことを聞いた。「兵隊姿の写真は背が高くて、ハンサムで、強そうで。キンゴ・マツモトさんという名前でした」。

 日系カナダ人は第1次世界大戦にカナダ兵として222人が参加。BC州では差別が激しかったため入隊できず、アルバータ州まで行って入隊した。そのうち54人が戦死。バンクーバー市スタンレーパークには当時の日系コミュニティが建てた日系カナダ人戦没者慰霊碑がある。

 第1次世界大戦でカナダ兵として戦い、帰ってきた日系カナダ人には市民権が与えられた。「最初、カナダ政府は拒否したのですが、1931年に与えられました。東洋人としては初めての市民権でした」。しかし、「1941年12月、日本との戦争が始まるとマツモトさんも『敵性外国人』とされ、市民権もはく奪され、強制収容されました」。第1次世界大戦で戦った全ての日系カナダ人が同じ扱いを受けた。

 マツモトさんはヨーロッパで戦った時に毒ガスを吸っていたため肺を病んでいたという。「皮肉ですよね」。カナダのために命を懸けた国民への政府の仕打ちを皮肉った。

日系カナダ人強制収容と差別

「強制収容と差別について話すことに関心を持ち始めたのはずっと後になってからです」。医師時代は日本語ができる医師Dr. Aki Horiiとして親しまれ、多くの日系1世の患者を診た。いまは小学校や高校、大学、カレッジなどで経験談や差別について話している。

 ホリイさんは日系カナダ人に対するカナダ政府の対応は差別的な議員の言動が理由だったと話す。連邦、BC州、バンクーバー市、全ての政府に日系人に対する差別を公言する議員がいた。中でも国会議員からの言葉は特に影響が強かったという。

 当時のバンクーバー・サン紙に掲載されていた議員らの差別的な言葉を引用して、それがどれほどひどいものだったかを語った。「ジャップがブリティッシュ・コロンビア州に戻ることを決して許してはならない」「政府の計画は一刻も早くBCからこれらの人々(日系カナダ人)を追い出すことだ。私は公人として残された限りの時間を費やして個人的な意思を持ってこれを行う。彼らがここに二度と帰ってくることのないように」「ロッキーから太平洋まで一人のジャップも入れてはならない」

 そして、日本軍の真珠湾攻撃は日系カナダ人を追い出すための単なる口実だったことを論じるバンクーバー・サン紙2015年3月付の特集記事を紹介した。それは、1942年の同じ週の歴史として掲載されている。要約すると、東洋からの移民が来て以来50年の間、BC州は日本人の受け入れに反対してきた。しかし連邦政府がそれを阻止してきた。だが、このたびすばらしい軍事的理由で日本人を内陸部に移動させることができた。戦争を利用して問題を解決できたことは喜ばしい、と述べている。

 ホリイさんは「これを読むと戦争は当時日系カナダ人を追い出すための口実だったことがよく分かります」と力を込める。それは1945年8月15日に第2次世界大戦が終わっても続いた。1945年カナダ政府はBC州に住む日系カナダ人にロッキー山脈より東に移動するか、日本に帰るかの二者択一を迫った。約4,000人が日本へ行き、「多くの人はアルバータ州やサスカチュワン州に行きました」。

 差別はいつどこでも起きると話す。それは心に傷を残す。「かつて、医師たちのミーティング中に、ある医師が『ジャップ』という単語を何度も使ったんです」と自身の経験を語った。「それから1カ月、眠ることができなくて」。次のミーティングでそのことを告げるとその医師は謝ったという。

 「差別は最も予期しないところで起きるものなんだよ、と生徒たちには伝えているよ」と静かに語った。

(取材 三島直美)

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「お笑いの発想を絵本に」絵本作家 田中光さんバンクーバーでワークショップ

自作絵本を持って。田中光さん。2025年6月29日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
自作絵本を持って。田中光さん。2025年6月29日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 絵本作家の田中光さんが今年6月にバンクーバーを訪問。子どもたちを対象としたワークショップを開催した。

