戦後80年を振り返って。モントリオールより

戦後80年の回顧

李花

80年前のあの日々の灼けつく様な太陽と飢餓、警戒警報に飛び込む防空壕。8歳児には何が何だか、解らないまま、親兄姉に引かれて逃げ回ったあの筑豊炭田!

解らないまま、広島長崎新爆弾(原爆)。そして終戦…。

戦後80年の今日ですが、世の中は〜、世界は、80年前と大差はありません。あれから朝鮮戦争、ベトナム戦争…に続き、腹を空かして、解らないままに逃げまわった8歳児の私が写ります。今朝のニュースのガサの避難民の子等の中にも…。

終戦の日、隣組の異様な風景を見ましたが、無条件降伏とは、分かりませんでした。炭鉱は引き揚げ者が来て、賑やかになりました。

その後の朝鮮戦争で日本の経済は蘇生しました。サンフランシスコの講和条約などは知らず、カナダが敵国だったことも後になって知りました。

注:1939年に制定された国民徴用令に基づき、朝鮮半島からの労働力動員が行われました。当初は「自由募集」方式でしたが、応募状況が芳しくなかったため、1942年からは「官斡旋」方式、さらに1944年からは「徴用」による強制的な動員へと移行しました。

徴用された朝鮮人たちは、日本の炭鉱で過酷な労働を強いられました。落盤事故や怪我をしても十分な治療を受けられず、劣悪な環境での労働を強いられることもありました。

クーパー達子

終戦時、2歳半で、何も知らず、解らずで、思い出にあるのは戦争とは関連なく、ただ貧しく、食べる物に、着るものに、不足していた事を思い出します。

学校でも、戦争の事は、原爆のあと、終戦した、(敗戦ではないと)と教わった思い出があるだけ。

戦争について、教えてくれる教師もなく、自分での勉強もしないので、細かいことには、お答えが出来ません。

しかし、戦後の色々な法律改革で、今日の自分があることを思い知らされています。

女性も対等に生きられる。男性の3歩後に付いて行かなくても良い、有り難さ。

争いは、なかったほうが良いですが、日本にとっては、負けて良かったのではないでしょうか。

戦争は、勝っても負けても人を殺します。それを知ってか知らずか、残念ながら、今でも、あちら此方で戦っていますね。

いつになったら、学ぶのでしょうか。

ウォング直美

1. 終戦の詔勅で、日本が無条件降伏をしたと分かりましたか。

いいえ、未だ小さかったので。でも大人が泣いていたのを覚えています。

2. マッカーサーが連合軍最高司令官であることが分かっていましたか。

いいえ、名前と偉い人だという事は知っていましたが、最高司令官というポジションは知りませんでした。

3. ジープに乗るアメリカ兵を目撃しましたか。

はい、東京の街なかで見かけました。家にも遊びに来ました。

4. 新憲法で、婦人参政権が認められたことを認識していましたか。

はい、かなり後になって、学校で習ったと思います。

5. 公職追放、極東軍事裁判、相次ぐ政権の交代をどう思いましたか。

若い頃は政治に関心がありませんでした。

6. 終戦後の食糧事情、引き揚げ、新円の発行など、身辺での変化についてお書きください。

終戦直後から小学校に通い始めましたが、給食でした。必ずミルクが出てそれを飲まなければならないのがつらかったのを覚えています。

7. 朝鮮戦争で、景気がよくなり、日本の経済が上向きになったと思いますか。

はい、あの戦争によって日本は戦後の貧困から抜け出し、それによって社会主義ではなく、民主主義が根付くように なった、という話も聞きました。

8. 1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約のことを憶えていますか。

はい、意味は良く分かりませんでしたが、学校の朝礼で、(初等科)の科長先生が 、日本は独立国になったとおっしゃったのを覚えてます。

9. 戦時中、日系カナダ人が収容所に入れられたことを知っていましたか。

いいえ、知りませんでした。でも、アメリカでinternmentがあったことは知っていました。

10. 終戦によって、ご自身の進学、生き方が変わりましたか。カナダが戦時中の敵国であったことを認識していますか。

未だ小さかったので、生き方、進学などに直接影響はありませんでした。

高校の時アメリカ留学をしましたが、未だ対日感情が余りよくなく、何故、日本はあのようなバカな戦争をしたのか、と聞かれましたが、勉強不足で答えられませんでした。

戦後 80 年の回顧

佐伯洋子

第二次世界大戦は、1939年(昭和14年)9月1日から1945年(昭和20年)8月15日(または9月2日、アメリカの戦艦ミズーリ号上での無条件降伏文書への調印の行われた日)、約6年にわたって続いたドイツ・イタリア・日本などの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス・フランス・中華民国・アメリカ・ソビエト連邦などを中心とする連合国陣営との間で戦われた戦争である。終戦まで中立であった国は少数であったが、スイスやサンマリノのように戦争の被害を受けた国や、スペインやポルトガルのように中立でありながら一方の陣営に協力を行う国もあった。最終的に連合国陣営の勝利に終わったが、第一次世界大戦以来の世界大戦となり、人類史上最大の死傷者を生んだ。

