はじめに
音楽ファンの皆さま、日加関係を応援頂いている皆さま、こんにちは。
12月と言えば「しわす」。師走です。万葉集の頃からある言葉です。語源には諸説ありますが、学術的には古語の「しはす」説が有力との見方があります。漢字で書くと「為果つ」。事を終えるという意味で、一年の事が果てる月という趣旨だそうです。但し、「としはつ=年果」或いは「せわし=忙」等もあります。一般的には、「師(先生)も走るほど忙しい」が広がっていますが、後付けの説のようです。
いずれにしても、激動の1年を締め括る12月は大変に忙しいです。日本に限らずオタワでも眼の廻る忙しさです。クリスマス前に溜まった仕事を終わらせたいという思いは、大晦日までに決着させたいという覚悟と同じで、そのような発想は洋の東西を問わないようです。
そこで音楽です。多忙な12月に聴きたい音楽と言えば、俗世の現実とは別の次元で、心を落ち着かせ、人生は素晴らしいと感じさせてくれる調べです。音楽は、極めて個人的・主観的なものですし、人の好みは分かれるものです。が、私はヨハン・セバスチャン・バッハを聴いています。そこには、虚飾を排した音の連なりが生む、言葉を超えた美しさがあります。BWV(バッハ作品目録)で整理されている楽曲1071曲は、深遠なる音楽の宇宙です。1オクターブの中にある12個の音の順列組合せが生む無限の可能性の扉を開いたのがバッハです。1685年3月31日に神聖ローマ帝国(現代のドイツ)アイゼナハに生まれ、1750年7月28日にライプツィヒに65歳で没し、生涯ドイツから出たことがなかった男です。その後クラシック音楽のみならず、20世紀以降のハード・ロックやプログレッソ・ロック、フォーク、更にはジャズにもバッハが響いています。
さて、前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。現代を代表するバッハ弾きについてです。世界中の名だたるピアニストでバッハをレパートリーにしない演奏家はいません。しかし、アンジェラ・ヒューイットこそが現代最高のバッハ演奏家と言って過言ではないでしょう。ヒューイットは、1958年7月オタワ生まれ。オタワの、いやカナダの誇りです。
ということで、今回の「音楽の楽園」は、アンジェラ・ヒューイットです。
美しい音
「速く弾いたり大きな音を出せる人はたくさんいるけれど、美しい音を出せる人はそうそういません。」

ヒューイットが『王子ホールマガジン』とのインタビューで語った一節です。耳と心で美しい音を感じ、和音を弾く時もそれぞれの音のバランスに細心の注意を払い、ひとつ一つの音に歌わせ、トーンの質を保つことがピアノ演奏の極意だと述べています。既に膨大な録音を残していますが、1986年にドイツ・グラモフォンからリリースした国際的デビュー音盤「J.S.Bach・Angela Hewitt」こそヒューイットの原点とも言える録音です。ここには、彼女が追求し続ける“美しい音”が溢れています。
神童、オタワに現る
“美しい音”を奏でるアンジェラ・ヒューイットの来歴を辿ります。
まず、父ゴッドフリー・ヒューイット。英国はヨークシャー出身の音楽家で、1930年、24歳の頃、カナダに移住にします。そして、オタワ中心部の連邦議会や最高裁判所の所在する一角にあるクライスト教会大聖堂の聖歌隊監督にしてオルガン奏者となります。50年間にわたりこの職にあったそうです。因みに、ここは未だオタワがバイタウンと呼ばれていた1832年に設立されたオタワで最古の由緒正しき教会です。
母マーサは、1914年生まれのカナダ人でピアニスト兼ピアノ教師です。ゴッドフリーにオルガンを習っていたそうです。それが二人の出会いだったのでしょう。
アンジェラ・ヒューイットは、この両親の下、1958年7月にオタワに誕生します。父52歳、母44歳の高齢出産でした。家庭内には常に音楽が流れていたそうです。2歳でおもちゃのピアノを買い与えられ、3歳になると本物のピアノで母からレッスンを受けるようになります。親に言われて嫌々練習するのでは全くなく、アンジェラの方から教えて欲しいとせがみ、毎日、ピアノに向かっていて、ピアノを弾いていない頃を憶えていない程だと云います。
世に、“好きこそものの上手なれ”と云いますが、アンジェラは4歳にして初めて公開演奏を行います。
この幼少期について、アンジェラは振り返ってコメントしています。「母は、私にとって最初の、そして最良の先生だった。厳しくも優しく、私に音楽の“神聖さ”を教えてくれた。」と述べています。