 2019年に出版した初めての絵本「ぱんつさん」(ポプラ社)が第25回日本絵本賞(全国学校図書館協議会主催)を受賞。その後も数冊を出版している。

 絵本作家以外にも、お笑い芸人、ギャク漫画家の顔も持つ田中さんに、バンクーバーで話を聞いた。

バンクーバーでのワークショップ開催

 今年6月29日にバンクーバー市で子どもを対象としたワークショップを開催した。田中さんによる絵本の読み聞かせや、テーマを選んで自由に絵を描いて発表してもらうなど、アクティブなイベントとなった。

 ワークショップには光浦靖子さんも参加。子どもたちの積極的で自由過ぎる発想に田中さんも感心しきりだった。

ワークショップについて

 「カナダに住んでいる子どもたちのテンションだったり、『私もやりたい、私もやりたい』という感じが強かったのにびっくりしました。すごく楽しく良いイベントになったと思います。子どもたちが『なんか作りたい』って言ってくれたので、すごくやって良かったなと思います」

造語をテーマに絵を描く

 ワークショップでは、田中さんがあらかじめ用意しておいた「単語」が書かれた紙を2枚選び、紙に書かれた単語を組み合わせて、これまでに聞いたことがない「造語」について子どもたちに絵を描いてもらうという企画があった。「シャイなすいか」「耳があるチョコレート」「すごく長いいちご」などの造語が出来上がり、子どもたち独特の感性でそれを絵で表現する。

造語からインスピレーションを受けて描いた自身の絵を子どもたちに見せる田中光さん(左)、一緒にイベントを盛り上げた光浦靖子さん(中央)、カメラを操作するウィトレッド太朗さん(右)。2025年6月29日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
造語からインスピレーションを受けて描いた自身の絵を子どもたちに見せる田中光さん(左)、一緒にイベントを盛り上げた光浦靖子さん(中央)、カメラを操作するウィトレッド太朗さん(右)。2025年6月29日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 この企画には田中さんなりの理由があった。

 「改めてものを見るってことが結構ないと思うんです。例えば「泳ぐリンゴ」という言葉ができたとする。ここで改めてリンゴのことを考える。その時にリンゴの特徴を多分みんな一回頭の中でぐるぐるっと回して、いろんな角度からリンゴを見るんです。赤い、酸っぱい、甘い。過去にリンゴを食べてお腹を壊した子がいたら『お腹を壊した』とか。連想されるものがたくさんあると思うんです。切ってしばらく置いとくとちょっと黒くなっていっちゃうとか。この、リンゴの特徴をいろんな角度から見るっていうことが結構大事だと思っていて。

 これって多分将来的に子どもたちが大人になった時も、大人もそうですけど、一つ問題が起こった時に『もうダメや』ってなるんじゃなくて、ちょっと目線をずらして、こう見たら『意外とこうやったらいけるやん』とか、多角的に物を見れるような能力ができたらいいなと思って。一回考えてみようっていう感じにしてるんです。

 見たこともない、初めて今日出来上がった言葉『泳ぐリンゴ』を考えてみる。いろんな角度から『泳ぐ』ってことは沈むんかな?リンゴは浮くんかな?塩水やったらちょっと黒くなりにくいんかな?とか。頭の中でそれをいろんな角度から見る。

 これは大人も結構いろんなことに応用できることだと思うので、そういう部分ができたらいいなと思ってます」

 子どもたちの発想ははるかに自分の想像を超えていたという田中さん。「自由ですよね。カナダの子どもたちはパワフルでしたね。『こんなものの見方してるんや?』とか発見がありました。結構何人かぶっ飛んだ子もいましたよね。おもしろいなと思って。絶対にポテトしか描かない子どもとか(笑)。カナダの子どもたちは『ペンがない』『もっと紙ほしい』みたいな。すっごい前のめりで。『描きたい』『なんか作りたい』っていう気持ちがいっぱいあって、うぁってなってたんで、これはすごく良かったなと思って。そういう衝動が生まれただけでよかった。光浦さん、ありがとうございます!っていう感じでした」