この戦争での日本人の死者は370万人(軍人230万人、一般市民80万人)、世界全体では、5,000万人~8,000万人(8,500 万人)、軍人2,200万人~2,500万人、民間人3,800万人~5,500万人とされている。

ユダヤ人の死者は570万人とも600万人とも言われているが正確な数は不明。

カナダ人の死者は45,000人、主に香港での戦闘とされる。

日系カナダ人22,000人が西部の海岸部からの立ち退き命令で、カナダ人であるにも拘わらず、敵国人として扱われたことから、1988年の連邦政府によるリドレスが行われた。そして、2020年のBC州政府によるリドレスは、モントリオールに住む日本人、日系カナダ人には既知のことであるから、ここでは言及しない。

あの戦争で日本は「日独伊三国同盟」で「枢軸国」、英国、ソ連、アメリカなどが「連合国」と言われていたことをどのくらいの人が覚えているだろうか。

開戦の年、私は小学校二年生だった。一年生の時は福岡に居り、皇紀二千六百年の祝賀行事(神武天皇が即位してから2600年とした日本政府の祝賀行事)で父は商工省の官吏として祝典に行った。そのころ、それまで「パパ、ママ」だったのが「お父様、お母様」というように命ぜられ、どうしてか理由がわからず、困惑した。昭和16年の4月から、東京に戻り、池袋第5小学校に通い、12月開戦。国民学校に呼称が変わり、5年生の1学期まで、通学。2学期から、祖母の家に縁故疎開。そのころ、日本で2番目に生徒が多い、茨城県石岡の小学校に6年の5月まで通学した。その後、戦況の悪化で、父の郷里、新潟県三条市の伯父の借家に母と二人の妹と一緒に住んだ。終戦の詔勅は父の実家、新潟県南蒲原郡本成寺村字長嶺(現在、三条市長嶺)で聞いた。終戦後の11月に東京に帰り、元の学校が戦災で焼失したので、家の近くの千早小学校に通学した。終戦から80年の紆余曲折を質問に従い、記述する。

1.終戦の詔勅で、日本が無条件降伏をしたと分かりましたか。

当時、国民学校の六年生。盂蘭盆会の最中、ラジオで詔勅を聞いたので、何が何やらわからず、とにかく、戦争が終わったことだけ分かった。無条件降伏ということはわかっていなかった、というより、考えもしなかった。

2.マッカーサーが最高司令官であることが分かっていましたか。

これは、わかっていた。11月に東京に帰ってからは、はっきり認識し、敗戦の現実の中での日々を過ごした。新聞、ラジオ、両親の話などですべてが変わったと思った。

3.ジープに乗るアメリカ兵を目撃しましたか。

新潟では見なかったが、東京に帰ってからは、時折、見た。街中ではない豊島区千早町の住宅街に住んでいたので、進駐軍もそれほど頻繁には来なかったと思う。今とは違い、麦畑や大根畑があり、まさに東京の田舎だった。

4.新憲法で、婦人参政権が認められたことを認識していましたか。

これは、家族の間で話題になり、母は滔々と、いかに参政権が必要であるかを話した。やたらに「家族会議」をしたのは、子どもたちが大きくなったせいかもしれない。

5.公職追放、極東軍事裁判、相次ぐ政権の交代をどう思いましたか。

不気味な感じだった。特に父は戦時中、軍需省に勤めていて、海軍司政官として、ボルネオ、セレベスの石油確保の仕事をしたりしていたので、心配した。司政長官だった人は公職追放になった。

6.終戦後の食糧事情、引き揚げ、新円の発行など、身辺での変化についてお書きください。

何よりも食糧難で、飢えに苦しんだ。米の配給は遅れるし、量が少ない。郊外の農家に母が着物を持って買い出しにいったが、取り締まりを逃れるのが大変だった。泥棒に入られた時も着物だけ盗られた。戦時中より、戦後の方がひどかった。畑の向こうに海藻麺の工場があり、悪臭が漂っていた。新円での生活も大変だった。

