日本語教師 矢野修三
今年も、早や6月も下旬になってしまった。日本では、ジメジメした梅雨の時期である。
そういえば、旧暦ではそれぞれの月を、古い和風名で呼んでいた。現代では使われておらず、日常生活には全く必要ないが、日本特有のカレンダーなどには、睦月(1月)、如月(2月)、弥生(3月)・・・、神無月(10月)、霜月(11月)、師走(12月)と書いてあるのも数多くあり、少なからず目にする機会も。確かに。
6月になると、ふと思い出すことがある。かなり昔だが、この和風月名を学んで、6月を「水無月(みなづき)」と知ったとき、えっ、梅雨の時期なのに、なぜ、「水が無い月」なのか、不思議に思った。でも、旧暦と新暦では1か月以上ずれがあり、また当時はこんな昔の月の名前など興味なく、ほとんど気にしなかった。
しかし、日本語教師になってから気になり始めた。この旧暦の月名は日本文化の象徴として、自然の変化や人々の生活様式などを表わしており、なかなか風情がある。さらに、古典に興味を持つ日本語上級者との会話にも折々登場し、語源などの質問も受けるので、日本語教師としては、かなり大事な知識である。
そこで、いろいろ調べてみた。これらの月名は驚くことに、はるか昔の奈良時代から使われていたようで、由来などもはっきりしない月もあり、いろいろな説があるとのこと。
この「水無月」も「水が無い月」という意味ではなく、「無」は、古語では「の」を意味する漢字だったようで、田んぼに水を張る季節であり、「水の月」すなわち「水無月」になったという説が有力らしい。えー、ホント、びっくり。
さらに、同じような10月の「神無月(かんなづき)」だが、これも「神が無い月」ではなく、この時期は農作物の実りを神に感謝する「月」ということで、「神の月」、すなわち「神無月」と呼んで、お祈りしたようである。またびっくり。
でも、出雲地方ではこの月を「神在月(かみありづき)」と。理由は、この月は出雲大社に八百万の神々が集まる特別な「月」であり、日本中の神様が集まってくるので、「神無月」ではなく、「神在月」と呼ぶことに。なるほど。出雲の人々のユーモアあふれる言葉遊びを感じる。事実、全ての神々が出雲大社に集まるので、日本中に神様がいなくなるから、「神無月」と呼ぶようになったという説もある。そのように学んだ記憶あり。
こんなことを考えながら、1月「睦月」から12月「師走」の月名を眺めていたら、思わぬことに気づいた。月の名前だから、「月」がついているのが当たり前だが、なぜか2つの月だけ、「月」がついていない。
そう、「弥生」と「師走」である。でもなぜ?うーん、これといった理由は見当たらないが、3月は年度末、そして、12月は年末。どちらも一年のうちで、いろいろ忙しい時期。ひょっとして、名前をつける役目の神様もバタバタして「月」をつけ忘れちゃったのでは・・・。すると、この”うっかり神様”は、この大事な「月」に、出雲大社からお呼びがかからなくなってしまったのでは・・・。これぞ、まさに「運の尽き 《月》」かも。おそまつ、失礼しました。

「ことばの交差点」
日本語を楽しく深掘りする矢野修三さんのコラム。日常の何気ない言葉遣いをカナダから考察。日本語を学ぶ外国人の視点に日本語教師として感心しながら日本語を共に学びます。第1回からのコラムはこちら。
矢野修三(やの・しゅうぞう)
1994年 バンクーバーに家族で移住(50歳)
YANO Academy(日本語学校)開校
2020年 教室を閉じる(26年間)
現在はオンライン講座を開講中(日本からも可)
・日本語教師養成講座(卒業生2900名)
・外から見る日本語講座(目からうろこの日本語)
メール:yano@yanoacademy.ca
ホームページ:https://yanoacademy.ca