 子どもたちに絵を描いてもらう提案は光浦さんからだったという。当初はそれほど積極的に子どもたちに絵を描いてもらう予定ではなかったと話す。最初は田中さんや光浦さんが子どもたちからもらった言葉をヒントに絵を描いて、その子に描いた絵を渡していた。しかし光浦さんから「子どもたちにも描いてもらおう」と会場で提案された。

 子どもたちは田中さんや光浦さんがいる場所に近い所で床に座って二人を見ていた。「僕が絵を描いてるところをのぞきに来たり、ちょっかいかけに来てもいいしと思って前に座ってもらいました。多分、いすに1時間もじっと子どもたちは座っていられないと思いましたし」。結果的にそれが子どもたちに絵を描いてもらう提案で生きた。「良いイベントになりました。最初思い描いてた状態とは違いましたけど、それが良かった。色々とこんなやり方もあるんだと思って、めちゃくちゃ勉強になりました」

絵本について

自身の絵本を使って読み聞かせをする田中さん。2025年6月29日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
自身の絵本を使って読み聞かせをする田中さん。2025年6月29日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 ワークショップの前半では読み聞かせもあった。自身の絵本を画面で見せながら読んでいく。文字が少なく、絵が主体の絵本には想像力がかき立てられるようだ。田中さんは子どもたちに話しかけながら、双方向の読み聞かせとなった。

 「僕の絵本は文字が少ないんです。だから『これこうなってて』みたいなコミュニケーションを取りながら、家で読んでいただく場合も一緒に読めるんです。その言葉、そのストーリーに余白があると言いますか、こうなってこうなるっていうのを決めてないので。お父さん、お母さんたちが、好き勝手に物語を足してもいいですし、セリフを勝手に足してもいいですし、そういう余白をちょっと残してるというような感じです。

 色々コミュニケーションツールになると思ったんですよ、絵本自体が。親子で『これどうなってんやろ?』みたいな。そうなるといいなと思いながら、なるべく意味を減らそうとは思ってます。

 内容はあまりストーリーもつけずに、僕は、変な世界の現象だけを描きたいなっていう感じなんです。意味を説明もしたくないし、無意味なものを作りたいっていうところでやってます。絵本でちょっとパンクをしたかったという感じでしょうかね。

 基本絵本の作りが『いないいないばあ』なんです。一番シンプルな、子どもが最初に触れるお笑いってこれじゃないですか、『いないいないばあ』。だから『猫いる?いる!』だけの繰り返しにして、そこの段積みというか、どんどんエスカレートさせていって、それで、今はなかなか紙で本を買うことも少ないというのが世界的になってると思うんすけど、子どもたちが紙の本をめくる楽しさみたいなものがここに生まれるとは思ってるので。隠しておいて『いないいないばあ』って、紙だからできる動きだし、これを好きだなと思ってくれたらいいなとは思ってます」

バンクーバーでワークショップを開くきっかけ

 「そもそもがちょっとカナダに遊びに来たかっただけなんです。で、1回来てみたかったので、せっかく来るならっていうことで知り合いからこういうワークショップできるんじゃないかと提案してもらったのがきっかけです」

 今回は、バンクーバー市ガスタウンにあるギフトショップ「Gifts and Things」オーナー佐藤さんと日本カナダ商工会議所副会長のウィトレッド太朗さんがサポートした。田中さんが佐藤さんたちと出会うきっかけは、ひょうたんアーティストのあらぽんさんだったと話す。

 「あらぽんっていうひょうたんアートをしている人がいるんですけど、事務所は違うけど芸人の後輩にあたるんです。あらぽんと僕はCM出演がきっかけで仲良くなって。それで佐藤さんを紹介していただいて。カナダでこういうお仕事されてる方ですって。会わせてもらってお話してるうちに『カナダ行きます、僕!』ってなって」