発疹チフスで前の家の娘が死に、DDTを振り掛けられ、結核の患者、戦争の為の精神病の人も近所にいて、戦時中、戦後 に死んだ。

7.朝鮮戦争で、景気がよくなり、日本の経済が上向きになったと思いますか。

まさにその通りで、どんどん経済が回復した。あの戦争がなかったら、日本の経済はどうなっていたか、わからない。

8.1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約のことを憶えていますか。

条約が締結されたことは知っていたが、それが実際に生活の場でどう表れるのか全く見当がつかなかった。

9.戦時中、日系カナダ人が収容所に入れられたことを知っていましたか。

二世の方から、いろいろと聞かされた。収容所での記憶を全く失っていた人もいた。ただ、自分たちは、不当な取り扱いを受け、1988年にやっと連邦政府のリドレスが決まったことも知っている。戦後のララ物資が海外からの日系人による物であったことは最近知った。

10.終戦によって、ご自身の進学、生き方が変わりましたか。カナダが戦時中の敵国であったことを認識していますか。

大いに変わった。教育改革によって、都立第十女学校に進学したものの、途中で高校の併設中学になり、男女共学に。それが終わって高校で、合計6年間を同じ学校で過ごした。

大学の進学の時は、男女差のない音楽を選び、それで、よかったと今も考えています。その時はカナダに来て、半世紀を過ごすとは夢にも考えなかった。

戦後80年の今も世の中は戦争だらけ、民主主義も重大な危機に晒されていて、人類は今後、どうなるのかを考えさせられている。超富裕層が金星に移住して生き延びるのだろうか。金満家の人だけがAIを頼りに生きるとしたら、などと考えると憂鬱になる。

封建的な慣習を捨てて、自分なりの生き方をしたいと思った。当時は「ガラスの天井」というようなことは聞かなかったと思う。

無戸籍の6年間

マレットあけみ

1945年2月に満洲で生まれ、翌年8月に家族で東京へ引揚げてきた。引揚げが容易なものではなかったのは母が時折語っていたが、如何せん私は何も覚えていない。当時4歳だった兄はうっすら逃避行の記憶があると言っていた。母は、兄が自分の毛布を入れた小さなリュックを背に、その年齢にしてはよく歩いてくれたと述懐していたのを思い出す。

敗戦後の疲弊した日本で、特に引揚者、復員軍人が生活を立て直すのは困難が多かったことだろう。そうした中で兄は小学校へ、私は出来立ての幼稚園に一期生として入ったものの、麻疹やら何やら続けさまに罹って長期間休み、その挙句、退園。いわゆる中退を人生初めのこの段階で経験している。

近所には1951年4月に小学校に上がる同い年の子が、私を含めて3人いた。東京都台東区立谷中小学校である。1902年創立のこの小学校には、父(1912年生まれ)も通っているので、父と私は同窓生ということになる。

さて、近所の子2人には区から入学通知が届いたというのに、私にはなにも来ない。親が心配して問合わせたところ、なんと私は存在していなかった。満州から送った出生届が海の藻屑と消えたか、戦火に遭ったか、なのだろう。そこで慌てて手続きがとられた。6歳にして戸籍デビューである。

つつがなく新入生にはなったが、手持ちの戸籍謄本をよくよく見ると、出生地、年月日に続いて、「届出昭和弍拾六年拾弍月拾五日受附入籍」となっており、記載されたのはやっと12月になってからということがわかる。

戦時中の混乱から、私のような戸籍記載漏れの子は日本中に何人もいたことだろう。

母はよく「橋の下で拾ったのよ」と笑い、私も「もっとお金持ちの家の子なのかも」と妄想交じりに返事したものだ。

当事者ながら、実感も実害もない戦争余話の一つである。

付記:戦後80周年に当たり、戦争経験者の方々に感想を書いていただきました。70周年の時には「モントリオールブレテン」に、景森照葉、井上博子、二村カノ、ノー斐子、ウォング直美、李花の皆様と佐伯洋子が回想の文を書きました。それから10年、恋人との別れ、戦時・戦後の物資不足の有様を書かれた景森さん、北海道でいざという時のために毒薬を渡されたという井上さん、満州からの引き揚げの苦労を記された二村さんは、他界されました。

今回は、李花さん、ウォング直美さん、佐伯に加え、大戦時、幼児だった、クーパー達子さん、マレットあけみさんが戦争については何も記憶がないものの、戦争にまつわる戦後の生活を綴ってくださいました。ノー斐子さんは英文の手記をモントリオールブレテンに寄稿されました。