そんな偉大な母ですが、アンジェラが6歳になる頃には、早くも母の重力圏を越え始めます。2週間に1度、オタワから電車とバスを乗り継ぎ5時間余をかけてトロント王立音楽院まで通い、本格的なレッスンを受けるようになります。更に、ヴァイオリンとリコーダーも学びます。音楽の奥義への探求の始まりです。
9歳の時には、同音楽院で本格的なリサイタルを開くほどに超速の進化を遂げます。
15歳でオタワ大学音楽学部に進学し、ジャン=ポール・セビル教授に師事。
17歳になると、満を持して各国のピアノ・コンクールに出場するようになり、その名を北米、更に欧州へと知らしめていきます。
ショパン国際ピアノ・コンクール
バッハ弾きとし名を成しているアンジェラですが、実は、古典派からロマン派の作品まで多彩なレパートリーを誇っています。そして、その実力は瞬く間に証明されていきます。
コンクール出場を始めた1975年、17歳の時には、ニューヨーク州バッファローで開催されたショパン・ヤング・ピアニスト・コンクールとワシントンD.C.でのバッハ・コンクールで優勝。20歳の時、地元のCBCラジオ音楽コンクールのピアノ部門で優勝。21歳で、ロベール・カサドシュ国際ピアノ・コンクール(旧クリーブランド国際ピアノ・コンクール)で3位。
22歳となった1980年は、まず、イタリアはミラノで開催されたディノ・チアーニ・ピアノ・コンクールで優勝します。そして、5年に1度のショパン・コンクールに出場しました。

この年のショパン・コンクールは10回目となる節目で、センセーショナルな大会として長く語り継がれています。ベトナム人ピアニスト、ダン・タイ・ソンがアジア人で初めて優勝する一方、革新的な演奏で最有力候補と前評判の高かった天才ポゴレリチは最終選考に残らず落選。彼の革新性を高く評価していたアルゲリッチは、この結果に抗議し審査員を辞任する騒動となりました。最高レベルでの音楽評価の多様性と主観性を赤裸々に示しました。4位は該当者なしで、5位に日本の海老彰子が入賞しました。実は、アンジェラはこの大会で入賞した訳ではありません。しかし、ショパン特有のテンポ感を再現しつつ旋律を“美しい音”で歌わせたアンジェラは聴衆から圧倒的な喝采を浴び、名誉賞(Honorable Mention)が与えられました。
いよいよ、世界へ羽ばたく準備が整って来た感がありますが、もう一つの極めて重要な節目がアンジェラを待っていました。
トロント国際バッハ・ピアノ・コンクール
1985年、アンジェラ27歳の年です。各国のピアノ・コンクールに出場し始め10年が経っていました。
この年は、バッハ生誕300年の記念すべき特別な年でした。そこで、カナダ・バッハ協会(Canadian Bach Society/ Société Bach du Canada)が企画・主催した特別なプロジェクトが「トロント国際バッハ・コンクール(Toronto International Bach Piano Competition)」でした。カナダ・バッハ協会の狙いは、バッハ作品に関する学術的な研究を深めると同時に演奏の質の向上にありました。技巧を競うというよりも、解釈の誠実さが重視されたコンクールでした。これは、とてもアンジェラ向きだったと言われています。
アンジェラの演奏は、現代音楽の巨匠オリヴィエ・メシアンを筆頭とする審査員団から絶賛されました。特に次の3つの点です。①バッハの構造を知悉し、各声部が明確で、対位法が『見える』と評されました。②テンポも自然で、当時はバッハが舞曲として作曲していたことを改めて想起させたのです。③装飾音も極端に触れず節度をもって楽曲を彩りました。
要するに、アンジェラは、過度に思いが込められたロマン主義的バッハでもなければ、乾いた学術的古楽主義的バッハでもない、独自のスタイルで演奏したのです。知る人ぞ知る存在だったアンジェラがバッハ弾きとしての特別な地位を得た瞬間です。この時から30年前の1955年に、カナダ人グレン・グールドが「ゴールドベルグ変奏曲」を引っ提げて彗星の如く登場したのを思い出させます。
そして、コンクール優勝の副賞こそ、“美しい音”の原点でもある上述のドイツ・グラモフォンへの録音でした。1986年にリリースされたこの国際的デビュー盤には、審査員が絶賛したアンジェラの3つの資質が鮮やかに刻まれています。世界がアンジェラを聴き始めたのです。
バッハ全曲録音