 佐藤さんによると、出会って半年くらいでバンクーバー訪問が実現したという。「佐藤さん、太朗さんはじめ、色々な方に本当に助けていただいて。1人で来てたら絶対できないイベントなので、言葉も話せないし、すごく助かって。ありがたいです」

お笑い芸人、ギャグ漫画家、絵本作家

 「(京都の)美術の大学で、版画学科に行ってて、1年で中退して吉本興業に入って、それからずっと10年ぐらい漫才とかやってて、絵を描き始めたって感じです。

 どっちで食べていくかは悩みながらだったんです。絵で食べていこうか、芸人で食べていこうか。出身が関西なんでお笑いもすごいしたいなと。漫才とかすごいおもしろいの作れるけどな俺とか、変な勘違いをしながらやってて。絵は意外と年を取ってからでも描けそうやなと思ったけど、お笑いは年取ったらなかなかスタートするのが難しいと思うので、先にお笑いやっとこうと思って、大学辞めて、吉本興業入って、みたいな感じです」

絵本作家になるきっかけ

 「きっかけというほどのきっかけはなくて」という田中さん。ギャグ漫画を描いていた時に、仕事関係で仲の良い人と一緒に親戚のおじさんも誘ってコンサートに行ったという。コンサートの後、「居酒屋で飲んでて、『今何やってるんですか?』って親戚の人に聞かれて、ギャグマンガとか書いてるんですよって見せたら『絵本とか書いてみます?』って。その人がポプラ社の方だったんです。『え、いいんすか?』『いいですよ』ぐらいで始まったんです」

 記念すべき1冊目「ぱんつさん」が日本絵本賞を受賞。「それで『じゃ次も出してください』となって。その後もたくさん出させていただけるようになって、あれよあれよと気がつけば絵本作家になってたんです」

 今は芸人活動はやっていないという。「あんまり人前が得意じゃないなっていうのに気づいたので(笑)。家で絵を描いてる方が性に合ってるなぁって、感じですね」

 それでも絵本の発想はお笑いからだと言う。

 「大喜利ってあるじゃないですか?その場の瞬発力でお題に対して何かを言う。1個に対していっぱい答え考えて書くっていうのを、本当にもう多分20何年やっているので、そこはやっぱ強くなりましたね。すぐ作れます。ただ、描くのが面倒くさいなってなっちゃうことはありますけど。

 思いつくのは早いんですよ、『こんなんやりたいな』って。寿司だったら寿司にタイヤがついてたらどういう状況が生まれるかな、みたいなのを、とりあえずバーッと思いつく限りiPhoneのメモ帳に書いちゃって。『これつまらんから取ろう』『これとこれ繋げたらおもしろいよな』『これとこれ意味が似てるから1個取ろう』とかを、バーッと頭の中で組み立てて。それで、ページ数決まってるんで32ページに収まるようにして。それから大体さっくり絵を描いてっていう感じですね。

 お笑いでネタを作っていたので、ネタを作る時の経験が生かされてると思います」

今後の絵本作家としての目標

 「自分の絵本を日本から脱したいなという気持ちはあります。ギャグマンガとか、お笑いは海外に出にくいと思うんです。文化が違うし、お笑いも違うし、笑うポイントも違うし。アメリカだったらスタンダップコメディが基本だったりしますし。ボケ・ツッコミみたいな文化もないですし。なかなかお笑いが海外に出せなかったんですよね。

 これを絵本で、お笑いじゃない状態にして。発想はお笑いから作っているんですけど、お笑いじゃないような顔をして出していけば、うっすら芸術と勘違いしてくれる人がいるんじゃないかと思って。

 日本以外でも受け入れられるようなものができるとすごく楽しいだろうなと。僕の世界もきっと広がると思います」

バンクーバーの印象について

イベント終了後に参加者の求めに応じて記念撮影や絵本に自筆の絵とサインをする田中さん。2025年6月29日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
イベント終了後に参加者の求めに応じて記念撮影や絵本に自筆の絵とサインをする田中さん。2025年6月29日、バンクーバー市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 「僕が来たこのタイミングが、夜が長い時期だったので、これは日本にいたら体感できない部分で『おもしろいな』って。夜9時ぐらいでも明るいから、すごい昼間からお酒飲んでるような気持ちでふらふらしていられるのは贅沢ですよね。