1945年、東京への3月10日の空襲で10万人が死んだことを下町に住む中学生に聞いたら、一人を除いて、全く記憶にないことを知人が書いています。東京は 106回空襲を受けています。現在、ワルシャワに住み、ポーランド人になっているSさんは、この空襲の際、どこをどのように逃げたか記憶はないが、幸い、生き残ったと言っています。

広島の原爆での死者数は当時、約14万人とされ、今年、新たに4,940人が追加され、合計34万9,242人の名前が記帳されています。長崎では、今年3,167人が記帳され、合計20万1,942人となっています。長年、カナダに住んで、昨年、やっと被爆者手帳をもらった知人もいます。

海外からの引き揚げ者は、軍人・軍属310万人、一般邦人629万とされています。戦前からサイパン島などに住んでいた邦人は未だに帰ることが出来ないでいるのです。

20年前にモントリオールに来た親戚の中三の女子が、8月5日にモントリオール植物園での祈年祭に行くと言ったら、「広島で何があったの」と聞かれ、驚いたこともあります。

私の身内で戦死したのは、陸軍士官学校を出て直ぐに、ノモンハンに派遣され、ソ連の戦車が頭の上を通り過ぎて行って生き残った母方の叔父です。最後に会ったのは「姉さん、今度は生きて帰れません」と別れの挨拶に来た時でした。疎開先の石岡で、ある夜、祖母が跳び起きて、階段を降り、台所の入口で「悦三が帰って来た」と叫びましたが、だれもおらず、後から「多分、お別れに来たのよ」と叔母が言いました。

もう一人の叔父は栄養失調で帰還。回復するまで、時間がかかりました。大連にいた叔父は早い時期に帰りました。

また、従兄の一人は海兵の最終学年で派兵されなかったものの、終戦後はどこの大学にも行かず、風太郎になってしまい、かなり経ってから普通の生活をし、長生きして、死にました。予科練に行った従兄は、帰郷して小学校の先生になりました。

父方の従兄は満州でソ連軍に捕らえられ、シベリアで何年かを過ごして帰りました。そのため、家族から「シベリアさん」と言われていました。

もう一人の父方の従兄は徴兵されたものの、即日帰還で、腎臓結核と言われましたそうですが、治療もしないのに長生きして、昨年死にました。

母が9人兄弟でしたので、従兄弟の数も32人。自殺したのが3人。その後の消息は行き来のある従兄弟以外はわかりません。

終戦の翌日、「叔母様、これからは英語の世の中になるから、英語を教えてください」と英和辞典を片手に現れた信州医大在学中の従兄は、東京の聖母病院に就職し、神父様にいろいろと頼んで、ワシントンのジョージタウン大学の医学部に留学しましたがボートから入水して自殺しました。結核だと診断されて悲観した末と聞きました。この従兄の驚くべき変身は、ショックでした。

戦後の学校は、食糧事情が悪かったので授業は午前中。その後は弁当持参でしたが、弁当を持ってこられない人を考慮して、校舎の外で食べたものです。第十高女の作法室は畳が敷いてあるので、何人かの先生と家族が住んでいました。別棟の離れには教頭先生が住んでいました。先生の中には満州帰りの方もいましたし、俳句の森澄雄先生(森澄夫が本名)もいました。詩人の吉原幸子、後に香川京子として知られた池辺香子が高校の3年上に、宝田明が一年下に演劇狂として在学していました。

同級生の中には化学者としてサイエンスカフェを主宰した人、三省堂の国語辞典のスタッフ、東京都の婦人問題相談員などいろいろな職場で生きた人が多数でした。

私よりずっと若い世代の方から、写真はないのか、と聞かれました。それで、下の妹がいつも「兄弟みんなの小さい時の写真はあるのに、私のだけがない」という言葉を思い出しました。学校の集合写真でさえ、国民学校3年生の秋の高尾山への遠足が終わりで、その後は千早小学校での卒業式の写真です。福岡にいた時は父が乾板のカメラで撮っていましたが、戦争中は不在だし、カメラがあったのかどうかも分かりません。戦後に、近くの畑で従兄と妹二人が母と一緒に芋ほりをしているのが、唯一の写真です。

このごろのようにスマホで撮るなど出来なかったのです。終戦の詔勅もラジオ、警戒警報もラジオ。それもトランジスターではなく真空管のラジオ。テレビのない世の中です。冷蔵庫も氷一貫目を入れるものでした。お米を焚く釜は鍔付き釜。トイレは汲み取り式。モンペを履き、割烹着をかける婦人会。今ある物が戦時中もあったと考えないでほしいと思います。

防空頭巾は、今や防災頭巾になったようですが…。(ys)

(寄稿 佐伯洋子さん)

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