閑話休題ですが、エジソンが録音・再生装置を発明する以前は、音楽が奏でられている場に行かなければ音楽を聴くことはできませんでした。しかし、現在は、スマホ等で気軽に音楽を聴くことが出来ます。演奏する側も自主録音をSNSにアップして世に問うことが出来ます。便利な時代になりました。とは云え、ピアニストに限らず音楽家が世界水準の上質の音楽を奏でて、世界のリスナーに聴かせたいと本気で考えるならば、信頼のおけるレコード会社との契約が不可欠です。
ここで重要なのは信頼です。では、信頼とは何でしょうか?音楽家が真に納得するクオリティーの録音を確保し、会社の持つ販売網を通じてリスナーに届けると同時に、会社として持続可能な利潤をあげ、音楽家にも充分な報酬を支払うということです。会社である以上、儲けなければなりません。しかし、音楽性を犠牲にして売れれば良いという訳ではありません。一方、音楽性にこだわり過ぎてもいけません。非常に微妙なバランスで成り立っているのです。
で、アンジェラです。1994年、英国の独立系の雄、ハイぺリオン(Hyperion)社と専属契約を結びます。ハイぺリオン社は1980年創業の独立系で、その名はギリシア神話に登場する神々の1人ヒュペリーオーン(太陽神)に由来します。クラシック音楽専門で、大会社には決して出来ない企画に果敢に取り組んでいます。アンジェラとハイペリオンは、オルガン曲を除いて200曲を超えるバッハの鍵盤楽曲の全てを録音しました。快挙です。幼少期よりバッハには特別な愛着を感じて来たアンジェラにとっては最高の夢でしょう。そんな夢を抱くピアニストは数多いると思いますが、夢を実現するためには、途方もない探求と鍛錬が不可欠です。レコード会社からすれば、バッハ全曲録音を託すことの出来るピアニストはごく僅かです。ハイペリオンとアンジェラは相思相愛でした。1994年から2018年まで、24年間をかけて、オルガンを除く、バッハの鍵盤楽曲の全曲録音を行ったのです。ゴールドベルグ変奏曲、平均律クラヴィーア曲集、インベンションとパルティータ、フランス組曲、イギリス組曲、更には協奏曲集等です。
同時並行的に、『バッハ・オッデセイ』と銘打った企画で、バッハの鍵盤楽曲の全曲演奏を各国のライブを積み重ねて達成しました。これは2016年の日本公演から始まったそうです。日本とカナダの素晴らしい文化交流の一つと言えるでしょう。
結語
アンジェラ・ヒューイットは当代唯一の「バッハ弾き」としての名声を得て、演奏旅行で世界を飛び回っています。「バッハ弾き」と称されることは、大変な名誉なことだとアンジェラは言っています。バッハは音楽的素養と技術を極めて高いレベルで求められるし、それ以上の音楽は考えられないとも語っています。しかし、アンジェラのディスコグラフィーを見れば、決してバッハだけではありません。スカルラッティー、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン等々本当に多岐にわたります。最近は、ピアノ独奏に加え、オーケストラとの協奏曲や室内楽にも取り組んでいます。正に、天才は多彩にして多作を地で行っています。


最後に、アンジェラは演奏家としてだけでなく湖畔の興行主としての活動も行っています。彼女はロンドンを拠点としていますが、2002年にイタリア中部のウンブリア州トラジメノ湖畔の町マジョーネに土地を購入しました。この町には15世紀に出来た由緒ある大聖堂と庭があります。その庭に一目惚れして、2005年から、毎夏にバッハを軸とした室内楽主体の音楽祭を開催しています。湖畔の静かな雰囲気がバッハの音楽に必要な集中力と呼吸と親密な雰囲気を与えてくれると云います。勿論、アンジェラも演奏しますが、主催者として音楽祭を盛り上げています。

自由と多様性と包摂性がカナダの美徳です。オタワで生まれ育った神童が世界で大活躍しています。カナダ贔屓としては嬉しい限りです。上述のバッハ鍵盤全曲録音は、CD27枚組のボックス盤として遂に完成し、2026年1月にお目見えする予定です。待ち遠しいです。更に、その先にどんな音楽の桃源郷を見せてくれるのか、本当に楽しみです。
(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。
山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身





