 あと自然と人工物、文化のバランスっていうのが、どっちもいいです。町として元気もあるし、バンクーバーはいいなと思いました。自然も多いし、きれいですもんね。とても景色もいいですし」という話す。合法化されている大麻のにおいも少し気になったと本音も語った。

 バンクーバーで絵本にできるようなインスピレーションがあったか聞くと気になったのはトーテムポール。「あの形って色使いも含めておもしろいから、トーテムポールとは言わずとも、何かを積むっていうのは、積んでるわけじゃないけど、動物がこう積み上がってるいるように見える形は、おもしろいかもしれないです。本だったらだるま落としみたいなことがあると思いますね」と語った。

読者プレゼント

 田中光さんが絵とサインを入れた絵本を2名様(各1冊)にプレゼントします。ご希望の方は件名に「田中光さん絵本希望」と明記して、田中さんへのメッセージや記事への感想を寄せてご応募ください。応募先はpromo@japancanadatoday.ca、締め切りは2026年1月31日
 たくさんのご応募お待ちしております。

 当選者の方には2月初旬に連絡いたします。郵送となりますので、当選者はカナダ国内に限らせていただきます。当選者には、氏名・住所・電話番号をお聞きます。あらかじめご了承ください。

訂正:読者プレゼント締め切りは2026年12月31日ではなく、2026年1月31日です。ご希望の方は早めにご応募ください。

(取材 三島直美)

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山野内勘二駐カナダ特命全権大使より新年のごあいさつ

 日加トゥデイ読者の皆様、明けましておめでとうございます。明けましておめでとうございます。令和8年を迎え、新年の御挨拶を申し上げます。

 今年は午年です。天高く駆け上がる駿馬の如く、力強くしなやかに飛躍に満ちた一年となりますよう祈念しております。

 昨年は、カナダにとって激動の年でありました。1月のトルドー(前)首相の退陣表明に始まり、3月のカーニー氏の新首相就任、議会解散に続いて、4月の総選挙、5月のカーニー新政権の発足、6月のG7カナナスキス・サミットの開催のほか、年間を通じ、春・秋計2回のG7外相会合を含む計7つのG7関係閣僚会合やビジネスサミット(B7)等の計6つのエンゲージメント・グループ会合を開催する等、各分野で確実な成果を上げつつ、激動の年を確かな歩みで駆け抜けました。とりわけ印象に残っているのは、カーニー新政権が発足して僅か1か月で開催したG7カナナスキス・サミットです。カーニー首相の見事な采配ぶりに加え、議長サマリーのほか、重要鉱物アクション・プランやAI、量子等7つの首脳声明を発出したことは大変大きな外交成果であったと思います。カナダのG7議長国としてのリーダシップと貢献に改めて敬意を表したいと思います。 

 日本とカナダの二国間関係に目を転じますと、G7カナナスキス・サミットにおける日加首脳会談に続き、APECにおける日加首脳会談、G7ナイアガラ外相会合における日加外相会談等、ハイレベルの意思疎通が切れ目なく緊密に行われているほか、経済や安全保障の分野で新たな協力の展望を拓く、いくつかの重要な動きがありました。

 まず、6月末には、待望のBC州のLNGカナダプロジェクトによるLNG生産が開始され、日本を含むアジア地域への出荷が開始されました。年間1,400万トンのLNG生産能力を有するカナダ最大規模のLNGプロジェクトで、日本への輸送時間が約10日間であるなど、我が国及びインド太平洋地域のエネルギー安全保障にとってゲーム・チェンジャーと言える存在です。カーニー政権が推進する「主要プロジェクト」に選定された「LNGカナダ・フェーズ2」の実現に大いに期待すると共に、カーニー政権の「エネルギー超大国」構想にも注目していきたいと思います。

 7月には、情報保護協定の署名が行われました。国際社会は時代を画する変化に直面し、信頼関係にある国との間で機密性の高い情報を交換する重要性が高まる中、日加間の情報交換を促進する本協定を基に、安全保障分野における関係がより一層拡大・深化することに期待しています。また、日加防衛装備品・技術移転協定についても早期の署名を実現させ、強靭で信頼性のあるグローバルな防衛サプライチェーンの構築を含む防衛産業分野での協力強化が一層進むことを期待しています。

 9月には、史上初となる航空自衛隊F-15戦闘機によるカナダ訪問が実現し、日加空軍種協力の新たな一歩となりました。今回の訪問では、両空軍種による戦術面の意見交換や共同訓練に関する議論が活発に行われ、相互理解と信頼が大きく深まりました。カナダ側からは航空自衛隊の運用能力や機動力に対する高い評価が寄せられ、今後の協力拡大への強い期待が示されました。この歴史的な訪問をきっかけに、日加防衛関係の更なる発展に期待したいと思います。

 12月には、経団連カナダ委員会による9年ぶりのカナダ訪問が実現し、オタワでは、カーニー首相を始め、アナンド外務大臣、ホジソン・エネルギー・天然資源大臣、ジョリー産業大臣、シャンパーニュ財務大臣、シドゥ国際貿易大臣及び連邦議会加日議連執行部との意見交換の機会に恵まれました。カーニー政権が重視する貿易の多角化や大型インフラプロジェクトの推進、エネルギー輸出の政策課題等、更なる連携強化に繋がる有意義な意見交換ができました。また、経団連とカナダ・ビジネス評議会との協力覚書への署名が行われ、日加ビジネス協力の新たな枠組みが立ち上がったことは心強く、更なる前進に期待したいと思います。

 民間交流に関しても多くの進展がありました。大阪・関西万博を契機に、多くのカナダの方が訪日し、訪日人数が前年比20%増の70万人に届く勢いとも側聞しております(2025年12月現在)。カナダの「再生」をコンセプトとしたパビリオンでは、拡張現実(AR)を駆使した没入型の体験を通じて、カナダの自然美、多様性、歴史と革新性等を表現したほか、カナダの食や活気溢れるパフォーマンス等をショーケースし、多くの訪問客を魅了しました。

 9月には北米初の北米国際よさこい祭りがアルバータ州レスブリッジ市で開催され、私も参加し、よさこいをきっかけとした日系コミュニティを超えた様々な人々との繋がり、また、繋がることで見えてくる新たな希望を肌で感じることができました。同祭りの翌日、レスブリッジ市で開催されたNAJC(全カナダ日系人協会)年次総会にも参加させていただきました。テーマは「繋がり」。日系人コミュニティの連携が引き続き強化され、更なる希望が育まれることに期待しています。

 10月から11月にかけては、カナダ唯一のMLBチーム「トロント・ブルージェイズ」が32年ぶりにワールドシリーズに出場しました。私も連日「ジェイズ」のユニフォームを纏い、オタワから同僚や地元の方々と共に熱い歓声を送りました。ドジャーズには惜敗を期しましたが、「ジェイズ」の今年の活躍を確信しています。

 カナダにおいては、1988年の開始以来、累計1万人を超える青年が参加し、日加間の民間交流に寄与しているJETプログラムについても、引き続き大切にしていきたいと考えています。

 紙面の都合上、日加関係の全ての進展をここに記すことはできませんが、様々な形で日加関係の増進に日々御尽力されておられる皆様の御活動に心から敬意を表したいと思います。日本とカナダは、厳しい地政学的な状況にあって、自由、民主主義、人権、法の支配といった基本的価値を共有するインド太平洋を隔てた隣国、信頼できる同志国、重要な戦略的パートナーであります。二国間あるいはインド太平洋における様々な取組を着実に前進させ、日加関係を更なる高みに引き上げるべく、より一層力強く努力してまいります。本年も変わらぬ御支援をよろしくお願い申し上げます。                                    

(了)

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